カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

出張に行きます

2006-06-27 | 掲示板
 しばらく出張で留守します。更新は来週ぐらいまで無理かもしれません。
 面白いことがあればいいんだけど…。
 それではごきげんよう。
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蕎麦好き

2006-06-27 | 

 昼に蕎麦を食いに行く。普通はざるだが、雨の所為か寒い。そこで鴨南そば。一味でなく洋胡椒がついてくる。振り掛けるとくしゃみがしたくなる。
 蕎麦はまずまず。そんなに洒落ていないのがいい。ただし、ダシは少し僕には甘い。習慣で全部啜るが、胃の上にちょっと残る感じだ。
 最近は蕎麦屋が増えた。どういうわけか、蕎麦屋は少しインテリっぽい。特に田舎に行くとそういう感じが強くなる。山の中のインテリ宿。そういう感じは好感が持たれる感じでもあるのだろうか。しかし空港の蕎麦屋もそんな感じがあるな。妙な料亭っぽい怪しさだ。やはり最近の風潮なのかもしれない。
 僕にとっては蕎麦はもうちょっと違った感じだった。少なくとも以前はうどんの方がインテリっぽかった。いつ逆転したのかなあ、と思う。そもそも麺にインテリってなんだと思うが、ラーメンの庶民性と比べて和食麺の落ち着きというかなんというか。
 変なことはわかっているが、蕎麦はたいして旨くないから旨いのだと思う。インパクトとして強烈さに欠ける。猛烈な喉ごし感だとか、口に広がるうまみという感じはちょっと弱い。それでいて存在感が薄いのかというとそうではない。音をたててすすってみて、香りが広がり、そのあと微妙な苦味がしみてくる。まあ、たいして旨くないんだが、そういうリズムにはまってくると、飽きもせず幸福感が漂ってくる。最後に蕎麦湯なんかをすすって飲んで、これなんかも別にたいして旨くないんだが、充実感でよかったなあ、と安堵する。本当は食う前に酒かなんか引っ掛けるのだろうけれど、いつも昼酒できる身分でないので、あんまりそんな世界は知らない。
 毎日ラーメンは体力がないと続きそうにないが、毎日蕎麦なら誰でもできるのではないか。いや、誰でもできるかはやはり疑問だが、比較的守備範囲が広いのではないか。昼食に蕎麦を選択する層は実際問題として多数派ではない気もするが、どうしても毎日続けなければならないとしたら、ひょっとすると多数派になりはしないか。
 海外にラーメン屋とかうどん屋とかは出店できそうだけれど、蕎麦屋は失敗しそうな気がする。実際はあんがい存在するのかもしれないが、九州に住んでいる所為でそう感じるのかもしれない。ノスタルジーがあるのに蕎麦はあんまりそういう主張をしない気がする。
 駅でうどんか蕎麦かと悩む。いや、僕は割合蕎麦なのだが、ざるじゃないからどうしようかと思うのかもしれない。そうして駅蕎麦は更にたいして旨くはない。
これは何度も矛盾しているけれど、このたいして旨くない蕎麦も、食ってみると満足感がある。蕎麦って偉いもんだなあ、と思う。
 旅をして蕎麦を食う。なんか悪くないなあと思う。そう思う人と友達になりたい。蕎麦好きはあとくされもなさそうだ。ただ、そんな気がするだけだけど…。
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元をなんとか

2006-06-27 | 散歩

 雨が降ると歩くのが億劫だ。雨でなくとも億劫なので、更に嫌になるのだろう。お前は散歩が趣味じゃないか、といわれそうだが、そういう気分の時に歩くのではなく、歩き出して感じを掴んでいる。結果的に楽しいが、歩く前から楽しいのではない。
 雨だが歩いてみるかと思う。傘を差して歩いていると、靴の中にじんわりと水がしみてくる。そういう感じがなんとなく不快だ。そう思っていたら靴紐が解けた。しゃがんで結すぼうとすると、傘が邪魔である。ズボンの裾も、跳ねた雨水で濡れている。膝を折るので尻のところにも水がしみてくる。
 やっぱり調子が上がらないな、と思ったので引き返す。玄関前に来て車にかばんを忘れていたことを思い出す。戻る途中に庭の花に目が止まる。水滴をはじいて咲く姿に力強ささえ感じる。雨の所為じゃなく、自分の所為だなと思う。影響はあるが、元もある。それなら元を何とかしないと話が始まらない。
 雨の散歩で気分がよくなりはしなかったが、やはりそれはそれでいいのである。
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僕はコマ向きだ

2006-06-26 | 雑記

 お祝いの席で久しぶりの司会を務める。そんなに緊張してないような気がしていたが、緊張してましたね、と声をかけられたので、緊張していた気もしてきた。ウケないんじゃないかというプレッシャーは確かにあったと思うが、結構ウケもよかったし安堵した。これも温かい友情のおかげであろう。
 新郎K村君プレゼンツですべての内容が構築されていた。僕は彼の作成したシナリオどおり発言していただけである。M浦君の音楽タイミングもばっちりで、ヒヤヒヤすることなく助かりました。しかしながら一応打ち合わせしたんけど、飲んでばかりでほとんど何にも考えてなかった。当人のお祝いなのに取り組み態度に問題があったことを認めます。真にごめんなさい。
 それにしても構成力のすぐれた人は料理も上手いのだそうだ。逆に上手くいかない人は普段から整理整頓に努めるといい、なんて聞いたことがある。料理は学生時代ちょこっと仕方なくした経験があるけれど、友人はほとんど僕の料理に手をつけていなかったことを思い出した。僕はこういうプロデュースは苦手なのかもしれない。今後もコマの一部として精進いたします。それにしても当日を俯瞰して、楽しく進行できました。みなさんご協力ありがとうございました。そしてK村君ご夫妻、真におめでとうございました。
 お祝い会も盛会に終わり、片づけをして二次会へ。更に今年はお祝いがあるかもしれないという情報も耳にしたぞ。こういう連鎖は楽しく続いて欲しいものだ。
 三次会四次会だっけ、更に飲んでやっぱり二日酔。さっき胃薬飲みました。
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精神力も相対性理論だ

2006-06-26 | 雑記

 土曜日にセミナーを受けて正座した。かなり苦しかったが何とか我慢し通す。後に住職の説法を聞いた。僕はその話を、人との関係性で人間の力が出せるということだと解釈した。自分ひとりで座っていてもこれだけ辛抱できるものではないそうだ。苦しくても我慢するのは、人の目が気になるからだといえる。つまり、人の気持ちに影響を受ける。それはプレッシャーかもしれないが、自分を強くする要素でもあるわけだ。
 お坊さんの荒行の話も聞いた。僕は苦行自体がどうであるとは否定的な考えを持っており、自分が望んで苦難を受け入れるのであれば、それは快楽を求めることと精神的には同じだと思っていた。しかし、それはある意味で表面的な解釈であった。基本的にはそういう意味で修行をしているのではないということがわかった。彼らは檀家や先輩方との関係や自分の立場において自分自身がその中に飛び込んでいっているのである。それは自分の許容と関係性の問題なのである。
 確かに僕は家族や職場の関係性において、以前の自分より強くなっていると思う。それは僕自身の才能というより、関係性から生まれた偶然のものだ。勿論偶然ではあるが、そうなるように自分自身も相対的に動いているのだ。
 そうだ、アインシュタインだ。と、思う。物理的定理と人間の精神性は矛盾しない。人間は相対性において磨かれるのであろう。
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確かにどうかしてるらしい

2006-06-24 | 雑記

 もうなんというか二日酔である。どうにも具合が悪いわけだが、どうにもならない。仕事があるから仕事しているが、もうやりたくない。二日酔は立派な病気である。その病気を招いたのは自分本人なんだけれど、本人としては断固酒が悪いのだとしか思えない。悪いやつは退治しないといけないので、又飲んでしまうわけだ。
 酒を飲んだのは近くの「いんごち」である。内装がすっかり変わってえらくモダンになっていた。田舎なのにやりすぎていいんだろうかとかえって不安である。まあ、めったに行かないのでいいのかもしれない。
 飲んだ理由は「さなぼり」である。さなぼりって何だ、と思う人には以前に書いた覚えがあるので説明しない。わからない人にはわからない宴会があるのだと思ってください。わからない人にはいつまでも関係のない宴会だろうからそれでいいのだ。
 ついでに新人歓迎会と実習先生の復職祝いと後でわかったT島さんの誕生祝もかねての大宴会となった。乾杯の音頭をとってひたすら飲む。ビールのあとは焼酎一升瓶と五合瓶二本と梅酒とワインと日本酒と黄色いカクテルが見えた。
 米ちゃんが場を盛り上げようとお隣のコンビニからビンゴカードを買ってきたのだが、ビンゴという声が上がった後に景品を買い忘れたことに気がついたようだ。うちの職場のスタッフらしい失態だが、そう思っていて将来は大丈夫なのだろうか。
 それにしてもひところに比べて人が増えたものだ。以前はまとまってひとつの話題にごちゃごちゃ話が絡んでいたものだが、今はいくつものグループができてそれぞれ違う話題に騒然となるようになった。当たり前のことではあるけれど、あちこちでいろんな話があって、こんがらがってしまった。こんがらがって酒を飲むとさらに混迷を深めていって、何を話しているのかわからなくなる。
 いったいどうやって家に帰ったのか定かではないが、目が覚めたらいつもの家だった。僕の個人的な事情だが、不思議なものである。つれあいは寝ながら吐くのではないかと心配で眠れなかったというので、ひどい状態ではあったのだろう。これまでもよく生き延びてきたものである。自分に呆れもするが、感心してもいいような気もする。これだけ体を酷使してがんばっているのだから偉いのである。以前テレビでタモリが「大変大変って言うけど、朝まで酒飲んで今こうして司会してる俺の方がよっぽど大変だ」といっていた。酒飲みはやっぱりどうかしてると思うのである。
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オラは先に行くダ

2006-06-23 | 時事

 早起きしたので眠い。特段良い試合だったわけではないけれど、考えさせられることも多かった。リアルな出来事なのか、わからなくなった。
 ポイントはなんといってもロスタイムにもかかわらず完全にマークをしない浮き足立つ感覚だったのではないか。わかっているけど、ああなってしまう。障子に穴を開けてはいけないのだけれど、どうしても指を突っ込んでしまう。あけてしまったら取り返しはつかない。どうしようもなくなっていつまでも後悔し続ける。精神科の患者さんと行動パターンは一緒である。そうなるほどの舞台だということなのだろう。
 後半のカカのロングシュートも、正面に近いから逆に川口が反応しすぎてボールをよけるような体勢になったように見えた。あれで何かが完全に切れたようになった。逆転されてかえって安心したような妙な時間が流れた。
 試合後のインタビューで玉田選手が「得点したので本気にさせた」と語った。それはそうかもしれないが、そういう感じが最大の敗因ではないかとも思う。強い精神力とは、そうなって更に気持ちが引き締まってやる気になることだろう。猫を噛んだあとに後悔しても仕方がない。
 日本がボールを持ったときの方が、急に緊張感の走るのが感じられた。勿論相手のプレッシャーがきつくなるのもあろうが、見ていても自滅が容易に予想される。そしてその通りミスをする。もう負けることはわかっている。しかしそれでもやらなくてはならないことはある。もう失ったのだから怖くないじゃないか。僕はそういいたかった。
 世界との差が云々という話がある。実際のところそう感じはするけれど、能力的にはかなりいいところまで行っているのである。惜しい試合ならできるという能力なのではないと思う。確かにブラジルとなら、百回やっても九十何回かは負けるのかもしれない。しかし何回かは勝てる。本割で、その何回かを持ってこれるかどうかだ。

 日本人論にもっていくのは悪い癖のだけれど、日本がサッカーで勝てないという精神性がありそうな気がしてしまう。しかしそれは、日本の国という幸福感につながる特性でもあるのではないか。弱いからこそここまで発展することが可能になったということはないのだろうか。戦後の奇跡の復興は、いろんな幸運もあったにせよ、日本という国で起こったことは間違いがない。そして恐らく日本でないと、こういう現在にはならなかっただろうと思う。ボールゲームで強くなることで、日本という国は何かを失うのではないか。そうでなければ勝てない世界なのではないか。サッカーを強くするには、そういう犠牲を払わなければ、ならないような気がする。それを日本が望むかどうか。
 日本が弱いままでいいとは思わないけれど、是が非でも強くなければならないというのは、なんだかもう少し考えたほうがいいような気もする。ラグビーの清宮監督のような人は、どのように考えるだろうか。
 もう少し発想を転換させなければならない。これからを考えるとはそういうことではないかと思う。僕ももう少し考えてみよう。しかし、それで僕のいうことを誰が聞いてくれるかという最大の課題もあるのだが、考えるのは自由なのでやってみよう。少なくともそういうことを考えていると、日本の敗戦の脱力感から抜け出せる気がする。お先に失礼である。

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できれば自分とは違う話

2006-06-22 | ことば

 活き活きで長岡保平の取材で東北にいった番組を観る。場所は徒然茶房。食事をとりながらの反省会とH本ディレクターの慰労のような会である。
さて、番組の中で知った人が映っているのだが、いつもと動きが違うような気がする。カメラの力なのだろうか。どことなく皆さん大振りな動きをする。舞台の演劇のような感じもする。自分を演じているということなのだろうか。
 自分の姿も映っている。客観的にみて頭髪の風になびく姿にものの哀れを感ずる。これは時間の問題であるな。今後は自分を省みないか、露出を控えるか。まあ、以前からそうではあるが、更に自分の姿は見たくないもののひとつになってしまった。
 自分の声も聞くが、聞き取りにくいものだ。だいたい僕の発音ははっきりしないといわれていることぐらいは知っている。自分の話す分には言えば済む問題で、普段は聞く立場にない。ブロック協議会でO本委員長に発言内容を確認されることがある。そんなに詳しく議事録をとらなくてもいいんじゃないかと思うけれど、まじめに事業をまっとうされているのだからそういう非難は不当であろう。真にご迷惑をお掛けして申し訳ありません。
 こうして改めて自分の声を聞いて複雑な気分で落ち込んでゆく。よくもまああれだけ聞き取りにくい発音を、わざわざすることもなかろう。
映画「トット・チャンネル」で黒柳徹子役の斉藤由貴が、ラジオの録音の自分の声を聞いて、「あれは私ではない」というようなことを言う。僕だって以前から自分の声と発音は否定したいと願ってきた。子供のころにお袋が僕らの声を録音して聞かせてくれた。聞きなれたきょうだいの声に混じって甲高い知らない人の声がする。不思議に思って誰だと問うと、それが自分の声なのであった。どうしてもあの時は納得できなかった。顔から火が出るほど恥ずかしく、歯がゆく感じたものだ。後の斉藤由貴は、僕の姿であったのだろう。
生活するうえで自分の声は人に聞かれているわけで、そういうことを意識すると、おちおち声を出す気になれない。仕方なく話をしなければならない機会に、自意識が過剰になると更にいけない。自分の声は聞いてはいけない。僕は未だにそう思っているのだろうか。結局聞き取りにくい発音になっても、自分の声を避けようとしている。
 ある本に、泣きながら話をするなど言葉にならない状態を非難してはならないと書いてあったような気がする。言葉にならない話だから、それでいいのだという。息子達が早口で自分の楽しかった経験の報告をするのだが、ちっとも何の話かわからない。嬉しくて言葉がもつれ、先を急いで脈略がつかめない。しかし、それでもいいのか、と思い当たった。言葉にならない思いを話しているのだろう。
 しかしながら僕の場合はそうではない。言いたいことを言って、相手に伝わっていない可能性がある。何しろ聞き取りにくいのだ。その分注意して聞く人もあるかもしれないが、多くは諦めてくれているのではないか。ただでさえ言葉ではまどろっこしいことをアクセントのはっきりしない言葉で説明しようとしているわけだ。
いや、それほど言葉の力を信じてもいけないのかもしれない。言葉だけで話してはいけない気もする。そういうことを考えて、言葉の問題は棚上げとする。多少はどうにかなるかもしれないが、もう少し先に行きたい思いのほうが強い。機械に録音されると言葉は固定する。あのときの僕は既に今の僕ではないのである。
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リズムを刻む

2006-06-22 | 雑記

 仕事を片付けるスピードが上がると気持ちがいい。なんだか調子こいていて、昨日からばんばん電話かけて仕事している。途中で夏越とか他の懸案事項も片付ける。後回しはどんどん後回ししてもいるけれど、とりあえず目の前の風景というか、そういうものが変わっていく感じだ。ひとつ仕事が済むと、次の仕事に手をつける。調子いいので休まない。スピード感とグルーブ感が心地いい。あっという間に一日が過ぎてしまう。この調子だと寿命も短くなるに違いない。
 正直に言うと、後回しにしていていい加減片付けなくちゃな、ということをやっているに過ぎない。手をつけないでいると、精神的なモヤモヤはつのるけれど、やりたくないものは仕方ないもんね、と開き直っていたのだ。しかしながら、やはり誰かに迷惑もかかる。そういう締め切りギリギリのところで加速しただけである。
 気が重くて手を出さない仕事は、依頼ものが多い。他人に頼むのは最後にしたい。そういう心理があるらしい。最低限仕事をやりやすい状態にして仕事を渡す。ひとつひとつは、横着な言い方をすると自分でやった方が早いのだが、他人にやってもらうことに意味があるのでやってもらうわけだ。それに全部いっぺんにはやっぱりできない。何もかもが僕のものではない。
 依頼するとあんがいすんなりという場合もあるし、こういう問題もあったな、という発見もある。仕事を客観視しないと他人には渡せない。自分の取り組んでいた姿勢が見えるということにもなる。自分自身は自分には見えない。他人に渡すと姿がはっきりする。ある意味では面白いものである。
 しかしながらルーティンもあるし、無意味な気もする仕事もある。無意味なりに淡々とリズムを刻む。やってみると調子が上がるものだ。目の前が真っ白にならないかなあ、と空想する。いやいや、まだまだ序の口であった。トンネルの向こうの光さえ見えていない。もう少し先に行くまで淡々と進むことにしよう。
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猪との遭遇

2006-06-21 | 雑記

 そういえば昨日猪を見た。
 苗を軽トラックで運んでいて、ばったり道で出会った。一瞬びくっとしていたが、こちらも車を止めて眺めていると、お互いにらみ合いというか、戸惑って動けなくなった。しばらく後、路肩の斜面へとことこ歩いて下っていった。後姿に警戒感があったが、堂々としたものである。こちらは車に乗っているので恐ろしくはなかったが、立派なタテガミに畏敬の念を抱いた。いつも散歩する道なので、歩いて出会うと又違っただろうと思う。
 畦で休憩中そのことを話題にすると、お手伝いに来ていたおばちゃんが激しい口調で、「車で体当たりすればよかったのに…」と言った。小泉首相は猪対策をするといっていたのに、裏切ってまじめにしなかった。後継総理は、真剣に猪対策する人であって欲しい。
 別に冗談で言っているわけではない。僕はそのような世論があることも、公約があったことも、まったく知らなかった。農家の人は猪に苦しめられている。僕は百姓はするが、野生動物については、人間の方が領分に侵食していると感じている。しかし、誠実さという点では、本当には百姓をまっとうしていないのだろう。
 自然を大切にしようという思想は、ある意味で薄っぺらい。仕事をしている人に、そう思ってもらうことが大切なのではないか。
 それにしても、また猪とばったり出会いたい。怖がりの癖にそう思う。畑に出てこられるのは勘弁してもらいたいが、姿を見せてくれるのは歓迎したい。
 ところで、猪の角で怪我をすると、傷跡がなかなか完治しないという。雑菌などの所為なのか。ただれたように膿んで、治った後も傷跡は必ず残るといわれている。先のおばちゃんは、角にエイズのような病気があるせいだという。たぶん偏見だろうけれど、前線にいる人たちは、真剣なのである。
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田植えパートⅡ

2006-06-20 | 雑記

今日は朝からずっと田植えをしていた。日中は容赦ない日差しが照り付ける。サッカーの試合でなくとも、体力が消耗していく。正直かなりへばってしまった。
しかしながらいいこともある。昼には畦で握り飯を食うのだが、これがまた旨い。天ぷら揚げとか漬物程度のおかずなのだが、これもまた旨い。労働は最大の調味料なのである。本当のグルメは、己の状態こそが最大の要素だということを忘れてはならない、と僕は思うぞ。なんて、自分でも自戒を込めて言ってるんだけどね。
また、外で食うというのもいいんだろうね。なんといっても気持ちがいい。泥で汚れているから家に上がるわけにもいかない。いわば仕方なく外で食っているんだが、その仕方なさが堂々と外で食える理由ともなって、文句あっか、という感じである。
適度に疲れているので、メシをかき込む事で、みるみる体力が回復していく感じがする。まさにポパイのほうれん草みたいなイメージを体感できる。できればビールも飲みたいところだが、午後の作業を考えるとかえって疲れるのでパスする。うーし、やったるで、と気合を入れて午後も捕植などに精をだした。ほとんどは機械が植えるわけだが、水調整をしたり苗を運んだり、人間にも仕事はある。農作業はある意味で効率が悪いので、誰にでも仕事ができるのである。しかし、要領はありますよ。慣れていないとちゃんと邪魔になる。仕事の世界はなんだって厳しいのだ。
毎日田植えでは本当にへばって嫌になってしまうだろうが、年に一度ぐらいは娯楽として多少きつめの労働をするのもいいことだと思う。これで夜に会議なんかない日だともっと最高なんだけど、それはそれで仕方がない。
農繁期は農家以外の人は暇らしく、やたらと寄り合いが多い。農耕民族日本などというくせに、六月とか十月の行事が多いのはどうしたことだろうと疑問に思う。天然自然を相手に仕事してるんだから、人間の都合は遠慮して欲しいものである。
これで今年の田植えは無事終了。日を変えてさなぼりにいくばい。関係者は追って連絡したします。
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まだまだ夢の中

2006-06-19 | 時事

 ワールドカップに出場していて、国民的な関心の一番薄い国は米国だろう。流石に辺境の国らしい。しかしながら、そういう国が一方ではグローバルスタンダードを言うのは矛盾していないだろうか。まあ、そんなことをいいたくなるほど、変な国だ。日本人から言われたくないだろうけど…。
ナンバーワンではないと意味がないという考え方もあるのだろう。往年の巨人ファン的な心理だ。それ以外は意味もなく面白くない。
既にバスケットやアメリカン・フットボールなど、娯楽にあふれているという話もある。まあ、そういう話もあるということだろう。たぶん分析としては的外れだ。
戦争は簡単に始める国だから、国民感情がまとまりにくいということでもなさそうだ。紅茶を飲まずにコーヒーを飲むような心理で、意地でも無視したいという心情はないか。他人にあわせたくない価値がある。そういうことをいいたいのではないか。そういう意味では、アメリカ人は変人として立派なのかもしれない。
しかしながら、あれだけ強くなったのにもったいない気がする。気がするけれど、大きなお世話だろう。

今回は残念だったけれど、客観的に見て、引き分けを拾ったのかもしれないとも思う。川口は神がかり的に凄かったのであって、ああいうことは100にひとつ有るか無いかという感じではないか。あれは十分な神風と考えられる。
柳沢を見る限り、日本はフォワードが得点することなく終わる可能性が高い。海外メディアで日本はどうしてゴールにめがけてシュートしないのか不思議だ、という揶揄した報道があったらしいが、僕だってどうしてなのか知りたい。シュートを打つのが怖いのかもしれない。それが舞台というものなのだろうか。
終わったあとの関係者のインタビューを見ていて、日本人の前向きさというものも、以前とはずいぶん変わったものだと思う。最悪の事態は回避した。可能性は厳しいにしろ、不可能ではない。
決勝トーナメント進出については、ほぼ絶望的といっていい状態に見えるが、そうではないというコメントを、おおむね歓迎しているようにも感じる。それがワールドカップというものだろうか。
勿論、ブラジルはトーナメント進出を決めたわけで、次の試合に必ずしも勝つ必要はなくなったのかもしれない。そういう意味では日本にいい材料とはいえるが、2点差以上で勝つ必要があるという状態で臨むというのは、やはり不都合がある。まず守るということを念頭に置きながら、あわよくば勝ちに行くという状態でないと、勝機はない気がするのだが…。
いや、止めよう。ブラジルに勝てるかもしれないというだけで、どれだけ凄いことなのか、考えてみると畏れ多い。僕は開き直りも好きである。窮鼠猫を噛む。本当はそういう感じなんだろうけれど、噛んじゃえ、噛んじゃえ、と素直に応援しよう。そして、そういう気分の方を楽しむことにしよう。
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王様は裸だった

2006-06-17 | 雑記

 文藝春秋7月号の「55歳から金持ちになる方法」が面白かった。橘玲という作家は知らなかったが、実にまともな意見である。伝説の億万長者・本多静六の「私の財産告白」ぐらいのインパクトがあった。実にシンプルだが、億万長者になる方法が書かれている。
 王様は裸じゃないかといえたのは子供だった。彼(だったかな)は素直だったから言えたわけだ。みんな知っていることを正直に言うことは、あんがい難しいことなのかもしれない。
 金持ちになる方法は実にシンプルである。その方法とは、貯蓄をすることに尽きるというのだ。
 こういう風に書くと、なーんだ、とそっぽを向かれる。知り合いに保険屋さんもいるのでいいにくいが、そういう生活プランを根本から考えると、貯蓄はできる。マイホームについても、考え方で資産運用できる。そんなことは知っていたけど、改めて考えるとその通りである。

「だれもが億万長者になれる」豊かな国に生まれたという、とてつもない幸運に恵まれているのだ。―文中・引用―

 僕はこの言葉に目から鱗が落ちた。感動すら覚えた。将来の不安ばかり煽られていて、そういう状況が見えていなかった。なんだか他国には悪い気がしないではないが、事実としてそうだろう。
 もっと失礼なことを言うと、北朝鮮に生まれなかった幸運を考えてみるといい。僕らの立場は、彼らから見るとどうなるか。単に日本に生まれたというだけで、凄まじい格差が生まれているのである。

「自由とはたんなる観念でなく、個人の経済力から生み出されるものである」
 なかなかかっこいいことをいうではないか。僕は元気になったけれど、ためしに読んでみてはどうだろう。やっぱり、なーんだ、と思うだけだろうか。
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偏見と、まっさらと、思い出せない記憶

2006-06-16 | 雑記

 酒を飲みがなら話をしていて、上手く伝わらなかったことがあるような気がする。翌朝ふと思い出して自分の言葉の力のなさをいろいろと検証する。
 誤解というものとは少し違うのかもしれない。こういうことなんだと理解して欲しいけれど、もう少しのところで届かないもどかしい感じなのである。
邪魔をしているものがある。説明不足ということももちろんあるが、それだけではない。これぐらいはわかるだろうという期待と共有感を裏切る何か、なのだ。そういう前提を説明しなければならない煩わしさは、又、別の話になってしまう危険さも同時に伴っている。
偏見とまでいかないけれど、常識的な前提。そういうものが邪魔をしている。
 まっさらな状態をつくれないかと思う。むしろ若い人に常識の壁が厚い気がする。もちろんお年寄りにも偏見はあるが、まっさらになる方法を知っている人は多い。あくまで僕の感覚だが…。ある種の素直さとでもいうような、姿勢なのかもしれない。
 若い人は頑固なのではないかとも思う。けなげさが潔癖さを生む。歴史上の暴動も、若い熱い思いが暴走することを物語っている。

 最近即戦力を欲しがる風潮がある。仕事関係ではそういう話は一般的だ。しかし、本当に経験のある即戦力を期待できる人が仕事で役に立つのだろうか。
一方確かに新卒の人は最初から仕事はできない。これは絶対的にいえることだ。だからじっくり覚えてもらうしかない。しかしながら若者の辛抱が足りないと思えるほど、事業所の辛抱も足りないのではないか。
学校側は、すぐに使える学生を育成するために、ノウハウを先に教えて欲しいという要望を持ってくる。一見まっとうな考えのようだが、役に立つようなことばかり詰め込んで、まっさらな魅力を消さないで欲しいとも思う。彼らはスタートをきりやすい状態だからこそ価値がある。いわば贅肉がないからスピードがある。そうだ。骨や筋肉をつけて欲しい。要望があるとしたら、そういう要望である。まあ、職場で贅肉をつけるわけではないけれど…。
経験者にもいろいろあるが、自分の流儀を既に持っている人が逆に厄介でもある。自分の経験が邪魔をする。そういうことに気づいても、まっさらになる勇気が持てるか。自分を捨てることができるとその人は伸びるが、やはりなかなか捨てられるものではない。つまり即戦力は役立たない。
心機一転。そういう人がカムバックできる。今までやってきたからではない。今から始められる人なのである。

自分なりに理解するということは大切である。以前小林秀雄が、七十の人が若い人のように理解するのはおかしい、といっていたように思う。年をとった人が考えることがあっていい。同じ物事をそのようにいうことに、釈然としない感じがしたものだが、今はそうかもしれないと思う。今はわからなくてもいいのかもしれない。僕の理解して欲しい欲望を、飲み込めなくてもいい。それは、今は一方通行かもしれない。しかし、実は必ずしも一方通行でなくなるかもしれない。

記憶というものは不思議だと思う。いろんな物事は忘れ去られてしまうように思われる。しかしながら、どうも脳の機能としては違うらしい。記憶は忘れられることはない。思い出せないだけのようだ。おんなじことじゃないかと思うかもしれないが、思い出せない記憶が、行動に影響を与えている可能性があるという。それなら、同じことではない。
例えば本を読む。一字一句とてもじゃないが覚えられるものではない。しかしながら、片っ端から忘れてしまうように思われて、たまっていく思い出せない記憶が脳の中には残っているのだという。そういう思い出せない記憶こそ、大切なのじゃないかという話がある。役立つ知識より、そういう一見無駄なような思い出せない記憶が、自分というものを形作っているのかもしれない。そして、ふと、いい感じとか嫌な感じとか、整理できない感情として、方向性を左右させるのではないか。
時として、自分でも思いがけない方向転換をすることがある。目から鱗が落ちたり、大げさだが、生まれ変わったような感じのすることがある。目の前の現象に反応していることは確かだけれど、思い出せない記憶にも、何か関係がないのだろうか。
僕は、最近そういうことを考えています。茂木さんの影響だろうね。
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気分の伝染病

2006-06-15 | 雑記

 拡大ローラー作戦にちょっとだけ参加。僕の職場のご近所ではあるが、たぶんみなさんからは遠いところ。実は僕の職場とは山二つほど離れていて、下界から上ってくるより手間のかかる微妙な距離関係にある。上って回り道するか、下って回り道するしか方法がないので、時間がかかってしまうのだ。
 久々に職場をお邪魔するが、事業展開を拡大しておられる様子である。別の事務所では井戸を掘っていて温泉が湧いたという。それをどうしようかなんて話までしている。うちより後発の同業者なのであるが、やるもんだなあと思う。まあ、うちは特殊事情ニッチ産業なので仕方がないのだが、取り残されていくようでなんだか寂しい。
 何とかOU田さんにはサインしてもらう。昨年のM崎副理事長時代からの成果と考えていいと思う。人とのつながりも連携が必要なのだ。
 このあとも、のぼっちゃんの成果は上々だったという。持ち場の責任者として成果が上がるって、気分のいいものなんだろう。理事会の席でお隣なのだけれど、その誇らしい空気が漂って、僕までなんとなくいい気分が伝染してくる感じがした。こういう伝染病なら大いに流行って欲しいものである。
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