前に案内を出したところに再度ファクシミリを送信なければならなくなった。20件ほどなのだが、登録し忘れて再度番号を打ち直さなければならない。Eメールだと勝手に記憶されるから再利用は便利であるが、こういう機械は登録自体をしっかり作業として行わないといけない。操作する側が悪いといえば悪いが、なんとなくひどく不便な気がする。
不達のレポートもしばらくたってから紙で報告が出る。仕事の合間にたびたび確認していたわけではないから、今朝になってから送られていなかったところがあったことが判明する。通信用紙には日付も入れているので、再送する場合書き直したほうがいいように思えて煩わしい。結局不達だったため再送する旨一文を入れて送信しなおした。
ファクシミリ自体は大変便利なものであるとは認める。二十年ほど前になるが、ウチの職場に別の事業所(別業界)の人がファクシミリを借りにきていたことがある。貸すほうもなんとなく誇らしいような、そんな機械であった。遠方に速達で書類を送っても間に合わないとか、少し紙資料で確認をしたいというようなとき、革命的に便利になったと感じたものだ。
しかしながら今となっては手書きのものをどうしても送らなければならないという場合を除いて、ファクシミリは使わなくなってしまった。手書きであってもスキャナーで読み取ればいいので、パソコンに取り込んでメールで送信する場合もボチボチ出てきた。もう少し作業が簡単になると、すべてパソコンということに、もうすぐなりそうな気もする。
だいたい紙資料というのは、保存や閲覧や思考に用いる場合など、いまだに便利なところもあるが、再利用するのが厄介だ。結局今はパソコンで文章を作るので、送られてきたものを再利用するだけで随分時間が短縮できる。役場からはPDFでくるものが多くてまったく残念だが、それ以外は大変に重宝である。雑用事務仕事は格段に片付きが早くなって、楽しいぐらいである。手書きは間違いにも気を使うし(それがいい面ももちろんあるが)、時間をかけた割りに徒労感も伴う。そういう感覚は個人的には違うものだろうけれど、毎日送られてくる大量の郵便物を前にするだけで、かなり疲れを感じる。
(余談だが、最近レターオープナーを買って、開封するのだけが楽しみだ。さっと開封できて、余分なごみが出ない。最初使ったときは感動して、いろんなものを開封したくてたまらなくなった。これだけの快感をもたらす道具は珍しい。値段もものすごく安い。)
年配の人と話をしていると、時々いまだにパソコンを使えないということを自嘲気味に自慢する人がいる。つい先日もそういう話があって、その場にいた数人が「実は俺も」と自慢しあっていた。まあ、それはいいといえばいいのだが、既に笑えないことにように思える。少なくともまったく僕には面白い話ではない。思わず遠くを見てしまう。よその仕事にケチをつけるつもりはないが、そういう仕事をされることで、迷惑する場合も多いのである。
別段僕はパソコンを自在に使えるという自信は無いが、苦労しながら少しづつ会得し、それなりにパソコン無しに仕事をすることが困難になっているとは思う。いいことであるのか悪いことであるのは正直言ってよくわからない。しかしながら、それは今は必要になっている最低条件であると思われる。好みの問題ではないのである。実際ウチの事業所のことで恐縮だが、七十を過ぎた人でもパソコンを普通に使う。基本的に自分(人を使わずという意味で、分からなければ誰かに聞いて覚えてもらうという意味だ)で使うように心がけてもらっている。最初は確かに格闘(死闘といってもよかった)しておられたが、必ず使えるようになる。若い人のためだけに新しく機械は開発されているのではない。
もちろんそれでも人によっては、パソコンを使えないままでもぜんぜんかまいはしない。僕は恫喝するつもりでいるわけではない。ウェブ2,0の話ではないが、そういう人たちと住む世界を別にしたいだけである。既に一緒に世界を共有できなくなりつつある。そういう感じがしてきたのである。少なくとも仕事の上ではということではあるが、いつの間にか世界は変わってしまったものである。
まあしかし、人間はパソコンがなくても車がなくても電子レンジがなくても生きていける。それも忘れてはいけないんだろうなあ、とも思う。上手くいえないけれど、やっぱり今が最高にいいとはなかなかいえるものではない。僕らの子供世代は、僕らがまったく使うのに躊躇するようなものを平気で使えるようになっていくのかもしれない。世代を超えた共通ツールは、これからは生まれにくいのかもしれない。みんな一緒というのはどんどん限定された話になっていくのではないだろうか。小さい世界の点在、というのが未来像になるのかもしれないな、などと想像してしまった。