カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

孤独な死は孤独に見送ろう   おみおくりの作法

2023-11-30 | 映画

おみおくりの作法/ウベルト・パゾリーニ監督

 孤独のうちに亡くなり、身寄りのはっきりしない遺体の家族を探して、何とか葬儀に立ち会ってくれるように交渉する役人がいた。なかなかに難しい仕事のようで、遺品の中から手掛かりを探して、家族と思われる人に連絡をするというものである。何故孤独死したのかは分からないけれど、孤独になってしまった人の生前つながりのあった人々は、その孤独な人との良好な関係にあったとは思えない人々なのである。だからほとんどの人は、この誘いに応じることは無い。それでも何とかつながりのある人で、葬儀に来てくれる人がいるはずだと信じているのか、役人は淡々と仕事をして孤独死関連の人々を探すのである。
 仕事については丁寧にやるために、いささか効率は悪いのかもしれない。若いやり手らしい上司が現れ、仕事の効率化のためにこの部署は統合され、そして男は解雇される運命と宣言される。仕事に生きがいを感じていた様子の男は、実際激しく失望するが、気を取り直して最後の仕事は、さらに丁寧にやり遂げようと、残された家族を探す旅に出るのだった……。
 演じている俳優さんも独特の雰囲気のある個性派のようで、静かに無表情である場面が多いが、しかし時には激しい感情も見て取れる。毎日同じようなことの繰り返しをしているように見えて、わずかな違いを楽しんでいるということも言えるかもしれない。似たような恰好をして似たようなものを食べ、似たような場所を往復する。しかしそれらは、一種の彼の信念でもあり、死んでしまった孤独な人間への、愛だったのかもしれない。
 それなりに変な映画ではあるにせよ、やっぱり日本の「おくりびと」とは、かなりちがった話になるものだな、と思った。日本にもこんな人はたくさんいそうだが、映画にするとなると、それなりに味付けは変わってしまうだろう。そもそも死んだ人間に対して、なんだかあちらの人々は、ちょっとドライな対応をする。そうして人間づきあいとして理解できると、その人のために、つまりこの役人のためにやってもいい、という感じになっているようにも見える。例えば、幼い頃に分かれてしまった暴力的な父親のことなんて、実のところやはりそんなに興味の無いことかもしれない。ああ、やっぱり孤独で死んだのか。それで自分は葬儀に出るなんて、言われないと行かないよな。という感じか。まあ、僕も間違いなくそう思うはずなんだけれど、現実はそうじゃないのでわかりません。
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人間らしく間違える機械の姿

2023-11-29 | 時事

 何かと話題のAIのチャットGPTなのだが、最近これのエラーを狙った犯罪めいたものが知られるようになっている。なんでも関西弁で解答をするチャットがあって、それに丁寧語で返答するように指示すると、エラーが出て、別の情報が流れる事件があったのだそうだ。または意味不明の質問の仕方があるようで、「###○○で意味を答えよ」みたいな感じで質問すると、相手が混乱して作成したコードなどが流失したりするそうだ。作成側もこれらの対応は行っているのだが、ある意味いたちごっこの感があり、どんどんとAIを混乱に落とし込むような手口が開発されることがあるらしい。
 そういうものかな、と思って僕も九州弁で文章作れとかいろいろやってみたが、まあまあそれらしい文章が出るので、既に対策はうたれているのかもしれない。そういう情報が広がった時点で、GPT側も必死である(のかもしれない)。ある程度のアルゴリズムで作成されているだろうことは考えられるが、そもそもプログラム言語で作られたものばかりでは無いそうで、そういうところにも脆弱性があるということである。またネットの情報やら質問の事項から学習して返答するというプログラムが組まれているわけで、質問自体を学習対象にしている以上、悪意のある質問形式に、AI自体が騙されたり混乱させられるというのは、いわば宿命めいたものがある。AIに反発心を抱いている人の多くは、AIがあくまで無機的なコンピュータであるにもかかわらず、人間らしいふるまいをすることに気持ち悪さを感じていると言われている。ところが、人間らしく騙されやすい性質まで兼ね備えていることに対しては、どのように感じるのだろうか。ある意味きわめて人間的であり、共感めいたものを覚えないだろうか。僕なんかは、なんだかAIがいじめられているようで、可哀そうな気もしないではない。まねしてなんとか騙してやろうなんてことを試してみたくせに……。
 それにしても既にこれは動き出していることであるので、AI側というか、開発している側は困っているわけだ。これを開発している会社のみではなく、これを支援している国の機関なども、これらの対策に追われることになっているという。今やAIの将来性が、私たちの働き方の行方まで左右しているとまで言われている。コンピュータやロボットなしに、我々の将来は描けないのである。具体的にどうなるという予想もたくさんあるけれど、人間の代替であるAIは、結局人間的なエラーを繰り返す存在のようだ。という事であれば、これまでの人間社会の延長上にある未来と同じである。それってそんなに脅威なことなのだろうか。いや、人間らしいから信用できないのなら別なのだが。
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いわゆる究極の選択、かも   由宇子の天秤

2023-11-28 | 映画

由宇子の天秤/春本雄二郎監督

 以前に起きた「いじめ自殺事件」を、ドキュメンタリーの作品にしようとしている。この事件で当時激しく叩かれていた担任の先生も、抗議の自殺を遂げているという凄惨な結果になっているが、学校側の対応や、追い込んだマスコミを含め、事件を追っている制作側の人間にとっても、この事件はなかなかの難題を含んでいた。製作の本元であるテレビ局側からの圧力もかかっていて(このドキュメンタリを作っているのは、独立系のメディアのようだ)、自由に構成を練ることすらままならないのである。そんな中、父が経営する学習塾(主人公である女性は制作ディレクターであり、ここの娘である。そして学習塾の先生も父の手伝いとして続けている)の女生徒の具合が悪くなり、後に妊娠していることが分かる。そうしてその父親というのが……。
 事件の被害者と加害者、そうして事件を追っている制作側の人間とその日常、又はその製作状況そのものの状況というものが重層的に絡み合っており、それぞれに重要な真相を隠し持っている。それらが表に出ることを、いわばメディアとしては狙ってはいるのだが、そうした立場と共に、表に出ることで、大きな代償を払わざるを得ない現状もある。それはそれに関わる人間個人を激しく傷つけることにもつながるし、いわゆるそのために人生が終わってしまった人々をドキュメントもしているわけで、自分がまきこまれることは、その後の人生の終わりも示している訳だ。
 しかしながら、その真相のカギというか秘密のいくつかを、女性ディレクター個人が握ってしまう状況になる。そこに映画の題名である個人の「天秤」という判断に迫られる。事件を追っている作品を世に出したい、という強い思いが先ずある。妨害に我慢しながら、必死で作った作品なのだ。そうして家族の問題がある。これは、正義を通すと崩壊する。しかし、犠牲になるのは、まだそのような判断さえ自分ではできない、社会的な弱者なのだ。
 観ていて、行政の手を借りるべきところはあるとは感じたが、それらの第三者の判断にゆだねていい結果になるとも思えない秘密も、絡んでしまっている。貧困問題もあるが、それも個人のみにかぶせられるものではない。噂もあるし、人間不信にも陥る。そうして女性ディレクターは、徐々に自分の正義も分からなくなってしまうのだ。
 もう少し尺を短くできたら、名作として残る作品になったかもしれない。十分に面白いし、構成も見事なのだが、なかなか流通しそうにない感じもする。重要な科白も聞き取りづらい。ものすごい音量で聞き返しする作業も、必要だった。多くの日本映画は、残念ながら字幕が必要なのである。
 この映画を観た後、その後を考えさせられることになるのだが、さて、みなさんならどう考えるだろうか。そういうことをグループワークで、聴いてみたい映画である。観た人とオフ会をやりたいものであります。
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客が来たら片付けるか?

2023-11-27 | 雑記

 よくある光景に過ぎないが、部屋に遊びに行くと、ちょっと待ってと言われ、ドアの外で待たされることになる。部屋を片付けないと入れられない、というのは、割合日本人の感覚としては、あるある、なのかもしれない。しかしこれを外国人にすると、かなり変な風に受け止められることになる。知り合いであったり友人なら、いくら部屋が散らかってようが招き入れるのが、マナーのようなものだからだ。また外に待たせるより、招き入れてから待たせるのが普通だ。部屋の構造の問題や広さの関係もあるとは思うが、外国映画でも見てみると、よく分かる話である。外に待たせて何かを片づけるというのは、たいてい悪いことを隠すためであって、何にもないのであれば、いったんどうぞと中に入れる。向こうは握手文化を含め、いったんは相手を認め、その後裏切られたりすると激しく攻撃や反撃をするという考え方なのである。だから最初から認めてくれない相手(日本人)というのは、なんだか不信の対象になりやすい。また友人であればさらに、ちょっとした壁を崩さない嫌な奴に見えかねないのである。そんなことみじんもないのに。
 さてしかし、この部屋を片付けてから招き入れるのは、日本人にとっては、相手に配慮するマナーめいたものがある。せっかくお見えになったのだから、少なくともきれいに見せる必要があると考えるためだろう。自分も恥ずかしいし、汚いところに招き入れるのは、相手にも申し訳ないという心情がある。これは日本の家が狭いというのがまずはあるが、畳文化の所為ではないかという論調もある。畳というのは、そこに布団を敷いて寝る場でもあるし、それをたたんで何かをする場でもある。表面にあるものを片づけることによって、使用する目的が変化する。上にあるものは常に片付けられるものである。だからいったん何でも置いていいところでもあるけれど、きれいに整えられる宿命を負っている。日本人が外国人に比べてきれい好きのように見えるのは(と少なくとも日本人は思っている節がある)、そのような片づけの文化を背負っている所為ではなかろうか、という訳である。
 さてそれがそうなのかは実のところ僕にはよく分からないのだが、僕はどちらかというと、外国人の側の感覚の人間なのである。人が来たところでいちいち片付ける事なんてしない。相手が座るべき椅子の上に何か乗っていたら別だけれど、それも相手がのけたらいいことである。僕の机の上に乗っている資料の上に、相手が持ってきた資料のようなものを広げても全く平気だし、そもそも汚いものを相手に見られたところで、ちょっとバツが悪いな、はははは、ということである。自宅はつれあいが片付けてくれるのでよく分からないが、それ以外は、さすがにどうかな、ということにならない限り片づけない。気分転換になるのなら掃除もするけれど、それより他のことが気になるたちなので、片付けは後である。それでまあ困ることも年に何回かはあるけれど、片付けたからいいことがあったかどうかもよく分からない。だったらそのままにしておくだけのことで、お客さんはいらっしゃいである。どうか気を悪くしないでくださいませ。
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生活が犠牲なる親子関係   お父さんと伊藤さん

2023-11-26 | 映画

お父さんと伊藤さん/タナダユキ監督

 原作小説があるらしい。未読なのでどこまで再現されているかは不明である。しかしながらタナダユキ作品なので、それらしい雰囲気が漂っていた。
 兄夫婦との関係が上手く行かなったらしい父が、娘のアパートに転がり込んでくる。娘の彩は、20歳年上の男と同棲していた。父親は厳格というのではないが、なにか妙な頑固さとこだわりのある男で、二人の生活にいろいろと波紋をおこすことになる。娘としては心底嫌になるが、元小学生の教師で、なおかつ妻には先立たれて、息子の嫁とも関係が上手く行かない可哀そうな老人ではある。さらに父であるのは間違いなくて、放っても置けない。
 しかしながら結婚ということまで考えていないけれど、一緒になんとなく暮らすようになった伊藤さんは、この父との関係を、そこそこにとりなす存在になっていく。何しろ20も上だから、娘よりずっと父親に近い存在かもしれない。さらに娘には分からない男同士の意思の疎通があるようなのだ。父親もだんだんと伊藤さんを信頼していく様子で、当初は娘とはずいぶん年が違う上に、アルバイトなのであんまり経済的な余裕もない男に不満があったのだが、娘とは衝突ばかりだが、伊藤さんとはそういう事にならないことで、居場所ができたということなのかもしれない。
 妙なぎこちなさが続くが、それは娘の心情に立ってみると、基本的にこのようなことになるのが困るからである。兄嫁の限りないつらさを思うと、やはりそちらでは無理かもしれないとは思うものの、こちらだって気ままな暮らしを犠牲にした上に、伊藤さんだってほんとうの心情は迷惑だろう。ずっとこんな生活をしていくと、気ままだから一緒に居る関係上、伊藤さんは出ていくかもしれないではないか。
 さらに大きな事件も起こるが、ひょうひょうとしている伊藤さんにも意見はある。結局は親子関係であって、誰かに頼るだけの解決というのは見当たらないのである。困ったおやじもあったもんだが、単身で暮らせないし、そうさせることがいいとは考えられない。それが肉親関係というものかもしれないし、そういう文化がまだ残っているせいかもしれない。父親はあわれなところがあるものの、何しろ娘とは全然性格が合わない。娘が心配なのはわかるが、娘はそれにこたえる生き方ができないのである。
 そういう物語だが、悲惨だが悲痛な感じではない。いわゆる緩やかなコメディにはなっていて、実際にそんなに笑えるわけでは無いが、これじゃあ駄目だな、という感じが面白いのかもしれない。こういう事ってどこでも普通にあることであって、共感を得やすいとも考えられる。現実に目の前にあると、結局は向き合うよりないということもあるので、参考になる人も多いのではないだろうか。
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曲を飛ばしながら聴くアルバム

2023-11-25 | 音楽

 なんとなく目にとまって、ひさしぶりにジョン・レノンの「ダブルファンタジー」を聴いていたのだが、ああそういえばこれ、あんまり聴いてなかった理由を再び思い出した。
 このアルバムの背景として、当時としては、子育てのために活動を休止していたジョンだったが、長い間休んでいた後に、満を持して活動を再開する期待感と共に、最高の形で「スタンディング・オーヴァー」で始まる訳だが、その次にガクッとずっこけることになる。オノヨーコなのである。日本語で「抱いて、ダイテ、だいて……」と繰り返し色っぽく歌われる訳だが、どうにもこうにも人前どころか一人で聴いていても恥ずかしくて落ち着けない。そうやってジョンとヨーコの曲が交互に入っているのである。
 買った当時最初の一回だけは通して聴いたと思うが、その後はヨーコの曲をわざわざ飛ばし飛ばし聴かなければならなくなった。そういうのってちょっと面倒なのである。オノヨーコは元日本人の女性として、そうしてジョンのパートナーとして、世界的にも有名で、そうして日本でも最初はちょっと誇るべき女性という立ち位置だったはずなのだけれど、日本のジョンのファンの少なからぬ人たちからは、なんとなくスルーされているわけだ。いや、はっきり言って、かなり疎まれていたはずである。そうしてこのアルバムは、ジョンがそのあと殺されたという衝撃と共に、ジョンの曲以外と共に、ちょっと葬られてしまった感がある。思い出すにはあまりにつらい。
 僕なんか中学生で、やっとビートルズでもはっきりとジョンの足跡をたどるようなことと、そのロック性に目覚めたときだったので、もうオノヨーコの声を聴くのが嫌だった覚えがある。当時はビートルズは、はっきり言って古典で(今の古典感とはちょっと違うのである)、新しいものがたくさんある中、神格化した部分では聴かれたが、それはほとんどレットイットビーか、抱きしめたいか、イエローサブマリンであって、ジャーナリズムの思い出だった。今はもっとひどくなった部分はあるけれど、ジョンのロック性はむしろ封印されてしまった。時々はイマジンであって、コールドターキーがかかるなんてことは無いのである。
 でもまあオノヨーコを落ち着いて聞いてみると、その構成においては、ジョンがそれなりに色付けして遊んでいることも見て取れる。変な声で歌も下手だけど、なんとなく本人が持っている芸術性のような方向も分かる気がする。勘違いかもしれないけど……。東洋的で神秘的で、そうしてちょっと変な前衛的なところが、ジョンのこころを捉えていたことは間違いなさそうだ。まあ、今後もこのアルバムを聴くときは、やっぱりヨーコの曲は飛ばしながらという作業は、必要になっていくのだろうけれど……。
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環境が悪くなるとオスが生まれる

2023-11-24 | Science & nature

 田んぼなどで子細に見ると、たくさんいるミジンコ。体が透明で、エビやカニの仲間である甲殻類である。背中に心臓があり、目は一つしかない。水中で食べ物を集めるようにして食べる。
 ミジンコは、基本的にメスだけで増える。条件が良いと、一度に50匹ずつ増えることができる。そうしてまた二日ごとに、増え続けられる。そうやって大発生することが多々ある。多くの捕食者がいて、それらの生態系を支える重要な存在だとも考えられている。そうやってたくさん食べられても、どんどん増えるので生き残ってきたともいえるのかもしれない。
 しかしながら、生きていく環境が悪くなり、栄養状態が悪くなり、たくさん増えなくなってしまうと、突然オスが生まれる。悪い環境になっても対応できるような、新しいタイプの多様性を高めているのかもしれない。
 実際のところ、効率から考えると、メスだけで増えていった方が、生き物としては合理的である。メスだけでも突然変異が起こることは知られていて、長い歳月をかけて進化することを考えて生き残り戦略を立てるとすると、メスだけで増えた方が、いいということになる。
 しかしながらミジンコの例で考えるならば、条件が悪くなった時だけ、ちょっと変わったものを混ぜる必要が出てくるのかもしれない。なんでも擬人化して考えるのは危険だが、やっぱり人間のような哺乳動物に必ず雌雄があるのは、そのような環境への適応という観点からのものなのかもしれない。水たまりの環境というものであっても、自然界としては十分に厳しいような気もするが、ある程度の均質的なものとはいえるかもしれない。しかしながら人間は、アフリカ大陸から飛び出して、極限の場所にまでも進出し、今や宇宙にまで飛び出そうとしているように見える。様々な環境に適応できるだけでなく、そのような冒険が、いわば許されるようなことになったともいえる。それが果たして合理的なことなのかはよく分からないのだが、ミジンコのような合理性を捨てたために獲得できたものなのかもしれない。僕は男なので、ちょっとだけ感謝すべきことなのだろうか。
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子分を持つと大変なのである   いますぐ抱きしめたい

2023-11-23 | 映画

いますぐ抱きしめたい/ウォン・カーウェイ監督

 この監督のデビュー作らしい。出演者はなじみがあって、若いころからずっと一緒にやってきたという事なのかもしれない。低予算だというのは分かるが、非凡な映像世界もあって、さすがだな、というのが分かる。でもまあ、僕が馴染んだカーウェイ監督作品というのも、実際ははるか昔の話であって、古さというのでは、大差ない話なのかもしれないが。
 チンピラの男の家に、病院に通う必要のある従妹のマギーが転がり込んでくる。チンピラ・アンディには問題ばかり起こす弟分のジャッキーがいて、そのやらかしたへまの後片付けのような事ばかりしている。それはヤクザ社会の中にあって、見栄もあるが、たいへんに危険を伴うものである。そのアンディには、チンピラ同士のライバル関係にあるトニーとの対立があるようで、そこにジャッキーは火種をどんどん持ち込んでくるような事ばかり繰り返すのだったが……。
 元々アンディには彼女はいたが、事実上フラれ傷心に苦しんでいる。そういう中従妹とはいえきれいになった女性が転がり込んでくるので、忙しいながらも気になっていくわけだ。しかしジャッキーが問題ばかり起こすので、マギーもついて行けないという感じで、故郷の島に帰ってしまう。そうしてそこで地元の医者の彼氏ができるのだが……。
 いくら弟分とはいえ、ジャッキーは基本的に馬鹿である。見栄を張るためライバルから借金をして首が回らなくなり、兄貴のアンディに助けてもらうが、その恩を返そうともしない。そうして更に抗争に火をつけるようなへまをやらかす。普通なら死んでいるが、助けるためにアンディは、さらに無茶をして相手を怒らせることになる。こうなると、ちょっと手が付けられないな、という感じにまでなってしまうが、さらにジャッキーは一発逆転を狙う無謀な賭けに出るのだった。
 まあ悲劇だと言ってもいいのだが、こんなになるんだったら、最初から自分でやってもいい問題もあったのではなかろうか。ここまで子分に献身的な兄貴がいたら、ヤクザ社会ももう少しましになるような気がしないではない。実際のところは知らないので、実は何も言えないのだけれど、やっぱりあり得ない話なのかな、とは思う。ヤクザが人情に篤いなんてことは幻想であるのは、猫でも知っている事実だろう。そんな人がヤクザになれるわけが無いのである。何故なら堅気の方が、ヤクザに比べたら何倍も人情が篤いのだから……。
 ということで、いい人は報われない、というお話なのであった。
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和からしだけで、日本化する

2023-11-22 | 

 マスタードと和からしは別物だが、原料となるのはどちらも「からし菜」の種である。アブラナ科のからし菜の種は、そのものはあまり辛くは無いが、つぶして水を加えると辛くなる性質がある。マスタードは主にからし菜の白い種を使うことが多く、酢や砂糖、ワインなどを混ぜて作る。比較的マイルドな辛みを出すことを目的としている。それと比較すると、和からしの方は、かなり辛さと独自の香を強く出すことを目的としているのかもしれない。
 そうではあるのだが、おでんなどの料理に使われる際に味が際立つのは、辛さだけでなく、うまみなのだそうだ。いっけん辛さを目的とされているようでいて実はそうではなく、食の相性でいうとうまみが目的になっているとされている。なんだかちょっと不思議ないいまわしに翻弄される思いだが、単純に油分を抜いて粉にしたものを水やお湯でといただけのものでありながら、やはりずいぶん日本的な味になる。あえて他の調味料と混ぜないで、辛みと香りを強くして料理と調和させることを考えているということのようだ。
 あまり試してみたことは無いのだが、だから生魚のようなものとも本来相性は良いらしく、カツオの刺身などにも和からしは用いられることがあるという。ワサビとは使い分けられているようにも思うのだが、地区によっては和からしを、もう少し大胆に使うところもあるのかもしれない。
 ところがこの原料となるからし菜の種を生産している農家は、日本ではほとんどいなくなってしまったという。つまり、原料のほとんどすべて、外国産なのだ(ほぼカナダ産)。粒が小さく機械での選別が難しく、したがって手作業が多く生産性が低いために、日本で作ることが困難なのだろう。そうなると国産だと、それなりの金額になるかもしれない。一般市場に出ることが困難になるということなのだろう。
 日本だとおでんには定番だし、ちょっとしたあえ物だとか、からし酢味噌でネギとか鯨の湯引きとかも食べる。皆僕の好物である。それとこれは中華なのだが、豚の角煮には和がらしが欠かせない気もする。
 それで思い出したが、中華なのに中国では確かに和からしは付けてなかった。中華の角煮はだから中華であって、日本の角煮は日本料理(卓袱など)ということなのだろうか。ちょっと分かんなくなってきたが、日本に来た中華には、日本人が和からしを用いたということなのかもしれない。シューマイなんかも向こうでは、からしはつけてなかった気がする。
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廃屋も老朽マンションも……

2023-11-21 | HORROR

 空き家廃屋問題も深刻だが、マンションなどの老朽化というのも深刻なのだという。管理組合などで、住民で一定のお金を出し合って対応を練っているものと思うが、実際には積立金が足りてなかったり、住んでいる住民が亡くなるなどで逆に滞納金で借金状態になっていたり、そもそも住んでいる人々の高齢化で、年金生活で管理費の値上げが難しかったりなどなど、問題に対応しようにも先立つものが無く、住むのに危険な状態に陥っているところもあるのだという。行政が立ち入って、例えば取り壊しなどに至ると、いったんは安心と言えるかもしれないが、関係のない人々の多額の税金が投入されているということになり、それはそれで問題なのである。さらにそれではとても解決できないハードルが幾重にも重なりあって、動かせる人が不足しているのである。
 基本的には、これに仲介できる民間の会社やNPOなどの力を借りたうえで、住民を説得納得の上でお金を出し合ってやるしかないのだが、既にそれらの手を借りる前にコミュニティーが崩壊していると、どうにもなりそうにない。お金の問題だけでは無いのだが、家族とも関係の切れているような人が混ざっていたりすると、さらに決定できる人どころか、相談さえできないということになる。
 実を言うと、仕事の上でそういう遠い家族が問題に陥ってしまったというケースがいくつかあって、基本的には財産放棄したというのを見てきたことがある。司法書士や行政などから財産の件で、などという話が来るのだが、たいていは負債の方で、本人の判断が難しい場合があって代わりに話を聞いたりするのだけど、ちゃんとした内容を教えてくれるということは稀である。内容を聞くと断って来る、というのを知っているからである。そうしてうっかり相続などをしてしまうと、多額の借金と面倒を背負うことになる訳で、なかなかに危険なのである。だいたいの事情を第三者的に調べてみることで、やっと内情を聞き出せることができるわけだが、これだっていろいろあるのである。
 なかにはちゃんと修繕やら保全のできるものだってあるのかもしれないが、これもある程度プロというか業者が入って魅力ある形にして売買をするなどをしてくれない限り、そう簡単に素人では対応できない。これを専門にする企業もあるというが、ある程度の立地条件等が整ったところであるとか、都市であるとかでないと、それも難しいのではあるまいか。つくづくと、人間関係が切れているような核家族化というのは、先送りにするだけで問題が肥大化していくということなのかもしれない。住宅というのは、その最後の在り方を残すものなのであろう。
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一分間の沈黙がもたらす奇蹟   フィッシュストーリー

2023-11-20 | 映画

フィッシュストーリー/中村義洋監督

 原作は伊坂幸太郎。じつはこの映画、ずいぶん前に見たことはあるのだ。森山未来が正義の味方で出てきた時に、やっと思い出した。ちょっとカッコよすぎですが……。
 巨大彗星が地球にぶつかる5時間前、つまり人類滅亡まであとわずかしかない時間の中、まちは荒廃しつくしているが、いつも通りレコード店を営業して、いつも通りレコードを聴いている人がいる。聞いているのはフィッシュストーリーというアルバムで、この表題曲には間奏部分が約1分無音になっている。それは何故かというと……。
 この1分間にまつわる解散したバンドのエピソードや、この一分間にまつわるホラー伝説をめぐっての事件、そうしてこの曲に懸けた若者たちの思いが、ある軌跡へとつながっていくという、時空を超えた人間ドラマが重層的に展開される。ちょっと説明が厄介なのだが、フィッシュストーリーという題名も含めて、構成が見事なエンターテインメント作品になっている。出ている俳優たちも今となってはそれなりに豪華で、そういうところも時代性があって面白い。そうして不思議にそんなに古びていない感じもする。そもそもなんとなくチープであるのだが、それが時代を感じさせる効果もあるのかもしれない。さらに斉藤和義が、この表題曲を提供していて、この曲もなかなかにいいのである。実際に俳優たちが演奏しているようには見えるが、どうなんだろう。確かに僕らが若い頃のパンク感があって、一緒に音響にたずさわっている音楽プロデューサーなんかが、若い音楽のことをわかってないところもよく描かれている。まあ、時代に合わず売れなかったんだらか、商売として分かっていたのは会社側の人間だったのかもしれないが……。
 実際にはいじめられていて嫌な感じだとか、社会に対する大いなる反発心だとか、仲間の裏切りのようなものだとか、いかがわしい宗教だとか、そうして取り返しのつかない失敗談とか、それぞれに、いかにもという身近な感じで分かるからこそ、そのつながりの壮大なあり得無さへの展開が、なかなかに爽快なのである。そうなっていいのか? とも思うが、そう来なくちゃ、とも思う。若い頃の僕は、これを観ていったい何を感じたのだろうか。ほとんど忘れていたけど、悲鳴が聞こえたら、やっぱり助けに行かなくちゃ、とは思ったんじゃないだろうか。今でもそう思うからね。実際どうなのかは、分からないけれど……。
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種子を体につけて歩く

2023-11-19 | 散歩

 一年中そうであると言えばそうなのだが、しかし秋の散歩のときには特に思うのは、歩いていてやたらにズボンなどにくっつく種子が多いということかもしれない。ズボンだけでなく靴の紐にも付くし、靴下にもつく。シャツにも付くし、頭髪にもついている。目に付くところばかりとも限らず、椅子に座るとお尻にチクりとすることがある。一つ一つ取り払うのもめんどくさい。そうして一緒に散歩している睦月ちゃんにもたくさんつく。彼女の場合は、自分からそれらに積極的に近づき、自ら進んでつけている可能性もある。そうやって種子は違う場所に運ばれ、そうして違う場所で新たに生育場所を見つけているということなのだろう。頭脳を持たずして素晴らしい戦略を立てているわけで、やはりそういうところに、何かの意思のようなものを感じ取らざるを得ない思いである。
 できる限りそのような危険を回避して歩きたい、という思いはあるのだが、何しろ自然豊かな田舎を歩いているので、すべてを回避することは不可能である。都市部というような場所は無いにせよ、住宅街や、舗装ばかりのところを歩いていることも多いのだが、たとえそうであっても何かの種子とはあるもののようで、本当にいつの間にか何かが体にくっついていて、驚くことがある。まったく覚えは無いのだが、彼らの戦略の中に僕はおそらく組み込まれていて、その指図通りに歩かされているのかもしれない。
 時々は立ち止まって、くっ付いた種子を取り除くこともあるし、やはり帰ってからまとめて玄関先で取ることもある。車の運転中に気づいて取ることもあるし、食事など座っているときに気づくこともある。背広などでもついていることがあって、移動以外に歩いていなくても、ちゃんとくっつく植物は間に潜んでいたのであろう。そう簡単に逃げられないのであれば、後で取り除くよりないのである。
 それにしてもそのようにして取り除かれた種子のほとんどは、いわゆるごみ箱のような場所に捨てられているということにもなる。気づかないうちに違う場所に落ちているものがあるのだろうけど、僕の手によって取り除かれた種の多くは、やはりごみ箱から抜け出せず、ほとんど焼却されてしまうのだろうと考えられる。考えてみると、いくら戦略であろうとも、いささか効率性は良くないとも考えられる。しかしながら同時にこのような作業を常に必要とするくらい大量の種子が、僕と同じような人間や動物などについて移動しているのだろう。それだけ多くの種を生産させてもなお、子孫を残そうとしていることを思うと、生き物の生き残りにかける執念というのは、並大抵ではないのかもしれない。日本は少子化社会になって久しいが、いつまでも増え続けるわけにはいかないことは理屈では理解できるものの、なにか本能的なものとは別の生命的な反乱が、起きているということが言えるのではなかろうか。
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「かわいい」は理解できるし分からない

2023-11-18 | Science & nature

 ヒトに飼われるペットの多くは、長年人とのかかわりの中で、いわゆる成熟した大人になってもなお、ひとになつく。野生動物はだから、ひとに飼われるようになっても、そうそうなつくことは無い。オオカミと犬は、遺伝的には同じだが(だから交配も可能だ)、もはや同じ種だとは言い難いほど違う。犬はオオカミには戻らないし、オオカミが犬化するには膨大な年月が必要だろう。このひとになつくという性質は、ネオテニー(幼形成熟)であると言われている。オオカミも子供のころには、好奇心が旺盛で警戒心が薄い。しかし成長するにしたがって、そういうした性質を失っていく。ひとはそういう性質を持ったオオカミの交配を繰り返して、今のイヌ化に成功したのだろうと考えられている。そうしてそういう性質を持った犬の形状も、耳は垂れ気味になり、どこか丸みを帯び、穏やかな顔つきになっていった。要するに子供の性質のまま成長し成熟したのである。
 そうした子供のままの姿を、ひとは「かわいい」と感じる。この可愛さは保護の対象となる愛情形勢にもつながっているものと考えられる。実はヒト自体もネオテニーの要素を持っていて、遺伝的にはチンパンジーやゴリラとはそんなに遠くないにもかかわらず、成熟した大人になってもなお、子供のころのままのように毛が薄く子供っぽい要素をたくさん残したままである。
 ところがこの可愛らしさというのは、文化によって少し様子が違うことも分かっていて、日本のかわいいと諸外国のかわいいは、ちょっと様子が違うことも知られている。今や日本の「kawaii」はそのまま英語としても通じるというが、それは日本のアニメ文化が広く海外でも人気を博しているからである。しかし気を付けた方がいいのは、そのままの日本のかわいいが通用している訳では無くて、あくまでアニメなどのデフォルメしたものの要素の中でかわいいは好ましいが、人間そのもののかわいいは、少し意味が違うのである。
 もっとも日本であっても、年頃の男の子などにいつまでも可愛いというと、嫌われる可能性はある。つまり可愛いという言葉の中には、「未熟」などマイナス要素を含んだニュアンスがある。Cute という単語には、日本のかわいいよりもその要素が強いと言われていて、大人の女性を対象に安易に使うのは危険だともいわれている。馬鹿にしているとも捉えられかねないのである。大人の女性には、同時にセクシーさが求められていて、そう思われるのが当たり前の文化なのである。日本だとかわいいは、セクシーさも兼ねてはいるのだが、そういうものは、妙な屈折感のあるエロと勘違いされるかもしれない。
 ということなのだが、日本文化というのは、そういう意味で文化の中にネオテニーが入っているようにも感じられる。若い女性に特に多いと思われるが、何を見ても感想は「かわいい」だったりする。かわいいの意味があまりにも多様で、いったいどのように解釈したらいいのか、いささか戸惑う思いがする。
 何かの機会にそういう話になって、ある女性からそれは明確に違うと諭されたことがある。同じかわいいではなく、明らかに語気が違うし、語尾の伸ばし方が違う。ちゃんと使い分けている、という事でありました。だから、それが分からないと言っているのだが……。
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これは夢か現実か?   パッション

2023-11-17 | 映画

パッション/ブライアン・デ・パルマ監督

 最初はあこがれも抱いていた女性(同性)上司だったが、自分のアイディアを取られた上に、その功績でさらに出世して自分の都合よくふるまう行いに反感を募らせるようになる。そうしてついには殺意を覚えるまでになっていくのだったが……。
 おそらく同性愛の絡みもあるし、しかし男も取り合う中であり、仕事の上での嫉妬もある。悪魔的な魅力のある上司のクリスティーンは、徐々に部下であるイザベルを追い込んでいく。それは才能のあるイザベルを排除していく構図なのかもしれない。そうしてついにクリスティーンは殺されることになる。ここから一気に、デ・パルマらしい幻想的な展開に突入していくことになる。
 確かに伏線が張ってあって、それは嘘か誠か? という感じである。その上に、現実のことなのか、夢の後なのか、何が何だか分からなくなってしまう。しかしそれは無茶苦茶になってしまう、という意味ではない。そうした錯綜した世界に、観ているものが取り込まれてしまうということだ。そうした悪意のある意図を持った映画なのである。そうしてそれを楽しむということになるのだ。
 相変わらず映像も凝っているわけだが、刺激的でありながら、なんというか、やはりあんまり現実感が無い。それはこれまでのデ・パルマ作品とも共通ところがあって、これが好きな人には満足のあるものではなかろうか。人間ドラマの疑心暗鬼の描き方は、やや形骸化しているもののようにも思うが、これらの怪しい雰囲気こそ、洗練されながらも悪趣味であって、そういうまるでお化け屋敷を楽しむような期待感に満ちているのである。
 最初はキャストの使われ方が、なんとなくピンとこなかったのだが、いわゆるハリウッド映画じゃないということで、こういうことになっているのだろう。それでもやっぱりこの監督作品にはなっているので、流石といえばさすがであるんだけど。
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汚い選挙のマニュアル映画   キングメーカー大統領を作った男

2023-11-17 | 映画

キングメーカー大統領を作った男/ピョン・ソンヒョン監督

 きわめて実話に近いフィクション作品と言っていいだろう。いや、完全なるフィクションだから真実に近いというか。
 そもそもが韓国の大統領だった金大中と、そのスタッフだった実在の人物の逸話をベースに脚色している物語らしい。選挙に勝つために手段を択ばない男の、凄まじい駆け引きと汚いやり取りが描かれている。しかし、それでも勝ってしまった現実があったようで、時代の背景もあるものの、韓国特有というか、しかしこれはアジア的というか、選挙における戦いの全貌が明らかにされる。実際に犯罪行為と言っていいものなので、現実には通用しなくなっているものばかりだが、考え方というか、戦法という面では、これに似たようなことは、実際の選挙では行われている可能性は感じる。共感と思い入れが強すぎると、このような悪を含んだやり方であったとしても、勝つためであるからという一点で、正当化される心情があるのだろう。映画の中では、結局は決別してしまうのだが、敵になったらやられることになる訳で、ちょっときりがない。僕も選挙に関わる中でこれを観てしまって、面白かったけれど、暗澹たる気分にもなった。こんなことでは政治はやってられない。政治は権力闘争の現場ではあるとは認めるが、やはり本当に戦争になってはいけないものなのではなかろうか。
 人々の心をどうつかむか、ということと、相手側が人々からどう思われるか、というのは、確かに戦略によっては、つまり同じような結果を生むことになることに注目していることが分かる。だから選挙が汚くなるわけだが、人間の心理というのは、汚いことの方に、より強く関心が向くのも確かそうなのだ。相手がより悪かった方が、自分としては都合がいい。金をバラまいてでも支持を集めようとする反対側の陣営がいるのなら、ばらまいたものが手違いだとして回収すると、受け取った側はどう感じるか。実際にそれをやったらしいから凄いのだが、金が無いのならアイディアで勝負するしかないのだが、激しい憎悪に見舞われ、暴力も受けるが、それは相手陣営に成りすましているのだから成功しているのだ。これってもうコメディであるが、それを思いついただけでなく実行できたということが、何より面白いのかもしれない。こんな選挙にはとても関われるものでは無いのだけれど、なかなかに考えさせられるものがあった。結局大衆というのは、やっぱりその程度なのかもしれない。どのみち政治家の信念なんてものを理解している遠くの人なんて、存在しないのだから。
 実在の人物とそっくりさんではないにもかかわらず、実在の人物との関連がちゃんとわかる。韓国のちょっと前の話であるけれど、僕にも記憶がある。このような過去があり、今の韓国の政治がある。やっぱりつながっている気もするので、お隣の国としては、観ておいて理解するのもいいのではなかろうか。映画としてもちゃんと面白いので。
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