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カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

五感を使っていい一日を

2006-09-29 | 雑記

 昨夜はN野先輩を講師にお招きしてのセミナーを受講した。久しぶりの指導力系セミナーで、為になるばかりでなく、率直に面白かった。
 さて、目標達成のために五感を使うとよい、という話があった。紙に書いて見えるようにする。視覚を使う。声に出して読む。それで聴覚で自分の声を聞くことになろう。しかし、触覚、嗅覚、味覚はあんがい難しいな、ということであった。点字ならさわって分かるということもあるだろうが、これは読む行為である。ちょっと感覚としては難しいというのはそうかもしれない。しかし、実はけっこうあるんじゃないかという気がした。
 すぐに思い出したのは「臥薪嘗胆」である。本来は復讐心を忘れないためであるが、薪の上に座る痛みであるとか、熊の苦い肝の味であるとかいうものを使って気持ちを持続する。これは立派な目標へ向けての方法である。触覚、味覚はクリアできた。修行は、立派な目標達成のための方法である。
 さて嗅覚のほうである。匂いを感じるというのは、記憶と密接に関係しているという話は聞いたことがある。脳の比較的古いところで嗅覚は感知するらしい。原始的というか、機能的には動物として根本的な能力なのかもしれない。
 匂いをかいで懐かしいという感覚は、けっこうあるような気もする。ある匂いで情景がぱっとひらめいたりする。これは工夫次第でやっぱり使えるのではないか。「時をかける少女」のラベンダーの香りのように、インスピレーションを喚起させる匂いという方法はあるように思える。
 具体的には、お香なんかもある。精神統一に匂いを利用しているとも考えられる。
 そのように考えると、仏教などの修行は、理にかなっていることのように思える。悟りを開くという目的のために修行をしているのだろうが、目的達成には修行が合理的であるということなのだろう。僕らは悟りという目標ではないので、どうしよう。
 まあしかし、日常を送ることに目標達成の鍵があるのは確かだ。成功の習慣などというものが、よくビジネス書などに出るのはそういうことだろう。
 新潮社の「波」という雑誌で長谷川滋利(元マリナーズ投手)の本が紹介されていて、彼の目標に向う真摯な姿勢を紹介していた。大きな目標を掲げて努力するというのは勿論だが、なにより大切なのは、今日という一日をよかったという充実したものにする(大意はそうだったような気がする)ことなんだそうだ。
 長谷川って偉大な人なんじゃないかと思えてきた。我慢して修行するだけじゃない魅力を感じますね。単に僕がズボラなせいなんだろうけど、いい一日のための努力なんてしてなかった。長谷川方式お勧めです。
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オートマティック厳罰化の疑問

2006-09-28 | 時事
 酒を飲んだら車を運転しないとうのは当たり前のことである。その根拠も重大さもよくわかる。酒を飲んだら危険であるのは、車という道具が危険なものであるからに他ならない。免許というものが、専門性のある責任であるということでもあろう。だから運転者には自覚を持ってもらわなければならない。
 厳罰化はそれなりに認める。特に飲酒での傷害事件は、刑としては確かに軽すぎる。街中で酔って包丁を振り回して人に怪我を負わせたという場合と厳密に言って同じようなものであろう。
 しかしながら、公務員の飲酒運転懲戒免職などの処分については、なんとなく釈然としない気分であった。はっきりしたことはいえないが、公務員に対する不信感がここに出ているのではないか。先の子供が死んだ事故の加害者が公務員で、隠蔽体質の動きに許せない思いのある人も多いのだろう。多くの自治体が厳罰化の方向性を表明する流れができてしまった。なんとなく後出しの首切り処置というか、表明することが禊のような感じになっている。
 飲酒運転の摘発や事故が多発しているというが、取締りが厳しくなっているだけで、本当に増えているのかは疑問だ。これだけ社会問題化しても飲酒運転をしようという人は、かなりの少数派か馬鹿であろうと思うが、それでもつかまるのだから、よっぽど飲酒運転という習慣は蔓延しているとも考えられる。確かに飲酒運転で帰る人は身近にもたくさんいる。つかまった人だけが悪いというのはなんとなく不公平な感じがしないでもない。
 忘れられた歌手が飲酒運転のうえ傷害事故を起こして自殺した。これなどは象徴的で、この時期でなかったらこういうことにまでなってしまったのだろうか。
しかしながら驚いたことに、僕の職場の同僚の反応も冷たかった。飲酒運転をしてたんだから(自殺するのは)当たり前ではないか、という。一人ではなく、やっぱりそうだよな、という共感があるらしい。僕はそういう反応に、やはりなんともいえない違和感を覚える。
 兵庫県の知事がオートマティック(自動的に)懲戒免職は他の懲罰と(処罰の程度が)かけ離れており、行き過ぎではないかというコメントをもらし、逆に批判にさらされている。飲酒運転即懲戒免職というのは、その職場のルールとしては確かに行き過ぎの可能性はあると思う。普段電車通勤をしていて、飲酒運転のばれない人も出てくるのではないか。正直者は処罰され、逃げ切りがもうけものなんてこともありうるようにも思える。
 夜間のひき逃げは圧倒的に飲酒運転である可能性が高い。それは当然だと思う。飲酒運転の厳罰化で、さらにひき逃げが増えはしないか。
 だいたい、自動車事故と飲酒運転の事故の差が大きいというのもなんとなく引っかかる。行政処分として厳罰化はいいと思うが、特に傷害事故を起こした場合、怪我をしたことにはあまり変わりはないのではないか。ましてや相手が死んだりなんかすると、殺されたほうは飲酒であるとかどうであるとかにかかわらずに殺されたと思うのではないか。飲んでというのはとんでもないとさらに怒りが増して、飲んでなかったのであきらめるということではないだろう。殺す意思(動機)があったかなかったかは殺人には重要であるというのは、なんとなくわかるようでわからない。死んだことにちっとも変わりはないではないか。もう少し交通事故の殺人のほうを、飲酒かどうかにかかわらず、重くする必要があるんじゃないだろうか。
 刑罰が重くなって刑務所に勤めなくてはならなくなれば、自然に失職するだろう。そういう場合のオートマティックな免職であれば、誰も異論をとなえなくなるように思う。
 今の厳罰化の流れで市民生活が安全になっているとも思えない。繰り返すが飲酒運転は確かに絶対的な悪であるけれど、飲まなければいいってもんじゃないからこそ、公務員の厳罰処理に引っかかるのだろうと思う。個別の凶悪なケースを十分に法で処罰できないという不公平感と怒りが、行き過ぎた感覚を助長するのであろう。
 しかしながら地域格差というが、車の必要度は都会と田舎ではまるっきり違うものだ。結果的にいろいろと影響が出てくるんだろうなとも思うのである。
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無意識に人を不幸におとしいれる

2006-09-27 | ことば

 宮崎あおいの崎の字は、正しくは(たつさき)の方だという。異体字というやつである。ワープロの表記の問題や、ネット上での認識の問題(実はよく分からんのだが)で文字化けすることもあるので、ホームページなどでは仕方なく崎の文字で我慢しているという。本人の心情がそうであるかどうか知らないが、そういわれるとそうなのかもしれない。ファンならば正しい表記をするべきだという主張もあるようだ。
 その人の論旨として、作曲家の團伊玖磨のことが紹介されていた。團伊玖磨は、異体字の団という文字で宛名が書かれている手紙は自分宛ではないと捨ててしまったそうだ。それぐらい名前の文字は大切なもので、気を使わなければならないということであるようだ。
 好き嫌いということがあるので、自分はこれでなければならないと本人が思うのは別にかまわない。團さんはバカだと僕は思うが、それぐらい変人でも生きていけたのだから、それでいいだろう。まあ、気をつけるにこしたことはないけれど、どうでもいいような気がする。
 いや、どうでもいいとは書いたが、やはり気になるものではあろう。以前渡邉さんという人が、いつも渡辺とかかれるので嫌だといっていたのを覚えている。やっぱり僕にはどうでもいいことだが、本人は自分の名前なので必ず気づくらしい。だから切実な問題なのだという。普通の文字の間違いは気づかないこともあるけれど、自分の名前なら必ず気づくというのはよく分かる。いちいちいやな気分になるというからお気の毒である。
 外国の映画を観ていると、自分の名前のスペルを間違われていちいち修正を求めるという場面がけっこうある。異体字というのとは厳密には違う問題であるけれど、名前というものは、本人にとってあんがい重要なものなのだろう。女の人は強制的に苗字を変えられるわけだから、フェミニストでなくても怒っている人もいるかもしれない。
 世の中にはいろんな不幸があるものだなあとおもう。僕は関係ないから涼しい顔をしていられるだけなのかもしれない。そういうことであるとはよく理解できるが、僕は渡辺と知らないうちには書いてしまうだろうし、宮崎とやはり書いてしまうだろう。歩くだけで地表に住んでいる無数の虫たちを踏みつけて殺してしまうように、無意識に人を不幸に陥れているということは、なんだかいたたまれないような気がしないでもない。
 しかしながら、やはり僕は肝心なところで無頓着でいるだろうと思う。そういうことを気にする自由はあってもいいと思うが、頓着して生きていくのはつらいからである。程度の問題もあるけれど、強要されるのも真っ平だ。もちろんこの人はこうだと知った上であるなら気をつけよう。本当はいろんな執着があるくせに、そんな感じなのだ。
 たぶん僕は自分の名前についてもどうでもいいからかもしれない。名詞の印刷や登記するなど問題があるなら別だが、多少間違っていてもたいして気にならない。実際どういうわけかよく間違われる。簡単な名前なのにどうしたものだろう。ひょっとしたら嫌がらせだったのだろうか。しかしながら、自分のことであると判断できないほどの間違いでないのなら、まあ、いいんじゃないかと思う。所詮、名前なんて記号である。中身が大事じゃないか、なんてかっこつけていってみただけである。ごめんなさい。
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ドラフト肯定できますか?

2006-09-26 | 時事
 高校生のドラフトが行われた。注目度として盛り上がるのはよく分かるが、なんとなく好きではない。これで人生のすべてが決まってしまうとまでは思わないけれど、ある意味では就職先を勝手に決められるようなものなのではないか。師匠などが、どこに行けというのなら、まあそれも仕方がないと思う。そういう封建的な選択をして師匠を選んだ(野球の強い高校などを選択するなど)ということもあろうからだ。しかしながらドラフトはちょっと違う。今では逆指名などもできるようではあるが、完全にその意思が尊重されるとは限らない。最終的には球団側が当日になって手をあげさえすれば、複数の球団による競争抽選(というんだっけ)されるというのがなんとも納得できない。
 ドラフト制度は人気球団に選手が偏らない公平な処置であると考えられているようだ。特に日本の場合、巨人軍の人気が飛びぬけている。以前にやっぱりドラフトはおかしいと愚痴っていたら、実際に野球部出身のヤツが解説してくれたことがある。日本の野球界は、見ているファンの状況よりさらに巨人軍優位なのであるということだった。高校野球の指導者などは、関西なら少しは違う可能性もあるが、圧倒的に巨人ファンなのだという。プロ野球というシステムは、巨人軍対その他なのであって、見ている人はアンチなどという存在があるが、もし巨人軍のユニフォームを着せられることができるのなら、私財をなげうっても教え子を送り込みたいというような指導者は少なくないという。日本の野球そのものが、巨人軍人気によって成り立っているのであって、ドラフトがなければ大変なことになるだろうというのである。
 僕は小学生の低学年の頃からアンチ巨人軍なのでびっくりしてしまったが、業界というのは外からは分からないものである。確かに見方として、ドラフトの成り立ちは認めてやろう。いまだにそれだけ強い影響力があるとは信じがたいが、日本というのはそれぐらい偏っている可能性は確かにあるのだろう。
 しかし、それでもいいんじゃないかという気もするのである。偏った人気で選手が集まってもかまわないのではないか。高校生の有望選手がまとめて巨人軍を目指すというのは、確かに由々しき問題だ。しかし、当然限度があって、誰でも入れるものでもあるまい。そういうことでも巨人は優位に違いないが、球団が強くなるというのはそういう要因だけではないような気がする。実際に試合をするのは選手なんだけれど、監督がかわったり、フロントの方針が変わると、当然チームの強さが激変するではないか。ボールゲームという複雑なスポーツにおいては、未知数の素材のみで将来が決定するとは考えにくいのではないか。
 それよりも何よりも、可能性としての思惑ということだけで、個人の将来が決められるということに最大の疑問がある。江川問題や桑田問題があったように、個人の反乱は繰り返されている。できる人のゴリ押しは通って、控えめな人の正直は通らないというのがなにより残念だ。今回も沖縄の大嶺の動向が不透明だが、一年棒に振るより選択がないというのは、不条理である。もしこのままドラフトに従わないとすると、選手の側の単なる選択にもかかわらず、恐らくロッテファンは複雑な心境のまま将来どこかの球団で活躍するかもしれない大嶺のことを受け入れることは難しいだろう。
 こういう罪作りな制度ならば、巨人軍以外の他球団のほうから、ドラフトはやめようと提案するべきなのではないか。逆に自分の卑屈な立場を正当化してしまって、恥ずかしくならないのか。正々堂々と実力をつけて巨人軍を倒すという気概がないから、益々巨人軍にバカにされるのである。
 僕としてはそう思うのだが、そういえば以前受験戦争を止めてしまおうということで、誰でも東大に入れるということにすると少しは受験戦争緩和になるんじゃないかという話があったことを思い出した。なるほどそれなら東大の価値も相対的に低下し、競争する必要がなくなる可能性はある。しかしすんなりその案は却下された。自由になっても東大希望者は減らないというのである。自由になったからこそ全員東大生となりかねないのか日本人なんだというのである。まあ、この話はジョークなんだろうけれど、工藤なんかも給料が下がってもゴネて巨人に入ったくらいである。高校生のみならず、日本人の趣向性というのはそういうものなのかもしれない。僕には理解できないが、だから世論はドラフトを肯定しているのかもしれない。
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宮崎あおいの完成度/好きだ、

2006-09-26 | 映画
好きだ、/石川寛監督0609
 宮崎あおいに熱中しているように思われるかもしれないが、その通りである。その通りではあるが、昔から知っていたとはあまり意識的ではなかった。この映画を観ていてなんとなく思い出したが、確かに以前から見ている。「ユリイカ」に出ていたのだとは聞いていて、そうだったかなという程度にしか認識していなかった。この映画を観て思い出したのは、ゆるさがなんとなく似ているからかもしれない。
 「ユリイカ」は非常に評価の高かった作品だが、正直言ってかなり退屈だ。西洋人は日本のことをよく知らないので、勘違いして高い評価をしてしまったのだろうと疑っている。僕はためしに後半部分を早送りしてみてみたが、それでも動きが遅かったぐらいだ。ひどすぎる。芸術だといっているヤツは、このつらさを多くの人に共有してもらいたかっただけなのではないか。自分だけではずるい、ということで…。
 さて、「好きだ、」も映画館でみた人がいるのだろうと思うと、お気の毒であった。カップルで期待を持ってみた人も、困ったなあなどと思いながら観たのではないか。まあ、悪い話ではないような雰囲気は持っているんだけど、この映画をほめるのもなんとなくかっこつけているみたいでかっこ悪い。そういう人は誰か他に友達でも作ってみたらどうか、と言いたくなる。付き合うのがつらいのである。
 まあ、僕は変人だから、退屈な映画が必ずしも嫌いなわけではない。もう少し失敗作だと、僕は知っている、という感じがして満足できるのだが、適当に狙ったコマーシャルさが鼻につくのかもしれない。どうだ、よくできているだろう、という優等生っぽい感じが癪に障るのだろう。そうまでして賞を取りたいのね、といいたくなってしまう。賞さえ取れなかったら、まさに悲惨だったのではないか。
 「普通っぽい感じが見事な演出」というのは、外国人が好きな傾向だ。このよくワケの分からない日本の日常っぽい感じが、たぶん評価されているのである。しかしながら、僕たち日本の青年達は、こういうたるい日常を喜んでいる場合ではない。突拍子もない事件もおこるが、説明として説得力がない。こんなことは、普通はおこらない。ちっとも本当の日本の日常と違うじゃん。嘘をついて日本っぽさを演出しては駄目ではないか。

 翌朝当たり前のように連ドラで宮崎あおいを観る。最初からこれをまじめに見るべきなのかもしれない。ほとんど出づっぱりで、ちょっと大人になってしまっていることが不満なぐらいで、少年のような声をたくさん聞けるだけでも幸せだ。もっと不満だとか小言だとか強がりをたくさん言って欲しい。最後に声を出さずに笑うだけで、宮崎あおいは完成するのである。
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投票と墓参り

2006-09-25 | 雑記
 僕は不在者投票をしたかったのだが、つれあいはなかなか付き合ってくれない。一人で行動するには寂しいので、仕方なく当日に投票に行くことになった。不在者投票と当日の運転手なら二度手間である。だから先に済ましておきたかったのに、イケズである。僕としてはどちらの陣営から勧誘があっても、投票は済ませましたといいたかっただけなのだ。
 ひょっとすると用事ができたりしたときに慌てないよう備えておくことは大切だ。休日と分かっている場合、何か行動するというのがなんだかもったいない。たとえそれが投票といえども、誰かのために体を動かすのが億劫だ。何しろ僕は民主主義も選挙も大嫌いだ。一票の力が社会を動かすということがあっては、人は幸福にはなれないだろう。少なくともそういう政治の力の必要な時代というのは、どう考えても不幸なのではあるまいか。まあ、長くなるので後は端折る。しかしながら権利と責任は果たす。だから投票には当然行く。気に食わないからといって逃げるのも性に合わないからである。因果なものよ。
 近所の投票所には多くの人だった。車の出入りも多くて混雑している。ちょっとした流行のようだ。市議の方はK村君の真似を(まあ、趣旨に賛同して)して白票白紙を投じる。用紙をもらってそのまま箱に入れる。お袋に言わせると態度が悪いようである。確かに受付の人と目が合って、彼は僕から視線をそらした。見てはいけないものを見てしまったというように…。

 選挙にいったついでに、本家(というのか。僕は分家ではないんだが…)の墓参りに行こうかということになる。いろいろ事情があって、親戚づきあいは疎遠である。つれあいは行った事がないという。彼女は墓参りが好きなので気になるのかもしれない。僕は墓石には興味がないのでいきたくないが、どこかに行くのは好きなので付き合ってやってもいい。父の墓には朝嫌々行ってきた。ついでに先祖に参るのも道理にかなうのかもしれない。日差しが強いので蚊も少ないだろう。その上、中日を過ぎているので誰にも会わないだろうというので、同意した。
 ところがいってみると先祖の墓あたりで人だかりがある。おじさんたちがちょうど来ていたのである。何年ぶりかの再会である。いとこの子供も大きくなっていて、見違えてしまった。これではちょっと分からない。まあ、出会ったものは仕方がない。
 おじさんは相変わらず病院通いらしく、益々老いてしまった。それでも父よりヤクザな雰囲気は健在で、やはり幾分若い人なのであろう。それでも父の死んだ歳ぐらいのはずだから、あんがいしぶといようである。今後付き合いが戻って頻繁に会うことになるとは思えないが、死ぬ前にもう一度会うこともあるのだろうか。まあ、墓で会うぐらいなら別に会ってもかまわないが…。
 別段これが運命だとは思わない。僕には墓参りの信仰はまったく理解できないけれど、恐らくこういう付き合いの意味合いもあるのであろう。わけの分からないものは時には大切にしてもいい。いや、良いことだとか悪いことだとかいうことではない。こういうことは、時にはあってもいいということである。僕にはそれ以上の感慨はないけれど、これでよかったのではないかという気持ちはある。それは感謝ということなのかもしれない。誰に向ってという方向がないだけで、感謝という感情があるということである。
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外国人力士が悪いのか

2006-09-24 | 雑記
 最近は外国人力士が増えた。最近と言わず、もうずいぶん前からそうなのだけれど、特に最近は、という物言いをする人が多い。確かに東欧の力士などもおり、一時のハワイ、モンゴルとは限らなくなった。だから最近の外国人が増えたという印象は、勝手にそういう外国人の多様性の意味だと解釈している。
 しかしながら、だから相撲が面白くなくなった、という論調には、同調できない。国技に日本人が勝てないなんてと嘆く必要がどこにあるのだろう。日本人だけがやらなくてはならない競技なんて、単なる井の中の蛙ショーである。ましてやプロレスじゃないんだから、外国人が悪役と思い込んではならない。こういう多様性こそ、本当に国技を高めている要因なのではあるまいか。
 よく実際の取り組みを見てみるとすぐにわかると思うが、一時期の大型化一辺倒の時代より、技の切れもあり、スピードとパワーも混ざり合い、なかなか面白い。相撲中継は夕方(BSだと朝からやっていたりするが)なので仕事に差し支えるため、泣く泣く見ないようにしているけれど、ちょっと見だすとなかなかやめられない面白さである。ミーハーなだけのファンも減って、コアに相撲を楽しむ姿勢でのめりこむファンもいるのではないかと思う。それぐらい今の大相撲は、格闘技として充実しているのではないだろうか。特に強すぎて憎らしいぐらいの朝青龍であるが、力もスピードも技も、実にすばらしい充実ぶりである。これぐらい強い人を同時代で見ることができるというのは、幸せなことなのではないだろうか。
 僕が外国人力士に好感を持っていることは、そういうことだけではない。何より彼らは日本語を話すということだ。たとえば野球などでは日本で長くプレーした外国人助っ人なども大勢いるが(こちらのほうが歴史が長い)、日本語だけでインタビューに答えている姿を見た記憶がない。一方で力士のインタビューなどを見ていても、力士というのはあんまり雄弁ではないにしろ、ちゃんと日本語で受け答えしている姿に思わず胸を打たれてしまう。なんと真摯な姿勢なのだろう。こういうまじめでひたむきな態度の人たちを前にして、外国人力士と一緒くたに断罪している日本人は恥ずかしくないのだろうかとさえ思っている。ただでさえちょっとした言動にも排斥されやすい立場でありながら、黙々と毎日稽古を重ねながら実力で力をつけている力士達を、外国人だからという理由だけで軽々しく叱責する姿勢は卑怯である。
 外国人が増えて面白くないと思っている人は、もう少しまじめに相撲そのものを見たほうがいいと思う。印象や偏見を取り除くのは、まずそのものを見る姿勢にあると僕は思う。その上で、相撲という競技自体が面白くなくなっているとしたら、相撲の将来は暗いであろう。同じく、日本人自体が面白くなくなっているとしたら、日本の将来は暗いということと同じなのではないか。嘆いている人たちの多くは、逆説的にちょっとやばいんじゃないかと心配である。
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坂東眞砂子を支持する

2006-09-23 | 時事
 毎日新聞の朝刊を読んでいたら坂東眞砂子の弁明文が載っていた。なんとなく気になっていたら「きっこのブログ」などでもやっぱり非難囂々である。これはファシズムなんだからほとぼりが冷めるまで沈黙していたほうが無難だけれど、坂東という人はまじめなのかもしれないと思う。
 問題の坂東の文章を見たのは「きっこ」がきっかけではある。ものすごい非難の仕方なので、精神的にどうかしてしまってこういうことをしているのだろうかといぶかっていた。しかし、原文というものを読んでみると、別におかしなことを書いているようには思えない。確かに猫を殺すまではすることないんじゃないかとは思うけれど、そういう状況にいたった哲学はよく理解できる。生き方としてつらいだろうとは思うけれど、むしろ人間として正直であるし、自分のエゴを自覚しているという点では、無自覚なペット愛好家とは一線をおいて崇高ですらあると思う。世の中には物事を深く考え、不器用に生きている真摯な姿勢の人がいるものである。こういう不幸を背負いながら生きるのは大変だろうけれど、僕も犬を飼っているエゴ人間なので、大いに啓蒙されるところがあった。いや、そういう自覚は小学生のころに一度徹底的に悩んで獲得したのだが、話が長くなるので割愛する。僕は普段はそこまで深刻にはこの問題は捉えていない。一種の逃避なのであろうと思う。
 論理的には坂東の文章は問題がないことは、今月号の文藝春秋の呉智英の文章を読んでもらいたい。どう考えてもよく考えずに一方的に非難して騒いでいるほうが短絡的である。タヒチの法律にのっとって裁くべきだという理屈を言う人は、日本の法律の基本になっている憲法9条をまともに解釈して自衛隊を解体すべきだといっているようなものであろう。よその国まで働きかけていじめようという考え方は、完全にファシズムであろう。そういう流れに坂東はさらに苦言を呈しているのだと思う。
 それにしてもひどいと非難する人たちは、せめて殺さないで自分に子猫をくれないかと何故言えないのだろう。かわいそうだとかひどいという時点で思考が止まってしまうのはまことに残念である。坂東の罪は、そういう表面的にしか読み取れないほどの行動の衝撃性であろう。しかし、こういう不幸を告白したから糾弾されるのは、また別の話ではないだろうか。
 僕は快楽でむやみに動物を殺す行為は嫌悪するが、動物に人間のような人格(仮にそういう感じのもの)があるという考え方には反対である。人間は動物の犠牲の罪を背負いながら文明社会を生きている宿命があるのだと思う。そういう罪の部分に目を覆ったまま無自覚に生きている人に警鐘をならしているのが坂東なのである。
 実験として殺される動物はよくてペットでは駄目だという線引きは、人間のエゴである。家畜だから殺してよいという牛をペットとして飼っている人だって、広い地球にはいるに違いない。彼がいくら嘆いても、人間は牛を殺し続け食うのであろう。
 僕は普段から長いものには巻かれて生きている。こういう問題はいわなければ済むことなのかもしれない。何しろ臆病だしわずらわしいので黙っていようと思ったが、ファシズムだけは戦うなどと以前言っていたのを思い出した。少なくとも一方的に非難の側に回って石をぶつける人間にだけはなりたくない。坂東のような変人であるが深く物事を考える役割の人がいなければ、人間はただ暴走するだけなのではないかとさえ思う。言いにくい状況だからこそ発言ができるという環境にないのなら、それはファシズムの証明になろう。せめて本当に偏見を捨てて、坂東の文章をもう一度読んでみてはどうだろうか。
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僕のジコチュー

2006-09-22 | 音楽

 人の趣味のことをとやかく言うのは人格者とはいえない。あまりに趣味の悪い人は確かに一種の公害には違いないが、とやかく言って直るものでもなかろう。そういう無意味なことになると異常に情熱を傾ける人がある。それを周りの人も楽しんでいる。辛口だと意外と気分がいい。人をバカにする行為はほめられたものではないけれど痛快なのである。
 僕はファッションなどは興味がないけれど、奇抜な格好を見ると飛びのいて驚くほど小心者だ。告白すると二十台前半は長髪にピアスの青年だった。そうして下駄を履いて車を運転していた。そうかと思うとスキンヘッドで眉まで落とすということもしていた。自分がするのは楽しいが、他人がそういう格好をするのは迷惑である。今気づいたけれど、あんがい自己中心的な性格なのかもしれない。
 そういう性格のせいか音楽の趣味には差別的なところがある。他人の趣味なのだからどうでもいいことなのだが、自分と違うというだけでバカにしたくなるようだ。他人をバカにするヤツは何を偉そうなことを言いやがってと激しく嫌悪するくせに、自分の行為は見えていない。冷静になると僕のほうが悪いとは思うが反省するつもりはない。後悔先に立たずを座右の銘にするような人間に面白みのあるヤツはいない。人間、おろかであるから面白いのである。
 
 ボブ・ディランの新譜が出て米国などでは大ヒットしているようだ。確かに大御所だが、そんなに売れていいのだろうか。しかしこの人は意外に人を選ばないのが不思議だ。詩が凄いというのは翻訳したものが有名なので知っているが、日本でも絶大な人気があるだろうことはやはり不思議に思える。まあ確かに以前から偉大だったが、日本ではそれなりに知る人ぞ知るという程度だったという覚えがある。地道に浸透したのだろう、今は事情が変わったようだ。確かに渋いといえばそうだけれど、正直に言うとこれだけ長いあいだ歌い続けているくせに、相変わらず歌は下手である。
 泉谷しげるなどはひどい音痴だが、シンガーソングライターには、あんがい歌の下手な人が多いような気がする。このあいだ武田鉄矢(この人はデビューが歌手だったはずだ。なさけない演技が意外とうまいので人気を博し、いつの間にか俳優になった。泉谷も、ある意味でそんな感じだけれど…)を見に行ったのだが、改めて歌はひどかった。演技の科白は覚えているのだろうが、いまだに歌詞カードを見ながら歌うのは、きっとテレ隠しなのではないだろうか。
 アイアン・メイデンの新譜も聞いてみて、相変わらずだなあと変な感動をした。このバンドが日本で絶大な人気のあることは知っているが、ロック愛好家にはそれなりの複雑な状況があって、このバンドはよくバカにされる代表でもあるのだ。昔爆風スランプのサンプラザ中野が「俺は44マグナムが大嫌いだー」と叫んで喝采を浴びていたが、同時にメタル系の革ジャン軍団に妨害されていたことがあった。そういうところがさらにこういう人たちがバカにされる題材になってしまうのに、コアなファンは場が読めないのである。もちろん僕は積極的にバカにしていた張本人だけれど、実はファーストをちゃんと買っている。そういう事実がさらに僕を恥ずかしさの境地へ追い込んで凶暴にしてしまうのだろうと思う。今は大人になって面の皮も厚くなったので、恥ずかしさは残るにしろ、それなりにいいと正直に思う。
そういえば僕より10ばかり先輩にもUFOとかマイケル・シェンカー(同じだ)を熱心に聴いている人がいた。普段はパンチパーマをかけているくせにそういう音楽の趣味は不自然だと思った。怖かったので言えなかったが、心の中でバカにしていた。
 さて、きょうだい喧嘩ではないが、いがみ合わなくてもいいような組み合わせがある。代表的なものはジョン・レノンとポール・マッカートニーだろう。同じビートルズのメンバーなのに、なんとなく派閥が分かれている。ちょっと政治的な意見のある人はジョンをほめてポールを貶す。なんとなく女にモテそうなヤツはポールを肯定しているように見えた。ポール派は穏健であるように見せかけてウラで女といちゃついているような気がしていけ好かなかった。もちろん一方的な偏見である。確かにポールのつくるメロディは美しいので女に人気があって当然だろう。今は、僕でもそう思う。それにジョン派といえども近頃のヤツは軟弱になってしまった。イマジンはいい歌だが、イマジンを好きな人は胡散臭い。憲法9条をかたくなに守りたいのかもしれない。
 昔話ついでにテクノファンというのもいる。ディーボなどは見た目が決定的にかっこ悪かったけれど、今になってみるとあんがい評価は高い。問題は日本の誇るYMOだが、このファンはなんとなく気持ち悪かった。心あるロックファンはイモと発音して読むのであった。今のテクノとは隔世の感があって、今となってはあれはなんだったのか、かえって整理ができない。
 歌謡曲は基本的に聞かないが、以前はテレビを見ていたので結局はけっこう聞いていた。五輪真弓は正直に言って最初は怖いと思ったが、女の容姿のことをとやかく言うのはなんとなく卑怯な気がして黙っていた。しかし歌謡曲にも歌のうまい人が堂々としている姿はえらいと思った。違う意味で歌は怖いがDJはアンバランスに崩れすぎている中島みゆきは意外にロックファンが多いと思う。繰り返すが歌の内容は恐ろしくて一人で聞けたものではない。これをホラーと思わず一人で聞ける女がいるというのがさらに恐ろしい。
 松任谷(荒井)由実は一種の天才であろうと思うが、間口が広すぎてやはり抵抗がある。僕は母から彼女のレコードを買ってきてくれと頼まれたことがある。吉田拓郎も一度買ってこいといわれたが、歌詞カードだけ抜いて読んでいるだけで、レコードは僕にくれた。僕に変人の素養があるとすると、間違いなく母にも責任があると思う。
 僕はロックが好きだとかいってチューリップとかオフコースを上げるようなヤツもいた。どうやったらそういう勘違いができるのであろうか。あいつはちゃんと就職できただろうか。少なくとも仕事はできないだろうから、相変わらず誰かが迷惑しているに違いない。
 産業ロックも堂々と聴くべきではない。ジャーニーとかシカゴとか、懐かしくてつい買ってしまいたくなるが、なんとか自制できている。あちら側に行くほど性根は腐っていない。魂を悪魔に売ってまで快楽を求めてはいけない。これは沽券の問題なのである。
 クラッシックの状況は疎いが、ラフマニノフを聞いている男にはなんとなく近づきたくない。あれは女が聴く音楽ではないか。しかしこの世界ほど差別が大きいのも確かな気がする。ベートーベンが好きな人がビバルディを褒めているのを見たことがない。チャイコフスキーもなんとなくバカにされている気がする。しかしメロディが美しくてもモーツアルトはそれなりに無難な感じがするのが不思議である。彼ぐらい変人で天才なら許されるということだろうか。何しろ牛に聞かせると乳の出がいいそうだ。

 と思いつくままに書き出しても、温厚な僕がなんとなく音楽のことならスラスラと多少の悪口なら言えてしまう。この差別意識はどこからくるのだろう。もちろんそういう自分は棚に上げているのだから卑怯な行為ではある。自覚しているが止められない。酒を飲んでこういうバカ話をするのは気分爽快である。
 しかし、いつもいいことばかりなのではない。ギター弾きの中にはジミー・ペイジをバカにするとかっこいいと思っているようなバカがいて、時々激しく喧嘩になってしまう。僕の理性を保つために周りの人は気を遣うべきだと思う。
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すっぴんの価値/NANA

2006-09-21 | 映画
NANA/大谷健太郎監督0609
 実は宮崎あおいつながりで観たのである。結論から言うと、これもある意味でミスマッチなのではないか。もう少しバカな感じの方がよかったのだろうが、本当にバカになりきっていない感じなのだ。役を選ばずなんでもできるという器用さはあるんだけれど、やっぱりもう少ししっかり怒って周りが困惑するぐらいがちょうどいい。人を理解するより理解されるほうがいい。そういうけなげさを、僕は彼女に求めているのかもしれない。
 さて、お話のほうだが、僕にはよく分からなかった。少女漫画は子供のころからよく読んでいたが、この話はよくわからない。本当に原作通りなんだろうか。読まずに批判するのはフェアじゃないので控えるが、今ひとつカタルシスがなかった。まあ、僕に共感されることを拒んでいるから一般的には共感をえられているのかもしれないけれど…。
 愛憎めぐってもやっぱり好きだという感じは、別に悪い話ではない。そういう不条理とか諦めの悪さは人間的だ。しかし、それは自分だけが分かってない方が面白いと思う。追いかけている男がもう少し悪かったら、そのバカさ加減に感激したかもしれない。人には怒れといっていても、自分の方がもっとバカなんだということが、この話の大きな柱であろう。悪ぶっているけど、もっと自分の方が弱いというのが、この話の重要さではないか。
 実際に中島美嘉は、化粧を落としていると、そのけなげさに驚くほどかわいらしさがあった。ああ、似合わないことをあえてやっているんだ、という発見が、この映画の一番の見所ではないか。しかし本当に自分の中の一番いいところは表に出せないのが、女心というものの面白さなのだろう。まあ、僕にとって関係ない女だからそれでいいんだけど、男はそういう女はしゃらくさいだけなんだけどね。少なくとも近くにこういう人がいないほうが、平和な毎日を送れる事だろうと思う。また、こういう過渡期を経て、少しずつ強くもなるというものだ。本当は女心というより幼さなんだということに気づくまで、もう少し時間が必要なんだろう。
 それにしてもやっぱり歌が耳に残る。時代の勢いがあったのだろうと思う。内容がどうだというより、長めのプロモーションビデオなのかもしれない。
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きょうだい喧嘩/ギミー・ヘヴン

2006-09-21 | 映画
ギミー・ヘヴン/松浦徹監督
 最初に断っておくが、ちっともお勧め映画ではない。これがいいという人もいるにはいるだろうけれど、変わっているだけだろう。
 まあ、そうではあるけれど、なんとなく退屈しながら見ることができた。あんがい好きな方ではないか。こういうつまらない映画は、僕のようなひねくれ者には面白い。かなり失敗して惜しいなあ、という感じがいいのである。
 出ている役者さんは一生懸命名演を繰り広げているが、ちっとも浮かばれない。はっきりいって可哀相である。しかしながら出演したんだから仕方がない。演じている時点で愚作になるかどうかはわからないのではないか。ベストをつくす姿勢は見習った方がいいとも思う。
 ラストシーンを撮るために時間をつぶしたのだろうか。そういう感覚を映像化してみたぞ、ということなんだろう。最近は特撮が進歩しているので、そうではあってもたいして感激しない。人間の慣れとは恐ろしい。だからこそ、もう少しその個人的ジレンマをしつこく描いていくべきだったのではないか。失敗した最大の原因はそういうことではないか。こういうことは、つくっている監督と観客との共通感覚のいかんではなかろうか。
 ついでに告白すると、宮崎あおいを見るために観たのである。そういう意味ではちゃんと出演しているのだから目的は果たしているが、あんまりしゃべらないので残念だった。最後になってやっと少ししゃべるが、もう少しまじめに不条理を不満たらたら話した方が似合っていると思う。まあ、僕の偏見だろうが、若いくせに人に説教臭いことを言う宮崎あおいはキュートである。単に朝の連ドラの影響だろうけど…。
 基本的に映画のネタばらしはしない主義だが、どうせこの映画を観る人は少ないだろうから言ってしまうと、きょうだい喧嘩でいろんな人が犠牲になる話である。後から思い起こしても、みんなとばっちりを受けただけであるように思えて哀れである。まあ、これがネタばらしであるかは、観て確認にしてみてはどうだろう。しつこいようだが、面白さは保障できない。修行と思えば何か得るものもあろうというものだ。
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なりゆきで、正義の味方になれるか ホテル・ルワンダ

2006-09-20 | 映画
ホテル・ルワンダ/テリー・ジョージ監督
 ジェノサイド(大量虐殺)を考えるということになると、正直に言ってよくわからない。どうしてこんなに殺してしまわなければならなかったのか。
なんとなく思うのは、後ろめたさではないかとも思う。いちど踏み越えてしまって歯止めがきかなくなる。やめてしまったら、悪いことを認めたことにならないか。正当化するためさらに殺すしかない。
 不平等感もあったのだろう。もともとがどうかは議論があるだろうが、加害者側のフツ族は下等な種族とされていたようである。政権が逆転したが、すぐには相対的に好転しなかった。戦後すぐの日本を見てもわかるが、皆が貧乏なうちは何とかなったが、格差がつくにつれ凶悪犯罪も多くなった。今の米国なども同じようなものだ。テロの問題も経済格差だということが需要な要素である。
 純粋な種族というヤツも危ない。すぐに思い起こすのはナチスだろうが、歴史は繰り返すらしい。ということは、そういう考え方は人間の特性らしいともわかる。だからこういう側面は、実はどこの国でもあるようだ。米国であってもインディアンの大虐殺を経験している。日本でも議論はあるにせよ、やっているのは間違いなかろう。その上今でも純粋な日本人という幻想を時々聞いたりする。馬鹿げているが、いっている人たちは純粋に真剣らしい。民族のよって民度が高いだの低いだの、真剣に言うほど無頓着な神経に容易になるようなのだ。だからといって物事が解決するはずがないではないか。絶滅させると気が済むように見えるが、ただ取り返しがつかなくなるだけである。
 この映画はそういう虐殺の恐ろしさがまずある。ゴキブリの臭いがするという表現に、言いようのない嫌悪と恐ろしさを感じる。首に掛けているIDカード(なんだろうか)以外に、民族の違いを見分けられないくせにである。はっきりいってむちゃくちゃだ。そういう感覚がなにより恐ろしい。男や子供は殴られたり耳をそがれたりの拷問の上殺され、選ばれた女は監禁され性の慰みものにされてしまう。圧倒的な暴力の前になす術はないように見える。少なくとも、個人の力ではどうしようもない。
 ひとつの見方は、ある意味で西側社会への批判だ。見殺しにする事実を見つめるべきだ。そのことはこの映画を見た多くの人に十分に伝わったことだろう。内戦に他国が干渉するのは問題も多いが、人命をどうするかという問題は緊急性がある。こういう現実があったということを正視する人間は、自分に何ができるか、考えずにいられないだろう。
 しかし、やはりそのためにさらに相手側を殺していいかというのは、難しいが、本当には正当化はできない。相手を殺さず助けることができないにしろである。正当化しなければ介入できないのだろうが、殺してしまうことの責任を感じる必要はあるのではないか。また、ある程度の期間の監視まで含めて考えると、介入の難しさは語りがたい。そうして時期を逃して、結果的にジェノサイドを許してしまったのかもしれない。
 主人公は結婚した妻がツチ族である。民族意識がまったく無いようには見えないが、最初は家族さえ守ればよいという感覚であったようだ。虐殺が始まって精神的葛藤はあるようだけれど、成り行き上守る立場になっていくという感じにリアリティがある。これだけのリスクを背負いながら、不条理を呪いながらも正義感を奮い立たせようとしている。ホテルの支配人という経験を活かして、社会と人間を知っているからこそ、狡猾に立ち回っている。銃のような武器を持たずに果敢に立ち向かう姿に、並々ならぬ勇気を感じる。処世術に長けるということは、生きる術に長けているということなのであろう。それは、精神的に自由だからこそ成し遂げられるのではないだろうか。
 虐殺する側は、なんどもなんどもやってくる。まるでゾンビ映画だ。ホテルは牙城だが、城壁で守られているわけではない。もともと客を自由に受け入れる役割のホテルなのだ。主人公はあらゆるコネを使って逆境を切り抜けていく。それでもいつまでも賄賂の原資があるわけではない。あくまで、その場しのぎに過ぎないのである。
 結局は反乱軍が隆起したようだ。フツ族がナタで虐殺したように、もともと豊かな環境なのではなかったのではないか。弱い立場が凶暴化する。そういう気がしてならない。だからといって暴力で口火を切ると歯止めがきかなくなる。平たく言うとキレてしまうのだろう。たとえそれが一過性であっても、亡くなった人は元には戻らない。生命は壊れると元に戻らないはかないものだ。そういうことは、多くの犠牲の上に理解されるものなのだろうか。人間はこれだけの歴史を重ねながら、いまだに学ぶことが困難だ。アフリカの問題が人間の叡智で守れないのは、人間の現在の叡智そのものが、いまだに未熟な所為なのではないだろうか。
 いや、こういう映画を見て、何を考えるか。僕らにできることは、これからのことなのである。未見の人は、つらくても見て欲しいと思う。子供でも見ることができるように、直接の残酷場面は極力少なくしているようである。そういう意味でも、大変にすぐれた映画ではないだろうか。
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やっと飲めた

2006-09-19 | 

 市境の峠道にある明治乳業の販売店(どうも配達専門らしい)で「贅沢しぼりミルク」を注文した。どれだけ探し回っても見つからなかったため、明治乳業の看板につられて入ったのである。店内に牛乳は置いていない様子で、事務所のみという感じの店だった。注文で取り寄せられるということなので、散々探し回った疲れもあって確実な道を選択することになったのである。
 しかし注文してから帰りに「まるたか」で買物していたら、あっさり「贅沢しぼりミルク」を発見し愕然とする。2,3日前には絶対になかった。世の中はダイナミックに展開する。購入する欲望を抑え、注文の届く(でも、また販売店まで取りに行かなきゃなんないんだけどね)のを待つことにした。それが18日午後であったわけだ。
 さっそく4杯コップに注いで家族で味見である。
うーむ、旨い。なんとなく懐かしい。飲んだ後も味が口の中に残っている感じだ。むちゃくちゃ旨くて死にそうなわけではないけれど、確実にしみじみ旨い。
 長男はカステラと一緒に飲んでさらに満足そうだ。牛乳とカステラ。まさにベストマッチング。それは、相性の良さを審査する専門家が組織されたとしたら、まず認められるべき組み合わせではないかと思われる。完璧に近い無形文化財だ。
 まずまず満足して散歩に出た。しばらく歩いていて、しまった、と気づいた。まだウェーブの気配はない。家からの距離は既に2キロはあるだろう。もともと迎えにきてもらう予定で家を出たので、一直線に遠方まで出ている。このあたりでトイレといったら、商店か何かを探すよりない。普段は住宅街の路地などを選択して歩くが、商用地に近いところを選択せねばならない。
 少しおなかがうずいている気配がしたような気がする。気持ちはあせる。ビッグなウェーブでないので、まだ何とかなりそうである。
 やっとつれあいの迎えが来て、帰りに買物したいというスーパー(特に名を秘す)で用を済ませた。思ったよりかなり緊迫した状態だった。その上、何故かトイレに入った瞬間に電話がある。やっと切れたと思ったら、連続してかかってくる。ああいう場所は電話をとりにくい。ただでさえあせっているのに、携帯が鳴ってさらに緊迫した時間を過ごした。都合があるのはわかるが、勘弁してほしいものである。
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台風大変だったッス

2006-09-18 | 雑記
 台風被害も思ったより甚大で、昨夜からいろいろ大変だった。突風が吹くとドーンという激しい音が響いてゴトゴト振動する。はっきり言って心地悪い。こんなに家のことが心配になるほどの台風なんてちょっと覚えがない。19号の時は国外だったので、凄い台風なんて知らないのだ。
 キャンプで使うランタンとかロウソクの火を眺めながらお湯割りを飲んだ。酔ってフテ寝でもしようという魂胆だ。子供達は宿題もできないし、とか言い訳しながらゲーム三昧。電池って便利なんだな。
 風もおさまってきたのだが、停電が続いていたので何にもできない。仕方がないのでギター弾いて歌ったりしていた。近所迷惑だった上に不謹慎だったかもしれない。調子に乗ってジャカジャカ鳴らしていると、子供は迷惑そうであった。停電ってあんがいつまんないね。
 それでも無駄な抵抗してしり取りしたりしていた。キャンプだと暗闇もまた楽しだが、家だとどうして調子が出ないんだろう。僕は非日常がけっこう好きなはずなんだが、家での過ごし方は形骸化してしまっているのかもしれない。反省すべきか、それが問題だ。

 翌朝家の周りの点検。夜のうちにも一度点検していたが、明るくなってみると被害状況が更によくわかる。三軒隣のお宅は屋根板(というのか)がかなり飛んだ様子である。ご近所に謝りながら破片を拾って回っている。真にお気の毒である。見渡す範囲でもけっこう被害は甚大だ。みんなうつむいている感じがする。まったくやりきれないぜ。

 一応職場も見てこいとつれあいが言うので、重い腰を上げて出勤する。物事の道理は、通っていることに従わなければならない。まあ、僕の責任問題である。
 電話しても誰も出ないはずで、電気も電話も幹線道路も分断されていた。おおごとである。水も出ないので近所の川から水を汲んできて、とりあえずトイレがつまらないようにこまめに流す。
 集団生活のライフラインの分断は、時間と共に深刻になる。大便を禁止するわけにはいかない。9時ごろ新聞配達がやっと来る。さっき電力会社の連中と会ったけど、めどが立たないらしいよ、だそうだ。役場に電話して状況を聞くが、約20パーセントが回復していないとなにやらわかったようなわからんような回答を得る。
 あちこち回ってみると、倉庫の屋根の一部が損壊していたり、別棟のガラスが割れたりしている。もうじき収穫を迎える稲も、すっかり寝てしまった。がっかりである。イノシシ対策電線を張りなおし、更なる被害を食い止めなければ…。
 近所の神社も被害がひどいようで、住人が深刻に相談している。みんな困っているが、どうにもならない。日本って災害については大変な国なんだなあ、と改めて感じる。しかしながら、これがよその国ならば、恐らくこの程度の被害では済まなかったろう。叩かれて、強くなったのであろう。うつむいてばかりもいられねえや。

 昼過ぎにやっと電気が復旧した。厨房のおばちゃんが万歳している。準備した水も大方は無駄になったが、よかったのである。
 そういうわけで、僕も帰ろうっと。
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台風と年寄り

2006-09-17 | 雑記
 台風である。よって外は風が強い。今回の台風は強力であるという噂である。
少し外に出てみると、あちこちでいろんな準備をしている。飛びやすいものを拾って回ったり、忙しい人は忙しそうである。家の周りの整理をするのはいいが、張り切っているのはお年寄りが多いような気がするのである。なかには二階の屋根の上でなにやら作業しているお年よりも見かけた。明日の敬老の日まで寿命がもたなかったらどうするのだろう。こういうときに張り切ってしまう心理はわからないではないけれど、むしろ普段から頑張ってほしいものである。いや、そういう人は頑張っても困るのかもしれない。
 そういえば敬老の日というのは、以前は「としよりの日」といっていたらしい、とテレビでやっていた。「昔は失礼だったんですね」と相方がコメントしていたが、僕にはこの感覚のほうがわからない。「としより」はちっとも失礼ではない。そういう語感になってしまった現代人が哀れである。シルバーだとか高齢者だとか、湾曲に言われて安心している人のほうがボケ症状なのではないか。
 さて、台風になると確かに年寄は張り切っているようにも見える。ご近所の落ち葉拾いにも、よいいっそう精を出している人もある。台風が去った後のほうがいいのではないだろうか。
 買い物に行くといつもよりお年寄りが多い気がする。買い物籠の中身も充実している。ある爺さんは両手にいっぱい「うまかっちゃん」を抱えていた。非常食は缶詰のほうがいいのではないか。しかし、あれは重たいのでインスタントラーメンにしたのであろうか。ま、家庭の事情にとやかく言っても仕方がない。
 僕は比較的に年配の方と話をする機会の多いほうだと思う。それは仕事の都合もあるのだろう。しかし、僕が若者の代表であるのは問題があるような気がしないではない。
 話をしていて確かに思うのは、お年よりは話の内容より、行動が非常識であるということだ。相対的に相手の顔色がわからない。ボケてしまったというより、多分、話をする絶対的な時間が少なくなってしまったせいではないかと疑っている。相手のことがわからなくなったので、行動が極端になる。自己本位になりがちである。
 朝のラジオ番組などのお便りを聴いていると、(リスナーは絶対的にお年寄りだと思われる)この国は善意に満ちていることがわかる。ときより日本の将来を憂うこともあるが、こういう善意の人が多数である国家が、今後不幸せになるとは到底考えづらい。年寄りの多い国は、良心的な国家になるのではないかとさえ思う。
 しかしながら、そう思うのは朝のうちだけである。今まで良心的だった人たちと実際に遭遇すると、少しばかり考えが変わってしまうからである。良心自体が消えてしまったわけではない。そういう人たちであるにもかかわらず、実際にお話を聞いてみると大変にわずらわしいのである。この機会になんとしてでもいろいろ話してしまいたい。欲望を抑えきれずに過剰になってしまう。
 世代間の断絶はもはや食い止めようはなさそうだ。間をつなぐ何か手立てはないか。断絶の原因である家族の崩壊は、天皇家がどうであろうと、どうにもなる問題ではない。他の方法を考えない限り、お年寄りはますます非常識に走っていくのだろう。お年寄りが増えること自体は、実は何も問題ではない。孤立していくことが問題なのである。それは子供であっても、大人であっても同じことだ。ただ、お年よりは孤立しやすい立場であるということなのである。今回の台風でも多くのお年寄りが犠牲になるのではないか。個人の力で解決できる問題ではない。そういう問題を考えるのが、たとえば公的な役割なのであろう。台風の犠牲者が増えて、それから考えているようでは遅い気がする。しかし、やはりどうにもならないのかもしれない。みんなどうしてこうも忙しくなってしまったのだ。

 確かに風はどんどん激しくなっている。家が揺れるのも体感できる。こういうことは初めてかもしれない。こうなってくるとあえて外に出て作業する人も出て来たりする。消防署も大変である。地元消防団員はあちこち巡回していることだろう。飲酒運転にやかましい時勢である。ますます大変そうでお気の毒だ。
 そういえば今日は朝から選挙カーの音があちこちでしていたのだが、さすがにすっかり聞こえなくなった。それどころではないだろうし、暴風で音もかき消されてしまうだろう。テレビも台風情報ばかりだろうし、騒音の中、読書の秋に突入するか。もちろん、前提として家が台風にもてばの話である。もう僕には台風は楽しめないようである。
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