カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

超人すぎて共感できない   MILE22

2021-12-31 | 映画

MILE22/ピイーター・バーグ監督

 主演は、マーク・ウォールバーグ。特殊捜査に当たる人間としては能力が高いものの、いつもイライラして社会適応性の低い人間を演じている。だいたい眉がつり上がって緊張しているような面構えなので、そのまま演じているというかんじだけど。とにかく戦争でもないのに銃を乱射して、たくさん人が死ぬ。スパイというか、謎の人物を救出したりして、スパイサスペンスとアクションがいつまでも続く展開。緊張感はあるけど、人の命って何だろうな? という感じにはなる。もちろん味方の人間が亡くなるときは、急に人の命の価値が若干高めになるけれども。テンポが早くてなんだかわからないところもあるけど、分かったところでいったいなぜそんな任務が必要なのか、またはそういう必要が今あるのか、やっぱりよく分からなくなるに違いない。アクションのための設定映画なのだろう。
 ただし、謎の人物を演じるインドネシア出身の俳優イコ・ウワイスの動きはなかなか良かった。こういう雰囲気のアクションスターはあんまり見たことが無いので、新鮮味があるのかもしれない。
 また、特殊任務を支える裏方の動きが、無線を通じていろいろな操作をパソコンで処理し、まちのインフラを自由に操作してしまうという魔法を使う。これが凄いと言えばそうかもしれないが、どうにもなんだか納得がいかないところもあった。これだけのことができるのならば、あんまり人間を使わなくてもできることがたくさんあるんじゃなかろうか。どうしてもそう考えてしまうのだろう。万能すぎるくせにやられるときにはあっさりの多くの人間が犠牲になってしまう。もともと能力が低かったのではないか、という疑いさえ持ってしまった。
 多少辛口になってしまうのは、やはり全体的に作り物感が漂ってしまうせいではなかろうか。ゲームの中のようなスリリングさを実写の人がやってしまうと、かえってリアルが損なわれる場合があるのかもしれない。凄すぎて信じられないのだ。漫画だと凄すぎることだからこそいいところなんだが、生身の人間が動く場合は、それなりに生身らしく弱点があった方が、共感しやすく燃えるものがあるのかもしれない。
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本当に結末に驚いた   medium 霊媒探偵 城塚翡翠

2021-12-30 | 読書

medium 霊媒探偵 城塚翡翠/相沢紗呼著(講談社)

 普通は本屋で目にしても手に取らないタイプの装丁である。ライトノベル風の女の子の絵があって、その子は不思議な雰囲気で指を立てたまま手を合わせて、みどりの瞳のまなざしでこちらを見ている。これだけでもう絶対手に取る気にはなれない。中年男というのはそういうものである。
 それでも手に取って読んだのは、他でもなくネットで購入することができたのと、まずその前に面白いという評判を聞いたから。厳密には聞いたというより、ある人のブログで結末に驚いたというのを読んで、いつの間にかクリックしていた。ミステリ作品はそもそも好きだが、本格ミステリというのは、時にはミステリのための話になりすぎて、かえって面白くない場合がある。しかしながら、それなりにこなれて作品を知っているらしい人の、この結末に驚いたというのは、どういうことなのか。そういう興味が僕の心をとらえてしまった。
 そうして読みだしてすぐに、なんだか少し不安にはなる。あまりふだんは読まない類の文章で、いわゆるこれもライトノベル風なのではないか。女の子の服装のこととかメイクのこととか、僕にはどうだっていい。さらに彼女は霊媒師で、なんとその霊媒による印象的な映像をもとに、ミステリ作家がその現象を読み解いて事件を解決してしまうのだ。いったいそれはなんじゃそりゃ、という感じかもしれないが、謎解きとしてそれでいいのかは別にして、実際になるほど、と思わせられたりする。確かにそれは見事な推理なのではないか。そうして三つほど謎解きを楽しんで、最終章でひっくり返ってしまった。た、確かに! これはちょっとびっくりである。そうして本の帯に書いてある「すべてが、伏線。」というのに納得がいく。これは様々なミステリ大賞で一番になるはずである。なるほど、そういうことなのね。
 という訳で、本当にしてやられました。実をいうと犯人は誰か? というのは、あんがい最終章の途中で分かるはずである。それでいいのかな? と思っていると、畳みかけてしてやられてしまうのだ。なんだかまどろっこしく感じていたすべてが、確かに伏線でありました。そういうことを考えて書かれていた作品だというのは、実に驚くべきことだ。考えてみると、なんとなくとっつきにくいと考えていた世界観そのものであっても、放り出すような気分になれないほど文体も良かったのかもしれない。いわゆる飽きさせない仕掛けがふんだんにあって、それでもびっくりさせられてしまうのだ。僕のようなおじさん諸君にはなじみのない世界かもしれないが、これはもう飛び込んでみてください。溺れるかもしれませんけどね。
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口説くときは飲みすぎに注意しましょう   正しい日 間違えた日

2021-12-29 | 映画

正しい日 間違えた日/ホン・サンス監督

 講演会のためにやってきた町だったが、予定より一日早くついてしまった。寺を散策していると一人の可愛らしい女性と知り合う。そのままいろいろと話をしていて、彼女は絵を描くらしいことを知り、書いたものを見せてもらったりする。夜も食事に行こうということになって、だんだんと気持ちが抑えられなくなっていくのだった。
 ずっと会話をしていて、調子に乗って酒を飲みすぎて、フラフラになって失敗しているように見える。そういう日があって、また同じ設定で出会って飲んだくれる日が繰り返される。同じ日を違う展開で送る男女の恋愛模様を描いているということなんだろうか。いずれにしても、男である僕から見ていると、単にいい感じに思わせぶりな若い女に振り回されて、浮気しようとしている男にしか見えない。
 確かにちょっと映画的でないところはたくさんある。まず映画の科白としては、なんだかかなりまどろっこしい。しかしながら考えてみると、現実の会話というのは、そんなものかもしれない。相手を探るようにいったり来たり。実際何を言っているのかよく分からない。しかしながら時間を共有するうちに、相手の好ましさは伝わるものなのかもしれない。もちろんその逆もあるが。
 酔っぱらわないとうまく相手に気持ちまで打ち明けられないというのは、設定としては分かる。しかしながら僕の性格とは違うものであって、こんなに酔ってまでいってしまうと、もう言わない方がいい気もする。それが制御できない、というのも分かるが、出直すべきである。なんだかやっちまったな、という雰囲気があって、そういうのが映画的にいい、という話なんだろう。芸術というのは、ほんとにまどろっこしいことである。
 邦題の所為なのかは分からないのだが、どっちの話が正しくて、どっちの話が間違っていたのか、そもそも僕にはそれが分からなかった。どっちもかなり失敗したんじゃないか。どっちにも未来はないのじゃないか。そういう夜があったけど、そういう恥ずかしい思い出をもとに、日常に戻るべきだろう。そういう映画じゃないんだろうけどね。
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人が連鎖して壊れていくテレビ業界   破線のマリス

2021-12-28 | 読書

破線のマリス/野沢尚著(講談社文庫)

 テレビのニュース番組の映像編集を行っている瑤子は、その編集能力も高いうえに、映像で事件内容に深く切り込む能力を持っている。しかしながら事件そのものを追う姿勢に、社会の偏見を生みかねないギリギリのことをやりすぎるきらいがあって、人気もあるが危ういのだった。それは放送局内の力関係で生きていく術でもあるが、彼女の性格も大きいのだろう。そういう瑤子に郵政省の内部で起きたかもしれない殺人事件を示唆するビデオテープが、内部情報として託された。警察捜査がまだそこまで行きついていないネタにもかかわらず、瑤子は果敢に疑わしい人物を編集して浮き彫りにさせてしまう。ところがこの男は、実際には本当に犯行と関係あるのかどうか、よく分からない存在だったのだ。
 黒木瞳主演で映画化もされたらしい。実はこれ、だいぶ前に少し読んだ形跡があって、たぶん最後まで読んでなかったのだろう、ほとんど内容を覚えていなかった。そうだったのだが、ある人たちと話をしていてこの本の話題になり、改めて読み直すことにした。感想を共有してみたかったのだ。
 報道番組の編集をする内部のリアルで過激な人間模様を軸に、その中で生きていくために瑤子の過去のいきさつも語られていく。彼女はすでに離婚していて、その理由も夫の浮気という彼女からすると当然の成り行きだったはずだが、仕事との両立を考えて、息子の養育は手放してしまう。そうして放送業界で生き抜くためにがむしゃらに働くわけだが、そのために映像の武器を使って怪しい人間を容赦なく貶めるために、相手からも猛反撃を食らうことになる。そうして人間自体がどんどん壊れていくような話なのだった。
 正直な感想を言うと、犯人が誰なのか大いに推理を働かせる物語だと思っていたのだが、実際はそんなことはなく、それよりもサスペンス・スリラーとして過激な話になっていく様を描いた作品と言っていいと思う。読みながらこれは推理としてはどうなのかな、とかなり不安になった。いわゆるネタばらしのような人間像は先に描かれているので、加速する方向性に違和感があるのだ。そうして主人公の女性像というのが、なんだか男が描いている女性像にしか思えないところがある。本人の感情に、理屈での割り切りが早すぎるきらいがある。ふつうはそこでもう少し逡巡を繰り返すものではないかという疑問が、最後までついて回った。そうしておそらく、いくら狂気に染まっていったとしても、自分を貶める映像元のトリックも、ちょっと納得がいきかねる気がするのだ。まあ、読んでもらわないと言えないことだが、この頃はそういう動きのある小説が求められていたのだろうか。
 ということだが、読みだすとその流れに沿って読めるので、文章の力は強い作品だと思う。いわゆるエンタメとして上手いのである。残念ながら著者は現在故人であるが、こういう作風なら売れ続けることができるという納得感がある。さて僕は、感想会でどう話すことになるんだろうか……。
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犯罪者は怪我しても休みなく働く   パーカー

2021-12-27 | 映画

パーカー/テイラー・ハックフォード監督

 パーカーは主人公の名前。ジェイソン・スティサム主演のアクション・スーパーマン映画。悪人チームで遊園地の売上金強盗を成功させたものの、次の大きなヤマを狙ってこのまま一緒に組もうとパーカーに持ち掛ける。彼らの仲間の一人の行動に腹を立てていたパーカーは、無碍もなくこの計画を断る。しかしそれを裏切りと捉えられ、撃たれて車から放り出される。結果的には瀕死の重傷を負い、どういう訳か奇蹟的に助かる。しかし、わけまえの金は奪われているわけで、彼らのグループへの復讐を誓う。そうなのだが、彼らは単独の犯罪グループではなく、彼らの一人は仁義なき凶悪なマフィア組織の親戚の人間だった。パーカーはマフィアの強靭な殺し屋とも戦いながら、自分の仁義に架した困難なミッションを果たそうとするのだったが……。
 強すぎてハンディ・キャップが必要と考えたのだろう。主人公はやたらと怪我をしまくる。普通に考えると、戦闘途中に大けがを負うこと自体致命的で、このような命がけの行動をとる鉄則にかけるとも思われるが、観ている側からすると、これがとてつもなくスリルを感じさせられる仕掛けになっている。とにかく痛そうだというのはあるんだけれど、まあ、マゾなので仕方ない。いや、マゾではないのだが、マゾ的なのだ。
 仕事をやる準備段階で、次々に犯罪を重ねながら行動していくわけで、車を盗むのは比較的簡単に順番にやっていっているのだが、調べたり、捏造したりする足跡をたどられることはあるわけで、そういう接点で度々危機に瀕する。まあそれくらいでなくちゃ面白くないというのは分かるけれど、途中で奇しくも相棒にならざるを得ない女性との関係は、自然に悟られたという点では、行動の汚点のようなものではなかろうか。こういうアクションに色を添えて盛り立てるためだったとしても。
 ともかく盛沢山に面白さを詰め込んだという感じで、犯罪の手口をはじめ、さまざまなサスペンスが味方にも敵にも襲ってくる。人はたくさん死ぬが、ものすごい怨恨を残すような感じではなく、平和といえば平和である。警察だけは、周りで派手に騒いでいる割には、なんとなく影が薄いだけで。
 こういう映画は、いったん頭を空っぽにするというか、思考をあまり働かせずに見るための映画なのだろうと思う。実際面白いし、痛そうだけど結果的に強靭な人間にとってのダメージなんてたいした事なさそうだし、観ているこちらが呻きながら耐え忍べばいいのだ。
 それにしてもこれくらい稼いだのだから、もう仕事はやらなくていいんですよね。しかし待っていたら、追ってくる人もいるだろうし、観ている人の期待もあるから、仕事しなくちゃならないんだろうな。お疲れ様です。
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大分朝散歩

2021-12-26 | 散歩
 最近は朝は抜くようにしてるんですが、そうするとなんとなくだらだらしてしまって、ちょっと遅めにホテルを後にしました。


 あの金色の集団はなんだ?


 ラグビーのワールドカップが大分でも開催されたことを記念して、作られたものだそうです。先頭の人にちなんで、ライオンマンと言われているようです。
 なかなか不気味でいい感じです。


 大分城址が見えてきた。


 お堀の中ではアオサギが魚を狙っている様子でした。


 木下郁 上田保 先生像。 県知事なんかをした人たちのようですね。


 そこから見える大分県住宅供給公社の建物。こういうの大好物です。古くてかっこいいな。


 でも近づいて裏か見ると、たいしたことなかった。


 時計台のある家。残念ながら時間合ってませんでしたけど。


 こういう側溝溝が好きなんですよね。いい感じです。



 あっちに抜けていくわけね。行先知らんけど。


 長浜神社。婦人病平癒などのご利益があるとか。僕に関係あるんだか無いんだかよく分かりません。



 牛もいた。もう一頭境内にいたけどマスクしてて、そうして目の前に僕を見ているおじさんがいたんで、なんだか写真撮りそびれてしまった。


 あれ、行き止まりかな。と思ったら小学校がありました。


 脇道があってよかったよ。


 来迎寺。


 そのまた前にも寺。万寿寺。


 禅寺らしいですね。


 こういう寺町の近くには、やっぱり小さい路地が在るもので……。


 しばらくぶらぶらいくと、大手町通りに出てきました。ここまでくると計算出来てきますね。


 ふと見ると、ビルの上に何かあるな。


 なんかの宗教なのかな? 


 ここまでくると、まだバスの時間まで間があることが分かりました。


 でも無茶苦茶余裕があるわけでもないので、やっぱりこの辺りをひとまわして散歩終了。バスに乗り込みました。


 帰りの由布岳、少し雪が降ったあとがありました。


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滑ってんだか煽ってんだかよく分からん   音量をあげろタコ!何歌ってんのか全然わかんねえぇんだよ‼

2021-12-25 | 映画

音量をあげろタコ!何歌ってんのか全然わかんねえぇんだよ‼/三木聡監督

 ヘビメタバンドのカリスマ声量を誇るボーカルのシンは、しかし声帯ドーピングをしており、のどに注射を打ちながら雄たけびを上げ続けるライブを行っている。一方ストリートで自分らの歌を伝い続けている声の小さいシンガー「ふうか」が普通に歩いていると、暴走が止められないシンと出合ってしまう。連れて行った病院で様々な秘密を知ることになるが、最初のころは病院に運んだ男がシンであることに、ふうかは気づいていなかった。シンはふうかの歌声の小ささに自信のなさや言い訳ばかりの人生であることを見抜き、なんとか大声で歌えるように促すようになる。一方シンの声帯は限界にきており、ライブで口パク疑惑が持ち上がったり、実際にコンサートをキャンセルして莫大な損失の穴をあけるまでに陥ってしまうのだった。
 後半は何と韓国に行くことになって、そこで大きな転換点を迎えることになるのだったが、それはどうやらふうかの過去とも関係のあることであるらしく、しかしそのカルトな感じにさらに火がついてお話が混乱していく。
 ハマればそれなりについて行ける三木監督作品にあって、ついていくのが少しつらくなってしまう展開かもしれない。もともと唐突感があって、やや滑っている感じのままゆるく笑いを取りながら前を向いていくスタンスの映画が多いのだが、最初からぶっ飛んで滑っていくので、一瞬脳内から消えてなくなってしまう時間ができてしまう。これはもうそういう映画なんだと割り切って観ているはずなんだが、滑っていく先がなんだよく分からなくもなるのだ。
 これまでにも三木作品に出ていた人たちもでていて、学芸会的なノリもあるが、よく考えてみると、予算的に少し豪華作品になっているのかもしれない。ヒロインが悪いということは無いが、このような天然の人たちばかりに囲まれてしまうと、実際には天然ぶりもあるのかもしれないが、そういうところがかき消されてしまうようにも感じられた。出ている人たちを選ぶ映画なのだ。やっぱりそういうのを差し引いたりつけ足したりして、自分なりに楽しむよりないのだろう。疲れました。
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ひさびさ大分市

2021-12-24 | 散歩
 (※実際の日時はひと月近く前のことです。ブログの記事が多すぎて、後回しになってしまいました。というか、もともと僕のブログは時系列でなかったりしますので、悪しからずご了承のほどを)
 久しぶりのリアル出張。高速道路の県外移動も久しぶりって感じです。



 それなりに車も増えているような感じもありますね。一時期は少なかったはずだという、勝手な印象に基づくものですけど。




 この日は、あんまり天気が良くなさそうだったんですよね。


 で、やってきたのは大分市内。中央通りで降り立ちました。ここも久しぶりで、懐かしや~って感じなんですよ。雨が降った後はありますが、ちょうど止んでて助かりました。前の晩にコンビニで折り畳み傘買ってもらってたんで、心に余裕もあります。


 有名な大分銀行赤レンガ館。大正時代の建物なんだとか。東京駅みたいなデザインですが、それもそのはず、同じ辰野金吾の設計なんだそうです。


 ガレリア竹町。江戸時代から賑わっている通りなんだとか。変遷はあるんでしょうけど広く立派です。


 大分市内にはあちこちに彫刻があるのです。そういう芸術にふれる精神をもって配置されているということらしい。で、「レオタードの女」。うん、そうですか。


 一度宿泊予定のホテルに荷物をあづけることにして、ちょっと時間があるんで歩くことにします。


 都町は、夜の繁華街なんで昼間はほとんどの店は閉まってるんですが、そういう昼は目覚めてない感じの場所は、歩くにはいいんです。壁にヒョウだかライオンだか分からないのがいたりします。


 前に来た時朝散歩してたら、ここらの通りに高校生くらいの生徒さんがたくさん通学で歩いてて、ちょっとびっくりしたことがあります。学校への通り道に夜の街ってのがちょっとシュールなのかもしれません。まあ昼間には車も少ないし、安全なのかもしれませんけどね。


 何やら芸術的な人が集うのだろうか? 変な顔の人たちが待っているようだと、なんだか嫌だな。


 まちの案内版も芸術的です。


 とにかくでたらめに歩きたかったんで、目標にしていた建物。近づくとパチンコ屋さんみたいですね。


 なんとなく道が盛り上がってるな、と思ったら橋が架かってまして、住吉川というのが流れてました。



 住吉川改修記念碑。もうちっと説明書きが欲しいな。


 あんまりきれいな川ではないようだけど、暗渠にせず残したんでしょうね。海も近いようだし、何か防災上の意味があるのかもしれません。




 ちょっと歩いていくと念記ってのがあって(後で気づいたけど、記念と読むのかも。それだけ古い?)、大分市が東九州の要衝の地であることとかが書いてあるようでした。確かにおっしゃるとおりでありまして、ここらあたりから瀬戸内方面へ抜けていく航路が歴史的に重要だったことは間違いありません。


 川なんで蛇行して海まで通じているのでありましょう。



 川とは違って人間の作る道はまっすぐに行きたい気持ちが現れております。



 でも何となく曲がった道になるには訳がありまして、それは人間なりの無秩序と歴史の所為というか、予感がします。


 大分念法寺。朱色でちょっと変わってますね。




 さて、時間的には戻らねば。その後は会議でありました。


 そして夜にはフグいただきました(写真はキモです。僕は今も生きてます。たぶん)。



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漫画が実写で漫画的だ   シティハンターthe movie史上最香のミッション

2021-12-23 | 映画

シティハンターthe movie史上最香のミッション/フィリップ・ラショー監督

 原作は漫画やアニメで知られているはずだが、なぜか実写はフランス映画である(そこのあたりのエピソードは面白いが)。邦題の「最香」は「さいこう」と読むのだろうと思う。内容とも関係があって、ある香水を使うと、それを嗅いだ相手が付けている人間に恋をしてしまうことになる。48時間以内に解毒の香水を使わないと、それが永遠になり取り返しがつかないことになる。という設定。そうしてこの香水をめぐっての奪い合いの攻防が、基本的なお話の筋だ。おなじ香水の成分なのに、つけている方とつけていない方の嗅ぐ立場で作用が違うのかの説明は怪しいが、ともかくこの設定のためにいろいろと面白いことになるわけである。
 漫画的に大きなハンマーが出てきたり、お色気女性にデレーッと鼻の下が伸びたりなどの演出が満載なのだが、これがフランスの役者さんが演じていると、ちょっとそんなに違和感の感じられないものになっている。スゴイ。浮気ばかりされる立場のカオリさんという女性であっても(死んだ親友の妹で、意識してないという立場ながら、本当は好きあっているらしい)、フランス女優さんだとその激しさも含めてよく似合っている。リョウが振り向い時には十分に女っぽく可愛いからであろう。
 基本的にはドタバタ・コメディがずんずん進んでいくのであるが、そういう話が壊れることも無い。一定の緊張感のあるスリルもあるわけで、ジェットコースター・ムービーと言っていいかもしれない。漫画で見たようなギャグも混ぜながら、そんなに違和感なく最後まで行けるだろう。最初は青いジャケットまではやりすぎじゃないかと思っていたが、観終わるころにはすっかり似合っていると認めることができた。これはもう、この作品に対する製作者の「愛」なのであろう。娯楽作なのだから、こういうのを王道作品といってしまおう。
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今年は古くて新しい人が多かった(音楽)

2021-12-22 | 音楽

 今年のことだったか記憶があやふやだが、最近ドゥービー・ブラザーズの新譜が出て驚いて聞いてみて、その古めかしさも日本の歌謡曲っぽさも屈託がなく、呆れてしまった訳だが、そういえば今年はだいたいにおいて古い人がたくさんまた出てきたな、と思ったのだった。
 まず、ポール・ウェラーが新譜を出していた。この人は元々むしろパンクでは無かった人だというのがよく分かる感じで、まあ、好きなことをまだやれるしメロディは綺麗だし、いいのである。あんがいコンスタンスに曲は発表しているポール・マッカートニーも良かった。なので本当に驚いたのは、マイケル・シェンカーだった。まだ生きていてのか! とも思ったし、借金は返したのだろうか? とも思った。しかしあんがいまともなので、やはり凄いのである。そうしたらアリス・クーパーも元気なのだ。これはちょっと驚いた。これもちゃんとしてるし、古臭いだけではない。そうしたらウィリー・ネルソンまで出てきた。まだしっかりしている。あきれるね、まったく。当時はまったく熱心に聞いてなかったけど、ジョン・メイヤーは聞いてしまった。泣きのギターだというのはそうなんだけど、古臭いまま若ぶるわけでなく若々しくしている。こんなに日本の歌謡曲みたいだったのか、と改めて思うのだが、やっぱり80年代辺りは、結構境界があいまいだったのかもしれない。ロバート・プラントはまたアリソン・クラウスと一緒に歌っていた。これはもう完成された芸である。そうして僕らは遠くを見る目になってしまう。もうすべては終わってしまったのだ。そういえば、チャーリー・ワッツも亡くなって、しかしストーンズはツアーをしたという。昔のストーンズの曲が、なんとなくラジオから流れてもいた。日本でも追悼していたのだろう。そうしたら最近デュラン・デュランも新譜が出て、ちゃんと新しいバンドみたいな顔をしていた。なんとなく気恥ずかしくて人には言ってないが、ジェフ・リンズELOはちゃんとアルバムを買って聞いていました。昔は全然好きじゃなかったのに、僕も感傷的になったのだろうか……。
 新しめの久しぶりというのもあって、最初はジェイク・パグだった。もうギター一本で歌うスタイルではないらしい。フー・ファイターズもちゃんとしている。元気がある。やっぱりドラムがいいですね。グレタ・ヴァン・フリートもメジャーな貫禄がちゃんとついていた。素晴らしい。それで実は本当に驚き目立ったのは、グリフ・リースである。なんだか宗教じみていて、ほんとにこの人こういう感じのまま生きているんだな、と感心した。いいんですよ、これが本当に。
 昨年から今年の流れとしてはビリー・アイリッシュなんだろうけど、オリビア・ロドリゴが出てきて、今年の顔になったという感じだろうか。そういえば彼女が崇拝していると言われるテイラー・スイフトもロードもいい感じの、そうして野心的な曲が流れていた。やっぱり才能は枯れていない。世界的にはマネスキンだったのだろうが、いや、下品で面白いので僕は好きです。
 サウス・ロンドンの流れでソーリーは少し古くなって、ブラック・ミディが出てきてドライ・クリーニングが出てきて、最後のブラック・カントリー、ニュー・ロードが流れをかっさらっている感じになった。でもちょっと鼻につくんだよな、新しいのは。でも、こういうのがウケるというのは、やっぱりそういうのがいいという層のようなものがしっかりしているのだろう。
 楽しく驚いたのは、ザ・リンダ・リンダズで、日本の影響力が世界的にも根付いているという感じがして、いいのである。でもまだキッズで可愛いからだろうけど。
 最後に素直に今年でよかったのは、ビーバドゥービーであったりする。一曲で消えるのかとも思ったが、案外いい曲が続く。最後になってアデルが出てきて、さすがである。聞かせる。昔っぽくなって素晴らしかったのはブルーノ・マースとなんとかかんとかで、なんだかマービン・ゲイの時代のかっこよさをもっと明るくしたようで、心地よい。実はふつうは女の人たちが聞くんだろうけど、ケーシー・マスグレイヴスも聞いてました。僕はこういうの好きなんです、なんでだろう。
 でも本当に一押しはアミル&スニッファーズでした。もう、最高。古いのを若い人がやっているだけで大好きです。で、本当にかっこよかったと思っていたのは、ザ・ブラック・キイズでありました。結局僕はギターサウンドが好きなんだろうね。新しい頭にはなかなかなれないものなのです。
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毎日新鮮な恋のゆくえ   50回目のファーストキス

2021-12-21 | 映画

50回目のファーストキス/福田雄一監督

 ハワイで天文学の仕事をしている男は、アルバイトで日本人ツアーの手伝いをしている。一人旅の女性に優しく、いわば島の伝説的なプレイボーイの役割をしているようだ。
 ところがある日朝食をとっていると、ここで暮らしているらしい日本人の女性と知り合う。意気投合して付き合いそうになるのだったが、日を変えるとまったくよそよそしい態度に変わっている。彼女は過去に交通事故にあい、一日だけしか記憶を保つことができないのだった。
 以前流行ったどこかで聞いたことのある設定だが、この一日だけ記憶保持しかできない綺麗な女性には父親がいて、そういう状態の彼女を守るために、毎日その日と同じ新聞をストックし、同じような一日を送らせようと努力している。その意味するところは僕にはよく分からないが、それで彼女の安寧が守られているところに、恋する邪魔男が現れてそれを壊すのではないか、という絡みがある。
 ラブコメではあるが、そのコメディの振り切れ方がどうなんだろう? という方向に行きそうになる。悲しい事実を前に、本来はあきらめるべき恋の行方、ということなんだろうか。彼女にとっては永遠の一日だが、しかしだんだんと年を取る。そういうことを考えると確かに悲しいが、そんなの恋愛に関係ないじゃないか(個人的見解ですが)。
 ちょっと前に村上レディオを聞いていて、ブライアン・ウィルソンの 「“They Can't Take That Away From Me”、誰も僕から奪えない。何を奪うことができないのかというと、それは「僕が大事に持っている君の思い出」という曲を紹介していたのを思い出した。「君の帽子のかぶり方、君のお茶の飲み方、君の輝く笑顔、キーの外れた歌い方、それらの思い出のすべては、誰も僕から奪うことはできない」。もともとはスタンダードナンバーで、女性が歌ってもいいのかもしれない。そうするとプレイボーイに弄ばれたものの、それらの記憶を懐かしんでいる情景になるのかもしれない。
 という訳で、やっぱり人のつきあいの歴史っていうのは、二人にとっては何物にも代えがたく大切である。事故だから仕方ないけど、将来のある恋愛としては、この状況は難しい問題なのではあるまいか。
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ルーティンも時間作りから

2021-12-20 | 散歩

 日常の散歩は、わざわざ時間をやりくりして行っている。だから、どうしても忙しくて時間を作れない日がある。ずっと人と一緒で、行動が制限される日もある。そういう日は、歩数に関してはあきらめるよりない。トイレに行き来するくらいでは、何千という歩数になることはあり得ない。よっぽど移動する会議などで、相手も歩くのを厭わないという場合があればいいが、そんなケースはめったにない。むしろ気を使って、タクシーを拾ったりする。まだ時間もあるし歩ける距離なのに、何だかもったいないし、口惜しい。でも相手のためである。少なくとも、そう自分に言い訳している。本当は相手の人も、歩きたかったもしれないけれど……。
 それで結果的に一日目標にしている歩数に達しない日が生まれると、自分の言い訳にしてきた理由などを思い出し、ふがいなく思う。ちょっと用事を思い出した風にして席を立ち、10分くらいフラフラ歩いても良かったのかもしれない。やはり移動時に、さっと一人だけ目的地に歩いて行っても良かったかもしれない。トイレに行くのにワンブロック遠くの建物を選んでも、良かったかもしれない。まあ、それでも焼け石に水だったかもな……。そうも思うが、結局諦めたのは確かだ。僕は敗北したのだ。
 歩く時間が比較的取れそうな、なんとなく余裕のある日だってある。そういう日は逆に、歩こうという意欲が減退するような気がする。せっかく時間があるから、あれも検討しておこうとか、少し丁寧に片づけてみるか、とか。本当に部屋の掃除を始めてしまったりする。書類の下に思わぬ文庫本を見つけて読みふけってしまったり……。いかんいかん。その時間に30分くらいは歩けたかもしれない。そうしてまた夕方になって時間に余裕がなくなったことに気づく。少なくともこれを片づけてから帰るとすると、帰る前に15分くらいしか散歩できない。目標数に2000歩ほど足りないかもしれない。ああ、どうしてこうやりくりが下手なんだろう。夕方かかってきたあの電話が大きかったな。今から片づけられる案件じゃなかったのだ。なんも言ってこないから、放って置いた僕も悪いが、そんなに重要なら、もっと早くからどうにかしてくれたら良かったのだ。
 計画通りにはなかなかいかないので、昼食の後、そうして帰る前の一定時間。必ず外に飛び出して歩けるだけ歩く。雨が激しかったり、そうして別の予定が詰まると、やはりこれもかなわないが、できるだけ決まった時間を確保したい。ささやかだが、強くそう思いたい。
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復讐するは我にあり   ザ・フォーリナー 復讐者

2021-12-19 | 映画

ザ・フォーリナー 復讐者/マーティン・キャンベル監督

 ロンドンで生活している中国人の男だったが、一人だけの肉親である娘をテロで失ってしまう。声明はIRAであったので、元IRAの活動家で政治家になっているリアムという男にテロリストの名前を教えろと折衝に行く。政治家は知らないと相手にしないが、中国人の男は、以前はベトナム戦争の特殊部隊にいたことのある戦闘員で、あらゆる手段を使って政治家を追い込んで名前を聞きだそうとするのだったが……。
 原作小説があるらしい。主演がジャッキー・チェンで、まるでシルベスター・スタローンのランボーをジャッキーが演じているような内容になっている。一人で巨大組織と戦い、その渦中で傷ついてしまうが、自分で治療しながら、戦闘員としてのあらゆる知識を動員して、武装する集団と対峙して戦っていく。もうこの際内容なんてどうだっていい気もする映画だ。
 とはいえストーリーはあって、悪の政治がピアーズ・ブロスナンである。こちらも元アクションスターなので戦いを期待したが、ジャッキーのように日ごろ鍛えてはいなかったのだろう。残念である。
 荒唐無稽なお話には違い無いが、こういう一見圧倒的に力の差があって不利な場合にもかかわらず、一人で戦っている男というのはたいへんに絵になる。これが敵ならターミネーターになるわけだが、ともかく一人でも強いんだから仕方ない。漫画的なところももちろんあるけれど、この人がものすごく強いことくらいは、見ている人はみんな知っている。やれるだけ暴れてくれればいいのである。やられる方もどんどん本気度が上がっていって、それこそ容赦がなくなっていってからが、本当の勝負である。ということなんであるが、怒りに燃える可哀そうな人が頑張ってるんだから、応援するのは当たり前である。
 しかしまあ、なんとなくこれで終わってよかったのかな、という感じではある。これだけひとを殺すと、落としどころなんて作っても仕方ない気がするんだけど、どうなんでしょう。こういうのは、外国人の考え方なんでしょうね。
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時間制限食事法とやらを試す

2021-12-18 | 掲示板

 人生の半分以上の時間、ダイエットしているのではないかと思う。それというのも、なかなかうまくいかず失敗続きだからだ。うまくいっていた時期というか、何とか成功と呼べる体験も無かったわけでもないが、その成功体験が継続していかされていなかったと言える。その悲しい現実を前にして、ずいぶん長い間ダイエットばかりしているわけだ。
 確かに単純に食べなければ痩せることは明快にわかっているのだが、人間は食べないで平気でいられる生物ではない。少なく食べることが習慣化されて、なおかつそれがつらい体験でなければ、肥満からの脱却は可能となる。以前やっていた同じ方法であったとしても、同じような効果が得られない場合もある。加齢とともに、いくぶんやり方の程度も合わせなくてはならなくなっているのかもしれない。また、入院などの強制的な方法でない限り、荒野での生活は欲望の世界が渦巻いている。現代社会における日本という環境は、人を飢えさせることを許さないのである。
 ということで、自分をだます方法として時間制限ダイエットというのを試してみることにした。知らない人のために一応紹介しておくと、一日のうちに12時間から16時間程度食べない時間をもうけて、食べていい時間を12時間から8時間程度に抑えるというものだ。間に寝ている時間を挟むことができるので、比較的に空腹に耐える苦痛が少なく、食事の内容制限もとりあえず考えなくてもいいので、実行が簡単である。もっとも肥満でない人には効果がないという実証試験もあるとされる上に、12週間で1キロ程度減の平均ともいわれていて、それなりに根気がいらないわけではない。でもまあやらないよりはいいだろう。ということで始めてみた。
 いわゆるミニ断食ともいわれているが、断食という言葉ほど過酷ではない。世の中には朝ご飯を抜いてしまうと罪悪感を覚える人もいるし、非難する人もいるので、そういう方面の人とは話が合わないということはある。ダイエット目的ではあるが、心臓や血管に異常のある人にも、一定の改善傾向があるという研究もあって、それなりに注目されている方法でもある。僕の高血圧の原因は、肥満そのものであると言えるので、さてそれがどうなるのかも気になるところである。
 一定時間食事を抜いても、摂取カロリーが同じでは理論上効果があるはずないじゃないか、という突っ込みがあると思うが、仕組みとしてはこうである。人間の体というのは、12時間程度食事をとらないでいると、体のエネルギーとして蓄えているグルコース(ブドウ糖)が不足するようになって、代わりにケトン体を利用してエネルギー代謝を行うようになるらしい。ケトン体は肝臓に蓄えている中性脂肪を分解した脂肪酸から作られることから、体の脂肪分を減らす効果が期待できるのだ。ただし、このケトン体による代謝状態が続いてしまいすぎると、ケトアドーシスという血液にケトン体が急増する症状をまねく恐れがある。そうなると体が酸性となり臓器の機能が落ちる危険もあるので、長時間すぎる断食は、かえって体に不調をきたすこともあるらしい。
 そういうことになったので、夜8時までに食事を済ませてしまうと、翌日の昼まで食事をしないでいると16時間になる。朝を抜くというだけで、実行できそうだ。もっとも朝に薬を飲んでいる習慣があるので、ヤクルトとヨーグルトは摂ることにした。グルコースを不足させる目的なので、それくらいは目をつぶってもらおう。
 それまでは帰宅時間がふだん19:30だったのだけど、これでは夕食に余裕がない。なんとか30分早く帰るように努力することにして、19時帰宅にした。翌日の昼は、何かない限りつれあいが弁当を作ってくれるようになった。毎日の弁当という楽しみが増えたので、朝食を抜く苦痛はほとんど感じなくなった。それに午前中というのはそれなりに忙しいもので、早弁することも無いし、どこかに食べ物が転がっているという経験もない。ああ、もう昼だな、という感じで時間が過ぎてゆく。
 まず実感としていいこと。通勤時間に苦しめられてきた便意がほとんどなくなったこと。朝ご飯を食べていると、ちょうどそういうことになるということがあった訳で、これが精神的にかなり楽になった。もっとも最近は出張がないので都合がいいが、飛行機の時間なんかを考えると、そういうライフスタイルが戻ると怖いこともありそうだ。
 で、問題のダイエット効果であるが、始めてからすでにふた月ほど経過しているが、最初の二週間で1キロ程度減ってきて喜んでいたが、ちょっと生活習慣が狂う日が続いたのちは、元に戻ってしまった。実のところ数値として改善されたのかどうかは見極めが難しいところだ。
 という訳で、つれあいの愚痴は聞こえてこないではないけれど、もう少し継続して考えてみようと思います。(※実際はもう少し基準をあげるべきだとつれあいが主張しているため、量的制限があるかもしれません)

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権力と戦う歴史を振り返る   シカゴ7裁判

2021-12-17 | 映画

シカゴ7裁判/アーロン・ソーキン監督

 1968年にベトナム戦争に反対するデモや集会を行っていた群衆が、警官隊と衝突し多くの負傷者を出すことになった。そのデモ隊を首謀したとされるいくつかの団体の代表が合わさっての裁判となった史実をもとに、映画化したもの。それがシカゴ7と言われているらしい。裁判の場所がシカゴだったことと、この裁判が悪名高いものとして、アメリカでは有名なものなのだろう。実際に映画でこの暴徒化するデモ隊の事件を観てみると、現代では考えづらい警官を含む公権力の強権ぶりを観ることができる。逮捕され、一部の被告は保釈が許されていたとはいえ、圧倒的に不利な立場にありながら、自分たちの正義を貫こうとした姿が描かれていく。また、裁判官の不公平な采配によって一方的に傷つけられる黒人の立場もあり、残酷である。このような歴史が、黒人差別の遺恨を現代まで残している原因であることが理解されることだろう。
 とはいえ、映画としての脚本がよく練られていて、エンタティンメント作品としても十分に面白い。最初は平和的にデモを行っていた各グループだったが、実際には様々な監視下に置かれており、計画的に締め出された上に小競り合いが繰り返され、そうして最終的には踏み外すきっかけができていく展開が、徐々に内情とともに明かされていく。公権力の恐ろしさと、アメリカ社会の若い力と自由のための思想のようなものが、しっかりと考えさせられる内容だと思う。いくら正義のためだとはいえ、デモ隊の方にも落ち度はある。そういう政治的なバランスも保たれていて、日本によくある単なる偏った左翼映画ではない。こういうところは、大いに見習って日本の思想映画も作ってもらいたいところである。
 見た目は多少だらしないヒッピーのような人々が、実はしっかりした考えを持っていたり、政治的な野心を持った白人があんがい臆病だったり、白人社会から威圧的に暴力を振るわれ続ける黒人代表が、根気強く無駄に終わることを知りながら抵抗をしたりする。一緒に裁判を受けているものの、実際はちゃんと連帯していなかったり、仲の良い関係でさえない。弁護する弁護士だって、この不利な状況を打開する明確な方策を持っていない。何しろ敵は、この法廷を支配している裁判官でもあるのだ。
 しかしながらこういうのを見てしまうと、やっぱり日本とはデモの質自体がぜんぜん違うのだな、ということも分かることだろう。米国の民主主義と日本のそれは、何か本質的に違うものなのかもしれない。日本の若者もデモする人はいるだろうが、アメリカの若者とは違う種類の人々だ。別段同じものである必要は無いのだろうが、ちょっと現実は悲しいという感じかもしれない。
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