カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

今ここに、を忘れる人へ   疲れない脳を作る生活習慣

2017-05-31 | 読書

疲れない脳を作る生活習慣/石川善樹著(プレジデント社)

 副題「働く人のためのマインドフルネス講座」。どちらかというと副題に目が留まり読んだ。マインドフルネスは言ってみれば「今ここに集中」する方法。その一つとして瞑想があるわけだが、もちろん瞑想法も書いてあるけど、この本の中心はその前の姿勢のようなものにあるようだ。いろいろな場面で、それに合った姿勢をつくることができると、習慣としてマインドフルになりやすいのかもしれない。
 集中を妨げるものとして、イライラを防ぐということもある。瞑想で扁桃体が小さくなることが分かっていて、そうなるとストレスホルモンであるコルチゾールに反応しにくくなる。科学的に瞑想でマインドフルネスをすることのもっとも合理的な利点はそこである。これは様々な本と同様で、まあ、やってみてください。
 そうしてやはり睡眠が最初。個人差はあるけど、短くていいという方法はそもそも論外。自分に適した時間ということであれば、眠たくならないが基準だろう。しかし平均は侮れなくて、その程度は目安にはなるから、計画として、スケジュールにまずは睡眠時間を中心に考えろ、という。まあ、確かにその通りで、スケジュールには仕事の予定とかやるべきこととかそんなことばかり書いているのが普通だろう。またそうすべきという方法論が一般的だ。それはそうとして、自分の欲する睡眠時間のために寝る時間と起きる時間を先に決めておくというのはその通りだろう。まあ、あまりとらわれ過ぎてストレスにならなければいいんじゃなかろうか。
 座り方や姿勢も決めて、しかし座り過ぎない。連続して座らないために座っている時は水をよく飲むようにする。そうしたら自然にトイレに行く。本は立って読む。お腹をひっこめる(一定時間)。ダイエットにもなるんだって。
 イライラしないためには血糖値を一定にする。三食はもちろんだが、間をあまり開けないようにする。でも食べすぎないように(当たり前だ)。やるべきことが決まっているので、時間通りに終わらせようとするお母さんのようになりなさい。そうして手を洗うときには、石鹸を使う。要するに小さいことをないがしろにするような人は、集中できない、ということにもつながるのかもしれない。食べるのはゆっくり味わって食べて、しかしダラダラしない。
 最終的に満ち足りた気分で眠りにつく。また明日もそのサイクルで。まさに理想的である。
 繰り返し言っているのは、しかしこれは方法では無く、注意の向け方である。要するにマインドフルネスだ。本質を大切にすることを言っている訳だ。まあ、それだけ人間は忘れっぽいのかもしれないですね。
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築地寄って帰る

2017-05-30 | 散歩

 午後の会議のお弁当。役員決めの為総会時間中断してのひと時。



 霞が関ビルなんで、眺めは最高。話し合いより外の風景をずっと眺めていたい。トウキョウリアルアトラス。






 で、やっと終わって飛行機までの空き時間。いろいろ迷ったけど築地行ってみよう!



 何やら工事中だった。外国人多いですね~。 


 
 もう夕方なんで活気は無いですが、外国人とご年配の日本人観光客は、それなりにおられました。









 市場の中は当然閑散と。いろいろあるけど、そもそも、ここじゃ問題あるから、移転という話なのにね~。
ノーヘルの兄ちゃん多いし、中の人たちは僕らに微塵も関心なし。



 神社があって参拝して。








 

 勝鬨橋。






 カッコいい人がジョギングしてました。ベビーカーお母さんも散歩してました。あと、何故か歴史探訪かのような人も観察してた。ここに来ると、ほとんど外国人は減ったという感じになった。














 川沿いから駅の方へ曲がってしばらく行くと、蘭学事始めの碑があった。東京のこういうところが僕は素晴らしいと思います。大分の中津藩邸がこのあたりにあったってことですよね。字が薄くて読みにくいです。







 来月は二度上京予定が。ほんとは3度機会があったけど、日程が重なってしまった。まあ、これから二年間ばかり呼び出し喰らうそうで、激しく散歩できそうです。



 という訳で買っちゃった。まあ、道に迷うのも趣味なんで、どれだけ役に立ちますかね。

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不幸で華々しいショービジネスの残酷な世界   スタア誕生

2017-05-29 | 映画

スタア誕生/ジョージ・キューカー監督

 アル中の過去のスターが、新人の女性の才能を発掘し、スターダムに押し上げる手助けをするとともに、そのまま恋に落ちて付き合っていく。しかしながらそのような展開に自ら嫉妬して、自分の過去の栄光とプライドを捨て去ることが出来ず、さらに破滅してしまうのだった。
 途中でドキュメンタリータッチの演出があったりする意欲作で、それが必ずしも成功しているとは言えないまでも、ショービジネスの世界がどんなものかということを描くことには成功している作品かもしれない。華々しく、実際にその歌や踊りは素晴らしいのだが(それはミュージカル映画として観ても楽しいものだ)、しかしその裏側になると、人間の憎悪がむき出しの恐ろしげな世界なのだ。主人公側の厄介者のアル中スターは、その波の中で酒に溺れるより他に自分の精神を保つことが困難になったということかもしれない。それでもこの世界で生きていくのは、実力を持ったものでなければ当然ならない。その実力のあるものは、いつまでも戦いつづけなくてはならないのだ。
 妙に長い映画で、時には退屈だが、昔の映画の良さというものは保っている。さらにやはりアメリカの映画全盛時代を支えた歌と踊りは素晴らしく、だからこそ文化としての力強さがよく分かる作品になっている。残念ながら現代では少し古臭く、映画的には娯楽作品として残りにくいものになっているように思われるが、勉強のためには観ておいた方がいいという作品かもしれない。失われた古き良きアメリカの姿を、皮肉たっぷりに表した古典的な名作といっていいだろう。
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赤坂くだって

2017-05-28 | 散歩

 永田町駅から赤坂の方へ下る。



 以前この辺で飲んだよな、などと思いながら歩いてたら日枝神社見つける。






 当然登る。





 
 結構外国のお客さんぎょうさんおますえ。 タイの団体バスがあったようだ。













 下って日差しを避けながら歩く。奥の方がTBSだったり、赤坂サカスだったりするんだろうと思う。行ってもいいが、今は暑い。















  これは見憶えあるが、首相官邸ってやつかな。そういえば警官が増えたような気がする。



 このあたりになると、もう目的地付近。何度となくやって来てはいるおなじみ感が出てくる。でもまあ、こっち側から歩いてきたことは無かった。方角で風景が違って見えるものである。 


 
 まだちょっと時間調整できそうで、ほぼお隣の文部科学省の中庭に行ってみる。



 そうです。さざれ石。こんなところに置いてあるんですね。



 お隣のオブジェの方がはるかに立派という感じ。



 またその先に作品があって、実はお茶でも買おうかと近づいて騙されちゃった。




 なかなか凝ってました。






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結局浮世は金次第   世界一キライなあなたに

2017-05-27 | 映画

世界一キライなあなたに/テア・シャーロック監督

 大富豪の青年が事故で脊椎を損傷し、自宅でのお世話をする仕事に若い女性がつくことになる(看護は別にいる)。事故で体が不自由になったことで、頑なな精神に陥っている青年は、最初は心を開かない。フィアンセは友人と結婚することになってしまうし、外出することも気乗りしない。お世話をする(お茶を入れてお話をするだけ?)の女性は、持ち前の明るさがあるものの、彼氏もちゃんといるし、楽な仕事の割に給与は高い訳だし、さらに家族は失業中の者が多く、出来るだけ自分の家庭を支えたい思惑がある。しかしながら青年には半年間の猶予で自殺幇助をスイスで受ける契約をそもそもしており、母親がそのことを思いとどまらせる為に若い女性をお世話役につけているという事情があったのだった。段々事情が呑み込めていくのだが、そういう気持ちを思いとどまらせる為にいろいろやっているうちにお約束で恋に落ちていくことになるのだが…。
 一言で言うと、何ともとんでもない話という印象をもった。まずは設定があんまりよくなくて、金持ちだから周りが献身的になっているように見えるし、いくら不幸だからといって、そのことを本当に掘り下げて考えているようには見えない。さらに恋に落ちるのは良いにしても、ヒロインに都合の良いことばかり起こる。もともと楽しくて良い人かもしれないが、結局金の為にいい話になっているような結末もものすごくとんでもない。障碍を持ってしまった人が一方的に不幸である現実から逃れられないということを暗に語っており、不誠実な上に偏見的過ぎると思われる。そんな話の展開は、何かとても不道徳なものを見せられたような気がして嫌な感じが残ってしまった。まあ、作っている側の正直な価値観かもしれないのだけど…。
 つれあいと一緒に観ていたのだけど、さすがにこれはダメだろうと呆れていた。僕は多少の不道徳があろうとも、人間の感情は必ずしも合理的でないので認めてもいいという立場を多くの場合取っているけれど、これは到底やはりダメであると断定できると思う。それくらいどうしようもない最終的な判断だと思うが、そうではないと考える人がいるらしいことがものすごく意外である。いったい世の中はどうなっているのか。そういう意味では人間が生きていくには、やはり厳しいものがあるということを言いたかった映画なのであろう(作っている人たちはそう思ってなさそうだけど)。
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半蔵門そば

2017-05-26 | 散歩

 まずは朝ごはん。人多し。最近はどのホテルでもカレーの人多いように思う。僕はいたって普通。




 そんで、食後の散歩。すぐに皇居の方に出た。既に日差しはきついが、走っている人も多かった。



 なんか物々しい建物が見えてきて…。







 国立劇場ってやつでした。観に行くことあるんやろか。無いような気がする。



 最高裁判所がお隣にあって、青っぽい服を着た警備員の人たちがチェーン外したり忙しそうにしていた。周りを掃除している人たちも、しっかり分業が出来ているようだった。朝から暑いのにお疲れ様でした。





 現役時代行ったことのなかったJC会館。いけなくて良かったと思うけど、後輩たちは引き続き頑張ってください。僕は金も出せないかもしれないが、当然口も出しませんからご安心を。







 ホテル戻って、やっぱり会場まで歩いていくことにしよう。


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生きているとは、本当はどういうことだろう   垂直の記憶

2017-05-25 | 読書

垂直の記憶/山野井泰史著(ヤマケイ文庫)

 日本の著名なクライマーによる登攀記。山に登るということについての半生も記してあり、そして山に登る人ということの意味も説明してあるように思う。現在も登攀を続けているものと思われるが、ヒマラヤの難峰攻略の際に雪崩などに巻き込まれ、決死の帰還を果たした後に、凍傷の為多くの指を失っているそうだ(共に登っていた妻は、両手足18本の指を失ったようだ)。岩場へのトップクライマーとしては断念せざるを得ない状況にありながら、自分の限界点の目標を保ちつつ、登ることを止めていないということらしい。
 正直に言って読んでいて面白いのだが、しかし同時に、何か凄まじい得体のしれない恐怖も感じられる。「何故?」という疑問は素直に浮かぶし、さらに「どうして?」という疑問も浮かばない訳では無い。読んで納得ができないということでは無くて、実際にその文章を読んで著者の気持ちはちゃんと伝わっては来るものの、心の底の部分では、やはり僕のパーソナリティとして理解を越えるものがあるからだ。僕はまったく山を目指さない人間だから、という理由が根底にあるが、そこまで情熱的に生きられる人間というのを、実は初めて目にしているような気分があるからではないか。そういう言葉で語られたくないであろうことは予想できるが、もの凄い超人ではないかという気がする。異常に見えるところもあるが大天才でもあり、凄い人(達)なのだ。
 僕はある意味では誤解をしていて、山に登りたいという達成感の中には、やはり虚栄心のようなものがあるのだろうと思っていた。いや、厳密にない訳では無いのだろうと今でも思うが、しかしそれは、本当に重要なことなのでもないし、それは大人の名誉の為というよりも、もっと根元的に子供っぽい楽しみのようなもののようなのだ。そうしてその気持ちを抑えることが出来なくて、次々にまた登りたくなるというのだ。もうこれは無茶苦茶という気もするが、なんだかとても素直に羨ましいかもしれない。怪我をして不自由になりながら、しかし確かに羨ましい人というのは、失礼ながら世の中にはそんなにたくさん存在できない気がする。そのように思ってしまうほどの純粋さがあって、それが素直な気持ちで理解を越えている。もの凄く正直に素直に言ってしまうならば、凄すぎてとても追いつけないという感じなのだ。まったく凄いとは、そういうものなのである。
 山登りの人の気持ちは、僕には一生分からないかもしれない。しかしそこには山があり、登る人がいる。そうしてそれによって、あるいは命を落とすかもしれない。これまで僕は事故で救助隊などが出動するニュースを見ていると、そのために税金が使われているとなどの現実があることから、非難的な考えも持っていたかもしれない。しかしそれはそれで、彼らの行動にも合理的な理由はちゃんとある。身勝手だと外から考えるほど、単純じゃない理由がある。いや、それは理由なんて邪(よこしま)な考えということも超えているような、人間が生きているという証のようなものかもしれない。理解できない人がいるとしても、それはちゃんと人間がもっている感情なのだ。
 人間が生きているというのは、本当に不思議な感覚かもしれない。著者のような人がいると、なんだか生きていることが分からなくなるようだ。
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日本橋歩いた

2017-05-24 | 散歩

 会議までの時間が少しあって、比較的ご近所の日本橋に行ってみた。



 銀行発祥の地とかうろついて日本橋どっちだったかな、と探して歩いた。そうして東京証券取引所見つける。警備員さんがちゃんといる。




 先に行くと小さな神社があった。兜神社。スーツ姿の若い女の人が先に熱心に手を合わせていた。











 やっと渡れる橋を見つけたが、江戸橋というらしかった。まあいい、わたっちゃえ。



 突如新しめの神社。けっこう写真機持っている人がうろうろしている。福徳神社、って書いてあったみたいだ。



 今回それなりに驚いたのは、何年も前に来た時とは風景が違う感じなのだ。お店が多くて少しおしゃれな感じの人が買い物したりしている。近くに三越があるからこのあたりも店がおしゃれになったんだろうか。



 貫禄ある立派な建物。




 お向かいに、三越。これも立派な感じだよな。



 これ、日銀だったんだ。警備の人が、若い学生のようなリュックをからった職員さんに敬礼していた。あの兄ちゃん偉かったのかな。






 これは見おぼえある三越。二十年以上前に父と買い物に来たことがあると思う。



 で、今度はすぐに日本橋道見つかる。装飾品は立派だけど、なんといってもその上に高速道路高架橋がかかっていて、複雑なごちゃまぜ感。変わらんと言えばそうなんだが。








 
 水天宮さんが見えて。雨がポツポツ。





 ちょっと歩いて人形町。雨がひどくなってきたよ。




 駐車料金も違うなあ。車社会とは別の方向性なんだろうね。




 突き当たって明治座。中身は特に興味なし。でもこんなところにあるんだな。












 クジラも見っけた。






 東京証券取引所に戻って。




 駅そばは工事中。また来るときに楽しみに。







 その後はロッカーにあづけた鞄には傘が入っておりました。息子が旅行で使ったのをおさがりでもらったそうです。ちょっと派手だけど、役に立ちます。




 散歩も終えて話し合いも終えて、ちょっと懇親会も終えて、ホテルに帰って来た。





 コンビニの酒を飲みながらテレビ見てたら、田原総一郎さんが老人の性の問題で発言してた。本番以外どんなことするの? とか、妻が拒んだら風俗行っていいのか? 問題など、危なく切り込んでいた。よく知らなかったけど、宋美玄さんという医者が上手く答えていたと思う。最後は皇室典範問題に脱線し、番組終了。こういう生放送なら楽しいですね。




 という訳で、続きます。












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残業なしは実現できる!?

2017-05-23 | culture

 SCSLという会社がある。IT企業らしい。いわゆる業界的には長時間労働が当たり前で、実際そのような会社だったのだが、残業を減らしただけでなく、有給休暇も100%取得でき、社内の福利も充実した会社で、業績も落ちてないのだという。ここまで来ると、普通の日本人の感覚なら、何かカラクリがあるのではという疑問を覚えるのではあるまいか。それは普通に考えてちょっと無理がありそうで、何か大きな嘘をついているだけではないのか。しかしながらその感覚は、やはり日本の商慣行や文化などに照らし合わせて感じるものであって、外国人ならどうなのだろう。
 面白いのは、そのような取り組みを実行したという元社長で、今は相談役の仲井戸信英さんという人のようだ。先の勤め先であった商社では、新入社員時代から有給を先に取り、必要最小限の残業しかせず(奥さんが前から早い時間に帰って来ていたと証言していた)、接待があっても二次会には出ない(お酒はあまり飲まないようだ)で帰る、というような人だったらしい。当然先輩たちからは生意気だとひどく叱られたが、そのことが何故悪いのか、と言い返すような人のようだ。さらにそのために結果はちゃんと出す(または、出せたということだろう)。
 親会社から子会社のIT企業へ天下って社長になったということだろう。そこでブラック体質の現状を知る。しかしながらそれでいいとはとても思えない。健康でなければ働けないのは間違いないことではないか。家族に手紙を書き、会社として社員の健康を考えていることを伝え、協力を求める。社員には効率を求め、会議は立ったまま、最高でも一時間。レポートは一枚にまとめる。など。そして何よりも、残業をしなかったら、していない人にはボーナスを増やす(要するに残業代の支払いをしない分を還元するということらしい)のである。健康チェックをして、毎日一万歩歩いたり、歯を二回以上磨くなどしたら、やっぱりボーナスポイントが上がる。禁煙成功出来たら報奨金が出る。勤務時間に社内のマッサージルームを使うこともできる。ちょっとおせっかいな気がしないではないけど、面白い。さらに関連会社にも、無理な発注をしないで欲しいとか、社員の休みに理解を求めている。そこまで来ると、なんなんだこれは、という感じか。
 当然利益が出ないことには、業績が良くないことにはそんなことは出来ない。さらにそういうことで他の企業との競争にも勝てるのか。しかしながらもともと日本の企業というのは、生産効率がものすごく悪いことで知られている。単に外国企業並みに効率が良くなっただけなのだろうか。
 いろいろと考えさせられるのだが、素晴らしいと思うのは、残業を減らすという掛け声だけでなくて、システムとしてインセンティブを上手く使って実効策を練っているという点かもしれない。最初は社員の方が、そんなことは無理だと思っていたらしいが、しかしいつの間にかできるようになっていったという。そうして当たり前だが、家族を含めて今がいいと思っていることだ。
 さて、それでもうちでは無理だな、と思っている人が多いのではないか。特殊な話に過ぎないと思っているのではないか。そういう人が多いのが、日本の会社じゃないか。そうであればあまりに残念だ。そして残念なだけで終わるのは悲しい。政府が政策を練るのにゆだねている会社が多いとしたら、やはり長時間労働は、根本的に無くならないのではなかろうか。
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小さくて巨大すぎる存在、ウイルス   ウイルスと地球生命

2017-05-22 | 読書

ウイルスと地球生命/山内一也著(岩波書店)

 ウイルスと言えば、人間にとって危険なものという認識が一般にはあるのではなかろうか。実際にインフルエンザをはじめ、ポリオ・ウイルスなど、名前を聞いただけでも恐ろしげな印象は消えない(実際恐ろしい)。また牛に感染する口蹄疫や、エボラや鳥インフルエンザも人間に極めて影響の高い驚異のウイルスとして認識されているものと思う。
 しかしながらウイルスというのは、そのような一面性のみで語られるものでは無くて、胎児を守るウイルスがあることもわかっているし、人間の存続には欠かせない存在であることもわかっている。またDNAの中にもウイルス由来の情報がたくさんあり、人ゲノムのなんと9%は、ウイルス由来の遺伝情報であるとされる。進化論では突然変異と経年による環境変化への対応という視点で語られるものであるが、実は進化の中心を担っているのは、ウイルスかもしれない(謎が多すぎるけど、無駄な証拠も多すぎる)。そうすると、僕らが今こうしてこの形でこのスタイルで生きているのは、ウイルス無しにはあり得ないことなのかもしれない。さらに人間より古く30億年前から地球にいるとされる昆虫類は、もっとウイルスとの共存は強固で、ウイルスと共存関係なくして生存がありえないとも言われている。あらゆる生体機能に、ウイルス無しには機能しない道を歩んでいるようなのだ。
 さらに地球環境としてもウイルスの役割は大きい。何故なら地球生命とウイルス研究というのはあくまで人間中心で行われており、人間や家畜周辺のウイルスしか明らかにされていない。様々な生命と関係を持っているウイルスの主な舞台は、実は海水の中にあるとされ、海の中の生物においても、重要な役割を担っていることが徐々に明らかにされている。海の中にいるウイルスは莫大な数になり、そのウイルスの働きによって大気に占める二酸化炭素の量も、左右されていることが分かってきている。地球の長期的な運命ですら、ウイルス無しに語ることは困難なのだ。
 ブックレットのような薄い本だが、内容はなかなか刺激的かつ啓蒙的だ。恐ろしいものを避けるだけの近視眼的な見方から、肉眼で見えないながら日常的なありふれたウイルスを知る為にも、もっと手に取られていい本である。
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滑空だけじゃないエゾモモンガ

2017-05-21 | 雑記

 滑空する動物はそれなりにいる。木から木へ飛び移る際に空気抵抗を利用して、あたかも飛ぶが如く空中を滑空する。羽ばたかないので飛んでいる訳では無いが、緩やかに落ちるというか、空中で体をコントロールするというか。
 その中でも顔がかわいいので特に人気が高いのが、エゾモモンガではないか。主に夜間活動するためか目玉が大きく、体長も15センチほどなので森の妖精などとも言われている。基本的に木の上で生活しているが、木の実などをあちこちに貯食する習慣があることも知られている。北の厳しい寒さの中で長い冬を生き延びるために、非常に賢い生き方をしている種なのである。また天敵も多く警戒心も強い。木の穴などに根気よく隠れるなどして身を守られねばならない。
 基本的には夜間活動するのだが、寒さが厳しくなると日中餌を探すようにもなる。夜間は何もかも凍りつく世界に変わるので、シフトを変えるのかもしれない。また一つの穴に数匹集まることもあり、二匹で入っているからといって必ずしもツガイでない場合も多い。オス同士メス同士も関係が無い。それだけ冬の寒さは厳しく、互いに温めあわなければ生きていけないのかもしれない。
 メスは年に一日だけ交尾が可能になる。その時期が近付くと周りのオスたちは大変なことになるが、その日になると、昼夜関係なく何度も交尾を繰り返すという(スゴイ)。
 しかしながら過酷な環境に生きる姿を考えるとき、その可憐な見た目とは裏腹に、非常に逞しい生き物であるという見方もできる。もっとも野生生物というのは、多かれ少なかれそういうものではあるのだが。
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昔の男の声を聞きたいか?   アーティスト

2017-05-20 | 映画

アーティスト/ミシェル・アザナヴィシウス監督

 モノクロ。それに大部分がサイレント。しかし2011年作。仏映画。ただし役者さんはハリウッドの人も多いし、舞台もハリウッド。時代設定はおおむね1930年前後。サイレント映画からトーキー映画へ移行する、まさに過渡期の時代らしい。
 サイレント映画の俳優バレンティンは、飛ぶ鳥を落とす勢いの大スターだ。街角で記者に囲まれて映画の宣伝をしている時に、一人の客に紛れた女優志望のファンと会話する。そのことから知り合いになり、二人はほのかな恋心を抱くようになる。ヴァレンティンは主役、ペピーは端役で共演したりする。
 その後時代は急速にサイレントからトーキーへと映画作りそのものが変わっていく。サイレントスターのヴァレンティンは、どうしてもサイレント映画にこだわり、トーキーには未来は無いと言い放ち、渾身のサイレント作品を主演監督とこなし世に問う。一方ペピーの方は、エキストラ、踊り子役の端役、ウェイトレスなど、ほんの些細な役から徐々にスターの階段を上り、ついにはヴァレンティンの自信作にぶつけられる対抗馬の映画の主役にまで抜擢される。新旧の時代の象徴的な出来事と、個人の思いの皮肉なぶつかり合いになるのだった。
 基本的に非常によくできた現代映画。昔の映画であるというのを、改めて俯瞰して眺めることができるし、その当時の時代の思いというのも、概略して見て取れる。サイレントとトーキーの音の使い方を感情表現も上手くいっている。さらに犬の演技も見もので、これが無ければもっと暗く分かりにくい内容かもしれない。
 ただし、僕は主人公のかたくなな悲しみについては、ほとんど共感できないタイプの人間だ。病気なら仕方ないが、要するに駄々をこねて甘えているだけのように見える。火事にしても放火だし、とことん自己中心的で救いが無い。批判する相手のこともよく理解してないし、勝手に自分についてくる人間がいると決めてかかっている。自分が攻撃を受けている訳でもないのに、相手には攻撃を仕掛ける。これが無ければ映画的には盛り上がらないというのは、演出的に分かるとはいえ、これが引っ張られ過ぎて、後半ギリギリまで、かなり精神的に冷めてしまった。こういうところは、西洋人はしつこいところがある。もっとも日本だったら、とっくに死んでたかもしれないけど。
 そういう嫌な部分はあるにせよ、恐らく一般的な人にとっては、充分に楽しめる傑作だろう。英語中心の映画であるが、英語圏以外の人間でもこんな映画を作ることができるという、まったく見事な作品であった。
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笑いを求めているからこそ

2017-05-19 | ことば

 僕は基本的に絵文字を使わない。特に信念があってそうしているという意識は無い。しかし、今後もたぶん使わないと思う。使っている人を批判するつもりはないけれど、それはスタイルのようなものかもしれない。
 厳密には絵文字以前の問題だが、一時期、(笑)というのがついた文章がやたらに増えて、これは意味は分かるが、なんだろうという違和感が消えなかった。インタビュー文なんかが始まりだったと思うのだが、実際に受け答えのどちらかが笑ったという場合や、冗談で強く否定するような場合の語尾に(笑)がつけられている。漫才なんかの影響なのか、「何言うとんねん(笑)」というような文章がやたらに目につくようになった(中には(怒)というようなのもあるが、これもなんだかな)。紙面の字数制限でもあるんだろうか、などと最初は思っていたが、どうも違うらしく、そう表現しないと、冗談であることに気づかない人への配慮みたいな考えがあるらしいことも、薄々気づくようになった。ある意味で親切なのかもしれないが、人によってはおせっかいかもしれない。
 単なる保守的な感覚かもしれない。普通の文章にそれは無い方が自然じゃないか。しかし、それは思い込みのようなものかもしれないし、事実あるものを使えないのは不自由かもしれない。学術論文のようなところではあり得ないかもしれないが、論文を書いている訳では無い。特にブログの世界では、そのような自主規制なんて何の意味も無かろう。実際たまにコメントを下さる人の中には、(笑)のようなものが無いために文中の一部で冗談を理解せずにお怒りになる人もおられるようだ。よく読めば分かるはずだというのは書いているこちら側の思い込みで、単に分かりにくい配慮の足りない、さらに文章力が未熟なだけの誤りかもしれない。それでも改めないのであれば、単なる傲慢である可能性すらある。
 使わないと言いながら、今回は使っているじゃないか。本当は使いたかったんじゃないか、という意見もあるかもしれない。説明のためとはいえ、ルールは厳格じゃないし、簡単に破ってもいいものかもしれない。
 でも子供の頃に読んでいた北杜夫とか遠藤周作とか、あれはユーモア文という感じもあったけれど、そういうのを読んでクスクス笑っていたものである。文章を読んでいるというのは、(笑)が無くてもにじみ出てくるおかしみで十分なのではないか。さらに硬い文章のようでいて養老孟司のような人もいる。ツボにはまるとゲラゲラ笑いながら読んでしまうが、これが分からない人がいるらしいのも分からないではない。こういうのは分かるのが当たり前だと思うものの、(笑)が無いからこそ笑える名文なんだと思う。養老さん流に言うと、まさに他人の事など知ったことでは無いというべきか。
 という訳で、お笑い文を目指しているからこそ越えられない、一線のようなものなのかもしれない。
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悔しい感情が人を育てる   響け!ユーフォニアム

2017-05-18 | 映画

響け!ユーフォニアム/石原立也監督

 副題に「北宇治高校吹奏楽部へようこそ」とある。さらに劇場版、とも断ってある。要するにテレビアニメとして放映された作品のダイジェスト的なつくりでもあるのかもしれない。
 久美子は中学の頃にも吹奏楽部にいたが、同校からの進学者が少なく何か気持ちをリセットするような気分と制服が好みであることから、北宇治高校へ進学する。そこの吹奏楽部のレベルは、全国レベルからすると今一つ。入部するかどうかさえあいまいな気持ちでいたが、なんとなく流れで入部した。しかし、一緒に入部した仲間には、中学時代も同じだった、トランペットの麗奈がいた。最初はコンテストに対してもそれほど前向きで無く、演奏にも自信のない吹奏楽部の部員たちだったが、滝先生という不思議な説得力のある、しかも厳しい指導もあって、それぞれが本気で実力を上げて、全国大会を目指すようになっていくのだった。
 部活としての吹奏楽部内においてのヒエラルキー。音楽に対する個人の向き合い方。学年によって、部活への思い入れの違い。恋愛少し。人間が本気で何かに打ち込むということ。そうして様々な思いが一つになるということ。それらのエピソードが、見事に描かれていると思う。日本の部活にありがちな全体主義ではなく、個人が切磋琢磨しながら、それでも根本的には自分というものをいかに磨いていくかということを、音楽を通じて理解できるようにしている。今までのスポ根ものにあった単純さではなく、何か心の中のどろどろしたようなものも含めて、青春だったり音楽だったりするということのように思える。はっきり言ってなかなか素晴らしい演出ではないか。まあ、漫画の絵的には、ちょっと男性視点が多すぎるように感じはするけど。
 しかしまあ、個人的には、僕は学校が嫌いだったなあ、ということは思い出した。部活がどうだというより、誰かをどうしたいというような妙な友情や、さらに噂話や妬みというのがいつまでも尾を引く。実社会だっておんなじようなものだとは思うが、少なくとも学校社会のようには、めんどくさく無くなった。ひとの噂にしても、聞かなければ聞こえてこない。皆大人になれば学校に戻る必要も無いのだろうが、これは本当に幸福なことだな、と思う。もちろん学校が好きな人は行けばいいだけのことである。道が分かれるというのは、人間に必要な生き方なんだろうな、と改めて思います。
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日本人はエロに鈍感なのか?

2017-05-17 | culture

 外国人の疑問の中に、日本人は人前でも平気で助平な本(雑誌など)を読んでいる、というのがある。人前でキスしたり抱擁したりすることが出来ないくせに、どうしてポルノに寛容なのか? という。コンビニなんかには窓の外に向けて、平気で艶かしい半裸女性の写真などが表紙になっている雑誌が並んでいる。見ようによっては、誰でも見える場所に平然とエロがあふれているということらしい。
 昔の人、といってもかなり昔で明治くらいかもしれないが、その当時の人というのは、文章を読むのは音読が基本であったらしい(これは事実らしくて、要するに漢文読み下しのような訓練を積んだ教養人ほど、声に出して読む習慣が強すぎて、黙読が出来なかったという。現代人には理解しにくい話だが、そのような事実を伝える文献はたくさん残っているという)。それで爺ちゃんが雑誌などのエロい文章を大声で読むので、近所に対して恥ずかしいという笑い話がある。というか、当時はあったという。
 さらに時代を遡ると(江戸末期など)、日本人は裸に寛容であることに日本に来た多くの外国人が驚いている。通りで若い女性が胸をあらわに行水していたり、外国人が通るというだけで風呂に入っている人が裸のままやじ馬で集まるなどしたらしい。今でいう銭湯のような場所は、当然のように混浴であったというし。
 今は平成になって久しいが、昭和の途中くらいまでは、女性はスカートがめくれても特に恥ずかしいと思っていなかったということを、井上章一が文献をもとにして証明したこともある。要するにスカートがめくれて男が興奮するというのは西洋人の文化だったが、日本の西洋化に伴って日本の男も変化したために、それにあわせて日本の女性に羞恥心が目覚めた、という変遷があるようだ。しかしながら今の女性も本当に恥ずかしいと思っているのかどうか、中には怪しい人もいるようには思う。思うがそれが本当か、それは僕には分りません。
 そんな昔のことは知らん、という意見もあろうが、要するに性的な露出について、もともと日本人は寛容であったという可能性はある。可能性はあるが現代は違う。違うようになりながら、一部はまだ本当には西洋化してないのではないか。そういう可能性もある。
 子供の頃には深夜番組のエロというのは普通だったように思うが(今もあるのかもしれないけど、これも良く知らない)、今は自主規制が厳しいという話も聞いたことはある。しかし西洋諸国では、子供が寝る時間を過ぎると、普通にテレビはエロ化するという。ハロウィンだって子供が寝た後にはコスプレになって大人の時間になるというし、そもそもエロの文化というのは国によって違いがあるというだけのことかもしれない。日本に来た西洋人がびっくりするというのは楽しいことかもしれないので、特に今のままでいいじゃないでしょうか(多少個人的な希望もあるかもしれない)。
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