カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

今日はカメラの日

2015-11-30 | ことば

 今日はカメラの日である。1977年11月30日に当時の小西六工業(現コニカミノルタ)が初めてオートフォーカス(AF)機能を搭載したカメラを発売したことを記念した日だという。
 アメリカではこのように素人でも扱えるカメラというものを「休日に気軽に持ち出して使えるカメラ」という意味で、バケーション・カメラ(vacation camera)と呼ぶようになる。その言葉が日本にも輸入されて省略され「バカチョン・カメラ」という呼称が生まれ定着してしまう。
 そうなるとこの「バカチョン」を、バカでもチョン(おそらく朝鮮人の意味)でも使える簡単操作のカメラの意味だと勘違いする人々が増えてしまった。それで、これは差別的だということになって自粛騒動になってしまった。勘違いした人も差別だと思った人も一様に馬鹿である。もちろん僕もそう思ってたけど…。
 しかしながら今となってはAF以外のカメラの方が圧倒的少数派で、いわゆるバカチョン・カメラしか売られていないような状況になってしまった。わざわざバカチョンと他の難しいカメラとの区別化を図って表現する必要も無くなってしまった。こうなると、今度は自然にバケーション・カメラなんて言う人はいなくなる。よってもともと差別でもなんでもなかった差別語と思われた言葉も、使われなくなっていくのだろう。
 人間の馬鹿さ加減はそんなに変わらないと思うのだが、その痕跡は消えてしまう。それで良しと思うか否かは、もちろん思う人の勝手である。
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痛い話を欲する

2015-11-30 | HORROR

 とりみきの漫画に「イタイ話」(「愛のさかあがり」収録)というのがあって、これは大変に人気のあったものだから、知っている人同士でこの話で盛り上がったものだ。寝ぼけて歯を磨いたら剃刀だったので口の中が血だらけになったり、酔っぱらって電信柱に登って、電柱の穴に思わず指を突っ込んだところで滑り落ちてしまって指をちぎってしまった(実話らしい)などという話が続く。本人も大変に痛かっただろうけれど、聞いているだけで本当にイタクなる感じのお話ということだ。
 痛い経験というのは誰でもあって、しかし例えば自動車事故など深刻なもので痛いというのは、あんまり笑えない。それは単にお気の毒なだけである。日常的にありそうなことで、しかし大変に痛い思いをするということである。
 友人のヤンチ君は優等生(たぶん)だったので、卒業式のリハーサルで代表で卒業証書を受け取る役目をしていた。颯爽と壇上に上がって校長先生の前に進み出るときに、ちょうど足の小指を机の角にぶつけてしまって、そのままうずくまって動けなくなってしまった。皆緊張していたのでものすごく可笑しかったのだが、この痛みはよく分かる。我慢できないくらい痛いのに、自分でも可笑しくて仕方がないものなのだ。
 爪の先にさかむけが出来ていてどうにも気になる。ちょっと引っ張ったらかえって広がってしまってさらに別に枝分かれしてさかむけのが残ってしまうということもある。これは痛くて、そして本当に悔しい。
 唇の皮がむけるのも同じようにつらい。ちょっとつまめるくらいになるとつい引っ張ってしまうのだが、勢いよくやってしまうと、べりっと余計にめくれてしまって…。
 そういう話を延々とやる。まさにマゾ体験なのだが、これが妙に面白い訳だ。他人というのは痛い体験が怖い。しかしその痛さをいうのは、非常に共感の持ちやすいものなのだろう。
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知らないコメディアンの暗いコメディ   バットガイ 反抗期の中年男

2015-11-29 | 映画

バットガイ 反抗期の中年男/ジェイソン・ベイトマン監督

 日本でいう中学生までの子供を対象とする単語のスペル当て大会に、中学を中退したという理由で規定内だと言い張って出場した中年男性が、大会主催者や親たちを敵に回しながら勝ち上がっていく。規定の穴をついているということだが、もともと年齢で制限すれば良かっただけのことだったのではないか。まあ、そうでないとお話が成り立たないが、長い単語のスペルをいうというのが難しいことは、英語圏の人間でも同じのようだというのは、なんだが微笑ましいような気もした。単語の多い言語は大変である。物知り大会というか、人間辞書大会ともいえるものかもしれないが、本当にこんな大会があるんだろうか。
 大人が出るというのは、大会のルール的にそもそもインチキなのだが、しかしたとえ大人であっても、この大会にすんなり勝ち抜くにはそれなりの厳しさがあるものと思われる。この主人公の男は、そのようなずる賢いところがあるだけでなく、実際にかなりのスペルを暗記しているかなりの記憶力の持ち主、もしくはその能力の高い人間であるようだ。さらに数々の逆境や嫌がらせも受けるが、それを上回る皮肉やずる賢さを次々に発揮する。年頃の女の子を辱めるやり方だけは、いくら映画とはいえやりすぎで気分が悪くなったが、まあ、そのような嫌悪の対象を皮肉一杯に演じきっている。セックス描写も生々しいし、何というか家庭で楽しむような映画ではないかもしれない。
 しかしながら少年との友情が実は一番のカギになる展開である。ちょっとクサイところが多いのだが、それがある意味でバランスになっているのかもしれない。インド系の頭のいい少年と大会では競い合いながら、夜になると大人の遊びを教えて喜んでいる。悪趣味だが、男と男の友情めいたものが芽生えるということらしい。インド系の少年はずば抜けて頭がいいが、しかし学校ではいじめられているらしい。友達同士で楽しく遊ぶという経験に乏しい感じだ。さらに親も禁欲的な教育を強いているようだ。そのような子供に自由に羽を伸ばさせることが善だとする考え方があちらの国の思想にはあるらしく、この手の作品というのはあんがい多いと思う。そうではあるが、この子供より実際にはこの大人の方が精神的にはずっと子供なのである。それというのもこのインチキ男には心の傷があって、その反抗心がこういう行動をとらせているからなのである。
 ふつうならなんだかそれでもいい気分になんてなれそうもない作品なんだが、この主演の男が監督もしているらしいコメディアンで、日本で人気が無いから地味な感じになっているようだけれど、しかし、このブラックな笑いをもともと得意とするようなコメディに親しんでいるだろう芸風が、土台としてあるのだろうと思う。そういうことがもっとわかるともっと面白いのかもしれない。しかし分からなくてもそこそこ面白いが。
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ポジティブでいられる「何か」が欲しいか

2015-11-28 | 掲示板

 ネガティブな言動の多い人のそばにいるのは確かに気が滅入るわけだが、そういう考え方が必ずしも悪いということは無い。何しろ他人だからどうでもよいと言えば、それまでである。近寄ってこないような工夫をしたいところだが、近寄ってきたらできるだけ耳をふさいでいることだろう。
 ネガティブであることは精神衛生上良くないという考えもあるが、何もかも楽観的に考えすぎるのは、やはりある程度の準備後にして欲しいとは思う。最低限、というか、場合によってはもっと慎重に、出来ればネガティブに点検してくれなければ困る場合はある。でもまああまりにも慎重すぎて実行できなければ意味は無いが…。
 さて、ポジティブが良いとされるのは、そういう気分の良さと、実はもともとネガティブな考え方をしがちな人がそれなりにいるために、いわばそういう思考方法を改善するために、ポジティブシンキングを推奨しているという面が強いと感じる。必ずしも悪くないことを改善するのだから馬鹿げているように見えるが、実はそのネガティブさの代表的なものに、「諦め」という要素に絞って非難しているのではないかと思われる。あきらめのネガティブさというのは、例えばチャレンジ自体をやめてみたり、閉じこもったり、どうせ無理だと考えてみたり、失敗するのではないかと恐れたり、ということでは無いか。あきらめの良いことは逆にポジティブに次には良いことがあるという考えもあるかもしれないが、要するにやる前に諦めている人というのは、実際に多いのかもしれない。場合によってはもったいないし、しかしそのおかげで成功する人を助けているかもしれない。
 かのエジソンは、電球の発明前に1万回の失敗をしたとされる。その1万回の失敗を指してエジソンは「失敗したのではない。1万回の上手くいかない方法を見つけたのだ」といったという。こういうかっこよすぎるのはちょっとアレだけど、要するにこれがポジティブシンキングの代表的な例だろう。一日に何度の失敗をしたのかは明らかではないが、例えば週に平均して20回程度失敗したとすると、年に1000回程度。実際は平行して何か別のことをしていたり、もっと簡単なものを含んでいる可能性はあるが、そうであると仮定すると、やはり10年位は粘っていたのではないか。10年の歳月を持ちこたえるだけの精神衛生上のことを考えると、エジソン程度の楽観は、やはり必要なことなのかもしれない。
 しかしまあ、結局は10年でも成功しない場合だってあるだろう。何を持ってそれに見切りをつけるかということもあるし、ぜんぜんダメな感じだと、やはりここまでは粘れまい。見通しにある程度の楽観を担保する「何か」というものも必要な気がする。楽観を支える「何か」こそが、ポジティブな源であるはずだ。そういうものは説明が面倒なので、恐らく誰も教えてくれない。単に奥さんが怖くてやめられなかった人だっているはずである。そういえば歴史上の偉人に恐妻家が多いという話もあるな。まあ、それはミステリーであるほうがいい問題かもしれないですね。
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人生の汚点は返上できるか   人生、サイコー!

2015-11-27 | 映画

人生、サイコー!/ケン・スコット監督

 何かとうだつの上がらない精肉店の配達員の主人公は、実は過去に何百もの精子提供を行っていた過去があり、そのうち500人以上の遺伝的な子供たちがいることを聞かされる。さらに裁判になっていて、100人を超える遺伝上の子供たちが、父親の身元開示を請求しているらしい。そういう子供たちの中にはプロ・バスケットボールの選手として活躍している者もいた。興味本位で見に行ったりするうちに、他の子供についても、陰ながら見守るようになっていき、少なからぬ介入まではじめてしまうのだが…。
 マスコミからは謎の精子提供者「マスかき大王」と呼ばれて注目を集める中、身内などにはその存在がバレてしまっているのだが、今まで知らなかった子供たちのことがどうしても気になっていき、父親らしいことを必ずしもやろうとしている訳ではないが、何か子供たちの役に立つようなことをしたいというような気持ちがどんどん膨らんでいく様子が、コメディながらも、徐々に温かい気持ちの伝播のような感じになっていく。実際下品なこともありながら、それなりにいい気分になるような不思議な展開である。主人公のキャラクターが、ダメ男だけど憎めない。どんくさくて上手くいっていることなんて少ないくせに、いい奴であるというのが大きい。実際に子供たちの中では、それなりに役立っているというか、次第にかっこいいような奴に見えてくるのである。見た目は変わらずかっこ悪いのだが、不思議である。
 精子提供者というのが実際にいるらしいことは聞いている。だからこれはまったくの荒唐無稽な物語とは言えないのかもしれない。しかしながら漠然と、精子提供者というのは、医者とか弁護士とか、それなりに社会的地位の高い人が提供するものだとばかり思っていた(せっかくの子供だから遺伝的なニーズが高そうだ)。しかしながら実際は、やはり精子もそれなりに若い由来のものが元気もいいということなんだろうか。思い当たるフシも無いではないが、そうなると、時折とんでもない人が混じっているということにもなるんではないか。考えてみると医者などが「マスかき大王」になりたがるというのも無理があるし、あんがい貧乏学生なんかがアルバイトついでに提供するというのが現実的なのかもしれない。いや、実際は知らない訳だが…。
 匿名が守られるという前提があったはずだから、実際にはなかなかうまくいかないことかもしれないが、本当に由来となる父親を知りたいという気持ちというは、やはりあるんだろうか。スティーブ・ジョブズなんかも本当の親を知らなかったというし、恐らく日ごろ接していた親はいるはずである。まあ、僕には分からないながら、人間の不思議な感情を、もしくは問題意識を喚起させる映画なのかもしれない。
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アリとコニシキソウ

2015-11-26 | 散歩



 草取りなんかをしていると、小さいくせになかなか取りにくい草というのにぶち当たる。根が深いものは取りにくいというのがあるが、葉は横に広がりそれなりにつかめるのに、どういう訳か抜きづらいというのがあって難儀する。また簡単に抜ける場合も、根元にアリの巣があって面倒な感じのするのが、コニシキソウである。道端のあちこちや、畑の畝の間なんかにも結構生えている。
 石垣の淵などにもみられて、そういう場所ではたいてい周りに小さい土の粒が散らばっている。アリの巣があるのである。僕は子供の頃からこれがなんとなく不思議に思っていたが、あまりしつこいタチではないので、いつの間にか忘れていた。
 コニシキソウの花には花びらが無く、雄しべと雌しべの下に蜜を出すところがある。アリはこの蜜を吸いにやってくるが、その蜜に口をつけると、ちょうど頭のところに雄しべの花粉が付き、また雌しべの下の蜜を吸うと、ちょうどアリの頭に付けた花粉が雌しべにつくということになっている。自己受粉もできるそうだが、そのようにして多様性を確保しているということだろう。
 またそうやって種がついて大きくなると、はじけて飛び出していく。その種は、蜜を吸うアリとは別の種類のアリが、食べるために自分の巣に運んでいく。しかし不思議なことに、このアリはコニシキソウの種はほとんど食べずに、後で巣の外に出してしまう。そうやって遠くに運ばれるとともに、アリの巣のそばにコノシキソウが生えているという原因にもなっているのだそうだ。
 植物には頭脳は無いが、これはやはり考えているようにも見える。もちろん偶然の重なりを利用して進化するということを表している訳だが、自然に神の意思が存在するように見えるのは、このような営みがあるせいなのだと思うのである。
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多数決は不公平だ   多数決を疑う

2015-11-25 | 読書

多数決を疑う/坂井豊貴著(岩波新書)

 副題は「社会的選択理論とは何か」。
 多数決で物事を決めることは、日常的にいわば当たり前である。それも選挙などにおいては、当然すぎてこれを疑問に思う人の方が少数であろう。しかしながら多数決で選ぶという選択が、いわゆる多数の民意を反映している姿であるというのは、実ははなはだ疑わしいという話なのである。
 最近のスポーツのトピックで話題になったワールド・カップ・ラグビーであるが、日本は3勝もしながら残念ながら予選敗退となった。サッカーなどのように予選をグループと呼ばずにプールと呼ぶのには違和感があったが、この上位選出のルールも、やはりなんとなく変わっていた。しかしながらグループ(プール)内で総当たり戦を行い、勝ち点で上位を選ぶというやり方については、ある程度の公平性があるようにも感じられる。このようなやり方に似た方法というのは、やはりサッカーなどの試合などにもみられる。今は急に思い浮かばないが、他のスポーツなどの場合にも、このような勝ち点制での上位の選出方法は、それなりに定着し受け入れられていると思われる。
 選挙も実はこの方法の方が優れている可能性が高い。首長選挙など、1対1の戦いならこれまでと変わらなくていい。しかしながら複数の人が立候補すると、これまでのやり方だと当選する根拠が怪しくなる。2000年の米大統領選挙でみると、実際の支持者の数ではゴア候補の方が多数派だったことは知られている。しかしながらラルフ・ネーダーという人が立候補してしまい、結果的に票を食い合い、ブッシュ・ジュニアが漁夫の利を得たという結果になった。それが勝負だという見方をこれまではしてきたわけだが、ちょっとした選挙のルールを変えるだけで、ちゃんと民意を反映できる結果は導ける。それがボルダルールなどといわれる方法なのだ。
 立候補者が三人なら、例えば1位には3点、2位に2点、3位に1点、という風にポイント制にする。それだけで票割れの民意を救い出せるようになる。先の大統領選の例だと、ブッシュだけはだめだという民意もあるはずである。しかしブッシュ以外の選択肢が二つあったために票が割れ、結果的に一番望まない結果を招いている可能性がある。ポイント制ならブッシュに1点なので、その気持ちの差がちゃんとあらわされるようになる。現実にゴアの支持者とネーダーの支持者の両方は、ブッシュに批判的層だったわけで、米国民の過半数を超える人が望まない人を大統領に当選させる、という皮肉なことが現実になったわけだ。米国のことだから勝手にどうぞという考えもあるが、ブッシュ以外の人が大統領になっていたら、本当にイラク進攻が行われたであろうか。ネーダー候補にも信念があったのだろうけれど、今の選挙制度においては、まったく罪なことを結果的に助長したということになるのである。
 これまでの選挙方法は、民意を反映させる方法としては欠陥だらけなのだ。それは単なる習慣の問題であって、改められる問題だ。しかしその不公平があるためにこれまで受かってきた議員が多いのだし、さらにこの習慣上の行動を改めるというのは、あんがい理解が難しいもののようだ。理屈は簡単でも習慣化されたものは代えられない。単にそれだけのために、いつまでも不公平は続く。
 著者は多少左がかった思想が強いようで、偏った見方をする記述が多いけれど、理屈や方法を理解するには最適の本だと思う。問題は政治家が読むか、ということかもしれない。もっとも読んで理解できたら、怖くなって結局今の選挙制度を選ぶかもしれないが。
 少なくとも多数決という方法が、こんなにも酷いものだったということを、普通の人は普通に理解する必要はあろう。あんがい古くから議論されているにもかかわらず、また今までも自分たちに影響のあったことであるにもかかわらず、なんで人間は愚かなのかということも考えさせられるのである。ルールを変えるだけで劇的に社会が変わるかもしれない、もの凄いトピックであるのは間違いないのである。
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ホホジロザメは保護の対象らしいが…

2015-11-24 | Science & nature

 近年海水浴場などの沿岸に、サメが出現することが増えていると聞く。海水温の変化などの影響があるのではないかといわれているが、基本的には原因は不明である。凶暴なサメの被害を恐れるということは心情的に理解できるものの、実際上は凶暴な種類のサメは乱獲の対象にされており、数を減らしているという報告もある。その中でも特に大型で凶暴と恐れられるホホジロザメなんであるが、この種も個体数を減らしているとされる。実は生態は謎が多く、実際のところはよく分かっていないのが実情のようだ。基本的に危険であるために観察が難しい為である。
 ホホジロザメが恐れられ、なおかつ人の良く知られるようになったきっかけは、S・スピルバーグ監督の「ジョーズ」という映画のためといわれている。興行的に大成功したのだから、そのインパクトは強かった。それまでも人が襲われるなどの被害はあったが、この映画のためにむやみに殺戮だけの漁の対象にされ、大量に殺されたとみられる。人を襲う例のあることは事実として記録がたくさん残っている訳だが、サメの方がむやみに人を襲うということは、分かっていないながらも、あまり考えにくいとされる。殺された多くのサメは、単なるとばっちりで殺戮されたのだろう。人間を襲うことがあるとはいえ、もともと人間を好んでいるということでは無く、主に捕食対象になっているアザラシなどと誤って襲ってしまうのではないかとも考えられている。また、嗅覚が優れているとされ、怪我などで出血しているとか、海中で排便排尿などをすると寄ってくるのではないかとも言われている。
 特に大型のホホジロザメは、あんがい体の大きさのためか、特に俊敏さに欠ける。漁の精度も低いようで、目の前にいるアザラシの捕獲には、あんがい簡単に失敗している。シャチなどの哺乳動物とは違った知能の高さがあるとされ、失敗や成功などの経験などで学習した方法で獲物を捕らえているといわれている。浅瀬に追い込んで捕えたり、深く潜って気配をけし、安心して泳いでいるところを急浮上して下から襲うなど、テクニックを駆使して獲物を捕らえていると考えられている。そうして空腹が満たされると、まったく獲物を追うことは無い。まさに足るを知る存在なのかもしれない。
 天敵である人間にむやみに嫌われ殺されている存在だが、保護の動きもある。オーストラリアなどでは、サメとの共存を図るなどの取り組みも行われているという。食物連鎖の頂点ある存在であるのは確かで、その数や生態によっては、環境への影響も小さくないと考えられる。むやみに殺すことは処罰の対象になるようだ。
 もっとも調査や娯楽で観たい人は別だが、出来れば出会いたくない存在ではある。僕自身は泳ぎは不得意ではないが、足のつかない場所で泳ぐのは恐怖を覚えることがある。他ならぬサメへの恐怖で、出会ったことが無いのにむやみに恐ろしい。戦争中に撃沈された船から逃れて漂流しているときに、仲間がサメに襲われたという証言も何かの本で読んだことがある。ホホジロサメなどは体の一部を引きちぎって食べるとされ、腕などが引きちぎられたのちに苦しんでまた別の部分を食べられるのなんてまったくごめんである。
 いや、こんなことを書くから罪のないサメがまた、今日も殺されることに繋がるかもしれない。人間の恐怖感というのは、まったく厄介なシロモノである。
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繊細でダイナミック、地球の気候を知る   チェンジング・ブルー

2015-11-23 | 読書

チェンジング・ブルー/大河内直彦著(岩波現代文庫)

 副題は「気候変動の謎に迫る」。気候の変動についての関心は、今はトレンドといっていい地球温暖化問題だろう。実は僕も興味的はそれでこの本を買ったのかもしれない。もちろんそのこともこの本を読んで理解できるだろうとは思うのだが、ちょっとスケールが違う。いや、本当に引き込まれるように読んでしまってなんだが、そもそもそういう興味のスケールとは最初からまったく次元の違う話だったのだ。地球の気候がどのように変化してきたのかということを理解する上では、これ以上の解説書はおそらく日本には他に無いだろうが、しかしながらこれほど壮大な話が気候を知る上ではあるのだということを知ってしまうと、地球温暖化はトピックとしては重大なことには違いないとは思いながらも、なんだか失礼ながら、やはりそれは小さい話だったということに思い知らされる。そうしてそのような知的な興奮は、まったくもって快感なのである。
 まず人間の歴史と地球の歴史という時間のくくりのスケールが違い過ぎる。歴史的に気候がどのように変化してきたかというのはある程度地球に残された痕跡を調べることで分かるらしいのだが、これを分かるための研究それ自体が、大変なスリリングの連続なのだ。海底に積もった堆積物を分析することでも分かるし、北極や南極などの堆積した氷を分析することでも分かるのだが、この分析したり調べたりする方法にも歴史があり、また分かるための方法や分析の原理や、また堆積したものについての状態を理解することなど複雑なものを解釈して、分かるにたどり着く道筋がものすごい苦難の実践の歴史的なのだ。
 我々は地球に住みながら、実際は地球のことはあんまり知っていないということもよく分かる。いや、人類は何とか地球を理解しようとはしていて、そうしてこの本のように真摯に調べてかなり理解してきているとは思われるのだが、それでもやはり地球というのは人間のスケールに比べると、どうしてもものがでかすぎるのかもしれない。そうしてそのでかすぎる存在が、宇宙スケールでは無に等しいほどちっぽけなのだ。要するに人間の視点の持ち方で、まったく違った世界を読み解く作業になってしまっているのである。実際の作業は正確さを大切にし、微量なものを子細に見ている訳だが、その外的な影響まで考慮していくと、まったく実に様々な視点を同時に駆使しなくては、何も語ることは出来ないのである。
 科学的態度というものは文系の人には、時には冷たく感じられるものがあるのかもしれないが、しかしながらそれは科学者が誠実であればあるほど、慎重さが必要になる上に、簡単な、ある意味で乱暴に語ることは、控えなければならなくなってしまう。そうしてその言葉づかいを、単に理解できないだけのことで、文系人はいらついているだけのことなのだ。まったく馬鹿げたことなのだが、そういう人であっても(それは僕もだろうけど)、この本を読んでいくだけで、なるほどこれはこのような分かりやすい語りになるためには膨大な知識が必要だったのだと膝を打つことになるのだ。簡単に分かりたいエゴで政治的に間違った道を歩む人間とは、何と愚かなことなのだろうか。
 まあ、そういうことで僕自身は、地球のプレートテクトニクスというのが本当だったんだな、と改めて感心した。また、地球表面にへばりつくように存在しているらしい海が、やはり気候には重要な存在だったということも、理解できて良かった。どういうことなのかは危険を避けるために改めて言わないが、それはこの本を読む人の楽しみとして取っておくのが礼儀だろう。何しろこの著者の語り口の上手さの方が、感想文より何倍も上である。著者は研究者としてこのような本を書く時間を惜しんでおられるようだが、日本人や、恐らく人類のためにも、このような仕事は意味があると思われた。そのような文才を併せ持つ研究者がいかに貴重なのか、ぜひとも読んで体験してほしい本である。
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残酷の上位にあるもの

2015-11-22 | HORROR

 動物の映像を見るのが好きである。ビデオではいろんなものを予約録画しているが、その中の一つとして、やはり動物ドキュメンタリーものは欠かせない。アフリカの野生の王国も素晴らしいし、北アメリカの寒いところの大型生物も面白い。日本の北海道でもインドの山奥でもかまわない。シベリアの極寒の海もグレートバリアリーフもともに素晴らしいところだ。地球には実に様々な生き物が実に多様に暮らしている。
 野生というのは本当に厳しくて、狩るもの、狩られるもの、共に凄まじいしのぎを削っている。何しろ食われればその個体の一生は終わる。しかし狩るものからすると、その死が無ければ自分は生きながらえないのである。また、地球の気候というのは変化が激しく時には非常に過酷だ。雨季もあり寒気もあり、そもそも極寒の局地であったり、砂漠地帯もある。季節によっては楽園でも、時期が過ぎれば枯れて何もない大地となるところもある。そういう場所場所で生き物たちは水を飲み、草を食い狩りをする。つまるところ生きることそのものが意味化しているのである。
 そういうものから目が離せなくなるのは当然のこととは思うが、しかし、時には非常につらい思いをすることも確かである。特に冬眠をしない動物の冬の風景や、長らく放浪の末に餌を見つけられない肉食獣の姿がある。彼ら彼女らは飢えに飢えながら食べ物を探しさまよう。やっと見つけた獲物に逃げられても、次に見つけなければ生きながらえることが出来ない。木の皮をかじり、土を掘り返したりする。豊穣の大地だったものが、何の返答も返さなくなる場合がある。しかしその生命は誰も呪うこともせず、獲物にありつけなければ死ぬのみなのだ。
 テレビだから短い時間の出来事だが、飢えた動物の日常の時間とはどんなものなのだろうか。上位の肉食獣に怯えながら、極限の飢えのまま安眠することなどできるのだろうか。
 唐突だが、僕はもちろん戦争は反対である。人と人が殺しあうのがつまらないからではない。戦争には、飢えの匂いがするからである。
 先の大戦で亡くなった日本兵の死因の一位は餓死である。戦闘で死ぬものはむしろ少なく、70%もの兵士が餓死したとみられている。特に日本のことしか多くを聞かされていないが、戦況が悪化すると、多くの国民が飢えた。戦後しばらくも多くの人が飢えた。それは僕の父や母の世代の記憶にも残っている。人間の飢餓の歴史なんてのはありふれていて、今でもたとえば内戦下の人々の多くは、飢えに苦しんでいることだろう。政権によっては、民衆は安易に飢えてもいるだろう。豊かな国であっても貧困層や、自分で自由にならない高齢者や障害者などでは、今も飢えに苦しんでいる人々が大勢いるはずである。
 具体的な暴力も悲惨には違いないが、長時間にわたる飢餓というのも、まったく残酷な現実である。人々の精神は貧困ゆえにゆがみ、さらに苦しめられる。飽食の人々は安易に飢餓の存在を忘れるが、飢餓の人々の頭の中は、恐らくその空腹が占めているはずである。
 飢えた経験も無いくせに飢えの恐ろしさに耐えられない。できれば一生、そのような状況を体験しないまままっとうしたい。それはささやかな願いなのか、果たして大それたことなのか。少なくともそのために、大前提としてどうしても戦争を避けたいという思いが強いのかもしれない。
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壊れ方を楽しむ   これが未来だぜ!

2015-11-21 | 読書

これが未来だぜ!/古泉智浩著(青林工藝舎)

 ひとことでいうと、かなりくだらない。しかしもちろん、そのくだらなさについては自覚があると思われる。要するに狙っている訳で、これが時々見事にストライクになったりする。そういう感じの青年漫画で、やはりこれは女の人にはちょっと無理かもしれない。むしろこれがツボにはまるのは、いろいろな不安も同時に抱えることになるのではないか。
 そういえば、少し壊れている感じもするのである。それはたぶん精神的に。つげ義春のような壊れ方は、ちょっと芸術を感じさせられるものだけれど、芸術という面では、心配はしなくていいようだ。だから、壊れ方がちょっと危ないという感じより、同情的になってしまうというような、そんな感じがするのである。この人は漫画家以外で社会生活をちゃんと送ることが出来るのだろうか。いらんお世話であるが、読みながらそんなことを考えてしまう。実際に壊れた感覚が分かるのは面白いが、だからといって決して憧れるようなことにはならない。そういう壊れ方を見せられるわけで、普通なら近寄らないけれど、漫画だから読めてしまう。そうして、結構それが楽しいのである。ちょっとやばい。そんな感じなのかな。
 若い人には違いないが、子供ではない。性の問題も扱っているし、ある意味で素直である。しかし、表現は屈折していて、取っ付きにくい人も多いことだろう。そのインパクトが味になっていき、絵が下手な感じも、ある種の迫力を生んでいるような感じになる。狂気な感じとマッチしているのだ。壊れて狂っている感じが、しかし冷静に、盛り上がりそうでそうならずに展開されていく。納得がいくかは別にすると、ちゃんとオチもある。これはそれなりに考えて描かれているんだな、ということに気づかされて、逆に驚いてしまう。
 著者があとがきというか最後に作品解説をしている。これも妙に面白いのが古泉作品の魅力かもしれない。ちゃんとしているようで、これもなんとなく壊れている。天然、というのとは少し違う大人の男の苦悩が見て取れる。まあ、それだけのことなんですけれど。
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他人の子供を叱れるか

2015-11-20 | culture

 最近は子供が少なくなったというが、確かにそのように感じないことも無いが、もともと田舎にいるので、昔から子供は少ない。見るときはあるが、だいたい子供の活動している時間は僕らは働いており、そうしてそのような環境に安易に子供が顔を見せるようなことも稀だ。さらにいつの間にか自分らの子供は大きく成長し、既に家で一緒に生活すらしていない。
 それというのも他人の子を叱れるかという問いがあって、ふむ、それはどうなのかな、と素直に悩んでしまった。あまり経験が無いし、よく分からない。状況によるとしか答えようがない。しかし、よくよく考えると、たぶんほとんどの場合は叱りはしないだろうとは思う。僕は小心者だし、多少の不快があっても、子供なら仕方ないと思う方かもしれない。親も近くに無く、自分に利害が及ぶ場合であっても、さて、どうしたものかな。例えば鉢植えのものを壊すとか、サザエさんの波平状態になれば叱れないことも無かろうが、あいにく盆栽の趣味も無い。
 汽車などの学生のマナーが悪いというのは見ないことも無いが、これは皆黙っている。田舎なので都会のようにひどいことはそんなに無いが、出張などで地方都市に行くと、時々地べたに座り込んでだべっているような生徒さんがいる。みっともないが黙っている。どのみち僕は旅の人。この地区の習慣なら知ったことでは無い。また、たいして我慢するという気分でもなくて、だらしない若者が居てもそれはそれで自然かもしれんとは思う。以前の学生ヤンキーのような困った子というのは少なくなって、沖縄に行ったときとか、何年か前に長野に行ったとき以来、実物を見たことは無いような気がする。そういう場所でしか生息できなくなった人々を憐れむ気持ちは微塵も無いにせよ、環境が変わってだらしない若者も大人しくなったものだと思う。
 さてしかし、これを堂々と叱るおじさんも確かに減ったとは思う。僕はよく叱られた方だろうし、それなりに怖い思いもしたものだけれど、自分が受けたそのような叱責は無くなって当然だが、これを客観的に子供らにしている大人というのは、確かにずいぶん見なくなった。僕は長年PTA活動をしてきたから、そのような活動の中に入ると威勢よく叱るような人がたまにいたようだけれど、そういう活動の輪から外れると、途端に皆無といってよいほど叱る大人は居なくなった。誰も好き好んで叱りたくないというのはあるだろうし、悪い子も減ったし、というバランスがあるのではないか。そうしてしまいには叱り方は忘れてしまった。孤軍奮闘して叱るのも馬鹿らしくてやってられないのかもしれない。
 ふだん滅多に入らないが、たまにファミレスに入るということが続いて、そうして時間帯によっては、ずいぶんと子供たちがたくさんいるということも知った。今はあのドリンク・バーというのがあって、皆席を立って通路をウロウロする。大人でもそうしているけれど、これが子供が結構激しい。していい権利らしいし、そういうものかもしれないが、座る席によってはこの集団が結構やかましいし、まったく落ち着かない。そういう場所だと言ってしまえばそれまでだけれど、子供たちが話をする喧噪というのは、よく笑うということも相まってかなりのものに達することがある。うわーっと思ったが、これは叱る気にはなれなかった。それは僕のアウェイ感というのもあったろうが、ちょっと圧倒されたということかもしれない。こういう喧噪のなかで読書している人もいたりして微笑ましかったが、ともかく、この状況で何を言っても始まらないという感じだろうか。要件が済んだら早々に出ていくより無い。
 まあ、結局叱る機会のないのは幸運ということかもしれない。そうして自然にふだんの生活では棲み分けが上手くいっているのだろう。機会が無いことを感謝して生きていこう。
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南部の米は旨そうだけど   壬生義士伝

2015-11-19 | 映画

壬生義士伝/滝田洋二郎監督

 盛岡藩を脱藩して、新選組に入った吉村寛一郎の伝記的なのか分からん娯楽映画。それというのも歴史的にどうだという話ではなく、娯楽としての創作と割り切るべきだろう。後に知ったが、しかしこの主人公の吉村寛一郎は、この原作や原作の元の原作やこの映画によってかなり人気があるという。まあ、坂本龍馬のような現代的な存在なのだろう。
 観ていてそれは無理のないことだとも思う。何故なら中井貴一演じるこの吉村は、大変に魅力的な人物なのだ。歴史ものだから歴史に絡むと厄介だと思うけれど、映画とは現代の浪花節や浪曲なので仕方がない。それでも心を打つのはなぜか。途中からそういう興味も湧いてくる。それは現代的だからというのに最終的には尽きるのかもしれないが、演出としての表裏のある人間。もしくはそれが実はない人間として、現代人が求める心象性があるということなのだろう。現代的に物事を捉える賢さを持ち合わせながら、しかし不条理に武士道という心は実は捨ててはいない。では実際は馬鹿だったかというと、現代的にそういうことは出来るにしても、やはり畏敬の念を持つべき人物のように思われるということだろう。
 特に前半の流れは良くて、後半は残念ながらダレてしまうが、観るものをつかむ力のある作品になっている。新選組の残党があるということは最初から分かっているけれど、意外なことに、その意外な展開を支えるほどに非情な展開が待っている。構成としてはそれでいいし、娯楽に徹していると思うけれど、僕などは悪い奴はやはり生き残るのだな、という印象もぬぐえなかった。もっとも彼は改心したという捉え方もできるのだけれど。
 歴史物はいろいろ邪魔な概念がつきまとうのでもっとシンプルに行きたいものだが、だからこそ割り切ってしまうより無い。そうすると実は当時のことはやはりわからなくはなってしまう。もっとも僕らにはもともと昔のことは分かりえない。邪魔になる自分の頭に悪態をついて、中井貴一を堪能すべき映画だろう。
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無意味でも面白いから

2015-11-18 | 掲示板

 神や仏が僕にはないが、しかし僕は時折墓参りに行く。仏壇には、ほぼ毎日線香もあげる。墓参りはつれあいに怒られるので行くのだが、怒られなければたぶんいかない。父などが眠っているらしいことは聞いてはいるが、骨があるのも知っているけれど、それは単に骨であって、魂があるとは信じてはいない。骨は物理的に骨であるということで、しかしすり替えられているのでない限り、それは父らの起源のあるものだということだ。大切にしてもそれは信仰心ではない。恐らく他人の目があることで、無ければ気にもしないだろう。多少の無常は感じるまでも、そう思ったところでご先祖が僕に対して何の感情も持つはずがあるわけがない。何しろ既に彼らはいない。それは僕がそう思っているだけのことで、違うのだと言われれば、そうかもしれないとは思うまでも、しかし本来的に僕の考えを変えるまでのことには至るまい。しかし墓は掃除をし、仏壇には手を合わせる。これは習慣なので信仰心であるといわれると、それはそれでいいが、僕の場合は明確に違う。何しろ何にも信じてはいない。ただ心安らかなだけかもしれない。いや、墓で蚊に食われると、そんなに安らかでもないけれど。
 しかしながら線香を毎日あげていると、まあ習慣だからというのがあるが、信心ぶかい気持ちが芽生えるのではないかと少しは期待していた。そういう信仰心があったところで、僕自身に害があるわけでは無かろう。しかしながら日に最低でも二回程度は線香をあげて手を合わせたところで、まったく信仰心というのは湧いてこない。それで特になんと思うことも無いが、線香の煙がくゆらと揺れるのは面白いものだな、と思う。まったく風が無いようなところなのに、一定の間上の方に立ち上り、そうして複雑な動きで散って行く。それはそばに僕が座っているからで、何らかの作用があるという物理現象で、さらにロウソクの炎がそばにあり、熱による空気の流れが生まれているのだろう。自分の感覚で分からないものを線香の煙は感じ取り変化をする。そうしてその動きは複雑でいつも予想を超えている。
 このような理由が無く意味のないことを人間はする。そうして時にはなんとなく心地よさを感じることもある。それ自体もそれなりに面白いことかもしれない。信仰心が無いくせにいつの間にか習慣として線香をあげるが、義理も何もないだけでなく、信仰心の無さに何の揺らぎも無い。そのような日常が生きている間に繰り返される。僕はただ死んでしまっていなくなるが、そこにはたぶん何の意味も無い。たとえ意味があったとしても、それはやはりいずれはちゃんと意味はなくなる。そういうことは大変に素晴らしいな、と思う。一種の信仰のようではないか。いや、だからそれはそれだけのことなんだけれど。
 意味は無いが自分はあるので、考えの中には意味を探すこともある。それはたぶん今は生きているからで、信仰のことは考えないけれど、モノやコトについては日々考え続けている。信仰のことは別の人がさんざん考えてくれているだろう。改めて僕は加わらない。僕は手を合わせて無意味を楽しんでいるのである。
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なんとなく勉強になる   世界にひとつのプレイブック

2015-11-17 | 映画

世界にひとつのプレイブック/デヴィット・O・ラッセル監督

 妻の浮気のために精神病になってしまった男が、病院を退院した後に、やはり夫の死で精神を病んでいる女と知り合い、一緒にダンスコンテストに出場することになる。ちょっと略しすぎだが、そういう展開の中、精神を病んでいることもあり、いろいろと突飛な問題を引き起こしながら、何とか困難をやり過ごし、ダンスコンテストに頑張るという感じであるのは間違いではない。病気なので苦しんでいるのは分かるが、この病気のために家族もともに苦しむ姿も同時に描いている。基本的にコメディなので深刻になり過ぎない演出が良いと思うが、日本人の目から見ると、精神を病んでいない家族なども、なかなか軌道を逸したところがあったりして変である。ある意味では前向きであるし自由なのだということで、それはいかにもアメリカ的な感じもするわけだが、近所迷惑はしょっちゅうだし、警察も頻繁にやってくる。精神病だから入院して閉じ込めるべきだというのは確かに時代の趨勢からすると反するのは分かるのだが、これくらいの人だとやはりもう少し躊躇があってもいいのではないかという疑問はわく。さらに家族の勝手かもしれないが、ギャンブルの世界に誘い込もうとしたり荒療治すぎる行動が多いように思う。これでは治るべきものも治りづらいのではあるまいか。
 まあ、本当には知らないが、これがコメディになるということが、やはりアメリカの底力のようなものなのかもしれない。痛いところはちゃんと笑い飛ばせて、しかしそれでも苦悩はそれなりに細かく描いたりしている。精神病の薬をいろいろ理由をつけて拒んだり、夫が亡くなったショックで何人もの男と関係を持ってしまう赤裸々な告白や、付け回したりする異常行動なども、なるほど病気ならではのリアルさがある。困るには困るが社会的な啓蒙には一役買う演出なのかもしれない。
 最後のダンス大会になると、さすがにこれは本格的な大会だったのだと改めて驚くのだが、しかしこの演出もなかなか素晴らしいのだった。本当にダンスがむちゃくちゃ上級者になったはずはないが、ちゃんと踊れているように見える。そうして映画としての展開もいいと思う。いろいろ言ってきたが、やはりよくできたコメディなのだ。病気になった人の励みになるお話なのかはよく分からないが、病気になる前の人が観ても、それなりに楽しみながら勉強になる映画なのではないだろうか。
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