カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

そこまで恐ろしくないが、恐ろしいかもしれない   だれかの木琴

2020-08-31 | 映画

だれかの木琴/東陽一監督

 夫と中学生の娘のいる専業主婦の小夜子は、何気なく入った美容室でイケメン男性にカットされる。営業のお礼メールが携帯に届くが、そのメールに律義に返信をするなど、ちょっと変わった客だと認識される。その後小夜子は、またそう間をあけず、イケメン美容師の海斗を指名して更にカットをしてもらいに行く。カットされている折に会話していた内容から、海斗の行きつけの店や、そこの近くに住んでいるというアパートまで割り出してしまう。そうして買いすぎたからと手紙を添えて、イチゴをドアの取っ手にかけて置いていくのだった。なんだか異様さにはおびえる海斗だったが、彼女もいることだし、出来るだけ客である小夜子には穏便に接するように努めている様子だ。しかし小夜子の行動は、さらにエスカレートしていき……。
 いわゆる普通の主婦がストーカー行為に陥っていく様子をつづった物語。平穏な家庭も、それにつられて段々といびつになっていく。もちろんストーカー行為を受ける男の周辺もおかしくなっていく。普通ならホラー映画になるはずだが、その異常さは静かに進み、しかし臨界点を迎えるのだった。
 よく見ると、監督があの東陽一であった。僕は「サード」を見て、なんだかよく意味は分からないが、なるほど日本映画もいいなと中学生くらいの時にそれなりに感動した。「もう頬づえはつかない」で桃井かおりを知り、「ザ・レイプ」ではセカンド・レイプというもので考えさせられた(田中裕子も良かった)。とにかく、いろいろと勉強になったというか、それなりに影響を受けた監督さんかもしれない。映画の内容は意味のよく分からないものばかりだが、なんとなくだが、その問題を解釈することはできる。そういう作風の上手い人なのである。
 ということで、この映画もつまるところ何のことだかははっきりとは分からない。しかし、ちょっとしたきっかけというか、なんだか自分でも分からないままに、ストーカー行為というのは発展することがあるのではないか。この作品には原作があり、作家の井上荒野(本名。井上光晴の娘)の作品である。未読だが、原作では、もっと徐々にストーカー化する女性を描いているらしい。単なる異常性を強調するというより、日常の中の個人にも、そのような異常性は芽生えることがあるのではないか、ということなのではなかろうか。そういうことを考える、自分にだってその素養はあるかもしれない、などということが恐ろしいわけで、まあ、そういうことが描かれている映画なんだと考えていいだろう。自分とは関係ないね、という想像力に掛けた人には、面白くない作品かもしれない。
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お疲れ様でした。次に期待しましょう

2020-08-30 | 時事

 安倍政権の在任任期の長さという点では、確かに日本という国においては、最長であることに間違いはない。要するにそれだけ異常に長く続いたとするような言い回しはよく聞く。しかしながらその長さという尺の解釈は、ちょっと近視眼的であるような気もする。それというのも、そもそもの話、日本のこれまでの首相の在任任期のほうが、ちょっとほかの国では考えられないくらい短すぎた、ということがあるからだ。
 アメリカの大統領は、一期4年であるが、トランプさんがどうなるかはともかく、だいたい一度勝利すると、二期務める場合が多い(再選されるということ)。二期以上は務められないにせよ、一般的に8年くらいは政権を任せるべきだろうという考え方があるためだと思われる。それくらいの期間でないと業績は残せないものだし、それは長期というよりも、最低期間に近い感覚もあるのではないか。または、それくらいの年月が、一種の時代の区切りにふさわしいというか。
 大統領制ばかりではないにせよ、あんがい諸外国もそういうところは多くて、全部を調べたわけではないが、安定政権になれば10年くらいはそんなに珍しいことではない。むしろいろいろ問題があるから短命に終わるというのが普通で、さまざま任期はあるものの4.5年くらいはやるというくらいが標準的といえるのではないか。
 確かにいつまでもやっているような国はあるのだが、そういう権力の偏りのようなものがみえてくる場合でも、やっぱり15年とか20年とかいうような歳月をやっているもので、そういう場合は革命的に政権を追われるのが常で、日本のような国の制度では、これはもう起こりえない。
 そもそもだが、日本の政権の短さは、海外からは奇異な目で見られていたこともあって、それを受けて改めるべきではないかという議論はあったのである。しかし日本人というのは辛抱強くない国民性があるというか、政権の権力闘争は結構ころころ変わるところがあって、いつもいつも落ち着いていない。数が増えて安定しているように見えても、逆にコンセンサスをとるのが難しくなり、結局揺れて辞任する。安倍さんの場合は6度の選挙にすべて勝って、それで勝ち馬に乗ってきた人々が多かった関係で、ちゃんと支えてない人がそれなりにいるにもかかわらず、変わろうとする人が出てこなかった。もともと強固な派閥基盤のある人ではなかったので、選挙に勝つことで自ら権力的な地位を固めていったということができて、自民党の政治家には珍しく、極めてクリーンな政治家であったということができるだろう。これは歴史が評価することだと思うが、モリカケ問題だとか桜を見る会だとか批判があったはずだというけれど、それは単なる空騒ぎだったわけで、何も出ないのにもかかわらず、何かに忖度するような心情の人々だけが、そう思い込んだということだろう。
 ただし、その在任中の功績というのは、実際はなかなか評価の難しいものが多いのも確かだ。アベノミクスによって株価は倍加したし、多くの企業業績は軒並み最高益となった。しかし国の債務は膨れ上がり、実質賃金が上がったわけではない。安倍首相の悲願でもあった(というか自民党の党是なのだから、どの首相であっても取り組むべき問題なのだが)憲法改正も果たせなかったし、拉致問題の解決も道半ばだ。しかし、実質上集団的な自衛権は実現したので憲法を無視してよいことになったようだし、北朝鮮問題や領土問題は、誰がやっても相手が悪くてどうにもならん、といえばそうである。ほかの人になっても無視せずに取り組んでほしいものではあるけれど……。
 なんだかんだ言っても安倍首相とその周りの人たちは、辛抱強く打たれ強く働き続けてきた。だからこそ代えがたい政権になっていたわけで、あと一年の任期になっていたとはいえ、十分に全うできていたはずである。政治の問題に簡単なものはないし、今の状況も予断を許さないものだ。健康問題で辞任とはたいへんに残念であろうが、実際問題としては、自ら語られている通り、とても耐えられる状況にないのだろう。その中で状況の立て直しをほかに託すことは、つぎの団結も含めて今のタイミングだと考えたのだろう。さて、その期待に応えられる人が、本当に出てくるかではあろうが。
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選択できることが日常を維持する

2020-08-29 | 時事

 もういいか、とは思いながらも影響を受け続けている毎日である。うんざりさせられながらでも無視ができないというのは、そういうことに巻き込まれながら、下手に手を打てないからである。まったく無意味に近いとは知りながら、時と場所においてはマスクをして顔を隠して生活するのは、それは単なる同調圧力であるにせよ、めんどうくさいからあんまり考えない方策でもある。付き合っているようで、実際はまったく付き合っていないという心の声は、相手に聞こえないのである。
 飲み会が減ったのは明らかであるが、無いわけではない。しかし、これまでが異常に多かったというのは改めて思わされることでもあったので、個人的にはこれは、体調的にも精神的にも楽なのである。そういう意味では、そんなに悪くないはずのことなんだけれど、しかし盆前くらいから、また一段と夜の街というのは寂しくはなっている。こういう世界の人はお気の毒であるが、いわゆる人がいないわけではない。会社などで禁止されている立場の人達が一定以上いなくなっているということらしく、それ以外は、要するに自由なのだろうと思う。まあ、なかには精神的に不自由な人もいるのかもしれないが、そういう人というのは、勝手にそうされている訳なので、同情しても仕方がないことである。ご自分で何とかしたらいいのである。
 僕自身はドキュメンタリーおたくのようなところがあって、以前は海外の状況も含めて、最前線の現場がどうだというのは、一応チェックしてみていた。しかしながらもう数か月にわたって、そのようなものが放映されたとしても、結局はまともに見てないし、いつの間にか録画していたとしても、再生することも無く消去している。見てもいいのかもしれないが、そのほとんどが偏見に満ちているし、ジャーナリズムの視点を借りて現場を検証しても、ほとんど意味のないくだらないものでしかない。いわゆる煽り目的で作るので、コメントその他が正直なものではない。彼らが欲しがる、恐ろしさや厳しさのようなものを発する人々のみを選抜して、さらにその表現の上手い人を繰り返し呼び出す。そういう人は仕事が増えてよいのかもしれないが、周りの人は、いったいどう思っていることか。正確に状況を伝えるという仕事をしているところなんて皆無だし、その偏見に自ら染まっていることに自覚的な人が、ほとんどいない。いたとしても制作側などの査定に引っかかって、自由さを取り戻せていないのだろうと推察される。あまりにも呆れるくだらなさなので、観ることを断念せざるを得なかったというのが正直なところだ。ネットだといくぶんまともなところやレポートはあるわけで、そういうものをササっとチェックして、もう他のことを考えている。最小限は付き合わざるを得ないのでバランスをとるとしても、それに捕われて生きていくのはもったいないことである。
 人の命よりも経済なのか、というような論調で声高に言う人の声があるのは知っているが、相変わらず無知であるだけで、何かちゃんと物事を見たり学習したりできないのであろうか。そのような邪悪さやたちが悪いのには苦笑せざるを得ないにせよ、人が生きていく必須のために経済があるのだから、僕らは何よりも命を大切に考えているからこそ頑張って経済活動を真面目にやっていくよりない。軽率な暴力に屈しないことである。
 しかしながら至極当たり前のことながら、まともな人だってたくさんいる。一部の天然転覆論者がマスコミを中心にいるとはいえ、それが大多数ではない。大衆は煽られていると判断して、行政や政治が余分なことをしまくっていても、何とかそれに耐えて辛抱強く頑張り続けてはいる訳だ。そうして少し風向きが変わりかけているという実感も、徐々につかみつつある。世の中は完全に変わってしまった訳ではないし、一応は反応としてそのようなことがあったにせよ、政治的な介入が無くなれば、その分だけ日常が戻るだけのことである。それだけが明らかなので、その転換の兆しが見えただけでも希望が出たと考えるべきであろう。たとえ微風であっても、風向きさえ変えられれば、それを受ける方策は出てくるのである。
 しかしながらなかなか洗脳の解けない人というのはいる訳で、その荒波を越えなければならないことも現実である。マスクをしつつも、しっかりと呼吸できることに集中するのみである。

(※ と、そのあと安倍首相の辞任の意向のニュースを知る。株価は暴落し、動揺や失望の色が濃くなってしまった。しかし、もともと9月には内閣改造だったのだし、頭から一新させる効果も考えたのかもしれない。ただ、この後が今よりいいというのはほとんどギャンブルだ。病気という理由は仕方がないということでもあるが、さて、場合によってはさらに混迷を深める可能性が出てきたかもしれない)
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詳しく読むは、面白きかな   くわしすぎる教育勅語

2020-08-28 | 読書

くわしすぎる教育勅語/高橋陽一著(太郎次郎社エディタス)

 表題の通りの本で、教育勅語について詳しく解説を施した本。まずは教育勅語自体を読んでいって、何がどういう意味で書かれているかの解説がある。この本の本文として、それだけでも十分に面白いし、この本の一番の価値でもあろう。第二部では教育勅語が書かれた(作られた)いきさつや時代背景、そうして教育勅語が扱われた歴史的な歩みをひも解いていく。最後に教育勅語関連のものを紹介することと、その関連資料そのものについても簡単な解説がなされている。
 僕の世代はすでに教育勅語そのものを、教えてもらったとか、学校でどうとかいうような教育を受けた覚えは無いし、道徳のようなものの授業がなかったわけではないけれど、どんな内容だったかなんてことは、まったく記憶にない。道徳なんてことは、くだらないから時間をつぶすものでしかなかったし、何の興味も無いので、その当時考えた覚えもない。先生もきわめてやる気のない態度(まあ、他の授業だって似たようなものだったが)で投げやりにやっているものに過ぎなかったのではなかろうか。それでも教育勅語というものがあるということは知っていたし、それはたぶん歴史の何かで学んだか、テレビか何かで過去を振り返る番組の中で聞き及んだかしたのだろうと思われる。軍国日本の教育と天皇関連ではあろうとは思っていたが、もちろんその全文をちゃんと見た事も読んだことも無かった。今回この本を手に取って読んでみて、改めて本当に何も知らなかったのだな、と思うとともに、書いてある内容といっても特に怖いものでもなんでもなくて、まあある意味当たり前といえば当たり前の道徳観で、天皇の権威を示すものであるというのははっきりと分かるものの、これが教育として悪い道徳観なのかどうかさえ疑問に思えるようなものだった。
 もっともこれは今の日本の憲法と照らし合わせて考えると、やはりそれなりに整合性に欠けるものであるし、特に危険なことが書かれていないにせよ、安易に誤解を受けたり政治利用をされたり(事実そうしてきたものであるし)する類いのものであることは間違いなさそうだ。このように詳しく論じられているから面白く読むことができたが、ふつうに書いてあるだけでは、そんなに面白い話では無い。
 それにしても明治から昭和に至るまで、この教育勅語の影響が日本人に与えたものはそれなりに大きかっただろうことは確かで、その影響を受けたであろう大人から教育を受けた僕らにしたって、影響がなかったとは言えない。いまだに教育関係では、日の丸がどうだとか敬礼のやり方などが取りざたされることもあるわけだし、天皇に関する感覚的なタブーは、それはそれなりに大きな圧力のある存在である。それはそれを権威として利用している人がいまだにいるわけだし、その理由さえ分からないまま、影響を受け続けている国民がいるということのようにも思う。言論の自由というのはそれなりにある国だと思うけれど、デリケートである分野だし、過敏になる人もいることは間違いない。それも何もこれを信じて利用しようとしている人に限らず、一般大衆の中にしっかりと根づいている、何かなのだろう。
 それにしても日本古来のものを大切にして道徳のようなものが作られたのではなく、結局明治というのは新しく諸外国のものを受け入れ利用した時代だったわけで、そういう西洋的なものの価値観と分けがたく存在した権威というのが、他ならぬ天皇制だったのかもしれない。それは極めて宗教的だし、本来の日本の歴史とはかけ離れたものだったのかもしれない。それが曲がりなりにも伝統のようなことになって、近代から現代に影響を与え続けている。そういうことの一端を読み解くカギとして、教育勅語がこれほど面白いのだと気づくだけでも、たいへんに有用なのではないだろうか。
 まあ、そういうことを考えなくても、こういう詳しいひも解き方を見ることは、なかなかに面白い読書体験である。
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自国の情けなさをよく知っている   トンネル 闇に鎖された男

2020-08-27 | 映画

トンネル 闇に鎖された男/キム・ソンフン監督

 主人公の男は、いい契約が取とれたし、なかなかの上機嫌である。そうして娘の誕生ケーキも買って、意気揚々と帰宅途中でトンネルを通過していたら、崩落が起こり車に閉じ込められてしまう。何とか携帯電話は使えるようでいわゆる119番に救助を要請するが、山自体が崩れているような惨状に、どのように救助してよいかさえ分からない状況になってしまっていた。もちろんマスコミをあげての大惨事という騒ぎになる。何とか車のバッテリーや携帯電話などの電力は何日か持つようではあるが、水はペットボトル二本分、食料は娘のためのケーキのみである。救助には少なくとも一週間といわれるのだったが……。
 すぐに思い出したのは、韓国映画ということもあって、あのセウォル号沈没事故のことだった。トンネル崩落事故の原因は、業者の手抜き工事にあったことが明らかになり、大騒ぎになるのだが、しかし別のトンネル工事は、同時に進めなければならないなどの議論なども展開される。国民は、そのような体質の組織に対して信用ができないのだが、しかし同時にそれぞれの当事者たちは、実にそれぞれに無責任なのだ。救助隊長は奮闘しているが、肝心なところで詰めが甘い。意思としての責任感の強さは良いが、大局と細かさにおいて、注意が足りないのである。個人もだが、大衆は感情に流されて右往左往し、肝心の被害者を懸命に助けようとしているはずなのに空回りばかりしてしまう。そうしてそのような失敗を、また面白おかしく自分の都合で大げさに報道できることしか考えていないマスコミがたかるのである(そこのあたりは日本も同じだが)。非常に不快で頭に来ることばかり起こるが、しかし内容はなかなか鋭い。自らの韓国人のことをよく分かっているし、そのために起こる様々な出来事を、悲惨ながら時にはコミカルに、時には風刺をきかせて描いている。セウォル号事件を経験している韓国人は、身に染みてこの映画を観たことだろう。
 ほとんど身動きが取れない中ではあるが、実はトンネル内に設置されている送風機のそばであったために、この中を通路にして同じく滑落によって閉じ込められている前の車まで移動できることが分かる。前の車にはまったく身動きが取れない若い女とパグ犬がいた。この女とのやり取りが、何とも言えない極限状態をうまく表現している。犬もいいのである。興味があってみる人のために言えないが、こういう状況での人の心理を上手く出せていたのではないか。まさに良心との格闘で、主人公のことが試されるやり取りである。
 時々あまりにも頭にきてテレビのモニターに対して突っ込みを入れたりしながら観たわけだが、正直な韓国の監督さんではないかとは思った。まあ、やっぱり親戚の国で、日本によく似てもいるわけだが……。まあ、面白いので観てみてください。
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単に僕が読めなかった漢字

2020-08-26 | ことば

 先日テレビを見ていたら、リーダーといわれている城島茂が出てきた。軽くびっくりしたのは、彼が呼ばれているときに「ジョウシマ」という発音だったからだ。名前が以前と変わったということは考えにくいので、彼の名前の発音はずっとジョウシマさんだったのだ。いくら芸能に疎い僕であっても、城島茂のことはよく知っていると思っていた。彼の所属するグループがTOKYOと書いてトキオと発音するくらいも知っているし(※ これは指摘されました。TOKIOって書いてトキオなんですね! ちっとも知らなかった。トキオって沢田研二か、もしくは普通日本語の分からない外国人の発音とばかり思ってたので勘違いしてました。恥ずかしいことなので、本文はそのままにして僕への戒めと致します。失礼しました)、何やら福島の村などで、古くからいろいろ作業をやっていることなども知っている(今もやっているか、までは知らないけど。おそらく脱退か何かしているだろう山口さんという人の、僕はひそかなファンだった(けど下の名前までは知らない))。そういえばトキオの歌だって知っているといえば知っている。題名までは(ググれば分かるがしたくない)知らないが、かなり妙な歌詞が続いて、「お前のオールを任せるな」と決め台詞がある。子供のPTA時代にある先生が繰り返し歌っていて、なるほど先生ウケする歌なのかもしれないな、と思ったことを思い出す。それにしてもみょうちくりんな歌詞で、僕には意味がよく分からないのだが……。
 しかしまあ、ジョウシマで驚くことではないのかもしれない。ちょっと前まで報道でよく聞くことがあった日産の西川社長(すでに辞任されているらしい)なんかは、サイカワと読むらしい。そう読めないことも見て取れはするが、それなりに驚くべき名前である。布団屋もびっくりしたのではないか。
 さらに思い出すのは、お笑い芸人に金田と書いてカナダという人がいた。日本人なのに……、いや、カナダという外国人も知らないけど。これも後で知ったが、名古屋に出張中に金田という地区があって、ふつうにカナダと発音されていた。実はほかの地区でもそういうのがあるということで、金田というのは紛らわしいようだ。さらに野球で有名な金田正一だが、僕の子供のころにはショウイチと普通にテレビで紹介されていたが、死後にはマサイチで統一されていた。ちなみに苗字はカネダである。
 若い俳優で染谷将太という人がいるが、何か人を小ばかにしたような演技が上手である。これまでも活躍されているし、今後も期待大であるが、僕はなかなか彼がソメタニであることを失念してしまう。ふつうソメヤではないかという感覚があるのだろう。しかしながらこれはかなり混在しているようなことであるらしく、ソメタニもソメヤもそれなりあちこちにあるらしい。もともとタニというのは紛らわしいと思っていたが、あちこちにあるんだからどうにもならない問題かもしれない。
 佐藤健という俳優がいて、なかなかの二枚目なのだが、これが使われている漢字が違うけれど僕のおじさんと同じ読みの名前である。それだけの話なのだが、音だけで聞くと、ちょっとだけドキッとすることがある。それでテレビなどの画面を見て、ああ、そうかとホッとする。父と漢字も音も同じで名前の方でマサルという作家(というか、文筆家というか)がいるのだが、テレビに出るようなことは無いから発音はめったにされない。よく雑誌などの記事でお見受けするのだが、よくまあこれだけの量あちこちに書いておられるものだとは思うものの、特にドキッとするようなことは無い。文字だけだと大丈夫である。
 これも最近本を読んでいて井上毅が出てきた。歴史の本で度々目にする名前なのだが、その時はルビがふってあって、名前がコワシだという。これまで何度も目にしてきた名前だったのに、音を正確に覚えていなかった。これはちょっと恥ずかしいことのようにも思えたが、まあ、間違えることも人生だ。それにこれは関係ないが、僕が子供のころには最後の徳川家の将軍は、徳川慶喜(ケイキ)と大人たちは発音していた。いつの間にか誰もがヨシノブというようになったのであって、昔の人の名前を正確に発音するのはなかなかに難しいことだ。それに昔は個人でも襲名などしてコロコロ名前自体が変わる。今の世のキラキラネームのようなところがあって、勝手にいろいろ変な漢字や読みを試みる人が多く、たいへんに紛らわしい。現代のヤンキーの親が特に変なのではなくて、これはれっきとした日本の伝統的な変なところであろう。それにしても最近の子供で、音で読めるようなのは少数派で、学校の先生は大変であろう。書いてあるのに自国民すら読めない文字があふれている国というのも、国際的にも歴史的にも珍しいことのように思える。これからは名前は素直に読めないし、ましてや間違ったからと言ってとがめられるようなことが無いように、誰かが指導をすべきではないかと考えている。(これはいろいろ続けられそうですね)。
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結婚生活としての鬱   ツレがうつになりまして。

2020-08-25 | 映画

ツレがうつになりまして。/佐々部清監督

 原作はコミックエッセイで、数冊存在するようだ。テレビドラマ化もされている。実はこの映画2015年にも一度観ているらしい。細部は忘れてしまったのでかまわず観てしまった。アマゾンプライムではよくあることになりつつある。困らないではないが、なんだかな、という現象だろうか。
 外資系の会社なのだろうか、妻からツレと呼ばれている夫は、会社ではバリバリに働く人だった。しかしながら常連のクレーマーにも悩まされており、休んでいても名前指定でクレームを受けるような、ある意味で信頼のおける、ある意味で押しに弱いタイプとして描かれている。仕事の山はいくらもでもあるようで、追われに追われ仕事をしている。上司も厳しいタイプらしい。段々と鬱症状が出だして仕事がつらくなり、死にたくなってくる。会社も休みたいがそういう感じではなく、妻が辞めなければ離婚するとまで言い、辞めることにする。辞職願を出すが、役職でも無いのだから退職願として書き直せと上司から嫌がらせを受ける。それもつらくて仕方なくて、書く。医者との相性もまあまあのようだし、腰を落ち着けて鬱の生活に入ることになる。鬱仲間も薬局などで会話できる。
 自殺もはかるが、見つかり死ねない。泣くがどうにもならない。鬱の苦しさがそれなりに続き、妻は漫画を描いている関係で、ツレが鬱で大変だから仕事をくれと営業する。
 ツレは勤めに行くのがどうもまずいようで、それ以外のことであれば、たとえば家事などの仕事はできるようだ。人間関係に戸惑いがあるというか、新しく何か関係を作り出すような感じにためらいのようなものがあるのかもしれない。苦しんでいるが、地道に妻を支えるような仕事に専念し、自分のやれることにシフトしていく感じである。妻はこの家族での鬱体験を本にしたいという。ツレもそれを受け入れ、自分らの鬱の生活を客観視して面白がるような感覚が芽生えていくようだった。鬱の状態がいいというのが続いてくれるといいが、完全に治すというか、そのまま付き合うということに慣れようとしていくようだった。
 おそらくだが、それなりに素直に実話をもとにしているのは感じられる。俳優さんたちの演技もあるんだけれど、つらいものはつらいわけで、それが恥ずかしかったり、実社会の人にはなかなか理解されなかったり(それで更に傷ついたり)、なかには仲間らしい人を失ったり、何にもできなくなるといっても様々な体験をする。なるほどなあ、という鬱の姿がひと固まりとして理解されやすくなっているのではないか。
 僕も個人的に複数の鬱の人との付き合いを持っているが、仕事の人はともかく、まあ、それなりに普通にというか、それなりに付き合っているという感じかもしれない。上手く付き合う方法があるというよりも、まあまあ、という関係なのではないか。ひどくなると入院してしばらく姿を見なくなるということで、出てきたらまた会話などをする。知っている人は、映画のツレのような感じの人ではないし、要するに鬱といっても人それぞれらしい。まあ、啓蒙的な意味合いでこの映画を観ることは、それなりに大きいのではないかとは感じられる。夫婦の仲がちょっとうまくいっていない人も含めて、考え方としてはシンプルに伝わるものがあるんじゃないかと思ったのだった。
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社会に背負向けても、迎合しなくても、受け入れられる音

2020-08-24 | 音楽

 妙なご時世になっているとはいえ、音楽はそれなりにふつうに聞けるというのはある。もともと田舎暮らしなので、そういうあたりは何の関係も無いということなんだろうか。しかし、ちょっとだけ以前より画像検索なんかしたりしているようで、やはりそういう部分は違うといえば違うのか。
 そうしてちょっと考えさせられたというか、唸らされたという感じが、他でもなくハイムだったのだ、それなりにコーラスのやり方はマンネリ化しているかもな、と感じていたにもかかわらず、新作はちょっとジャズっぽい趣向を凝らして、もっとおしゃれになっている。バンドとしても音がいい感じになっているな、と感じてちょっと映像を見てみようかと思ったら、PVの映像もなかなか楽しめるのだった。
 彼女らはいちおう三姉妹のようだけど(その役割分担など詳しいことまでは知らない)、失礼ながらアイドル的な感じではないのではないかと思われる。映像でも汚く歯を磨いたり、ノーブラで下着姿だったりして、男目線というよりは、女性への共感の方を大切にしている風である。分かり合えない男たちにイラつきがあって、そういうものを音楽にぶつけているということか。女として批判や非難されていることをあえてやって、逆批判を世間に向けてぶつけている風で、そういうのが、やはりなかなかロック的なのだった。
 以前より不幸な感じの女性の代表選手的な雰囲気を持っていたフィオナ・アップルの新譜も良かった。自らしあわせにはなれないような感じの人が、更に牙をむいて狂気をみせている感じだ。以前は明確に男たちに対してのイラつきというのがあったにせよ、世間一般的にも、何か気に食わないことばかりで牙をむいている変な人ではあった。それがまた磨きがかかって、誰に対しても気を許さないような緊張感がある。そんなものがいいのか? と思う人はやはり騙されて聞いた方がいいと思う。奇妙な歌い方や変な調子を取りながら、やっぱり心惹かれる楽曲の力がある。そうして確かに何かが新しい。不気味な赤ん坊のような笑い声だったり、相変わらず暴力的だが、その力量に脱帽するより無いだろう。ボブ・ディランなんかもアルバムを出したが、なんとなくフィオナに食われて霞んだようにさえ思われる(まあ、個人の感想です)。
 そういうことに刺激を受けたのかどうかまでは計りかねるが、何とテイラー・スイフトまでいいのである。いったいどうしたんだろう? といぶかしく思うが、売れるために開き直ってポップに走りこんでいた人だったのに、もともとの原点回帰のカントリーでもなく、暗いポップソングの世界に入り込んでいるように見える。しかしこれが聞きにくいわけでも無くて、ちゃんと感心しながら聞ける。そもそもの力量もありながら、芸術作品だって作れるってことなのかもしれない。内向的でありながら、ちゃんと社会の中で成り立つ客観性があるということでもあろうか。売れている人が趣味に走りすぎて観客を忘れて歌うことはありがちだが、そういうことにならないバランス感覚はさすがではあるまいか。
 ということで、ちゃんと音楽は楽しんでおります。ダーティ・プロジェクターズもポップで良かったです。
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暴力の連鎖を止めよ   パーフェクト・ワールド

2020-08-23 | 映画

パーフェクト・ワールド/クイント・イーストウッド監督

 脱獄した二人組は、最初からうまが合っていない。家宅侵入した家で相方が欲情してしまい、家事をしていた女性を襲おうとする。それを止めようとしてごたごたしたが、結局そこの少年を人質に逃避行となってしまう。逃げている際中に相方とは結局うまくいかず殺してしまい、しかし子供はなんとなくというか、ちょっとしたきっかけもあるが結局連れて逃げていく。車で逃げている道中、子供の父親は居ないか出ていったかして、ろくでもない奴であるらしいことも分かる。犯人の男の父親も酷い親だったらしく、何か共通の苦しみというか親近感というか、疑似的な親子のような感情が芽生えていくようだった。
 一方追いかけている警察の方も、地元の警察署長自ら陣頭指揮し、FBI捜査官、知事からの派遣で若い女性の犯罪心理学者などで構成されていて、足並みが悪い。犯人のブッチは無謀ながらなかなか機転が利く男で、要所要所で関門をすり抜けていく。
 見つからないようにトウモロコシ畑の中に車を突っ込ませて休眠していると、夜間の方が涼しいという理由で作業していた農夫が彼らを見つける。まあ事情を知らないので、朝まで自分の家で休んだらいいと誘われる。厚意に甘えて休ませてもらうことになったのだが……。
 一種の暴力の連鎖とは何か、ということを見事に描いたストーリーになっている。犯罪者は悪いことをしたから刑務所に入っているのだが、その家庭の事情までは誰もみてはいない。実際のところまでを僕は専門的に知っているわけではないが、暴力的な男の多くは、家庭などでもひどく暴力を受けていた、いわば心の傷のようなものを抱えている場合が多いという。そうしてまた、そういう男が子供を持つと、また自分の子供にも暴力を働いてしまう。そういう連鎖が、いつまでも続く傾向があるということなのだ。特に子供のころに受けた暴力というのは、いつまでもその人の人生を苦しめることになる。だから犯罪を犯していいということのはならないけれど、諸悪のもとを何とかしないことには、なかなかこういう問題は複雑なまま根を張っていくことになるのだろう。
 救いの少ない話ではあるのだが、人殺しである犯人のことを、段々と救いたいような、そんな気分にさせられる物語だ。そののちに誘拐された少年が、母親から願いをかなえられたものかは分からない。しかし暴力を許さなかった志は、この犯人とのやり取りの中で、結果的には培われたのではないか、などと期待するより無いのだろう。
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もう海には行きたくない

2020-08-22 | 境界線

 毎日暑い夏の日々である。こう暑くては何もする気になれないのだが、しかし以前はそんなことは無かったのである。以前といってもずいぶん以前で、要するに若い頃である。若いというのは体力があるので、暑くてやりきれなく怠いといっても、夏の暑いさなか泳ぎたくなったり、釣りに行ったりしていた。いったいあれは何だったのか、と思うのである。
 暑くて家でゴロゴロしていることも悪くは無いのである。テレビを見たり映画を観たり、本を読んだっていい。友人の家にはエアコンの利いた部屋も無いではなかったが、僕らの住んでいるようなところは、たいてい扇風機だった。ビルの谷間のアパートという訳ではないから、窓を開けて扇風機を回しさえすれば、暑いなりに行動はできる。もっともほとんどゴロゴロしてたはずだけど。今となってはもったいない限りだと思うのだけど、若い頃には時間を持て余していて、要するにたいてい暇だった。暇というのはとりあえず目の前に予定らしき予定がなく、朝であったらその後の昼を待っているだけのことで、昼であったら次に来るだろう夜までどうするか、と思い悩むような類いの暇である。何か大声を出して、あーっと叫びたい感じの倦怠感が漂っている。しかしどうすることもできないので、まあ、海にでも行ってみようかな、という気分になったりするのである。海には一応海水があって、水を浴びている自分の姿を想像すると、今の状態よりはいくぶんマシというか、夏の解放感と爽快感が得られるような漠然とした期待がある。そうするとそれが、なんだかものすごくいいアイディアのように思えなくもない。ならば重い腰をあげて、友人でも誘って海に行こう! と言いたくなるのである。
 僕は男だから、実はそれがもっと大切な目的だったかもしれないが、やはり海には女の人がいるんじゃないかという期待があったことは、伏せてはならない問題かもしれない。正直に言うと、それは期待が大きすぎるほど大きかったかもしれない。そうしてそうであるから、誘われただけで迷惑でたまらない友人だって、やっぱり俺も行こうかな、という気分になったはずなのである。海パン持ってなかったら、そのままズボンでもいいじゃないか、というか、サンダルも持ってないけど、はだしでもいいかもな、といういい加減な装備でもって、とりあえず海へGOなのだ。車の中は触れられないほど熱く窓を開けても熱気は安易に外に漏れないが、そうやって汗だくになって乗り込んでカセットテープをカーステレオにセットしてボリュームを上げると、一気に世界が夏に迎合する。僕らの生きている世界は真夏だが、活き活きとしたものへと変化するのだ。
 結局いつの間にか失くしてしまったのだけれど、こういう気分はもう二度と戻らない気がする。暇といってもなんとなくくらいの予定はあるし、気にならないことが無くなることも無い。リタイアすると別だろうが、そうしたものがいくつもスパゲティ状に絡まった問題が、目の前に山になっているし、道を歩けばまとわりついてはなれない。ただでさえ外は暑いが、以前から暑い夏はやってきていたわけで、今のようにエアコンに逃げ込めるということを考えると、近寄らなければ避けられる暑さなのかもしれない。避けられなければ着替えればいいし、やり過ごす場所は複数ありそうだ。やるべきことは暑さに付き合うことではなくて、季節に関係無くやって来る問題との対峙である。
 要するに、もう海にいきたいかどうかなんてことすら、考えなくなってしまったのである。
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蛇が来たら困ります   蛇のひと

2020-08-21 | 映画

蛇のひと/森淳一監督

 その課ではベテランになっているOLの三辺が会社に行くと、部長は自殺したらしく、自分の直接の上司である今西課長は横領の疑いのある中失踪してしまったという。上層部に呼ばれて事情を聴かれるも、実際のところ今西課長のことなんて何も知らない。そうではあるが、直属の部下であった立場から、失踪した今西課長を探し出すよう命じられるのだった。
 さて、そうはいっても今西課長はそもそもの謎の多い人で、外様でやってきて課長になった人らしく、昔から彼を知る同僚が少ない。それで今西と関連のありそうな名刺などからあたりをつけて話を聞いていくと、基本的には今西はいいことをやりながら、微妙に人間関係をさらに難しくしていくようなところがあり、つかみどころがない。ある意味で今西の持っている正論に人々は振り回されて、そうしてなんとなくの破滅の道を歩んでいるようなのだった。それは今西の過去とも実は関連がありそうで、今西の生い立ちまで追っていくと、実に壮絶なお家騒ぎの渦中の人だったことが明らかにされていく。その物語だけで別の映画ができてしまうような過去の物語が展開されて、狂気の人間今西の姿が明らかにされていくのだった。
 という話で、なかなかの驚きの過去なのだが、やっぱりそんな人いないよな、というお話ではある。そんなに簡単に人の心は誰かの行動で左右されるものではなかろうし、偶然の作用も排除できない。天才今西少年といえども、出来ない問題は多かったのではないか。さらにそういう生き方をした大人が、別の形で善意もありながら人を殺すことなんて、やはり難しいのではあるまいか。まあ、そういうお話なんだから、仕方ないんだけど。
 この話はまだ終わってないということも示唆されていて、まだまだ不幸は生まれていくのである。今西課長はどこかで生きていかなければならないわけで、それにかかわる人間はこれからも生まれていくからである。そういう意味ではホラー作品で、関わった多くの人は不幸だったんだな、ということなのかもしれない。
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持ってるけど使ってなかったエコバッグ

2020-08-20 | つぶやき
 実は僕だってエコバッグを持ってないわけではない。
 ペンギンの方は息子からのプレゼント。
 黄色い方はイケヤ(ア、という人もいるが、僕はアメリカナイズされていない)。ずいぶん前に買い物に行った時のだから、ずいぶん古い。その頃はまだエコバッグの人の方が少数派で、意識高い系の嫌な感じがしたものだ。だから持ってたけど、なんとなく意識低い系の人間としては、抵抗感の方が強くて、とても使えなかった。
 こんな風に広げてみると、なかなかかわいいけど。



 しかしである。実はこれらはまだ一度も使われてはいない。買い物については、ということではあるんだけど、買い物に行くときには、すっかり忘れて置いてきてしまうからだ。エコバッグを持っているという意識は、いつ買い物に行っても大丈夫、であり、油断を招くのだ。それでこれは、ずっとコンパクトにたたまれたままになって、僕のディスクのそばに置いてある。今日くらいは車の中に移動しようかな、と、やっと決心ができて、このように披露に至ったという訳だ。


 僕は若くないせいもあるんだと思うが、地球がどうだからエコであるという思想が嫌いである。地球は大切に決まっているし、守ったり大切にする方が当たり前だ。だからエコだというようなことを聞くと、なんとなく嫌な気分になる。胡散臭いのが第一だけど、そういうことを考える若者というのは、実に不健全という偏見が芽生える。若いのにそんなことを考えて自分の道を見失うのは、彼らの将来の損失ではないか。当たり前のことなんだから、よく考える前に当たり前に考えないというのが王道である。まずは自らが静かに始めて徹底する。それが生き方になって身につくというものだ。別段修行の道ではないけれど、そういうものがエコなのではないか。
 しかしまあ、毎回忘れて使わないのでエコではない話ではある。あんまり使われていないから古くならないし、どこかに置き忘れられてゴミになることも無かった。それに実は、普段はバックが必要なほど買い物をすることが無い。先日も処方箋の薬屋さんが、どさっと薬を目の前に置いたので、ああ、袋が無いんだな、と覚醒させられたくらいだ。まあたくさん薬はもらいはしたが、掴んで持てないわけではない。
 こういう風に書くと何か今の気風に反しているように感じられるかもしれない。もちろん反している気分はちゃんとあるので、その感覚に間違いはないとは思われるが、しかし僕は特段不必要なものを要求したいわけではない。エコという観点でなく、美観やマナーとしての定着を望んでいるだけである。バッグを持ったまま買い物をするのは厄介だし不愉快だとしても、このように小さいものであれば、ズボンのポケットなどにも入る。ポケットにはマスクなども入っているのでかさ張るけれど、無理をすれば行けなくはない。それに店内なら、そのマスクは口廻りに移動しているはずなのである。
 それにしても、マスクやらバッグやらを持ってないと買い物ができなくなるような時代が来るなんて、本当に想像もしてなかったな。長く生きていると、いろんなことがあるというのは本当なのである。

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人間が壊れるドラマ   クライマックス

2020-08-19 | 映画

クライマックス/ギャスパー・ノエ監督

 なんか始まりもたらたらしているし、最高のフランス映画がどうとか肩書が多い。それでパーティでダンスが始まって、それはそれなりに見られない訳ではないが、別段ショーという訳ではなさそうだし、自分たちの余興が盛り上がって、更にだれか酒に薬を混ぜた奴がいて、皆妙な具合に飛んでしまって、人間関係のどろどろしたところとか、愛憎の人間劇などや、単なるけんかや自殺のようなこととか、もうなんだか壮絶なことになって収拾がつかなくなる。
 まあひどい映画なのだが、これがギャスパー・ノエだったのだとあとで気づいた。この監督ならダメなはずだ。映画のイロハをまず知らないんだもの。そうして芸術のためならといって、裸に暴力をキャンパスに絵の具たっぷりに塗りたくるような狂人である。まあ、好きな人もいるんだろうけど、それがなんだ、という作品に過ぎない。ショッキングに作ってショッキングに話題にさえなればよかったということなのであろう。その試みはある程度は成功したようだが、だからと言って何なのだろうか。
 こういう芸術が崇高であるとか、これがフランス映画としての生き方であるとかいう考えもあるかもしれないが、更に離れていく人もいるのではないか。少なからず僕自身が、そんな気分になった。嫌なものを見てしまったという嫌悪感が残るし、芸術に対して軽蔑したい偏見が生まれる。いわゆる自由だから素晴らしい、ということと、他人を傷つけてまで自己を通すこととは、やはり違うのではないかと思うのだ。それは人間の強さでも、新しい発見でも、そうしてそれが分かるか分からないかで価値のあるものでも無い。ダンスは純粋に踊っているそのもので物語があり、観るものを感動させることができる。その踊りそのもので狂気を演出してこそ、芸術といえるのではないのだろうか。
 完全に失敗してみてしまったが、それはそれで人生教訓である。過ちは繰り返す。人間は記憶が悪ければ懲りる機会を失うのである。
 ということで、お好きな人はどうぞ。
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教育には有効な打つ手がちゃんとある   「学力」の経済学

2020-08-18 | 読書

「学力」の経済学/中室牧子著(ディスカバー)

 教育に統計を使った調査を用いて、効果的な政策を打ち出すことの大切さを説いた本。実際には当たり前そうなことに過ぎないのに、どういうわけか教育の分野には、ちゃんとした調査に基づいた根拠(エビデンス)を用いて予算が組まれることが稀であるようで、さらにそういうものを拒んでいる文化の方が何重にも障害になっており、実際に有効な根拠が見出されているものに関しても、いくら自明でも受け入れない土壌の方が、特に日本においては普通であるらしいことが暴かれている。もちろん著者は、そういう文化に真っ向から体当たりしながら研究をしている人らしく、それなりに注目されてもいるようだ。
 学力というのは、まず当たり前ながら個人差がある。頭のいい人間もいるし、残念ながら要領が悪いというか、勉強が得意でない人間もいる。一律同じでは不都合がありそうなことくらいは、薄々僕等だって気づいている。しかしそれは大手を振って言えることではない。遺伝もあるだろうし、家庭環境もある。いい先生に恵まれない境遇だってあろう。また親の所得があるし、逆に貧困のループにはまっている家族もあろう。さらに学力だけでなく、近年は非認知スキルを磨くことで所得の差があるなどともいわれる。幼児期のかかわりが重要なことも分かっているし、しかしもう大人になってしまった人はどうなるのか、という問題だってあるわけだ。そのすべてに万能に応える事は正直言ってできないかもしれないけれど、大筋で、しかもそれなりに説得的に話を進める方法はある。それを経済や統計で解決する方法や道筋となる指針を見つけ出すことができそうなことは、いわゆる朗報である。残念ながら抵抗のある人も多いのだろうけど。さらにその最大の抵抗勢力は、日本の場合は教育界であるわけだ。まあ、親の側にも誤解は多いが。
 そういうことだが、読み物としても面白い。啓蒙書という立ち位置で、一般の人にも理解されやすい本だろう。それなりに衝撃度もあるが、教育界を弁護しているところもあるので、バランスが悪いわけでもないし、楽しく読んで差し支えないだろう。もっとも、議論が分かれているトピックもあったので、そういうところは継続審議が必要かもしれない。また、新たな経済統計の調査が必要というところだろう。教育を実験的に扱うのはけしからんと考えている人たちが、今までの子供たちの将来を棒に振ってきたのである(それは僕ら自身を含んでいるのかもしれない)。建設的な議論の礎として根付いて欲しい考え方だろうと思う。
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友情を大切にしながら恋をする   スパルタンX

2020-08-17 | 映画

スパルタンX/サモハン・キン・ポー監督

 ジャッキー・チェン。ユン・ピョウ。そしてサモハン・キン・ポーが出演と監督を務めた作品。ちょっとバブリーに撮影場所をスペインのバルセロナで行っている。言語は広東語なので、適当に相手にしゃべらせて吹き替えたものだろう(香港映画のこの手法は有名)。公園広場でキッチン・カーの商売をしている。中華のファーストフードはそれなりに売れているようだ。ジャッキーたちはローラースケートを駆使し、華麗に販売している。そんなところに美しい謎の女が追われてきて、いろいろあって匿うことになる。しかしこの女には謎が多すぎて、娼婦なのかスパイなのか……。結局悪党に捕らえられ、男たちは救出するために奔走するのだった。
 香港友情シリーズともいえる中の作品。人種を超えての人類愛も見て取れるし、恋や友情が仲間たちの結束を固めていく。カンフーの戦いは激しく、小道具を使ったアクションには定評がある。当時彼らは若く脂がのり切っている。戦う相手も実際に空手の世界では著名な有段者ばかりで、疑似世界選手権のようなことになっている。ジャッキーたちのカンフーは、ブルース・リーの時代のそれとはだいぶ違って、手数の多い複合的な技が多い。フィルムを早回しにしたような動きの数々の中に(実際に早回しした映像もあるかもしれない)、時折決まった技がスローで強調される。これが実に痛そうなので、ちょっと同情してしまうのだった。
 まあ、基本的には娯楽作で、コミカルな味の利いた、その時代の懐かしい映画である。
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