カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

友和さん嫌な人   葛城事件

2021-10-31 | 映画

葛城事件/赤堀雅秋監督

 最初から、何か不穏な空気が漂っている。無精ひげを生やした友和さんが、何かふてぶてしく不機嫌にしている。なんでこうなってしまったのか……、ということで、時系列がバラバラになって、過去のことが徐々に明かされていくようになる。家の主の男は、金物屋の後を継ぎ一国一城の主として、念願のマイホームを手に入れ、二人の息子にも期待をかけて、まさに我が人生の頂点に君臨していたことがあった。誰もが羨むしあわせを体現している男として最高の自分というものを持っており、そうしてその考えがゆるぎないことから、これからもしあわせが続いていくはずだったのだろう。
 ところがこのお父さん、自分の正当性のための理屈が、ものすごくめんどくさいのである。言っていることの総てが間違っているとは言えないのだけど、しかし何か非常にひねていながら巡り巡って正当化される理屈の道筋の流れの中に、多くの欺瞞があり、捏造があり、そうして恫喝があるのだ。妻や子供たちは、この絶対的な父の理屈の前に(その前にめんどくさいからかもしれない)ただ静かに我慢を強いられ、抑圧され、謝罪させられ、絶望している。そうして解決策として逃げ出すことも試みるが、そうすると従順な長男が、居場所を父に密告してしまうのだった。
 一定の画面の暗さがあって、ずっと何か大きな暴力が暴発する雰囲気が漂っていて、観ていてものすごくつらい時間が続く。そうして友和さんが何かを語りだすと、その語りにも行動にも、暴力の影がさらに色濃くなっていくのだ。それに耐えるよりないことは分かっており、しかし反抗心が無い訳ではない。誰かが爆発するはずで、その爆発のさせ方は、どうなってしまうのだろうか。
 ということで、それぞれが自分なりのやり方で、爆発する。厳密には壊れていく。人間がどうやって壊れるのか、という実証映画ということなんだろうか。実は友和さんだって最初からそれなりに壊れているはずなんだけど、周りから派手に壊れてしまうので、なんだか一番小物だったりする。そういう部分も含めてよく出来た映画で、俳優さんもみんな頑張ったなあ、という感じかもしれない。見終わってもしばらく嫌な感じはのこるわけで、もう最悪である。でもまあ、そういう映画なんだから、いい映画ではないが、凄い映画なのである。皆さん、打ちのめされてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年の差は、アリであるはずだけど   恋は雨上がりのように

2021-10-30 | 映画

恋は雨上がりのように/永井聡監督

 原作は漫画であるらしい。さらにアニメ作品もあるという。この映画がそれらをもとにどれだけ忠実に作られているかは検証するつもりはないが、映画の尺の関係もあるので、ずいぶん端折られているのではないかと推察はされる。
 主人公の女子高生は、アルバイト先のファミレスのさえないオヤジ風の男に恋心を抱いている。元陸上部で、短距離の全国レベルのトップのスター選手だったが、アキレス腱のけがで戦線離脱している。お話はこのちょっとあり得ない年の差恋の行方と、実はこの主人公のレスポンスの高さから、この年頃の階級社会のありようのような背景が描かれている。それは主目的では無いにせよ、さえないバツイチの中年男性が卑屈にならざるを得ない状況であることを浮き出させており、さて、どうなるのか? ということなのだろう。
 しかし映画だから、主演の小松奈々と大泉洋との関係を見ると、それはあり得るというように見える。学内の関係と、ファミレスの他の従業員の恋の駆け引きは僕にはよく分からない感覚だったけれど、それが世界観というやつだろう。なんだか若者というのは階級が激しいな、という気がしたが、だから仕方がない。
 僕は中年男性よりも年上だし、そのあり得ない気持ちはよく分かるけれど、しかしながら人類の歴史的な恋愛ということにおいては、別段あり得ない話ではないし、むしろありふれているようにも感じるのだが、それは前提としておかしいことになる。主人公の女子高生は母親と暮らしているのだが、父の気配が無く、母子家庭なのかもしれない。それは重要な描かれ方はされていないが、一つの要素ではある。さらに店長の男は、作家志望で、有名な作家の友人もいる。さえないといっても客に誠実に謝るし、激高して従業員をしかりつけるようなことは絶対にしない。特に仕事ができすぎるわけではなさそうだけど、店長である。休みの日には小学生くらいの息子と遊んだりしている。モテる男ではないかもしれないが、十分にいい人間ではないか。
 ということで、少女から大人への成長物語のはずでもある。僕なんかは、これが「セーラー服と機関銃」だったわけで、時代も変わったな、ということでしょうかね。まあ、全然違いますか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丙午はやって来る

2021-10-29 | 雑記

 僕は丙午生まれではないが、丙午会という飲み会には呼ばれて飲むことになっている。それはまあいいのだが、丙午の人たちというのは、出生率が低かったはずなのに、変な人の率は高いという説がある(もちろん諸説ありますよ)。僕は近い世代なので、単に実感が強いという感じがするだけのことかもしれないが、出生数が彼らよりはるかに多い世代なのに、僕の世代はたいしたことが無い。野球の清原がいるが、今となってはうーん、という感じだ。もちろん、僕だってたいしたことが無いので、ひがんでいるのかもしれない。
 BSで「カバーズ」という歌番組があって、そこに出てくるミュージシャンには、どういう訳か丙午(1966年生まれ)の人が極端に多い。ほぼレギュラーの田島貴男を筆頭に、宮本浩次、斉藤和義、益子直純(怒髪天)、吉井和哉、トータス松本、スガシカオ、スカパラの人、などなど。で、この世代だけで「ROOTS66」というイベントまであるという。あつまりゃいいってもんでもないが、凄い感じはするでしょ? しないかな。
 それでこれはどうしてだろう? と考えてみると、やはり親に一定の原因がある可能性は無いだろうか。丙午生まれが少ない最大の原因は、迷信の所為である。恋人に会いたいがために放火したとされる「八百屋のお七」の生まれが丙午とされていて、丙午生まれの女は夫の命を縮める(不幸にする)などと信じられているのだとか。しかしながら実際のお七はどうも丙午生まれ(計算が合わないらしい)ではないようだし、妙なものである。妙だけれど実際に明治39年も昭和41年も、ひどく出生率は下がった。迷信だとほとんどの人は分かっていながら、それでも生むのをためらう人が多かった結果だとされている。そのうえ、悔やんで自殺した人もいるんだとか。まったく笑えない話である。
 それでも生まれた人たちがいるから、迷信に負けずに生んだ親がいることになる。丙午の年になると、これが迷信だから気にするな、と一斉に世間が騒ぎ出すそうで、身ごもった関係者が、これを知らずに過ごすことは不可能だ。だからこれは、出来ちまったものは仕方ねえ、と開き直った可能性もあるが、むしろまあ、ほんとに迷信なんだしいいじゃねえか、と考えられるような親でないと、生まなかった可能性が高いのではないか。そんな風に考えられる自由な日本人であるという仮説は一定以上成り立ちそうなので、そういう親に育てられた子供は、ふつうに自由に育てられたのではないか、とも考えていいはずだ。自由に育てられたからミュージシャンになるという法則まではとても成り立たないけれど、ものすごくいい加減な親だったか、又はそれなりの世間体に負けないくらい強い心持の人々であるとは、結果的にいえるとは思う。少なくとも非常に強い同調圧力のある社会である日本において、ものすごい心労に耐えなければならなかっただろう日々のことを配慮すると、素直に偉い、と言ってやりたい。
 そういう丙午会で飲んでいて、二次会になった。そこのスナックの比較的若い女の子(僕は女性の年齢は見当がつかない。が、たぶん二十代だと思う)が「ところで、ヒノエウマって何?」という。僕はボールペンで「丙午」と書いて見せた。彼女はちょっとだけその文字を見て「ああ」といった。しかしその表情を見て、絶対分かってないな、と僕は思った。そういう世代であっても親はいて、やっぱり気にするのかもしれない、とも思う。残念ながら。そうしてあと五年後に彼女のような年頃だと、妊娠・出産の可能性のある世代であるはずで、果たして彼女(と、その相方さん)はどのような選択をするのだろうか。ま、五年後にわかることではあるんだろうけど。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

許せない変な話が、人間そのものを描く   ザ・サンドロマット‐パナマ文書流出‐

2021-10-28 | 映画

ザ・サンドロマット‐パナマ文書流出‐/スティーブン・ソダーバーグ監督

 劇中劇が入っているというか、説明する人物が直接見る人に語り掛けてきたりするが、でもそのまま演技に戻ったりする。変な演出であるにしろ、これが効果的なのは間違いない。不思議なビート感のようなものが感じられる。
 ある女性が乗った船が転覆し、夫のほか20名以上が亡くなる大惨事となる。しかしこの船舶を所持していたオーナーが、経費節減のために安い保険に加入しており、その保険の責任を取るべく会社は転売されて、明確な所在が分からなくなってしまっていた。多くの人は泣き寝入りするしかない(法的には合法という判断なんだろう)状況になるが、女性は納得がいかず、おそらく夫の個人の生命保険などで金があったのだろう、南米のタックスヘイブンと言われる島まで出向いて、責任の一端のありそうな会社を訪問するのだった。ところがそこには私書箱のようなものがたくさんあるだけのところで、会社の責任者は頻繁に移動するなどの理由で、よく分からない。同時に司法当局もこの事態を重く見て、調査に乗り出していくことになる。
 実話をベースにしているので、どうなるのかはわかる話ではある。しかしながらその内実というのは、単純ながら込み入ってもいる。何しろ合法とはいえ、合法めいた怪しく違法な匂いのする手続きの連続で、そうしてそれに絡む大きな金の動きがあって、それにかかわる権力者や金持ちの数が連綿と続くのである。日本でも大きなニュースとして取り上げられたし、一定の人がやり玉に挙がってつるし上げを食らうことに発展した。しかしながら嵐が去った現在のことを思うと、あれはいったい何だったのか、という気もしないではない。それこそがこの事件の特殊で奇妙な物語とも同調している。まさにこんな感じだったのだろう。
 さらりと下品なエピソードも絡むし、恐ろしい殺人も起こる。しかしそこには人間の欲望と教訓が埋没しており、その軽妙な語り口とともに、何か嫌な感じと憧れめいたものが混在して見えるようになる。何が正義で、何が本質かよく分からない。しかしながら、それでもダメなものは駄目であるというアメリカ的なものだって見えてくるのである。どんでん返しというのではないかもしれないが、やっぱり演出が上手い、というしかないであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まともなんて糞くらえです   まともじゃないのは君も一緒

2021-10-27 | 映画

まともじゃないのは君も一緒/前田弘二監督

 予備校講師の大野は、割合イケメンなのだがいわゆる空気の読めない数学オタクのような人間で、そもそも人間関係を上手く構築することができないし、苦手すぎてあきらめてもいたようだ。その生徒である香住は、大野を馬鹿にしながらも教育することによって、憧れのカリスマ経営者とその婚約者との仲を引き裂く材料として利用しようとする。飲み込みは悪く教育しがいのある大野は、それでも香住の言うことは良く聞いて、カリスマ経営者の婚約者の女性に近づき、かなり好感を持たれるようになっていくのだったが……。
 前田監督持ち前の、思い込み計画が上手くいきながら微妙に意味がずれて展開していく物語炸裂の痛快コメディである。僕は元々この監督の傑作「婚前特急」の大ファンであるからして、この展開は非常に美味しかった。ちょっと性格が悪いけど可愛い女である吉高由里子だからこういう映画が最高だと思っていたけど、割合清純そうな清原果耶が演じても十分に行ける手ごたえが感じられた。まあ、ちょっと意地悪なところがあるけど実はまっすぐ、という女の子像は、基本的には変わらないのかもしれないが……。また、そうした女は、同じ女からはそんなに好かれないのかもしれないが(しかし世渡りは最低限下手ではない)、つまるところ監督を含め(恐らく)多くの男の理想像なのではあるまいか。
 男女間の恋愛については詳しいと自負しているが、実は自分は恋愛実体験は未経験という妙な女子高生はそんなにいるはずはないが、人間関係の下手な青年は世の中にごまんといるだろう。しかし彼の強みは、実はちゃんとイケメンであるということだ。そういうことになると、やっぱり世の中には、そんなに存在しない人間かもしれない。だからこそこれはファンタジーであるのだけれど、面白ければそんなことはどうでもよくなることなのである。実際映画を楽しんだ上に、世の中のモヤモヤしたものがなんであるのか、いろいろと考えさせられることにもなる。しあわせになるというのは、多少自分勝手であっても、自分の思うようにした方がいいのだ(たぶん)。ということで、これを観て元気になってください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変人の集まるところの恋の苦悩   ハチミツとクローバー

2021-10-26 | 映画

ハチミツとクローバー/高田雅博監督

 原作は漫画作品。実は以前に買って持っていた。最初のところは少し読んだようであるが忘れていた。今回映画を観た後なんとなく確認したら、なかなか面白い。しかし、映画とは微妙にいろいろ設定が違う。違うがかえってなるほどと思えることもあるようで、これは後日読書欄にて紹介するかもしれない。
 ということで映画である。ある美大の学生たちの片思いの恋愛ドラマの群像劇のようなことになっている。とにかくずば抜けて才能のある学生が二人ばかりいるのだが、それはその人たちが奇人であるのとイコールのようだ。そういう奇人が混ざった環境が美大であるようで、ふつうの学生も実はふつうに変ではある。そういう変な人々が一所懸命に青春を駆け抜けていく物語のようだ。
 なんとなくだが観る気になってクリックして観ているうちに、引き込まれるようなものがあった。今となっては少し古いのだけれど、だから出ている俳優さんたちが非常に若々しい。そういうところが、実際今でも活躍されている多くの俳優さんの過去の青春像のような感じにもさせられるのである。なんだかこそばゆいような青春の恥ずかしさのようなものが表現されていて、いきがったり滑ったりしているけれど、それがいい、ということか。
 僕は美大出身ではないので、美大生たちが本当にこんな感じなのかということは、実際には知りえないのだけれど、聞くところによると、という感じでは、そういう空気は漏れ聞いてはいる。これを観たら親は泣くかもしれないが、まあ、学生というのはそういうものだろう。何しろ若いから、危なくて、馬鹿である。しかし確かにこの頃でしかない輝きというのがあるのだろうことは、僕らの誰もが知っている。そういうことに、なんとなくだが、芸術関係の人々は、一番ピュアに正直な人が多いということはある可能性がある。何しろ、本当にちゃんと就職できるような人というのはそんなにいないはずなのに、ものすごい難関を乗り越えて、この道に入りたい人々がやってくる。でも天才型の人がいて、そういう人の上をいくようなことになる。実際には捕まってしまうようなことをしてはならないのだが、そういうことだってする人もいるだろう。芸術だから何でも許されるということは無いのだが、そういうところに踏み込まざるを得ない芸術もあるのかもしれない。良いとか悪いとかはいったん抜きにして、突き抜けてしまわないと、その先は無いのかもしれない。
 芸術と青春が混ざってしまうと、とにかく大変だな、という感じだろうか。面白いのでいいのですけれど……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マンションに住んだことはありません

2021-10-25 | ことば

 「マンション」という言葉が嫌いである。とはいえ、そんなこと言われたって何のことだか分からない人が大半だろう。単に口にしたくないというか(普段口にすることは、ほぼ無いが)、この言葉を聞くのもなんとなく抵抗がある。日本人同士の間柄だと、これは通じているので問題のないことだとはいえ、ちょっと指摘してみたい気もする。しかしその人が、実際にマンションに住んでいるような人であると、これは言ってはならない気もする。そういう感じが、なんだかもやもやと気分を乱すのだろうと思われる。
 まだまだ何を言っているのやら? という気分の人がいる一方、ああ、そのことなのね、とぴんと来ている人がいると思う。でも、ぴんと来ている人の皆さんは、そういうときにどうしていらっしゃるのでありませうか。
 時は学生時代にさかのぼるのだが、単にその時に香港人の友人が混ざっているときに、「マンションに住んでいる誰それが…」と言ったときに、「ああ、また日本人が間違いを」と言って笑われたのだ。「彼が住んでいるのはアパートメントで、マンションじゃないですよ」ということなのだ。それまで何の認識もして無くて気にもしてなくて、それにまだ携帯電話の無い時代でググることさえできない状況で、改めてマンション(mansion)が豪邸をさす言葉であることを知ったのである。しかしながらたとえそうだとしても、日本においては鉄筋コンクリートらしい少し高層の建物ならば、一般的にマンションである。僕一人が笑われる問題ではない。ついでに日本人の英語発音はひどくて、例えば外来語のスーパーケットでもちゃんとした英語発音では通じなくて、わざわざ日本語アクセントで単語を覚え直さないとならなくて、ほんとに日本語ってめんどくさい、と文句を言われた。それはお気の毒なことだとは思ったものの、やはり僕には責任を負いかねない問題なのは変わりないではないか。
 まあ、そういった呪縛めいた思いが想起される暗号として、これが結構ふつうに聞こえてくる言葉なのだ。あちこちに新たに建てられるマンションの広告は見られるし、そうして田舎の街なので一戸建てに住むというのが基本形であったはずなのに、わざわざ日本語のマンションと言われる住宅に住んでいる人が増えている印象がある。中にはなんでそうするのか不明だが、マンションからマンションに移り住むような人がいたり、住んでもいないのに新しくできたマンションの部屋を買っておいた、などという自慢をする金持ちもいる。定年などの転機に、山間部の家から駅前のような場所に立つマンションに移ったというようなことを言う人がいる。確かに僕は学生時代からだいぶ時間を経過して、知った人がアパートに住んでいる状況の方が少なくなっているのかもしれない(まだ住んでいる人の方が親しみを感じるが)。多くの人が庭の手入れなどに時間を取られるよりも、狭い地域を歩いて回る程度の集合住宅のマンションに住みたがっているということなのだろうか。それは正確には分からないまでも、しかしマンションという言葉が日本語としては完全に定着している以上、この現象とライフスタイルは、ますます増殖の一途をたどっているとしか言いようがない。しかしながら(英語をあやつる)外国人だって一定以上いるはずの日本において、この言葉の意味をめぐっての軋轢の起こる機会は、増えているのではあるまいか。
 もちろんだからと言って日本のこのような言葉を、どうにかせよと言っているわけではない。いや、どうにかして欲しい思いはあるものの、外圧で屈してしまう日本というのも情けない。もうどうしようもない事態にあることで、このように考えてしまう自分が、一番嫌なのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

移民に希望はあるか   希望のかなた

2021-10-24 | 映画

希望のかなた/アキ・カウリスマキ監督

 内戦シリアから逃亡してヘルシンキにたどり着いたカーリドだったが、難民と認められず強制送還されそうになる。そこでまた逃亡して、新しくオーナーの代わったレストランで働くことになり、疑似の住民カードも偽造してもらい生活できるようになるのだったが……。
 どういう訳か熟年離婚のようなことをして、今までの事業は清算して、その金でギャンブルをして資金を大きくし、それでレストランを買い取る男の話ともクロスしている。北欧の国が難民問題で国民世論が揺れているということは聞いている。執拗に難民を嫌う右翼的な男たちも嫌がらせをする。そういう問題と、それを自然に受け入れるロックンローラーのような人々もいるということかもしれない。カウリスマキ映画だから、そういう部分の説明は観ていてよく分からないようになっている。おそらく静かな演技や演出は、ギャグのつもりであるし、途中で店を立て直す時に寿司料理を展開するのもギャグである。面白いと言えばそうかもしれないが、なんとなく滑っていて悲しくもある。
 カウリスマキ映画の常連のミュージシャンが、時折劇中で演奏する。街頭でも演奏する。店の中でもやる。生活の中にこのような人たちが混ざり合っている。それは生活の彩であって、そうして分かちがたいものだ。音楽は、議論を吹っ掛ける思想ではないが、自分たちの心情も語り得るものかもしれない。そういう直接的にはモノを言わないが、自分らは自由に暮らしたい、ということなのではないか。たとえそこに異文化が混ざってこようとも、変わらず俺たちは音楽を演奏するのだ。
 そういうのは、勝手な僕の解釈の一つだろう。しかしながら、必ずしも外れてないはずだ。中には極右翼の連中だって音楽やるんじゃないの? って人もいるだろう。確かに音楽家だって偏った思想の人もいるだろう。まったく気にしてない訳じゃないけど、演奏しているときにはいちいち人の言うことなんて聞いていられないし、気分としては今の音楽と一緒に楽しんでもらえたらいいのだ。結局はそういうことで、自分の偏った考え方だけを頼りにして、首を突っ込んでいったところで、ろくなことにはならないのではないか。そうしてこの物語もその問題から離れられず、何かはたぶん大きく損なわれてしまう。はっきりは分からないが、そうやって希望の芽は摘まれていってしまうのであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

作り込まれた実話の在り方   アイリッシュマン

2021-10-23 | 映画

アイリッシュマン/マーティン・スコセッシ監督

 原作は実在の人物である伝説の殺し屋のことを描いた、ノンフェクション作品があるらしい。描かれているのは、ニクソンやケネディ大統領時代に活躍した、有力な裏社会の人間たちであるようで、アメリカ人であれば誰でも知っているような有名な人々なのだろう。
 Netflix作品で3時間29分もある。もっともエンドロールが10分もある。まとめてみる必要は無い作品かもしれない。かといって連続ドラマのような、来週もお楽しみに、という切れ間が無い訳だが……。
 元々はトラック運転手だったが、トラック協会の会長に仕え、さらに裏社会の仲間にも仕えている。完全な部下というより、ちょっとした友人以上ということなんだろうか。そうして殺しが上手いので、都合の悪くなった人々を、その都度殺していく。それにはそれなりの理由があり、そうしてマフィアなりの仕組みがある。殺しの上手い人物は、物事が進んでいくうえで重要なのは間違いがない。そうしてそれらの秘密は、皆が年を取り、一番長生きをした者だけが、語ることができる内容ということなのかもしれない(つまり本当かどうかは、本当には分かりえないのではないか)。
 殺し屋(運転手)の男にロバート・デ・ニーロ。組合長の大物がアル・パチーノ。そして、裏社会の暗躍者がジョー・ペシである。皆1940年代初めの生まれという大ベテランばかりの演技合戦も見ものである。実際なんだかすごいことになっていて、改めて彼らの演技力に舌を巻かれて欲しい。
 一応語りもあるのでまったく意味が分からないことは無いが、書かれている事実を追って物語が進んでいって、その意味するところがよく分からない演出もけっこうある。頭の中で意味を埋めていって、たぶんそういう都合の一つだよな。ということを考えてもらいたい。ふつうに会話しているようでいて、感情の駆け引きなどもある。ヤクザたちは何を気にして何を気にしなかったか、ちょっとちぐはぐな印象も受けて、ひょっとするとギャグかもしれなくて、なかなかむつかしい謎解きのようでもある。そうしてそれが、結局権力や背後にある力関係によって、人生とは翻弄されていくながれのようなものらしい。そうしてそれらは家族であっても理解不能な場合もあるんだよ、ってことなんであろう。
 演技を楽しんで観ていって、最後にはお腹いっぱいでじんわりと余韻を楽しもう。何かは守られたかもしれないが、何かはそのために損なわれてしまった。そうしてもうそれらは、おそらくもう二度と戻って来てはくれないのだ。人を殺してもいい社会のありようって、やっぱりなんだか恐ろしいですけどね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いばらの道を進む人々   羊と鋼の森

2021-10-22 | 映画

羊と鋼の森/橋本光二郎監督

 新人調律師と、ピアノ弾きの姉妹。または、さまざまな事情を抱えながらもピアノを弾いて楽しんだり、自分と向き合ったりする人たちと、その裏方に徹しながら調律師という職業がなんであるのか、ということを学んでいく成長物語。原作小説があるらしい。
 当然だが、ピアノの調律というのは、非常に繊細で独特のセンスをもって取り組まないことには、ピアニストの個性を最大限引き出すことができない仕事のようだ。音楽の旋律前の音源を作り出すことに、非常にデリケートで激しい舞台裏の世界が繰り広げられることになる。そこにそのピアノに向き合う個人のドラマがある。そういう立ち位置にあって、調律師は本当にどのような状態の調律を行っていくことがベストなのだろうか。
 僕はクラシック音楽のことはまったくわからないのだし、こういうことに口出しすべきではないのかもしれないが、以前にもピアノメーカーがピアノコンテストで自分の社のピアノを使ってもらえるように奮闘するドキュメンタリーを見たことがある。凄まじい戦いの場が、ピアニスト以外にもあったんだな、と感心したことだった。しかしながら同時に、このような繊細な世界で、いわば後進国の日本が立ち向かっていくことの違和感も覚えた。やはりこれはあちらの貴族文化のようなものがあって、それに仕えるための職人階級のようなものがあるのではないか。そういうものとともに、音楽の歴史が刻まれてきたのだろう。
 だからこそ素晴らしいということも言えるのだろうけれど、ちょっとやりすぎ感もある。僕なんかはギターを弾いているが、ピアノほど複雑でないこの楽器は、ふつうに自分自身で調律する。時々演奏中にも狂うことはあるが、まあちょっとのことだし、そこまで神経質には気にしない(これは個人差があります)。何しろ次の曲もあることだし。それにこういう調律のような自分にとってしっくりくるような感覚的なものを、人に任せていいものだろうか。ピアノは特別で、そうでなければ弾けない楽器だというのなら、まあ、そうなんでしょうね、というしかないが、こういう世界でいつまでもやって行こうというのは、自ら進んでいばらの道を楽しむようなものじゃないか。
 だからこそ、いい話なんだということなんでしょうね。意外なことにそのまま恋愛が絡まなかったりして、展開の割には地味なんである。それもまじめに良い、ということなのかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

面白い男にも苦労はある   夢中さ、君に。

2021-10-21 | 読書

夢中さ、君に。/和山やま著(ビームコミックス)

 つながりのあるものもあるが、基本的には短編集・漫画。だいたいにおいて全編にわたり男子の間のグダグダした友情めいた物語なのだが、それも大きく二部構成になってもいる。それというのも二人の重要な変な男がいる所為で、その男を取り巻く周りの環境を描いているという感じもあるかもしれない。それが変なために、現実も妙な具合によじれてしまう。そこに笑いが生まれてきて、ギャグ漫画になる。いや違うのか? たぶん違わないと思うが、かなり面白いと思われるだろうと思う。クスクス笑って読み進むうちに、ちょっと感心してしまう。ものすごく深いものでもないし、しかし純粋があるわけでもないのだが、なんとなく好ましいというか、そうだったのか、と納得いくものがあるからである。そういう過去があり、そういう現実があり、そういう予想される未来がある。ふてくされたり、あんまり熱心でなかったりもするけれど、それなりに苦労しているし、困ったことにもなる。最初から決めていたこともあるし、予想だにしなくて慌てたりすることもある。そういう小さなドラマがすべてで、その小宇宙が、なかなかに得難い漫画世界に広がっていくのだ。
 著者のことは謎が多いので知らないが、女性ではないかとは思われる。女性っぽい作風では無いにせよ、男の子のこのことを、非常に可愛がってくれている感じがある。しかし同時に不条理な男の暴力も描いていないわけではない。そういうバランスは、なかなか絶妙なのである。そうしてミステリ的な感覚が宿るのだろう。
 僕も別段男子校に行ったわけではないので、男子校生の生態なんてものは知らないのだが、思い当たるフシが無いではない。高校のころに男子校に通っている中学の同級生と道でばったり会って、ちょっと長く話していたことがある。その男は、普段は僕の顔を見て話をするのだが、ときどきチラチラと僕の後方に目が移る瞬間がある。いったいなんだろうな、と思いながら話をしていたが、しばらくして、あ、っと気づいた。彼は、僕の後ろの方で、女性が通るときに、どうしても目で追ってしまうのである。ああ、これが男子校に行くということなのか、と僕は妙に感心した。まあ、それが男子高生の総ての習性ではないのだろうけれど……。
 という訳で、男子のお勉強にもなります。たぶん。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

殺して解決して何が悪い?   ひとよ

2021-10-20 | 映画

ひとよ/白石和彌監督

 家庭内暴力の度が越している夫をタクシーでひき殺してしまう。それは母として子供たちを守るため最大の行いのはずだった。そして時は流れ、15年後に帰ってくると、タクシー会社はほかの人たちの努力で何とか続いているが、子供たちは大人になってそれぞれ荒れた様子になっているのだった。
 なんとなく社会派のような雰囲気があるが、作り物である。地元では殺人を犯した人のいた殺人タクシー会社として憎まれているらしい。何か落書きされたり張り紙されたりしている。しかしながら営業はしており、きょうだいたちはそのようないじめに苦しみながらも、従業員などにはその状況を隠し通しているということなんだろうか。そういう迷惑行為は警察に言うべきだと思うが……。
 ともかく母親が子供のためにやったことが裏目に出て、社会からいじめぬかれることになって、子供たちは暴力から解放されたにもかかわらず、今度は母親を恨んでいる様子だ。完全に裏目に出たという感じだが、実際はそのままでいたとしても、誰かが父親に殺されていたことだろう。
 どうしてこんな感じの話の進み方になってしまったのかよく分からないのだが、たとえそういうことがあったとしても、それは誤解に過ぎない。世間はそんなことわからないのだ、ということかもしれないが、そういうタクシーが嫌な人が利用しなければ済むことで、しかし予約はあり固定客があることも見て取れる。逆に従業員たちは、残されたきょうだいを大目に見ながら、支えているのではないか。普通だったら彼らの方がこの子供たちを恨むはずで、もっと冷たくしていいのである。母親がいなくなって寂しい心情の子供時代だったという想像はできるが、激しく怪我を負うくらい暴力を受け続ける毎日より何倍も平和だろう。
 もちろんそういう状態から曲がりなりにも再生することが示唆されているが、これもどうしてこれでそうなるのか、僕には理解できなかった。言ってみれば荒療治であるが、さらなる暴力の再生産のような気もする。もう一人の男の家族のその後は、あえて語られてもいない。うーん、まったくどうしたものかな、という感じだろうか。そういうのって、一度壊れたものは、やっぱりどうにもならないんだよね、ということなのではないか。そういう映画ならばそれでいいけれど、たぶん、そういうことじゃないことを言いたいはずなのだ。
 ということで、かなり残念な作風だが、家庭内暴力の怖さは分かるとはいえるかもしれない。殺して解決する人がどれだけいるかは分からないけれど、本来はそれこそ本当に讃えられるべき勇気ではないだろうか(その前に離縁したほうが良かったけど)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蚊取りは縦でもかまわない?

2021-10-19 | culture

 小津安二郎の「浮草」を見ていて、あっ、と思い出した。蚊取り線香が立てて煙をたてている。僕の家では蚊取り線香を焚く習慣は無いが、子供のころにはそうではなかった。そうしてそのころは、蚊取り線香は横であるというのが普通の情景だった。それだけでは無くて、あっと思い出したのは、だいぶ以前に読んだ村上朝日堂(後で調べたら、正確には「村上朝日堂の逆襲」であった)で、村上春樹が何故だろうと疑問を呈していたのを思い出したのだ。 そういえば小津映画なのである。村上春樹が指摘していたのは「東京物語」での場面だったが、それも見た記憶(それも何回か見たから)があるのでうっすらとは覚えているが、確かにあれは奇妙だった。しかし東京物語は白黒映画で、蚊取り線香らしき物体は、まあそんなもんかな、というディティールである。ところがこの浮草の方はカラー作品である。ちょっと色味が古くて後から足したような妙に濃い色のところがあるけれど、古い町並みも色が付いていて分かりやすい。そうして蚊取り線香は、緑色の渦巻きから白い煙をたてているのであった。
 今回このように思い出したので、再度子細に見る機会を得たわけだが、それでまた少しびっくりすることがあった。蚊取り線香の渦巻きの真ん中には、蚊取り線香立ての金具の部分が入り込むように小さな割れ目のような穴が開いているはずだ。それはそのように空いているのだが、小津の映画では、この割れ目部分に金具を差し込んでさえいないのだ。縦の蚊取り線香は、何かひっかけ爪のような形をしているように見える。燃えてはならないので金具には違いないだろうが、黒っぽいひっかけ爪にちょこんとまさに縦にひっかけているだけなのだ。これでは最後当たり燃えて小さくなったら、下の皿に落ちてしまうだろう。蚊取り線香だからめったなことでは消えないだろうが、しかし落ちるときにどこかに転がったりすると、危険な場合だってあるんじゃなかろうか。
 やっぱり小津監督は変わった人だったのかな、とか感じ入ってしまったのだけど、しかし今はネット社会である。一応検索してみると、さらに驚かされることになる。
 なんと、縦置き用の蚊取り線香の道具がたくさん売ってあるのだ。詳しくは実際に検索して確かめてほしいのだが、僕が子供のころから一般的に見たことがある豚の蚊取り線香置きについても、立てて線香を置ける商品が存在していた。いったい何ということだろう。僕の人生でこのような香取線香置の存在が知られないまま蔓延していたなんて、そんなミステリなことってあるのだろうか。
 場所の問題であったり、インテリアとしての見た目であったり、デザイン上の工夫もあるだろう。縦だと立体的になって、大小の変化の仕方そのものを楽しめるという考えもあるのかもしれない。夕方の草払いの作業の人など、腰にぶら下げている人だっているわけで、蚊取り線香は置物としてだけ存在しているわけではない。僕や村上さんのように、無知でそのような形態を限定して夢想してはならないのである。
 とはいえ、やっぱり世の中というのは、それなりにシュールなものなのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これだけ下品で素晴らしいのは凄すぎる   ルディ・レイ・ムーア

2021-10-18 | 映画

ルディ・レイ・ムーア/グレイグ・ブリュアー監督

 ネットフリックス配信の映画。エディ・マーフィー主演の実在の人物の伝記映画であるらしい。まだ生きている人の場合、こういうのは多少美化したり遠慮のあるものだが、ちょっとこれは極端な人物像であるばかりか、黒人であるというのはあるけれど、そういう背景も含めて、凄まじいぶっ飛び人生に、観ていてこっちもぶっ飛んでしまった。
 売れないコメディアンのルディは、レコード店の副店長をしながら、夜のショー・バンドの司会なんかをしている。ある時ルンペン(今でいう、ホームレスなんだろうか?)の与太話を聞いていて、並外れた下ネタならウケる予感がして、実際に下品に徹した話をすると大ウケする。そのままウケがデカくなって快進撃を飛ばし、黒人の間では絶大な人気を誇るようになる。そのネタをレコードにして売って、さらに大儲けする。しかしそういう境遇に満足しきれず、白人の映画を観ていて、自分もそんなコメディ映画を作りたくなる。まったくの素人で映画の作りかなんてまるで知らないが、さまざまな人を巻き込んだ上に全財産をぶっこんで、さらに面白さを追求するあまり撮影に没頭し、どんどん借金がかさんでいくのだが、止められなくなっていくのだった。
 ヤクザ者ではないが、なんか変な人である。売れるのは金が純粋に欲しいというのもあるが、ウケるのが楽しいし、下品でひどくゲロゲロしたものだけど、とにかくみんな腹を抱えて笑いまくる。日本語の字幕の翻訳では何が面白いのかよく分からない下品さだけど、人間の本質に迫る面白さがあるというのは分かる。黒人というのは、その黒人の社会というべきか、そういうことに実に素直で、瞬発で面白いと思ったら反応してしまうという感じか。白人の一部も、本当はそれをわかっているが(倫理的な抵抗があるのか)、あまりに下品で公共の放送や商品として売ることがなかなか出来ずにいる。ルディはそれを、真っ向から打開して突き進んでいく。まさにアメリカンドリーム。しかしそれは本当は表舞台ではなく、白人から隠された王道なのである。
 とにかく変であるが、確かに面白い。黒人の人たちはみな芸達者で、馬鹿なことが大好きだ。ハチャメチャでぶっ飛びすぎているので、これが本当に面白いのかちょっと分からないくらい面白い。センスも実はけっこう悪いのだが、だんだん見慣れてくると、このおかしさがかっこよくも思えてくる。実に不思議な映画で、原色でギラギラで、ピカピカでコテコテなんだけど、ガハハと笑ってなんだかそれで済んでしまう。そんなことってあっていいのだろうか? 日本人にはまったく無理なサクセス・ストーリーなのである。いや、これは白人にも無理だろうな。
 馬鹿な映画だけど、実はけっこう考えさせられる。皆苦しみながら必死になりながらも、実はふざけていて、下品で素直だ。まじめに怒り出す人も、この面白さの前にひれ伏してしまう。ほんとにすごい。これは実際観るしかない映画だろう。そうして、この映画の面白さと事実に、ひれ伏して欲しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しい状況じゃないが面白い   カラオケ行こ!

2021-10-17 | 読書

カラオケ行こ!/和山やま著(ビームコミックス)

 漫画。和山やまの漫画は、前にちょっとだけ拾い読みしたことがあって、その独自の世界観というか、笑いのツボのようなところにはまる感じが残っていたので、なんとなく読んでみた。
 ヤクザの成田は、組長が主催するカラオケ大会でちゃんと歌えるように、中学生の合唱部の部長の岡君に歌の指導を頼む。組長が審査した点数が悪ければ、組長自ら彫る入れ墨を施されてしまうからだ。それでカラオケ屋に連れていく日々を描いている。岡君はちょうど変声期を迎えており、自分の歌についても不安があり、精神も不安定になりがちである。そこに紳士的ではあるが、ちょっとネジが狂っているようなヤクザの成田が絡んでくるわけで、心理的な会話を含めて、妙な雰囲気のギャグが続く。ヤクザの世界とは縁遠い岡君が覗くヤクザの世界は、不条理な暴力がうごめく恐ろしいもののはずだが、それが何だか不思議なおかしみを含んだものになっている。
 しかし、だんだんとこれが二人の友情のようなことになっていくのである。いや、年齢も違うし境遇も何もかも一致しないし、趣味だって合うものではない。スピンオフで成田のヤクザ以前の話もある。岡君が成田のような未来になるわけではないのだが、この二人の関係が、危ういながらも続いてくれたらいいのにな、と思わせられる。それは幸福にはなりえないことかもしれないが、何か温かみのあることなのである。
 この不思議な世界観というのはなんだろうか。設定は面白いけれど、これは日本のどこかにある風景ではない。あり得ないはずなのである。それだけシュールでありながら、こういう場合はこうなってしまうのかもな、というようなリアルだってちゃんと感じさせられる。そういうあり得ないけど起こりうるズレのようなものが、じわじわと笑いに変わっていくのである。
 続編のような作品もあるらしい。また僕は読むんだろうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする