カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

サンタクロースはこのようにして生まれた   サンタクロースになった少年

2015-08-31 | 映画

サンタクロースになった少年/ヨハ・ウリオキ監督

 サンタクロースは北欧の伝説であるという話は聞いたことがあるようだ。後に米国の商業主義とマッチして全世界へ伝播し、現在に至ったとされる。しかしながら僕のような戦後育ちの人間には、家でも普通の行事で既に定着していた感がある。アメリカが悪いというのはそれは違いないことだが、要するに現代的な感覚としては、きわめてなじみやすい風習なのであろう。
 ともあれこれはフィンランド映画で、サンタクロースの誕生秘話ということになるのかもしれない。
 妹の病気のために医者に連れて行く途中、妹と両親ともども氷が割れたために死んでしまう。留守番をしていたため、天涯孤独、みなしごになった少年は、どこか特定の家が引き取るということではなく、この村で一年ごとに家を変えて面倒を見てもらうことになった。そのようにして世話になった家に、少年は何かお礼をしたいと考えて、手先の器用さを生かして、木彫りの人形を玄関に置いていくことにする。何か人付き合いの下手なところのある子供のようで、そのようにしか感謝の表現ができなかったのかもしれない。
 そういう風にして、毎年世話になる家が増えていき、プレゼントを配る家も増えていく。ところがある年は記録的な不漁になり、どの家も少年を引き取れないという。その時に町に行商に来る恐ろしげな家具商人が、少年の手先の器用さに目をつけて、自分が引き取るという。形の上では体よく解決したようなことだが、少年は家具小商人の家で、ますます腕を上げて一人前になっていく。
 そうしてすっかり家具商人の家になじむのだが、家具商人も年をとっていき、息子たちが引き取ることになった。また元少年は孤独になってしまうのだが、家具商人はこっそり資産をベッドに下にため込んでおり、これを元少年に託すのである。
 このお金をもとに、元少年は村の子供たち全員に対して、プレゼントを配るようになるのである。そうしてすっかりこういう習慣になっていたのだけれど、今度は元少年が年を取ってしまう。それでプレゼントを配るのも最後にしようと決めて配り終えると行方不明になってしまう。次の年からは誰もプレゼントを配るものが居なくなったにもかかわらず、引き続き、今度は親たちがそれぞれの子供たちにプレゼントを配るようになったということなのである。
 基本的にいい話で、映像もそんなに洗練されている訳ではなく、ハリウッド的な派手さとも無縁で、淡々と物語は進んでいく。なんとなく神話的な物語でありながら、実に説明的に地味である。
 まあ、由来の通りの物語であろうから、その通りなんだろうが、善人の多そうな民主的な村なのに、結果的に意地の悪そうな家具職人に哀れな子供を託してしまう。死ぬか生きるかの事情があるとのことだが、なんとなく不甲斐ない。さらに急に家具職人は実にいい人で、一緒にプレゼントを配ってくれたりもする。そうして今まで気配さえなかった息子達が年を取ると引き取りに来るのだ。考えてみるとおかしなところだらけという気もするんだが、まあ、昔の話なんだから仕方がない。
 実は僕はプレゼントを選ぶのが非常に億劫である。子供が欲しがるのならそれを与えればいいのかもしれないが、何が欲しいのかを考えて与えるというのが、ものすごく難しいことのように思える。帰りにアイスクリームを買って帰るのとはわけが違う。クリスマスのようなイベントが良いとか悪いとかは思わないが、子供がある程度大きくなって、このような風習と関係が無くなったことは、大変にありがたいな、としあわせを感じるのであった。
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嫌われる方がいい

2015-08-30 | 掲示板

 苦手な人というのはいる。こちらがそうだから、相手だってたぶんそうなんじゃないかと思うのだが、つきあいというのがあって、なかなか思うような具合に行かない。苦手意識があろうとなかろうと、目の前にいるものは仕方がないのかもしれない。
 ちょっとそのようなことになると、自分が柳の木であったり、のれんのような存在になったつもりになる。そういうアドバイスみたいなことも聞いたこともあるが、これはそれなりに自分で編み出した作法のようなものである。あくまでつもりなので、おれは今柳なんだ、と暗示をかける。今は暖簾になり切れてないぞ、と言い聞かせる。あんまり酔ってないときなら、自分なりに上手くやり遂げることが出来ている意識があるが、ちょっと上手くいかない時もある。自意識というのがあるし、意見もないではない。だいたい意見は多い方で、明らかな相手の間違いに同意させられるような展開になると、具合が悪い。また、その延長で何か仕事をさせられかねないという場合もある。危険があるから、のらりくらりもそれなりに難しいのである。
 話だけならそれでいいのだが、さらに困る行為をされることもある。相手があんまり知らない人の場合に時々あるのだが、共通の人の話題というのがある。共通の敵であるとか、共通の味方であるならそれほどは問題は少ない。問題は、一方では敵で、一方では味方のような場合か。聞きたくない話もあり、同意もしにくい。僕は割合素直に困ると言うようにしているが、相手がなかなかやめない場合がある。苦笑いで済めばいいが、実害があったりもする。実は自分が心底関わっている事例もあったりして、黙っていられない。しかし大人げないなと思い直してトイレにでも行くより無いのかもしれない。
 共通の知人を呼び出す人もいる。いや、あんがいそういう人は多い。それでこの場を盛り上げようということなんだろうが、僕としては気の毒な気分の方が大きい。そうして実際に駆けつけてくれたりして、まったく困ってしまう。実のところ僕がこれをやられるのが何より不快だから気の毒なのである。断りにくい人に限ってこれをやるわけで、人間というのは権力欲というか、妙な見栄があるようで、実に困る。たまに勇気がある人で素直に断れる人ならいいのだが、(どのみちたいして誰も気にするものではないのだし)あんがい律儀な人もいる。将来自殺などされないものかという気もする。人の言うことを聞く人生なんてろくなことにはならない。皆でこの呼びかけに断わる運動でも起きないものかと思う。呼ばれても応じない。それは実に幸福なことだ。
 結局自分がそうでありながら、わがままというのは嫌なのである。そんな気がする。
 柳になったり暖簾になったりが上手くいくと、また次も何やら愚痴や相談をしてくる人がいる。まったく聞かないではないが、これも困るという気もする。実は柳になって聞き役でうなずいているだけのことで、相手としてはそれでカウンセリング効果があったのかもしれないが、僕は疲れただけなのだ。また聞いてほしいと真顔になって、本当に相談などしてくる人が居たりする。もう勘弁してほしいな、と思うが、これがまたそういう機会があったりする。いや、そういうパターンを招いたのは自分の所為だろうか? そう思うと気が重い。
 素直に関係が悪くなるといいな、と思う。それはお互いの幸福のためだ。たぶん。少なくとも自分が望んでいるのは、関係が壊れることであるのかもしれない。嫌われたくないという防衛本能があるのだろうが、嫌われた方がずっと楽だというのはある。友人を減らす努力をするなんて、不思議なことをしなければならない年になってきた。今はそんな気がしている。
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悲惨だから希望になる   そこのみにて光輝く

2015-08-29 | 映画

そこのみにて光輝く/呉美保監督

 パチンコ屋でライターを貸した縁で知り合ったチンピラ風の男の住むバラックにいくと、そのチンピラの姉がチャーハンを作ってくれた。この家庭の境遇はまさに社会の底辺という感じで、病気か何かで寝たきりになっている父親を看病する母親と、どうも仮出所しているらしい弟と、夜の街で体を売ってこの家を支えているらしい女がいるということだ。そうして何故か怠惰な感じで深酒をする主人公は、この女にひどく惹かれている。いや、この男女は最初から惹かれあっている。
 しかし女にもいろいろしがらみがあるらしい。夜の女であることと、やくざ風の土建屋の愛人でもあるらしい。また、寝たきりの父親の性処理までさせられている。いろいろショッキングなのだが、そういう境遇から自分一人の力では逃れられないということだ。主人公はやくざの土建屋に女と別れてくれるよう説得し殴られ、逆に女は土建屋にレイプされてしまう。逆上した弟は社長を刺して、刑務所に逆戻りだ。そういうどん底模様があって、しかしやはり二人はそこから這い上がろうということらしい。
 いつが終わりかよく分からないお話だったのだが、この落ちこぼれぶりがなかなか悲惨でいいということだ。不幸な人間には、幾重にも不幸になる構造がある。それぞれが悪いので、悪い者同士が混ざり合っても、そうそういいことなんてないのである。少しでもいい方向に動こうともがいているのだが、それが結果的にさらに大きな悲劇へのきっかけになってしまう。もういったいこれはどういうことだろうとは思うのだが、確かにそういうことなんだということは分かる。底辺というのはそういう世界なのだ。
 映画の題名がそれを表しているのだが、ラストシーンは確かにそれでも光り輝いているという印象を強く残している。軽くいってしまうと、そういう愛もあるということだろう。皆不幸だが、しかしそこからでもスタートは切れるということだ。おそらく、たぶん。
 なんというか、そんなにハッピーな映画ではないが、なんとなく心に刺さるようなものがある。人間の感情というのは厄介だが、惹かれあう感情には素直になった方がいいのだな、などと思ったことだった。
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納豆の粘りを取れ

2015-08-28 | 

 納豆は嫌いではない。というか好きである。理由は単純に旨いから。しかし諸事情があって自宅で納豆を食べることはごく稀だ。いや、ほぼ無い。そういう訳で、以前は出張の朝に納豆を楽しみにしていたこともあったが、あまりに長い時間納豆との付き合いをしないという生活が続いて、かえってそのような欠乏感を覚えないまでになってしまった。今でももちろんいい味であると思うとは思うが、久しぶりに納豆を食うと、やっぱりあのネバネバが鬱陶しい。無理に食うことは無いという気分にもなろう。
 納豆の匂いが嫌いという話もあるが、それはそれで問題であるという話もあるが、基本的に納豆が嫌われる第一は、あのネバネバと糸を引く現象ではないか。それでこそ納豆だ。という人間も多いことだろうし、あれでなければ旨くない、という人もおられることだろう。そういう感覚は否定しないが、要するにしかし慣れである。納豆以外のものがほとんどネバネバになったとして、それが快適だというのは強弁過ぎるだろう。
 納豆の販売促進と販路拡大を兼ねて、特に海外でも販売していこうというメーカーの取り組みにより、粘りのほとんどない納豆が開発されたという。粘りだけは無くても、ちゃんと納豆の味がするばかりか、健康食品としての成分に変わりはないという。
 そうして外国での食品展示会で出品したところ(確かフランスだったような)、さっそく取り扱いたいという外国の商社などがあらわれたようだった。何と言っても味はいいので、面白い食材として期待されるということだった。試食もほとんど問題なく食べてもらえた成果である。
 研究開発できたということが一番偉いが、納豆の固定観念として、ネバネバであることのアイディンティティを重視するあまり、そもそも粘りをとる開発をしないところが多いのではあるまいか。このメーカーの柔軟さがあって初めて、納豆の販路拡大が可能になったのだし、無理にネバネバに慣れてもらうという努力よりも、数段に受け入れのハードルを下げたことが大きいと思われる。
 日本の納豆は確かにネバネバだが、実は諸外国の納豆は必ずしも最初からネバネバではない。そういうこというと驚く人が多いように思うが(実は僕も最初に知ったときは驚いた)、納豆文化は別に日本の専売特許ではない。アジアの多くの国で納豆は食べられているが、普通は納豆状になったのちに、干したりつぶしたりして加工の上に食べる。そうすると粘りは無くなるが、やはり普通に食べやすいということだろう。もちろん日本と同じようにネバネバで食べるところもある。日本を売り込むというのは、最初から少し違うお話であるのかもしれない。
 納豆を日本のようなローカルのみで考える方が特殊なのかもしれない。しかし納豆に日本ブランドという力もある。文化に優劣は無いが、結局コーラやハンバーガーが世界に広がるのは、経済格差と憧れである。そういう有利性が日本ブランドにあるとすると、ネバネバでない納豆には未来性がある。これは納豆だけのことではおそらく違って、基本的にオモテナシに関わる話になるような気がする。日本人が自分本位でないのであれば、このことをヒントに飛躍できるかもしれない。
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川の字で寝る

2015-08-27 | culture

 日本人は川の字になって寝る。という話がある。そうでない人も当然いるだろうから乱暴な話であるが、要するに子供が小さいころには一緒に寝るのはそれなりに一般的だろう。恐らくさらに、西洋社会と対比して、子供と親が一緒に寝ない社会との違いから、それを特に奇異なことと受け止めるということがあるのかもしれない。さらに日本の住宅事情と、若い夫婦の事情もあるだろう。独立心の問題と考える人もいるし(勘違いだが)、愛情問題と考える人もいる(勘違いだが)。
 日本は変わっているけど、親子の愛情があってよい話だ。というのが一般的な結論だ。
 ところが、こんなことは特に日本だけの習慣ではもちろん違う。先にいうように、住宅事情で一部屋に家族がごろ寝しているような国というのはあんがい多い。部屋があれば違う寝方をしたかもしれないが、これは当然のことだろう。子供は深く寝ているので、それも構わず夫婦生活をするような場合もあるという。もっとも昼寝文化のところもあって、昼に家に帰ったついでに…ということもあるらしいのだが。まあ、そんなことは好きにしたらいいことですけどね。
 しかしながら西洋社会の多くは、子供が性生活を邪魔することを気にするようだ。落ち着いて夫婦の時間が取れないのは困るということだろう。子供は寝かしつければいい問題で、一緒に寝る必要もないという考えだろう。ひどい場合は泣いて呼ぼうが、自立心のために放っておくという。外国人が思春期に激しい反抗期を迎えるのは、幼年期にしっかり甘えていないからだという研究もあると聞いたことはある。まあ、川の字寝の子供だって反抗はするだろうけど。
 家庭問題は個人の勝手なので、川の字に寝るような習慣に違和感を覚えるというのがもっとも大きな原因だろう。だから他の国の住宅事情の悪い場合を除外して、子供部屋がありながらあえて川の字になって寝るような日本人を特異に感じるのだろう。
 さらに(和製英語だが)スキンシップの問題があって、彼らはふだんから抱擁をするし、キスもする。寝ているときは近くに居なくても、ちゃんと愛情があるということらしい。裏返すと、日本人はそういうところは親子同士でも淡白な関係に見えることから、夜になって挽回しているように見えるのかもしれない。
 しかしながら子供の寝相は確かに悪い場合があって、夜中に蹴られたりして目覚めたという覚えはあったようだ。まあ、こちらも寝相が悪い場合もあろうからお互い様だが、寝ているときにまで人口密度をあげる必要は、それほどないのかもしれないです。
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現実が引き金になるお話   奪命金

2015-08-26 | 映画

奪命金/ジョニー・トー監督

 リスクの高い金融商品を売って、何とか営業成績を上げたい銀行員(女)。組長(兄貴かもしれない)の保釈金のために奔走する気のいいやくざ。マンションの部屋を買いたい妻のいる刑事。それらが金融危機に巻き込まれながら、それらに絡む事件に、それぞれにお互いは無関係ながら翻弄されていく姿を描いている。それぞれ深刻に困った状況に追い込まれているのだが、金融危機が引き金となった騒ぎの中、ちょっとした運命の流れが変わってしまう。中にはもっと泥沼にはまり込んだように見える人もいるが、大きくお金の価値が変わる局面で、どのように生き延びていくのかというのが見どころである。警察の話だけはちょっと弱い気もするが、銀行員のつい出来心が出てしまう足の踏み外し方や、気のいいやくざのポイントを外しながら転がるように翻弄される姿は、見ていてスリリングに面白い。結末の二人の姿もなかなかいいのではなかろうか。
 人々は多かれ少なかれマネーゲームの渦中の人である。それは僕らも変わらない。ふだんは意識してなかったり、関係ない顔をしている人であっても、ひとたび金融危機に見舞われると、好むと好まざるとにかかわらず、少なからぬ影響を受けるということだ。現代人で銀行と付き合いのない人は稀だし、企業が金融に関わっていないことは考えにくい。直接かかわっていなくても、かかわりのある仲間に必ず関係のあるところはあるだろう。さらに自分の国の経済状態が悪くなくとも、経済は世界的に少なからず連動している。規模の大小というのはあるが、例え一時期といえども、そのような混乱が起こると、多くの人は喜劇や悲劇、または稀に幸運に見舞われるということだ。一般的には皆困るのだが、確かに一部の人にはいいことになる場合がある。その稀なケースに当たるのが、この映画の数人の人々のようなことだということだ。この事件はギリシャの金融危機を題材にしているが、現在もまたギリシャは変なことになっている。懲りない国というのがあるわけで、また、日本だって結構危ないかもしれない訳で、このような映画の題材は、結構現実の社会に眠っているだけのことなのかもしれない。
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台風一過

2015-08-25 | 音楽

 台風もあるが、何しろ休肝日の夜なので、自然と断続睡眠に陥りやすい。ある程度眠いのでいいか、とは思っていたが、2時半ごろから音の感じに緊迫感が出ていたのだろう。目覚めてどうにも寝付かれない。時計の時間を確認するために明かりをつけたら、杏月ちゃんもしっかり起きた様子で仕切り直すことにした。
 枕元には統計学の歴史のようなものがあったので、これなら眠くなりそうだと思って手に取る。案の定以前に途中で断念したようでもある。数式が出てくるようなものではないが、先に進むのに時間がかかる。しかしこういう時だと妙に面白かったりしていつの間にか小一時間。つれあいが用事を済ませて寝室に上がってきたので、選手交代で居間に移って読書とニュースでも見ようと考えて階段を下りる。窓は閉めてしまったはずだけど、どこからか隙間風がある様子。換気扇からかもしれない。ニュースでは、まさにちょうどという感じになってきた。少し東側にずれたか。しかしながらいつもの台風より突発的な強風の音に緊迫感がある。モノが舞っている感じも伝わってくる。これは相当来ている感じである。近年でも間違いなく風が強い方だ。残念だが被害が出そうではないか。もう統計の本で眠気を誘っても仕方ない感じもする。内容的にはやっと無作為という考えに至る歴史まで来て、統計という学問であっても、なかなか苦労している様子が分かる。学問とは、先人の築き上げてきたものを時には否定したり崩したりしなくてはならない。そうして過去の保守派からいじめられる。正しいという確信を持っていても、なかなか日の目を見られるものではない。昔の人も苦労したが、今の人も苦労するはずである。政治家なんて苦労を買って苦しんでいるではないか。ほとんど人間の歴史はマゾ的である。
 風邪気味なのか鼻水が出てきた。重たい本を寝っ転がって読むには腕がきつくなるので、ミステリ文庫本に持ち替える。今度は身内の秘密が少しずつはがれていく展開だ。それをはからずも息子に知られる展開になる。息子が知ると娘たちにも知れ渡るだろう。しかしもっと確信に迫る必要もある。心情的に苦しいが、しかしそういう自分を止められない。関わっている事件と絡んでそういうことが起こっているが、さすがにやっと眠くなってきた。そろそろ6時になろうかという時間だ。既につれあいも起きてきて、この調子だと通勤時間には風が弱まるのではないかという期待もできるようになってきた。
 ということで一時間ちょっと寝て、朝飯を食って出勤。雨はひどいが風は落ち着いている感じ。消防団があちこちで活躍している様子。彼らもこの後に出勤するんだろう。寝不足は僕だけでないのである。あちらの人たちの方がずっと偉いんだけれど…。


Kendrick Lamar - i (Official Video)



 で曲はケンドリック・ラマー。変な動きをしているが、これがかっこいいというのもなんとなくわかる。僕が若かったら真似をしたくなるんだろうか?
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輝くブラックホール(周辺)

2015-08-25 | Science & nature

 ブラックホールというのは強力な重力を持つために、周りにある物質を片っ端から呑み込んでしまう。ブラックホールに吸い込まれたものは、たとえ光であっても外に出ることはできない。X線を使った特殊な観測方法などもあるそうだが、ブラックホールの暗黒部分を観測するのは極めて困難だという。見えないものを見るというのは少し酷な話のようだ。
 ところがブラックホールに吸い込まれていく大量のガスは、その猛烈な吸引の力によって熱を持つ。1000万℃以上にもなると考えられており、そうして強烈な光を放つようになる。つまりブラックホールは視覚では観測しにくいものの、吸い込まれるガス雲が光る様子は観測が可能になる。暗黒のブラックホールの周りには、強烈な光を放つガスが存在してまばゆいばかりに輝いているのだ。
 そうして事実上いくつかのブラックホールらしいものは、すでに確認が出来ている。大変幸いなことに、それらのブラックホールは地球から大変に遠いところにある。天文学者なら近づいてもっとはっきりと確認して見てみたいと思うかもしれないが、それが現時点では不可能なことも同時に知っていることだろう。現実にあることも信じがたい現象が、結局はよく見えないけれど見えている。まったく人間の想像以上に、現実というのは変なものなのである。
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実話を元に変な感動スポ根映画   ハナ~奇跡の46日間

2015-08-24 | 映画

ハナ~奇跡の46日間/ムン・ヒョンソン監督

 1991年に日本(千葉のようだ)で開催された卓球世界選手権大会に、韓国と北朝鮮は統一チームで試合に臨むことになった。これは政治的配慮であったわけだが、そのことで選手同士に固い友情が形成されていくことになる。基本的にそういう物語だ。実話をもとに作られた娯楽フィクション。そういう作品ではあるけれど、朝鮮半島の複雑な環境と、戦争で分断された同じ民族のことがなんとなくわかる。何しろ同じ言語を使うわけだし、先輩後輩などの上下関係の在り方、風習などはよく似ている。しかしながら決定的に違うのは政治体制。ともに国の代表としてのプライドは持っているが、その背景がかなり違うらしいことがうかがえる。国家の威信としての代表の圧力というようなものがなんとなく違う。やはり南は幾分自由で、北には悲壮感がある。何としてでも優勝しなければならないという使命を帯びているという感じだ。
 最初はなんとなくギクシャクしている。休戦中とはいえ、実際には敵同士の関係だ。俳優さんたちはともに韓国の人だろうけれど、北の人々は表情が硬く、化粧の仕方などがかなり違う。韓国側の人々は、日本の80年代アイドルのような感じである。そういうところもなかなか面白いのだが、卓球に懸ける情熱には、共に似通ったところがある。練習を通じて、そういうところが垣間見えるようになり、そして恋愛の感情なども絡まって、徐々に打ち解けるようになっていく。殴り合いするような険悪の仲から、抱き合って喜びあえるような友情が生まれていくのである。
 ロケ地が千葉ということになっているが、スポンサーなどの関係もあるのか、日本の旗は極めて怪しい日本語であったりする。要するに体育館シーンは韓国で、ホテルなどの外観は日本でのものだろう。予選で日本に少し苦戦するときは、格下相手におかしいというアナウンスが入ったり、なかなか楽しい。そういうさすがの韓国感情も交えながら、南北統一チームの苦しい戦いを応援しながら見るということになる。最大の敵である中国もちゃんと性格が悪くてなかなか良い。悪い相手だからこそ燃えて叩くという感覚なのである。まあ、ハリウッドでもおんなじようなものかな。変わってるのは日本映画くらいのものなのだろう。
 実話として最終的にはいい話になるが、北にはほんとに困ったもんだ、という展開になる。でもまあそういう国なんで、お互いやはり考えなくちゃいけなかったことだったんだ、という感じ。友情に後先なんてない、という甘い思い込みだと痛い目に合ってしまうということかもしれない。もっとも、実際に亡命の危険性は十分にあったとは思われるわけで、これは映画だが、神経をとがらせる必要は北側の動機としては十分あったことだろう。
 さて、キム政権が倒れたとしても、安易に統一されるかは分からない状況は現在でも続いている。この映画は恐らく北ではご法度だろう。そういう意味では韓国のための映画なのかもしれないが、時々そういう視点にも釘をさす北の選手の科白などもある。南の方が豊かだから来た方がいいと呼び掛けに対して、韓国より米国の方が豊かだが、(お前は)米国に移住するのか?というようなこと言う。生まれた国が不幸でも、個人の生き方はもっと複雑なものなのである。
 感動スポ根娯楽映画だが、複雑な気分になる妙な作品かもしれない。
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殺人鬼はどっちだ?  キリング・フロアー

2015-08-23 | 読書

キリング・フロアー/リー・チャイルド著(講談社文庫)

 放浪の旅を続けている元軍人が、たまたま気まぐれで長距離バスを途中下車して朝食を食っていると、銃を構えた警官に取り囲まれ逮捕されてしまう。たまたまその朝未明に起こった殺人事件の容疑者となってしまったのだ。当然身に覚えはないから冤罪を晴らさなければならない訳だが、異常なほどの推理力と強靭な肉体を持った元軍人は、どんどんスケールの大きくなるお話に巻き込まれ、巨大な悪の軍団と戦うことになっていくのだった。
 後にシリーズ化されるジャック・リーチャー・シリーズの第一弾。ハードボイルド、アクション、ミステリの三拍子の揃ったテンポのいい文体で、ぐいぐい読ませる。まあ、ハードボイルド作品にありがちな、多少の都合のよさはあるにせよ、それなりにミステリとしての整合性はあるし、冒頭の意外な展開からの流れは見事である。娯楽に徹して恋愛劇まで盛り込まれてあるし、社会情勢ともそれなりに合致されている。主人公を取り巻く歴史も含めて、物語は縦横無尽に語られることになる。もうほとんど何でもアリだ。しかしながらそうでありながらもまとまりがあって、そうしてできうる限り派手で、たくさんの人が死んでしまう。良く考えてみるとこのリーチャーという元軍人は、凄まじい殺人鬼なんであるが、人殺しで爽快になるというアクション構成がさすがなのかもしれない。悪い人間を殺していったい何のためらいがあるのか。そういう異常性が、不思議と説得力を持って語られているという感じかもしれない。
 こういう作品は娯楽に徹している訳だからどうこう言うのは野暮ではあるんだけれど、やはりこのリーチャーという男がスーパーマンすぎるというのはあるかもしれない。また、捜査においても彼が信頼する兄などの業績は絶対的に揺らぐことが無く、巨大な組織的犯罪が綻びなく運営されていることに、ちょっと地元警察は疎すぎるきらいもある。自分の彼女が勤めている組織だとはいえ、彼らはあまりにも無能すぎたのではあるまいか。それにいくらアメリカとはいえ、少なからぬ人がむやみに殺されている訳で、普通はもっと大騒ぎになってもおかしくない。リーチャーさんは自由に行動が出来ているけれど、恐らくそもそもそういう自由が許されることは無かったのではあるまいか。一言でいうとそういうリアリティに自然に目をつぶって楽しむにしかず、という作品で、あらを探しすぎると興ざめしてしまうかもしれない。しかし、それでも面白かったのは事実で、窮地に立たされても、様々な情報を見事に整理して推理を展開させる実行力は、なかなかのものなのであった。これはシリーズは買ってしまうのだろうな。と思ったことだった。
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自分の健康を呪う理由

2015-08-22 | HORROR

 会議嫌いは公言している。しかしこれが好きだという人がそんなにいる訳ではなかろうから、たいして意味があるともいえない。しかし実は会議が好きそうな人がいて、個人の好みだから口出しするのは品が無いけれど、どうしてもそういう人が信用できない。会議をしたいのは思惑があって、そうしてこれが好きだというのはその思惑にあっている人に違いない。そう思うのだがそうにあらずで、時にはこれが本当に面白いなどと発言をする人が居たりする。まったくこんな人と会議をしているのか思うと頭が痛くなるばかりである。
 おっと、それは別にいいのであった。好きなら好きで、会議で黙っていてくれたらそれでいいというだけのことだ。でも好きな人は黙ってないだろうけど。
 あんまりいうと角が立つので大きな声ではできるだけ言わないようにしているが、某会議の好きな団体から卒業した時は、だから本当に嬉しかった。病気をするなり失業するなりするより方法が無かったから、しかしそんなことはやはり事実上するわけにもいかないので、嬉しくて当然である。しかしながらありがたいのは一時のことで、結局会議の数が一時的に少し減っただけだということでもあった。いや、確かに以前のような激しさは無いものの、やはり会議というのは実にさまざまなところで実施される。もちろんある程度の必要性の認められるものも無いではないが、特になくてもどうでもいいものがほとんどである。それは社会的ないじめとして必要ということであって、いじめられ役の人が呼ばれるという仕組みである。要するにいじめられっこである僕が呼ばれない訳がないではないか。
 基本的に発言する意思はほとんどない。やる気なんて最初からまるでない。しかし慣れているから発言くらいできる。時には的も外すが、これはサービスである。時間つぶしにも遊びは必要だ。それはわきまえているのである。
 人が困るのはどうでもいいので、出来るだけ不真面目にやることを意識して、本当に僕が不必要そうであるとか、後で面倒になりそうなことである場合には、基本的に堂々と欠席する。そうやって逃げている会議というのはあって、相手があきらめるのを待っている。そういうつもりだったのだけど、どういう訳かそういう態度をとっているのに、その会の代表になってしまった。もうこれは悲劇を通り越して喜劇である。馬鹿らしいから真面目にやる気はないが、バカにしながらも会議に出たりしている。本当に馬鹿者は誰だろう。そんなことは明確すぎて、考えたくもないことなのである。
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訛ってますよね

2015-08-21 | 音楽
Sia - Hostage


 ラジオをエアチェックして適当に流して聞いているので、映像は頭にない。それで、シーアのことは、勝手に黒人女性とばかり思っていた。ググれよ、ということに過ぎないが、ハスキーで声が高いと、黒人という気がするのかもしれない。さらになんだか英語の発音が変わっている。僕は英語ネイティブでないから分からないと言えば分らないのだが、なんとなくなまっているような気がする。そうしてやっとググってみて、オーストラリアの人だと知る。しかしだからといってオーストラリア的になまっているのかは全然わからない。黒人チックのなまってるとばかり思っていたよ。


 で、改めて見ると、この映像は確かにネットで見たことあったですね。思い出しました。ちょっと怖いけど、凄いと言えば凄いですね。もちろん歌もですけど…。

Sia - Chandelier (Official Video)



 そういう訳で朝っぱらから通勤でこんなの聴きながら、どんより淀んだ大村湾を眺めて仕事についている訳であります。
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精神的な備えをする方法は無いか

2015-08-21 | 境界線

 ガン治療のカギは早期発見が第一とされている。様々な検査方法はあるが、しかしこれで早期のものを見つけるのは容易ではないらしい。ある程度大きくなってはっきりすると見つけやすいという道理は理解できるが、そうなってからでは遅いということで、出来るだけ小さく、まだガンとして十分に成長していない状態をとらえられると、治療の効果が大きくなるということらしい。
 人の吐く息の匂いでガンが分かるかもしれないという研究も進んでいるという。中にはスマホに息を吹きかけるだけで分かるようになるらしいという話もある。以前にガン患者を見つけることが出来る犬がいるというニュースも見たことがあるので、体臭や吐く息でガンで有る無しというのは分かりえるということなのかもしれない。もちろん現在は研究段階で、実用化されているかは不明。
 実際に既に実施されているものでは、唾液による検査というものもあるらしい。唾液中のマイクロRNAから分かるという。90%程度発見が可能ともいう。今まで早期発見の難しかった膵臓ガン(臓器の陰になっていて、レントゲンなどで見分けるのが難しいということのようだ)などにも期待が持てるという。さらにガンだけではなく、将来的にアルツハイマー病の発症の可能性なども分かるという。
 これらの検査は、患者に負担をかけない検査として期待が大きいわけで、さらにサンプルが増えると、精度も上がっていくとも期待できる。検査に対する気おくれなどもあるのは人情だが、これだと一つ検査でもしてみるか、ということになるのだろう。結果的に多くの命を救う確率が上がるということかもしれない。
 ところが、将来のアルツハイマー病の予備軍であるということが分かるということで、発症していない状態での精神的な苦痛もある場合があるという。発症しない手立てができる反面、いつ発症するのか不安になるということだ。また、ガンの可能性があるということで再検査して、実際にはガンが見つからないということもある。あくまで検査だから、万能ではない。しかしガン発症予備軍としての不安は残る。そのままで平穏に生活するには支障が出る場合もあろう。
 それでも有望な方法である利点に分が大きいというのはあるだろう。見つかるがダメということがあるとはいえ、最初からダメのよりは数段よかろうということだ。
 あんまり精密に検査をすると、何らかの問題の兆候は見つかるもので、かえって精神衛生上良くないという話は聞く。僕も臆病だからその気持ちはよく分かる。また、ある程度の寿命の延びで、病気のリスクがあがるのもわかる。その時を注視する生き方がつらいというのは、よく分かる話だ。臆病だから簡単な方法を選びやすく、しかし安易だから備えとしての精神状態にない。なかなか難しいものなのである。
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自分以外の人間に操られる感情

2015-08-20 | net & 社会

 ちょっと前になるが、元14歳少年Aの手記「絶歌」についての論争があった。読まない本の書評はできないし、そんなに内容に興味もないから買わないだろう本だけれど、話題になったから知らない訳ではない。感情が妙な具合に入り乱れている気がして、近づきたくない感じもあったかもしれない。
 テレビで見たのだが、殺された少年の父親が、自分の息子が「二度殺された」感じがすると語っていた。それほどこの手記の出版には憤りを感じているということだろう。このことへの共感があって、本の出版元の会社には抗議の電話が殺到したという。図書館がこの本を置かないなどの運動もあり、不買の書店などもあったという。しかし本は売れ続けた。
 この事件の関連本はそれなりに多い。加害者の両親による手記もあるし、先のコメントの被害者の親による手記もある。少年Aが実際にどのような人物であるかという考察本もあるし、この事件のみでないにせよ、日本の犯罪について語られている多くの本に、この事件の考察がなされたものは、それこそ大量に存在するだろう。もちろんほとんど読むことは無かったが、それでも週刊誌などでそれらの話というのは、それなりに読んだことがあるようだ。中には相当怪しいものがあって、少年Aは現在弁護士として働いている、というような話も読んだ記憶がある。いや、実際は知らないので何とも言えないが、それだけ衝撃的な事件だったし、現在でもしっかりと記憶に残る日本の社会史の一つになっていると言えるのだろう。
 そういうことだから、本当に少年Aである人物が手記を書くとなると、相当な話題になって、ベストセラーが確実だっただろうことはある程度予測可能だったはずである。だから金儲け主義として出版社がやり玉にあがるのは、いわゆる想定内のことだったのだろう。企業活動は金儲けを目的として何らおかしなことは無いから、やれるところはどこだって事実上狙いたいところだっただろう。そうして実際にやれたということは、仕事としては非常にまっとうだったということになる。しかし問題視されているのは、倫理的におかしいという議論なのかもしれない。本当には法にはふれないし、倫理的におかしいかは、問題視することにも危うさを感じないではない。出版の差し止めを裁判所が出したという話は聞かないし、出版を差し止めるよう被害者側が抗議をするという行動で止まっているはずである。だから議論も空転するようなことになってしまうのだろう。人を傷つける行為であることは明らかだけれど、しかしその行為自体を止めることには、やはり別の問題をはらんでいるということだ。
 被害者の家族には不幸なことであるというのは理解ができる。事件の大きさからいって、もっと加害者に制裁を加えるべきであるという感情も理解できる。しかしだからといって、日本の国はそのような制裁を認めている訳ではない。仇討であっても処罰の対象になる。それは個人が自発的に選択したものではないにせよ、法というのはそのような残酷を含んでいるということだ。一方で、例えば加害者の側を非難することで、加害者の親などは精神的な苦痛を覚えることだろうことは、簡単に無視される。ある意味で当然という感覚さえあるかもしれない。加害者本人が平気そうに見えても、加害者の周辺の人が自殺をするなどということが起こる。
 結局、注目を集める事件というのは、その事件そのものだけで終わる問題では無い。人間の感情が揺さぶられることは、社会的な影響がそれだけ大きくなるということだろう。そのような感情を狙ってテロなどが起こる。自分以外の人をどうにかしたいという欲望が、恐らく人間の本能にあるのだろう。人間というのは本当に罪深い生き物だな、と思うのである。
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今日も料理番組を見る

2015-08-19 | 

 僕はまったく料理ができない訳ではないとは思う。しかし料理を作るようなことはまず無い。それは妻に頼り切っているという実情もある。何しろ料理に関するスキルのレベルが違い過ぎて歯が立たない。別に勝負ではないが、僕が作ったところで妻が喜んで食べるとは考えにくいし、たとえ喜んでくれたとしても、何かの魂胆があってのことで、本心ではなかろう。それにやはり仕事の領域というのがあって、侵食することの恐れもある。相手を尊重すると、踏み込むべきことではないということだ。そうしてそもそも台所に何があるのかさえ不明瞭になり、ますます料理からは遠のいてしまう。さらにもう不可能な感じになってしまってもいる。冷蔵庫を開けることもほとんどなくなり、料理が出されなければ餓死する可能性だってあるかもしれない。
 そうであっても料理は好きで、料理番組ばかり見ている。野菜を切ったりしている姿だけでも面白く、下味付けの工夫などもなるほどと思いながら見ている。変わった調味料を見つけると、つれの買い物の時などに探してみたりする。無ければネットでみたりする。でもまあ自分で使う訳ではないから買わないけど。
 食いしん坊というのはあるんだろうけど、特に旨そうでないような料理でも好きである。どのみちこの先もそんなに食指が伸びないような料理であっても、後学のために作り方を見ておく。記憶力は弱いので、再現できるかは疑問だが。
 何料理が好きだとかいうこともそんなに気にはしない。料理というのは文化でもあって、さらに経済状況によっても憧れ方などに差があるように思う。今やハンバーガーが世界を席巻したんだろうけれど、これは経済問題。そもそもの料理として、これを番組で取り上げられることは少ないと思われる。
 ある本を読んでいてふーんと思ったのは、料理はやはり宗教とも関係のある話だということだった。イスラム教のように食べ物にそもそもの禁忌があるような場合、その制限で他の宗派にはおいしく感じられないものにならざるをえなかったりするということだ。そうして西洋の食文化などを見ても、たとえ同じキリスト教でも、カトリックとプロテスタントで違いが出てしまう。フランスやイタリア、南部ドイツなどのカトリック教徒の料理は派手でおいしく、特にプロテスタントの清教徒の影響の強い英国の料理は評判が悪いとのことだった。質素にすることが重要なので、食事は燃料補給に徹して、美味しい美味しくないを追及しなかったということだった。
 そうかもしれないが林望の「イギリスはおいしい」という話もあることだし、実は僕は魚のフライをこよなく愛するので、英国のフィシュ&チップスはたぶん普通に大丈夫だろう。さらに英国人はウナギのゼリーという料理を食べるというのは気になる。パブでの料理も必ずしも不味いわけではなかろう。
 そういう訳で、イスラム料理であろうと英国料理であろうと、料理番組を見る分には十分に楽しんでみられる。最近は東南アジアの現地料理なんかは魅力的だと思う。なんでも混ぜて、魚醤やココナッツミルクに漬けたりしている。出不精なので現地まで行って食いたいとまでは思わないが、近所にそういう料理を出す店が出来たら行く可能性はある。実際にかなり不味かったりするとそれなりに残念だろうけれど、僕の舌でそんなに残念が分かるものなんだろうか。
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