カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

期待に沿いたくない

2008-04-30 | 音楽
 音楽番組にリクエストというものがある。リスナーが番組に参加する意識というか、同時性というか、自分の好みを曲で主張するということなのかもしれない。確かに自分のリクエストした曲が聴いているラジオから流れるというのは、かなり興奮する状況なのではないかと思われる。僕は知り合いの人がリクエストしたらしい状況でもかなり心臓がバクバクした経験がある。単純に今すごいことが起きているという感じであるらしく、そういう意外性と現実とのギャップに興奮してしまうのだろう。
 そういえばジュークボックスというのがあって、お金を払って曲を聴くシステムがある。僕はボウリング場でしか見たことがない気がするが、ハリウッドの映画などを見ると、飲み屋さんではよくこのジュークボックスが出てくる。普通のドライブイン風のレストランでも置いてあったりするようだ。自己主張の強い人達は、自分の好みの曲をみんなに聞いて欲しくてたまらなくなるのだろうか。音楽というか娯楽には金を払うという意識が高いということなのだろうか。
 僕自身もジュークボックスは利用したことがある。前述のとおりボウリング場であったのだが、空いているモニターに映像まで流れるシステムだった。隣のレーンが開いていたので、ボウリングしながらビデオクリップを見ることができたわけだ。ちなみにその時リクエストしたのはジャニス・ジョプリンとジミヘンだった。特にギターを歯で弾く場面を友人に見せたかったというのが一番の動機だった気がする。
 僕は現在渋谷(陽一)さんの番組ぐらいしかラジオは聞かない。かれこれ小学生の頃からの渋谷フリークだから実に長い付き合いなのだが、しかし、この三十年間一度もリクエストしたことがない。正直言って何度かハガキを出そうかと考えたことはあるのだけれど、そういう準備をしている途中で、なんだかやっぱり躊躇して、結局はやめてしまうのだ。ハガキを出す勇気がないのかというとそういうことではなく(学生時代はそれもちょっとあったかもしれないけれど)、曲をリクエストするという行為に何やら抵抗があるらしい。
 渋谷さんという人はちょっと変わった人(それが魅力でもあるが)で、普通に曲がリクエストされている状況を受け止めて曲を流すことは厳密にはしない。雑誌編集者の血が騒ぐのか、リクエストしているパーソナリティと絡めて、なおかつ自分の曲の好みを吟味して選曲をするようだ。平たく言うと面白いかどうかが基準だろうか。まあ彼の番組なのだから、それはそれで当然だとは思うが、かなり偏向した選曲になることは毎度のことである。月に一回テーマを決めたリクエスト特集が組まれるが、リクエストの多かった順に曲が流れるということもない。だいぶ以前にはそういう特集もあった気がするが、まあ、普通はそういう手法は取らないようだ。新譜の案内は番組の編成上スタッフと選曲をしている感じはあるが、リクエストについては自分の偏向を通している感じがする。この三十年間、何度もかかる曲はかかるし、いくらリクエストされているだろうと思われる曲は闇に葬られているという気がする。批判でなくて、まっとうなことだと認めているが、それならリクエストなど取らなくてもいいのではないかといつも思うのである。
 リクエストするのはある程度自己主張だと思うのだが、その主張が番組のフィルターを通して世に流れるというのがジャーナリズムなのかもしれないと思う。例えとして新聞などの投稿欄がある。世論を反映しているようで、実はジャーナリズムが世論を選択しているに過ぎない。意見は何でも載せられないという制約があるにせよ、僕の眼にはかなり偏った意見のものだけ採用されているように見える。それは、新聞社なりの主張という意味なのだろうと思う。例えば後期高齢者医療問題の意見なら、「年寄りを殺す気か」というような意見が真っ先に載るわけだ。そういうジャーナリズムの持っている現実報道は、非常に無責任だと思う。
 少し脱線しているが、リクエストに話をもどそう。僕は渋谷さんの選択を聞くのはそれなりに楽しんでいるのだけれど、自分の選択肢が渋谷さんの考えに沿うかというと、実はそんなことはほとんど無いようにも思う。これは批判ではなくて、もちろんそれでいいのである。自分の好みを聞くのなら、持っているCDを聞けばいい。しかし、だから僕の考えを渋谷さんに理解してほしいのかというと、それがまったくないのである。また、渋谷さんの番組を通して、他のリスナーに訴えたいという動機も希薄なようだ。だからどうなんだという感じかもしれない。聞いてもらおうとすると、なんだかシラけるのである。僕の聞いて欲しい興奮と、他人が共感するかもしれないという期待があさましく感じるのかもしれない。そういう自分が嫌になるのかもしれない。こういう気分というのは、他の人にもあるのだろうか。よくわからないが、僕にはそういう感情があるようだ。
 しかしブログなどでこういう文章を書いているというのは、厳密に他人の目を意識していることは間違いがない。共感を期待していることもそうだろう。僕の中に少しばかり矛盾があることも認めよう。それでもブログは僕のものだという感じが救いなのかもしれない。他人を関与して(フィルターを通して)流されるものではない。リクエストとは別のものだ。
 実はリクエスト特集を聞いていて、僕なら何をリクエストするのかなあ、とぼんやり考えていた。テーマは「ロック入門の一曲(だったっけ?)」。考えたが、上記のような理由により、やはりリクエストのハガキまでは書かなかったわけだ。我ながらややこしい性格をもったものだと思う。まあどうせアキレス・ラストスタンドなんてかかりはしなかっただろうけれど…。
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出張前の準備

2008-04-29 | 
 出張などに行く前に、事前にそのまちの情報を集めたりすることがある。ほとんど時間が取れなくて無駄な努力になることも多いけれど、そのちょっと無駄になることに投資するのが人間の習性ではなかろうか思ったりする。無駄だと分かっていても調べずにいられない。所期の目的(本来的な出張の成果)より隙間の娯楽の方により興味がわくわけである。欲望に忠実という意味では、当たり前かもしれない。本当は旅行で行きたいけれど、それぐらいの楽しみしか取れないという悲しさなのだろうとも思う。
 さて、そういうわけで、特にその地域の旨いものというヤツは、少なくとも事前に知っておきたい。仕事や用事があるにせよ、飯ぐらいは必ず食うだろう。せっかくだからということで、少し奮発してもいいとも思う。それぐらいは望んでもバチはあたらないだろう。なによりその地に足を踏み入れた味の痕跡ぐらいは残してもいいのではないか。
 こういう場合ネットというのは便利になった。掲示板などで地元の知らない人間に問い合せることも可能になった。なんとなく生の声という感じもして、宣伝とは違う信用度がある感じもする。もちろんそこで宣伝をしている場合も多いのだろうけれど…。
 しかし、掲示板を見ても失望することも多いのは確かだ。ネットで情報を提供してくれる世代というのは、どうしても若者が多いせいだろうか。つまるところチェーンのラーメン屋を書き込んで紹介しているような人が多い。まあ、自分が旨いと思っているので正直な感想なのかもしれないが、ラーメンが名物というようなまちは、食に貧しいまちに過ぎないという告白のようなものだろう。本当に名物だというところも確かにあるけれど、そういうところの情報は、わざわざこういうところで調べる必要などない。
 とはいえ「名物に旨いものなし」とも言われるわけで、有名だから旨いというのは必ずしもいえないことである。いくら有名でも店によって好みによって違うといえば確かにそうだろう。当たるか当たらないか、運といってしまえばそれまでだが、食ったけど不味かったということも、現実として受け止める度量も持ち合わせておこう。残念であるということで、いい思い出にしてしまおう。
 意外なことにというか当然のことかもしれないが、知り合いでその地に行ったことのある人の情報というのが一番信用できるようだ。地元の人の味覚(感覚)と観光者の感覚は、微妙に違うものである。例えば僕のように(広い意味で、厳密に言うと市内と僕のような郊外居住者とはまた感覚が違う)長崎地区に住んでいる人間にとって、旨いちゃんぽんと観光客の喜ぶちゃんぽんは必ずしも一致しない感じがする。どの程度の熟練度と要求があってちゃんぽんを求めているのか、ということも吟味して紹介しなければならないのである。それはある程度その人のパーソナリティなりも理解しておいた方がいいことは、必須であるだろう。知り合いの口コミ情報が貴重なのはそのせいである。
 しかしながら、紹介してもらって物を食べるという行為は、少なからぬ信用問題にも発展してしまう危険もはらんでいるということになる。何を旨いと感じるのかは、きわめて微妙な問題にもかかわらず、容易に知り合いとはいえ信用すること自体が危険なのである。今後の関係も不安定になるという覚悟を持ってお互いに臨んでおかなければならない問題なのではなかろうか。
 しかしその地の空気というものは確かにあって、地元のものを食うということは楽しいだけでなく効果的に味覚の感覚を変える可能性はあると思う。お土産や取り寄せなどにしてまた家で食うと、あの時とは違う自分の味覚に驚くことがあるからだ。あの時は感動的に旨かったのに、帰ってくるとその空気が失われている。こんな味ではなかったのになあ、と嘆き悲しむことがあるものだ。物理的にまったく同じものではないにせよ、これほどの違いは何かというのは難しい問題だ。人間が移動して生まれる高揚感のようなものと、味覚というのは密接な関係があるものなのだろう。
 最近は物流が決め細やかになり、地元のスーパーで意外な場所の名物が手に入ったりする。あの時食ったものと同じだと思うと、なぜかがっかりしてしまう。遠くまでいってわざわざ食いにいった甲斐というものが失われたということなのだろう。地元にも事情があるのかもしれないが、名物は地場で消費して欲しいものだと思う。何でも手に入る世の中というのは豊かであると同時に、何か大きな価値自体を失わせているのではないだろうか。個性的な価値観が失われていくというのは、多様性を殺すことにもなるだろう。結局それは、ある意味の貧しさということなんじゃないかとも思う。
 とはいえやはり地元の名物は存在する。移動の高揚感と共に探究心がある限り、旨いものを食えるチャンスがあるということである。個人的には仕事より優先すべきことであるのは、至極当然のことなのかもしれない。
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その時代にありえない

2008-04-28 | ことば
 映画やテレビの時代劇の言葉づかいについて、高島俊男がかなり痛切に批判しているのを読んだことがある。確かにその時代にはありえない言葉づかいを平然と再現しているというのは、今は普通のことであろう。せいぜい語尾を「ござる」程度にして、それらしく取り繕っているというのが現状であろう。よく知りもしないで厚顔に言うならば、徳川夢声などが時代の流れで昔の言葉を再現するのが難しくなったと嘆いていたというような話も聞く(読んだ)。その時代の言葉づかいを忠実に再現すると、すでに大方の人は理解できなくなってしまっているのである。言葉の変化というのは、それぐらい大きいものらしい。
 しかしながら高島が特に指摘していたことは、ありえない言葉づかいの背景にある思想の方であるようだった。江戸時代というのは身分のあるのが当たり前の時代である。現代社会からするとあり得ない社会体制であるから納得できない人もあるだろうけれど、そういう時代に人がどのように考えるかということまで現代の物差しで判断しても何もならない。生まれながら身分が低いからと言って、それが当然の社会であればそういう立場が当たり前なのだから、別段卑下したり悩んだりすることもないはずなのである。同じ人間であるという前提すら実は革命的な思想であって、当時の人が殿様と農民が同じ人間であると感じる感覚の方が異常だったはずであろう。それを現代に胡坐をかいて非難したり悲しんだりすることの方が、滑稽にすぎないのではないか。
 高島が批判している言葉づかいを拾ってみると、確かにこれは気付かないことばかりだと驚いてしまうことも多かった。特に年齢の表現など「十歳」という人がなかったと言われれば、そうだったのか、とかえって驚いてしまう。確かに子供の時分には、じいさんばあさんからよく年を聞かれた。四歳だとか五歳だとか言うと「そうか、もう四つ(五つ)になったか」と言って喜んでもらっていた。歳をつけるのは不自然だし、また十歳までは和語で言うのが普通であったのだろう。また当時は「数え」だろうから今の満年齢でもないだろう。暦だって違うのだから、いつの季節なのかということでも違いが出てしまうわけだ。時代の再現をわかる人がいなくなるはずである。作っている人が年配の人であっても、すでにここのあたりの感覚が鈍ってしまっているのであろう。
 また呉智英が佐々木譲の小説を批判していることについて、反論を含め論争になったものも読んだことがある。昭和の初めの設定での会話で不自然があるという指摘を、いや、根拠としてすでにあったのだというやり取りがなされている。これは呉智英の方がかなり旗色が悪いことになっているようだけれど、反論している人たちのネットなどで根拠を調べて当時の情勢の根拠にするのも危険なような気もした。そういうのは視点によって、いくらでもデータがそろうというネット状況の方が、さらに混乱に輪をかけることになる。佐々木の反論文にもあるとおり、今の時代の人が勘違いしないように使った言葉があるということも言っているようだ。呉の方は、そこをついて言っているわけで、すべての指摘が的はずれであったわけではなさそうである。(それでも勇み足がありそうだけれど)
 作家は今の読者を想定して書かなければならないということもあり、意識してか無意識にしろ、現代の物差しをどうしても用いて物語を再現してしまうのかもしれない。学者や識者が上げ足を取るように細部の間違いを指摘しても、物語の流れそのものに影響を与えかねない言葉づかいの感覚というものがあるのだろうと思う。だから間違えてもいいとまでは思わないけれど、ドキュメンタリーなどではない限り、作中の世界観はその作品だけの時代だと理解しながら読む必要もありそうである。文学作品から世相を読むという試みがなされることはよくあるが、そういう複雑な背景まで読み取るというのは一種のなぞ解きのような世界が広がっているのかもしれない。素人にはとても理解できる範囲を超えている。
 しかしながらこういう知識が身に付いてくると、必ずしも純粋に作品を楽しむということができなくなっていくのかもしれない。海外のものはよくわからないからすっとばして楽しめるが、日本のものだと時々目について気になってしまうことは多い。最近は昭和の初めごろの時代背景の作品も増えていて、特にそういう傾向が出てきているように思う。一つ発見するとなんだか全体が嘘っぽく見えてくるから、言葉というのは確かに影響が大きく難しい道具のようである。
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本を読んでも眠い

2008-04-27 | 読書
 映画を観ながら寝てしまうといったが、本を読んでいても寝てしまうようになった。確かに以前から眠たくなることはあったようなのだが、最近は特に顕著という感じがする。眠くて眠くて仕方がなくなり、どうにも活字が追えない。ひどいときには眠かったことを忘れて既に寝てしまっていたりする。もちろん目覚めてからはじめて気づいたということであるが…。
 眠れない夜には少し硬めの本を読むというのは以前からある誘眠法であるが、その適当な本とは何かというとけっこう選択が難しい。哲学や数学などの難解な奴だといいのではないかと思うかもしれないが、こういう難解な奴には行間で考える時間が長くなるだけ話で時間がかかるというに過ぎない場合がある。面白くなくても考えすぎるとかえって眠れないものだ。考える前段階で歯が立たないということはあるにせよ、歯が立たないなりにちょっとの発見があっただけで興奮してしまって眠れなくなったりする。そういうわけで、難しい本が必ずしも最適とはいえない。
 興味のない分野の本を手に取るという手もある。興味のない分野はそもそも手に取らないのであるから現実的とはいえないが、寝るという目的のためならあえてチャレンジしてストックするという方法もないではないだろう。しかし予想に反して食わず嫌いだっただけということになってしまうかもしれない。啓蒙されるのはいいが、またその分野の本を買い足さなければならなくはなるだろう。
 基本的にはつまらない本に出会うと、なによりであるとは思う。本を読んで眠くなるのは、つまらなくて退屈することも大きいのではないか。本を読まない人で、すぐに眠くなるという人の話を聞いたことがあるが、本当の理由は本を読んでもつまらないためだそうであった。また、それなりにくだらないというのも退屈する。僕はお笑い番組で眠くなるので、うるさくてもくだらなければ効果があるということではないか。しかしあまりにくだらないと、かえって腹が立ってきて目がさえるかもしれない。つまらなさ加減がどの程度かという尺度が難しいところである。
 いや、眠れないための読書の方法ではなく、単に本を読んでいて眠くなるということであった。読みたい本であるにもかかわらず、眠たくなるというのはなんとなく悔しいものである。体が疲れているというか、体力が落ちているということがなにより大きいのだろうとは思うのだが、最近は立ったり歩いたりしながら本を読んだりしている。座っているより幾分効果があるような気がする。それでも駄目なら嫌いなコーヒーを啜る。それでも駄目なら顔を洗う。素直にあきらめて別のことをしてしまったほうがいい場合もある。いっそのこと寝てしまった方がいいこともあるけれど、それがいつも許されるとは限らないのがつらいところである。
 しかしながら、眠くてもそれなりに頑張って読んでいると、流れをつかんで目がさえたりしてくるということもある。結局根気がなくなっているだけの話であるようだ。時間がなくて5分だけ目を通そうとか、移動中であるとかすると読書は格段に進むことを考えると、ある程度の目的意識次第で効果が違うのかもしれない。なんとなく本を手に取るということになっているのかもしれない。体力が落ちてくると、漠然と何かをするという行為自体が、(読書に限らず)眠気を誘うということになってしまっているのだろうか。
 そういえば春眠暁を覚えずとも言うな。単に春になってしまったということなんであろうか。春が眠たいのは何故だろう。冬より疲れやすいのだろうか。よく分からないので、本でも読んで考えてみよう。
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今は大人の態度だが

2008-04-26 | 散歩
 外を歩くのが気持ちのいい季節である。どの季節が一番いいかといわれても条件によって違うので一概に言うことはできないけれど、こと生命の芽生えというか、うきうきするような躍動感を感じるのは、間違いなく今の季節が一番だろう。次々と花々が咲き誇り、新芽の緑が美しい。歩いていてつい立ち止まってそれらの生命に感嘆することもしばしばだ。
 杏月ちゃんもクンクン匂いを嗅いで、フンッと息を吐き出している。花粉でも嗅いでしまったのだろうか。しかし実際に興味があるのは他の生物の匂いのようで、草花にかかっているだろう他の犬の尿のことだとか、おそらく触れて毛などが残っているのか、熱心に想像力をふくらませているようである。彼女には季節感をどのように受け止めているのであろうか。
 花が咲いたり新芽が出たりすると、同時に多くの虫たちも活発に活動を始める。花のそばに寄れば、蜂たちが忙しく仕事をしている。邪魔をしていると思われては危険なので立ち退くが、時には大量の蜂の羽音で辺り一面の騒動に巻き込まれてしまうこともある。こんなにやかましい中でおちおち花を観賞するなどという余裕はなくなってしまう。
 葉っぱにつく虫たちも忙しそうだ。新芽はたぶんやわらかくおいしいのであろう。葉っぱに限らず新しく伸びようとする茎の部分まで、さまざまな虫たちが徘徊している。毛虫イモ虫は、変態へ向けて旺盛な食欲を見せている。そういう虫たちに食われても食われても、どんどん新芽は伸びて勢力を拡大していく。ほんとうにたくましいものだと思うのである。少しぐらいかじられるのは想定内ということで、そんなことより先を急いでいますということの方が重要なのだろう。冬の間にじっと体力を蓄えておいて、一気にダッシュをかけているということなのかもしれない。何もなかったような灰色だった土手一面が、春には大小さまざま草花で凸凹と変形した緑に包まれる。全部勝手に自分の春を謳歌する。小さいことにかまってられるものではなさそうに感じられる。
 しかしながら植物が成長するというエネルギーは、実に効率がいいとも思われる。土の養分はあるにせよ、太陽の光と水を糧にして、これだけの成長が可能なのである。それでいて体の一部まで虫にまで恵んでやるような余裕さえある。人間にむしられたり刈られたりして根絶寸前まで追いやられても、翌年にはちゃんとまた姿を見せる。死に絶えることなく繁殖できるシステムになっているらしい。一本一本は弱い存在なのかもしれないけれど、実にたくましいと言わざるを得ない。
 植物が何を考えているのかはわからない。もちろん人間が考えているというような形で物事を考えているということはないだろう。しかしながら、人間が読み取れないだけの話で、それぞれに意志のようなものがあるのではないか。ただ自分自身の生命が繁栄する事だけを思っているのだろうか。いやもちろんそういう方向性はあるだろう。生存競争に負けてしまえば消滅するだけなのかもしれない。それでも本当にそれだけのようにはどうしても思えない。自分の居場所を一所懸命確保する努力はしているけれど、そのあとに根をのばして一心に太陽の光を集めようとする姿には、ただ自分だけというようなものではない自分の分のようなものがあるのではないかと思わせられる。自分の生きられる領域をただまっとうするだけという達観した何かを持っている。結果的に獲得した生命を謳歌しているだけなのかもしれない。あるものを受け入れた分だけ自分を伸ばすことができる。しかしそれは無限に伸びることではなく、自分ののりというか分というか、そういう領域をわきまえた上でのことのように思える。それはそれぞれの植物の持っている思想なのではないだろうか。
 思想を受け取ろうが受けまいが関係なく存在しているのは、ひょっとすると人間だけではないかと思ったりする。聞いてないよ、という態度をとってもとりあえずは生きている人間という存在は何なのだろうか。他の生物は人間を声をあげて批判しないが、分かってないなとは思っているのかもしれない。少なくとも、態度として今は大人のふるまいをしているだけなのかもしれない。ちょっとそんな気もしないではないのである。
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つまらない映画

2008-04-25 | 映画
 最近は映画を見ながらよく寝てしまう。つまらない映画を観ているという理由はあるにせよ、いとも簡単に寝てしまうのは疲れている所為だろうか。まあ確かに酒を飲みながら映画を観るので、ちょうど眠くなるということはあるのだと思う。その上につまらないのだから、寝る方が正常といえるだろう。借りているDVDだけれど、既に一月になるのではないか。月額定料のシステムだから加えて課金されないという安心感もあって、借りっぱなしでも苦にならない。そういうことも延々と延滞してしまう理由かもしれない。
 それでも少しづつでも観ているので、さて、昨日の続きでも観るかということで続きと思われる場面を探す。これがなかなか厄介な作業で、どこまで見たのかよく覚えていない。おお、これは新しい画面(場面というべきが)だと思ってみていると、突然記憶が蘇ったりする。さてはここまでは観ていたらしいな、とは思うが、では次がどうなるかは思い出せない。シーンの一コマを見終った頃に、ああそうだったな、などと思い出したりする。結果的につまらない映画ほど何度も観ることになって、妙に記憶と共に身につくということもあるのかもしれない。寝る暇がないほど面白い作品は、何年かするとすっかり忘れてしまったりするものだが、このようにつまらなくて何度も観た映画は、しっかり場面を覚えていたりする。つまらない作品ほど、僕の思想に影響を及ぼしているということもあるのかもしれないのである。そして不思議なことにつまらないと思ってみていた映画なのに、妙に愛着がわいてきたりするのだ。だから逆説的に、つまらないような映画さえ、僕は割合嫌いではないのである。
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テレビが壊れる

2008-04-24 | 雑記
 テレビが突然壊れてつかなくなった。原因は分からない。子供がテレビを見ていて突然に画面が切れたという。スタンバイ/オフタイマーのところが点滅している。ひょっとするとそういう方面(どの方面)を誤操作したのかもしれないとは少し考えたが、子供の何も触っていないということを信じるなら、やはり関係ないのかもしれない。小琳ちゃん達が触った可能性もあるが、複雑な設定を犬の足でできるものかは疑問である。
 そういうわけで、突然にテレビのない生活になったわけだが、なければそれなりにさびしいものである。普段テレビなんてろくに見ないから関係ないもんね、とは思っていたが、いや、それなりに見ていたようである。なんとなく間が持たないような、そんな感じだ。
 将来的に地デジ対応のテレビに買い替えるまでは古いなりに使い続ける所存であったが、買い替え時が早く来てしまったということなのだろうか。ちょっと前に画面がぶれるようなことがあって、そろそろ寿命がきたかもしれないとは思わされたけれど、いつの間にかちゃんと映るようになって現在に至っていた。それもほとんど何も問題なく。世間ではオリンピック重要で買い替え特需を見込んだ売り込が盛んになるといわれているが、そういう特需以降に値崩れするに違いないと踏んでいる僕にとっては、現在買い替えることは全く視野になかったことだ。思惑が完全に狂ったようで悔しい限りだ。
 壊れたものは仕方がないが、メーカーのホームページを見て修理が可能か調べてみた。結局電話しなければわからない内容のようだから、電話もしてみる。型式の番号と症状を言うと、電源が入らない故障なのだという。基本的には出張修理が必要だが、直るかどうかまではわからないとのこと。まあそうだろうから呼んでみることにした。
 それにしても対応は丁寧でいいのだけれど、じゃあお願いしますとか、よろしくお願いしますとか、こちらもそれなりに丁寧に対応するだけで必要以上に恐縮されて、何度も謝られるので閉口した。ひょっとするとこちらの落ち度かもしれないのに、一方的に謝られ過ぎるのも気持ちの悪いものだ。
 結果的に自宅に修繕の人が来て、あっさり直ってしまったようだ。
 実はおまけもあった。以前からリモコンのボタンの接触が悪くなっていて、電源をつけるだけのリモコンと、チャンネルを変えるだけのリモコンを併用して使っていた。さらにそれでも接触には不良があって、力加減では過敏に反応し過ぎて二度押しになったりして操作に熟練が必要になっていた。不便だが、ちゃんとしたものを買うとそれなりの出費になるらしいので我慢していたのだ。しかし今回の修理において、これをよほど不憫に思ったのかどうか知らないが、無料で展示か何かで使われていた高性能のリモコンをサービスで提供してもらったそうなのである。見た感じは携帯電話のようなおしゃれなデザインで、折りたたみ式で操作性も抜群である。もちろん接触には問題などまったくなくて、きびきびとスイッチが入りチャンネルが変えられる。なんだか快適すぎて申し訳ない。
 また、テレビの画面も心なしかクリアになって見やすく感じる。この調子なら地デジなんか無視して見続けられるのではないか(実際にすべての人が買い替えるなんて不可能らしいし)。
 テレビなんてろくに見ないはずの生活を送っているはずにすぎなくて、やはりテレビは家庭の娯楽の王道なのだ、と認識を新たにした。ついでに子供のために借りられていた「墓場鬼太郎」のDVDを観た。ダークな鬼太郎がとても感じ良かった。スジがちゃんとしてないけれど、水木さんは偉大な人なんだなあと思ったのだった。
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人の命は重くはないということか

2008-04-23 | 時事
 大方の予想通り死刑判決が出たが、実際に死刑執行がなされるかどうかは極めて疑問だといわれる。もちろん上告ということもあるけれど、そういう時間のかかる後に再度判決が出ても、また法務大臣が何年先に死刑執行の判を押すのかはわからない。結局事実上この犯人は死刑にはならないのかもしれない。
 たとえ家族であっても本当には死を望んでいるわけではなかったはずだが、死刑から逃げるだけの犯人と弁護団の所為で、極刑以外を望まないわけにはいかなくなった経緯がある。今回は18歳とはいえ殺したのが二人だから極刑にできたというのも、理屈として納得できる人がどれぐらいいるのだろう。司法の判断というより、事実上世論の力(そこまで頑張った本村さんの執念も大きいが)でこのような結果になったことを思うと、この材料を根拠としている法曹界には、かなり欠陥のあることが見て取れる。凶悪犯の厚生ということを考える前に、被害者の救済の方が先なのだが、敗戦後の米国の指導で改正された法によって、犯人救済を優先させることになった皮肉である。当事者にとっては、悪夢を超えた地獄だろう。たとえ極刑を勝ち取ったとはいえ、これからも長い間苦しめられて生きていかなければならない宿命を背負わされてしまったのである。ただ犯人から欲望にまかせた対象に偶然選ばれたというだけで、被害者である個人を国家がこれだけ苦しめていいというのは、全く道理にかなわないことなのではないか。人の命を馬鹿にするにも程があるというものである。
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独自性に対する偏向

2008-04-22 | 音楽
 普段洋楽を聴いているのは子供のころからの習慣である。どうしてそうなったのかというのは趣味の問題だと長い間自分自身では認識していたが、どうもそれだけではないようなことにふと気づいた。
 テレビの歌番組を見ていたのは、久米宏の時代までさかのぼらなければならない。それ以来いわゆる歌謡曲にはほとんどなじみがない。カラオケが流行りだした頃には、元歌を知らないけれど他の人が歌うのでなんとなく覚えた。ひどく酔っぱらうと河島英吾を歌う人が多くなる。本人の歌を聴いたのは、彼が死んだあとだった。
 しかしながらJ-POPという呼称だけはなんとなく知っていた。中国に行っていたころに、割合日本の歌に人気があることも知った。僕が日本人だからそういう話題になるというのはあるかもしれないが、確かに中国の歌謡曲のようなものは、一昔前の日本のそれになんとくなく似ているアレンジのようにも思えた。
 そういう感覚は、ある意味で日本にいる時も感じていた。日本には、例えば筒美京平という作曲家がいて、彼の作る曲のアレンジは、たとえば米国で流行った歌の一年後のようなものが多かった。いわゆる「なんだ、パクリじゃん」という後ろめたさが歌謡曲を聞く上ではついて回った。
 最近のことは知らないとはいえ、ビジュアル系といわれるグループがいるのも歌謡曲から足の遠くなった原因かもしれない。曲がよければいいんだから見た目は関係ないではないか。そんなような気分があるのかもしれない。アイドルといわれる人の曲でいいなあと思ったのは薬師丸ひろ子ぐらいかもしれない。まあ、あれはものすごい社会現象だったわけだが…。
 もちろん僕が聞く洋楽ロックバンドも最初はかっこいいという感覚があったことは確かだ。西洋人の顔の良し悪しはよく分からないところがあって、たとえば金髪で長髪なら、なんとなくかっこいいように思えたのかもしれない。しかしながら目というのはすぐに肥えてくるというか、見慣れるとその良しあしは簡単にわかるようにはなる。個性的と言えば聞こえはいいが、ロックバンドの人間は、あんがいビジュアル的にはカッコ悪い人が多いようだ。しかしそれはある程度は当然のことで、五輪真弓は実力があるから売れたのである(ある意味で失礼しました)。音楽的才能を重視すると、美的には二の次になる方がまっとうな社会ではないか。
 しかし米国の歌手はそれなりにきれいな人が多いようで、本来の実力とは違うものが求められる社会かもしれない。ハリウッドの俳優と英国映画の俳優ではかなり美的に差があるように、米国社会は表面的な見た目を大切にするためだろう。日本もそういう社会になりつつあるけれど。
 さて、僕はそういうロックの世界の実力主義というかオリジナリティについては、やはり洋楽に一日の長があるという考えを持っていたのかもしれない。所詮日本は真似しているだけではないか。それなら元になっているほうを聞いていた方がいい。
 ヒットチャートにはあまり興味はないが、新しいものも古いものもそんなに気にせずに聞いているとは思う。昔に比べると、確かにいろんな変遷はあって、ずいぶん変わってきたようにも思うし、同じような繰り返しがあることもわかる。黒人のものだけは意味が分からなければ聞けないものが多くなって疎くなったけれど、確かにロックという形はそんなに変わっていないような気がする。当たり前だが、ロックという土台の上に繰り返しコピーがなされ、時間が重なっているのであろう。
 いや、あんがい西洋人という人たちは頑固なもので、いつも新しいものを生み出しているように見えて一つの型からはみ出すことを嫌っているのではないか。クラッシック音楽は現役バリバリだし、ロックの音も実はメロディラインはビートルズだったりする。僕が好ましいと思っていたオリジナリティっていったい何だろう。
そんなことを思うことはあったのだが、どこか進化し続けているような感覚も同時に持っていて、新しいものは生み出され続けていると思っていたようである。
 しかしある記事でメガデスという米国のヘビメタバンドの元ギタリストであるマーティ・フリードマンという人のインタビューを読んでちょっとびっくりしてしまった。日本のJ-POPこそ何でもありのオリジナリティがあるというのである。米国の音楽は、例えばメタルであればメタルの要素だけで、いわゆるのりを超えない。僕から見るとそんなこともない気もするが、そうであるらしい。日本にはそういう制限は全くなくて、アイドルでもロックやらジャズやら何からでもアレンジにとりいれてしまう。そして歌手でもうまいだけでなく、その個性に応じた曲を巧みに使い分けているらしい。向こうの人は声が高いとか太いとかロックに求められた要素で抜きんでない限り受け入れられない。日本は全く自由なんだとか。
 確かに日本の工業製品においても、アイディアはパクリであるとか馬鹿にされ続けていたけれど、実は絶え間ない工夫のこらされた見事にオリジナリティにあふれるものだからこそ競争に勝ってきたのだといわれている。西洋人にはとてもまねのできない発想の自由さが、もの作りに生かされていることが何より大きいのだという話は聞いたことがある。まさかJ-POPもそうだったなんて気付かなかった。
 しかしながらよく調べると、マーティという人は異常なほど日本通というか日本びいきのところがあるので少し差し引く必要はありそうだが…。
 西洋人から認められないと自国の独自性を認められないのも日本の悪い癖だが、まあ、確かに気付かされたということではある。だからJ-POPが面白いかというと全然そんなことはないけれど、それはやはり趣向性であるのと、僕も年をとって頑固になったのだろう。すでにロックぐらいしか安心して聴けなくなっているのかもしれない。
 まあしかし日本においてはこれぐらいのことは指摘しておかないと、やはり欧米崇拝という意識は消えないものかもしれないとは思う。もちろんきっかけにおいて僕の中にもそれはあったことだろう。今もあるのかもしれない。そういう発想の上での制限というか不自由さはなかなか取りはらえないものだけれど、気づいた人から考えることはできるだろう。ロックの話からまた飛んでしまうようだが、実は中国のチベット問題でも同じような印象を受ける。
 日本の報道の限りでは表面的な非難にとどまる底の浅いものが多いけれど、先に紹介したこともあるとおり、中国国内においてはそれなりに議論が進んでいるようである。人種によって差別意識があるせいで、自由に中国人が非難されているという側面は確かにあるだろう。中国人の多くはそれを感じ取って過剰に反応しているのかもしれない。政府があおって民衆を誘導しているという見方は本当なのだろうか。もちろんきっかけは中国政府にあると言い切ってしまって思考停止するのではなく、そういうことにも目を向けるべきだろう。中国国内では一方的に反応して反抗しているだけではないようである。中国人である自分たちもチベットに対してそのような感情を持っているではないか。西欧の対応の凄まじさを見て、そういう自覚を中国人自身が持たなければならないという内省を促す意見が見られていた。西欧の対応にそれなりに冷静になって考えて議論している人たちもいるということだ。少なくとも単純に民主主義や人権意識が足りないということではないらしいのである。
 まあしかし偏見というのはなかなか厄介である。わかっていてもなかなか取り払えるものではない。自分自身にそういう傾向があって偏見で物事を考えているにもかかわらず、偏見を持っているとそれすら気付かないのである。好みや趣向性でさえそういう意識の前提で左右されかねないことを考えると、自分自身の主体性がなんであるかということ自体がかなり疑わしいことのように思える。段々ややこしくなってきたけれど、人間のややこしさは自分自身で簡単に解けないことにもありそうだ。またロックでも聴きながら考えることにしよう。
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自分との折り合いはどこか

2008-04-21 | 雑記
 土曜日にサッカーをしたのでひどく筋肉痛である。芝のグラウンド(サッカーの場合ピッチというんだっけ)で気持ち良かったけれど、あんなに広かったんだっけと思うぐらい体力的につらかった。最後にはPKで見事に外してしまうオマケ付き。後で夢にまで見るぐらい後悔してます。ごめんなさい。
 そういうわけでからだ中痛くてしょうがないのだけれど、不思議なものでなんとなく体をもっと動かしたい欲求のようなものが湧いてきている。散歩中ジョギングしている人を見ると、なんとなく走りたいような気分になるのだ。僕は中学時代は長距離選手で、学校で七番目ぐらいには早かった(市内の大会でも七位だった)のだが、実は走るのは好きではなかった。つらくなると何でこんな目にあわなくてはならないのだと、自問しながら後悔していた。いつか大人になって走らなくてもよくなる日が待ち遠しかった。そんな僕が、(今はまだ走っていないにせよ)走りたいなどと思うなんて本当にどうかしていると思う。しかしたぶんサッカーで走っていると、つらいのだけど楽しいのは確かで、そして基本の体力がもっとあったら、もっと楽しいだろうということはよくわかっていて、そうしてジョギングなどをしてみたくなっているに違いないと思う。せっかく走ってボールにおいついても、疲れてボールに足がもつれてしまう。蹴ったボールにうまくヒットしない。目が悪いせいも少しあるだろうけど、年のせいももっとあるだろうけど、もっと走ることができるようになれば、僕の欲求は満たされるのではないか。そういうはかない夢のような気分が、僕にジョギングをさせたくなっているのだろう。
 しかし、とやっぱり思うのは、やる前からそういう動機は続かないだろうと思う所為だ。第一僕が走っている姿は、やはりどうにもカッコ悪い。せっかく走りだしても、短時間でへばるに違いないのが恐ろしい。また、もう少し体重が落ちてからでないと、負担も大き過ぎるような気がする。つらい思いを続けているのは、精神的にも悪いことなのではないか。
 やっぱり散歩にしとこうと歩きながら考えた。今までも走ってこなかったのにはわけがあるのだろう。サッカーも引退時なのかもしれない。僕は半強制でなければ、持続系は続けられないことも知っている。自分だけのためだったら、自分自身を強制できない。
 そういえば、精神力を強くしようと思ったら、まずは体力をつけることだとK平先輩がいってたよなあ。体力がついたら、もっと凄いことをしようという気分に容易になるんだとか。精神力は、自分の体力に比例するということか。やる前からあきらめる精神性しか僕の体力はなくなってしまったのだろうか。万歩計の目標歩数を少し上げることからにしてみよう。それが僕自身との妥協点かもわからない。
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すでに全体主義の芽生え

2008-04-18 | 雑記
 煙草の自販機の販売について規制しようという動きは根強いようだ。未成年者の喫煙防止のためだということも聞いている。そういう背景を元にタスポという成人識別カードの導入がきまったようである。僕は成人なのでカードを作ろうかとも思ったが、いろいろと手続きが面倒なようだ。写真とか身分証とかを送って二週間だか判定を待ってカードを手にすることができるという。譲渡などを防止するという意味もあるのだろう。カードを作ること自体は無料のようだが、実質上買う権利のある特殊なカードである以上、売買の価値は出てこよう。相対的に煙草自体の価値も上がると思われ、特に未成年者で喫煙を好む人は、大変なコストをかけて煙草を吸うことになるだろう。不良も大変な時代である。
 自販機を導入するには販売店に大きな負担が出てくるが、これも規制対象で、導入しなければ営業停止処分などの処置がとられるのだとか。規制緩和の時代にすごいものだ。自販機メーカーとの癒着は間違いのないところだろう。というか、ファシズム国家日本の恐ろしいところだ。平均年齢を下げるほどの自殺者が増えるのも無理のないところだろう。健康か死か。極端な選択である。
 だが実際のところ、コンビニなどでまとめ買いをする人が増えているそうで、そういう小売店の売上はかなり伸びたようである。自販機メーカーは完全に失敗しましたね。世界に名だたる省エネ環境問題の優等生だったのに、行政と手を組んだツケは大きいのである。また、コンビニなどの大手の企業はもうかるが、街角の煙草屋さんの多くはかなりの打撃を受けたに違いない。ほとんどは高齢の事業者が多かったようだが、これを機に続々と廃業するのではないか。年金不安の時代にお気の毒である。全体的な売り上げが落ちると国内の農家への打撃も大きいだろう。結局海外の頼ることになるので、ますます農業は衰退する。田畑の保全も難しくなろう。結局無駄な補助金の根拠にもつながっていくのだろう。
 煙草への攻撃はこれだけにとどまらない。税金を順次上げていって、最終的には1000円程度の販売価格まで上げようという動きがあるという。これは税金という性質を超えた懲罰のような考え方である。社会的な拷問ということだろう。かなりサディスティックな嗜好の人が多くなったものである。まあ、異常性のある人に自覚は無いのかもしれないが…。
 しかしながらこれだけがんじがらめの規制が強まると、逆に規制される方は先鋭化していかざるを得なくなる。禁酒法の時代のアメリカを知らないか。凶悪なものが最終的にはさらに凶悪化されていくのは必然である。海外からも物品は入ってくるので、実質上煙草は麻薬化していくことだろう。煙草のニコチンは精神的な依存も大きいだろうが、基本的には中毒という精神的にはどうにもならない依存がある。意志の問題で解決が難しいから禁煙が難しいのである。病人に鞭打つのはサディストには快感なのかもしれないが、普通の人間には醜悪にすぎるだけのことである。無自覚なファシストの流れは、これだけ社会を病的に蝕んでしまったのだろう。すでに元には戻れない。病気なのは喫煙者だけではなさそうである。
 まあしかし、未成年者の喫煙については、実際に喫煙している人をどうするかということが一番大事なんじゃないかと思う。これでも吸おうという猛者は、もうどうにもならないかもしれないけれど…。本来教育に必要なのは、そういう根本的な心ではないか。どこかそういう心を置き忘れて、全体思想として完全を求めてしまう。また、時代に流されているだけなのに疑問の余地がなくなり、極端化していく。これが大衆がファシズムに巻き込まれるシステムである。絶対悪は自分の中にもあるという反省なしに、人間性は育たない。そもそも議論の場がないという状態が、すでに異常の始まりなのである。
 煙草を憎んでいる人には僕の文は悪意に満ちて異常に映るだろうが、無自覚になると見えなくなる部分が大きくなるということを知ってもらいたいだけである。誰かの利益は誰かの損になるし、またその逆もある。それでも一方的に世界を変えようとすると、ひずみが大きくならないと表面化しない。そういう小さい段階で何とかなることをむげに摘んでしまいかねないのである。特にモラルのようなものは、規制で何とかするものではない。他人をどうさせるという問題より自分がどうするか。本当に人を見ていないからわからなくなっているだけなのである。
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望ましい渇望

2008-04-17 | 雑記
 子供の春休みに境港に行った折にぜひとも買いたいと思っていた「鬼太郎カレー」であるが、どうしても見つけることが出来なかった。いや、正確には渡辺商店という店先には置いてあったが、この店は閉まっていた。実情を知っているわけではないが、お店の雰囲気からいって、ひょっとして廃業されているのかもしれないという感じだった。目の前にあるのに買えないという気分だけ味わって帰ってきたのだった。
 実はこれにはわけがあって、某大食いタレントのこのカレーへの評価が高かっために人気に火がついたとのことである。昨年から品切れ状態が続いており、いつ入荷できるかも不明とのことである。製造元のコメントでは、「(材料の)牛から探している状態」なんだとか。嘘言ってよそから肉を取り寄せるわけにもいかないのだろう。正直って不便であるが、それでいいとも思う。買う方も楽しみは先延ばしということで、モチベーションを保つべしである。ここを無理すると、また変な具合の事件につながってゆくのだろう。
 しかし、確かに今はこらえることができない時代にはなっているようには思う。便利になってそれは大変にいい時代ではあると思う半面、辛抱とか我慢という必要がないのだから、当然教育だってむつかしい時代だとはいえるのではないか。我慢の必要がないのに我慢を教える必要があるのか、というような状況といってよい。ものを大切に使うということを教えようにも、買い換えたほうがコストも安く環境にも(かえって)良い。というのが現実なのだから難しいものである。リサイクルすればするだけ環境には負荷か掛かるというのが、日本の置かれている経済状況なのだ。子供にものを大切にするなんてことを理解させるには、不便になるより仕方がないようである。
 そういう状況であるから、今からインフレというかスタグフレーションに陥ってくると、教育上は好ましい状況になっていくのだろうか。円高でも給与は上がらずモノの値段が上がるのであれば、自然と我慢しなければ生活できなくなるだろう。これって実は多くの人が望んでいた状況に近くなっているということになるんじゃないか。暗い将来性の方が現在望んだものであるという皮肉であるというだけである。ま、そういう皮肉さえ多くの人にはわからんだろうけど…。
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失敗が足りない

2008-04-16 | 雑記
 天候が悪いけれど、新しく植えた桜の木にはいいようだ。何しろ水をジャカジャカやるように言われていたのだけれど、どの程度がジャカジャカなのかよくわからない。自然の雨なら分からないなりにジャカジャカだと思われるので、安心といえば安心だ。また加えて水やりする必要などないだろうから忘れていられるだけでも助かる。また、水やりのためにホースを継ぎ足す必要もあったようで、とどかないところにはバケツで水やりをしなければならなかった。はっきり言って重いし、かなりわずらわしいのである。雨ってそういう重たい水が勝手に空から落ちてくるわけで、確かに恵みということなのかもしれないな、と思う。植物と付き合うと自然に感謝したくなるのである。

 事務仕事があれこれあって、まさにあれこれしていたのだが、なかなかはかどらない。一つの事から関連したことをやればいいのだが、いちいち違う案件が持ち上がって、優先をはっきりさせなかったからである。資料を集めてからまとめてだとか、ついそのように考えてしまう。中途半端でも進めるという姿勢を忘れていた。壁にぶち当たってから方向を変えるべきであった。

 グリーンランドという氷に覆われた島があるが、温暖であった10世紀ぐらいには本当に緑の島だったという。段々と地球が寒くなって氷の島になってしまった。寒くなると人間が住めなくなるので環境にはいい島かもしれないな、とは思う。

 作業打ち合わせとか、合間合間に小さな会議のようなものもこなす。以前(ちょっとまえまで)と比べて、それなりに活発な意見が出るようになっているように思う。発想的に自由になったというか、少しそれぞれの担当の意識が向上しているのかもしれない。理由は何かと考えると、受け身の姿勢が少なくなったことだろう。意図的に問題点(実行できない理由)から発想しないようにしてもらっている。ダメな理由はたくさん思いつくが、いいという理由はしぼらなければにじみ出ないものである。ちょっと面白いかも、という程度から出発して、会議の後に問題点にあたればいいのではないか。危険なことは困るが、やってみてから修正すればいいだけである。結果的に全く違うものが出来上がったとしても、結果がすべてではない。悠長なことばかり言っていられないとは正直思うけれど、ほんのちょっとの成功だけでいいのかもしれないとも考えている。本当に理解してもらうまでもう少しというところ。これもまだまだ失敗が足りないせいだろう。

 仕事であちこちの部屋にわたってお世話をしていると、いつの間にか万歩計の歩数が伸びている。パソコン騒動で紛失してしまった過去のデータを別にすると、最近では一番多く歩いた日となった。久しぶりに休肝日にもなり、強引に健康的な一日になった。酒を飲んでないので寝られるか大変に不安だったが、疲れたのか布団に入ってしばらくするといつのまにか寝ていた。夜中に何度も目覚めてしまったにせよ、まずまずの睡眠を確保できた。なんとなく仕事というより修行のような感覚があるが、たまにはそれもいいだろう。僕はまだまだ修行が足りないことは確かなのである。
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共産党の勝利

2008-04-15 | 時事
 新聞読んでたら、「車椅子の天使」だって。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/asa8043/article/393 
なるほどこういう逆襲反応だと、中国国内的には完全に西側諸国の負けである。日本のクジラもシー・シェパードには勝っているけどね。
 
ところが、これは単なる小手先の流れなんかではなさそうなところが興味深い。現在では完全に共産党の勝ちだって言われてピンとくる人は少ないだろう。
http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/542995/
 いろいろあるにせよ、ネット社会になって、中国の方が日本よりマシなんではないかということも考えさせられる。統制の利く時代はとうに終焉している。一部の方向として面白くないところもないではないけれど、ちょっとだけ見直したりもした次第。
僕らは面白い立ち位置で時代を眺めることができるようになった。テレビを見ているだけでは、遅れていくばかりである。
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実は税制の違いなのでは

2008-04-14 | 雑記
 日曜の新聞で書評を読んでいると、トヨタの米国の工場では組合がなかなか能力給に応じないのに対して、日本だと技術の習得にしたがい給与に差が出やすいという意外な事実がわかるのだとか。一般の常識というか、認識と違うものがあるらしいということであるようだ。
 よく一般に日本では能力給を認めないということがいわれるが、抵抗しているのは確かに組合などの労働サイドの影響の方が大きいのかもしれない。正規採用が減ったというが、組合が正規社員の待遇を守ために会社に圧力をかけすぎるためだという指摘もある。自らの既得権益を守ろうとする労働者の行動が、ますますの格差への弾みとなっていくのは皮肉な限りだ。
 しかし一律公平に見える公務員だって、よく見ると給与格差はかなり大きいといえる。天下り制度を見てもわかるように、上の人間ほどうま味があることは明白で、日本という国は普通に能力給になりやすい国なのかもしれない。まあ、キャリアなどが公平な能力であるかは限りなく疑問だが…。
 しかしながら社長と平社員の給与差でみると、米国などよりはるかに格差は少ない。日本は平均するとせいぜい10倍から12倍といったところだろうが、米国などは40倍などというのはざららしい。
 思うに税制の関係で稼ぎすぎても大変なので、上すぎる人間の給与は米国に比べると驚くほど低くなってしまうということになるのではないか。その上もらい過ぎるという感覚がない米国の方が、どうかしているに過ぎない気もする。
 しかし、給与で支給されない分の金を、会社の経費として使うということも考えられる。米国のパーティなどは社長主催のものなども多いと聞く。日本だと経費でなければとてもそんなことはしないだろう。花見だとか歓送迎会だとか、福利厚生経費で賄えるというのは、税制上の防御策というより個人裁量のインセンティブではなかろうか。全員参加条件が生まれるのも、このような背景的圧力だろう。
 税金の仕組みとして現在が適正かというと疑問に思う人も多いだろう。ある程度の累進性は公平であることは認めるが、防御策としてこのような権力が生まれるのであれば、日本の会社の閉鎖性も国指導の行き過ぎによる防御とも考えられる。
 個人消費が何より景気に影響が大きいことを思うと、所得税は減税して消費税へシフトすることは必然的な流れとなるのだろう。それはあくまで所得税の減額が前提であって、消費税のみを上げるというのでは、絶対に認めてはならない。ヤクザなど税金を払わない一定の人からも公平に税金を納めてもらえる。誠実な人に報いる税制ということは、所得税での対応には限界がある。もちろん、もらい過ぎにはある程度の累進を残すべきだが…。
 手当など個人能力と関係のない所得はどんどん削られるのは公平だと思うが、その分全体の所得が伸びないのであれば意味がない。手当という形でなく本給を伸ばすという手だてが何より大切な考え方だろう。しかしながら、例えば通勤手当は免税なので、ガソリン価格の高騰を思うと、交通経費を多く計上してもらえる方が個人としては大変に助かるわけである。そういう細かいものが多すぎるために、様々なすり替え議論が生まれることにもつながってしまう。複雑な税制はできるだけ平明に公平にしてほしいものだ。目的税などの税制の抜本的な見直しがなければ、たんなる増税には誰も応じないというのはまっとうな感覚ではないか。
 税を納めることにもそれなりの正当性と満足感を提供できない感覚では、国の運営ができなくなっているという時代になったのではないか。これは財務省の役割なのか政治家の役割なのか、答えは明白ではあるまいか。
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