カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

大人になったのび太が喜ぶことだろう

2014-04-30 | 時事

 平成28年から8月11日は「山の日」という国民の祝日になることが決まった。まず聞かれる反応は、国会議員はいったい何を話し合ってるんだ、という不信感だろう。本当にまじめに話し合うことは無いのだろうか。
 8月に祭日が無いということだが、そのもう少し先に盆がある。これは祭日ではないが、事実上多くの人が休みを取る。基本的には正月とならぶ習慣的な休みとなっているところは多いのではないか。僕のところは全体的な休みとは違うけど、やはり親戚などの仏事なんかがあるところは優先的に休みを取るし、事実上業務は縮小する。取引先は、普通に休みだから、そちらの方面を無理に稼動させても意味が無い。さらに子供の学校は夏休み。八月に祭日はもともと不要だろう。6月が無いというが、唯一祭日が無い月として重宝されることになるだろう。
 これで国民の祝日は16日となる。既に国際的にも祝日の多い国であるが、さらに休みが増える。経済効果があがるという話もあるが眉唾で、調整の難しくなるところが増えるだけだろう。そもそもの有給休暇を消化させる動きは間違いなく鈍化するだろう。しわ寄せで、年間の労働時間は逆に平均で増えるかもしれない。
 休日の経済効果の面で考えても、国民の祝日で観光地への集客が増えることの不効率のほうが問題になるかもしれない。今は連休時期にさしかかっているが、このような時期はむしろ渋滞や特別価格による不利益のほうが大きい。どのように分散させて効率化させるかの方がむしろ課題としては大きい。出来るだけ休みは分散して取るようにすることが出来れば、快適で効率よく、なおかつともに不利益にならない休日を満喫できる人が増えるだろう。
 さらに今の天皇もいずれはお亡くなりになる(崩御)わけで、必ずしもそれで祝日が増えるとは限らないにせよ、新たな天皇にまつわる記念日の制定の話は、必ず出てくるだろう。そのときに考えればよいというのはあくまで建前だから、代わりに以前のものを減らすなどということがあるんだろうか(無いだろうな)。
 次は川の日だ、という揶揄ばかり聞こえる。いや地球や宇宙だって皆大切だ。祝日に限らずいろんな日があるが、むしろそのような日に対する差別的な冒涜とも取れる。子供の教育に良くないことだ。
 ちょっとだけいいことがあるとしたら、こんな馬鹿げたことしかやはり国会議員の頭には考え付かないらしいという事実の確認が出来たことだろう。でも、落とすべき人が誰なのかが明確でない。党派を越えて賛成多数なのだから皆落とせばいいのだけど、代わりの人がいいという保証は無い。つくづくこの国の民主主義は終わっている。
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何だろう? は何だろう

2014-04-29 | ことば

 少し前から聞くようにはなっているが、自分話をするときの間をつなぐときに「なんだろう?」という言葉をはさんで、実際にちょっと考えて次の話をつなぐ人を見かける。最初はテレビの人だったけど、一般にも結構いる。若い人が多いけど、ちょっとそうでもない人も居るようだし、女性の方が多いようだけど、男性にも一定数いる。最初の違和感はだいぶ消えたが、少しだけやっぱり一緒になって、なんだろうという不安のようなものを抱くことがある。しかし、間が良くないということでなく、「なんだろう?」と考えているふうで、実はもともと準備されているふうの考えを述べられているような感じがなんとなくする。「えーと」じゃなくて「なんだろう」が何故いけないのか。僕の狭量さの所為ではあるんだけど、ちょっと不思議なのである。
 それというのも、相手の考えだから知らないことだけど、なんだろう、どうしてだろう、と自らに問うているようでいながら、一見自信のなさそうな言動そうに見えながら、あんがいそのあとの言葉が、自信満々だったりすることが多いように思うのだ。もちろん自分の意見がしっかりしているのはぜんぜんかまわない。一件そういうそぶりをしながら、実は自分の意見をちゃんと通しますよ、というような、予告の言葉のような感じがするせいではないかと思うのだ。内容としては有無を言わせないものを言おうとしているのに、自分の中の迷いのような、そういう言い訳じみた、いわゆる謙遜めいた物言いの変形なのではあるまいか。
 しかしながら、これを普段から好感を持っている人なんかが言うわけだ。最初はちょっと悲しい感じだったけど、無理に慣れることにした。言い回しや癖なんかどうでもいいじゃないか。やはりでも定着したんなら、いまさらいいじゃないか。そういう葛藤を経て、現在に至っているのです。
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一定の原点回帰 インディー・ジョーンズ 最後の聖戦

2014-04-28 | 映画

インディー・ジョーンズ 最後の聖戦/スティーブン・スピルバーグ監督

 ショーン・コネリーがハリソン・フォードの父親役で出演したことで話題になった。この大人になってからの親子関係ギャグが面白いことで、当時はパロディなんかもあったように記憶している。ともになんとなくマッチョで色男というのはあるけれど、なんと言ってもインディー・ジョーンズ自体が、007シリーズのようなアクション作品のオマージュであるという性格も大きいと思う。新旧のマッチョが同じようなアクションは無理でも、同じ女性相手に性関係を結んでしまうというが何よりいいという感じだ。母親だと笑えないわけだし。
 後日談ではなく過去に遡るというのは、特に外国の作品では多いように思う。彼らは結構ルーツを大切にするというか、現在の意味を掘り下げて考えていくのが好きらしい。原理主義的な理屈が好きな所為もあるんじゃなかろうか。日本にも因果応報を言うのは無いではないが、それよりもとにかく先に進んでいく話が多いように思う。または人を代々変えてしまう。ウルトラマンとか仮面ライダーみたいな感じか、ドラゴンボールみたいな感じになってしまう。多少性格は違うけれど、そういうものの考え方の影響のようなものがありそうな気がしないではない。
 さて、以前のヨーロッパの話になるとキリスト教ということになる。そうして近代的な絶対悪ということではナチスである。便利といえば便利な仕掛けなわけだが、キリストとは実在の人物だったには違いないが、そんなに昔のことを現代でも何度でも焼き増していろいろ使いまわすというのが、僕にはちょっと分かりづらい。そりゃ宗教的に意味のあることであったりなじみの問題であるとは言えそうだけど、バイブルもそうだけど、古典的な文字がたくさん残っているらしいことが、このような元になりやすいということなんじゃなかろうか。そうして当然今とは違う世界と理屈と、そしてやはり謎が多いということだろう。宝としても、いまだに興味が強いということらしい。そういうものを近代的な悪の象徴と権力のデフォルメが利用する。単純に叩いていい敵としてナチスという便利さがあって、戦う対象が明確だ。これは僕らにでも分かりやすいので、如何に感化されているかという証明でもあるが、やっぱりドイツ人にはそれなりに複雑なものがあるんじゃなかろうか。まあしかし既に距離感がそれなりに保てているというのであれば、それに越したことは無いんだけれど…。
 アクションは安定して面白いが、そういう単純さはあるものの少しは大人向けになった感のある作品になっている。しかしながら、これでシリーズはいったん長い休止状態になる。というか、これで一定の終わりにしようという目論見があったのではなかったか。やはりこのシリーズのスタートが強烈に面白かったということがあって、その味付けの元がどんな考えだったのかという原点に回帰したということが言えるのではなかろうか。そういう考えや文化の東西を問わず、やはり人間としては頼りにするものなのであろう。
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ほとんどアニメ作品的などたばたアクション   インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説

2014-04-27 | 映画

インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説/スティーブン・スピルバーグ監督

 不思議なことに未見だった。厳密にはテレビの洋画劇場などでチラッと観たことはあったような気はする。トロッコ列車シーンくらいしか覚えてなかったので、ちゃんとは観てない可能性が高いし、またそのような記憶は無い。面白いという話は聞いていたし、当時もかなりの話題作だった。あえて観てないのか、何か事情があったのかさえも記憶に無いが、当時のスピルバーグの勢いということを考えると、やはりちょっと不思議な感じがする。
 しかしながら今観てみると、さすがに撮影の映し方が古臭い感じもある。スピルバーグ自身が過去の冒険映画のオマージュを含めて撮影しているだろうこともあるし、いわゆる80年代的なセットのつくりというか、それはCG全盛になっている今からすると、却ってものすごい仕掛けなのだけれど、どこかお化け屋敷的な感じもあって、ちょっと今では観られなくなってしまった映像世界という感じがする。それはいい感じでもあるわけだけど、やっぱり時代というのは変わるんだなあ、というある種の感慨さえ抱かさせられるわけだ。
 ものすごい迫力にアクションの連続技がこれでもかという畳み掛け方で続くのだけれど、あまりにも過剰ということになってしまって、まるで宮崎アニメを観ているような気分にもなる。つまり実写映画というよりほとんどアニメ描写に近い感じで、ありえないけどそうなってしまっているという迫力を楽しむことになる。まったく凄まじい映像世界の構築である。彼らスタッフの力量の高さは、本当に当時抜きん出ていたのだろうと呆れて感心する思いだ。
 カラッとしているのでそんなにひどくは感じないが、しかしそれなりに暴力描写は強烈で、この映画がきっかけで、米国の暴力シーンの視聴年齢制限の機運が高まったともいわれている。当時の保守レベルの許容を超えてしまったのだろう。スピルバーグのどたばたアクションは後の恐竜映画などでも顕著なのだが、ほとんどホラー映画の域に達している。楽しいけど怖いという、ジェットコースター的なノリを突っ走っているということになる。それでも内容がすっからかんということでもないところが彼の偉さなのだけど、逆も含めてどうしても行き過ぎてしまう狂気が見え隠れしていて、そういう部分こそいい監督だと僕は思っている。たとえば宮殿の食事シーンなどは純粋にどたばた喜劇として楽しむための行き過ぎギャグなんだけど、それは同時に文化的な感情を逆なでしたり、偏見に満ちたものと捉えられてしまった不幸にも通じる。人間には偏見があって当然なのだし、単に無自覚なら罪だけれど、それを伴いながらも楽しんでしまえる寛容さが無ければ、彼の行き過ぎには付き合えないということかもしれない。それは大人だけど子供っぽさを含んでいることだと思うのだけど、既に大人になりきってしまった人間には理解されにくいことだ。後にどうしてもその無理解を越えたいという反動がスピルバーグ自身にもあったのだろうと思うのは、やはりその後の映画作りに反映されているように思うからだろう。
 ちなみにこの映画のヒロインであるケイト・キャプショーと、スプルバーグは結婚する。映画監督と結婚した多くの女優は、その後夫の監督作品に普通に出演をするようになる。ところが彼女は、後のスピルバーグ作品には出ていないようだ。子沢山ということもあるかもしれないけど、そういうところも、あんがい彼らは良識のある人間ではないかと思ったりする。つまり、偏見に満ちた無知な人々なのでは無いと思うのだけど、まあ、それは勝手な想像に過ぎないですね…。
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意外なほど斬新ビートルズ

2014-04-26 | 音楽

 録音していたラジオ放送を聞いていたらビートルズだった。まだ音源があるんだな。
 当時のビートルズの登場には同じく他のミュージシャンたちも注目してことは間違いない。その中の一人にエリック・クラプトンもいた。既にギタープレイヤーとして名を成していて、そのテクニックは名手とも言われていた。そのクラプトンが最初にビートルズを見たとき、「とにかく演奏が上手い」と感じたという。
 そんな感じが意外に思うのは、今までビートルズが別に下手だと思ったことは無いにしても、いわゆる上手いバンドだとも思ったことが無いからだ。しかしながら考えてみると、確かに新しい音源といって聞いてみても、やっぱりちゃんとしたビートルズに変わりは無い。特にアレンジが変わっていることもないし、実に完成した、そうして安定した演奏だ。聞くところによると初期の頃は、ほとんどスタジオ一発録音だったという。曲によっては誰かがトイレに行っていて、途中から演奏に加わって録音した、ということもあったらしい。
 さらにプロデューサーだったジョージ・マーティンは、なんだか地味なバンドだな、と思っていたらしい。二人でコーラスしながら歌うので、リードボーカルが居ないじゃないか、ということらしい。しかしながら派手さは無くとも、二人ともものすごく歌が上手くて、さらにコーラスも美しい。まあ、何とかなるかな、程度だったということだ。今では当たり前のビートルズだけど、地味だったなんてやっぱり意外である。さらに当時としては、ずっとコーラスで歌うスタイルがあんがい少なかったというのも、ちょっと不思議な感じだ。
 今となっては当たり前も、やはり最初は本当にちょっと変わった感じだったのかもしれない。今でもみずみずしさが残るのも、その変なところだったり、ある意味で斬新さの名残があるのだろうか。新しい音源はちっとも新しさは感じられないのだけれど、やっぱりみんなそれでも聞きたいと思うのだろう。凄いものはいつまでも凄いなんて、やっぱり並外れているんだろうね。
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抱いているのは期待感

2014-04-25 | 時事

 韓国の旅客船沈没は、まったくの大惨事となっているようだ。多くの行方不明者(行方は船内だとは思うが)が残されているが、どうにも絶望感が漂っている。事故の規模もさることながら、その後の事故の経過が分かるにつれ、船会社や船員のヘの批判が大きくなっている。ひいては韓国社会そのものへの絶望感のような空気まで漂う雰囲気が感じられる。犠牲者の多くが若い人だったこともあるだろうし、韓国社会の大人たちが、韓国社会そのものに持っていたジレンマに、改めて対峙させられているという構図なのだろう。
 事故としては大変に痛ましい限りだし、単なる対岸の火事ではない出来事である。しかしながらちょっと気になるのは、なんとなく、この状況に溜飲を下げているような日本人が多いような感じかもしれない。そしてその感覚は、かすかに共感がつたわるもので、そこのところが自分自身でも、何かちょっと変な感じなのである。もっと追い込んで深く反省してもらいたいような、期待のようなものが複雑な心境を生み出している。
 もちろんそれは、韓国と日本の不幸な関係状態が続いているのが原因である。個人的に韓国人に対して何の恨みの感情も無いけれど、しかし韓国政府をはじめ、韓国人社会には、日本人の多くが辟易させられているといえるだろう。日本にも反省すべき点は、それは確かにあるだろう。しかし韓国に対してそんなことを示すのは、もうはっきりいってうんざりで、する気が失せているという感じかもしれない。こちらが反省しても、まったく意味が無いような感覚かもしれない。お互い様が通じない隣国へのまなざしは、日本人のジレンマになってしまっている。
 そこに来てこの事故が起こった。反省をしない見本のような国が、初めて反省しているような姿を見せている。痛ましい事件を悲しむよりも、何か以前からのぬぐいきれない感情のほうが癒されているということなのだろうか。しかしながらその感情そのものは、多少は致し方ないとは思うものの、やはり、どこか健全とはいえないものを含んでいると思う。どうしてもそう感じてしまう器量の狭いものが、同時に嫌なのである。
 もちろん、この事故が、ひょっとすると韓国社会を変えるきっかけになるかもしれない。それは日本にとっても望ましいことであって欲しいのである。今の状態が不健全なのは誰の目にも明らかで、しかし日本が譲歩する余地はなさそうに見える(少なくともこちらからは)。そういう中で変わるべきものは、韓国社会しかないからである。問題は本当にそういう力を今の韓国社会が持っているのか、ということかもしれない。基本的に親戚のような社会でありながら、しかしやはり決定的に日本とは違う国である。その期待が失望に変わらないように、まだまだ見守る必要があるのだろう。
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コロンボのいやらしさ爆発   刑事コロンボ・5時30分の目撃者

2014-04-24 | コロンボ

刑事コロンボ・5時30分の目撃者/ハーヴェイ・ハート監督

 結果的には印象に残るお話ではあったのだけど、最初の殺人が計画的でないことが、何より残念だった。機転の利く人物ということはいえても、事実上無理やりに自分の患者兼愛人を共犯者にして、その証言のみで逃げ切ろうというのは、素人目にも、コロンボファン的にも、かなり無理がある。結果的にコロンボに否応なしに追い詰められて、しかしお話上は物的証拠がないということになんとなく済まされている。証言に矛盾があってアリバイも怪しく、事実指紋だらけで行動も怪しそうというのであれば、もう少し患者兼愛人兼被害者の奥さんを徹底的につついて、さらにそういう愛人関係にあることも立証できれば、第二の殺人も起こらなかったのではなかろうか。
 トリックとして、第二の殺人こそ面白い仕掛けなのだが、しかし劇中の証言にもあるとおり、いくらプールに飛び込む暗示というか催眠術とはいえ、かなり難しいだろうというのが実のところのようだ。つまりドラマ以外なら限りなく成功が難しい。さらにコロンボの前で間違い電話をかけており、通話記録を調べることを思いつかないのも腑に落ちない感じだった。変わった自殺の仕方だったとは誰にも明らかで、催眠術の得意なかかりつけの精神科医にさらに事情を聞かなければならなくなるのは、ほとんど必然という感じではなかったろうか。
 ところがところが、解決への道は実は鮮やかなのである。これに引っかかるだろうことは、コロンボも視聴者も期待を寄せている。犯人が見事そのクモの網に引っかかる様を、じっくりと楽しめばいいのである。僕なんか記憶力が悪いので、なんか引っ掛けていることは分かるけど、なんとなく不自然だな、位にしか思っておらず、犯人と一緒に素直に驚いてしまった。まったく馬鹿だから楽しめるというのは情けないが、展開が気に食わないながらも印象に残る作品ということになる。見終わった瞬間、これは子供の頃に見たよ!と同時に思い出した。
 ラストの印象はそれでいいけど、犯人の勤めている病院で部屋を間違えて女性の悲鳴を浴びたり、犯人の自宅でホームパーティの折に、興味深い事件は今取り組んでいるものだというなにやら捜査哲学めいた一面などもある。他にも脇役の演技もそれなりに面白い。犯人がイライラいじめられて追い詰められるいやらしさは、気分の悪くなるくらいコロンボらしいものだ。まったくいやらしい人間の代表とは、まさにコロンボその人だろう。
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開放される喜びのある娯楽作   女のいない男たち

2014-04-23 | 読書

女のいない男たち/村上春樹著(文芸春秋)

 とりあえず読んだ。以前から言われていることだが、村上春樹はちょっと文学的な感じのするポルノだから読まれるのだ、というのを思い出す程度にはポルノ色の強い作品群である。もちろん恋愛を語ることにおいて性を排除するのは適当ではない。そういう側面から目を背けられることで、おおかたのリアルさの大半が失われかねない。しかしながら心の喪失を性的な面から見るということになると、やはりその印象が強すぎるために、感情の機微がかえって損なわれることもある。厄介で難しい問題がそこには横たわっていて、そうしてそういう心の傷というものから目を背けたくなるような厄介な問題について、あえてこの作品群は語ろうとしているように見える。
 性と感情は、当たり前だが、それはまるでスパゲティのように絡み合っている。どれが性的な欲求で、どれが精神的な純愛かなんて考えても仕方が無い。性が無いから崇高だとか、性があるから汚らわしいということも、本来的には無い話だ。しかしそうとはいっても、純粋に愛が無い性行為というのはあるように思える。具体的に男性というのは、とりあえず射精してしまえば、性欲に限っていえばだが、一時的に消失してしまう(ように感じられる)。女性のことは残念ながら分からないが、愛があった性欲だって、なんとなく少し勢いが失われる(あくまでそのような感じがする)。もちろん満足感でさらに強い愛の確認が出来るということは事実だが、しかし、すべての性交が、実際にはその感情のすべてではない。男においては、なんだかそういうことに、少なからぬ罪悪感のようなものや、消失感のようなものや、はたまた人間性においても、なにやら欠陥のようなものを抱えているような気分がある。そういう生き物だというのは簡単だが、感情的にはすとんと納得できるものではない。さらに上手く言い難いが、年齢的にはこれがやはり変化する。性的な能力はかなり減退するわけだが、性欲が落ちるのかというのは、なんだか少し形を変えて、具体的な射精以外の欲求を含めて、単純に落ちていくものではないように思える。そして相変わらず女性のことは分からないわけだ。
 自分の中のそういう欠陥めいたものは謎のまま、しかし女性の性欲(のようなもの)の前に、たじろいだり逃げ出したりしてしまう。たぶん、そんなようなことを上手く処理できない男達がいて、そういう戸惑いはワインのそこにたまるオリのような感じで、いわゆるまぜっかえさないと上手く認識できなくなってしまう。時にはそれでよい結果になり、しかしそれがかえってもっと厄介なことになってしまう。
 よく出来た物語が多くて、時には笑えるし、やはりなんとも上手いものだと感心もする。しかし同時に、やはりよく考えてみるとありえない不思議な話が多く、それは何かのメタファーだとは分かるものの、本当にそんなものかな、という疑いももつ。それは作家との年齢の差の所為かもしれないし、単純に経験値の違いなのかもしれない。そうそう、性的な問題というのは、やはり個人的な体験が強すぎて、簡単に比較できない。そこが何より厄介だし、共感の難しいところなのかもしれない。
 村上作品だから、当然多くの人がこれを同じように読むわけだ。で、これのことに何かを語るということになる。そういう状態が既にホラー的なのだが、やっぱり結構怖い話が多かった。そういう怖くて落ち着かない話を読み終わって、とりあえずホッとしている感じが強いかもしれない。少なくとも僕は、この小説世界のような感じにとらわれて、長く生きていくのはつらい。それは誰だってそうなのだろうけれど、その開放感を味わうだけでも、娯楽としていい話なのではなかろうか。
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不公平な条件が日本の強み(弱み)

2014-04-22 | culture

 まだまだシーズンは始まったばかりだが、メジャーに渡った投手の活躍はまずまずのように見える。日本での圧倒的な活躍ぶりからいって当然と言う意見もあろうが、それなりに大変なことだろう。しかし日本での実績があちらである一定の力を発揮できる証明になること、ほぼ間違いなさそうだ。日本のプロ野球の事実上のマイナー・リーグ化という問題であるにせよ、たぶんそれが実力というものだろう。
 このような活躍を担保するものとして、同じ野球というグローバル・ルールであるということがあるという意見を聞いた。違ったものであれば、彼らは米国では活躍できない。共通のルールという基本的なことが、僕らが世界で戦う上で如何に大切なことなのかということだ。TPP関係者なら頭の痛くなる問題だろうが、それは確かにその通りかもしれない。もっとも野球以外でもグローバル・ルールでないスポーツを探すことのほうが困難だろうが…。
 ところで、大筋では合意するが、イチローのような極端な成功をあえて無視するならば(イチローは日本でも特殊すぎた存在だ)、少し投手の活躍のほうが目を引くような気がする。期待されて渡った割には、打者や野手という存在で、あちらでも大活躍という人は、あんがい少ないような気がする。もちろんそこそこは行くが、投手のような安定した大活躍を発揮した人は、ごく少数だ。パワーの問題もあるし、やはり打者には分の悪い何かがあるのではないか。
 というところで、近年の飛ぶボール問題というがある。もともとそんなに飛ばないから、ゲームを面白くするようにそういう思惑が働いたらしいということは分かっている。以前は狭い球場が多かったから、もともと日本では打者が有利といわれていた。ところがドーム球場が全盛となり、さらに古い球場の整備も進みフィールドがずいぶん広くなった。だんだんとホームラン数は少なくなる傾向が続いていたし、点の入らない試合(守り重視のドラマチックな展開に乏しい)が増えているのが、ファン離れにつながっているという分析する筋もあったようだ。
 飛ぶボール問題というのは、多くのファンが望んだことを、勝手に汲み取って、ひそかにやらかした問題というのが痛かったわけだ。さらに国際試合などになると、日本のボールの規格が違っていて、特に投手には不利になる(慣れてないので投げにくい)問題もあった。だから日本の投手は、まず米国ボールに慣れる必要があって、活躍が遅くなる傾向はあったらしい。これはしかし統一すべきだという話はずっとあるが、日本は頑なに、なぜか統一球にしないのだった。これがまず問題の根本ではなかろうか。
 ということで実際の話としては、日本のプロ野球は、一貫して投手に不利な条件が続いてきたということだ。投手は上手く打たれないように投げるのが商売だから、不利な条件で戦うことは、大変に厳しい環境で鍛えられることを意味する。大リーグボール養成ギプス(古っ)をして力をつけているようなものだったのだ。
 ということを勘案すると、日本の投手がより成功する要素のひとつは、実はグローバルな条件が育てたのではなくて、日本の特殊事情があって、より高度な力を要求されるからこそ、メジャーでも通用するのではないかという疑いである。逆に言うと打者が上手くいかないことにも、ある程度の証明になる。
 世界で戦う上で、まっさらな状態で有利不利を言うのは大変に難しい。もともと条件は、やはり違うものだからだ。しかしながら日本という特殊性が外でも有利に働くとしたら、より厳しく高みにあるからということは間違いないのである。投手に厳しい国だからこそ、日本の投手は世界(米国)で通用すると考えるほうが合理的だろう。日本人の活躍は、不公平な社会だからこそ皮肉にも達成されている可能性があるということなのであった。
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僕が野球と決別した訳

2014-04-21 | 境界線

 野球放送を観たり聴いたりしなくなって久しい。嫌いになったわけではなく、たぶんいまだに好きなんじゃなかろうかとは思う。しかし意識的に興味を遮断している。もう好きになりたくないという思いがある気がする。そうしなければ、たぶん生活が荒れるような、そんな感じに近いかもしれない。そんなにギャンブル狂でもないけど、賭け事に対する態度に近いといえるだろう。自分が好きなくらいで大げさに聞こえるかもしれないけど、こういうキリが無い感じは思い切って断ち切ってしまったほうがいい。
 野球に対する記憶は、結構古いと思う。でも、最初は興味が無かった。親が野球好きということでもない。親戚で野球をやるような人も知らない。でもまあ子供の頃には、棒を振り回して遊ぶもので、その中に野球はあったと思う。適当に投げて打ち、駆け回っていた。
 変わったのは何かの拍子でラジオの野球放送を聞いていたという感じだった。たぶん広島と巨人戦だったと思われる。ラジオの中継なのに先が気になる。寝なければ怒られるのに、布団にラジオを持ち込んで最後まで聞いたのではなかったか。
 翌日は新聞である。そのラジオ放送の結果がちゃんと書いてある。そうして見慣れない表があるのだが、仔細に見てみるとなんとなく見方が分かってくる。昨日放送でヒットを打った人の記録も書いてある。さらにチームの順位表、打率成績やホームランの順位などの表がある。朝はそういう確認をして、学校に行った。しかしどうにもあの表が気になって仕方なかったように思う。学校が終わって家に帰って、過去の新聞を引っ張り出して野球の欄を見比べてみた。やはり成績は刻々と変わっており(当たり前だ)、遡れば違う記録になっている。
 そのうちに電卓を借りてきて自分で打率を計算するようになる。もちろん計算どおりのことが書いてある。厘以下の少数は省略してあるが、同じ打率で競っているときは、毛まで表記されることもある。実際にそうなのか確認しては、安心していた。
 ところがあるとき、いつものように新聞の打率表とにらめっこしていて、ある選手の打率の間違っているのを見つけた。誤植だったのか、更新のされ忘れだったのだろうけど、身震いするようなショックを受けた。新聞に書いてある間違った内容を、一小学生が発見したのである。誰もその感動を共有してくれる人はなかったが、実際に母にも学校の友人にも自慢したが、反応は冷ややかだったが、僕自身は興奮していた。発見は発見に違いないではないか。
 そういう日常を送っていると、その日以外でも結構間違いは見つけることがあった。単に新聞の記事が怠惰で更新していないというのは結構あるのである。そういう日はなんだか釈然とし無くてイライラした。出来ることなら新聞のスポーツ欄の記者に、抗議の電話を入れたいくらいだった。
 プロ野球はそれでも、移動日以外はほとんど更新してくれる。毎日が張りのあるようにさえ思える。ついでに新聞のほかの記事なんかも読むようになる。ほとんど訳は分かっていなかったかも知れないが、学級の新聞係りになったときに、バラエティにとんだ記事を書いてほめられる事もあった。インタビュー記事などは、親が手伝って書いたんだろうという先生もいた。真相は単に新聞をまねた構成で書いただけのことだ。たぶんその頃から作文も苦にならなくなって行ったのではなかったか。
 ただ不思議なのは、じゃあ野球の放送を熱心に見ていたのかというと、違うのである。たぶん他のきょうだいの影響でチャンネル権がままならないというのもあったのだろうとは思うのだけど、放送時間終了で尻切れになったり、やはり夜は眠くなったりということもあったのかもしれない。実際に放送を追っかけてみたり聞いたりすると、時間がかかってまどろっこしい。僕はどうもエラーというのが嫌いで、さらに審判の誤審くさいのも納得がいかなかった。イライラするので見るのは止めることにした。というか、見ているととても身が持たないという感じだったかもしれない。僕にとっては新聞記事の記録こそ野球のすべてだったのだ。
 しかしながらそういう記録を眺めて暮らしていたのに、オフシーズンになると、それはもうたまらなく寂しい気分になるものなのである。いったい何を励みに生きていけばいいというのか。スポーツ欄も野球以外だと相撲くらいしか興味が持てない。その喪失感や飢餓感が大きすぎて、何もやりたくないような気分になった。時々選手のことが記事に出ていたりするが、新たな打率の更新が書かれているわけではない。とても耐えられる心境になれなくて、やはり野球のことを考えなくていいように自分に暗示を掛けた。野球は僕を虜にしたが、それは悪魔の誘惑のようなものだったのだ。それに実際にいくら望んでも、冬場にプロ野球は開催されない。あきらめるより仕方ないのだ。
 そういうことは数年続いたのだが、結局はそれが僕の野球との最初の別れだった。何度か熱がまた上がりそうになるのだが、そのつらさを思い出して、できるだけ距離を置くことにした。そのうち音楽だとか漫画だとか、僕から逃げない楽しみが出来ていく。戻りそうになって、また新聞とにらめっこを始めそうになると、また自分に言い聞かせるのだ。いつまでもそんなことを繰り返していると、今に僕は壊れてしまうぞ。まあ、既にどこか損なわれていたものはあったのかもしれないが、そうやって何とか野球と距離を置くことに成功することが多くなるのだった。
 結局今も、見かけ上は野球とは決別している。時々試合も見るが、以前のようには新聞で記録を仔細に見るわけではない。もうほとんどの選手も知らないし、昨日の新聞と見比べるようなこともしない。今となっては、あの一時期の情熱はなんだったのかな、と思うこともあるくらいだ。おかげで自分の時間もそれなりに確保できるし、しあわせなことかもしれないとさえ思う。野球の記録の魔物から逃れられるのは、僕にとっては平安な日常となったのであった。
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失われた本能について   マダガスカル2

2014-04-20 | 映画

マダガスカル2/エリック・ダーネル、トム・マクグラス監督

 2なんだが、1は知らない。テレビのものを録画しておいたようだ。いつものことでファンタジーなんだからつべこべ言ってはならないが、結構なご都合主義を感じるのは、やはり現代批評じみたものを感じるからかもしれない。人間の欲求として動物を実際に見てみたいというのがあって、生きている動物は動物園で見られるわけだ。監禁というか軟禁というか、自由を奪っていることに変わりはないし、保護しているという見方だって利己的な立場だから言えることだ。しかしそこのところをやかましく考えなければ、動物園は素晴らしい娯楽施設である。そういうことをどうしても考えさせられるわけで、動物園の動物たちが野生の王国に舞い戻ったならば、あっさり死んでしまうだろうということは分かっていながら、都会的なたくましさで何とかなるような幻想を抱いてしまうのは仕方なかろう。だからファンタジーで楽しければいいので、いまさら遅いがつべこべ言ってはならないのである。
 もちろん人間世界に分かるように言語を操らなければならないわけだが、動物たちが人間のような言語によるコミュニケーションをとっている可能性は低い。いや、いわゆる考えであるとか議論などはしないまでも、警告や感情を表して共感があるだろうことは想像できるものの、実際はどうなのかは聞いても分からないわけだ。ましてや種の違う動物同士が意思をつながらせることはほぼ絶望的だろう。しかしファンタジーならそれが可能だ。いろんな環境を乗り越えて、それらしい背景と思想を持っているように見える。それ自体が絵だけでない動物の個性やデフォルメになっていて、それらの考え方が、必ずしも西洋的な視点だけで理解不能に陥らないほどに、われわれと共通するものであることが確認できる。そういうところは面白かったのだが、そういう典型的な人間がある種の動物に持っている偏見ともいえるわけで、あんがい人間とは自由でないという疑いは残る。自由なデフォルメで擬人化しておきながら、結局発想は本当に自由ではないわけだ。
 しかしながらその動物たちの集団的な個性というのはいったいなんだろう。習性があるのは確かなことだが、種としての個性というのは、やはり人間のように多様ではないのかもしれない。人間は人間という種で生き残る目的を既に失っているように見えるが、他の動物たちは、種として生き残りを全体主義的に持っているようにも感じられる。そういうことを、動物の個性的なキャラクターに演じてもらうことで、さらに考えさせられるわけだ。つくづく本能の壊れた生物という特殊な立ち居地が、生物としては不思議なのかもしれないと思うのだった。
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とにかく読まれるべき事実本だ   反省させると犯罪者になります

2014-04-19 | 読書

反省させると犯罪者になります/岡本茂樹著(新潮新書)

 衝撃的な書名だが、別段奇をてらったものではない。いや、狙っているということは無いではないだろうけれど、実際に内容もその通りの事が書いてある。問題はだから、なんでそんなことに! と感じてしまうだろう僕ら側にある。考え方が180度ひっくりかえる常識的なことの暴力の姿が明らかにされるわけで、実にショッキングなのはこの世の中ということになるのではないか。
 悪いことや失敗をしてしまったら、我々の社会ではまず反省を求められる。そうでないと、また同じような悪事が繰り返されたり、同じような失敗が繰り返されると考えられる。そうしてまた同じ悪事が繰り返されると、まだまだ反省が足りなかったからだと考える。もっと深くもっと長く反省すべきだと考える。犯罪の厳罰化も進んでいるが、再犯率は下がっていない。もともとの犯罪の発生率や凶悪犯罪は減少しているのに、一度犯罪を犯してしまった人の更生は、むしろ難しくなっているのだろうか。
 実はそのような社会の厳しい規範なり要望というのが、犯罪者を犯罪者として固定させている現実があるようなのだ。反省の色を見た目で分かるように要求する態度や、実際に素晴らしい反省文を書かせることを強いることで、まったく反省をさせないことを事実上強要させているだけだからである。それは結局うわべだけの嘘を強いているということであり、見た目だけの演技をさせているということになるからなのである。繰り返し反省させられた人ほど、その嘘のつき方は上手くなり、次はもっとうまく犯罪を犯すことに専念することになる。反省していないのだから、捕まったのは運が悪かったとか、実は被害者の方が悪かったとしか考えられなくなっている。そういうことを無理に助長させてしまったのは、いわゆる安易な反省のさせ方にあるかもしれないのである。
 書名に偽りがあるとしたらそういう部分で、事実としては、安易に反省をさせないで、じっくり原因を掘り下げて犯罪者をケアすることでしか、再犯を防いだり、更生させることは難しいというお話なのである。さらに、子供の教育においても、ちゃんとした教育を厳格に行うことで、子供に心の傷を負わせ、犯罪の道へと追い込んでいくことにしかなっていないことを、筋道を通して解説している。実に驚くべき事実で、ちゃんとした強い人間を育てることが、人に心を開かない、反省さえしない人間を作り上げていく作業なのである。
 この本は、もっと教育関係や組織の人事関係者に読んでもらうべきものだと痛感する。社会を変えるのは大変に難しいが、本当に理解できる人を増やすことは、とても重要なことだ。そうしてそのように実際にこの本の内容を十分理解した人がキーとなって組織内にいることで、救われる人間が確実に増えるだろう。学校のいじめ問題においても、この本の手法を用いることで、かなりの改善が図られると期待が持てる。固有名詞を出して申し訳ないが、いわゆる尾木ママのような人間がかかわるとろくでもないことになるという現実が、嫌というほど理解されていないのである。これは本当に危機的な状況で、さらに現在は悪化の道へと、せっせと社会が傾いているように思える。非常に地道で険しい道だが、真の人間の救済のために、本当に読まれるべき良書だろう。
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確実に面白く、そして世の中を憂う   ノーモア・立川明日香

2014-04-18 | 読書

ノーモア・立川明日香/小川善照著(三空出版)

 そういえば美しすぎる市議というのは聞いたことあるな、とは思っていた。その後失職していたとは知らなかったが。小谷野敦のブログで紹介されていて読んだのだが、確かにこれは面白いし、いろいろと考えさせられた。本として売れる工夫で半裸写真などもあるわけだが、しかし、読後感としては、その写真も含めてやはり面白い。そうしてやはり、かなりの名著といっていいとも思う。立川明日香というキャラクターの面白い魅力と、しかし日本の社会というものの歪みをあぶりだすことにも成功しており、おそらく著者も気付いていない社会問題啓発本ということもいえるような気がする。
 いろいろな問題はある。まず子育てが出来なくなった親が悪いが、そのための施設も、悪気は無いが、結果的に問題がある。そうして社会適応を失った子供たちが育ち、巣立った後にもその問題が連鎖する。むしろ立川はそのことに気付かないまま、その美貌と性格も手伝って、自然に社会問題化してしまった存在という気がする。今がどうなっているかは知らないのだけれど、その問題を抱えたまま、タレントとしても上手くやっていける可能性があるのではないか。いや、もう協力してくれる人はいなくなったのだろうか。せめてこの本が少しでも売れて、子育ての支援が出来ればいいのに、と思う。
 東京近辺の町の市議選で、綺麗なだけでも当選する、という事実を作ったことも大きいと思う。居住実態が無いということで失職するわけだが、そのルール自体が(ルールだから仕方ないにせよ)おかしいということもあるので、有権者を裏切っているわけでもない。裏切らされた被害者という感じすらする。本人の認識不足だから自業自得だけれど、そういうことが実際に出来てしまうという証明がなされても、やはり美人が選挙に出ようというのは、そんなに多くは無いのだろう。もちろん綺麗じゃない人ばかり選挙にでているわけではないけれど、人気投票に美貌が有利なのは間違いなさそうで、そういう社会が選挙に反映されることは、ごく正当なことだというのが凄いと思う。理屈を超えた事実である。
 そのような根本的に不思議な選挙社会を持つ日本のおかしさもあぶりだされるわけだが、もっとも問題視すべきは、施設の子供の人格形成問題だろう。この本の題名どおり、同じような立川明日香を生み出す病理こそ、もっと周知され、改善されるべきことなのだ。立川個人の性格ということはもちろんその通りだけれど、その思考の背景にあるのは、間違いなくその生い立ちに受けた、施設での生活という問題がありそうなのだ。そうして、そのことは、実は周囲の大人たちも、確実に分かっているのである。
 どうしたらいいのか、どう改善すべきかというのは、現在も地道に実践している人もいるだろうことは分かる。しかし、社会認知としては皆無に近い状態ではないか。結局は、残念な状態を目の当たりにしながら、立川明日香は現在も育っているのではないか。
 興味本位で手にとってもらうだけでもいいと思う。そして、その妙な歯切れの悪い内容を読んでもらって、考えてくれればいいのだと思う。正直に言うと立川明日香のような面倒な女性に関わるのはごめんなのだが、由々しき社会問題が平然と眠っている社会に僕らが生きていることは実感できるだろう。その気持ち悪さを知らないままにいることで、本当にいいのだろうか。まずは知ることから。そういうゴシップ本のお勧めである。
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面白いが、面白半分では語れない街   さいごの色街 飛田

2014-04-17 | 読書

さいごの色街 飛田/井上理律子著(筑摩書房)

 飛田を知りたいなら、というか、男性の場合はお金を持って行ってみれば良いだけの事かも知れない。知りたいという目的かどうかは分からないが、ある程度はそれだけで分かるわけだ。しかしながら、これが女性だとどうなのか、ということになる。さらにフリーライターが、飛田とはなんだ?という視点で探るわけだ。最初からかなり無理のある話にならざるを得ない。分かりきっていることを分からない前提でもぐりこまなければならない。実際に苦労しているようで、しかしそのために、かなり全貌を掴むことにも成功しているし、細部においてもなかなかの興味深いリポートになっている。断っておくが、エロとしての興味の人には期待はずれなところがあるんじゃなかろうかとは思う。しかしながら、飛田という街が何で存在しているのかということを理解するなら、この本は大変に有用なものだ。そうして基本的に、人間とはなんだろう、ということも考えるわけだ。
 分かりきっていると書いてしまったが、実際には知らないことだらけだ。厳密に言えば、野暮なので立ち入らない領域に、実際に立ち入ってしまうことで面白さが生まれている。男にとっては目的外のことばかりしているので、そういうものを壊すというか、やはり利用する側の視点や、その街で生業を立てている視点からすると、結構な迷惑な話になってしまうのではなかろうか。
 世の中には建前というものがある。小さな料亭で仲居さんと自由恋愛しているものを、あれこれ法律で禁止されている売春ではないか、と探られてしまうと、すべてが成り立たなくなってしまう。危ういバランスで成り立っているのだが、本当の話になると、皆困る人ばかりなのだ。彼らの多くはこの不条理を、単なる商売というより、むしろ人助けのような感覚で行っている。もちろんお金は一番の動機ではあるが、だからこそ性というのは一番の商売になる。危うい事情によって供給する側を取り込めることが出来れば、需要はいくらでもあるということだ。そのバランスを何とか保つシステムを開発した街が、他ならぬ飛田ということだ。もちろん他にもそういう街はたくさんあるはずなのだが、やはり飛田はその風情を含めて、かなり特異性がある。現代社会に存在することができることは、ほとんど奇跡といってもいいのかもしれない。
 ふれられている歴史で面白いなと思ったのは、他ならぬ戦後にGHQへ性の供給のために政府がその方面を多額の予算を使って整備したのだが、日本最大の色街である飛田が外れてしまうということだ。それはGHQ自身が視察に来て、不衛生な日本家屋が並ぶ街に警戒したということがあるようだ。結果的にその独自性が担保できたということもいえるし、独自の理屈でその後の売春禁止の法の網をくぐることも出来た。企業努力ということもあるし、自由だから生き延びたともいえる。他の街はもろに法律にふれることになってしまい、一気に闇化して危険度を増してしまう(いや、飛田も危なかったのだが…)。現在もそうだけれど、自由さが無ければ抜け道を探すものが増える。要するにそういう部分に手を出すようなものは、法を守らない人間だ。そうして需要の危険度は増してしまうようだ。これは色街以外でも当てはまる法則のようなものかもしれない。
 しかしながら、この街で働かざるを得ない人間のことを思うと、著者の視点での告発はある程度仕方が無いとも思う。誰も最初から望んで売春をするとは考えにくい。女であるために売れるものは、自分自身のために使われているのではないようだ。騙されたり売られたり、そうして普通ならもっと別の道があったはずなのに、その蟻地獄からは抜けられないシステムがしっかりしている。この街で暮らすものは、この街から出られなくなってしまうのだ。どんな慰めを自分にするのかは分からないが、ぜんぜん良いとは思ったことが無い人生を、この街に頼らなければ続けられないのである。
 人の不幸に支えられて、一時の春が欲望を満たすのである。もちろんそのために、ひょっとすると多くの治安が保たれているのかもしれない。事実としての自然な社会のために、どれほどの犠牲が必要なのだろうか。売春の無い社会や国家とは考えにくいのだが、構造的に何も手が出せないで済む問題でいいのか。現実として飛田の内情が日本の残酷物語であることには違いは無い。自浄努力で何とかなるものとは思えないし、しかし本当に関わっていいものかも分からない。
 いきなり飛躍になるが、いっそのことオランダのように売春を合法化すると、飛田のような街は失われてしまうのかもしれない。そのことにある種の悲しみを覚えるというのは、やはりエゴというべきなのだろうか。
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別に方言ですら…

2014-04-16 | ことば

 九州の方言には、共通するものがけっこうある。バリエーションはいろいろあるにせよ、基本的には似ているところもあるし、「ん」と戸惑うことは皆無とは言わないながらも、けっこう推察がきくということも多い。許容範囲というか、ともかく聞き取れる範囲で思いを巡らせられる程度には理解可能ということかもしれない。
 ということなんだけど、九州発の方言で、全国的な広がりを見せている言葉があるとして、「あーね」というのをTVで紹介していた。単なる言葉の略だろうけど、言語学者というのも解説してたりして、実にごもっともらしい。
 しかしですね。これは方言というのはちょっと苦しいような気がしないではない。古くなくてはならないとは思わないけど、いわゆる言い回しの流行語であって、流行語の地方発という現象と捉えるべきなんじゃなかろうか。
 はやり言葉の地方発であるに過ぎないわけで、なおかつこれは方言の地方分散というのとは基本的に違いそうである。理解が容易く混合しやすそうだというのも分かるけれど、方言というのではないし、若者言葉ではあっても、単なる地方発という(それは東京地方発でも同じだ)ことに過ぎないのではないか。それとは違う分布という検知があるのなら話は違うが、方言発というのは根本的に違うだろう。
 確かに言い回しの便利さや新しい言葉の発生には面白いものがあるとは思うけれど、会話の中で調子をとるという場合の省略語であるというのは、実際にはよくあることではないか。二つの単語を省略してつなげるのなら、パソコンのような外来語なんかには顕著だし、他の言葉を早く言ったり省略する若者の隠語というのは、それこそ数え上げればきりがないのではないか。それを研究することに意味がないわけではないが、ちょっと安易な感じがするのである。
 まあしかし、安易だから流行したり支持を受けるということも分かるし、若者を理解したい思いというのもあるのかもしれない。でもまあ、仲間内だけで分かりあいたい心理でこういう言葉を共有するということが考えられるわけで、一応踏み込まないのが吉なんじゃないでしょうかね。
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