カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

早く終わって欲しい一日

2007-01-31 | 雑記

 ある種の陰謀にはめられて、遅くまでというか、朝早くまで痛飲。
 僕は時計をもっていないし、入ったところが時計のない店であった。妙に玄人くさい人たちが集まってくるものだと思ってはいた。彼女らは仕事が終わって飲みにきているのであろうから、朝まで飲むのが当たり前なのだろう。もちろん別に付き合っていたわけではないけれど、どうしてみんな帰らないのかとは思っていた。正直にかえりたいといってもよかったのかもしれないが、僕が一番の若輩者である。現実的な封建社会において忠実な教育を受けており、とても言い出せるものではない。その上、最初の頃は宴会やって、二次会やって、三次会過ぎて四次会だったので、ビールに日本酒・焼酎・ウイスキー・ブランデーのちゃんぽんは制覇してしまっていた。ちゃんぽんはよくないというが、酒を混ぜると悪酔いするという説は間違いであろうと思う。単に量を飲んでいると普通は酔っ払うだけである。ちゃんぽんするためには量を既にこなしているのである。悪酔いするのは実に合理的に当たり前の結果である。飲んで気持ちがいいというより、かなりやけくそな気持ちになっていたように感じないではない。酔ってなくてもやけくそなので、別にそれは僕自身の異常な状態ではないが、体力的につらいことにはかわりがない。
 店を出ると、既にタクシーさえ動いていないようだ。何とか先輩が代行をつかまえたので、だいたいの方向まで乗せていってもらって、てくてく坂道を歩いて帰る。散歩するならなんでもない距離だが、寒くて長い道のりのように感じた。距離感は精神的なものである。マラソン選手は35キロ過ぎから本当のレースが始まるといわれる。大変なんだろうな、とお気の毒である。
 帰ってくると玄関脇のポストには既に新聞が配達されていた。新聞を少し読んでから寝ると、信じられないくらい早く本当の朝がやってきた。
 こういう日は不思議と変わった仕事がやってきて、いつもと違うペースである。変な高揚感と、どうしようもない疲労感が交錯し、自分が自分で無いようだ。まあ、いつもがちゃんとした自分だという自信もないのだが…。とにかく早く一日が終わって欲しいと祈るだけである。
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のんのんばあとオレ

2007-01-30 | 読書
のんのんばあとオレ/水木しげる著(講談社漫画文庫)

 今日の新聞を見ると、この漫画がなんかの賞を取ったらしい(家で読んだので忘れた)。本棚を見ると持っているようなので読んでみると、これがものすごい名作だった。オイラ本当に感動してしまってなんども泣いてしまった。まったく涙無しには読めない。そしてそれ以上に笑ったりもした。本当に可笑しい。こんなに面白い話を書く人であったのか。
 僕は境港の町にはなぜだか行ったことがあって、通りに妖怪のブロンズ像がたくさんあって、なんのこっちゃと思ったりした。もちろん水木しげるはよく知っている。いわゆる「ゲゲゲの鬼太郎」が有名だが、戦争で片手になった漫画家だということもなんとなく知っている。岡本太郎のような変人奇人だという噂も聞いたことがあるが、あんがいいい人であるという噂も聞いた。というか最近呉智英を続けて読んでいて、水木しげるを再認識した。
 正直に言って、テレビで知っているほど漫画を読んだ覚えはない。子供のころに何かの雑誌で読んだ覚えもないので、有名なくせにちゃんと漫画をかいていたのだろうか。既に子供には分からない漫画を書いていたのだろうか。
 しかし、これは紛れもない子供の世界であるようにも思われる。しかし感動するのはやはりある程度の大人ではないかとも思われる。偏見があるとなかなか難しい漫画である。偏見の少ない大人は少ないので、さらに水木作品は難しくなっている可能性がある。
 それでも「のんのんばあ」は理解されやすい作品ではある。非常に厳しい面と哲学的な面が上手く表現されていて、ちゃんと面白いという味付けは、奇跡的である。
 ばあさん自体がなにより素晴らしいが、お父さんだって素晴らしい。大人としてはかなり怪しい人ではあるけれど、このように子供に愛される人であるのは羨ましい。子供から見た大人の鑑なのではあるまいか。
 この話はファンタジーであるけれど、真実の話だと思う。子供の世界は真実がなければ誰も相手にしない。いまさらながらに、そのように思ったのである。
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日記はむつかしいか

2007-01-30 | 雑記
 子供の宿題なのか、日記を書かなくてはならないらしい。「そうか、それはむつかしいね」というと「このあいだは簡単といってたじゃないか」と言われる。日記は僕にとっては簡単なことであったが、勉強として書くのはむつかしいのではないかと思ったのだけれど、上手く言えなかった。
 ブログもそうなのだけれど、日記は人にみてもらうものとそうでないものはやはり違うものだろう。有名な「アンネの日記」などは、なんども推敲した跡が見られるという。ああいう特殊な状況にあって、発見されることを意識して書いたという少女の心情はどんなものであったのか。
 学校で日記を書かせるのは、たぶん練習のつもりで文章を書かせたいためだろうが、書いたかどうだか先生が見るのであれば、やはりそれなりによそ行きになろう。日記といってもメモ程度に残す方法もあるし、記号であっても本来はかまわない。絵でもスケッチでもよかろう。しかしそういうものを先生は求めてはいまい。
 そうかといって意識して書いているから読む人を感心させたり面白がらせたりできるかといえば、必ずしもそうではない。多くの有名な日記は、恐らく読まれることを前提に書かれているらしいが、そうでない日記の方が面白い場合もあろうかと思う。それは単に興味の問題かもしれないけれど、記録としての機能を問えば、文学的要素がない場合の方が重宝するはずである。物の値段など市井の生活を顧みる場合、日記をせっせと発掘している学者も多いようだ。残念ながら日本では紙が高価なものであったので、なかなか記録が少ないようで、結局昔の生活は上流階級のものしか良くは分からないらしい。
 まあ、そういうわけで、いろんな意味のある日記であるが、文章修練というものであるならば、日記というものは必ずしも適当な手法なのではない気がする。

 政治家などが失言したりすると報道が喜んで非難するけれど、公人というのは大変なものである。人というのは政治家に限らず、場所によって話す内容を変えるものである。ホンネであるとか、いろいろな見方があるのだろうけれど、恐らくそこにいる人たちに向かって内容を選択した結果であるのは間違いがない。
 よく失言というものがなされた場合の状況を仔細に調べてみると、文意としては必ずしも失言なのか疑問に感じる場合も多い。差別語などもそうだが、揚げ足で喜んでいる場合がほとんどではないか。
 石原慎太郎みたいに意識的に煽っている人は別にして、その場の人がそういう発言を引き出した可能性はないのだろうか。言った本人も悪いのかもしれないが、言わせた誰かがいるのではないか。
 時々サービス精神を出した結果、過剰な反応を頂戴したりする。反応があったということに僕はそれなりの評価をしたいが、世間というのは違うらしい。人が何を考えようと僕は基本的にかまわない。同意できなくとも、かまわない。
 無難な発言に終始する人が政治家になったのでは、この国は終わりであろう。物議をかもし出す議論が増えると、実は捨てたものではない可能性が高い。しかし今はただ単に報道の方に問題があるように思われて、しょうがない域を超えることがないのが残念である。もう少し戦略的にびっくりさせてくれる発言を聞くことができないだろうか。

 実は宿題の日記もそうではないかと思う。先生に読んでもらうことを前提に何を書くか。それは既に自由な課題なのではない。
 日記であれば本来はそういう規制など必要ないはずだが、しかし自由な発想は、世間が許すはずがないであろう。一小学生の発言が注目を集めるはずがないけれど、世間というものは、しかし、そういう前提をもっているものである。世間を勉強させるために日記を書かせているのだとしたら、教育は日本文化の洗脳であろう。まあ、それは現代のニーズなのかもしれないが…。
 ウチの息子がそういう戦略的なことを日記に書くはずはないのだが、日記なんて少なくとも人にホイホイ見せていいものじゃないほうがいいと思う。彼だって、もう少ししたらそういう日記も書くことになるのかもしれないが、引き出しには鍵を掛けることだろう。
 僕は趣味としてはそういうものを見る気はないけれど、ブログなどの魅力の一部は、実はそういうものの発露にある気もする。しかし、「こんなこと書いてもいいの?」というセンセーショナルなものはやっぱり少なくて、ちょっと残念である。まあ、僕だってそういうものは書きたくないけどね。
 自分以外誰も見ない前提の日記は、第三者として、やっぱり見てみたいものなのだろう。先生が趣味として日記を書かせていいないことを祈ることにしよう。
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みんながやりたい気分

2007-01-29 | 雑記
 真央ちゃんの影響じゃないが、ふとスケートはどうかという気になっていた。気がつくと18年ぶりのスケートに行った。
 もちろん子供に滑らせてみたいという気分になったのだが、ものすごく甘い考え方であった。子供どころか、自分に余裕がないのである。こんなに滑ることがむつかしかったなんて驚きである。子供のころにスケートをした経験もあるし、ローラースケートなんかで遊んでいた記憶はある。それで少しは何とかなるような気がしていたのだけれど、まったくどうにもならなかった。あれはいったいなんだったんだろう。自転車とスケートは少し違う体験なんだろうか。派手になんども転んで、ファイトもわかない。上達するような気がまったくしない。
 しかしそれでも子供を見ているとそれなりに楽しい。見事に転びまくってスラップスティック映画のようだ。子供も根性はないから一時間で音をあげた。まあ、それでいい。残念だけど、それでいい。足が痛いというから靴下を脱いで見ると、指にできていた豆がつぶれて皮が剥けていた。格闘していたんだなあ、と思う。また来たいというのだろうか。まあ、言わないだろうな。この子らが高校生ぐらいになって、友達とスケートにでも行くか、というまで、行かないのではないか。僕がそうだったし。

 スケート場にはものすごくたくさんの人が来ていて、盛況でいいと思った。こういう娯楽は寂しいと困る。いや、僕は困らないけれど、寂しいのが嫌である。みんながやりたいことが重なるのは、悪いことではない。多少バランスが悪くなっても、いづれは淘汰される。今の状態がずっと続くとは考えにくいが、寂しくなっていくのは嫌だなあと思う。納豆が売れ残っていくのを見るのは寂しいじゃないか。まあ、それとは関係ないか…。せめて、完全に根絶やしにならないで欲しいと思うばかりである。またしばらくは来ない一人の癖に、そう思う。
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ロートレック荘事件

2007-01-28 | 読書
 小谷野敦の「軟弱者の言い分」新装版文庫(あとがきで更に大爆笑したが、他ももちろん面白い)を読んでいると、クリスティーの「アクロイド殺人事件」には怒ってしまったが、筒井康隆の「ロートレック荘事件」は傑作だと書いてあった。まあそれで読んでみたのだが(アクロイドは読んだことがある。なので今回はロートレックを、という意味)、小谷野の言う意味も途中で分かった。本当に解けたわけではないが、なんとなく分かった。むしろ後でいろいろ考えることがあって、ああ、最後にやられたと思った。まあ、それはいい。それで佐野洋(新潮文庫)の解説を読んで、うーん、と更に考えさせられる。分からないではないが、これは筒井のほうが僕の共感が深い。
 僕は身体障害関係の仕事をしているが、職場にはいろんな人が見学に来る。感想を聞くと、自分は五体満足で幸せだと思ったとか、ハンデを背負った人が自分より頑張っているのに感動したという人が多い。感想なんだから、それはそれでいいのだろう。しかし、正直に言うと、僕はそういう感覚はちょっと複雑な感慨を受ける。障害を背負った人は、他の人のために障害を負ったのだろうか。庇護をもらうことが幸せなのだろうか。
 もちろん、現実問題として、皮肉を言うことが僕の本心ではない。それでも多くの人に率直に現実を見てもらったほうがいいと思う。
 不幸な現実は、僕らが五体満足だから比較としてあるのだろうか。しかし同時に確かに切実だ。人を殺すのは(この場合小説の話なのだが)許されることではないが、偏見を前に殺してしまうという理解も必要なんじゃないかと、乱暴ながら僕は思う。しかし死んでしまうと取り返しはつかない。その前に何とかしなければ。それも、ある意味で僕の役割なのかもしれないと思ったりするのである。
 僕はハンデを負った人を目の前にして幸せを感じない社会を目的に仕事をしようと思っている。
 やっぱり皮肉っぽいな。もう寝よう。
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ま、年はとるわな

2007-01-28 | 雑記
 諫早で拡大研修の委員会。いろいろあるけど、いい感じだったと思います。特に諫早のメンバーにはお世話になりました。集まってくれた各々のメンバーにも大変に感謝。いいキャラ揃ってるね。頼もしいです。
 Wナベ委員長が伝説の大ファール男だとは今まで気づかなかったよ。僕はテレビ以外であんな大飛球は後にも先にもあれしかタイムリーでは見たことが無い。ジョギングしていた高校球児が、思わず立ち止まったほどのインパクトは凄かった。いやあ、あの人だったんだ。スターとともに一年頑張るんだね。今度はちゃんとスタンドに運んでやろうじゃないですか。いや、ファールだから矜持もあるんだけどね。ま、それは別の話。
 T橋委員長とは前から面識あるんだけど、面と向かって話したことって無かったのかもしれない。これもなんとなく出会いを感じます。意外と古いんですよ、人の微妙な関係って。諫早ってやっぱり近いんだろうね。そんな夜でした。
 面白くなりそうでとにかくよかった。こんな関係が始まるから単年度っていいのかもしれないですね。今になってやっとそう思うんだけど、ちょっと遅すぎたな。だからラストって特別なのかもしれない。丸くなって終わったりはしないけど、大人にはならなければならないようです。
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停電と嵐

2007-01-27 | 雑記
 風邪をこじらせたらしくどんどん具合が悪くなっていくのが分かる。くしゃみが出て、鼻水が大量に生産される感じである。ひとつティッシュの箱を空にすると、鼻の周りと上唇が痛くなる。やっとあきらめて薬を飲むと、目の周りが重たい感じもする。断続的睡魔に襲われ、はっと我に返ったりする。
 外は嵐である。木々の葉が舞い散り(笹の葉も多いな)ゴーウ、ゴーウというざわめきが聞こえる。何でこんなに怒っているのだろう、となんだか恐ろしくなるような自然の変貌である。
 そういえば昼前に長い時間停電していて、事務所や廊下が薄暗くなり、気温が急激に下がるような気がした。雷が落ちたようだと聞いたが、僕には分からなかった。信号さえ停電で消えており、車も戸惑うようにノロノロ進んでいた。急に世界が変化したような不思議な感覚だった。
 客があって、僕と話すのが気の毒そうにしている。用事があるので来ているが、僕の状態が悪いので僕のほうも気の毒に思う。お互いになんとなく遠慮がちに話を進めて、無事にことを終える。お互いに分かれるのが本当にホッとするような、ささやかな開放感である。

 家で生姜湯を飲む。温まって気持ちがいい。しかしながら飲み終わっても、おろした生姜がどうしても残る。再度白湯をたして飲む。薄くはなるが二度美味しい。
いつの間にか湯たんぽも新しくなっていて、足元も暖かかった。

 早目が効いたのか、熱は上がらなかったようである。雨にはなったが、嵐は去ったようである。雨がやんだら、落ち葉をどうにかしなくては、と思う。
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読売ウイークリーを探せ

2007-01-26 | 雑記
 何故かここ数日「読売ウイークリー」を探し回っていたが、見つからない。というか売ってない。最初は本屋を見てまわるが、改めて思うに本屋自体の数が少ない。少ないくせに点在している場所の距離が遠い。全部まわるには車でも時間がかかる。
 雑誌というのは有るか無いか意外と分かりにくいもので、他の雑誌の陰に隠れているのではないか、などとめくってみたりして、確認が煩わしい。それで、結局見つからないので無いのであろう。
 しかしながら、せっかくという意識があるのであろう。なんとなく目に留まった文庫本などを数冊ついでに買ってしまって散財する。目的外支出である。
 コンビニも見て回る。コンビニも出張中に入ると面白いが、雑誌を探す時にはなんとなく気が引ける。他には何にも欲しいものはないから、見つからなければ手ぶらで出なくてはならない。店員が「ありがとうございました」と声をかけてくるので、ありがたがられることが申し訳ない。なんとなくしかめっ面になって深刻そうに出てゆく。愉快そうに出て行くのも気が引けるのだ。もちろん愉快ですらないが…。
 つれあいとも一緒になって何件か探す。車で待っていてもらうと、大抵のコンビニの雑誌コーナーは駐車スペース側の窓側になっているので、窓からしかめっ面で合図したりする。できれば西洋人のように両手のひらを上に向けて顔をしかめてみると格好がつくのであろうが、僕はこころもち小さく首を振る程度の仕草にとどめた。何事も控えめなのが日本人の美徳なのである。
 せっかく車で待たせているのであるから、今回は手ぶらでなくて「肉まんでもどうか」という気になって、手話っぽいしぐさで合図を送っていると、お隣で婦人雑誌を立ち読みしていたお姉さんがジロリと見るので恥ずかしくなって足早に店外へ逃げた。ジェスチャーで「肉まん」はあんがい難しい。
 さて、この雑誌自体はどこかで見た記憶があるが、はて、どこであったか。空港で見たんだっけ? 先の京都でのことであったなら、取り返しがつくことではない。そのためだけに京都会議はやり直せない。ネットで買おうかとも思ったが、買い方が今ひとつ分からない。定期購読なら可能なのだろうか。
 読者層がどういうものなのかもよく分からない。そういえばやはり出張中にどこかのホテルの中で読んだことがあるきりで、地元でこの雑誌を読んだ記憶がない。
 長崎に用があって、帰りに大きめの本屋に寄る。すると一冊だけ置いてあった。さすが紀伊国屋書店。僕はこの書店の新宿店に初めてはいったときの感動を忘れない。就職は東京にしようとまで考えたが、夢は叶わなかった。しかしながらあの程度の規模の本屋は、今ではどこの都市でも見られるようになった。昔日の感が改めてする。
 雑誌だけ買うと駐車料金がもったいないような気がしたので、ついでに数冊の本も買ったが、二千円以上で無いと駐車料金がタダにならない。よく考えると散財のようにも思えるが、買ってしまったものは仕方がない。
 そうやってやっと買うことができた「読売ウイークリー」なのだが、何で探していたのか、理由をいつの間にか忘れてしまった。茂木さんや小田嶋さんの記事があったから彼らの記事を探していたものだったのか、硫黄島の記事もあったのでこのことであったのか、とにかく判然としない。
 あくまで個人的な感想であるが、まあ、アエラよりは公平で読みやすいのかもしれないな、と思った。
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給食費未納問題

2007-01-25 | 時事
 給食費未納問題というのがある。報道されているので周知と思うが確認すると(2005年度のデータ)全国で約9万人、小中学生の児童生徒約1パーセント。それだけ聞くと少ないようだが、金額にすると22億3千万円。さらに問題なのはその内容で、「経済的な問題」と見られているのは33パーセントに過ぎず、60パーセントは「保護者の責任感や規範意識の問題」と考えられているところである。平たく言うと「ひどい親もいるもんだ」問題である。しかし平たく言ってみるとなんとなく分かるのだが、これは密かにちょっとだけ怪しい気もするのである。最近の風潮は「ひどい教師もいるもんだ」という話が多い気がする。学校の逆襲ではないか。いまさらながらに調査したのはもちろん文部科学省。「教師だけがひどいんじゃないんだもん。親だってひどいんだもん」問題にしたい誰かがいそうだ。もちろん報道はこういう話が大好きだ。またいじめが始まるゾ。
 そうではあるが「ひどい親」の話ももう少し進める。
 この問題は実は古くて、時効でやり過ごした親も多い(未納の時効は2年らしい)。単年度での未納額であるから累積があると思われる。その影響はちゃんとあって、現実に食材費を抑えて対応されている。献立はエビフライだったけれどイカリングになっていたりだとか、おかずの量が少なくなったりだとか。もちろん給食費を支払っている人の原資において配分するのでそうならざるをえない。学校長が費用を自費で肩代わりしたり、別の資金で補填するケースもあるという。
 そうであるなら、これは明確な詐欺行為であると思う。払っていないせいというより、そういう対応をする給食センターや学校にまず問題があると指摘しておきたい。また、資金の目的外流用であるならさらに問題である。校長の自費であるというのも、その行為自体は犯罪ではないけれど、そういうことを強要される立場の人は不正を働きやすい。明らかに不当なことは犯罪の温床なのである。
 僕は教頭先生に払わない家庭の子供になぜ給食を提供し続けるのか聞いたことがあるが、答えは「食べさせないのはかわいそう」だからであるという。あなたにはそれができますか、と言っているようだった。もちろん僕はできるが黙っていた。話にならない。まあ、正直に言うと目の前に一人だけ食べられない子供がいると自分のをやるだろうけど、いつまでも恒久的に続けるのは勘弁して欲しいと思うだろう。つまり問題を何でいつまでも放っておけるのかということのほうが問題だと思うのである。要するに学校は自分の問題だとは、ホンネでは思っていないのではないか。
 あれ、怒っている方向が少し違うじゃないの、と思う人もいるだろうけれど、僕はもちろんそういう親は問題だと思うのだけれど、あえてやはり学校問題という気がするのである。それにそういう人は既に報道が糾弾キャンペーンをやるだろう。僕の役割ではない。
 その根拠は何であるかというと、未納問題のある学校とない学校のあることである。未納問題のある学校は約半数に上るというが、ない学校が半分もあるのに、何で半分は問題を抱え続けるのだろうか。ここが報道で隠されている。問題のないところはなぜ問題がないのか、そこに実際の答えはないものだろうか。
 自治体によっては少子化対策で給食費を免除する(公費負担)ところもあるらしいが、未納問題ではそもそも違う。中学校などでは給食でないところもあるだろうから、そういうことで問題なし、というのもやはり問題違いである。
 未納問題で気になるのは、未納者攻撃の激しさである。催促すると逆に怒鳴り込まれただの、身なりは豪華なものを着ているだの、未納だった生徒が卒業後すぐに新車のバイクを買っただの、等々。それは問題には違いないが、問題を真剣に考えていないまなざしである。そういう人が本当に多数かといえば、やはり怪しい。そういう人が増えていそうな気がしないではないが、そういう意識に付け込んでもいないだろうか。怒鳴り込むような積極的な人は、恐らくまちでは有名人であるはずだ。
 給食によって何とか栄養を保っている子供もいるという。貧困ではない。家ではまともに飯を食わされていないという意味である。まあ、そうかもしれない、とは僕も思う。しかし、なんとなく怪しいという思いも消えない。敵対する教育問題とは何なんだろうなあ、と、悲しくなるだけである。
 子供を見るために親とも協力することは当たり前のことである。勉強を見ることだけが学校の役割ではないと思う。教師は教育のプロである。問題のある親も含めて教育を考えるのは仕事であろう。以前なら貧困問題だけであったものが、多様化したとも捉えられないだろうか。愚痴なら飲み屋で消化したらいいのだ。
 もともと敵対関係ではないものが敵対するのは、信頼関係がないからであろう。不審を転化することは泥沼化の道であるように思えてならない。もちろん親も悪い。いや、むしろ親の方に問題がある場合の方が多いのかもしれない。しかしそれでも未納者を放置している体質こそ、問題の根源が眠っているように思えてならない。
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卑怯な存在と演じている僕

2007-01-24 | 雑記

 僕自身は匿名というのは基本的に卑怯だと思う。でも匿名じゃないかといわれそうだが、僕自身が卑怯なせいである。まあ、自覚しているという意味で。ネットという世界を勘違いしていて、なんとなく恐ろしげな気がしたので匿名(というか、自分で考えた愛称である)ではじめてしまったというのが実情なのだが、卑怯であることにはかわりがない。プライバシーだとか難しいことをいう人もいるようだが、匿名であるからこそ侵害する可能性のほうが高まると思われる。「2ちゃんねる」の世界がまさにそうで、卑怯者が卑怯な手で騒いでいる。真実をさらすというへんてこな正義感を持っている人もいるようで、卑怯な上に情けない。面白半分は子供であろう。まだ人間にすらなっていない可能性もある。
 匿名でなければ書けないことというのは既に真実ではない。相手が分かるようにするためには、隠し事があっては嘘をはさまなければならなくなる場合が多いからである。特定できることを示すと身元が割れる。少なくとも分かる人にはわかる可能性がある。実名を出し、因果関係を明らかにすることは、誹謗中傷で無い限り、プライバシーの侵害ではなかろう。皇室関係などは公然たる日本人のタブーなので危なそうだとも思われるが(だからといって非難しないのも卑怯ではあるが)、それ以外であれば、特に身の危険を心配することもないだろう。ネット上で暴力的な人が、実際に怖い人であるかどうかも分からない。むしろ違うような気もする。
しかしながら政治家とか芸能人は平気でひどいことを言われたり書かれたりするので、気の毒だとは思う。有名人だからしてもいいことであるというのは、変な勘違いなのではなかろうか。こちらとしては安全で、卑怯であるに過ぎない。彼らは人ではないということなのだろうか。
 実名で書くことで、社会的な抑制がはたらくとも考えられる。少なくとも自分の身元を明かすことは、自制を生むだろう。書いている人物も実名であるからには下手なことを書けない。「このアホが」などと平気書けば、品位を疑われることだろう。たとえ相手が怒らないような親しい間柄であっても、第三者を考えて書くという行為は、必要最小限の品位であろう。新聞記事などでも匿名のものほど攻撃的だが、記名記事は抑制が効いている。ネット上であれば言わずもがなであろう。
 しかしながら安全なことを書いていてもいけないという意識はある。これは上手く表現しにくいのだが、嫌われてナンボという気持ちも必要なのではないか。世の中には勝手に誇張して解釈したり勘違いして怒り出す人が必ずいる。誰とはいわないが、自分の度量が足りないことには気づかず、人を非難したい勝手に偉い人もいる。自分から偉い人なのだから、どうにもならない。で、あるが、そういう人を怖がってはいけないのではないかと思う。お叱りはもっとものこともあるのだろうけれど、簡単に納得してもいけないのではないか。無知や煩わしさや自己規制が、本当に大切なことまで見えなくしてしまう。リスクを負ってこそ、得るものも大きいということでもあるかもしれない。
 まあ、それでも僕はkorin310というのも気に入っている。自分自身であるけれど、ある意味で演じているということなのかもしれない。多重人格である。誰かのブログを真剣に読んでいる人なんていないと誰かのブログに書いてあるのを読んだことがある。人知れずのことなんだから、気楽でいいのである。さらに世渡りには多少の嘘も必要なので、これはこれでいいのである。
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今回は妄想である

2007-01-23 | 時事
 「不二家」と「あるある」納豆のことを思うと、構造的にはよく似ているような気がする。陰に隠れた大衆の無責任ということもあるし、やはりこれで面白がったりすることを利用して商売をしているヤクザな存在があるのだろうという妄想である。ミスタードーナッツが取引業者に6300万円の口止め料を払ったらしいというニュースもあるし、不二家は払わなかったのかもしれない、などとも思う。僕はワイドショーを見ないので聞いた話だが、工場には3秒だとか5秒ルールがあったなどという井戸端会議のような話もあるんだそうである。これはゆするには絶好の材料である。普通の飲食店には当然ある話だし、そういうことがないはずがない(と思う)。許せないという感情も分からないではないが、許せない人はたぶん喜んでいる人の中にたくさんいそうな感じもする。そしてヤクザと連携しているのだろう。段々分かりにくい話になっているが分かりにくく書いているのである。庶民とか大衆とかいうものは、ヤクザの正体ではないだろうか。グリコ・森永事件の時も、他社に裏で便乗恐喝をやる事件が続いた。今回も当然何かアクションを起こしているはずだろうと思う。
 まあ止そう。単なる妄想である。

 止そうといいながら関連する話だが、不二家の商品を探して食べ歩いている人もいるらしい。どこにはまだネクターが売られていたなどという話が飛び交っている。そういう心理もやはり結局は連動したものではないか。僕はヨーグルトを食べるのだが、雪印の時は、正直に言って少し買うのに躊躇した。食うのはたぶん平気だが、平気だとレジの店員に主張している感じが戸惑いを生んだ。自意識過剰である。
 しかしながら今回は小売店が商品自体を撤去している。消費者には選択の自由さえ奪われている。こうした制裁意識は、リスク回避の事なかれ主義の尻尾切りである。大人が子供にいじめのやり方を身をもって教えているのだろう。がんじがらめに縛り付けて長時間いたぶるには、この方法がもっとも有効ないじめ方であろう。「いまだにこんな商品を置いて、なんと不謹慎な」という声を上げてくれるような支持者も少なからずいることだろう。くわばらくわばらである。
 しかしながら不愉快な人は、自分だけ不愉快でいられないのだろうか。ふとそう思ってみただけであるが、人を動かすために不愉快を利用するのはけっこう行動に移しやすいことなのかもしれない。怒りということなのか。アドレナリンは戦いには有効であるらしいから、一人でも戦える。勇気と勘違いしやすいのかもしれない。
 まあこんなことを書き連ねても、結局は僕も便乗しているようなものだ。ご冥福を祈ろう。
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最後の京都会議

2007-01-22 | 雑記
 恐らく(というか、確実に)最後の参加となる京都会議へ行ってきた。これは所属している青年会議所でこれからたびたび話にあがることなので詳細は省略。確か6、7回目ぐらいの参加なのだが、恥ずかしながらセミナーを見たのは初めて。会議場前の庭園は50周ぐらいはしたことがある(暇つぶしに)くせに、まことにあいすいません。そうではあったけれど、かなり爆睡してしまったので、自慢もできません。一部聞いていた内容をどこかで報告いたします。

 翌日は寝坊して、メシ食ってシャワーを浴びて本を読んでゆっくりしていたのだが、ホテルに残っているのは僕とAソウ君だけだという。昨夜はみんなあんまり京都に戻るそぶりを見せていなかったので騙された。というか、携帯電話には着信履歴のあらしが残っている。気づかぬ方がどうかしているのだろう。
 残ったAソウ君にも事情があって、伏見に病気で入院しておられるおじさんの見舞いに行くとのことである。じゃあ京都駅までは一緒だね、ということで移動を始める。
 さて京都駅に着いたのだが、もう式典は終わって写真撮影も終わったとのこと、国際会議場に行く理由が無くなった。僕を待たせるのも気が引ける。仕方ないので行き先が決まってから合流しよう、ということになる。
 Aソウ君は駅から近鉄に乗り換えだというので、乗り場までついていく。別にたいした土地勘は無いが、京都には10回は来ているはずである。伏見には行ったことはないけれど伏見工業の山口監督は泣き虫だということは知っている。ついでだからついていこうという気になった。
 正確にいうと桃山御陵駅のそばに病院があるらしい。鈍行じゃないと停まらないようだ。一人だと暇がいるだろう。少なくとも話し相手にはなるだろう。もちろんほとんど僕が話すことになるのだろうが…。
 悪いからついてこないでもいいとAソウ君は言うけれど、僕は寅次郎のファンである。寅さんなら見舞いに行くべきだというだろう。
 何作目だったか忘れたが、寅次郎は世話になった女将の旦那が死んだと聞いて墓参りを思い立つ。横で満男が「電車の時間に遅れるよ」というと「お前は学校に行っても大切なことは何も分かっていない(大意)」と怒る。僕だって寅さんには怒られたくない。ついていかなくてはならないのである。
 桃山御陵駅からそれなりに歩いて病院にたどり着いた。見知らぬ僕がいたらおじさんも驚くだろうから、待合の椅子で待つ。たいした時間ではなかったが、無事面会は済んだという。少し話ができてよかったとAソウ君も言っている。僕もそれはよかったと思う。
 そういうわけで、京都に来たが、初めて寺に行かなかった。前の日に平安神宮、この日も駅のそばの何とか言う神社にはついでに行ったけれど、寺ではない。仲間と合流したのは東寺だったが、中には入っていない。一味違った京都会議だったのである。

 そのあとみんなと合流して飯を食ったのだが、のぼっちゃんはご飯3杯あっという間に食ってしまった。前の日に肉まんを十ッ個食う話などもしていたようだが、たくさん食う人が身近にいるのはなんだか楽しいものだと思った。高校の頃にカレーの鍋にご飯を入れて食う友人がいたが、懐かしい思い出だ。あいつはいまだに生きているのだろうか。
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スモールワールド

2007-01-19 | 雑記
 前に案内を出したところに再度ファクシミリを送信なければならなくなった。20件ほどなのだが、登録し忘れて再度番号を打ち直さなければならない。Eメールだと勝手に記憶されるから再利用は便利であるが、こういう機械は登録自体をしっかり作業として行わないといけない。操作する側が悪いといえば悪いが、なんとなくひどく不便な気がする。
 不達のレポートもしばらくたってから紙で報告が出る。仕事の合間にたびたび確認していたわけではないから、今朝になってから送られていなかったところがあったことが判明する。通信用紙には日付も入れているので、再送する場合書き直したほうがいいように思えて煩わしい。結局不達だったため再送する旨一文を入れて送信しなおした。
 ファクシミリ自体は大変便利なものであるとは認める。二十年ほど前になるが、ウチの職場に別の事業所(別業界)の人がファクシミリを借りにきていたことがある。貸すほうもなんとなく誇らしいような、そんな機械であった。遠方に速達で書類を送っても間に合わないとか、少し紙資料で確認をしたいというようなとき、革命的に便利になったと感じたものだ。
 しかしながら今となっては手書きのものをどうしても送らなければならないという場合を除いて、ファクシミリは使わなくなってしまった。手書きであってもスキャナーで読み取ればいいので、パソコンに取り込んでメールで送信する場合もボチボチ出てきた。もう少し作業が簡単になると、すべてパソコンということに、もうすぐなりそうな気もする。
 だいたい紙資料というのは、保存や閲覧や思考に用いる場合など、いまだに便利なところもあるが、再利用するのが厄介だ。結局今はパソコンで文章を作るので、送られてきたものを再利用するだけで随分時間が短縮できる。役場からはPDFでくるものが多くてまったく残念だが、それ以外は大変に重宝である。雑用事務仕事は格段に片付きが早くなって、楽しいぐらいである。手書きは間違いにも気を使うし(それがいい面ももちろんあるが)、時間をかけた割りに徒労感も伴う。そういう感覚は個人的には違うものだろうけれど、毎日送られてくる大量の郵便物を前にするだけで、かなり疲れを感じる。

(余談だが、最近レターオープナーを買って、開封するのだけが楽しみだ。さっと開封できて、余分なごみが出ない。最初使ったときは感動して、いろんなものを開封したくてたまらなくなった。これだけの快感をもたらす道具は珍しい。値段もものすごく安い。)

 年配の人と話をしていると、時々いまだにパソコンを使えないということを自嘲気味に自慢する人がいる。つい先日もそういう話があって、その場にいた数人が「実は俺も」と自慢しあっていた。まあ、それはいいといえばいいのだが、既に笑えないことにように思える。少なくともまったく僕には面白い話ではない。思わず遠くを見てしまう。よその仕事にケチをつけるつもりはないが、そういう仕事をされることで、迷惑する場合も多いのである。
 別段僕はパソコンを自在に使えるという自信は無いが、苦労しながら少しづつ会得し、それなりにパソコン無しに仕事をすることが困難になっているとは思う。いいことであるのか悪いことであるのは正直言ってよくわからない。しかしながら、それは今は必要になっている最低条件であると思われる。好みの問題ではないのである。実際ウチの事業所のことで恐縮だが、七十を過ぎた人でもパソコンを普通に使う。基本的に自分(人を使わずという意味で、分からなければ誰かに聞いて覚えてもらうという意味だ)で使うように心がけてもらっている。最初は確かに格闘(死闘といってもよかった)しておられたが、必ず使えるようになる。若い人のためだけに新しく機械は開発されているのではない。
 もちろんそれでも人によっては、パソコンを使えないままでもぜんぜんかまいはしない。僕は恫喝するつもりでいるわけではない。ウェブ2,0の話ではないが、そういう人たちと住む世界を別にしたいだけである。既に一緒に世界を共有できなくなりつつある。そういう感じがしてきたのである。少なくとも仕事の上ではということではあるが、いつの間にか世界は変わってしまったものである。
 まあしかし、人間はパソコンがなくても車がなくても電子レンジがなくても生きていける。それも忘れてはいけないんだろうなあ、とも思う。上手くいえないけれど、やっぱり今が最高にいいとはなかなかいえるものではない。僕らの子供世代は、僕らがまったく使うのに躊躇するようなものを平気で使えるようになっていくのかもしれない。世代を超えた共通ツールは、これからは生まれにくいのかもしれない。みんな一緒というのはどんどん限定された話になっていくのではないだろうか。小さい世界の点在、というのが未来像になるのかもしれないな、などと想像してしまった。
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不二家のおかげ

2007-01-18 | 時事
 仕事の関係で三百万ほどの現金を車の中に置いている。ついでに病院などに寄ったけれど、なんとなく落ち着かない。鍵はちゃんとかけたはずだが、それは確かなことなのか。
 紙袋の中に無造作に入れられている状態であるから、窓から眺めてすぐに中に現金が入っていると分かるものではなかろう。しかし車上あらしというような人にとって、そういうことは関係ないと思う。車にバッグがあるとか、カーステレオが上等だとか、車そのものがよければ盗むという専門家もいるらしい。厳密に開けられない鍵はないというから、防ぐ手立てはない。そう考えると、なぜだか少し安心する。
 この金をくすねるつもりはないのだけれど、これぐらいの現金を自由にできたら、何をしたいだろうかと考える。旅行する。本を買う。飯を食う。ちょっといやらしいことにも使いたくなるかもしれない。だんだんろくでもなくなる気がする。後ろめたい金だと、後ろめたいことに使いたくなるのではないか。
 しかしながら、金があったって、たいして楽しそうでもない。豪華というのは僕には必ずしも面白いことではない。貧乏は悲惨だけれど、滑稽だ。金持ちはなんとなくいやらしい。それは確かに偏見だが、何で金が汚らしい感じをもたらすのだろう。金持ちが悪い人とは限らないし、むしろ貧困が原因で犯罪を犯す人が多いには違いないのに、金を持っている人が善人であるという気がしない。こういうイメージを植えつけられた原因がありそうである。完全にまちがいとはいえないまでも、固定観念は邪魔である。
 本当の金の苦労を知らないからいえることだとは分かっているが、金持ちが必ずしも楽しそうなイメージではないということが、自分にとっては驚きだ。さらにたかが300万で金持ちのイメージだと思っている自分も矮小である。
 ふと不二家の不祥事のことも考える。目先の利益が欲しくてやったことだろうけれど、小さいものが積み重なって会社の危機までに話が大きくなってしまった。もちろんこういうことを許せない気持ちで内部告発した人もいたのだろうけど、その人は結果的に職を失うことになってしまうのではないか。踏み外してしまった代償はあまりに大きい。
 鑑みて自分のことを思うと300万でそういう立場になるわけにはいかない。家族は巻き添えにできない。もちろん事業所でも影響があるだろう。生活の基盤というのは犯罪抑止力になるらしい。不祥事をおこす会社は、まずは隠蔽できるという思いだろうが、もしばれた時にどのような事態になるかの想像力の欠如ではないか。金を盗まなければ殺されるとか、そういう切実さが感じられない。いや、それでもライバル会社に勝たなくてはならないという切実さがあるのだろうか。競争は悪ではないが、競争だけをモチベーションにするのは、やはり少しばかり危険も伴うようだ。勝ち負けは結果だ。相手もズルをしているというのなら、別の土俵でやることにすればよい。そのまま戦っても意味はなかろう。
 不二家のおかげで無事にお金をくすねることなく仕事を済ませた。手元から金が消えると、それだけで非常に心が安定する。僕が小さき人間で、小さい平和があるのである。それで何かのためになるかどうかは疑問だが、小さい平和がなくて、幸せもなかろう。
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いかん、いかん(笠智衆ふうに)

2007-01-17 | 時事

 会議のついでに提出書類を出しにいく。確認不足で中には古いものも持ってきている。確認したつもりでいたことを思い出し、冷や汗をかく。いかん、いかん。
打ち合わせなどを詳細にしていると、次の会議時間に遅刻する。余裕もっていたつもりだったのに。いかん、いかん。
 会議内容も準備不足は分かっていた。代わりに説明しているのだが、これじゃ駄目であると説明しながら思っている。事前に資料は送られてきたが、目を通してこれじゃ駄目だと思っていた。そう思っていながら自分が説明する立場になる。つらい時間である。もう少し前に打ち合わせないといけない、とは気づいてたが、正直言って後回しにしていて修正してもらうのが間に合わなかったのである。まったく、いかんなあ。

 大村に帰ってきてから中途半端な時間である。ついでといっちゃなんだが、やっとK村君の辻立ちをA水委員長と共に遠目に見学。こういう舞台があるんだなあ、と思わず通りの広さを思った。
 誰が聞いているのかは正直言ってよく分からない。道行く女子高生が「イノベーション」とネイティブっぽいアクセントでつぶやいて通り過ぎた。彼女らでも最後まで聞いているわけではないが、せめて有権者ならいいのになあ、と思う。
 話しぶりは立派だったが、冬の気温と同じく厳しさも感じた。途中でY泉君も車から降りてきて、「やってますねえ」と声をかけてきた。「みんなここからのスタートだといいますよ」とも。何で彼はそんなことを知っているんだろう。彼はいつもなんとなく嬉しそうな顔をしているが、いつにも増して妙に嬉しそうだった。
 それにしても、4月から税金が上がるって知らなかったよ、とほほ。
 演説が終わって駅から多くの人が流れてきた。時間帯もチェックしなきゃな。まず、この人たちを立ち止まらせられるかということか…。

 前日からM野先輩から頼まれている中国語の歌の練習をしている。久しぶりなので、やはり難しい。理解できないわけではないが、メロディに合わせて、きれいに発音を並べられない。スピードについていけない。もう15年前だもんな、なんとなく悲しい。
 夜の会議が終わって、練習しているというN川先輩の事業所事務所へ直行する。10人ぐらいの人だろうか、熱心に練習をしていた。遅ればせながら少し解説して、指導(といえばかなりおこがましい感じだったけど)する。しかしながらつまるところ、繰り返し練習するよりないという結論に至る。一音一音細かく発音の修正をしても、とても間に合うものではない。メロディにあわせてなんとなく感じを掴むだけでも十分だろう。事実、一部の盛り上がりのところなど、たぶん中国の人にも通じると思われる発音にも聞こえた。歌というのは便利である。

 M野先輩から指導料ということだろうか、飲み代をおごってもらった。実は食事してなかったので、急速に酔っ払っていく自分を感じた。
 繰り返しカラオケで歌の練習をする先輩に誘発されてなのか、負けず嫌いなのか、ボックスに座っていた女性はカーペンターズを歌った。歌自体はお上手であったけれど、正直言ってちょっと違う、と思ったのだった。
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