カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

変な映画であることは間違いない   祭りの準備

2012-11-30 | 映画

祭りの準備/黒木和雄監督
 ひとことで言うと。鬱積したものを抱えたまま悶々と過ごす、土佐の若者の成長物語である。田舎ながらの閉塞感と若者特有の恋愛と性の悩みを中心に、その土地で起こる様々な事件を絡めてスジらしきスジ無く進むお話である。
 狭い社会の中の性的な乱れというか、ひどく屈折した人間関係がまず何というか無茶苦茶で、さらに荒っぽい土地柄らしく暴力沙汰も絶えない。親子関係もあるが、他人との距離が近すぎて、愛人関係もおおっぴらで、近親相姦だとか老人の恋の問題なんかもあったりする。本当に変なお話というか変な映画だなあと思いながら観ていると、何となく芸術的な感じもしないではない。しかしながら不必要に安易に女たちは服を脱いでしまうし、青年は衝撃を受けるとやたらに腕を振り回して駆け回っているところを見ていると、少しばかり馬鹿らしく思えてくるのも確かだ。
 みんな田舎が悪いのかもしれないけど、土佐の人たちがこれを見て、やはりおいらの若いころは…なんて共感を呼ぶものなんだろうか。まあ、確かにその様なドロドロした大人社会というのはあんがいあることなのかもしれないが、まあ、いっぺんに怒涛のようにその様なことばかり起こっていると、社会そのものがいつかは成り立たないような気がしないではないのだった。
 脚本家の自伝的なお話らしいから、あんがい本当のことをベースにはしているものかもしれないが、このような社会に永住していける人というのは、やはりそれなりの才能が必要なのではあるまいか。
 何となく画面が汚い感じなので、性的な濡れ場が多い割にそんなにエロであるような感じもしない。しかしながら終始一貫してそちら方面の事ばかり起こるので、見ていて多少疲れてしまうというのはあるかもしれない。人というのはそういうものから逃れられないものかもしれないが、そればっかりで生きていくのもつらいということかもしれない。結果的になんだかそれぞれに破綻していて、せっかく憧れていた幼馴染と結ばれても、やはり感動することは無い。竹下恵子のヌードも話題になったそうだが、なんだかこれでは脱ぎ損になったと思っているかもしれない。そうではあるのだが、吹き替え論争というのがあるらしくて、映画の後に知ったけど、それはそれで面白い。実は僕は観ていてすぐに吹き替えだろうとは思った訳だが…。
 いろいろ書いたが結局話題満載であるようで、芸術的な観点から興味のある人は観ておいてもいいだろうとは思った。よく考えなくても変な映画なので、人によっては堪能できることだろう。
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素人だから意見は言える

2012-11-29 | 境界線

 テレビのキャスターが主観的な意見を言うようになったのはいつの頃からだろう。あんまり民放を見る習慣が無いのであてずっぽうだけど、久米宏あたりからなのかな、とも思うがどうだろう。
 気の効いている場合も時にはあるのかもしれないが、大抵は的外れだし、不快だというのは以前にも書いた。しかしながら一定のニーズがあるらしくて、近頃はますます不快な事を言うことを強いられているようにさえ見える。馬鹿にしか見えないが、それが望まれる仕事なのだろう。
 いろんな意見があっていいとは思うものの、不快に聞こえるのは、少し一方的な視点で物事を言っている場面が多いようだ。僕自身も特に専門的な事を知っている訳ではないが、それにしても、よく分かりもしない癖に厚顔に言えるもんだなあ、と呆れてしまうのかもしれない。
 ところが専門的な人だから意見を言っていいのか、と考えると、これもやっぱり少し違う気もしないではない。何故かというと、専門的になればなるほど、その複雑な事情を知っているからこそ、安易に物事を言えなくなるということが多々あるからだ。
 それこそ僕の本業は福祉関係なんだけど、これまでもブログなどではほとんどそのあたりの話題は書いていないはずである。別段意識して避けているということでは無くて、ちょっと簡単に言えないという事情があるような感じだ。たとえ政治や行政に問題があるのが明確そうに思えることであっても、その問題を生じさせている事情も知っている。たとえそれが良い改善となることであっても、何かを変えれば、その影響で悪くなるという側面だってあるのが当然だ。もちろん僕にも、ある一方の側に立って物事を言う場合もあるんだけど、そうして仕事の上ではそういう主張をして業界として有利に物事を進めようということもするんだけど、僕個人ということになると、ちょっと簡単に言いたくないな、ということは、やっぱりあるのである。問題が含まれているのを知ってるのに、ある意味それを無視して主張するのは、なんだかフェアじゃないという気分もあるものなのだ。
 ニュースキャスターは不快なんだけど、僕自身がブログなんかで強く主張できたりする話題はだから、実際には素人でよく知らない事が多くなるということになる。何が言いたいかというと、素人だから強く主張することができる訳だ。
 歯切れがよくて気持ちのいい強い意見というのは、実際には素人という厚顔の上に成立することが多いように思う。中には変な思想を持っていてわざとやっている人(石原慎太郎とか)もいるのだろうけど、基本的にそういう図式があって分かりやすい主張というのは表に出てくるもののようだ。キレがいいのは、実際にそういう危険も含んでいるということなんだろう。
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無事でもないけど終わったからよし

2012-11-28 | 雑記

 販売の折、ラジオが取材に来てくれた。いろいろ事情もあって僕が対応することになった。
 生放送で、いつ中継なのか時間もだいたい決まっているらしい。気になったのは、ちょうどその時間に保育園の子供マーチングのイベントが行われる予定になっていたことだ。もちろんそのことも話した。場合によってはイベントの時間をずらしてもらわなくてはならないかも、と考えたからだ。しかし反応の方は、ちょうどなら、にぎわいがあって却って良いでしょう、ということだった。まあ、僕もそう言われると、そんなもんかな、と思った訳です。
 売り場を回っていろんな商品を、その場の売り子さんにインタヴューしながら紹介するスタイルになるという打ち合わせをした。売り子さんには、持ち場を離れないように伝えておいた。
 そうして、さて、本番。スタジオから中継リポーターに振られて、最初の紹介アナウンスがまずまずの調子で始まった。僕はお隣に控えている。そうして僕の紹介をしてくださった時に、子供たちのマーチングの演奏が始まった訳だ。それがまた驚くべき音量で、一瞬にしてリポーターが何をしゃべっているのかすべてかき消されてしまった。うわーっと驚いていると、僕の目の前にマイクが振られてくるではないか。たぶんよろしくとか何とか言ったんじゃないかと思うが、焦ってしまって忘れてしまった。リポーターさんもこの状況にはさすがに困ったらしく。しばらく一人で再度何か話しながら、子供たちが演奏している場所から遠いサイドに足早に移動していく。僕もそれにくっつきながらついていく。建物の陰に逃げ込んで、再度マイクが目の前に来た。今度は少しは語尾が聞こえたので、大まかな説明をする。だいたい考えていたので何とかなる。次にまた何か質問が来たが、今度はアウトだ。分からん。リポーターが再度質問を繰り返しながら手に持っているボードの書き込みを指差す。最初に寄るはずだった売り場の商品らしい名前が書いてあったので、適当にそれらしいことを紹介する。確かにこれでは打ち合わせ通り売り場を回るのは不可能そうだ。なんか申し訳ないなあ、とか考えながら、リポーターの口元を見ながら声を拾っていく。何回かやり取りがあって、予定の5分が経過したらしい。あんがい5分というのは長いもので(僕とのやり取りはもっと短いだろうけど)、とにかく終わってホッとした。
 実は毎回そうなのだが、終わってしまうと何を言っていたかほとんどすべて忘れてしまう。以前は出来不出来はしばらく気になったものだけど、僕もオジサンになったので、もうそういうことはあんまり気にしない。欲を出しても仕方ないし、終わってしまったものをどうこうする訳にもいかない。むしろハプニングがあったので新鮮だったかもしれない。というか、やっぱりイベントの音量のことなんかは、もう少し考えておくべきだったな。それと準備して待っていた販売の人にも悪かったです。
 ラジオは姿が見えないのでいくらか気楽だが、生中継というのはやっぱりいろいろ大変なんだね。もっともいくら大変でも、やり直しをしないというのはあんがい楽だ。映画の撮影なんかだと何度も取り直しをするんだろうし、そういうのにみんなで付き合うというのは、考えただけでも嫌になる。
 ということを考えさせられた中継でありました。
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業者じゃなくても選びに行こう

2012-11-27 | 

 日曜に晋二朗くんのところ主催のワインの試飲会のお手伝いをした。雑感をメモ的に。
 準備で荷物をちょっとだけ運んだり、試飲に当たって自分のブロック担当のワインをお注ぎするだけという簡単なお手伝いであった。お手伝いすること自体はぜんぜんかまわないのだったけど、始まってすぐに感じたことは、あんがいつらいということだった。試飲とはいえ約30本のワインを飲める訳で、目の前でいろいろ飲みながら思索にふける姿を見るのは、呑み助にはけっこうつらいのだ。最初は皆さん割合静かにテイスティングを試みている感じだったのだけど、やはりアルコールなんで、段々と大胆になったり饒舌になったりしてくる。目の前でお話を聞いていて、実際のところはどうなのだ、ということがけっこう気になってしまう。匂いだけはかぐことができる訳だが、そういうことができるだけという制約も含めて、かなり逆に禁欲的な気分になってしまう。後から残りを飲めるということも分かっているのだけど、そうなると終わりの時間が待ち遠しい。早いところ試飲に来られたお客さんには帰って頂いて、僕らの宴会をおっ始めたい気持ちでいっぱいになるのだった。
 自分で買いたい銘柄を選ぶということなんで、参加する方がどんな飲み方をしようがかまわないのだけれど、試飲を楽しむポイントというのは最初にレクチャーがあってもいいかな、とは思った。本当に正確に選ぶということになると、やはり飲まずに口に含んで吐きだした方が良いようだった。しかしながらバイヤーでは無いのだから、なかなかこの行為はハードルが高い。結局飲んでしまう訳だが、やはり後半になると少しきつくなってしまうのではなかったろうか。もちろん途中で気にいったらお代わり自由なので、ちょっとばかりは飲みにいってもいいんだろうけど。
 またスタッフ側の反省としては、やはり少なくとも自分の担当しているワインは、自分でテイスティングしておくべきだったかもしれない。お勧めするにしても、感想を聞くだけにしても、よく分からないままなのは、やはりちょっとさびしい感じもした。ウソも言えないので、前の人の感想を紹介したりして対応した訳だけど、せっかくだからもう少しお話ができるとまた違った対応ができたことだろう。
 これは後の打ち上げで感じたけど、やはり実際に飲んで味を比べてみると、自分の感想を言うことと、やはり同じように飲んだ人との感じ方を比べるのは結構楽しいものだった。共感も当然あるけど、あんがい違ったことを言う人がいる。しかし、そういう話を聞くと、確かに微妙にそういうテイストがあることが発見できたりする。言葉で聞かないとその味を自分では発見できないのだ。これって不思議だが、なかなか興味深い。
 もちろん本当にソムリエみたいにいろんな味のことが分かる訳じゃないのだろうけど、このように飲み比べていくと、その違いの多彩さに改めて驚かされる。葡萄の種類がそうさせるというより、気候や土壌の影響を受けて実際に多彩になっていくものがワインという飲み物だということがよく分かるのである。これは単に呑み助でなくとも是非体験した方がいい世界だと思った。
 僕が言うとまさしく回し者には違いないが、値段もものすごく手頃だし、絶対的に楽しい体験なので参加しない方がどうかしているという感じだ。それとさらに打ち上げも最高でしたね。禁欲の解禁の解放感と、やはりこれだけの種類の何を飲んでもいいという体験は素晴らしすぎる。打ち上げに参加できなかったスタッフさんには、なんだか本当にかわいそうに思えて、その分ちゃんと飲んでおきましたからね。
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すべては自分のためならず

2012-11-26 | culture

 何のために勉強をするのか。どうして頑張って試験で良い点数を取ろうとするのか。
 過去のことなんで忘れてしまったというのが正直なところなのだが、自分のことをさておいて考えると、国際的な差がみられるという。その理由において国民的違いがあるものらしい。勉強したり試験をパスして良い(と思っている。少なくとも希望しているということ)学校にいくということは、結論的にいえば本人のためになることだから、自分のために努力するという図式に違いがあるというのはどうしたことだろう。実は普通は自分のために努力をするということは当たり前で、違いがあるのは日本ということに過ぎないのだが。
 結論をいうと、日本の青少年の多くは、親(特に母親)のために勉強しているという意識が顕著であるという。試験の結果が悪かったり、受験に落ちてしまったりすると、真っ先に母親に対して申し訳ない気持ちになる人が多いらしい。そういう期待にこたえられなかった自分を責めるということのようだ。なるほど、それは自然に理解できるが、他の国の人はそうじゃないんだ?
 もちろん他国の人にもその様な感情があるらしいことは確かなんだが、その様に口にして申し訳ないというほど、その様に感じていないらしいということのようだ。何だかややこしいが、アカデミー賞などの受賞の折りには、受賞者は自分の所縁のある人を称え感謝の言葉を捧げるのが常だ。しかしあれはそのような作法ということであって、実際は自分の実力が凄かったのだと思っている人がほとんどなんだという。つまりタテマエということだ。彼等は本音と建前を使い分ける文化なので、本音の部分はいつも隠れてしまいがちなのだ。
 なんだか話が一般常識と違うぞ、と感じる人もあるかもしれないが、本来はそのような使い分けが逆なのが日本だということらしい。
 実際には多くの母親は、子供本人のために頑張ってほしいと本心から願っている場合が多い。だから献身的に身の回りの世話をして、本人の実力が発揮されるように腐心する。自分の見栄や体面で、子供の勉強の手助けをしているという訳では必ずしもない訳だ。子供の方は、そのような母親の心情を分かっているからこそ、逆にその気持ちに応えようという気持ちになりやすいのだという。自分のために頑張れという言葉の上の励ましを、さらにおもんばかって、その応援してくれる人のために努力しようとするということだ。
 それが良いとか悪いとかいう問題では無いのだが、しかしながら、そのような姿勢ということになると、その勉学そのものを深めるという動機が違う訳で、結果的に違いが現れるということも考えられないではない。もちろん次の期待にこたえようということが、良いモチベーションになる事もあるだろうから(自分だけのためなら、諦めても困るのは自分だけだ)、かえって強みになることもあるだろう。
 このような背景は、日本人に対する自己主張とのつながりの中で論じられたことなのだが、やはりそういう人間が自分の意見を通すような行動を控えるのは、ある意味で自然ということなのかもしれない。そうしてある程度素直で優秀な人ほど、自己主張が弱かったりするものなのかもしれない。それは駄目な人間ということなのではない訳で、自己主張ができない日本人というのは、情けないことなのではないのではないか。
 とはいえ困ったことに見えるのは、つまるところ自分だってそうなのに、他人に期待しすぎる心情なのではないかとも思ったりする訳だ。出来なかったり不得意だったりすることをあれこれ思索しても、結局は上手くは行かない。別の道を模索する方が賢明ということなのではあるまいか。
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新しい世の中って意味らしい

2012-11-25 | ことば

 いよいよ選挙になりましたね。もうすでに選挙後の連立のことしか興味が無いけど、まあ戦争なんで大変ではあります。それにしても世の中はずいぶん変わったもんだね、という感慨はある風景ではあって、特に関係者じゃない人は結構迷ってしまうものかもしれないですね。

 さて、よその国のことなんでどうでもいい事なのかもしれないが、韓国の政党名は何となく以前から気になっていた。というのはなんで現地語をそのまま使うのだろうか。意味が分からないのと、その意図も分からない。誰かに配慮しているのかもしれないし、逆に配慮しないという考えもあるということなのか。名前なんだから仕方ないという意味もあるのかもしれないが、しかしやはり訳することができる意味があるらしい事も変だ。こういうのは誰が決めることなんだろうか。
 というか、野党の場合は訳しているところばかりの様で、民主統合党とか先進統一党というようなものがあるらしい。与党では無いからという意味でもなさそうだし、なるほど革新系かもしれないという分かりやすさは好感が持てる。持てるがやはり野党なんだろうな。
 ということは、問題は与党ということらしい。現在はセヌリ党というらしいが、以前のハンナラ党を改名したものらしい。昔はウリ党というのもあったみたいだから、なかなかややこしい。それなりの経緯はあるんだろうけど。
 ちょっとググってみると分かるけど、しょっちゅう政党名を替えるので訳が追いつかないなんて言い訳をするのかもしれない。人気がでなくなると名前を替えてやり直すというような事を言われているようだが、まあ、何となく日本もそんなようなところはあるみたいだし、いろいろな思想なり政策なりを統合して分かりにくくする意図のようなものがあるのかもしれない。でもまあそんなことはどうでもよくて、やっぱり意味の通じる訳をすべきことに変わりはなさそうだ。
 漢字文化への決別との関連もあるんだろうか。実際は漢字を読める人はそれなりに居るらしいし、やはり漢字を使った方が実用的には利便性が高いのだそうだけど、結局は却下されているような背景はあるのだという。まあそれは彼らの選択なんだからどうでもいいけど。
 そういう韓国側の事情とはつまるところ何の関係も無いので、日本の報道側で早いところ訳すべきということになりそうだ。まさかそれに圧力を掛けるような事があるとも思えないが、いや、日本国内にそんな偏狭な考えの人がいる可能性はありそうだ。
 ふと英語表記だとどうなのかと思ったら、saenuri party と書いてあるようだ。ひょっとするとこれにならっている可能性もありそうだ。
 海外に行くと中国の首脳の名前が分からなくなるという話も聞いたことがあるし(漢字読みで覚えているから)、国際派の人たちにとってはこの方が便利という考えもあるのかもしれない。まあ、そうであっても変な話ではあるんですけどね。
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自己回復力をみなおす

2012-11-24 | 雑記

 販売の仕事で4日ばかり立ちっぱなしだった。一日10時間。食事や休憩なんかも時々取るので、正味8.5時間といったところか。毎年のこととはいえ普段とは違う仕事なんで、これが老体にはけっこう堪えるわけだ。
 今年はいつもより少しばかり早い時期だったこともあって温かいというのは助かった訳だが、それでも朝夕はそれなりに冷えるし、地面の冷気が靴ごと足の裏を冷やすという感じがあって、立っているのが本当につらいのである。何とか昼をやり過ごして、夕方ころになったら、もうあの場所に居るだけでつらいという感じになってくる。罰ゲームに必死に耐えているという感じかもしれない。
 時計を見ても針が早く動く訳でもないし、適当に周りの人をつかまえて、つらさを紛らわす雑談に熱心になったりする。しかしながら客が通るとそんな訳にもいかないので、そばによって商品説明なんかをする訳だが、ほぼ無反応であるばかりか、手に取った商品を元に戻す姿に、ガクッと心も体も打ちのめされてしまうのであった。それでも客がいるだけで緊張感というものが何とか体を支えてくれるということもあって、だから売り子だけの時間帯が長くなると、これはもう殺伐とつらいだけという風景が広がっていくのである。
 ホントに体がつらいので、これが終わったらマッサージなり整骨院なり温泉なり、そういうところに行きたいなあ、などと夢想する訳だが、他の売り子仲間に話をすると、それぞれいろいろと行きつけのところがあるらしいということが分かった。居住地が違うということもあるのだろうけど、これがまったくお勧めのところがバラバラというのが、面白いというか興味深いのだった。皆さん苦労しておられるようであります。
 というか僕には特に行きつけのところなんて無いし、実際にこれが特効薬というようなプランも持ってない。実はよく考えてみると、そういうところを予約したり、さらに行ってみて施術してもらったり、のんびりするということが何となく億劫という感じかもしれない。それに体がきついというよりも、やはりもっと病気っぽい状態で無いと、行かなければ感というのがわかないのかもしれない。
 とにかく足も痛いし腰も痛いし、何もかもつらくて座っていても体が悲鳴を上げるような状態になってきたので、これはしめしめ、どこかを実際に予約してみようという気分になっていたのだけど、2日目、3日目ということになると、なんと少しばかり体が楽になるような感覚が芽生えてきたのだった。自分なりに不思議な感じだけど、立ち仕事に体が慣れていくということなのかもしれなかった。朝夕仕事はじめと終わった後に、何となく体の切れが悪い感じがあったので、早めにその近辺を歩いて回ったりということをしていたのもよかったのかもしれない。
 僕はだいぶ以前に腰痛に苦しんだことがあるのだが、とにかく歩いていると2週間くらいしてすっかりよくなった経験があって、体が苦しくなると逆にとにかく歩くことにしているのである。まあそういうこともあって、普段から普通に散歩くらいはするのであるけど、立ち仕事でつらいので、さらにいつもより気付けて歩くようにしたのがよかったのかもしれない。人間の体はえらいもんです。
 とはいえ実際には風呂には長めに入ったり、つれあいが足の裏を押さえてくれたりしたことも事実である。さらにアルコールで精神を静めたりという効果も、それなりに複合して作用していたことも確かだろう。実際この期間中も飲み会というお誘いは受けていて、行く前はつらいのでちょっと行きたくない気分もあったのだけど、実際にいろいろお話をするような事は、精神衛生上は良い面もあったようだ。
 そういう訳で、勧められていたマッサージ院やら整骨院などをメモしておいたのだけれど、今となっては特に行かなくていいような事になった。少しばかり残念な気もするんだけど、実は終わった後にも忙しくて結局行けもしなかった訳で、週末は別のことができるのかな、と考えております。
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作りものだけど真実とは何か  ビビを見た!他

2012-11-23 | 読書

ビビを見た!/大海赫著(ブッキング)
あなたのエラサはなんポッチ?/大海赫作(「SFセレクション4 科学者たちの陰謀」所収/ポプラ社)

 新聞の書評欄で昔懐かしい絵本の復刊も兼ねての紹介があった。僕には読んだ覚えが無かったし、懐かしいも何も感慨は無いのだが、何となく気になってクリックしていたのだろう。
 子供の頃に絵本を読んだというのは確かに読んだ。しかしながら小学校の図書館で絵本を読むというのは、どちらかというと女の子たちでは無かったか。僕ら男たちは図鑑とか、あと何だろう、というような場所だったような気がする。そのうち本を買う方が多くなって寄りつかなくなった。
 そういう訳なのだが、やはり紹介が良かったのだろう。そして手の取ることが出来て大変によかった。先に「なんポッチ」を読んで笑い。「ビビを見た」で感動してしまった。大人が読んでもなかなか難しい話だけれど、子供が読んだらよく理解できる話だというのもよく分かった。皮肉や風刺も効いているし、深刻なところもどこかとぼけた味があるのだが、なかなか勢いがあって、そうしてやっぱり妙に心に残る。復刊して読み継がれるべき名作というのは、確かにこのような作品なのだろう。
 これらの本は間違いなく子供が読んで素晴らしい感動を呼ぶ名作なのだが、実際に事情は知らないまま勝手な想像で話してしまうのだが、しかし、埋もれてしまうような事になってしまったという事実には、何となく大人の事情があるような予感がする。よく考えるとデリケートな表現などもあるし、状況そのものが過激ということもあるようだ。少し前の何も知らない大人たちがこの作品を読んで、子供に読ませるべきではないというような感想を持つ狭量な大人がいるだろうことが容易に想像できるのである。復刊にあたってもその様な状況があったような記述もあるし、よしもとばななという人気作家の働きも大きいのだろう。いわば政治的に埋もれたものが、人間の自然な欲求によって復活を遂げたもののようだ。その状況自体が素晴らしいことだし、そしてやはりそれは時代の教訓にすべきことのようにも思う。人間は簡単に過ちを犯してしまうものだが、ある程度の苦労を経て、やはり報われることもあるのである。
 しかしながら、やはり少しばかり変な話でもあることは確かだ。大人になると、ますますこの世界は理解しづらくなるというのも、ある意味では当然かもしれない。そうではあるのだけれど、本当に理解ができない話なのかというのも、やはり疑問なのである。簡単に読み間違うような、そういう話なのではない。力強いメッセージ性があり、そうして実際深い感動も味わえるはずだ。気になるのはその前に自分自身が持っている偏見が邪魔をしているだけのことで、読み終わればそれが問題であるということ自体を忘れてしまうのではあるまいか。平たく言うと、まじめに読みさえすれば何の問題も無い話なのである。いや、これだけ心の残る話なので、影響力は無い訳は無いだろうけれど。
 子供に読ませたいとかよこしまな考えを捨てて、素直に自分が読んでみる。そしてこれは子供にはふさわしくないと少しでも感じるような心を持っているようなら、その時点で間違いなくあなたは邪悪な心を持っているということだろう。そういう背景も面白いので、どんどん大人に読んでもらいたい無垢なお話しなのである。
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よく噛んで食べる問題

2012-11-22 | 

 誰よりも早く食うということは無いが、食べるのは早い方かもしれない。他人よりよくしゃべるのに皿の上のものは減っている。たいして噛まずに飲み込んでいるらしい。せっかちなところがあるので、噛むのがめんどくさい。じゃあ食うのが面倒か。それは腹が減るので別問題らしい。
 時間が無くて急いで食うということは以前はあった。飯は食っておきたいが、手短に済ませたい。出張などに行くと、駅中などの飲食店で、まさに飯をかき込んでいる男性がけっこういるものだ。ラーメンや蕎麦なんかあっという間。あれは味わっているというより、まさに餌にありつけた獣である。ざるなら分からないではないが、熱いものでも行ける人がいる。猫舌なものでそれは驚く。いくらなんでも火傷しないものか。いや、しないから食えるのだろうが、人間の個人差というのはまさに驚くべき違いだ。
 特に急いで食べている意識は無いのだが、つれあいにはよく注意される。落ち着いて食べなさい、もっと味わって食べなさい、などなど。確かに落ち着いてはいないが、意識的でないので焦ってもいない。味わえというが、喉越しも味である。うどんなどは喉で味わうというではないか。うちの愛犬などを見ていても分かるが、旨いものほど早く呑み込んでいる。もっとも次を早くもらいたいのと、たいして噛む習慣が無いらしいようだけど。
 よく噛むと本来の味がするという話がある。そういうものもあるのかもしれないが、よく噛むと味が薄くなるものもあるようだ。ホルモンのようなものはなかなか噛み切れないのでいつまでもモゴモゴしてしまうことがあるが、あんまり時間を掛けると、だんだん味がしなくなってつまらなくなる。終いには吐きだしてしまいたいのを我慢して噛んでいる。豆腐なんてものもよく噛んだところで形どころでなくなるだけで、むしろ顎の運動でしかなくなるのではあるまいか。
 そういうものもあるけれど、よく噛むのは消化吸収を助けるのだから体にいいのだという。あんまり身になるような吸収まではして欲しくない気もするが、しかしよく噛むことで満腹中枢が早く働いて、食べ過ぎなくなるという話はある。実際にそういうダイエットもあるようで、一口30回噛むというような指導をする医院もあるのだそうだ。やってみると分かるが、これは結構難しい。ちゃんとノートだとかメモを取るべきなんだそうだが、本格的にやる勇気が無い。どういう種類の勇気なのか分からないけど、やはり本気になれないらしい。
 コメの文化というのも良く噛まない原因かもしれないと思う。ご飯はそんなによく噛まなくても呑み込む事が出来る。よく噛むに越したことは無いが、少しずつでも噛みながらのみこんでいるような感覚がある。しかしながら食べ物を詰まらせて死ぬ食材のダントツ一位は実は米である。コンニャクを心配するのはお門違いで、米はやはりよく噛んで食べるべきなのであろう。もしくは国会議員に騒いでもらって禁止でもしてもらうか。
 大トロとか霜降り肉とか、口の中でとろけるような油というのは、確かに美味である。多くは食べられたもんじゃないというが、そういう心配の前に多くを食べるだけの財力も無い。めったなことじゃないから、そう問題視する必要もなさそうだ。
 ジャンクな脂分というのが標的にされるべきだろうが、あんまりそういうところに立ち寄っているという意識も薄い。子供じゃないので買い食いはしないし、間食というのもあまり習慣になっていない。習慣になっているのは飲酒で、飲みだすと寝るまで飲んでいる。この長い時間にダラダラ食うので、一番の標的はこの習慣であるということなのだろう。
 せっかく満腹になったと思っていても、アルコールがかさむと血中の何とか濃度というのが変わって、腹が減っていると勘違いするのだという。そうしてラーメンでも食って帰るか、ということになる。危険だが、これがまた旨かったりする。旨くて悲しくて翌日は胸が苦しい。
 もっともラーメンじゃ無ければさらに深酒をしようと企んでいる人もいたりして、それが厄介だったりすることもある。時間がきたらお開きという強い意志と習慣。結局はそういう方針を守れるかどうか、という性格の問題ということになってしまうのだろうか。
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拭いがたい生きることの罪悪感   父と暮らせば

2012-11-21 | 映画

父と暮らせば/黒木和雄監督

 基本的に二人劇のようだ。回想シーンでもう一人でるが、かえって夢の中のようで現実感が薄い。むしろ親子の交わす会話の中から、観る人は様々な場面を想像することになる。戦争と、原爆というものの悲惨さということを、映像で無く再現しようとすると、このような手法が却って現実感を醸し出すということなんだろう。実際それは成功しているようにも見えて、心を打たれるということになる。
 このような原爆の話については、日本人はある程度素直に理解できるところはあると思う。気になるのは、やはりこれはアメリカ人に理解できる話なのかということもある。理解できない話では無いはずだが、しかし彼らにはその前提が必要だったし、この犠牲が多くの命を救ったはずだと理解しているはずなのだ。しかしこれは必要な犠牲の話なのではないから、ある意味で前提は揺らぐ可能性がある。悲劇として受け入れながら、史実として受け入れるものなのかどうか。
 しかしながら、この映画は海外の人が観るとして、やはりこの広島弁のような地の人間の言葉で語られるような下地は何とも伝わりにくいのではないか。それはある程度仕方のないことだが、そういう意味では、やはり日本の他の地の人に伝えるべき物語でもあるかもしれない。僕は長崎県の出身だから、このような話は、いわば当たり前の常識の上に観るということになるのだが、他県の人と話していてときどき思うことは、このような下地さえ無いというか、既に風化しているようにも見える原爆の記憶のようなものを感じることがある。教育の問題ということもあるだろうが、既にある程度時間をおいた過去の話という程度にしか理解しえないものになってはいないだろうか。
 生き残っているものが持つ命の罪悪感というものは、自分は持っていないものだが、しかし理解できるものだ。その様な考えを持ってしまう悲劇の大きさを思うこともできるし、また悲しい屈折に憤りも覚える。まるでこの幻想の父のように。しかし、生き残っているものに、死んだものが本当に恨みや妬みを持っていないのかというと、やはりそれは違うかもしれないと思う。筋違いだと思うものの、その様な怨念はあって、生きるものは苦しめられることがあるかもしれない。死というものはそういうことを含んでいて、例えば原爆を落としたB-29のパイロットが発狂したという話(嘘らしいが)を聞くと、慰められる精神というのは事実あるだろう。直接原爆の悲劇を知らない者でもそうなのである。しかし直接の被害者は、さらに被害にあった近しい者のことを考えて、さらに罪悪感を深めてしまう。そのことを、やはり原爆を落とした人間こそ知るべきであろうと思う。もちろん落としたパイロットに言っているのではない。それは日本の大衆も広義では含んではいる訳だが。
 核戦争の危機というのは薄れているという感覚は誰もがあるかもしれないが、しかし可能性が無くなったのかというと、そうとは言えない。むしろそのリスクは拡散しており、具体的によく分からなくなったということの方が事実であろう。戦争という具体性が少なくなっているのかというと、あんがいそんなことも無いようである。回避する前提の努力がはらわれていることと、そしてやはり妙なバランスの上にかろうじて危機を回避できているということなのだろう。
 基本的に映画を観たから回避できるという問題では無いのかもしれないが、少なくともこのような悲劇が控えていることくらい常識として知るべきものだというのは、間違いがないようである。
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先を予想しながらヒヤヒヤする   ジャッジメント・ナイト

2012-11-20 | 映画
ジャッジメント・ナイト/スティーブン・ホプキンス監督

 観始めてすぐに思い出した映画が、ピーター・フォンダの出ていた「悪魔の追跡」だった。多少違う話だけど、基本的にその映画を観た方が楽しめるだろうし、不思議な気分になれるだろう。
 実を言うと感想はそれですべてにした方が気がきいていることも分かっているのだが、それではあまりにも不親切かもしれない。それに、この「ジャッジメント・ナイト」にしてもなかなか楽しめる事も確かで、「悪魔の追跡」には劣るまでも、秀作であることには変わりは無い。でもまあ、ついでに紹介している「悪魔の追跡」は、「ジャッジメント・ナイト」が少しでも気にいったなら、飯を抜いてでも観るべきだろう。追われることの恐ろしさを楽しむというマゾ的な趣味が目覚めるかもしれない。それでいったい何の得になるか、よく分からないだけのことである。
 さて、命がけで追われている訳なのだが、実は「誰が死ぬのか」というのは、あんがい見ていて予想が可能である。アメリカ映画というのはそういうことがある程度分かりやすく作られている。多少は同情を買うだけの(観客が悲しいと感じるだけの)善人であったり憎めない人間であることは確かだが、殺される人間は、何らかの罪を途中で犯してしまうからだ。だから死んで当然だということを言いたい訳ではないが、しかし、製作者側としては、ひょっとするとそういう心理のようなものを持っているのではあるまいか。単に善良なだけの人間が意味も無く殺されることに、何らかの後ろめたさを持っているのかもしれない。
 実際香港映画なんかを観ているとそういう傾向が皆無で、突然善良な人間や主人公らしき人間が殺されてしまって愕然としてしまう。日本では漫画の「タッチ」がそんなことになってしまうが、しかしあれはそれに意味があるから関係は無いか。
 ということで、この次に殺されそうな人間が出てくると、僕は非常に小心者になってしまう訳だ。まさか主人公らしい人は死なないだろうから安心して見ていられるが、少しでも仲間内で変な行動をする人間が出てしまうと、ああ、次はあいつがやられるに違いないと感じて、非常に同情してしまうのだ。あれくらいのことをしてしまうのを許してやれない製作者の狭量に怒りさえ覚えるのである。
 しかしまあ、そういう人間が殺されることで、実は結末は予想できる。それはどんな予想かはあえて言わないけれど、ある程度のカタルシスを必要とするような展開になるはずなのである。
 もちろんそういう展開が分かっていながら映画は楽しめる。むしろそうでなくては楽しめないだろう。水戸黄門だって真面目にみると、やはり面白いからこそ長寿をまっとうしたのだ。そういう意味では娯楽の王道映画で、ストレートに楽しむより無い。あんがい拾いものという感じの作りも、なかなか好ましいものなのである。
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僕たちはこんな国に住んでたんだ   「すいません」の国

2012-11-19 | 読書

「すいません」の国/榎本博明著(日経プレミアシリーズ)

 日本人が海外旅行をして、その国の挨拶とお礼の言葉を覚えるのは当たり前として、さらに当然のこととして、このスイマセンというのを覚えるのが重要だということをいう話を、いろんな人から延べで何回も聞かされた事があるようだ。まあ、重要で無くはないとは思うものの、ちょっと待てよ、とも思ってはいた訳だ。もちろん、そういう気持ちはどこに行っても伝わるものなんだ、という印象をお持ちで帰ってみえられるようなのだけど、本当にそうなのだろうか。言葉が通じなかったから、その場は何とか治まっただけの話なのではなかろうか。
 それというのも、日本式のこのスイマセンという言葉でお互いが理解しあえるなんてことは、そもそもの話として日本文化圏以外で理解される事なんてほぼ絶望的な事であるからだ。例外があるというのはそうかもしれないが、基本的にその場をスイマセンという言葉が和ませる効力を発揮するなんてことは、よっぽど相手が日本文化に通じているか、相手の気持ちを先に考えるような人でなければ不可能だからだ。
 海外に行ってその文化の職人技を習おうと尽力した先人は多い。たまたまそういう特集をやっている番組を見たことがあって、ある人のエピソードが印象的だった。就職するまでも大変だが、何とかその分野の職にはありつけたらしい。それからは何でもやろうということで、重労働も厭わず、他人が嫌がることも進んで何でもやったらしい。その職人技を習おうということで、辛抱しながらそのような掃除や下準備などを何年もやってきたある日、その職場の先輩の人から言われたのだという。「おまえはいつまでたっても掃除とかばっかり進んでやっていて、何故職人の技を教えてもらおうとしないのだ」もちろん習おうという気持ちが強いから耐えながらやっていたにもかかわらず、その気持ちはぜんぜん理解されるどころか、実はやる気が無いのではないかと疑われさえしていたようなのだ。すべての外国人がそうだとは言わないまでも、彼らには自分の気持ちはいわなければ通じない。相手が嫌がってでも教えてくれと付きまとうくらいでなければ、本当に熱意を持ってやりたいという気持ちがあることが理解されないのだ。
 ところが、本当に相手には自分の気持ちをいわなければ伝わらなかったり理解されないのか、という問題もある。それほど外国の人は相手の気持ちを察する事が出来ないのだろうか。実はこれは単純な考え方の違いであって、理解できる能力はあるが、タテマエとしてあえて理解しえないということも分かってくるのである。
 よく日本人は本音と建前が違って本心が理解できない。時には嘘つきで信用できない、ということをいわれる。しかしそれは視点を変えるとまったく別な面が見えてくる。外国人の多くは、建前として正義などの大義を振りかざして議論し、その中に本音というのを大げさに隠し持っているだけのことなのではあるまいか。
 日本人の多くは、たとえ大義は正しくとも、行いの中には正しいから良いこととして治まるかどうかは分からないということを知っている(もしくは心配している)。結果的にどうなるか分からないことに対して慎重なのは、お互いに良いという地点を模索することに目的があり、どちらがより良いかという視点で最初から物事を考えていないだけのことなのだ。
 物事をはっきり言って自分の有利に進めるという文化に対しては、確かに日本のような考え方は不利である。国際社会ではそれはぜんぜん通用はしないだろう。だから日本人もその様な考え方を学ばなければならないという議論は盛んだ。もちろんそうなのかもしれない。しかしながら子供の頃から、日本人は相手を察して物事を考えるように、文化として教育されてきているのである。もちろんそのことが弱くなっているという側面はぬぐえないが、その様な考えが体に染みついている人間が、いきなり180°態度を変えてしまえる方が不自然ではあるまいか。実際のところその様なはっきりしたもの言いの文化が優れているのかというと、結局は争いの絶えないこと極まりないのではあるまいか。
 だからどうだというのは、やはり考える必要はあるが、少なくともこの本のような考え方や内容というのは、広く海外の人にも伝える必要があると感じられる。もちろんそれで理解してもらええるとは考えにくいのだが、共感する人は少なからずいるだろう。日本人がはっきり物事を言えないらしいというのは、既に現象としては知っている人は多いだろう。しかしそれが何故だというのは、勘違いされ放題なのではあるまいか。さらにその理由をやはり日本人本人が上手く整理さえ出来てない。ひるがえって、やはり日本人は読んでおくべきだということになる。
 良いところというのは悪いところでもある。欠点は利点にも変えうることもできる。そういうことができるためにも、その本質そのものを理解しなければ始まらない。自分発見としても楽しいので、ぜひ読んでみてください。
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僕の少年期の終わりの頃   時代屋の女房

2012-11-18 | 映画
時代屋の女房/森崎東監督

 何となく見覚えがある風景のような気がするところがあって、それが何なのか分からないまま観続けていた。終わった後にもそれは思い出せないでいたのだが、それなりに古くなってしまった映画の所為であるのと、やはりこの映画がつくられた時代の所為だということにやっと思い当たった。
 実際にこの映画が上映されていたころよりも少し後になるのだが、高校生の頃アルバイトをしていた時に、ほとんど初めてと言っていい大人の世界を垣間見るという体験をしたように思う。大人の世界というのはズバリ男女関係で、飲食店で働く人々というのはそれなりに事情のある人が多くて、けっこうドロドロしていて驚いたものだ。自分自身の女性関係の乏しさというのもあるが、そういうものであってもそれなりに興味があって接していた。あんがい性的なものというのは、学校のそれとは違って、大人の世界では一般的な出来事なんだな、と思った事だった。その後は必ずしもそんなことでは無いと知る訳だが、まあ、流れ者の多い世界というのは、そんな感じということなんだろう。
 猫のようにふらりとやってきて、そのまま居ついてしまう男女関係がそんなに多いとは思えないが、しかしこのような展開というのは、奥手な男には理想とするものかもしれない。まあ、普通はありえないよ、とは思うものの、戸惑いながら、どういう素性の人なのか聞けないというのも、何となく分からないでは無い。しかしそれがいつまでもということになると、それはよく分からない感じもして、時々ふらりと出て行ってしまうと、やけ酒を飲んだりして、どうにも情けない感じもする。今の関係は理想かもしれないが、微妙なバランスの上にかろうじて成り立っている。そういうバランスが壊れてしまうのが怖くて、そのミステリアスなところを解き明かせないということなんだろう。
 作り手としては、このような男女関係を、新しい生き方のような、何となくそういうふうに讃美して表現しているようなところも感じた。今となっては古い感じがするので少しアンバランスに感じるが、縛られない関係というか、そういうことだ。しかしながらそれはそうかもしれないが、一緒に暮らして利害が一致したような、いわゆる夫婦ということになると、普通はそうも言ってられない。そういう縛られないような感覚から脱皮することで、多かれ少なかれ夫婦というものになっていくのではあるまいか。もちろん映画としても、そういう殻の破り方ということも表現しているようだ。
 変なお話かもしれないが、どこか未熟でシャイなところあった時代ということも言えて、くすぐったいような恥ずかしいような感覚を味わいながら観たのであった。
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キレの悪い話

2012-11-17 | HORROR

 会議が長くなって休憩を挟もうということになると、トイレにも列ができることがある。男性の場合比較的短時間で列は解消される場合が多い訳だが、僕より上の世代ばかりになると、そうもいかなくなる現実がある。上手く言えないが、単純に時間が長くなるのであります。
 まず、出るまで時間を取られるということが起こる。出そうなんだけど、その時がなかなか来ないということである。同じくらいのタイミングで便器の前に立ったはずなんだけど、お隣の人の放尿の音は聞こえているが自分がまだというのは、スタートダッシュに遅れたようなもので、内心少し焦りが出てくる。焦るがそう思うことでよけいに遅くなるということにもなるような気がする。落ち着け、とか自分に言い聞かせて、しかし本当に落ち着くまでにはやはりそれなりに時間を要する。時折便器の前で深呼吸しているオジサンもいるわけで、お気の毒だがその気持ちはよく分かる。
 やっと出たという時間は本当によろしい。後は何となく出るに任せるという安心感がある。しかしながらある程度の勢いが弱まってショボショボしてきだすと、不安も段々と増して来る。これで、本当に終わりなんだろうかという不安なのである。平たく言うとキレが悪くなるというやつで、終わったと思って安心して竿を安易にしまってはならないのである。そうやって失敗した事のある経験が頭をかするので、どうしても慎重にならざるを得ない。内腿を伝う水滴の不快感というのは、残念であるばかりか、なんだか非常に情けない思いをするのである。後悔先に立たずということわざは、この時の感覚と非常にマッチしている。しかし、今はその後悔の前兆の時なのか。その見極めというのは非常に難しい。そうして慎重に慎重を重ねて、中にはブルンブルン振り回してみたりして(別に見栄を張った表現では無い)様子を確かめるが、何となく残尿感のようなものが残っているままでは、やはりどうしても安心できない。終わっているが、しばし放置してみたりして、さらに様子を確かめて、少し体制をかがめてみたりして慎重にナニをおさめて何もなければ、本当に晴れやかに一連の儀式を閉じることができるということなのだ。
 いやあ、今日は無事に治まりましたなあ、などと思いながら手を洗っていると、お隣の先輩が見透かしたように「溜まってたようで…」などと声を掛けて来た。時間がかかっている事を見逃さなかったようだ。「いやあ、キレがどうも悪くて」などと答えると、後ろで手洗いを待っていた人も交えて、前立腺の話題に花が咲くということになる。「いや、まだまだ、本当に怖いのはこれからですよ」などと脅す輩も出てくる始末で、そうなのか、などと思うと本当に気分が重たくなるのである。
今やすっかりお仲間に入ってしまったということが、やはりなんとも悲しい気分ということなのかもしれないのだった。
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詩的な官能世界の映像化   TANKA短歌

2012-11-16 | 映画

TANKA短歌/阿木耀子監督

 このような生き方が理想であるような女の人というのは、あんがい居るのではないかという気がする。多くの場合、抵抗を感じるのは自然なことだろうが、しかし彼女は屈折しているようでいて、実は素直に生きているという感覚を持っているに違いない。すべてを言葉にして出す訳ではないが、しかし、短歌の世界なら、そのような心情に近いものを表現できる。会話では無理でも、一方通行の短い表現ならそれが可能になる。物語に挟まれて朗読される短歌でもって、やっとこの人の気持ちが分かる。しかしその行動や言動からは、どうしてもぼやけてはっきりするものが無い。
 男の側からすると、都合のいい部分と、どうにもならない悪魔性の両方を感じる。一方ではその素直さは自然で、しかし一方では無理に順応したり合せたりしている。素直に合わせている人には自分の思いは相手にどうにもならないし、無理に調子を合せている若い男の方は、しかし逃れられずに苦しんでしまう。どちらにも一面を見せるだけで生きていられるのは、器用というより、やはりその両面性がお互い自分の素直な気持ちだからだろう。
 恋に落ちた相手とは不倫で、しかし相手はその関係において自分を必要としており、そして自分も相手の本当の生活の中に入りたい訳ではない。変な言い方だが、妻を愛しているそのままの姿が、恋の対象であるようだ。遠慮しているということではなく、あえて立ち入ろうとまではしない。一線は越えてしまっているのに、妙に律義な感じである。
 もう一人の男は年下で、ちょっとわがままという感じ。なんと言いうかじゃれつく犬を可愛がっている感じかもしれない。なんかちょっと違うという気分もあるし、最初から恋愛としては本気ではない。それでも愛されていることに合わせている程度には、好感を持っているということだろう。相手のわがままにも応じるし、時には自分も酷く振り回してしまう。しかしながら男の方は未熟だから、そのような振り回され方には、どこか耐えられないところがある。
 どこまで行っても性的な世界で、男と対面するメスの女としての姿を描こうということかもしれない。しかしそのままではポルノだが、男性の観賞のために作られている訳ではない。むしろそういうところの視点までも女性的らしくて、女性のエロスというものは、こんな感じなんだろうか、という戸惑いを覚えることが多かった。見えている世界は、当たり前だがぜんぜん違うということなんだろう。
 何となく気恥ずかしい科白が続くが、そういう世界として観るべきなのだろう。葛藤もあるが、さらりとしている。そうしてラストにおいても、これは不思議なことに男の僕は何となく納得するのだった。女はこうでなくちゃということなんだろう。敵わないなあ、ということが分かって潔い。やはり女性側の本心では、女の理想であるのは間違いあるまい。
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