先日映画を観ていると、映画館で映画を観ていて泣いている男が気になって、隣に座って来る優しい女性と、いわゆる好きになってしまうという展開があった。泣く男が魅力的なのかどうかはともかく、見ていて感受性の強さのようなものを感じる時には、いわゆる共感や興味を引くものがあるということなのだろう。
僕なんかもテレビなどを見ていても、ある物事に感極まって泣いている人を見るだけで、感化されて泣いてしまうことが多い。僕自身が悲しい訳ではないのだけれど、そのような感情に襲われている人を見ていると、思わず泣けてきてしまうのだ。そういう気持ちになっているだろうその人の心の内を考えると、僕の方も気持ちがいっぱい一杯になるというか。もうたまらないから泣くのをやめてくれ、と心の中で叫びたくなる。叫びはしないけれど。
震災で被災されて、生活の困難に陥っている人もたくさん居られることだろう。そのようなことを考えると、なんとかならないものかと気をもむことになる。そうしてそういう人たちを現地で実際に支援しておられる多くの人々がいる。テレビでしか知り得ない、そういう人たちの話を聞いていると、やはりなんだかこみあげてくるものがある。一所懸命にやっているにもかかわらず、十分な支援がなしえていないというようなことを、悔しい思いを抱きながら、それでも目の前のことに取り組み続けている。その姿もさることながら、その時の言葉を聞いていて、たまらない気持ちになってしまうのだ。自分自身も何もやれていない無力感もさることながら、その前線で活動しておられる人であっても、そのような想いがある。やってない自分がそんなに共感したところで何もならないのだろうが、やっている人間の悔しさが伝播してくるような気がするのかもしれない。あんまり感情移入してしまいすぎると、そのことが頭を離れなくなって困ってしまう。そうだけれど、時間がかかっても、まだ支援が途切れてしまうことの方が恐ろしいことになるかもしれない。災害復興の息の長い支援の在り方は、本当に難しいものがあるのではないか。
老人ホームに入りながらも、いまだに執筆をつづけているという筒井康隆が出ていた。今も話題作があるものらしい。僕も若い頃には彼の作品をいくつか読んでいた。最初は懐かしいな、というようなつもりだったのだが、筒井の一人息子が亡くなっていたことを知った。そのことについて筒井が、なんでそんなに残酷なことを自分に強いられなければならなかったのか、というようなことを言っていた。失礼ながら、筒井と言えば若いころからの流行作家で、本人の才能もあろうけれど、いわゆる作家としても、大いなる成功者ではないか。そういう大が付くような作家にあってなお、晩年には一生分の哀しさを背負わされている。確かに人生は残酷なものかもしれない。過去を振り返って悲しさのウェイトが占める部分が大きければ、それはいったいどんなものなのだろう。そういうことを、どうしても考えざるを得ないのだった。