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カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ウナギを食った

2009-02-28 | 

 出張で浜松に行っていた。
 誰かが餃子を食うべきだという話をしたので餃子屋を探すが、目的の店は休みだった。仕方がないので何故かカラオケを歌った後に店員の女の子に旨い餃子屋はないか聞いたのだが、紹介された店はラーメン屋だった。まあ、当たり前かもしれない。そういう訳で普通に旨い餃子を食っていると若い青年二人を連れた年配の紳士が客で入ってきて、いつの間にか意気投合してビールをおごってもらったりして歓談し、「あつみ」というウナギ屋を紹介してもらった。そこのウナギは固くないということだったが、固いウナギの方がイメージに無くて困惑しないではなかったが、ありがたく翌日の昼に駆け付けた。紹介されたとおりウナギは柔らかく美味で満足したわけであるが、俺の紹介だからと言うように言われた昨夜の医師の名前を失念していた。もちろんあの医師が僕たちを覚えているものかも分かるものではない。東の空に合掌をしてお礼にかえることにする。
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才能がない方が…

2009-02-25 | 散歩

 痛風になってしまってまともに歩けない日が続いて、やっぱりなんとなく緊張の糸か切れたというか、外に出ること自体が億劫になるというような感覚に陥ってしまった。行けなくて残念だという気持ちから、まあ、今いかなくてもいいや、という感じかも。上手く言えないが、元気になってから挽回したらいいさという気分があるようにも思う。挽回ってどのくらい、っていう問題はあるにせよ、取り戻せるような漠然とした気分があるのだ。
 しかしながら万歩計の数値がトータルで低い水準になっているのは動かし難い事実だ。最近は以前より目標水準を低くしている関係もあるが、だいたい一日平均8000歩程度は歩いていたのであるが、十日以上歩けるような状態じゃない日が続いて、一日千歩もいかない平均状態から巻き返すのが難しくなって、今月の平均は4600歩程度にまで落ちてしまった。歩けるようになって数日は少し頑張って一万歩以上の日が続いたが、天気が悪くなったりして長くは続かなかった。今月の日数から考えて、平均値が目標値に達することはほぼ不可能になってしまった。そういう事実が目の間にあると、急にけだるい気分が僕を捉えるようになって、そして、億劫な自分が顔を出してきたわけだ。
 一概に言えないこともあるとは思うが、引きこもりの人の多くは、一発逆転をいつも狙っているような人なんだという。野球に例えると、いつも大ぶりしてホームランを狙っているようなものなのだという。自分には十分ホームランを打って逆転する力がある。だから空振りしたって、また次に来たボールを打ってホームランにしたらいいさ、という考えなんだそうだ。本当に絶対ホームランが打てないわけではないにしろ、ますます打てなくなるのは分からなくはない話だ。打てない日が蓄積されると、ホームランでも逆転できない立場に追い込まれていくのだろう。
 まあ、今月は目標達成は無理にしろ、近似値に少しでも近づいておいて、来月に備えることにしよう。年間で勝つため(平均目標に達するため)には、大穴を潰すことの方が大切なのかもしれない。もともと亀の歩みのようなものなんだから、ウサギのまねをしても始まらないということか。ウサギで生まれてくることって、あんがいつらいことなのかもしれないですね。
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ソースの凋落

2009-02-24 | 

 朝食に目玉焼きが出るというのは定番だが、目玉焼きに何をかけるかというのは意外と千差万別のようだ。
 少ない調査データで申し訳ないが、職場の雑談でのことから推察すると、一番は醤油というものだった。食卓に醤油の常備は一般的であろうし、これは納得がいくものだ。素直に味もおいしい。出張先で近くのテーブルの食事を見るともなしに見ると、圧倒的に醤油という印象は確かに持つものだ。中には醤油はフライパンの調理の時に少量垂らすということも聞いたことがある。香りという点でやることらしい。
 目玉焼きとベーコンを一緒に焼くというのも定番のようで、その時は塩コショウという意見もあった。そういう味付けがなされていても、家族の中には皿に盛りつけてある状態にさらに醤油をかけたりしている人もあるそうだ。調味料の王道の醤油としては、なんとしても登場したいらしい。
 いきなり脱線するが、歌舞伎町の案内人の李小牧のエッセイで読んだが、日本人は刺身に崇高な味があると勘違いしているが、あれは単に醤油を食っているだけだ、と書いていた。中華料理と比べて、如何に日本人の味覚が貧相かという皮肉らしい。もちろん冗談も入っているのだけれど、日本人は醤油を味わうために飯を食っているというのは、時々僕も感じることだ。醤油が偉大すぎるために普及してしまった現象なのだろう。
 焼きそばにも醤油、皿うどんにも醤油、お好み焼きにも醤油という人もいた。単に塩コショウやソースやケチャップやマヨネーズやオイスターソースやおたふくソースは使い分けた方がいいと思うが、そうではないらしい。タルタルソースに醤油をたらすとおいしさが増すという意見もあった。やはり醤油か。ちなみに僕の妹の話だと、マヨネーズにたくあんを刻んで入れるとタルタルソースの代用になるのだと言っていた。
 最近はなんにでも一味とか七味とかをかけるのだという意見もあって、それは味もそうだが代謝促進のためだとか言うことも聞いた。しかし目玉焼きにも一味なのかと聞くと、自分らはしないがする人もいるだろうとのこと。常時七味を携帯している人もいるのだとか。外食などの時に店の人の目が気になることはないのだろうか。
 目玉焼きに戻ると、僕が不思議だったのは目玉焼きにソースが意外に少ないことだった。僕は普段目玉焼きは塩コショウが多いようなのだが、子供のころは圧倒的にソースだった。目玉焼きが何料理なのかというのは議論のあるところだろうけど、平べったい皿に出されてくる場合には、またはフライパンで調理されているような場合には、やはり洋食という雰囲気が漂っているような気がする。そうであるならば醤油よりもソースという方が王道ではないかという気がしないではないが、僕以外には年配の人一人だけだった。若い人たちには目玉焼きにソースは気持ち悪いという意見もあった。一定の年代以下には洋食ではないということなのだろうか。ちなみに飲んだ帰りに立ち寄る「餃子のたっちゃん」では、ニラ卵にはソースという感じがする。これも醤油をかける人がいて、まあそれもいいが、本来はソースだろうと心の中で呟いてしまうのだった。
 ひょっとすると日本の調味料の中でソースというのは、戦後ある程度普及したのち、ものすごく消費が落ち込んでいるのではないか。テレビCMでも以前はイカリソースだとかブルドックだとかカゴメだとか盛りだくさんだったのに、あんまりテレビを見なくなったせいもあるかもしれないが、まったくそのようなものを見なくなってしまったように思える。ソースが食卓にすらないというお宅もあると聞いた。僕が嘆いてもしょうがないが、ソース味というものが若い人には伝承されない危機にあるという可能性がないではない。雑談の中では、そもそもウスターソースとオイスターソースの違いが分からない人までいた。食生活の多様化というけれど、実は単純化しているのかもしれないとも考えてしまったのでありました。
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潔癖主義と不正

2009-02-23 | 雑記

 このコラムは何でも最後は政治に結びつけて無責任な結論を導く酷いものが多いのだが、ひとまずそれは置いておいて、以下は本当にそうなのかと思った。

http://mainichi.jp/select/opinion/yoroku/news/20090222ddm001070081000c.html 

余録:「ミットを動かすな」。国内の野球規則の総元締め…
 「ミットを動かすな」。国内の野球規則の総元締め、日本アマチュア野球規則委員会は今年からユニークなキャンペーンを始めた。高校、大学、社会人などのアマチュア各団体に呼びかけている▲投球を受けた捕手がストライクと見せかけるため、ストライクゾーンの内側にさっとミットを動かす。プロ野球中継などで日常的に見慣れた光景だが、球審の目をごまかそうという意図があることは確かだ。この小さな「不正」を排除しようというのが狙いだ▲ミットを動かすだけではない。「これがなぜボールなのか」と審判に抗議するように、ミットを構えたまま動かない捕手も少なくない。審判の目をだますのも「捕手の技術の内」と、子どものころから教え込まれた選手もいるそうだ。指導者の側の意識改革も必要なのだろう▲麻生紘二委員長によると、捕手による不正な「ストライク工作」は日本野球に特有の傾向だという。五輪をはじめとする国際大会に参加した日本人審判は同僚の外国人審判から「また日本のキャッチャーがおかしな動きをしている」と苦情を言われ、肩身の狭い思いをしているそうだ▲野球が国際化し、単なる勝ち負けだけでなく、選手のマナーも比較される時代になった。アジアの代表を自負してきた日本野球が実はアンフェアなプレーの巣のように見られているとしたら、これほど残念なことはない。キャンペーンはアマチュアが対象だが、影響の大きいプロにこそ必要な改革だ▲フェアプレーが求められるのは、スポーツの世界だけではない。国民の審判の目を避け、ミットを動かし続ける政権があれば、国内でも海外でも信頼は得られまい。
毎日新聞 2009年2月22日 東京朝刊
  
 僕も少年野球というか、ソフトボールぐらいはやっていたから経験があるが、子供であってもキャッチャーがミットを動かすのは常識と言っていい。不正と言えばおおごとであるが、野球というスポーツを知れば知るほどこのようなフェイクのような動きをするというのが当たり前になってゆく。キャッチャーの動きが日本特有というのはどうなのか知らないが、メジャーリーグで野手が相手を騙すような動きをするのは日常茶飯事だ。一番卑怯だといわれる隠し玉だってちゃんとする。空タッチでアウトにする場面など、僕は何度も目撃したことがある。ミスジャッジを誘い試合を有利に進めるというのは、プレーの王道と言っていいのだ。
 野球に限らずスポーツというのは、フェイントというか相手をいかに騙すのかというのが本文のようなところがある。ベテランが有利なのは、そういう演技力の賜物である場合が多い。一流と言われる選手ほど、相手の心理の裏をかいてプレーする。もちろん審判にだってフェイクを仕掛ける。
 野球というのが局地的に流行しているマイナースポーツであることと、米国のスポーツであるということが、この記事の核ではないかという気もしないではない。国際試合と言っても、この場面の国際とは、おそらく米国だろう。表面的な公正さを求め、複雑なことを嫌うというのは、単純思考で物事をとらえるという彼らの悪い癖である。ましてやこのようなプレーが本当にフェアプレーに反するような行為であるのかということこそ、もう少し議論してもよさそうなものだ。外圧に弱い国民性と言ってしまえばそれまでだが、結局はアマチュアの正義感にすぎない気がして情けないことである。
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失望も含めて楽しんで読もう

2009-02-21 | 読書
鉄砲と日本人/鈴木眞哉著(ちくま学芸文庫)

 本を読む醍醐味として、世の中がひっくりかえるような知的興奮というものがある。常識がくつがえるというか、目から鱗というか、とにかく「ええっ」と驚愕するような体験である。これはまさしく快感で、怪しい説でそのようなことになっても何の意味もないが、根拠を持ってくつがえされると、その時間が至福となる。しかしながら当然のこととして、そのような内容の本というものはめったに出会えるものではない。今回の本というのは、そのような実に貴重なびっくり本ということなのである。
 昔はよかったというノスタルジーは、現代の失望からくるものが多いのかもしれないのだが、多くの場合はただの妄想である。ましてや自分自身のことだけでなく、日本人はどうだったという話になると、なんで現在と比較してまで昔を褒める必要があるのかということの方が問題視されなくてはならないのではないか。いや、当然昔の日本人には素晴らしい人がいなくては困るわけで、今よりその割合が多かったのかどうかということは厳密に分からないにしろ、偉い日本人を顕彰してたたえることについて非難するつもりは毛頭ない。その上昔の日本人について死人に口なしで悪く言うようなことも、むしろ卑怯な行為と言えるだろう。もちろん著者としても、そのような卑劣なことをしたいがためにこのような日本人論のような話を書いたわけではない。素直に調べていくことにより、何より著者本人の方が、目から鱗の体験をしたということなのだと思う。その体験を読者に語るとき、定説という大きな壁の前に戦いを挑まなければならないという問題が起こる。その戦い方において、如何にその壁をつき壊すかという行為を当然とらなくてはならなくなって、あらかじめ防御を張るということまで考えを巡らせなければならなくなる。十分注意していると素直に読むとよく分かるのだが、一度定説に凝り固まって歴史を見る目を養った人たちにとっては、この行為はある意味で背信に映るものなのかもしれない。その上著者の立場は、何の権威もないただの在野の人である。本来一番弱い立場の人が、実は強力な武器を手にしている。これは比喩でいっているわけだが、まさにそれは鉄砲の話なのである。正直に愉快で、僕はすっかり鈴木眞哉(まさやと読むらしい)のファンになってしまって、アマゾンでさらに数冊クリックしてしまった。

 実を言うとこの本の存在を知ったのは十年ほど前だったかもしれない。それなりに話題になっていたようで、読んでみたいと思ったのだろう。それで記憶の片隅には残っていたようで、数年前に本の方は購入していたようだ。しかし積読したまま本棚にあったわけだ。このたびふと手にとってのめり込み、そういえばというようなことをいくつも思い当たった。特に白兵戦ということについては、近年別の著者から否定的なものが出ているようでもある。武士道についても同じように、マスコミ的な流行りとは裏腹に、まともな言説のものもそれなりに存在する。もちろん、普通に歴史を研究している人達にとっては、むしろ世間的な、またはテレビの時代劇的な常識というのは、もとから噴飯ものだったということは当然あっただろうし、あえて表面的に否定せずとも常識として流布しているということはあっただろうことは予想される。しかしながらなかなか世間の常識の方が動かし難かったという諦めもあったのではないか。このような論説が在野の研究者から明らかにされ話題になることで、また、本来の歴史研究がさらに刺激を受けて深まるということも言えるのではないだろうか。そういう意味でも楽しい事件として、この本がさらに読まれることを願うのみである。
 まあ、戦国の人気武将に思い入れの深い人は、逆に失望してしまうかもしれないですけどね。
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世界的大監督の誕生

2009-02-20 | 映画
運命じゃない人/内田けんじ監督



 アフタースクールを観てすっかり虜になってしまったので、当然のように借りて見た。流石に監督第一作ということもあるのか、ほとんど無名の俳優さんと、上手い具合に金のかからない製作方法をとっている感じがあり、パッと見はかなり地味な感じかもしれない。しかしどうして、内田けんじは裏切らない。またまたどんどん引き込む仕掛けが盛りだくさんで、どうしても目が離せなくなってしまう。平坦な時間軸で考えるとそんなに複雑な話ではないのだが、時間軸がばらばらに組み合わされると、ものすごいサスペンスとして物語が構築されていく。アフタースクールは、結局この第一作を踏襲してつくられているというわけなのだ。
 もちろん映画的な文法でいえば、このような作風は過去にもそれなりに蓄積された名作があるわけで、そういうものに対してのオマージュと挑戦があるということでもあり、そして完璧なまでにその試みが成功しているのであった。犯罪映画というスリルから考えて、タランティーノのパルプフィクションを思い起こしたのだが、そのような名作的傑作とも決して引けを取らない見事な脚本の構築された世界を見せてくれる。映画館で映画を観た人には、思わず巻き戻して確認したい場面が盛りだくさんだったのではないか。そういう作りはリピーターを生み、着実にファンの心をつかんでいくだろう。実にやるじゃないかという憎らしさである。
 視点を変えて時間をさかのぼっておんなじ場面を観ていると、まったくおんなじ映像を使っているだけなのに、思わず爆笑したり、ええっと驚愕したり、ううっと唸ってしまったりする。我ながら馬鹿みたいだが、これだけ観客を翻弄する仕掛けが成功していることに、監督自らはもちろんほくそ笑みながら楽しんでいることだろう。もう、どんどん映画を撮って欲しいと切実に願わずにいられない、世界の大監督の誕生を記念する名作なのであった。
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パンデミックの恐怖の先にあるもの

2009-02-19 | 雑記

 一昨日の事なんだが、医師会の先生から鳥インフルエンザによるパンデミックの対策についての話があった。一通り報道等で聞く話と大差はないが、あえてこのような話をするのは、正しい知識を持っていたずらにパニックにならないようにしなければ、という趣旨であるらしかった。そうではあると理解したものの、実際の内容といえば大半はパンデミックの影響として考えられる、最悪のシナリオの強調であったことは疑いがない。実際に自分が感染したら神に祈れ(生き残れるよう)とか、最終的には自分の命は自己責任という話だった。病院だって閉鎖しなければというような話もあって、この話を聞いたことによりいち早くパニックになる人が増えることになるだろうということは十分に感じた。知識過多という感じかも。知っても知らずでも防げないし死ぬだけということであれば、知らない方が平和である。まあ、いざというときのために自己防衛として、食料備蓄を行って家族を守れというメッセージはあったにせよ。どの時期でそのような行動(一定期間の一家籠城)を実行できるのかという目安がはっきりしないために、ほとんど意味がないようにも思えたのは残念だった。これで生き残る人が増えたから意味があるということは言えないとも思う。使命感が空回りしているということだろう。
 もちろんパンデミックは起こりうるゆゆしき問題であることは想定の範囲としてあるものだ。数年内に間違いなく起こる、という論理的根拠に乏しいにせよ、起こり得ない問題とは言えないところに問題がある。これは地震や津波のような災害にもいえることで、発生することを防ぐ手立てが無い以上、対策を講じて有事に備えるということに意味がないわけではない。知識として自分がまだ感染していないということがある程度想定される中であれば、一定期間の籠城という選択は心掛けよという程度の話だろう。
 科学の世界では、ある可能性を否定するということの方が、無い可能性の肯定よりはるかに難しいというロジックがあることをわきまえる必要がある。幽霊というものは科学的根拠がまったく乏しいもので、無いと言い切ってもよさそうなもだが、見たという人がある以上、その現象を否定しきれるものではない。物理現象として反証できないことなので扱わないだけのことなのに、科学で説明できない、などとヒトによっては考えてしまったりする。そこまで極端な話ではないしろ、環境問題や有害物質の人体への影響についての議論にしろ、影響がないと言い切れるだけの証明をするより、あるという方が何千倍も簡単であることは、普通の論理的な考え方をできる人ならば、容易に理解できることであろう。もちろんパンデミックは無いと否定できないにしろ、だから安易にあると肯定することはフェアな議論とはとても言えない。遺伝子の違う鳥から人間への感染ということ自体、明確に証明されているわけではない。ましてやそのウイルスが変異して人間同士で感染するということは、まったくないとは言えないという段階であって、あったという確証は(可能性としてはあるといえるにせよ)まだないというところではないか。
 もしあったらどうするの?その時はすでに手遅れじゃないか。ということは言えるにせよ、その恐怖のみで事実を湾曲していいとは限らない。特に鳥インフルエンザのように分かっているようでまだよく分かっていない分野の話は、ある程度知識のある人間の方がロジックを理解してしまい、暴走する危険がある。無知には分からない話だからこそ、倫理や正義の話として浸透してしまったりする。以前にあった共産主義のような革新的思想であっても、そのロジックが論理的かつ難解だからこそ、ある程度の知識層の方に訴える力が働いたとも考えられる。有害なものほど魅力的なものはないのかもしれない。
 もちろん人類は長い間疫病の集団感染に苦しめられてきた経緯がある。人間というのは個人の指向性は多様であるにせよ、多かれ少なかれ集団を形成する社会的な行動をとる傾向にある。多くの疫病に対してある程度は克服してきたにしろ、未知の可能性であるすべての疫病に対して万全であるということは決して言えることではない。鳥インフルエンザがまだ克服できる段階にないといえるにせよ、具体的に問題化すればするほどに、解決への道筋は早まるという可能性の方が高くなってゆくだろう。そういう意味でこそ冷静に、発生可能性のある国々への援助を含め、やれるべき対策を練っていく根気強さこそ求められる対応といえるだろう。
 話はまったく関係ないとは言えるが、僕の少年時代にはもっと絶望的なものが世界を曇らせていたことを思い出す。それは外でもなく冷戦時代の核の脅威というものが世界を覆っていた時代があったということである。今でこそソ連は崩壊したが、その時代にソ連の崩壊を予想した人など皆無と言って過言ではないだろう。もしアメリカにしろソ連にしろ、そしてほかの核保有国のどこかにしろ、誰かがミサイルのボタンを押すことがあれば、全面核戦争になり、ほぼ人類は滅亡するというイメージが現実に目の前にあった。僕の父などは真面目に核シェルターの建設を検討していたフシがある。いざとなればそうでもしないと家族の命は守れない。それは冗談でなく切実な問題として対応すべき正当な処置だったのである。しかし時代が変わった現在になってみると、安易に言っては失礼かもしれないが、むしろ滑稽にさえ思えるところがある。あれほど切実な問題であったし、人類が克服できそうな課題ではなかったにもかかわらず、まったく予期せぬ時代の流れの中で、核の脅威はほぼ可能性として半減以下のレベルまで下がってしまった。
 繰り返すがパンデミックと核の話では根本的に話が違う。しかし、僕個人の感覚としては、何処かの(ここでは発展途上にある地域)の発生源から爆発的に拡張する疫病の恐怖というものは、どこか本当に現実的な恐怖であるのかという疑いを持ってしまうのである。もちろん怖くないわけではないのだけれど、さらに結果的に自分だけは助かる方法として知識をため込むという行為自体に対しても、何か割り切れないものを感じるのである。
 今ではやむを得ない正当な対策であったということになっているのかもしれないが、養鶏所の鳥を全面処理したり、公園の鳥を完全駆除するような手法をとっている現実を鑑みると、発展途上の国そのものを封鎖監視するなどの法案さえ出かねない情勢を感じさせられる。口では言わないが、その先に最悪の事態として、やるべきことも実行できるように考えている人もいるに違いない。過去の歴史でいえばドイツなどには、そのような象徴的なことを実行した人物もいたようだ。そのような狂気が正当化されるということの方が、パンデミックそのものの恐怖より恐ろしいと考えるのは、単なる妄想にすぎないのであろうか。
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人間が女王という存在である時

2009-02-18 | 映画
クイーン/スティーブン・フリアーズ監督

 ダイアナ妃がなぜ死んだのかというのは、交通事故が原因だろう。まあ、半分冗談だが、なんで事故を起こしたかということはドライバーの問題が一番にしろ、パパラッチの影響を否定はできないだろう。
 彼女の映像を探すのに手間取ったので素行の悪い歌姫で有名なエイミー・ワインハウスを追っかけるパパラッチの映像を見てもらおう。

Amy Winehouse has a crazy day out!


 この人はカメラマンを殴ったりするのでますます面白がってこのように付きまとわれるというのはあるのかもしれないが、まあ、パパラッチの実態としてはこのような感じで四六時中付きまとわれるということのようだ。ダイアナ妃も似たように付きまとわれていたと考えて差支えないだろう。
 付きまとわれた最大の原因は、追放されたにしろ元英国王妃であったということと、やはり一般受けする美人だったということと、性格的な自由奔放さと、英国王室批判の目があったということがいえるだろう。まあ、一言でいえない複雑さはあるにせよ、気になる存在だからこそ付きまとわれた。今だに英国王室陰謀説が消えないにしろ、結果的に写真の嵐から逃れようとして事故を起こして死んでしまった。

 さて、そこから映画は始まるが、国民感情は死んだダイアナを偲ぶあまり、英国王室を恨むようになる。そのようなときにクイーン・エリザベスは、どのようなことをしていたのだろうか。また、何を考えていたのだろうか。
 日本の皇室がどんなものかよく知らないのだけれど、見た感じずいぶん英国王室は自由な感じがしたのだが、これでも英国人にとっては格式ばっているということなのだろう。日本人にはちょっと驚きである。スピーチだって原稿はあるにせよ、見ることなどまったくしない。そして普通の嫁姑関係のように、愚痴を言いながら生活している。これだけ人間的な生活をしているのなら、そんなに不満に思わなくてもいいのではないかと思えるほどだ。しかし、首相の忠告などもあり、徐々に国民感情の圧力に抗しきれなくなってゆく。ダイアナが招いた英国王室の最大の危機である。
 ダイアナは王子たちの母親であるということもあり、母を失った王子たちの気分を少しでも癒やす必要があるということで、仏国で鹿撃ちをすることになる。エリザベス王女は鉄砲を撃つことはしないが、自分でRV車を運転して荒野を駆ける。車の構造に詳しいらしく、故障した原因もしっかり理解している。知性と行動力を兼ね備えたオバサンということだ。そして荒野の中で一人きりになったとき、大きな雄鹿が目の前に現れる。その猛々しさに暫し見とれているのだが、近くに狩人たちの気配が聞こえる。逃げるように促すが、なかなか反応しない。やきもきしながらハンターたちの気配のする方を見ている隙に、いつの間にか姿を消している。女王は、ほっと胸をなでおろすのだった。しかし、後日、その大きな鹿はついにハンターの餌食となってしまう。女王は獲物が格納してある場所に、姿を見にやってくる。首を切り取られても猛々しい、しかし無残な姿を見て、ショックを受けながらも何かの決意をする。英国へ戻る気持ちの整理をつけるのである。
 女王といえども人間である。選挙権もないような特殊な人間ではあるにせよ、生身の人間であることは間違いがない。そこには立場やその人の持つ格調のようなものを持ち合わせているにせよ、絶対的にもともとが強い特殊性を兼ね備えて存在していたわけではない。今まではそういう格式の中にあって成り立っていた存在であった。今後もおそらくそれは大筋では変わりはないだろう。しかし彼女はあえて民衆との距離を近づけることによって、自分自身が何か脱皮していくように、しなやかに強くなっていく。これは演技が見事ということなのだが、淡々と何の変化もないように見えて、その変化の大きさにこの人の背負う物の大きさを見ることができる。このことに気づいている人間はそう多くはない。そしてその力強さに。
 どこまで本当の話なのかは知らない。しかし、映画としてこの映画が妙に心を打つとしたら、それはある意味で真実の物語なのだろうと思う。それは必ずしも死んだダイアナの望んだことではないかもしれない。しかし、UKという国に一人しかいない存在の孤独と偉大さというのは、死んでも猛々しい大鹿のようなものなのかもしれない。
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酒と距離ができて思うこと

2009-02-17 | 時事

 やっぱり酔ってたのかねえ、という話題。
 薬でそうなるのならドーピング検査が必要じゃないかとか、相撲取りに失礼じゃないかとかいう話も聞く。そうなのか。
 白川総裁は「酔っているとは思えなかった」といったというから、酒を飲んでいるらしいとは思ったのだろう。
 中川さんって、中川さんの息子だよね、と今頃になって年配の職員が言った。息子の方が二枚目ではあるな。
 海外へ失態をさらした、ということで思い出したが、ロシアのエリツインもよく明らかに酔っぱらって記者会見してた。だからいいという話ではないが、酔って会見する人って結構いるんじゃないかとは思う。文書読む奴より面白いので、日本のメンツなんていう人よりは信用できそうだとは思う。
 まあしかし、末期ではあるねえ。だから本心では、飲んでないとやってらんない、ということだったのかも。どうせ落ちているんだから、もっと掘ってやれというところか。
 個人的なことだが、痛風になって少し酒を控える日々である。と言っても一週間程度飲んでないだけだけど。酒との別れ、というと大げさかもしれないが、しばし距離を置いてみると、僕は随分無理して酒を飲んでいたようにも思える。もともとひ弱な体質らしくて、胃腸も弱いし、すぐに風邪も引く。アレルギーは多いし、血を見ると貧血になるし、痛みには異常な恐怖心がある。性格的に辛抱強くないのは、ひ弱すぎるためかもしれないと言い訳しておく。強い人間なら酒など飲まなくても平気なのだろう。まあ、飲まなくてあんまりつらくないのは、強くなったというより、弱い自分を受け入れられるようになったということなのかもしれないとも思う訳で…。歳ですね、平たく言うと。
 結局強がってたんだろうなあ。それってやっぱり本当に弱い証拠だったんだと反省しているのであった。
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赤毛のアン  anne of green gables-opening

2009-02-16 | 感涙記
anne of green gables-opening



 最初は高畑勲監督と宮崎駿が組んでつくられていたそうだが、途中で宮崎駿が「ルパン三世 カリオストロの城」の制作に入り降板する(投げ出したという話も聞く)。そのためか、このオープニング映像にあるような爆発する少女性というものは段々影が薄くなって、淡々と物語が紡がれるように変化していく。もちろん最初の頃からこの物語は素晴らしいのだけれど、原作に忠実につくられたという素直さが功を奏してゆき、圧倒的な感動作となってゆく。原作をまったく知らないものにも、なんとなく物語は予想させられるところがあるのだが、前半のコミカルな味から後半までの成長したアンの姿を見る頃には、毎回涙が勝手に流れてどうしようもなくなってしまうのだった。もう僕などは思い出すだけでダメなクチで、「赤毛のアン」という単語だけでも、胸がジーンとくるぐらいである。
 この気が強くて賢いアン・シャーリーという女の子が素晴らしいということが、何よりこの作品の基本ではあるにせよ、しかしむしろ、その成長を見守るマリラとマシュウという不思議な老兄妹の姿が物語を観ているものに大きな感動を与えるのだと思う。
 この二人は、今でいう協調性の欠けた変人ともいえる人間なのだが、そのためかグリーンケーブルズという土地に兄妹とも独身のまま二人で住んでいる。この土地は大きな農場になっており、働き手として、そして恐らくこの土地の将来の担い手として、男の子の孤児を引き取ろうということになる。しかし何かの手違いにより(そんな重要なことなのに自分の目で確かめにいかなったということが不思議だが、しかしそれではこの物語が成り立たない)やってきたのは11歳の女の子だった。それもかなり口が達者で偏屈な。
 この二人は間違えてやってきた女の子に翻弄されて困惑するばかりなのだが、しかしそのことで本当の人間性(何がほんとなのかは僕にも分らないが)というものを取り戻してゆき、アンを通して人間のしあわせを掴んでゆくという物語なのである。
 僕は少女時代を送った経験がないないし(当たり前だ)、監督の高畑にしてもアンの心情が理解できないと言っていたというエピソードもあるくらいで、この女の子の考え方はほとんど驚異の世界なのだけれど、しかし、少女という存在のリアリティが感じられるのも確かで、驚きながらも感心しながら観ていた。おそらく原作のモンゴメリの少女時代の考え方もふんだんに投影されていることだろうが、ただの作り物のハリボテものでは決して醸し出されるはずのない、真実の物語がそこには広がっているように感じられるのだ。
 少女は段々と成長していき、宿敵ともいえるギルバートと恋に落ちるのだが、この必然さもかなり強情でありながら無理のあるものでもなく、またマリラの過去にギルバートの父親と何かあったらしいことも示唆され、運命として申し分のないラブストーリーなのである。いわゆるロマンチックじゃないのだけれど、皆が納得し、望んでいることなのだ。
 物語そのものは、そのようなそれこそ皆が望んでいるとおりに運ばれていくかに見える。しかしそのような感想は、物語にからめとられた者がいつの間にかそう思わされて望まずにいられなくなるからこそ、そうなってしまうのである。僕は詩の朗読などに感激するような環境はまったく理解できないまま、アンのことが本当に誇らしく、マリラとマシュウのしあわせが手に取るように伝わってくるのだった。
実は既に涙を拭きながらこれを書いている状態になっていて、観なくても泣けるというほどすごい作品であるという証明であろうと思っている。もちろんこれを観た人には当たり前すぎて、いまさら何を言っているということなのかもしれない。
 このアニメは子供が観てもおそらく本当の意味は分からないのではないかと思う。もちろん子供が観て面白くないわけではないのだが、子供の成長を見て大人が本当に人間的に成長するように、アンを取り巻く物語の力と真実は、大人の鑑賞眼でなければ読み取ることが難しいのではないだろうか。赤毛のアンは、少年少女のために紡がれた物語ではなく、人間のしあわせを追求した真実の物語なのだと思う。
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僕が罪人だったころ

2009-02-15 | 雑記

 一日過ぎたが、昨日は多くの人の恋が成就したらしいことは、いろいろなブログで見て取れる。人はある程度のイベント性に弱いところがあるのだろう。切っ掛けとして絶好の日といえば、確かに昨日はいい日なのかもしれない。
 さて、バレンタインといえばチョコレートが定番というところなんだけど、学生時代には確かにチョコレートが欲しかったような記憶がある。漠然とモテたいという欲求があったことを認める。自分の中の自意識過剰というか、または自信のなさというか。僕は本当に馬鹿なガキだったので、「チョコレート頂戴」といって手当たり次第に廊下を渡り歩くような行動を取ったりしていたようだ。もちろんそんな子供にチョコをくれる人などいない。しかしこれは一種のテレ行動で、どうせもらえないことを意識して馬鹿をやるということだったのだと思う。別に名誉でもないんでも無いが、それでももらったことは確かにあって、それは悲しいかな意中の人ではなくて、やはり冗談めかして受け取るより無いのだった。学校社会のバレンタインというのは、罪な行事だったような気がする。

 高校生ぐらいになるとやはりそういうことに対して少しは考えるようになる。今考えるとおかしいのだが、下手にもらわない配慮というものを考えていたのもこの頃だ。もちろん理由はあって、下手に貰うようなことがあっては却って都合が悪い。圧倒的にモテるのならいざ知らず、中途半端にもてるようなことはものすごく厄介だ。不必要にもてないにはどうしたらいいのか、なんて事をまじめに考えていたりした。まあ、馬鹿には違いないが、そのころはそれなりに真剣にそんなことを考えていたようだ。
 なんとなくというか当然気づいていたことだが、僕はある女の子から好かれていたらしく、ある意味で公然の秘密として周りの人間はみんな知っていた。僕は残念ながらまったくその子は意中の人ではなくて、普通に友達として、というか、別に積極的に嫌いなわけではないが、まったく付き合うには駄目な感じだった。ゆわゆる、まったくタイプじゃない人なのだ。そんなに器量がいいとはいえないにしろ、それなりに友達もいるような明るい子で、悪い人ではないということは分かる。しかしだからといって付き合ってもいいとはどうしても思えないのだ。いや、冷やかされて一緒にさせられたりするのは激しく嫌だったけど、だからといって誰か別に積極的に好きな人というのもいるわけじゃなく(まあ、これがいけないわけですね)、放っておくという感じなのかもしれない。
 バレンタインにはチョコと一緒にマフラーか何かをもらったのだが、僕は「すまないけど」といって返してしまった。ちょっとマジだと困る、と思ったのだろう。そして、この日を境にクラスの女子というのはすべて敵になってしまって、執拗に嫌がらせを受けた。机の上の鉛筆をわざと落とされるとか、まあ、そんなようなことだ。中にはまともに説教してくる子もいて、本当に煩わしかった。僕は本当にモテるという男ではなかったから、男連中からも身分をわきまえていない、などと真剣に注意を受けたりした。これには本当に懲りた。このようないじめのようなものは一時のことではなくて、しばらく続いたように思う。僕に同情的な人間はほんのわずかで、どうしても理解できない奇異な行動を取った人間として、糾弾されるようレッテルを貼られたようなものだった。様々なことがぎこちなく変化し、まったく嫌な体験だった。
 そういうことがあったにせよ、その子は僕に話しかけてくることがあった。まるで天使が光臨してきたように慈悲深く、いたわるような口調で何気ないことを話しかけてくるのだ。僕は罪人だったのだろうと思う。取り返しのつかない罪を犯した前科者なのだった。
 そういうことがあると、バレンタインという日が怖くなるのは当然ではないか。

 しかしながら時は流れ、今は平和にチョコなどもらえない中年親父に成長した。今年はつれあいの母からビールなどと、母親からラミーチョコを貰った。そしてもちろんつれあいもいつに無くやさしい。素晴らしい。なんと罪もなくいいバレンタインだろう。
 そういうわけで今は別にバレンタインが恐怖の日だとは思っていないが、誰にでも告白していい日だというのは、少し考えた方がいいとは思うのであった。告白事は、バレンタインの力を借りずに別に日に、できれば場所を選んで済ませておいた方がいいのではないだろうか。
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そういえばバレンタインデーですな

2009-02-14 | 雑記

 「たけくまメモ」みてたら紹介さていた。なんというか素直にびっくりした。
http://hacktothebrain.jp/
 こんな風にして漫画を楽しむようになるのかもしれない。紙の上の世界では考えられないメディアになっていく可能性というものが、漫画にはあるということだ。いやあ、いつのまにか長生きしたという気分になりました。

 雑誌で宮崎哲弥が褒めていて、つい買ってしまう。
ラッキー are you lucky?
 そして号泣。音楽は何故かライズ・アゲインストの曲がかかっており、共鳴したのであった(いや、薄っぺらい音楽なんすけけどね)。ま、これはマイクロ個人的体験に過ぎないが、この話はクサくてズルいと思うのだった。でも、やっぱり泣いてしまう。上手いっス。

 最近は車の中でもっぱら落語を聴いている。ニコニコ動画をMP3変換して(youtubuは何故かMP3に変換できない。誰か知っている人ご教授くださると助かります)、音声をFMに飛ばして聞くのである。
 そして思わず号泣したのが
談春の「紺屋高尾」
 いや、談春という人は風のうわさに聞いております。上手いですね。枕がおざなりな感じなので、単なる若い噺家なのかと勘違いしたくらいですよ。この噺はすごいですよ。これだけありえないものにリアリティが生まれるという芸に、感涙したというのが正直なところなのかもしれません。江戸にもファンタジーはあったという、当たり前の世界へ。人はファンタジーこそ欲しているのかもしれません。
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勘違いでも犬に好かれた方がいい

2009-02-14 | ことば

 新聞の記事には
犬には好かれる自信があるんです
 の見出。
 ここまでくると、あわれというか、かわいそうだ。こうやって一人の人間をどんどんいじめて追い詰めていく。大人がこんなことを平気でやっているようじゃ、子供が碌に育つわけがないよなあ、と思う。結局人間は弱くなった者に対してはこのように残酷な仕打ちを平気で出来るようになるわけだ。僕は麻生首相の味方ではないが、こんな記事を平気で書ける人間にだけはなりたくない。もちろん、こんな記事を書かせる職場というものにも勤めたくない。ほんと、みんないいがげんにした方がいいんじゃないの。ちゃんと働けよ。もう人間としてかなりいってるよ、この社会は。
 ま、しかし、犬に好かれるだけまともかもしれないですよ、麻生さん。国を動かす人間は誰にも理解されないで孤独に陥るので、ホワイトハウスでは犬を飼うのだという話も聞いたことあるし。自分に力があると過信したのは間違いだったにせよ、どの道何もできなかったのだから犬と話している方が健康的だろう。早く辞められる日が来るといいですね。
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ダークナイト

2009-02-13 | 映画
ダークナイト/クリストファー・ノーラン監督

 バットマンといえば僕でも子供のころから知っている米国のコミック漫画である。日本の子供が見てもいかにも子供っぽい漫画で、劇画でかっこつけている割に、魅力に乏しい。アメリカンコミックは日本の漫画に比べると、変に中身が薄っぺらで、漫画を普通に読む人にとってはなんだかはぐらかされたような気分にさせられるようなものが多い。スタイリッシュなところがあるのは分からないではないが、ルパン三世が漫画だと面白くないように、なかなか心をとらえるような力の乏しいものが多いように思える。よく読むと面白いのかもしれないが、そこまで根気が続かない。米国人というのは、よくこんな漫画文化で満足しているものだと気の毒になるような感じだ。
 映画の方も最初からそんなに面白くはなかった。ティム・バートンの演出は、ダークでなかなかいいとは言えても、所詮アメコミの映画化にすぎないのだな、とがっかりした。それで、続編は観ていなかった。
 しかしながら、この映画の絶大なる評判には、気にならないわけにはいかなかった。米国では驚くほど大ヒットし、日本ではなんとなくコケた。なるほど、それは宗教的な問題か何かがあるのだろう。別に宗教に強いわけではないが、ますます気になる。ヒース・レジャーが死んだのは、直接関係ないが、それも気になる要素だ。馬鹿にしている自分自身を変えて見せてほしい。それは、願いというか、期待の屈折したもののようだった。
 そうしてやっと観ることができたのだが、途中何度も声を出して笑ってしまった。いや、その悪の圧倒的な力につい笑いが出てしまうのだ。ある意味でレクター博士のようなダークヒーローのジョーカーが凄すぎるのである。おぞましくて、思わず目をそむけてしまう癖に、いつの間にか応援している。彼が活躍するとぞくぞくするような期待が膨らんでゆく。人間としてどうしたらいいのか。恐怖というものの前にひれ伏してしまう快感のようなものが自分の中にあることを悟る。バットマンの正義の薄っぺらさがなんとも気に入らなくなって、むしろ憎悪や復讐というもので行動する人たちの方が、ずっと人間的ではないかと思えてくる。もちろんそれでいいはずはない。いいはずはないのだが、誰がジョーカーを止めることができるというのだ。バットマンが勝つことが本当に意味のあることなのか。
 すっかり堪能して150分という時間は気にならなかった。これは確かに売れるだろう。そして日本では売れないのも無理もない。日本ではバットマンもジョーカーも意味なんてない。そういう意味のないものにこだわってしまうのが西洋人だということもよく分かった。彼らは日本人がわかりきっている二面性の葛藤が、表面に出なければ理解できないのだ。嘘というものの罪が重いために、二面性が同時に成り立つということが驚きなのだろう。日本人は嘘をついている自覚がないまま嘘つきなので、このような二面性が人間の内面に普通にあることに十分に自覚的である。だからこそ、何でこんなことをしなければならないのかというジョーカーの欲求がよく分からないのだろう。もちろん彼のやっていることに本来的な意味なんてないだろう。それは、自分に忠実な行動をすることが、必ずしも悪でないという悪を証明しているからだ。そんなことを証明する必要のない日本人にはさらに訳が分からないのだが、米国においては自覚がなければならない分野の話なのだ。
 バットマンというのは、確かに米国の持つ確固たる正義の証である。それは誰もが信じる悪を、法を冒してまで撲滅する純粋さにある。彼は圧倒的な力や知性を持っているけれど、実は生身の人間で、銃さえ扱わずに悪を倒すという勝手なルールを背負いながら行動している。まるで小学生だ。しかしバットマンがまっとうな正義すぎるために、実は正義というエゴであるということもまた事実なのである。自分の中のエゴや悪についてまったく自覚的でないために、ジョーカーという敵に対して困惑し、嘘をつかずにいられない。悪のジョーカーは正直なのに、バットマンの正義は嘘をついたり隠し事をしなければ成り立たないのである。
 これには観ている方が驚いた。なるほど。正義というのは隠し事をしなければ民衆の同意を得られないのだ。民主主義というのは嘘つきが勝ち取る制度なのだ。すっかりやられてしまって感動した。こんな映画をアメコミを基に作ってしまうなんて。
 やっぱり米国という国は強い。これだけの哲学に自覚的な人間が国を操っているのだ。いや、これは映画じゃないか。そんな風に思っていると、これからも日本は米国の傘の下でなければ生きていけないだろう。これだけの葛藤を内面に持ちながら、ダークな世界で生きようとする決意がある国ならば、彼らは諦めることはしないだろう。今は負けていたとしても必ず勝つまでやろうとするに違いないのである。彼らのしつこい粘着質の正義というものの価値は、このような根本的な純粋さにあるようだ。だからこそ彼らはいつまでもジョーカーを必要とする。そうでなければ、正義は根本から成り立たないからなのである。
 この映画は間違いなく映画史に残る映画になるだろう。分からない人も含めて、この映画を楽しんでもらいたい。ただ、純粋な人ほどやけどには気をつける必要はあろう。日焼け程度済めばいいが、大やけどするとハービー・デント検事のように取り返しかつかなくなるかもしれない。まあ、観ないで済ませるのも安全なことには違いないが、安全な人生が楽しいとは限らないから皮肉なものである。さあ、観ていない人、どうしますか。
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強制的に子供の芽を摘むこと

2009-02-13 | 時事

 こういう話題に反応するのは、釣られるということであることは承知している。いくら学校現場がおかしい世界ということであっても、小学生の現場にはどうしても学級委員長がいなければどうにもならない(高学年になれば問題だろうが)ということでもないのだろう。おかしいなりに何とかなっているから、その地方が騒がずとも、おかしさが埋没していた可能性もある。
しかし、これの理屈に大きな?を感じるのは、理屈として成り立たない不合理を見てしまうためではないか。
鳥取の小学校は「学級委員長」なし 「なれない子供が傷つくから」?
 50歩も100歩も譲って考えても、(学級委員長に)なれない子供が傷つくということがどうしても理解できない。これって大きな勘違いを超えているのでは?
 いや、正直に言って、学級委員長になった人が傷つき悩むというのは分かる。なんであれ、長のつく役職に大変でないものは存在しない。その上なれなかった人がどうこうというような良い役職というイメージが、(学級委員長という役職には)そもそも大きな勘違いではないか。なれなくてホッとして胸をなでおろすとか、やったこと無くてお気楽でいい人生だとか、100パーセントそうとは言い切れないにしても、おそらく90パーセントはゆうに超える人たちが、学級委員長になれなくて良かったと思っているというイメージの方が、僕にはしっくりするのである。そんなかわいそうな学級委員長という役職を廃止するというのなら、情けないにしろなんとなく納得できる(賛成できないけど、屁理屈として)。学級委員長になりたい人?そんな人小学生に何人いるの?
 まあ、仮にいたとしてもだ。そういう人が学級委員長に相応しいのかというと、かなり怪しいわけで、むしろなりたくないけどなってほしい人にやってもらうということが、学級委員長の最も大切な選任のポイントではないか。それは学級委員長に限らず、政治家にもいえることだろうけど…。
 子供の問題は親社会の鏡であるともいわれている。世の中にはいろんな人がいるだろうから普遍的な答えではないにしろ、どこの学校だってPTA会長の選任には苦慮しておられるのではないですか。そんな大人社会である環境において、子供が学級委員長であろうとなりたがるような状況があるとすれば、それこそ慶賀に値することであると僕は思う。
 なれなくて傷つくような子供が育つ教育をしてくれるような先生がいると、親はこぞってその学校へ子供を入れたがるのではないか。なれなくて傷つくような子供であれば、将来も大いに期待が持てることであろう。その機会をつぶしてまで、子供の可能性の芽をつぶすようなことは、教育という名の下において強制的にしないでいただきたいものである。
コメント (2)
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