カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

進化論にとらわれ過ぎでは

2008-09-30 | ことば

 NHK特集でライオンの記録を放映していた。野生の王国の厳しさというのはよく分かったし面白かったのだけれど、適者生存とか、より強い遺伝子を残すためだとか、いわゆる進化論的な淘汰の仕組みでこのようなことになっているという説明には、いま一つ納得いかないものがあった。それって進化論を盾に誤解しているだけではないか。
 どこかの大学の学生が実験をするのだが、ライオンのたてがみの色や多さなどで雌ライオンがどのような好みを見せるのかなどとやっていた。濃いものや長いものが好まれることは分かったのだが、結論として強いものが選ばれたというのである。濃いものや長く立派なたてがみが強そうだとかいうことは人間の感覚としては分かるのだが、何故ライオンが同じように見た目でそのように判断するのかということは、そのような関連付けであるということとは別である可能性もありそうである。たてがみがなぜ黒くなったり豊かになったりするのかという原因の方が究明されるべき問題であって、それが分からないのであれば結論を出すには問題が多いように思う。
 また、放浪オスが王に選ばれる際に、多くの場合複数(たいてい2匹のようだが)の兄弟オスであるということなのであるから、本当に強い牡ライオンが君臨するという解釈よりも、運良く兄弟で生きながらえた(そこに特殊な知恵がある可能性はあるが)組み合わせそこ重要とみるべきである。個別の強さは二の次なのである。つまり強い遺伝子が残るようにシステムが構築されているのではなく、まったくの運によってランダムに遺伝子が伝達される仕組みである可能性の方が高いともいえるはずである。このような研究が人間側の思い込みによって結論付けられていると言っているに過ぎず、ライオンの意識的にしろ無意識にしろ選択したものではないのだと思う。もちろん大自然の法則として、大変厳しいことには変わりはないのだが…。少なくともライオンであっても大切なのは協調性ということなのかもしれず、一人で生きていく道は険しいのだということは、人間であれライオンであれ言えることであることは確かなようである。
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何を根拠に、が出発だ

2008-09-29 | 時事

 僕は百姓もするので農産物が高いというのは助かることなのだけれど、何もインチキをして儲けるなんてことをしたいわけではない。しかしまともなことを言っても百姓仲間から毎回裏切り者として疎んじられているのも事実で、この業界は本当に腐っていると真剣に思う。また、後継の若い人間でさえそういう事実を知らないまま声を上げている人も多くて、本当の改革とはまったく別の方法だということを伝えたいとも思っている。
 食料自給率が低いという嘘(またはココ)については前々からいわれてきたことであるにもかかわらず、マスコミが嘘を垂れ流すことに加担し続けているのも事実だ。野口悠紀雄氏がいうように勉強不足である上に、既得権益を守る体質があるためである可能性は高い。また格差社会だとかいうけれど、マスコミ関係者の平均給与が異常に高いことは周知の事実だ。実際のコンテンツは丸投げで下請けの制作会社に叩いて作らせ、自分らはほとんど何もしないで既得権益の上で胡坐をかいているとも言われている。少なくとも競争のない社会は腐る。
 もちろん公平なルール作りが大切であることにかわりはない。そしてそのルールが不公平であるのがどこの業界なのか、ということが改革の決め手になる。それは、斜陽産業を救うことで、長い目で見ると今ある不公平の是正を狂わせることになっているためなのかもしれない。改革の痛みは確かに一部には致命傷になろうが、全体的には必ず薬になる。少なくとも不正確な情報を基にして政策をつくっても、やることなすこと裏目に出るのは当たり前である。
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格段の進歩

2008-09-29 | 散歩

 息子の運動会を見にゆく。曇っていてとてもよかった。弁当もうまくて、結局今月の目標としている減量達成は持ち越される可能性が高まったことは残念だった。しかし、そもそもこれは計算に入れるべきだったのかもしれない。
 昨年と比べて格段に良かったこと。それは何と言っても放送だった。いや、機材の方は相変わらずノイズが多く音も何度も中断したりして、メンテナンスが悪いのかそもそも機材が悪いかのどちらかだろうとは推察された。それだけ改善の余地がありながら手が付けられていないというのは問題ではあると思った。
 よかったというのは放送をする人のこと。「おおっとー、青組が前に出ました!」と気合いの入った実況は会場を大いに盛り上げた。まあ僕自身は本当を言うとこういう実況の必要を感じないが、昨年のあのやる気のない実況と比べると格段にこちらの方がいいと思う。正直言ってかなり見直した。きっとやる気のある人間が改革したのだろうと思われる。さらに「天国と地獄」のような古典的な音楽が少なく、ほとんど最近と思われる(僕はほとんど聞き馴染みがない)曲がガンガンかかっていて、選曲から自分たちで行ったのだろうことが伺えた。もの凄い進歩であると評価したいと思った。そのためなのかは不明だが、昨年のモタモタプログラム消化ではなく、ほとんど時間より早く種目が消化されて気持ち良かった。しかしながらその為なのか、終了後の後片付けまでは昨年より時間がかかった。おそらく解団式に時間がかかったものだと思われ、それだけ生徒たちが余韻にひたる時間が長かったのかもしれない。
 どこかにやる気のある人間が出てくると、爆発的な相乗効果が生まれる。もちろん、そういうやる気を自由にさせることができるかどうかだ。何かの抵抗勢力の力が弱まったのか、もしくはそれ以上のパワーのある人間がいたということが考えられる。そのまま杭が打たれないことを切に願うものである。
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バベルの塔移転問題

2008-09-29 | 時事

 Y介君の会で県庁移転問題のレクチャーを受けた。K村君(いい加減伏字じゃなくてもいいんだけどね)の現状説明で内情はよく理解できたし、役人が作る既成事実の積み上げに改めて多くの人が付き合わされている(それもものすごいコストで)時間の無駄遣いという印象も受けた。しかしそれでも結局詰めが甘いから今になって批判が来るわけなのだろう。いったい何年かけてそれだけの仕事しかできないんだよ、という率直な感想しか持てない。そうして最悪のタイミングに最悪の決定を下さなくてはならなくなるのである。普通の話であれば何の問題もないことなのに、わざわざ問題が持ち上がるように根回しを続けるようなものである。そうして結局働く職員の利便性を最優先させるということを重点を置く決定が欲しいという欲望が見透かされるようなことになるのである。
 その後のY介君の話は政治の根本的な役割の話で、原理的に賛成である。政策の説明ができない政治家が政治を行うので、今のような混乱があるのだともいえると思う。市民の声ということを使用して利権を確保するために仕事をしすぎて山河ありである。
 ほぼありえない話にしろ、さてしかし県民の利便性のため県庁は県央にという話は一見合理的であるけれど、よく考えるとなんとなくどこかの商店会のような既得権益というか利権が欲しいよう、というような気がしないではないところもある。大村が適切だという話をすると県央は大村だけじゃなくワシも俺もなどとやっている変な議論を聞いていると、それこそ政治はもう少し近隣で話をまとめておいて理論武装すべきなのだ。一石を投じるというか、実はその後の道州制への布石であるというのはなんとなく分かったので、それはそれでなるほどであるけれど、やはりそれならもう少し詰めておくべき布石はありそうである。
 がしかし僕はそういうことを言いたいのじゃなくて、そういう県庁移転が地元活性化に意味があるということが言えるのであれば、長崎県として最も活性化策の乏しい地区こそ候補にあげるべきではないかとも思うのである。
 離島が多いんだから候補地はたくさんあって、逆に選択するということにおいて大変苦労しそうだけれど、離島に限らず今何とかしなければならないという地区はあるように思われて、そういう議論ならもっと楽しいことになるんじゃないか。できれば近くに商店街などがなくて、利権臭いことを一切言わない潔癖度などを基準にするとさらによろしい。
 それだけの英断が下せる県議会であるということになれば、有権者のみならず、全国的にも本当に誇れる政治の県として大々的に報道されることは間違いがない。
 僕自身は県庁には用事がある方だし、まったく不都合になるに違いないが、それこそ一部の人間の負担であることには間違いがなく、多くの県民のため(長崎市民の人間が一番県庁が必要ということはあり得ない)になることの方を優先すべきであると思う。それこそ県庁職員はあわてるだろうけれど、図らずも抜本的行政改革になる(志のない職員は淘汰されるだろう)可能性だってありそうである。
 それでも魚市跡地に県庁は建てられる。僕らの汚点としての立派な施設は、後世に長くそびえ立つことになるのだろう。
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正直者は報われない

2008-09-28 | 時事

 中山国交相が早くも辞任したわけであるが、せっかく面白かったのに残念である。もっと発言を引き出せたらよかったのに。選挙前で無かったら、もう少し楽しめたのだろう。こういう人がまだまだ居そうな自民党も、懐が深いねえ(皮肉)。
 しかしながら、ある意味で本当のことを言っているわけで、怒る人たちともっとやりあった方がよかったのである。しかし考えようによっては、正直者は報われないということなんだと思う。嘘つきでないと泥棒と政治家は務まらないということを、世論こそ求めているようなものである。だからこそこの国は駄目なんだと、さらに皮肉って見るといえることだと思うのである。少なくとも失言で辞める(させる)ということは、本質的にもう止めようよ。失言には本質も隠されているわけで、そこのところをもっとどうにかしなくては、ということの方が、ずーっと重要なんじゃないですか。
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再編じゃなかったんだ

2008-09-26 | 時事

 小泉さんの引退というと最後のサプライズととらえる人が多いようだ。確かにそういう根強い待望論とともに人気が持続していたことは明らかだろう。そういう人たちにとっては、このようなサプライズとなることが如何にも残念に違いない。政界再編論こそ日本のとっておきの未来だったようにも思うが、これでそういう夢もやはり夢だったのかということなのかもしれなかった。小沢さんにしろ麻生さんにしろあきれるぐらいのばらまき政策が露呈しているだけに、僕は自分の子供にも申し訳ないような気持ちでいっぱいだ。この子らが本当に不憫である。その上に26ぶりだかの貿易赤字のニュースも飛び込んできた。これでも実行するというのは、さらに10年あまりを失うということなのかもしれないのだった。しかし利権というのは本当に恐ろしい力があるものである。自民党が悪いというより、これだけねじ曲がったままでも押し進んでいこうという思惑の方が勝るというのが、何より恐ろしい。それでも政権交代。そしてその後しか、打つ手はなくなった。その打つ手の一つが、どういうわけかフッと消えたように思えるのが、やはり残念ではある。僕自身は再登板などは期待していないけれど、牽引力は少しは期待していたのだろう。しかし理性的に考えると後期高齢者医療制度を象徴するような必要な改革は、結局は多くの人には理解ができないものらしいことを思うと、辞めてしまうより他にないのかもしれない。やれるもんならやってみろよ、というメッセージではあるのだろう。政治の力がたいして経済への影響力がないことが、何とか日本を救っているとしか思えなくて、いや、それならそれで、自助として生きていく方法はあると考えていかなければ未来は消えてしまった。
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ほんこーん

2008-09-25 | 音楽

 既にものすごく話題になっているようで知っている人も多いと思うが、ちょっとした力を感じるのも確かだ。
 「ほんこーん」という人は本当に香港の高校生であるらしい。日本語はかなり上手らしいけど、普段は中国語を話しているという。この話題の盛り上がりで、すでにNHKでは出演もしたことがあるようだ。
 これがまったくの個人プロモーションだとすると、本当にこれからのタレントというものの可能性が、まったく別次元の世界へ突入したということが言えるのではないだろうか。いやむしろ、そのような意外性こそが最大のウリであるわけで、このままミステリアスな部分が残っていることこそ、盛り上がりの原動なのだろう。
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ゾンビふたたび

2008-09-25 | 雑記

 しばらく聞いてなかったようにも思っていたが、いつの間にかゾンビのように復活する血液型性格診断ブームであるようだ。何故か職場にはO型の本が置いてあるようで、昼休みなどにはワイワイみんなで回し読みなどをしている。その何故かはO型の人が持ってきたらしいことが後でわかった。何人いるか知らないが、ウチの職場は圧倒的にO型の人が多いらしい(パーセンテージまで知らないが)。しかし後になって熱心に読んでいるのはAB型の人で、同僚を観察調査しているのだろうか。まあ、面白いことが書いてあるのだろう。
 血液型と性格との因果関係が明確に定義づけられたことはないが、それにもかかわらず熱心な信者がそれなりに存在するのは何故だろうか。それもほとんど日本においてのみこのように普及するのは何か訳があるのだろう。いろいろそこのあたりについては議論もあることと思うが、ほとんど誤解のまま了解してしまう魔力も含めて、いや、そういうものを超える面白さが人々を虜にする要素としてとらえられ魅了してしまうのかもしれない。
 適材適所という考え方もあって、どのような人がどのような行動を(仕事)とるべきかという指針になると考える人も多いのかもしれない。田淵コーチのような人にはこれが真剣になり、本当に選手起用の材料にまでなっていたらしいから、ほとんど犯罪である。昔のあるある何とかというような捏造テレビ番組では、血液型を基に教育をする恐ろしい幼稚園があることが放映されていた。明かな洗脳で、将軍様も真っ青である。アナウンサーの梶原しげるなどは、目立つためには自分の血液型がAであることの不利に気付き、B型と偽証して仕事を増やしたということを告白している。なるほどその手があるのかとも思うが、偽装は偽装である。それほど社会的な病理は深く、ちょっとした遊びを逸脱するほど罪深いことになっているのが現実である。
 日本人において比較的少数派であるB型やAB型の血液型の人間のことが、少し悪く書いてあることも普及に大きく貢献したとも言われている。日本人の多数であるとされるA型の人全部が、几帳面で真面目だとされるところからかなり怪しいと思うのが客観的態度だと思うが、そうは思わない多数の人たちが共感したということなのであろう。なるほど、因果はなくとも共感が勝るというのは経済学的にも正しいようにも思える。誰もそうは思っていないことを含めて。
 何かのコラムで、これはマーフィーの法則と同じものだと指摘しているのを読んだ記憶がある。なるほど、それなら共感があって当然かもしれない。何の慰めにもならないが、たとえ現実が納得いかないものであっても、人は自分の所為にはしたくないものだ。本当に自分だと気付いた人は、かえって精神を病んでしまったりする。これは人間のもともと持っている防衛本能というか、まっとうな誤解行動ととるべきものなのかもしれない。
 テレビを見ていると矢追純一(懐かしい)が出ていて、相変わらずUFOと宇宙人であった。子供が見ているのでその有害性に嫌悪さえ覚えるのだが、その映像はなかなか面白いのは確かである。いや、はっきり滑稽で思わず笑ってしまったのだけれど、テレビの紹介の仕方にもフェイクがあって、最初は映像に驚きや感心するような顔をしている芸能人を映していたが、段々頭を抱えるように困った顔の知識人や芸能人を映すように画面が移り変わった。はっきりと矢追を裏切り馬鹿にしている。
 インチキというものはある程度は時代に淘汰される運命なのかもしれないとも思う。もちろん矢追純一は本当に映像を捏造(しているものを集める能力が高いのかもしれないが)するけれど、だまされるのは大衆である。いや、正確には受け入れたのではなく、欲したのかもしれない。そのニーズを提供していたはずの人間が、ニーズに適応できなくなったとみるならば、淘汰ということには当たらないのかもしれない。
 だとすると、血液型ゾンビは今後(未来も)も何度も復活するということはあるのかもしれない。残念ながら日本の集団の中には、まだまだある種のスケープゴートの欲求があるのだろう。
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性と愛の日本語講座

2008-09-24 | 読書
性と愛の日本語講座/小谷野敦著(ちくま新書)

 別段スラング講座というわけではない。しかし、この方面の言葉を考えると、どうしてもそういう方面の方が一般的なような気がしないではない。秘め事ということもあって、公の場で発言する場合と、雑談などで発言する場合には違う表現をしてしまうことの方が自然であり、そうすると文献などに残りにくくなるのではないかとも思われる。
 しかしそうではあっても当時の文献にあたって言葉をひも解いていく時、今とは違った言葉のニュアンスが浮かび上がってくるというのはなかなかの発見だった。時代にもよるが、少し前の時代では、恋愛と性愛というものの分離がされていなかったという著者の見立ては、なかなかの説得力がある。恋愛と性愛を分離させて考えている現代人の苦悩というものが逆に浮かび上がることにもなっており、なるほど恋愛というものが難しくなったのは、そういう言葉の了解からも読み取ることができるようである。それはその背景にある思想ということもあるが、今となっては当たり前に思えることも、時代背景の違いでは、まったくの的外れな考え方なのではないかということも、考えさせられて面白い。
 時代の違いにおいて男女関係の悩みというものも当然微妙に異なるということも言えて、人間の精神の歴史を考えるということは、あんがいどうにも難しいことなのではないかとさえ思われたのであった。昔の人は今と同じように恋愛をしていなかったかもしれないというのは、人間の感情がどこまで同じなのかという根本的なものを揺るがすような、不思議な感覚を呼び覚ますのである。現代人が悩んでいる多くは、実は無用な部分での執拗なこだわりが呼び込んだ悲劇的なものが含まれているようでもあり、なおかつ滑稽に見えたりもするのだった。まあ、どちらがしあわせかというと、根本的に比較する方が徒労というか、違うものは違うとしか言いようがないのだけれど、もう既に今の日本人というものは、伝統的な日本人というものではないのだな、ということも言えるような気がする。時代とともに、人間というものは変わってしまう方が自然なのだ。
 さてしかし、このような時代検証ということも面白いのだが、多くの人が性愛関係などの言葉に目覚めて、辞書を引きまくるというような経験があるのではないかと僕は疑う。著者はちょっと極端ではあるけれど、そういう少年時代というか青年時代のことも思いだされるような気もして、読んでいて思わず苦笑してしまうことも多かった。例えば新明解国語辞典(新解さん)のファンの人の多くは、この言葉のニュアンスの面白さとともに、甘酸っぱいというか、はっきりと苦い思い出とともに、言葉を解釈するのを楽しんでいるのだろうと思う。新解さんの有名な「恋愛」の項は、
「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。」
 と書いてある。その通りかもしれないが、ひどく滑稽である。そう、性愛関係は切実であるからこそ滑稽なのである。
 私ごとなのでどうでもいいことだが、恋愛感情を伝えるとともに、そのなんというか、性愛の意思をとげたいということをどのように伝えるべきかということについては、人並に悩んだ経験はある。もの凄くまどろっこしいというか、重要だけれど、とても上手くいえそうにない。ドラマなどでいざ事に至るという場合でも、時間の関係もあるのかもしれないが、真面目なものは割合すんなりそのようになったりして、どうにも納得がいかない思いがしたりした。さらに関係ないが村上春樹の小説などは、いとも簡単に男女が情愛を交わす関係になったりする。とても僕にはできそうにないし、また、とても現実にはそのような人間関係が結ばれているとは信じがたかった。少なからぬそのような青春の日々を過ごして、それなりに絶望していたことは確かで、情愛というものは本当に罪深い人間感情であるとつくづく思うのである。
 しかしながらそのような、まどろっこしいような人間感情があるということが、おおげさに言うと生きているということでもあり、まぎれもない現実のことであることは間違いがない。避けて通れないのであれば逆に直視して逃げないというのも生き方である。まあ、それでも恥じらいということもあって、おおっぴらに論じることがはばかられるだけのことであって、知らないままに諦めるというのが賢い生き方だとも思えない。
 いや待てよ、そんなことは本を読むまでもなく、すでにみんな知っていることなのであろうか…。やはり、分からないことが多すぎる。この方面の悩みは尽きないのであった。
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営業が多くて困っている件

2008-09-23 | 雑記

 別にセールスの人間を蔑むつもりは無いのだが、この時期のセールスの追い込みには正直に言ってげんなりする。職場放棄したくなるほど煩わしい。頻繁に都合を聞かれ、時間をつくれと強要される。うっかり時間をつくるとしつこく付きまとわれる。仕事の時間では失礼だからとか何とかいう理由で、昼休みや日没後に来訪してくる人も多い。昼には散歩をしたいのだし、やっとのことで仕事を片付けて読書が出来ると楽しみにしていたのに、そういう時間を狙われてくると、かえって自分の時間を奪われてイライラしてしまう。しかしやはり敵も然る者で、そういう気分のイラつきを利用しているふしがあって、こちらの不機嫌な落ち度をついてさらにしつこくするようでもある。実際面倒なので、時間がかかりそうになると根負けしたくなるのは確かである。いや、どうしようもなく話が長い人間(商品が如何に優れているかという説明は、購入する動機として不要である)であるとこちらも意固地になっているので、多少よさそうなものであっても断固断る(欲しくなったら別の業者を呼んでから買う)が、なんとなく要領が悪く、あんた一体何しに来たの?というような人間に来られると、めんどくさくなってつい買ってしまう。今どうしても必要なのかという問題はあるにせよ、そろそろ時期だったと思うような話であれば、説明を受ける前に購入を決める事が多くなる。では商品の説明に伺いますなどというので、きっぱり断る。出来れば納入は僕の不在中に行なって欲しいというと、絶句する人もいる。内容など知らなくていい。買ったのだからもうお前のものではなかろう。静かに放っておいて欲しい。
 たけくまメモに宮崎駿のあるエピソードが紹介されていた。竹熊さんがインタビューしたいと電話で申し入れていたのだが、宮崎駿はアニメの製作に追われていて、忙しくてとてもそのような時間が無いから駄目だといって断っていたらしい。しかし、当然のようにそこを何とかという話になる。すると宮崎は、「えーい、断るのが面倒だ、5分だけ会おう」といって、実際には二時間興奮して話をしたのだという。オタクはいい人が多いのかもしれない。
 まあしかし、上司からいろいろ言われて営業をかけている人も多いだろうことを思うと、営業の人にとっても本当に気の毒な話だと思う。一年に平均的にどれだけ売るという目標があるのは分かるし、その締め切りになって躍起にならざるを得ないというのも理解できる。しかし一夜漬けが長い目で見てたいして身につかないことを思うと、この時期に躍起になるような体質の会社というのもどうなのかという気がしないではない。
 しかし、締め切り効果というのは確かに人間のやる気を引き出す最大の設定であるということもいわれているわけで、むしろこの時期にやる気を出すということのほうが人間的ということもいえるのかもしれない。もちろん受ける側の人間としては集中して閉口してしまうことはあるにせよ、年中ひっきりなしに攻勢をかけられることに比べると、今ぐらいという覚悟があったほうが、いくらかましということかもしれない。幸い今の時期は出張も多く、本当に不在のことも多いので、こちらとしてはそれなりに都合がいい。欲しくないとか要らないとかいうと、セールストークは逆に激しくなるので、居ないとか時間が無いという理由で会わないのが何よりの防御策になるのである(実際ほとんど会わないし、この時期に電話は取らないのだが)。どの道会えばその時間は仕事は出来ないので、この時期は職場で仕事をしない工夫が必要になるということで、割り切った方がいいだろう。要は時間もコストなので、割引した分よりも長い時間を割いて購入することの方が無駄なのである。
 しかしよく思い起こしてみると、ウチに来る営業の人は、よく担当が替わる。はっきりいって、よく辞められるようである。営業に向かない人(そういう人からしか買う気になれない)がウチに来て成績を残して、結局しかし他では売れないし、ウチしか頼れなくなってフラフラやってくるが、そうしょっちゅう買うわけにもいかないから、行き詰ってしまうのかもしれない。気の毒だが一時の夢は見たのだから、まあ、いいだろう。転職先で頑張って欲しいものである。
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母べえ

2008-09-22 | 映画
母べえ/山田洋二監督

 そういえば山田洋二監督は共産主義者だったなあ、と改めて思いだした。そういう意味ではなんだか懐かしい映画だが、類型的でその型からはみ出さないところは、その思想が邪魔をしているせいだろう。確かに思想をもった人は苦労したに違いなく、国家を転覆するほどの恐怖を抱かせたのかもしれない。いや、その時代においては本当に転覆させかねないような自由な思想のインパクトは強かったのかもしれないとも思う。特に若い人たちが熱に浮かされるように熱中してしまう可能性は高く、時代のもろさとともに、個人が抹殺されることになったのかもしれない。それは大変に不幸なことだし、二度と戻ってはならない時代の恐ろしさだとは思う。大杉栄などのような天才がもしも生きながらえることができたなら、ほんの少しでも日本は変わったかもしれない。しかし時代のIfは残念ながら無い。不幸である犠牲の上に現代はあって、だからこそ貴重な自由を謳歌できるのだということなのだろう。
 物語そのものについてはそのように典型的(ある意味で戦後民主主義的な)な時代認識にすぎないのだが、戦争の不幸というものと、強く生きようとする人間の姿として教訓的であることは確かである。現代の自由の中にどっぷりとつかっている身の上ではなかなか感じ取ることのできない芯の強い人間を考えるとき、このような手法をとらざるを得ないということもあるのかもしれない。だからと言って嘘をついてはいけないという気はするけれど、物語なのだから嘘とは言えないだけなのだろう。
 実は別のテレビを見ていて従軍慰安婦の問題についての議論があって、強制連行はあったのだかなかったのだかということは延々と議論になる。結論としてだからどうなのだということがさらに重要だが、やはりこのことに拘泥して先に進むものではない。有ると無いの議論は物事の本質として根本的に公平さに欠ける議論にすぎなくなるのだが、やはり慰安婦問題の最大の問題点であるように思いたい勢力についてはこれが重要であると考えるのである。だから既に決着のついている問題であるのに平気で幽霊は立ち上がる。その時の常識を今の物差しで判断することが根本的なナンセンスだというデリカシーがないのである。あえて言うと、卑怯なのだ。
 その時代の人々の行動はその時代の空気が分からない人間には、やはり本当には分かるものではないと思う。映画では実家の父親はわからず屋の悪人だが、意地を張って子供に苦労をかけるのは誰なのかということである。別に意地を張らなくても生きにくい時代だったにもかかわらず、本当は死活問題だったのかもしれなかった時代において意地を張る美徳を説くのは、やはりどこか公平さを欠くものではないかとも思うのである。
 いや、やはり止めよう。一方で事実として虐げられた人はいて、彼らは個人の力ではどうにもならない権力に抹殺されたのであろう。そういう時代に賢く生まれて(もしくは思想を切り開いて)しまったものは、殺されるよりなかったのである。そういうおかしな世の中をおかしいといえる、もしくはくだらないといえる自由さは、ものすごく貴重であることにかわりはない。自由な世の中にあっても虐げられる人たちはいて、僕はそのことを考えたいだけなのであるから、虐げる残酷な民衆というものの醜さは、心に刻んでおいてもいいだろう。実際に、感覚的にこの映画がおかしいことが分かる程度に自分自身が自由であることを確認できたという意味では、啓蒙させられたともいえるのかもしれない。
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贅沢は敵

2008-09-21 | 雑記

 トイレとの付き合いはそれなりに長いのだが、いろいろなところで利用するので、トイレで覚えている場所なり地区なりが存在する。以前の中国の公衆トイレようなものすごいインパクトのあるもの以外でも、特に困った時など思い出深い場所になったりする。
 出張で泊まるホテルは圧倒的にビジネスホテルだが、ビジネスホテルのトイレというのは大抵窮屈で、当然のようにバスルーム(いや、ビジネス以外のホテルはそうなのだが)なので、本当にシャワーを使用した後などは暑苦しい。近年はめったに無いことだが、複数の人と同室になった場合、トイレの使用の制限が生まれ、不便である。ロビーなど部屋以外のトイレを使用する機会が格段に増える。昔ながらの旅館では、いまだにウォシュレット機能がついていないトイレであったりして、事を済ませた後や寝る前に、改めて部屋のバスルームで洗ったりしなくてならず面倒である。僕は十代の頃からこのウォシュレット機能を愛好しており、紙だけではなかなか満足できない体になってしまっている。会議などの場所でこの機能の無いトイレを使用した後、街中の比較的立派なホテルへ移動してトイレだけを借りて、特に用はたさずにウォシュレットを使わせてもらうこともある。開かれたトイレのあるホテルというのは、素晴らしい文化であると感謝している。
 こうして水で洗ったあとに紙、いわゆるトイレットペーパーを使用するのだが、近頃の経費節減やエコロジーという名の強制善意の波が押し寄せて、この紙の質が著しく低下傾向にあるような気がして嘆かわしい。水分をふき取るだけなのだから贅沢だといわれればそうなのかもしれない。地球のために辛抱しなければならないことはたくさんあるし、その中でも特にトイレの紙の問題が重要であるならば、そういう不満は非国民の声であることはよく理解している。しかし、ホテルの印象として僕個人のものとしては、この紙の使用感というのはそれなりにポイントが高いのである。ある程度高級そうに見えるホテルのトイレの紙が、シングルで尚且つパリパリなものだったりすると、経営状態の心配までしてしまうのである。いや大げさな話なのではなく、特にシングルであればそれなりの長さが確保できて、トイレの見回りの時間の確保ができるというホテル側の利点があるということはなんとなく理解できる。さては人員の整理をしやがったな、という気がしないではない。そういう経営方針を非難するつもりはないにしろ、その後身売りをするホテルを何件か知っている。日用品、特にトイレットペーパーの質からホテルの凋落は始まっているのではなかろうか。
  やっぱり大げさな話になりつつあるが、単に僕はこのシングルのものが嫌いらしい。いや、ダブルであっても妙にたるみのあるのは感心しないけれど、この薄くて何重にも巻き取らなければ使用しにくい形態は何とかならないものだろうか。シングルのペーパーはぎっしりと紙が密着して巻きついており、再度必要な時の紙の切れ目が見つからずに往生したりする。何度も回転させて見つけた後も、なかなかそこから剥がれなかったりして、不便極まりない。トイレ掃除がなされた後には、きれいに三角の折り目がつけられたりするわけだが、使用後にこれがないと大便をしたという証明にもなってしまい(男性の場合は入った時点でほぼ確定はしているにせよ)、もちろん事実は厳粛に受け止めなければならないにしろ、掃除をしたわけでもないのに後の人のための三角を作っておくという親切心でさえ、なんとなく偽装しているような気分が残ってしまうので、あえてそのままにして後にするのも心苦しいのである。
 ついでだが、ダブルの切り取り線も気に食わない。そういう長さを強制されるのも嫌だし、ある適当な長さに切ろうとしている時に途中で勝手に切れたりするとイライラする。こうして切り取り線で区切る必要は先に書いたたるみの問題がある所為だろうけれど、ダブルにはダブルなりの紙の質の程度があって、切り取り線以上に重要であることは間違いが無い。やさしい紙は使用感もやさしいのだが、それが地球への罪悪であるというならば、受難を受け入れることではあろう。しかしもしそうでないのならば、トイレットパーパーにはもう少し考慮する世の中になってくれないものなのかと思うのであった。
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疑惑は掘り下げられるか

2008-09-21 | 時事

 飛行機の待ち時間にビールを飲んだのだが、到着後車を運転しなければならない人がいて、少し重い空気になった。連鎖的に判明したが、それは聞いた以上いけないことだと発言した本人でさえ車を運転しなければならないらしい。もちろん時間的な関係があるのだが、飲んだ時間から5時間ほど後になる予定だから、微妙といえばそうなのかもしれない。
 大田農相が辞任したが、責任を取るというより、これも失言によるところが大きい印象を受ける。もちろん他にも叩けば問題が出ることも確かそうだったし、次の選挙に向けての本人以外の事情なのかもしれないが、見た目からいうと「じたばたする」という言葉の使い方だけだといってもいいかもしれない。もちろん認識に甘さがあるということなのかもしれないが、本来的な意味として、既に混ざったものを飲んだり食べたりした人が、そのために健康被害をこうむる可能性は低く、パニックをあおってはいけないという判断を伝えたかったものだと素直に読める。マスコミと大衆は素直でないから餌食になったと読むべきだろう。資質の問題や本来的な問題となんら関係無いが、そんなものである。もちろん僕は同情的でもないし、庇う心情も無い。無いがこれで問題解決は遅れるだろうとは容易に予想は出来るだけである。ますます躍起になって表面を取り繕うことに専念されるからだ。
 テレビで三笠フーズのトンネル会社の取材を見た。見事に内情が分かったのだが、記者がこのようなことをして消費者に影響が出ないとは考えなかったのかというような誘導尋問をして電話を切られていた。テレビ的に欲しい絵というものは分かるが、これで表面的な取材は終わったと見るべきだろう。たぶん、本当に真相を伝えたくは無いのだろうと思う。面白い物が撮れたらテレビの仕事は終わりということだ。しかし住所を当たったらトンネル会社そのものに当たるようなずさんさというインパクトは確かに面白いが…。
 構造的な癒着があった可能性は非常に高いだろう。しかし、その糸は簡単に切れるのである。この事件以外の可能性はどうだろうか。普通に考えて偽装の撲滅は不可能であるが、相当減っているはずであるとは思われるものの、これだけ大きなものが明らかにされた。まだまだ高枕で寝ているような人だっているのであろう。
 社会的な制裁というものが必要なのかということはひとまず措くが、法律よりも有効である可能性は否定できない。多少神経質すぎて窮屈であるにせよ、昨日の世界より、今日は少しだけ安全になっているのかもしれない。もちろん明日がそれ以上に安全である保障は無いのだが…。
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本体は何処へ?

2008-09-20 | 

 出張で仙台へ。台風騒ぎで帰ることが出来るか心配したが、上手く乗り継いだ。疲れました。
 ところで仙台名物は牛タンなのであるが、何処の牛タン屋もものすごい人だかり。みやげ物も牛タンだらけである。もうひとつの名物である笹かまぼこにも(種類によっては)牛タン入りだったりしている。これだけのタンのためにどれほどの牛さんが必要だったのかと思うが、タン以外の大量の肉の方が何処に行ったのかも気になるところだ。これだけの供給の偏りはどこかで調整しない限りバランスを保つのが難しいだろう。他の地方では牛タンだけあまっているということなのだろうか。だとすると、受け皿として機能していることになるが…。まあ特に産地がどうだということではないので、調整できる範囲の名物ということなのかもしれない。もちろんしっかり頂きましたけど、旨かったのでよかったのだけど、付け出しのキュウリとキャベツの漬物が面白くおいしかったのでした。
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長引くんだろうか

2008-09-16 | 時事

 まあなんというか、世界同時不況というものが始まったみたいだ。いや、比較的日本はそうじゃないのだけれど、かといって活況ではないのだから同じように先行きは暗い。冬眠のできる人は、どれぐらいしばらくかは分からないにせよ、寝ていた方がいいようだ。
 さてしかし、景気というのは結果でしかないわけではあるが、日本だけ踊らなかったことが、結果的に良かったともいえるわけで、実は賢かったのだろうかなどと考えてみるが、いや、単に踊り方を覚えられなかっただけのような気がするので、みじめなような複雑な立場である。元気よく踊っていた人たちがさびしく退場する様を遠くで眺めて、意味の分からないまま畑を耕しているようなものだろうか。さてしかし、しっかり作ったものであっても、もう買ってくれる人はいないのかもしれない。
 結果的に日本は相対的に強くなったことは明らかだが、円が上がって原油をはじめとする原料や穀物が暴落しているときに、国内でばらまき対策が取られ、さらに借金が増えたりするような将来が見えてきたのだが、幻覚だろうか。それにしても、なんか選挙やらない感じも少しするんだが、そういう予想は外れてほしいよ、まったく。
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