酒を飲みがなら話をしていて、上手く伝わらなかったことがあるような気がする。翌朝ふと思い出して自分の言葉の力のなさをいろいろと検証する。
誤解というものとは少し違うのかもしれない。こういうことなんだと理解して欲しいけれど、もう少しのところで届かないもどかしい感じなのである。
邪魔をしているものがある。説明不足ということももちろんあるが、それだけではない。これぐらいはわかるだろうという期待と共有感を裏切る何か、なのだ。そういう前提を説明しなければならない煩わしさは、又、別の話になってしまう危険さも同時に伴っている。
偏見とまでいかないけれど、常識的な前提。そういうものが邪魔をしている。
まっさらな状態をつくれないかと思う。むしろ若い人に常識の壁が厚い気がする。もちろんお年寄りにも偏見はあるが、まっさらになる方法を知っている人は多い。あくまで僕の感覚だが…。ある種の素直さとでもいうような、姿勢なのかもしれない。
若い人は頑固なのではないかとも思う。けなげさが潔癖さを生む。歴史上の暴動も、若い熱い思いが暴走することを物語っている。
最近即戦力を欲しがる風潮がある。仕事関係ではそういう話は一般的だ。しかし、本当に経験のある即戦力を期待できる人が仕事で役に立つのだろうか。
一方確かに新卒の人は最初から仕事はできない。これは絶対的にいえることだ。だからじっくり覚えてもらうしかない。しかしながら若者の辛抱が足りないと思えるほど、事業所の辛抱も足りないのではないか。
学校側は、すぐに使える学生を育成するために、ノウハウを先に教えて欲しいという要望を持ってくる。一見まっとうな考えのようだが、役に立つようなことばかり詰め込んで、まっさらな魅力を消さないで欲しいとも思う。彼らはスタートをきりやすい状態だからこそ価値がある。いわば贅肉がないからスピードがある。そうだ。骨や筋肉をつけて欲しい。要望があるとしたら、そういう要望である。まあ、職場で贅肉をつけるわけではないけれど…。
経験者にもいろいろあるが、自分の流儀を既に持っている人が逆に厄介でもある。自分の経験が邪魔をする。そういうことに気づいても、まっさらになる勇気が持てるか。自分を捨てることができるとその人は伸びるが、やはりなかなか捨てられるものではない。つまり即戦力は役立たない。
心機一転。そういう人がカムバックできる。今までやってきたからではない。今から始められる人なのである。
自分なりに理解するということは大切である。以前小林秀雄が、七十の人が若い人のように理解するのはおかしい、といっていたように思う。年をとった人が考えることがあっていい。同じ物事をそのようにいうことに、釈然としない感じがしたものだが、今はそうかもしれないと思う。今はわからなくてもいいのかもしれない。僕の理解して欲しい欲望を、飲み込めなくてもいい。それは、今は一方通行かもしれない。しかし、実は必ずしも一方通行でなくなるかもしれない。
記憶というものは不思議だと思う。いろんな物事は忘れ去られてしまうように思われる。しかしながら、どうも脳の機能としては違うらしい。記憶は忘れられることはない。思い出せないだけのようだ。おんなじことじゃないかと思うかもしれないが、思い出せない記憶が、行動に影響を与えている可能性があるという。それなら、同じことではない。
例えば本を読む。一字一句とてもじゃないが覚えられるものではない。しかしながら、片っ端から忘れてしまうように思われて、たまっていく思い出せない記憶が脳の中には残っているのだという。そういう思い出せない記憶こそ、大切なのじゃないかという話がある。役立つ知識より、そういう一見無駄なような思い出せない記憶が、自分というものを形作っているのかもしれない。そして、ふと、いい感じとか嫌な感じとか、整理できない感情として、方向性を左右させるのではないか。
時として、自分でも思いがけない方向転換をすることがある。目から鱗が落ちたり、大げさだが、生まれ変わったような感じのすることがある。目の前の現象に反応していることは確かだけれど、思い出せない記憶にも、何か関係がないのだろうか。
僕は、最近そういうことを考えています。茂木さんの影響だろうね。