カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

逆風を退ける

2011-11-30 | net & 社会

 大阪ダブル選挙は橋下市長の圧勝に終わった。それは20万という得票差を見て言えることではあるが、平松候補も50万票以上、得票率は41%取っているということで、むしろ健闘している風にさえ見える。傍から見ている分にはもっと差があっても当然のように思っていたので、報道の方が手のひらを返したようにも思える。
 既に解説は山のようにあるのでそちらを参照してもらえばいいのだけど、選挙戦をネットで眺めている分には、それなりに反橋下という空気が先鋭化していたように感じた。敵も必死だったわけだ。大阪がダメになる、壊される、というような論調と、橋下独裁者に対する懸念の声が大きかった。確かにやり方はほとんど独裁だが、日本は独裁で無ければ変えられないところまで来ているという論調もあって、さらにそれくらいがんじがらめに既得権益の力が強くて、孤軍奮闘(ほんとは孤軍でも無いんだけど)しているという橋下氏こそ、孤独な戦士という感じでもあった。当選後からこそ本当の戦いが始まるわけで、橋下氏がお気の毒にさえ感じられる。いくら強そうな人とは言え、敵は強力にサボタージュしてくるだろう。ひょっとしたら具体的に刺される危険もあるかもしれない。既得権益というのは生活が掛かっている訳で、本当に恐ろしげである。
 更に当選後の報道などでは、橋下氏の巧みな演説を取り上げるなど、本当にピントがズレまくりであった。やっていることが何にも分かっていないから、そういう風に決めつけて勝因を結論付けるしか出来ていない。もちろん演説は下手ではないが、フリルで防寒着を選ぶ人など少数だろう。
 圧倒的に糾弾される立場から、少しだけは流れを掴んだという感じが本当の姿なのかもしれない。それが民主的な勝利なのかどうかはよく分からない。これだけの圧倒的な風が吹かなければ強力な指導者が生まれないということでもあって、しかしそれが日本に生まれたというのは、本当に凄いことだったように思う。しかし、これからも勝ち続けなければならない訳で、本当に道は険しいものだと思わざるを得ない。今になってあわてているような人がいそうな気がして(それも政治家に!)、それが日本のほとんどの姿なら、さらに悲しいのだった。
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危険は分かっておきながら…

2011-11-29 | 

 僕自身は卵アレルギーをはじめ、鶏肉や豚肉にもアレルギーがあるらしいということは以前から言っている。検査をするとアレルギーのデパートみたいな体質ですね、といわれる。しかしながらこれらは僕の好物であって、特に気にせず食べている。時々まれに具合が悪くなったり、体の一部が痒くなったりすることがあるけれど、まあ、それも仕方ないと諦めている。何しろ食ったのは自分自身なんだから。むしろ気を使っていただいてこれらが食べられなくなるようなことになると、かえって悲しくなるに違いない。
 しかしながら、やはりアレルギー体質の人には重篤な状態になる人がいるらしく、そんな流暢な事を言ってられないという場合もあるようだ。僕の友人に蕎麦アレルギーの人がいて、間違って蕎麦饅頭をホンのひとかけら口にして、見る見る目を回して蕁麻疹に見舞われ、車で病院に運び込まれてしまった。あれはまともに食うと生命も脅かされるという可能性があるらしい。
 かなり前のことだが、ある会合で大分のとある料理屋に行ってフグ料理を食べたことがある。仲間に通の奴がいて、店のオヤジに頼み込んで、ふぐの肝を余計にもらってポン酢だか醤油だかに溶いて僕らにふるまった。そうすると、本当に口というか舌というか、そういう近辺がみるみる痺れてきて、酔っても居ないのになんだかロレツが回らなくなってきた。饒舌に会話を交わしているのにロレツが回らない状態がなんだか愉快で、その日は大いに盛り上がった。もちろんふぐは最高に旨かった。そうして二三日して新聞を見ると、その店で死者が出ていた。まあ、愉快だったからもったいない店だったなあ、と思い出すのである。
 という訳で死んでまでも食う訳にはいかないのだけど、死なない程度には危険が伴っても食うより仕方無い。本当に食えなくなったら、それはそれでどうしましょうかね、ということなのであった。
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天国の日々

2011-11-28 | 映画
天国の日々/テレンス・マリック監督

 良く考えるとチンピラ映画なのだが、日本のそれとは雲泥の差があって、とてもそのような感想を持つ人などあるまい。その上情緒的で文学的である。つまりこれは芸術映画なのかもしれない。
 そんな紹介では観る気も失せてしまうかもしれないが、しかしこれはなかなかの名作っぽい感じであるのは付け加えておく。何しろ心の動きが大自然の風景で現わされていて、その表現が実に見事だ。人間の感情は移ろいゆく自然と同じようなものだ。そんな感じが、観る者に伝わるに違いない。ストーリー自体は愛僧劇が絡んでいて、必ずしも美しいばかりでは無いのだが、そういう醜い感情や恐ろしい気持ちなどもやはり自然だって持っていて、そうして実際に人間は自然の感情の前にはかないのである。
 それにしても観ていてなんとも納得がいかないのは、密会が実にオープンに感じられることだ。説明が面倒なので妹ということにしているといっても、恐らく多くの人はそうは思っていないらしいことは明確で、最終的には農場主は、騙されたと言っている。騙されていたのかもしれないが、最初から気付かなかったりする方がかなり異常で、その途中においても悟る材料はいくらでもあったように見えたから、むしろ受け入れていたのかとさえ思っていた。しかしながら結局は、自分の資産が脅かされるようなことになって初めて、狂気が目覚めてしまうということかもしれなくて、人間の平安は、実はある程度の豊かさと比例するということも言えるのかもしれない。愛こそすべてといえるのは、パンの不安が無い上でのことだという教訓めいたことも考えてしまった。もちろんそれはこの映画のテーマでは無いのだが…。
 それでも人は恋に落ちて、結局その為に命をなくすこともあるのであろう。自然の前にいくらはかなくとも、そうやって一生を終える男はしあわせなのかもしれない。女の人は気付いていないだろうが、監督はそういうことを言いたいのだと、男の僕は思ったのだった。
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連動して思うこと

2011-11-27 | net & 社会

 Twitterのつぶやきと facebookとさらにブログまで連携させたということで、使い分けていた垣根が事実上なくなってしまった。それでどうということも特にないのだが、一番大きいような気がするのはやはりFBの存在かもしれない。連動しているお友達はほぼ匿名とは考えづらいし、実際にお会いした人達ばかりだ。そういう中に匿名性の高いブログとtwitterがドカドカ入ってきたという感じかもしれない。まあ、方向から言うと逆からの道筋をたどるということなんだろうけど、一方的な自分自身の開示である。
 正直言って「食事なう」みたいなつぶやきは、最近は既にしなくなっていたのだが、FBを気にして長文化(とはいえ140字なんだけど)している傾向はあるような気がする。つぶやきとしては情報過多な方かもしれない。顔の見えるお友達という背景は、発言を変える力があるようだ。これは意識的で無かったものの後で気付かされたことで、我ながら自分の自意識というものを再考させられる出来事だった。結局一日一回程度しかつぶやかなくて、そうしてまったくつぶやかない日もあるようだ。タイムラインもすっかり追わなくなってしまった。僕のような人が増えているのかどうか、連動している人達の動きを見ていても活動的で無い人も増えているような気がなんとなくする。結構威力はあるんじゃなかろうか。
 また、ほぼ日々の備忘録であるブログの方は、これは最近ちょっとやり方をもともと変えて久しいということはあった。日記風雑記はほとんど書かなくなっており、映画評などのメモに肉付けしたものを書きためて公開予約している。今年は8月末位から出張が続いて、記事を書く時間がどんどん難しくなってしまった。更新しないというのもボツボツ出てしまって、毎日日課を課していた訳ではないのだけれど、逆に吹っ切れてしまった。更新しないのならそれでも良かったのだけど、そうであるなら毎日のタイムリーさをあえて無くしてしまってもかまわないとも思ったわけだ。完全にタイムリーじゃない訳ではないけれど、観たけどあげて無い映画や本というのはそれなりに溜まっていて、書こうと思えばいつでも書けてしまう。この際少し片付けましょうという感じもして、却ってスラスラ書きためてしまった。機械的に記事は毎日あげられるけれど、僕個人はまったく書かない日も却って増えた。そういうものもメリハリとしてはいいのかもしれない。
 特に過去のブログによくあったことだが、体験した生の物事について、その気分や高揚感が残ったままそのことについて書くと、ついつい感情的なものを余分に書き足してしまう。もともと饒舌な人間がさらに過剰になったり、また怒りの感情のようなものも素直に書いてしまってバランスを欠いてしまうことはあったようだ。その上に匿名だし、書いてしまって自己嫌悪というようなカタルシスの無いものを生み出してしまうことはあったようだ。そういうものも時には必要な場合もあろうが、まあ、それはリアルな方で解決するしか仕方ない面も多い。結局そういう連動は本当には上手くいかない問題なのかもしれない。
 そういうことを考えながらもう少しこのペースでやってみて、また変えることもあるかもしれないが、やりながら考えてみたいと思う。閲覧においてはタイムリーさがやはり面白いとも感じるので、そういうものも時を見て復活させるかもしれない。やっぱりブログ記事は反応の返りが悪いので、地道に一方方向なのかもしれないですね。
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ウサギさんのお仕事

2011-11-26 | 感涙記
Rabbit open letter!?


 ウサギってこんなに便利だったんだ! 職場で雇いたいです。
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それじゃ同世代だ

2011-11-25 | ことば

 落合監督の退任の会見で「普通の初老の男性に戻った」という見出しを見た。実際は57歳だそうで、ちょっと戻り過ぎである。でもそのように突っ込んでも、今となっては気付く人の方が少ないのかもしれない。
 しかしながら、初老の男性というと、おじいさんになりかかりというくらいの意味で使う人は、確かに一般的になりつつあるのだろう。高島俊男が向田邦子の文章を拾って初老の使い方の誤りを正していたことがあったから、それもそれなりに以前から間違われ続けているのだろう。しかしながら初老はやはり40歳の事だから、事は面倒なのである。
 「普通の還暦前の男」というか、「普通の老人」でも良かったのだろうけど、なんとなく抵抗があったのだろうか。「老いかけた男」とか、「くたびれた男」とかでもよさそうだけど、ニュアンスとしてのぴったり感はやはり難しいものがありそうだ。現代の老人時代は長く、その時期を区切る必要が感じられるのかもしれない。
 初老という言葉には、確かに40歳より60前後の方が適当というニュアンスが強いのかもしれない。昔の人と現代の人では寿命が違うのだから改めるべきだ、という意見もあるだろう。
 「弱冠」だって二十歳という意味なのに、その周辺の年齢というニュアンスで使われていることが多い。まだ若いのにエライ、というニュアンスと、弱冠という漢語的なもったいぶった言い回しに権威を借りているのだろう。
 そういう言葉の変化という捉え方をすると、40歳のつもりで初老と言ってしまうと、むしろ違和感を覚えたり、間違っているという印象を受ける人の方が多いのだろう。
 今は何かと若さがもてはやされて、普通に年を取るのも難しくなっているのかもしれない。若いという価値を買いかぶり過ぎるのと、年を取るということの尊厳が失われているというのは、残念ながら確からしい。もちろんそういう背景があるからこそ、単語の意味は変化せざるを得なくなっているのかもしれない。
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初日の黒を良しとする

2011-11-24 | culture

 接遇のセミナーだとか、日頃先輩たちに言われたり、そしてビジネス書などでも当たり前のように説かれていることに、初対面の大切さ、ということがある。特に僕には繰り返し、しつこく仰せつかったので、ほとんど耳にタコである。しかしながらどうしてそうなるのかというのはちゃんと理解は出来ていて、僕の初対面の態度が悪いせいだろうと思われる。そしてその原因もちゃんと分かっているのだが、僕は初対面が大切だとはいまだにぜんぜん思っていない。しかしながら自分で言うのもなんだが、このように書いている半面、僕はそんなに横柄な人間では無いと思う。しばらく付き合うとしみじみ横柄さが表れてくるだろうものの(地は隠せやしない)、それにひょっとするとそれなりの変人さは現れるだろうとは思うけど(というか、変人といわれるのはそれなりに心外である)、普段は特に控えめに普通である。そうではあるけど、初対面がいわれるほどには大切ではないという考えは、いまだに微塵も変わっていない。
 もちろん僕だって仕事で初めての会社などを訪問したり、それなりにお願い事があったり、会議の席であったりすると、身だしなみを整えて(というか、つれあいに言われるままに着替えて)出向くように心掛けている。いきなり相手を罵倒したり、つばを吐きかけたりなんかもしたことがない。相手の方がどんな人か知らないまでも、別段見下したりする気持ちも持たないし、少なからぬ緊張感を持って接するということはしているようだ。だけれどそれは若い頃から変わりはしないし、そういうものだからしているというのが正確なところだろう。初対面が大切だからしていることではないのである。
 それというのもはっきり言って、初対面で人はそう簡単に分かるものではないという考えが根本にある所為だと思う。そしてそれは体験的にも裏付けをそれなりに感じていて、初対面で素晴らしい人が必ずしも良い人であったかどうかは、その後もほとんど関係のないことのようにも感じている。むしろ初対面の印象が悪かった人の方が、後で意外な面がいろいろ発見できたりして、付き合うには面白かったりすることもあるから侮れないのである。初対面が大切だ、と気合を入れてくる人の多くは、最初に良いことばかり言って要領を得ない事の方が多くて、まどろっこしくてめんどくさいことも多い。夏の暑いさなかでキチッとスーツで決めて涼しげな人も居たりするが、生物的に奇人変人のたぐいではないかと疑いたくなる方が先に立って、どうにも落ち着かないというのが正直なところだ。こういうことを大切にしている会社なんだろうな、と思うと却って気の毒になって、お早くお引き取り願いたくなったりする。
 ビジネスのちょっとしたチャンスを掴むためには、最初から最後まで大切なんだという理屈は分からないでは無い。ま、それはそうなのだろう。しかしながら本当に大切な関係を築こうと考えている会社なら、また、そのような仕事をこれからやろうというのなら、初対面というようなものではなく、普段着でいいというような事を重要に考えなくては難しいのではあるまいか。別段対人関係を軽んじて言っているのではなく、そのような表面的なことに気を遣いすぎるより、やっている仕事の内容を鍛える事の方が数段重要なのである。それが分からなければ何にもならないとよく言われるのだけど、本当に分からないものだろうかねえ、というのが正直なところだ。多少癖があろうとも情熱的であったり、説明はぎこちないけど確かな技術があったり、基本的にそういうところで仕事をしないことには、印象どころの話ではないではないか。
 まあもちろん業種によっても多少の違いはあるんだろうけど、初対面だけがそんなに大切じゃないんだということを守っていくことに、いまだに何の疑いを持っていないだけのことなのである。もちろんだからと言ってないがしろにしてもいいって事でもないので、極端に受け止めないようにお願いします。緊張しない程度にやっておくんなさいませ。
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段差のあるところ

2011-11-23 | 散歩

 散歩していると時々変な人とすれ違う。もちろんあちらだってこちらの事を変に思っているのかもしれないのでお互いさまだけど、しばらく動悸がおさまらなくなって困ることだって起こる。かなり前の話だが、血のようなものの付いた包丁を握って走りさっていくオジサンを見たことがあるが、その後新聞を子細に見ても何事も報道は無かった。あれはなんだったんだろうな。まあ、急いではいたんだろうけど。
 最近の気になる人は、厳密にはすれ違う訳ではなく、あるアパートのそばの駐車場である。いつも必ずという訳ではないが、そのアパートの脇の比較的大きな溝のわき道を抜けていると、ガサッ、ガサッっという音が響いている時がある。見ると車をバックで駐車しようとしている旧式カローラである。そのアパートの駐車場は段差が大きく、車を止めようとすると底を擦ってしまうらしい。そのこと自体はお気の毒なことであるが、問題は駐車しようとする位置が微妙に気に入らないらしく、何度も駐車入れをやり直しておられることだ。ある時はたまたま杏月ちゃんが大の方を致しておいでで、僕はその処理に追われていた。処理をしながら見るともなしに見ていたのだが、その間に計4回ほどガサガサ音を立てておられる。やっと輪留めのところまで下がったのでこちらもホッとしていると、またおもむろに前に出て、ガサッと云う音を再度立てている。厳密に言うと駐車の位置を変えているというより、単に前に出て後ろに下がるという行為を繰り返しているにすぎない。手前に民家があり、妙齢のご婦人が庭の掃除か何かしておられた。そうしてアパートの駐車場の方角をチラリとみて「チッ」というような舌打ちをした。なんだか僕は恐ろしくなってその場を後にした。
 基本的に散歩コースはそんなに変えないが、ちょっと前の道に差し掛かったところでガサ、ガサという音が聞こえる事があると、このわき道を回避することにしている。しかし、音がしないので安堵して道に入ると、いきなりガサガサ音が始まることもあるので油断ならない。少し休んでは、また前後運動を始めるものらしい。音のしない朝は大抵まだ車は止まっておらず、僕がそこを通る7時前に家に帰ってこられるらしいというのだけは分かった。夜間のお仕事なのか、それとも朝方どこかにちょっと出かけておられるのか、そういうあたりはまったく不明である。
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人情紙風船

2011-11-22 | 映画
人情紙風船/山中貞雄監督

 時代劇だけどチャンバラじゃない。人情劇だけどホラーかもしれない。妙にリアルで人間くさく、しかし現実の話としては悲しすぎる。映画そのものの出来栄えもさることながら、批評性も感じられる。確かにさすがにフィルムの状態は古くなっているし、ところどころ音声の状態も良くないようだ。そうではあるが、やはり名作と名高いという意味も良く分かるし、その割に意外と知られていないというのも同時によく分かる貴重な映画なのかもしれない。もちろん僕自身も、山田洋二シリーズが無ければ観ることも無かっただろう。
 落語の世界では長屋というのはよく出てくる設定である。熊さん八っつあんのような人達が、本当に馬鹿らしい事をしでかすと相場が決まっている。そうして僕らの時代にはよく分からないのだが、大家というのがいちいち首を突っ込んでくることになっている。もしくは甲斐甲斐しく世話を焼く。その当時の制度なんだろうけど、本当に長屋というのが生活する上で密着した共同体になっていたようだ。住んでいる人達のそれぞれの仕事はバラバラだし身分の違いもあるようだが、同じように貧しく協力して暮していたようだ。
 また、庶民や町民とヤクザ(というか、その原型だろうな)との密接な関係もあったようで、はっきりしない社会を分かりやすくしていたものであるらしい。分かりやすいというのは要するに、金で暴力を利用しやすい社会だったのだろう。
 スジの中心は、そういう組織に属さない男の矜持の物語でもありながら(まあ、しかしやっていることそのものは実にチンピラ的だが)、うだつの上がらない組織から外れた武士の悲しい物語でもある。現代風に言うと、当時の就活の厳しい現実の物語である。
 それにしても何としても仕事を世話してもらいたいあまりに、執拗に一人の人を頼らざるを得ないしつこさもまた描かれていて、それは仕方のないことなのかもしれないが、いささか割り切れなさを感じるのも確かだった。内職をしている紙風船の生産性をあげるとか、傘張りに精を出すとか、もう少し何か割り切ることができないものなのかとも思うのだった。録をもらうというのは、結局は今でいう税金で食っていく、というか、公務員になるようなものだから、それ以外の仕事の許されない武士という階級とプライドが、人間の生き方をさらに厳しくしているわけである。後のことは言わないが、自分自身の精神が自由で無いから、結局は頼るしか他に道が無いのであろう。つまるところそういうものは、現代人においても同じことなのではあるまいか。
 この監督が戦死しなければ、さらに名作映画を撮り続けたに違いないといわれている。そういうことを含めて、もっと多くの人に観ておかれなければならない作品なのだろう。
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戦争の常識

2011-11-21 | 読書
戦争の常識/鍛冶俊樹著(文春新書)

 自国を守るという目的である防衛をするのは、当然という前提がまずある。この言葉の影に侵略は悪というか、ちょっとまずいんではないかということがあるように思われる。軍備を整えるのは自国を守るためにやむなくやっているのであって、仮想相手国に対する脅威が目的で無いということだろう。実際に先に戦争を行った歴史があり、現在の眼で見ると敵国に進攻したというのは、戦勝国であろうと敗戦国であろうと同じくあったわけだ。もちろん勝った方は進攻占領して鎮圧したことを侵略とは言わない。結果的に負けたところが侵略を犯したということになった訳で、そういう言葉に配慮して、軍備というものが防衛という言葉に置き換わったものらしい。もちろん戦勝国であっても防衛に置き換えた国は多いそうだが。
 相手国を負かすことを目的にしていることは明らか(何故なら負ける目的で準備はしない)である軍備である防衛なのだが、そういう具合になんとなく嘘っぽいものを含んでしまわざるを得ない事情がある。平時において戦争に備えるということはそういう事情のもとに行わざるを得ないという前提があるわけだ。しかしながら実際に戦争になると、自国を守るために敵国に攻め行ったりする必要は当然出てくることになるだろう。攻撃は最大の防御という言葉もある通り、守るためにやむなく攻めざるを得ないわけだ。考えてみるとこれはヤクザであっても同じで、ガンつけられたり服を汚されたり自分に被害が及んだことについて落とし前をつけるために、やむなく凄んだりしなければならないのだろう。まあ、言葉を変えたところでやることは結果的に同じな訳だ。ただ、立場としては守っている事を前提にしなければ(相手がどう思うかは別として)攻められないという訳だ。
 常識というのはお互いに共有されているから意味のあることである。片方が常識といって相手に接しても、相手方がそれを非常識と感じる場合は常識としては意味がない。この本の場合に常識という言葉をあえて使っているところを汲んで見ると、それは日本以外の常識という概念を、非常識社会日本に伝えたいという意図があるということは明確そうに思える。いや、正確には日本以外の国の国民の中にはその常識を日本の多くの国民と同じく知らないということはあるかもしれない。そうすると、この場合の常識とは戦争というものを普通に捉えて政策として考えていかざるを得ない人達の常識を、一般的な人に紹介解説するということにもなるかもしれない。もちろん日本にも常識人は既におり、結果的に軍備を持たないという憲法を持つ国に自衛隊という間違いなく強力な力を持つ軍隊が存在するのである。これを矛盾というのはたやすいし、事実であるとは子供でも知っていることだが、常識としては矛盾は成立せざるを得ないということなのである。
 本当にめんどくさいが、それが日本という国の国防問題の前提である。結果多くの場合なんだか議論がかみ合わなくなる原因でもありそうだ。当たり前に話が進まない為に、当たり前で無さそうな概念を引っ張り出して説得をする。結果的に誰も本当には説明のつかないものがそこに存在してしまう。日本という国の問題は、国防に限らず、多かれ少なかれこのような分裂症気味な結論が多くなってしまうように思う。つまるところ常識というものが、共有されていないという証明なのではあるまいか。
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日本の戦争力

2011-11-20 | 読書
日本の戦争力/小川和久・聞き手坂本衛著(新潮文庫)

 内容は本の題名の通り。インタビュー形式になっており、理解しやすい仕組みになっている。もちろん聞き手の興味のバランスという問題もあるのだろうけど、ある程度のボリュームもあって、網羅的に日本の軍事力が分かるということになっている。
 日本の自衛隊の力は、ものすごく当たり前だが、米軍のアジア戦略の補完的な力を中心に補強されているという現実があるようだ。それは確かに歴史的な背景もあり、ある意味では仕方のないことかもしれないが、しかしながら、日本という自国を守るという観点から考えると、実にいびつな軍事力だということのようである。米軍の補完的な力であるから、米軍の弱いところは日本が世界的にもかなり強力な力があるし、アメリカの強い部分は、まったくお粗末なままだということでもある。安全保障上それでいいという考え方もあるのかもしれないけれど、本当にそれでいいのかというのはかなり疑問である。安保があるからアメリカは日本を守るのは当たり前だと胸を張っていう人があるけれど、ではアメリカに向かって本当に胸を張って対話なんてものが出来るのだろうか。それは近年の歴史を見ても明らかすぎる背景のようにも思えるのだが…。
 一蓮托生といえばそうなのかもしれないが、確かにそれで上手くいっているところもたくさんあるのだろうけれど、素直に見るといびつな状態をいつまでも補完しあわなければ成り立たない関係であるのも確かである。あえて離れる必要など無いのだけれど、しかし未来永劫このままの関係が本当に続くものなのだろうか。政治的に大人の対話という表現も度々聞かれることがあるわけだが、ほとんどの日本人はそんなことは信用していないのではないか。マッカーサーから12歳の少年といわれれば、激しく怒る気力はあったようだけれど、現在となっては、そんな気持ちさえ湧きあがらない国民になっているのではなかろうか。
 残念ながらお近くには北の将軍様もおられるし、恐らく将来的にも脅威を増していく大国も近所に控えている。日本の領土だ、と国内向けには声を大に叫んでいても、日本人の入れない国土も持っているのが現実だ。そんな国でありながら結果的にはおおむね平和で無頓着で生きてこられた。このしあわせは単なる運の良さだけなのかどうか。そういうことも時には思い出してみる必要があるのではなかろうか。出来れば非常時で無い冷静な時こそ。
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安全保障とは何か

2011-11-19 | 読書
安全保障とは何か/江畑謙介著(平凡社新書)

 著者はユニークな髪形のあの人。僕はあんまりテレビのニュースなどは見ないので本当はあんまり馴染みは無いのだが、単なる軍事オタクや解説者ではないようだ。書いてあることは至極まっとうで、なるほどだから解説者として呼ばれる人なのだな、と改めて思った。
 平時においては最悪の事をあえて考えておくことが重要であることや、リアルな現実主義という考え方を説いている。よく言われている危機管理というのは、まさに軍事の面で顕著に言えることなのだろう。また、国際間の関係性において厳密な中立はあり得ないことと、紛争というのは自国で解決しなければならない(アメリカ頼みの限界)という当たり前のことも書いてある。その上で当然ながら、領土問題は国際紛争になりえるものであるというさらに当たり前のことを解説している。日本の火種は、当たり前に存在している通りなのだ。
 僕は昔からずっと疑問に思っていることがあって、軍備というのは当然戦争を回避するいわゆる抑止力の効果があると思うのだけど、日本というのはどういう訳か、十分でなく弱いということを宣伝している場合が多いように思える。もちろん普通の国はそんなことは信用して無くて、あれこれ文句は言うだろうにせよ、むしろそれはいいことであって、ある程度は恐ろしいくらいに強いというのは、そんなに悪いことではないのではないか。しかしながら日本は弱いからアメリカに頼って安心しているような人が多いというような屈折感があって、はっきり言ってそういう国である日本というものが信用できないというところがある。普通の国といういい方にも違和感があるものの、そういう表現アプローチをしなければ、自国のことなのに思考を働かせないというような人が多過ぎるような気がする。ある意味で日本のような国がしっかりと軍備を整える方が、国際的には信用できるというようなこともあり得ると思う。そうであるからこそ逃げないで自分自身を見つめる位は、当たり前にした方がいいのではなかろうか。
 人の命というのはかけがえのないものだという事を知っているのであれば、その命が一瞬で無くなってしまう可能性のある戦争は断じて回避する必要がある。悲しいながらそのためには、国家が軍備をもたなければならないというのが、人間という生きものが作り出している社会なのである。考えないことは単なる逃避であり最悪の選択だ。せめて考えるだけでも出来るような世の中に、なって欲しいものだと切実に思うのである。
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超常現象をなぜ信じるのか

2011-11-18 | 読書
超常現象をなぜ信じるのか/菊池聡著(講談社ブルーバックス)

 知った人に幽霊を見たことのある人がいるだろうか? 幽霊を見た人を知っている、という話まで広げてみると、たぶんほとんどの人はそういう話を聞いたことがあるに違いない。ひょっとするとご本人が見たという人だっていることだろう。そうではあるが、幽霊が居るのかいないのか、という議論になると、意見はそれなりに分かれるのではないか。
 これが例えばツチノコのような動物ならどうなのか、などと考えを広げてみてもいいかもしれない。これは数がぐっと減りそうなので、信じている人の方が少ないだろう。UFOとか宇宙人ならどうだろうか。こうなると、たぶんオカルト好きなのかどうか、という問題にもなりそうだ。
 個人的に信じる信じないというのであれば、そんなに社会的に問題のあることではないのかもしれない。しかし見たことがあるから存在するという議論になると、事はいささか厄介になる。個人の体験というのは、その個人である本人にとってはこれ以上に確かなことは無いのだが、一歩客観的に他人の立場になると、その絶対的に確かなことが証明できなくなってしまう。それは個人的な体験には再現性が無いからである。科学に解けない事があるとか、科学的に解明できないことがある、というような言われ方をする場合があるが、再現が可能な体験的現象であれば証明出来るというだけの話であって、そもそもがお門違いの議論に過ぎない。科学的アプローチでない話を、科学になすりつけてはいけない。
 他人の個人的体験が、何故確証的な証拠となり得ないか。それは人間の認知というものが、極めて確証的で無いことに由来するようだ。人間の認知は間違いやすく、いつも確かに物事をとらえ得ているのではない。空の雲がお魚に見えたくらいなら詩的で楽しいかもしれないが、UFOに見えたら騒々しくなってしまう。そもそも間違いやすいという認識を持たずに確かに観たというものが成り立っているところに、人間の認識の甘さがあるようなのだ。
 百聞は一見にしかずというじゃないか、というが、その一見で分かったというような事を思うのが一番危険なのだ。しかし人間はそんな考えを持つからこのようなことわざが真実味を持ってしまう。自分の体験は必ずしも真実なのではない。人間はたった今見た事のみならず、以前に体験した記憶まで簡単に修正してしまう生きものなのである。政治家の言葉がぶれるというが、それは実は極めて人間的な証明かもしれない。前と違うことを言うから信用できるとはいえないが、あれは極めて人間的であるという証明にはなっているのかもしれない。
 では何を信用したらいいのか。それは、そんなことを問う自分自身の問題である。何かを信用したいという自分の心情をまずは疑って考えてみたらいい。その上で事実は何なのかを再度考えてみなくてはならない。自分が見て間違いのない確かなことだから真実だというのは、実は単なる乱暴な論理なのである。
 これを読んで困ってしまう人もいるかもしれないが、そういう事実を知らないで生きていく方が、これからもっと困ることになるだろう。自分の安全のためにも読んでおこう。また、もちろんそれでも幽霊を見る人は減らないだろうが、そういう話を冷静に聞ける人になって、もっと世の中を楽しく見えるようになるかもしれない。何しろそんな人間というものが、なにより面白いのだから。
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白い巨塔

2011-11-18 | 映画
白い巨塔/山本薩夫監督

 田宮二郎といえばこのドラマであるといわれるほどの定番の映画版。というか、映画版を後にドラマ化したのだという。確かにおぼろげながらタイムリーな姿を覚えている頃より若い感じだ。しかし自殺した歳でさえ43歳だったというから、若かったんだなと改めて思う。自殺したニュースは確かに覚えていて、日本中大変な騒ぎだったように思う。
 タイムショックの司会は自殺前から既に山口崇に代わっていて、山口には酷だったと思うが、やっぱり田宮二郎だよな、というのは子供たちでも話題にしていたように思う。それくらい田宮二郎は、僕らにとっては映画俳優より司会の人だった。
 さて、しかしやはり一般的には田宮は映画のトップスターであり、今の視点から見ても実に日本人離れしたカッコよさである。現実にこんな人はあんまり居ないから一般的な話では無いが、こういう人から怒られたら怖いだろうな、などと思った。何か、そういう押しの強さというか、圧力のようなものを感じる俳優さんである。
 お話の方は映画なので複雑な話をコンパクトにまとめてあり、様々に展開していくスジの流がめまぐるしく感じる。もうここまできたら誰が悪くて誰が良いのかさえよく分からないという感じだ。いや、多くの人に問題があり過ぎて、社会というのは怖いなあと素直に感じる。昔の話だけど、人事というのは今でもこんな空気は残っているのではなかろうか。役場とか大会社とかは大変だろうなあ(勝手な誤解かもしれないけど)。
 派閥というのは別段日本だけの問題では無い。しかし同時に非常に日本的であるとも感じることだ。特にこの映画で展開される仲間意識というのは、その枠がどこにあるのか、ということで目まぐるしく意味を変える。外国の人がこれを観て、すぐに理解できるのかは疑問である。結果的にどこに転がるのか、まさに水ものなのである。科白の中でも度々出ていたが、選挙が水ものになり裁判が水ものになる。そういう不安定な乗り物に乗っているというのが、僕ら日本人の姿なのかもしれない。それに乗れない人も出てくるが、そういう人は出ていくしかない。恐ろしくも変な世界だ。
 田宮二郎がこの物語に執着したらしいことは後にも伝わっている。面白いからでもあったろうし、自分に照らし合わせて感じ入るものがあったためではあろう。田宮自身は事業に失敗し精神病に苦しんだ。しかし貪欲に目的を達成しようとする主人公の財前の姿が、自分自身の分身であったというのは、確からしくも思える。それは同時に自分自身への批評性でもあったことだろう。最終的には病苦で(だろう)生涯を閉じたわけだが、ドラマの撮影は何とかやり遂げている。そのような執念のようなものが、物語に取りついているような名作なのではなかろうか。
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猫といえば当然猫の事

2011-11-17 | ことば

 除草作業の報告で「ネコの空気が抜けていた。パンク修理が必要だ」という発言があった。僕自身は普通に何の問題もなく意味が分かるけれど、これを聞いていた校長先生が恐る恐る「ネコとは…」とお聞きになった。
 意外な気がしたのは年配の人でも馴染みが無いのかな、と思ったせいかもしれない。農業や外仕事をする人なら日常の道具だろうから、手押し車とか一輪車とか言われた方が、「なんだそれ?」と一瞬考えてしまいそうな気もする。
 なぜ猫なのかというのは諸説あるらしく、猫足場といわれる細いところを通るからとか、伏せて置くと猫のような形であるとか、いろいろある。ゴロゴロいうからというのが僕は気に入っているが、たぶん違う気もする。
 もとは中国から渡ってきたものらしいが、古すぎていつ頃からかはよく分からないらしい。記録としては鎌倉時代に記述が残っているともいう。また中国語の推車というのも、猫との発音とは遠い。中国では人を運ぶこともあるらしく、老子が乗っただとか諸葛孔明が発明したとかいう話もあるんだとか。でもまあ古すぎて現代のものとは却って別物くさい。また、古いものは車輪が恐らく木だったはずだから、今とは根本的に形自体が大きく違ったのではなかろうか。
 日本の猫車の場合、人が押すから一輪でいい訳で(人間でなければバランスがとりづらい)さらにいつの間にか土砂などを運ぶ箱型のものに特化したように思える。だから山作業の木や枝を運ぶものは形が違うはずである。それまで含めて猫と呼ぶのかは知らないが。
 猫持ってこいといわれて本物の猫をもってくるというのは、何かの話で聞いたことがあるような気がする。しかし道具の名前としては、なかなかいいんじゃないかとは思いますね。欲張ってたくさん載せると苦労するわけだけれど、そういうちょっと扱いづらいところも、猫といえば猫である。
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