カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

田んぼで泳ぐはホウネンエビ

2015-06-30 | 散歩

 田植えの季節に大量に発生するホウネンエビ。名前は豊年海老の意味らしく、たくさん発生するとその年は豊作であるとされる。縁起がいいのである。
 このホウネンエビというのはちょっと不思議な生き物で、田んぼに水を張ると、土の中の卵が一斉に孵化するものらしい。そうして一気に微生物などを食べて成長し、繁殖期になると雄が把握器というものを使って雌を抱き込んだようにして結合する。そうして結合したまましばらく生活する(その間にやるべきことは済ませるということだろう)。最終的には水底にばらまくように産卵をし、その後成体は一生を終える。孵化してひと月くらいの寿命だという。
 卵はすぐに孵化することなく土中にて休眠状態になる。冬季の低水温でも持ちこたえ、また長期の乾燥にも耐えうる。そうして越冬し、また春に暖かい水温になると孵化する。卵というより、植物の種のようなものかもしれない。
 一時期しか見ることはできないが、あおむけになって泳ぐさまは、なかなかユーモラスでかわいい。ふだんは緩慢に泳いでいるように見えるが、外敵から身を守るなどの行動は素早い。生きている時間は短いものの、生命をつなぐ能力は、なかなかの優れものなのである。

※追記:実際のところ、長崎県ではホウネンエビは絶滅危惧種である。水田で有機農法を禁止している地区も多いので、生きながらえなかったといする人もいるが、真偽は知らない。田植えの終わった水田をあちこち眺めて歩いたけれど、ご近所ではめったに見られなくなったようである。何匹かは目にしたが、ホウネンの名前ほどにはおらず、結構探してしまった。もちろん、それでも豊作はお祈りしております。
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恐ろしい女というジャンル   ゴーン・ガール

2015-06-29 | 映画

ゴーン・ガール/デイビット・フィンチャー監督

 5年目の結婚記念日に何の前触れもなく妻が失踪する。家の様子の異変に、夫は当然警察に届けるのだが、血痕などが残されていることが分かり、何者かに連れ去られた疑いが深まる。さらに捜査が進むにつれてもっとも疑わしいのは、残された夫であることが明らかにされていく。確かに男は浮気をしており、実は離婚を決意していた。ワイドショーをはじめ、一斉に世論が敵になっていく。男はこのような問題に強いらしい凄腕の弁護士を雇い、冤罪(何しろ自分には覚えがない)を晴らそうとするのだが…。
 妻の連れ去られ映画というのは過去にも何本かあるようだ。それなりに理由があり、普通は何が愚劣な悪に巻き込まれてしまって、事件を自ら解決する傍ら、妻も救出するというようなものが多い。しかしながらそれらとこの映画の一番違いは、実は男が妻の帰ってくることを必ずしも望んでいないことだ。お互いの関係は、というか少なくとも自分自身は、完全に愛から冷めてしまっている。さらに彼女の家庭環境や、その恩恵にあずかりながらも、自分の生活そのものに対しても、何かひどく行き詰まりを感じている。しかし物語は意外な方向に急展開し、今度はこの邪悪な環境から逃げられなくなってしまうというホラー映画になっていく。
 いくつもおかしな点はあるにせよ、展開としては本当に恐ろしいものである。悪女という言葉一つでは片づけられない、強力な恐ろしいおんな像が描かれている。まったくこんなことを実行できてしまう生身の人間がいるなんてことが、そもそも恐ろしいことなのだ。僕のような男の視点が絡んでくると、自らの行いにも落ち度があるために、この恐怖と行き場のないやるせなさに、本当に身のすくむ思いがする。だからこそ映画化された内容なのだろうけれど、もうちょっと何とかならないものだろうか。一応は治まりを見せているということだけれどすべてが嘘で、そして逃げようがない。その先に時間を考えると、永遠に続く拷問のようにも感じられる。期待できるのは彼女の心変わりのみ。要するに彼女は神なのだ。
 二転三転どんでん返しがあるが、その場その場で修羅場を脱出する術はなかなか面白い。完全なシナリオ通りには事は運ばず、少なからぬミスも犯すのだが、そういうところがかえって人間臭さでもあり、リアルでもある。嫌な気分にはなるものの、こういう娯楽映画もあるのだということで、楽しめる人もいるのかもしれない。
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厳罰化もだが、できる予防対策を

2015-06-28 | 時事

 北海道で親子四人を殺した暴走運転の検証をやっていた。飲酒運転で時速100キロ以上のスピードで信号無視して交差点に進入し、親子の乗った車に衝突し、自らの車はその後炎上。さらに後続の車は車外に投げ出された少年を1キロ以上にわたり引きずり回した。ともに容疑は否認。信号は青だったと証言しているうえに、人を跳ねたという認識もなかったという。はっきり言うが、おそらくウソだろう。
 調べによると、この二人は日頃から暴走運転を目撃されているような人物だった。飲酒運転も常習なのだったろう。危険であるのは周りの人間は気づいていたが、どうすることもできなかった。警察も事前にはそのことは認識していなかったという。
 京都のあるところでは市民からの通報情報を集め、事前に危険運転者を割り出す取り組みをしているそうだ。専任のチームつくり、貰った情報から違反前の人物を割り出し、張り込んで、現行犯で逮捕する。実際にこの取り組みをはじめ、危険運転での事故は3割減少しているのだという。
 他の自治体が専属の人間を割り振るのは困難だという解説はあったが、そんなことは言えないことだろう。自治体の取り組みでどうにかするような問題以前に、成果のある以上怠慢の方が許されることではない。
 もっとも、事前での偏った情報や、監視社会への懸念というのはあるのかもしれない。しかしながらたとえそうであっても、やはり限られた取組で終わらせられることではなかろう。
 法的な厳罰化というのは進んでいるが、本来的な予防が可能な方法があるということが分かっている。自治体での取り組みで違うということも分かった。ここは、政治的な行動の必要な懸案というべきところでありそうである。
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普通にこれはひっかけでしょう   アクト・オブ・キリング

2015-06-27 | 映画

アクト・オブ・キリング/ジョシュア・オッペンハイマー監督

 話題の映画だったんで、いつかは観なくては、と思っていた。あまりにも話題になってしまっているので内容は事前に知っていたんだけど、思った以上に芸術的だったし、それに非常にお話が分かりやすい展開になっていて、まずはそういうことに驚いてしまった。これって本当にドキュメンタリーなんだろうか?
 僕でもそう思うくらいだから、たぶんそう思った人も多かったと思うが、真相はよく知らない。でもまあ、ちょっとやらせは入っている感じがどうしてもしてしまう。被害者が加害者に対してあまりにも無頓着だし、そもそも悪いことをしたとは思っていなかったとしても、表に出る以上、何らかの葛藤があってよさそうなものだ。アジアの人間を多少誇張してバカにしている感じもする。要するにこの映画の視点というのは、あまりにも西洋人的な価値観に裏付けられている感じなのだ。それはたぶん彼らの偏見だし、彼らは彼らの視点でしか物事を見ることができないので、自然にインドネシアのヤクザな虐殺者をだまして誘導し、映画を作るというウソをついて、ドキュメンタリーをでっち上げてしまう。これが事実だとしても、つまるところそういう映画が撮られるという計算が成り立つという背景が見え隠れする。それはショッキングに面白いネタであるという確信があってのことだろう。
 もちろんそういう視点は面白いものだが、だましの文化とアジアの正直さというのは、そもそもこのようなずれがあって当然である。たとえば東京裁判やニュンベルク裁判のようなドキュメンタリーを観て思うのは、われわれ敗戦国の人間からすると、ずいぶんやらせや欺瞞だらけに見えるのに、恐らくそのことに無頓着に撮られているらしいことに気づかされる。悪い人を裁いて悪びれていない残酷さを感じるからだ。罪を犯したと断罪される人間は、単に敵として戦った側であるに過ぎない。本当に罪を犯したからではなくて、負けたから裁かれているのだけれど、それでは都合が悪いので、不正直で滑稽な人々としてフィルムに収めるしかなかったということだろう。
 そういう視点が最初からなければ撮られなかっただろうけれど、やはりこれがウケると踏んで実行に移すからこそ、名作と言われるドキュメンタリーは誕生する。少し内容的には違うらしいが、続編も撮られたといわれている。なんだか、やっぱりね、という気もする。そうしてやっぱり、日本は戦争に負けるはずだよな、と思ったりもする。それは僕のようなアジアの偏見でなければいいのだけれど…。
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方向はほぼはっきりし、無言は続くけれど

2015-06-26 | 時事

 今年は敗戦から70年ということで、先の戦争の話題がいつになく多いという印象がある。戦争を知らない子供たちの方が圧倒的多数になっているだろうけれど、あえて反戦の機運のような声を荒らげるような人たちが居たりする。なんとなく不思議な風景に見えるが、そういう危機感があるような人々では実は違うらしいということもあって、さらに混乱を覚える。危機感のある人なら、今のタイミングで戦争反対などとは間違っても言うことは無いだろうからだ。
 日本が他国に戦争を仕掛けるようなことは、まずどう考えても現時点ではありえない話である。最大の理由は、その始める理由がまったく無いからである。集団的自衛権というのは、前にも内容を考えたことはあるから重複を避けてやめるけれど、敗戦国でない日本以外の国は、そもそも普通に最初から持っている権利らしい。日本は懲罰としてもあるが、なかったとする解釈が無理にあって、その上国際社会から責任上担うべきであるという背景があって、あえて議論になっているはずである。これを無視することはかえって軋轢を生むことになるし、議論さえしないということになると、単なる無責任であるだけだろう。確かに米国の顔色を見てやっているということはなんとなく気に入らないような気もするけれど、いつまでも安全上一方的に守ってやれないよ、という本音も分かるわけで、さらにいうと、地政学上、普通に必要なことであるということも考えると、粛々と進めるより無い話である。
 ところで面白いことに、これが憲法違反だとする学者の判断が話題になったりする。与党の証人なのに、こういう人選をしてしまったのは失態だったとはいえるが、しかしこれが反対派の機運を高めるということにもなったけれど、さらにやはりそれならば憲法自体をやっぱり変えるべきだという話にもなるわけだ。今の憲法には、まったく時代遅れの現実離れした欠陥が明らかだということを、あえて指摘されたにすぎないからだ。そんなことは誰でも承知していたことなんだけれど、仕方なくやりくりして、平たく言うと嘘をつきとおして、破綻しているということになる。しかし簡単に変えられないのも現実で、まったくの茶番のような感じになってしまった。時間的余裕もないから、あえて国会会期はどんどん延びて、まあ、そのまま押し切るより仕方がないことになったようだ。
 ところでそうなると、つまるところ米国へのアピールとしては、かえって憲法違反を押してまで、真摯に日本は取り組んでいく姿勢が明確になったといえるわけである。これは大変に好印象ということになるから、安倍首相にはまったくの迷いが消えたことだろう。議論をしっかりするという国内世論へのアピールを地道にやりながら、同時に同盟国へ恩を売ることができるわけだ。
 ところで、日本が安易に戦争に巻き込まれないようにすべきことを考えると、現実的にはやはり米国の傘の下にあるということが現在の安全だったわけだから、これを今の議論のように強固に守るという方向以外には選択が現実的には無い。逆の方法は中国との同盟を強めることになるわけだが、将来的にはそれは単に国として自ら呑み込まれることを意味することになるだろうし、米国に反旗を翻すことになるということにもなって、一気に危険度が増すことだろう。また出発点に戻ってしまったが、要するに今の議論は、そもそもいったいなんだろうという疑問の方が多いような気もする。平和を希求する前向きな方向を、誰が妨害していることになるんだろうか。
 日本に絞って考えると、日本の集団的自衛権や軍備の増強に対して、最も神経をとがらせて反対の立場をとろうとするのはどこだろうか。それは言わずと知れたことになるが、当然ながら日本人ではあるまい。なぜなら日本のためになることは、軍事的にはその周辺に不利になりうることだからである。たとえば北朝鮮だが、ただでさえ今でも怖いのに、存亡の危機に立たされることにもつながりかねない。自滅が明確そうに見えて、なかなかどうしてしぶとく生き残ってはいる訳だが、そういう寿命に対しても影響が及ぶかもしれない。
 ツイッターでは、日本寄りの中国人の漫画家による風刺画が話題になった。中国や北朝鮮という脅威がありながら、日本の世論では、その脅威の後押しを受けるようにして民衆が安倍首相を苦しめているという図である。中国人から見ても、日本の世論はかなり滑稽に見えるということである。もっとも、そういう世論というのは、対立をあおって遊んでいるマスコミや、方向性や政治的力を持たない一部の先鋭集団であるだけのことではあるのだけど。しかしほんとうの多数派は、特に大声は上げはしない。相変わらず遅々として進まない政治判断を、黙って見つめているだけということかもしれない。
 確かに大声で賛成という気分ではない。しかし現実は見えている訳で、仕方がないにせよやることはやるべきなのだ。地道に努力を積むことでしか、将来的な安全は保障されない。戦争をしたくない、巻き込まれたくないという意思の反映は、むしろ静かに表れているのではないだろうか。
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はんぺんちくわぶは未知の食べ物だった

2015-06-25 | 

 家でおでんを食べないわけではないが、これは比較的近年になってという感じがある。それというのもおでん具材(ネタ)がすっかり変わった感があるせいである。
 そもそもはんぺんを見たのはいつだったか。子供の頃におでんの宣伝があって、はんぺんを食べている風景を見た。あの白いものはなんだろう、と思った。母が「そういえば九州ではあんまり見ないね」と言ったのを覚えている(ちなみに両親が所帯を持ったのは東京が最初。僕は長崎に帰ってから生まれた子である。僕の姉や兄は東京生まれだ)。実際に売ってないので食べたことが無い。ずいぶん後になっておでんだしに浮いているはんぺんを見たときは、かなり失望した。何という軽さ。恐らく成長期の少年には、ボリュームが足りなかったのだろう。
 ちくわぶを初めて食べたときはちょっと驚いた。ちくわぶという言葉は知っていたのに、ちくわぶを食べたことが無いとは自分でも知らなかったのだ。これは居酒屋か何かで食べた訳だが、もう大人になってからだった。それもたぶん福岡かどこか、マイホームタウンではなかった。まずいわけではないが、特に旨いとも思えない。しかし気になって結構食った。貧しい食べ物のような感じもするし、しかし得をしたようでもある。後に聞くところによると、ちくわぶというのは東京地方の局地的な食べ物だったらしい。いつの間にか流通するようになったのだろう。今は九州でも見るようになっているが、しかしやはりメジャーではない。
 コンビニの普及の所為か、おでんのダシもずいぶん変わったという感じもする。以前より見た目は濃いけれど、味が薄い。考えてみると九州はどちらかというと関西風のダシが一般的だったが、関東風が近年席巻しているということもあるんだろう。ダシの黒い蕎麦なんかも最近は見るようになった。いまだに透明感のあるダシの方が主流だとは思うが、流通が良くなると、関東が西も席巻してしまうのかもしれない。今はおでんはすっかり関東風優勢になった感があり、年配の人が家庭において比較的関西風という感じではあるまいか。長崎ではもっと透明なおでんの有名店なんかもあって、しかし少し塩気が強いというのが以前はあった。今やそれらは懐かしい食べ物という気もする。手間がかかるので、根気が無いと作られないということもあるのかもしれない。お手軽なおでん風土という面では席巻もやむを得ないわけで、やはり長崎は多少特殊なのかもしれない。
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酔っぱらいにも理屈があるようだ   ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う

2015-06-24 | 映画

ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う/エドガー・ライト監督

 英国と言えばパブ文化であるといわれる。このような映画などで見たことはあるが、実のところ本当にはよく知らない。男連中が連れ添ってビールを飲むところらしいというのは分かるが、時折女が居てもいいのかもしれないし、しかし厳密には若者から爺さんまで、ワイワイ主に地元民で飲むところらしい。食い物もないではないが、あくまでつまんでぐいぐいやるというスタイルということだろう。銀座ライオンみたいなものかな、とも思うが、やっぱりちょっと違うのだろうな。時折そんなような店が日本にもできるが、結局居酒屋に行ってしまうので、呑兵衛の質のようなものが違うのであろう。
 まあ、そういう店に以前の友人たちと連れ添って、以前達成が出来なかった12軒はしごの飲み会をやろうということになる。以前は断念したということだから、やはり難しい酔狂なんだろう。そうして以前の悪友たちが集まってハシゴ飲み会が始まったのだが、いろいろ事情があって、これがアクション映画に変化してしまう。そうして途中はホラー映画化し、最後の方はさすがに英国人らしく、ちょっと理屈くさい展開になるというお話だ。基本的にはコメディで、ばかばかしく楽しめばいい映画だとは思うが、ふだんはハリウッドばかり見ているような人にとっては、それなりに新鮮に楽しめるのではないだろうか。何しろいろいろ変わっているし、一筋縄ではいかない。美男美女は基本的に出てこないし、びっくりさせられるが、どこかバカバカしい。でもちょっとだけ考えさせられたりもして、ひょっとするとこれはいい映画を観たのではないかという感慨を持ったりでもできるだろう。そういう意味ではお得な映画ということもできるだろう。
 飲んで酔っ払って愉快だというのはそれでいいのだが、もちろんそういうことを僕も時にはやってしまったりもするんだが、しかし、基本的にそれは、冷めてしまうと非常に苦しい。そういう無常観を味わって、楽しいけれどそうそうはまたやりたいなどとは思わない訳だが、しかしまた、どういう訳かやってしまったりする。たいていは古い友人の場合が多いが、めったに会えない状況だったりすると、そういうスペシャル感のある高揚感とアルコールの作用で、タガが安易に外れてしまうということがあるんだろう。お互いに、自分の所為ではないような相互無責任というのがあって、古い友人であれば、これがトリガーになってしまうわけだ。以前にすでに過ちは経験しており、それであっても友人関係が続いているのであるから、もう何も怖いものが無いのである。しかしそれなりに忘れていることもあって、また同じように喧嘩してしまって、今度こそ取り返しのつかないような気分を味わったりもするわけだが、しかし二日酔いになれば、あんまりそういうことを考えるより体の方が苦しい。結局は記憶もあやふやだから、また飲みに行くしか無くなってしまうのだろう。
 しかしながら、多くの場合は楽しい客が多いことだろうけれど、こんな客がひっきりなしにやってくるパブという店を切り盛りするのは大変なことだろうな、とは思う。バイキングの国で、高いリスクを背負って酒を飲ませる勇気があるのが、真の男気のある姿なのかもしれない。
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人間枯れてもいいのだ   シュガーマン・奇跡に愛された男

2015-06-23 | 映画

シュガーマン・奇跡に愛された男/マリク・ベンジェルール監督

 本国アメリカでは70年代に二枚のアルバムを出しながらまったく売れず、そのままシーンからは消えてしまったロドリゲスという歌手がいたのだが、時代を超えて南アフリカの反アパルトヘイトの活動などで彼の歌を象徴的に使われるようなことがあったことで、かの国ではたとえばストーンズなどのようなロックバンドなどよりはるかに有名な存在になっていた。もっとも人物ではなく誰もが知っている歌ということで。日本だと何だかよくわからんけど、泳げたいやき君とか踊れポンポコリンのような誰もが知っている大ヒット曲だということだろう。ところが実は本人はまだ生きていて、肉体労働をしながら生活をしていた。そこで南アフリカに連れてきてスタジアムを埋めつくす大コンサートを敢行する。まさに伝説の人が復活し、人々は大興奮してしまう訳だ。本人も多少の戸惑いは無いではないが、伝説の人だけの人ということでなくして、本当に偉大なシンガーとして健在だったのだ。しかし彼はその後お国に戻って、コンサートの収益金なんかはどこかの団体に寄付したりして、結局肉体労働者に戻って普通の生活をする、というお話だ。ほとんどネタバレだけど、ドキュメンタリーだし、知ってても面白いだろうからぜひ観て確かめて欲しい。
 そのように変なお話だが、事実のようだし力のある作品だ。ロドリゲスがアメリカで売れなかったらしいことは事実だが、本人はメキシコ系のようだし、確かに歌はいい感じだが、多少地味だ。才能を買ってくれたプロデューサーの目は確かだったからこそレコードを吹き込むことはできたが、時代の波としては、やはり何か合っていなかったのだろう。マイノリティというのは、そのような悲しさがあるということかもしれない。
 しかしながらそのような人の歌った歌だからこそ、抑圧されたアパルトヘイトのような状況に、実に絶妙に合うということが奇跡的に起こってしまうのである。そういう偶然と必然の運命的なドラマこそ、出来すぎのような作り物の物語を超える力があるということだろう。ただでさえ凄いことなんだが、実際の当人が、実に仙人のような凄い人で、欲がまったく感じられないじいさんになっている。単なるいい話を超えている。まさになんじゃこれは!というドキュメンタリー作品なのである。
 ということで面白いわけだが、まあ、人間不運が良かったのかもしれないということもそれなりにあるものである。埋もれた才能の多くはしかし、やはり発掘されることもなく埋もれたままのものの方が圧倒的に多数だろう。だからこそこういう話が生きてくるということであって、それに驕らない人格者のような人だったから良かったのかもしれないけれど、そのままドラッグにおぼれたりなんかしたらどうだったのかな、などとも考えた。多くの若いロックスターがそうだっただけのことだが、やはり時代に見捨てられたからこそ、自分を見失わなかった物語ともとらえることができるのではないか。人間枯れた成長も必要だということなのかもしれない。
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歴史観は俺のでかまわない   俺の日本史

2015-06-22 | 読書

俺の日本史/小谷野敦著(新潮新書)

 日本の歴史に特に興味があるわけではないが、考えてみると確かに大河ドラマなどの影響を受けて、それなりの歴史観をいうものを自然にもってしまっているらしいという気はした。しかしながらそんなに熱心にドラマを見続けてきたわけでもないし、実にざっくりとそういうことなんだろうということくらいは、ドラマなどを通じて知っていたかもしれない。特に戦国時代と信長秀吉家康というのは、ちょっと何度も見すぎていて、役者が変わってもそれなりにすぐに呑み込める。さらに幕末のこととなると、やはりいろいろブームもあって知っているような気分はある。ドラマを見ていても、この部分は違うんではないか、などと毒づいたりしている。本からの知識もそれなりにあるらしい。
 そういうことなんだが、それで私生活が特に困るということは無いが、しかし人間というのは厄介なもので、歴史というものをどうしても物語のようにとらえてしまうというのはあるようだ。確かに重要な人物の存在があって、歴史的な事実というのが、あたかもその意思を含めた物語めいた展開をする場合もある。しかしながら時々歴史のイフ問題というのがあって、もしこうならどうなっていたかなどと語られることがある。しかしながら歴史というのは書き残した人がいるから残っているに過ぎないわけで、起こったから仕方がないといえば身もふたもないが、必然なのか物語なのかはもともと何の関係もない。誰かが良かったりすぐれたりしたから歴史が動いたというより、なんとなく偶然でそうなってしまったようなことは多い。徳川幕府の誕生なんかでもそう思うことがあって、いろんな人がどういう訳か裏切って徳川の側について、なんだか奇跡的に勝ってしまって、戦国の人の世の戦いばかりに明け暮れるのにも相当みな飽きていたのか、確かにそれなりにやり方は合理的にうまく運びすぎて、徳川の世は長く続いてしまった。普通に歴史を読んでいると、なんだかそんなような気がする。でもそれではやっぱり面白くもなんともないので、何とか意味があるように読みたいだけではないのか。
 また作家の描き方の人気度というのがあって、また経営者のような人が歴史書から出来事を抜粋したりして、あたかも経営的な視点として歴史を語ったりする。まあ、自慢の仕方もそのほうがかっこいいというのは確かにあるが、しかしあとからそんなことを言ったとして、死んだ人たちが反論しないから成り立つ話だけのことではないか。また経営が上手くいっているのはいいことかもしれないが、何も歴史的に良かったことから学んだ哲学が成功を維持している訳ではなかろう。そうして組織が疲弊して、調子のいい人が退くと、普通にまた悪くなったりよくなったりする。それだって歴史であって、良し悪しとはやはり何の関係も無かろう。
 まあ、そういう無常観で歴史をとらえる人というのはどれくらいあるのかは知らないが、そうであってもそれなりに歴史は面白いというのがあるだろう。好き勝手に語っていいかどうかはともかく、事実を読んで感心したのなら、いろいろと語りたくなるのが歴史というものかもしれない。
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放っておかない社会もあるらしい

2015-06-21 | 境界線

 日本は特に自殺者の多い国であるらしい。お隣の韓国もそうで、これらの国には文化的に自殺を選択する傾向があるとも言われる。旧共産国家の自殺も多らしいという。社会の閉塞感と自殺の選択は関係があると示唆される。
 自殺を選択する二大原因というのがあって、一つは病苦で、一つは経済的な理由である。日本や韓国は比較的国の経済力が高い方なので不思議な感じもするが、そういう中でのコントラストとして、経済的に立ち行かない個人に対して、何らかの支援の少ない国ではないかという見方もある。病苦ということについては当然精神科の患者がいて、これはさらに原因があるのではないかという気もする。
 さて、おおざっぱにはそういうことだが、当然ながら自殺率の低い国というのがある。統計がちゃんととられていなかったりして数値としての信用は無いにしろ、例えばスーダンでは自殺はほとんどないという。その理由としては、もちろんイスラム教国というのが自殺を禁じている背景もあるのだろうが(自爆テロは自殺じゃないかとは思うけど。ま、スーダンのイスラム教に対する偏見ですので無視してください)、自殺をしようにもできないということがあるらしい。たとえば死にたいと悩む人が居ても、道を歩けば知り合いばかりだし、一人になろうにもそういう時間は無い。食事を一人で取ることは無いし、住居も狭くて大家族が同居している。死を考えても実行するのが難しいし、一人で思い悩む時間が無いというのだ。
 それはそれで確かにそうかもしれないとは思わせられるのだが、例えば軍隊のような生活をしていると自殺者が減るのだろうか。特に戦時中に一人になるような機会は少なかろうけれど、果たして自殺者が減るのかというのはちょっと疑問だ。まあ、比較が特殊すぎるが。
 しかしながら核家族化というのは、西洋社会から始まっただろうにせよ、ほぼ都市生活者などには共通するものであろうし、移動の自由が許されている国であるならば、さらにそのような環境が進むことは避けようがないだろう。都市化だけの問題では無いにせよ、いつまでも家族が守られるような環境を保つには、やはり宗教や文化の背景がどうしても関係してくるのではあるまいか。さらに日本に還元して考えてみると、すでにスーダンのような環境に戻ることは無いだろう。要するに考えさせられるにせよ、ほとんど参考になるのかは疑問だ。
 そうではあるが、悩んでいる人を一人にしないとか、放っておかない環境というのは自殺予防になる可能性はあると思う。要は安易に孤独に陥らないということか。友達問題とも関係がありそうだし、実はいじめ問題とも通じるかもしれない。自殺は自分を殺す殺人である。人殺しに陥る苦悩をなくす努力というのは、やはり掘り下げて考えていくべき課題なのである。
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恐るべく南極の寒さ

2015-06-20 | 掲示板

 北極と南極はどちらが寒いか。答えを先にいうと南極の方が寒いらしい。原因として南極は大陸であること。北極は氷が固まったところなので大陸ではない。水の方が冷えにくい性質があるらしく、そこで差が出るらしい。
 また、標高、高さにも差があるようだ。北極は氷の厚さが10m。南極は平均の高さが2500mもあるんだとか。普通に高い山でも寒くなるので、南極みたいに寒くて高ければこれはもう困った寒さになりそうだ。また、南極の氷はあまりに分厚く重いので、南極大陸のほとんどは、海抜0m以下まで沈んでしまっているらしい。地面が下がるほどの氷の重さって、ちょっと想像できない。
 さらに南極大陸は、他の大陸と孤立しているというのもあるようだ。暖かい海流が南極まで流れていかない。南極大陸の周りを巡る海流が南の海からの流れを完全に遮断するために、温まりようもない環境にあるらしい。
 ちなみに最低気温の記録では、北極が-71度で、南極が-89.2度というのがあるらしい。よくわからんが、恐ろしく寒いというのは分かる。
 実は若いころに南極に行ってみたいと思ったことがあったのだが、今となっては特にそうは思わなくなってしまった。寒い毎日を体験するのが怖いことと、そういう時間に何かの研究のような目的のない人間が行くのは、単に無謀だと気付いたからだ。本を読んで暮らしてもいいかもしれないが、それが許される保証はない。また、特に南極に目的のない人間が多いことが、南極の環境を自然に保全することにはならないだろうか。むやみに人間がいけないからこそ貴重な土地というのはあるのかもしれない。そういう夢想をして過ごしている方が、僕にとっては健全なことなのかもしれない。
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謝るのをやめよう

2015-06-19 | net & 社会

 ちょっと前にコンビニなどの店員に土下座をさせて、その画像をネットに挙げたことで逆に批判を浴び、逮捕されたような人が出たというニュースがあった。大変に卑劣な行為だから当然だと思うが、これはしかし恐らく氷山の一角で、日本中では類似の事件がそれなりにたくさんあるのではないか。単なるクレーマーの恐怖という図式があるにせよ、実際に街中において、時折しつこいクレームに怒る人を見ないではない。たいていは一定のところで引き下がっているとは思うが、店に落ち度はあろうにしても、難しい時代になったものだという感慨はある。
 僕が目にするのはほとんどは外食で、レジでいつまでも何か言っている人という感じだ。いわゆるヤクザな人ということではなくて、還暦くらいの年配の人が多いような印象はある。何か頼んでいたものが来なかったとか、店員の態度の件などのようなことだ。言っておくべきという考えで言っておられるようだけれど、なかなかしつこい感じであった。まあ不快な思いをして注意をすること自体は、性格もあろうから言う人と言わない人に分かれるだけのことかもしれないが、つまるところ引き際や落としどころということがいえて、クレームをつけるから即悪いことではない。それはそれなりに昔からクレームというのは当然あるだろうけれど、クレームの人が尊大になりつつあるというのは、単に印象に過ぎないのだろうか。
 ところでやはりそのようなクレームをつけている客に「もうできたら今後来ないでくれ」ということをいう店長という人がブログを書いているのを読んだ。自分でフランチャイズで店を持った人らしく、そのように困る客が減った方が店の利益であるし、素直にそういってもそういう人はどういう訳かまたやってきたりすると書いてあった。なかなかいい意見だと思ったが、例えばバイト君だったりすると、それはなかなか難しいだろう。
 しかしながらこれもドラマか何かだったが、行きつけのコンビニの店員がいじめっ子のバイトになっており、買い物をすると脅されたりする。そうしてお前は買いに来るな、とさらに脅される。一番便利な店なのに困ってしまうということのようだった。これは狭い社会の事だから可能なのだろうが、少し考えさせられた。
 ところで度を越えたクレーマーに対しては、警察の協力を仰ぐなど、それなりに対策などマニュアルを練る動きも出ているようだ。心の病気になるような重篤なものがあるようで、少し極端だが、やはりそれなりに怖い印象だ。クレームについてはある程度落ち度のようなところに付け込まれるということもあって、何とかその場を逃げたいとか、どうしても自分の裁量を超えた謝罪要求に応えられないということが大きい。恐らくもう謝らなくてもいいということの方が重要で、悪いから謝るという行為の限界を示しているのではないか。たとえば殺人などのような犯罪であっても、人によっては謝罪はしないし、しかし求めに応じて謝罪する人はいるだろう。でもそれでそもそも許されることなのかは不明だし、本当に意味があるのかは不明だ。殺人のような凶悪犯罪はともかくだが、罪にもならない過ちに対して、日本社会は謝ることをやめるべきなのではないかということまで考えてしまうのだが、やはりそれは極端すぎる反応の一種なのだろうか。
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失われたものは仕方ないが…

2015-06-18 | 境界線

 牛乳を飲むと大きくなるといわれて、十代の頃は無理に牛乳を飲ませられた。大きくなることを望まないわけではなかったが、お腹の調子が悪くなるらしく、無理には飲めないようだった。牛乳の味は好きだったので、ちょっと残念だが、いつの間にか飲まなくなったようだ。
 実は牛乳を飲めない人の方が多数派である。世界的に見て68%の人が、牛乳を飲めないらしい。酪農の盛んな欧州のようなところだと、少しはその率は下がるかもしれないが、基本的に飲めない体質の人の方が多いらしい。それは牛乳を消化するためのラクターゼという酵素を、持たない人が多いせいだという。ラクターゼは子供の頃には誰でも持っているが、成長とともに無くしてしまう人が多い。要するに持っている人は、成長してもラクターゼを保持することのできた、進化形の人間なのかもしれない。もしくは何かの能力が退化したのかもしれないが。
 牛乳を飲むとお腹の調子が悪くなるような人を、乳糖不耐症という。そのような人でもヨーグルトなら大丈夫という場合は多い。これはヨーグルトの乳酸菌自体に、ラクターゼを持っているためだという。乳糖の大方は既に分解されているので、影響を受けにくいらしい。
 世間では牛乳などの影響が健康に悪いという話もあるわけだが、そのような事実は必ずしも明確ではない。むしろ長寿の人の80%は、ヨーグルトを常食しているという話もある。腸内細菌が良好だと、長寿には影響が大きいということらしい。
 さらに腸内フローラといわれる腸内の細菌の良し悪しで、精神状態や病気などに大きな影響があるという話もある。納豆などの食品や、直接良いという訳ではないが、細菌を増やす役割のある食物繊維などが体に良いとされるのは、そのような理由である。
 健康のことを気にすること自体が不健康の始まり、というヒネた考えはあるにせよ、腸がいいと調子がいいというのは、なんとなく愉快な気がする。まあ、それでも病気になる人はいるんだろうから、過信は禁物であるが…。
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米国の無差別殺戮は簡単には終わらない

2015-06-17 | HORROR

 ラオスはベトナム戦争のおり、物資供給路でもあったためにアメリカ軍から大量の空爆を受けた。多くは当たり前だが森林や家々を破壊し、焼き尽くしたことだろう。当然無差別に多くの人々を殺した。当初は米国国内では、そのことは知られていなかった。大統領はそういう事実は無いと嘘をつきとおした。ラオスは直接戦争とは関係ない国とされており、人道的に許されるものとは考えられなかった為だろう。しかし事実として無差別殺戮は行われていた訳だ。
 さらに問題なのは、現在にわたってもその爆弾の被害が続いているということだ。あまりに大量の爆弾を投下したために、不発弾が多く残ってしまっているのだ。ラオスは農業国だが、作物を作るために畑を耕すと、不発弾にあたって手足を失ったり、亡くなったりする人がいまだに後を絶たない。子供が野山を駆け回るだけで命を落とすリスクがある。さらに現金収入を得るために、不発弾を金属スクラップとして売る人もいる。子供が両親の生活を助けようとして、見つけた爆弾を拾って売ろうとする。そうして自ら犠牲になってしまう。
 爆弾のことはよく知らないが、不発弾は信管が壊れて爆発できなかった場合もあろうが、信管がまだ作動しなかったために爆発しない場合もある。すべての不発弾が不良品だったとは考えにくいから、その多くは、まだ爆弾として生きているものであるかもしれない。
 不発弾の数は7800万発といわれている。現在も爆弾処理は行われているが、その作業が終わるのが200年ほどかかるらしい。もちろんその事実を知っている米国民がどれくらいいるのかは知らない。人の命というのは、事実として平等なのではないのである。
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妖怪はいたるところにいるわけだが

2015-06-16 | culture

 妖怪のことは、外国人にはよくわからんところがあるらしい。Ghostっぽい場合があって、例えば釜だとか履物のようなものが変化したものだとか、馬などの動物が変化したようなものがある。しかしそれらはあくまで幽霊だし、タヌキやキツネが化けるような場合は死んでいるとは限らないし、ウワバミのような大蛇は、やはり幽霊ではない。
 悪い場合だけとは限らないし、特に悪さをしないというのも多い。座敷童のような家につくようなものは守り神のようであるし、fairyっぽい種類とはいえるかもしれない。しかしやはりfairyだと妖精ということになるんで、ニュアンス的にはちょっと違う。だいたいあの蝶のような羽の生えた小人であるとか、キューピッドのような子供的な姿というのは、やはり宗教的な幻想がもとにありそうで、日本のものとは違う。じゃあ日本の妖精とはなんだということになると、イメージ的には宮崎駿的な森のモノノケということなんだろうか。
 monsterが一番近い感じもするが、ちょっと限定しすぎかもしれない。落語などの世界にでてくる(特に上方)天狗や鬼などは、かなりモンスター的なもののようだ。しかしながら恐らくだが、特に天狗のようなものというのは、日本人が見た外国人から派生したもののように感じられる。その姿の恐ろしさから、勝手に怪物を想像したのではないか。しかしながらこれが妖怪の一種かというと、それなりに議論もありそうな感じもする。桃太郎のような人間なんだかどうかも怪しいものは、妖怪なのかも怪しい。竜宮城の住人も、あれは魚たちの変化の姿であろうから、果たして妖怪と言えるのだろうか。
 基本的に妖怪的なのは、やはり河童などのようなものだろう。さらに水木しげるの影響力は大きくて、鬼太郎の世界観が主な妖怪のイメージの基礎になっている気がする。また、アニメのポケモンとか今はなんだっけ? 妖怪ウォッチのようなキャラクターというのがあって、これは既に恐ろしさよりかわいさが主体であって、僕からすると少し違和感がある。まあ、妖怪に伝統が必ずしも必要でないという考えもあろうから、古い考えは邪魔にはなろうけれど。
 しかしながら要するに、生活の中の戒めのようなものに、妖怪のかかわりは深い。神様との対話において妖怪がいるというより、人間の驕りに対して妖怪がいるという図式である。人間はある意味でその存在自体が忌まわしいものだが、自分自身ではそのことを感じにくいということがある。しかしわけのわからない妖怪のような存在が居て、ふだんはただいるだけだから何のかかわりもないくせに、何か人間的なエゴが見えると関わってくるような恐怖がある。自制になるわけだが、そうなると日本の妖怪は、日本人の良心の姿ということにもなりそうだ。良心がある種の醜かったり恐ろしかったりする妖怪であるというのがなかなかのセンスだと感心するが、それは自意識の中の遠慮のようなものかもしれない。
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