カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ほんとに俳優なのかわからない恋   コンパートメントNo.6

2024-06-30 | 映画

コンパートメントNo.6/ユホ・クオスマネン監督

 ロシア語のできるフィンランド人のラウラは、考古学の研究のため北極圏のある場所のペトログリフ(岩に書かれた古代絵)を見に行くために、寝台列車の旅に出る。同じコンパートメントには、差別的で粗野な男が酒を飲みながら絡んでくる。心の底から嫌気がさして途中下車しようとするが、列車の都合を考えて断念し、旅を続ける。寝台列車は途中で止まる時間も長いし、車中何泊もするような移動をするようで(何しろロシヤは広大な国土みたいだ)、嫌だった男にもなんとなくいい面も見えてきたりして、二人は親密になっていく。そうして実は、恋人だった同性の女性は、自分とは別れるつもりだったようなことも、旅をしながらわかっていくようになる。途中ロシヤ語の怪しいフィンランドの同胞の男も乗り込んでくるし、恋の行方は混沌としていくのだったが……。
 いわゆる美男美女の映画では無くて、恋愛映画なのにそこまで美しくない女と、どうみてもチンピラ崩れの男が、強い酒を飲み交わしたりする場面が続いたりするので、困惑する。基本は列車の移動なのだが、途中休憩下車したりするドラマもあり、ロシヤというのはつくづく奇妙な人間が多いものだと感心する。奇妙にやさしい人もいるが、粗野で乱暴でぶしつけである。そうして恩を仇で返すような人間もいる。こういう俳優を使って、よくもまあラブストーリーを作ろうと思ったものだと、いぶかる気分にはなるが、あちらでは少しは見られた顔の造形なのだろうか。不思議である。世界は広いということなのだろうか。
 北欧やロシヤは寒い国で、ずっと酔っぱらっていないと正気を保てないのかもしれない。突然に変な行動もとるし、いくらかかるかわからない金の使い方もする。そもそも貧乏そうなのに、実は金払いが良かったり、何かを盗んだりする。そういう部分は予測不能で、明らかに西側の映画とは違うものがある。物語のオチのようなものは、ある程度の予定調和があるものの、この旅行の顛末は、なかなかに予想できないものがあった。また変な映画を観てしまったものだな、と自分に感心するよりないではないか。
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奇妙な動機の一致点   彼女たちの犯罪

2024-06-29 | ドラマ

彼女たちの犯罪/菊池健雄・高橋名月・古畑耕平監督

 裕福な医者に嫁いだ女と、その医者と不倫関係にある女と、不倫女の大学時代の後輩で今は刑事の女と、医者の嫁の友人で自殺願望のある女が、その利害関係の中にあって人の入れ替え自殺を行う、というミステリを軸に展開される人間ドラマである。医者の男は学生時代から憧れの人だったようで、不倫女はそのまま結婚したいと望んでいる。男も妻とは別れて結婚すると言っているが、そうはしない。一方妻の方は、夫婦関係は冷めているのみならず、姑などの関係に疲れていて、慰謝料さえもらえれば、むしろ離婚したい。基本的にはその利害が一致する状況に自殺願望の女がいるので、自分とすり替えて成りすまししてもらうと、お互いに希望が叶うのではないか、という訳だ。そのプランを発案したのは警察の後輩で、後に何故そんなことをしてくれたのかも明かされることになるのだった。
 最初は会社内の人間関係のいざこざがあったり、嫁姑の嫌な感じがあったり、自殺願望のアンニョイな感じだったり、女であることの大変さのような物語なのだが、すり替え自殺が実行されると、一気に警察の捜査が意外な方向に発展し、皆が窮地に陥ることになる。しかしながらそこからが実際のドラマの展開の意外な真相にも発展していく訳で、なるほどドラマ的な尺でなければ語ることのできないミステリだと言える。
 実際に殺人的なすり替え自殺だったのだが、もう後戻りすることはできない。計画通りなら警察の捜査が及ばない筈なのだが、奇妙な証拠が見つかり、警察の女の上司がことのほか優秀で、さらに警察内にも奇妙な情熱のある刑事が居たりして、計画が狂いまくる。しかし物語はその入れ替え殺人の謎解きだけに留まらず、医者の先輩や彼女らの学生時代にまでさかのぼった怨念にまでつながっていたのである。さらに妻にはまだ秘密があって……。
 さすがに複雑な糸が絡まりすぎている感はあるが、そうでなくちゃこんな手の込んだ計画を、そもそも実行する動機にはならなかったのかもしれない。途中で女たちの思惑が一致したりもするわけで、ちょっと変なところもある。終わりもこれで良かったのか、正直言ってよく分からない。もっと罪を償うべきは、もっとそれなりの罪のかぶせ方があったのではなかろうか。
 とはいえ、観ているときはとても面白い。ドラマを見続ける動機を維持する仕組みは、このような展開あってこそのものであろう。
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木綿のハンカチーフの逆の世界   ラブソング

2024-06-28 | 映画

ラブソング/ピーター・チャン監督

 間違いなく僕が20代のころに観たことがある作品の再鑑賞となった。80年代、付き合っている彼女を残して天津から香港に渡ってきた男は、広東語も英語も分からない(香港は基本的に本土の普通語(いわゆる中国語)は通じないし、仕事で英語を使う人が多い)まま、紹介された肉屋で働いていた。その頃珍しかったマクドナルドに入ってみると、そこの店員が普通語がわかるらしく、なんとか注文ができ、そのまま知り合いとなる。彼女は英会話教室でも掛け持ちで働いており、そこの生徒になる。実は彼女も大陸から香港にやって来た身で、二人は香港でちゃんとした友人ができず孤独だった。そうしてだんだんと二人は親密になり、激しい情事を重ねる間柄になるのだった。
 しかしながら男は大陸に彼女を残してきており、仕事が軌道に乗ると呼び寄せる約束をしていた。彼女の方もマッサージの仕事で知り合ったヤクザの組長のような男と、親密になってしまう。男は呼び寄せた彼女と結婚し、女はヤクザな男について、精神的な支柱になるよう決心するのだった。
 お互い抗いがたい愛情を感じながらも、どこか変に律義で、そうして不器用なところがあって、一緒になることができない。物理的なすれ違いがあってなお、本当に好きなのは分かり切っているのである。露骨な性描写は無いが、二人は会えば情事を重ねざるを得ない。でも言葉で愛していると言えないだけなのだ。
 20代の頃これを観た僕は失恋中で、なおかつ中国から留学して帰って来たばかりだった。観ながら激しく動揺し、おそらく涙したはずだ。大筋は忘れていたが、ヤクザとの絡みは妙に覚えていて、女というのは、そういう男にはついていくのだな、と思ったものだ。当時は素晴らしい映画だと思ったが、大人になった今観ていると、若いとは愚かしいものだ、とも思う訳だ。その愚かしさが何もわからないから、自分と素直に向き合うことから避けてしまうのだ。もちろん物語はそれで終わらないで、最後にニューヨークに舞台は移ることになる。そういう点は極めて映画的で、当時の気分をあらわしているわけだが……。
 普通なら「木綿のハンカチーフ」になって、都会の僕は田舎の彼女を捨ててしまうだろう。そういう意味では、極めて奇妙な物語である。しかしながらそういう変人の男を、この俳優は実に素直に演じている。そういう実直な姿が、香港人と対比する大陸の中国人なのである。ここらあたりは日本人には分かりづらいかもしれないが、うまく時世に乗れず立ち回りが下手で、しかし夢想的な嘘で自分を正当化する、中国の姿の比喩でもあるのだ。今は事情が変わってしまったが、元は同じ中国人だったはずの香港とは、ずいぶん遅れてしまった中国の哀しい姿であったのだ。そういう意味では、だいぶ古典化してしまった作品だけれど(今の中国人や香港人にさえ、この辺りのニュアンスは分からなくなっているだろう)、それなりに面白いのである。名作感すらあるので、未見なら是非とも。
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しあわせは早く過ぎ去る

2024-06-27 | 

 僕は食にうるさいとかグルメとかいうのではない。しかしながら、別段不味いものを好んで食べるということもない。そんなことは当然だとは思うが、しかしながらせっかくだからうまいものを食べたいというのは、人並みにはあるはずだと思う。日々の食事は楽しみだし、おいしいものを食べるというのは、ささやかなる幸福である。
 他人と比較してどうなのか、というのはよくわからないのだが、例えば外食をする機会があって何かを食べるわけだが、これは最初にビールで乾杯などをして、それさえ済めば、あんまり食べるものはどうだっていい気分では普段はいる。そうなんだが、その時の自分の体調のようなものがあるのか、何かその店と相性のいいことがあるのか、忽然と食べ物に集中したくなる時があるのである。はっきり言って何もかも旨く感じるというか、味覚が冴えわたるというか。気が付くとバクバクと食いついており、いくつもの皿が空になっている。僕はおしゃべりだからその間も絶え間なく話をしているはずだが、話をしながらでも食べ物はちゃんと咀嚼しており飲み込んでいる。廻りの人間も同じようにバクバク食べているのならともかく、明らかに自分だけ非常なペースでもって食べてしまったようなときには、さすがに何か自分でも呆れてしまうような、気恥ずかしいような気分に襲われている。そうなんだが、旨いというのはそれだけ魔術的なものが潜んでおり、安易に止められるものではない。
 そういう時の食べ方というのは、やはりあまりよく噛んでいない気もする。例えば「カレーは飲み物」という言葉はよく聞かれるようになったが、だいたいにおいてカレーは、あまりよく噛んで食べられるような食べ物ではない。一所懸命よく噛もうとしても、スルスルと食道の方へ消えて無くなってしまう。だから次の動作としてスプーンを動かさなくてはならなくなって、カレーもライスもいつの間にか皿の上から消えている。実際は飲み物だとはみじんも思いもしないが、上にカツなどが乗っていない限り、あまりよく噛んで食べるものではそもそも違うのである。
 さてしかし、旨いものならよく咀嚼して味わうべきもののようにも感じられるのだが、無意識ではそれはあまりできていない。何故かというのはあまり考えないが、旨いものを食べているときには、何故か忙しいのではないかとも思う。食べることに忙しくなって、よく噛んでいる余裕を失う。だからいつの間にかやはり食道に逃げてしまうので、次のものを口に放り込まなければならない。これはもう忙しい。だからやはり早くなる。そうして気が付くと、あらかたもう食べつくしている。そうして呆然とする。これはもうある種の悲劇である。しかしながら旨かったのだから、救われない話ではない。単に過ぎ去った幸福だったのである。
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酷い人ばかりが住んでいる国   658km、陽子の旅

2024-06-26 | 映画

658km、陽子の旅/熊切和嘉監督

 長い間疎遠にしていた父親が亡くなり、迎えに来た従兄の家族と共に青森まで葬儀に行くことになった。しかしながらこの女性はコミュニケーション障害のようなものを患っており、他人とうまく話を交わすことが苦手であった。そういう状況下、サービスエリア内で従兄の家族から置き去りにされ、所持金も携帯電話もない状況下ヒッチハイクで青森まで行こうとする。親切な人はなかなかいなくて、問題のある車ばかりに乗ることになり、途中強姦にまであう始末である。でもまあ、そういういざこざもありながら、さまざまな体験をするというロードムービーなのだろう。
 基本的には従兄家族が非道だという話なのだが、彼らは善意の塊で反省はたぶんしない。そういう中で、父親の葬儀のためとはいえ、大きな痛手を負う旅に出なければならなくなった女性の悲劇、ということのように見える。もちろん作っている側の趣旨は違うとはわかる。しかし見ている側にはそういう具合にしか内容が伝わらない。非常時に、自分の病症があるにも関わらず、ひどく無理をしてコミュニケーションをとろうとするが、過剰になりすぎて失敗したりしている。日本人の多くは冷たい人ばかりなので、誰も基本的には助けてくれない。病気っぽいので、実のところ避けてしまうのだろう。さらに降ろされる場所などもかなり条件が悪く、個人の努力で事態を打開するには、あまりにも難しいという状況である。だからこそひどい目にあわされ、さらに超過して懲罰を受けざるを得ないのである。何にも悪いことしてないのに。
 そういった可哀そうな物語なのだが、若き日の父親の幻想なども見るようになったり、なにか彼女の過去に、このような病気になるきっかけとなるものがあったのかもしれない。そうして旅をするうちに、彼女なりの希望を見出すことになったと、解釈すべきなのかもしれない。分かりかねるが、わかろうとすれば、そんな感じもしないではない。
 妙なものを観てしまったが、日本人の客観的な姿というか、変な人もたくさんいるし、優しそうな人もいないでは無いし、しかしなんだか必ずしもうまく行くわけでもない現実がある訳で、人は流されながらも生きていくしかないのかもしれない。普通なら心の痛手は深まる状況だが、そうはならなかったっぽいので、やはり彼女は強い人なのであった。
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カタツムリを探してみよう   歌うカタツムリ

2024-06-25 | 読書

歌うカタツムリ/千葉聡著(岩波書店)

 副題「進化とらせんの物語」。生物進化を考えるにあたって、スター的な存在の生き物がいる。それがカタツムリである。カタツムリは非常に多様な生き物だからである。住んでいる場所で、山であるとか谷であるとか、その形状ごとに同じ種でも形や色やその他の特徴が違う。カタツムリを子細に調べることで、さまざまな進化の議論が展開されてきた歴史がある。そうしてそのような議論の証明や考え方に、カタツムリそのものが答えてきた壮大なドラマがあるのである。
 そんなカタツムリに魅せられた研究者たちの戦いの歴史を軸に、その考え方の解説がなされていく。環境に適応して違いが出ることから、適応的な進化をするとする立場と、それでも時間の経過などで偶然に進化するとする立場とが、激しい論戦の戦いを展開させてきた。また、その説明に適合する状況を、カタツムリは提供しているように見える。だが一方で、その説明に合わない状況も時折見つかる。天秤が揺れるように、歴史の上で両者の軍配が、揺れてはまた逆に傾いていく。そうして時には人間の仕業で、絶滅に追いやられることもある。人間は神の領域に、踏み込んでいくような愚かさのある存在なのである。
 そのような研究者たちの系譜に、著者である研究者たちもその知見を積み重ねていく努力を日々行っている。過去の亡霊やあたかも呪いのようなものと戦うべく、現代もその論争は続いている。ただし、新たな統合的な行方も示唆されている。著者はどちらが勝者だという考え方よりも、その二面性を統合して考えることを進めているようである。それらの研究の上に、新たな発見や知見が生まれるのであるから、一見過去の誤りに見える研究であっても、無駄にはならないということなのかもしれない。
 進化論というのは、DNAの発見や過去の化石なども含めて、実験や観察や歴史も含めて、実に総合的な見方を必要とする学問である。そうしてそれは、生き物だけの不思議を解くだけでなく、物理法則や地球の在り方や宇宙に至るまで、実に様々なものを語ることにもなる。そうしてそれらを語る存在として、カタツムリは重要な位置に居続けているのである。身近でありながら壮大な物語の世界に、魅せられること請け合いの良本である。
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確かに歌が上手い   北のカナリアたち

2024-06-24 | 映画

北のカナリアたち/阪本順治監督

 元小学校の教師だった女性に、20年前の教え子が殺人容疑で失踪していることを知らされる。女性はその頃北海道の離島で、その児童を教えていた。それで当時教えていた6人の児童を訪ね歩く旅にでるのだった。そもそも20年前に、その島に一緒に来ていた夫を事故で失っていた。当時の児童たちの関係と自らの事故の謎と共に、失踪した児童の行方が明らかになるのだろうか……。
 基本的には謎解きミステリだが、原作が湊かなえで、人間関係のドロドロしたようなところが随所にみられる展開になっている。女教師は音楽的な才覚があるようで、6人の児童たちをまとめるために合唱をすることになる。それが題名のカナリアに通じているわけだが、児童たちはみるみる歌の能力を開花させ、コンクール出場を果たすことになり、小さな島では、大きな期待を集めることになっていく。そうして、注目の中に重圧も大きく、その息抜きのために夫の提案でバーベキューをすることになり、その折に事故で夫が亡くなってしまったのだった。
 北海道の壮大な風景と共に物語は展開されるのだが、資料によると、この撮影のために小学校の校舎も背後の風景に合うよう建設されたものだという。僕は映画を見ながら、機会があったらこの学校を見てみたいと思ったほどだった。まさに素晴らしい調和がある風景だと思ったが、それにあわせて作られていたとは……。
 確かにそういうこだわりのようなものが感じられる作品にはなっていて、さらに若い頃もそのまま演じている吉永小百合の存在もすごいものである。里見浩太朗と親子を演じているのだが、さすがにそこまで年が離れてはいないことだろう。
 まあ多少ミステリの真相には、ちょっと変なところが無いでは無いが、人間の関係というものは、そういうものがあるということなのだろう。
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眠れない人のことを考えて眠る

2024-06-23 | 読書

 村上春樹の短編「眠り」を再読した。きっかけは書評家の三宅香帆が紹介していたから。本棚を見ると「TVピープル」もあったのだが、何故か「全作品1979~1989⑧短編集Ⅲ」の方に収録されている方を読んだ。こちらは村上春樹自身が、これらの作品を書いた状況をメモした文章もある。村上はこれを「ダンス・ダンス・ダンス」を書いた後、小説は何も書けなくなった時期を経て、翻訳をたくさん書いてはいたが、ともかくその後に書いた短編なのだという。ローマで、まちの陽気な人々を見ながら、このような眠れない人のことを書いた。
 あらすじにすると単純で、ある日眠れなくなった主婦がいて、それも不眠というのとは違う、別に眠れなくても平気であり、しかし不安は抱えながら、ひたすら読書をして、日常生活を送って、プールできっちり泳いだりする日々を描いている。著者は何の寓意もなく書いたと書いているが、なにかの寓意を感じさせられる物語である。ブランデーを飲みながらチョコレートをかじり、ひたすらアンナ・カレーニナを読むのである。それも三度も繰り返し。昼は夫と息子の世話をし、食事を作り洗濯をし買い物をして、夕方プールで一時間きっちり泳いで、さらに読書をする。体は締まって若返り、それに比べて夫の寝顔はだらしなく見え、息子にも将来は愛情が薄れるだろうことを予感する。そうして夜に車で外出するようになり、ホラー体験をする。
 いったい何の意味があるのか僕にはさっぱりわからないのだが、おそらく女性の持っているある種のまわりの不理解に対する孤独、のようなものを描いているのではないか。夫は悪い人間では無いし愛してもいるが(セックスにもこたえられる)、決定的に自分を理解している人ではない。そうして息子は、その夫に似ているのである。それは、実際は耐えられないほどの問題ではないのだが、しかし決定的に欠けている何かである。世の中の妻の悩みを代弁している、あるいは表現させている小説なのかもしれない。もっともそれは勝手な寓意の読み違いかもしれないが……。
 確かに何か恐ろしい物語なのだが、そういう風に考えているだろう妻がいるかもしれないというのが、男である僕の感じる恐怖感かもしれない。妻は夜には寝ているようだけれど。
 もっともそういう感じのことは、大げさに考えないのであれば誰にだって当てはまりはするものである。それが作り物である小説の持っているリアリティであり、真実である。そういうものを発見させられて考えさせられる。そうではない人もいるのだろうが、身につまされるというか。しかし人間であれば僕らは寝てしまう。それで平和が戻ってくるのであれば、さらにいいのであるのだけど。
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絡まっているが、辻褄は合う   時をかけるな、恋人たち

2024-06-22 | ドラマ

時をかけるな、恋人たち/山岸聖太・山口純太監督

 タイムトラベルが普通にできるようになっている未来からさまざまな人がやって来て、過去を改竄してしまう事件が頻発している。当然それでは困ることになるので、タイムパトロールを任務としている人々がいる。捕まえて、つじつまを合わせ、記憶を消すことができるようだ。ふつうに働いていたOLが、突然この任務に任命されることになり、さらにそのタイムパトロール隊の一人の男から、熱烈に言い寄られることになるのだったが……。
 一話22分の11本。一応そういう筋に沿ってそれなりに一話完結が続きながら、ラブコメが展開される仕組みになっている。実際に過去が変えられるようになると重大なことが起こることは確実なように思われるが、あまりまじめな話では無くて、時代を超えた恋のいざこざのあれこれである。ふつうならそれは良くないことだが、真剣な恋の行方もあったりして、主人公たちは時を超えた恋愛の行方を応援したい気持ちに傾いていく。もちろんそれは、自分たちの恋も含めてのことなのだが……。
 観終わってみると、さまざまな伏線の回収も含めて、いわゆるよく出来たドラマの塊というべきか。ポップな感覚のコメディ要素もあるが、恋愛の真剣さは実直である。それがウリというべきことかもしれないが、ちょっと気恥しくもなるというか……。しかしながらいくつもの過去の出来事と、自分たちの行動は辻褄があっていくことにもなっていて、ある意味で運命である。もうこんがらがっているので、それを修正するなんて不可能ではあるまいか。
 タイムトラベル物は、現在過去を自由に行き来できるので、お話の辻褄やパラドクスを楽しめるのだが、生き帰りができなくなると、深刻である。さらにその間消えた自分はどうなるのだろう。自分が二人同じ時間にいることも、やはり何か不自然である。ということで、お話で楽しむよりほかに無いのではあるまいか。だからこそ、こういう物語が作られるという事なんだけれど……。
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皆若いです   ケイゾク特別編~死を契約する呪いの樹

2024-06-21 | ドラマ

ケイゾク特別編~死を契約する呪いの樹/堤幸彦監督

 そういえば昔観てたな、と思って配信の中にあったので。おそらく観ているはずなのだが、ほぼ記憶に無し。熱心に観ていた時代は、あんがいに怪しい。
 ドラマの延長線上にある特別版なので、そういう伏線はありそうだが、主人公の柴田は、記憶喪失になっている様子である。しかし死ぬような重傷を負っていたけれど奇跡的に助かり、八王子の警察署長に出世する。以前の捜査二課には、東大卒でなく京大卒の変な男がやってきて、柴田のように犯人が分かったと称するが勘違いで、しかしその勘違いがもとで犯人がみつかるなどが起こる。そういう不真面目な演出が続き、名前を書くとその人物が死んでしまうという呪いの樹の殺人事件が発覚する。さて、このからくりはいったいどうしたものであろう……、という大筋である。
 思い出したが、あんまりまともさを追求しても始まらないドラマだったのだが、一応いろいろ辻褄は合うような展開があるのだが、この特別編は未消化という形で終わるのが残念だった。なにやかっつけ仕事だったのかもしれない。それともその後が一応考えられていたという事なのだろうか。もう昔のことなので、よく分からないのである。
 当たり前なのだが、演じている中谷美紀も渡部篤郎も、ものすごく若い。ちょっとオーバーアクトなのだが、それは若さでちょうどよくなっている。何しろ演出がそうなのだから、控えめではダメなのだ。90年代は斬新だったのだな、という映像美が随所に見られて、その後もこれが基本になっていたことが改めて感じられる。謎解きはそれなりに辻褄が合うところもあるが、最後は結局よく分からないで終わってしまった。そういうものなのか、とも思うが、おそらく本シリーズで終わったものは、蒸し返すことができなかったのだろう。
 考えてみると、その後トリックも熱心に見ていた記憶があって、曲がりなりにも追いかけて観ていたということになる。これはやはり、過去の記録のようなものなのかもしれない。
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間を読み取る合戦   逃げきれた夢

2024-06-20 | 映画

逃げきれた夢/二ノ宮隆太郎監督

 定時制もやっている高校の教頭をしている男は、坦々と仕事として問題のある生徒たちと向き合いながらも、何か長い間押しつぶしてきた感情のようなものを抱えている。そういう自分に対して、改めて疑問のようなものを持ち始めている様子だ。それは、教え子からの会話の端々から、だんだんと気づかされていく。そうしたある日、教え子が働いている定食屋の支払いを忘れてしまう。そして、追いかけてきた教え子には、何故かそのまま支払いを拒否してしまう。そういえば男には、何か脳に病気があるようだ。気が付いてみると、家族との関係も冷め切っているし、それが自分には不服である。また昔からの友人とも、口論になってしまう。そういう事に気づいて、一年残した定年前に、退職を決意するのだったが……。
 それだけの話と言えばそうなのだが、ちゃんとした科白として、その問題点を洗い出している訳ではない。むしろ語られない科白の間のような時間で、観ている側がその問題点を補完していく作業が必要だ。北九州という舞台において、出ている俳優の、特に主役の光石研の演技のための映画とも言っていいと思われる。彼の存在と演技でもって、この男の人生の悲哀が語られているのである。
 面白い映画ではないのだが、その変な空気感のようなものを、じわじわ味わうという感じである。僕は九州の人間だから、方言も含めて、映画の中の北九州の人々には、親しみを感じる。確かにこんなことを言う人達が暮らしている場所が、北九州という土地である。この主人公の教頭先生のような先生は、はっきり言って見たことは無いが(経験がない)、人間としての悲哀は感じないではない。生徒から疑問を投げかけられても、ちゃんと答えることが出来ない。むしろその沈黙が、自分勝手さを表しているのかもしれない。そこを親友に指摘されて、怒るわけだが、しかし生徒に対しては、怒りはしない。ちゃんと対峙しているようでいて、そうではないのかもしれない。殺している自分の意見は、ずっと飲み込まれたままになっている。そういう蓄積がおそらくあるはずで、生徒たちの将来の不幸なんて、実のところどうだっていいのかもしれない。
 そういう読み取りは間違っているかもしれない。僕には解釈には自信がない。何より語られない間でもって、その人の考えが分かるほど、超能力を持ち合わせていない。でもまあ、この映画の狙いというのは、そういう間違いかもしれない解釈を、それぞれが持てばいいという事なのではないか。映画なんだから、観るものが勝手に楽しめばいいのである。
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グルメ旅行のはずが、深淵なる二人の世界   台湾漫遊鉄道のふたり

2024-06-19 | 読書

台湾漫遊鉄道のふたり/楊双子著(中央公論社)

 時代設定は昭和13年の台湾。日本の統治下におかれた状況だが、いわゆる軍事的な物語とは少し違う。この物語の作家は、設定として若い日本人作家の青木千鶴子である。書いた作品が映画化され、日本はもとより台湾でも評判になる。その為に台湾で講演の旅をすることにして、その通訳に現地の若い女性(国語教師だが、結婚を前に辞しており、堪能な語学の才能のために抜擢された)の王千鶴があてがわれることになる。千鶴子は自由奔放な性格で、背も高く大変な大食漢である。というより、食に対する獰猛な執着がある。対する千鶴は、頭脳明晰なばかりではなく、料理も上手で、あらゆる台湾の食事情にも通じでいる超人である。この二人が台湾の美食を食べつくす旅の物語かと思いきや……。
 基本的には美食というか、おやつというか、台湾の習慣や風景を交えての二人のやり取りを楽しむ物語だとはいえる。台湾のまちと共に売られている様々な食べ物がふんだんに出てくるばかりでなく、その素材から調理に至るまで、実に楽しく紹介されている。それをあたかも妖怪のごとく食べつくす千鶴子の様子も、実に愉快なのである。
 しかしながら実は、そういう物語がこの小説の主眼ではないのである。ほとんど美食食べ歩きの描写が実際に続きながらも、千鶴子と千鶴の感情の駆け引きが、それこそしつこいまでに克明に繰り返されるのだ。こういうのを百合小説だというとは、僕は知らなかったのだが、引き込まれて読みながら、男である自分の神経の鈍感さに思い至らざるを得なかった。相手の表情や、目の色や、ちょっとした言葉のあやなどを、彼女らは実に何度も何度も考え思い起こしながら会話をしている。そうして相手の本心が分からないことを悟っている。そんな芸当は到底僕には及ばないしできないし、そもそもやったことが無い。分かっていないことを確信しながら相手に探りを入れて、時には直接的に問いただして、しかもその答えで相手がまだ心を開いていないことを悟るのである。小説ではそれができているが、実世界で僕らがそれをできるわけがないじゃないか。
 最後まで読んでみて、この物語の設定そのものにも、細かい仕掛けが仕込んである世界観であることが分かった。なるほど、どっぷりそういうものに浸れるように、考えつくされているということなのだろう。それをどう思うのかは日本の読者には、多少いろいろあるとは思うのだが、いやいや、これは傑作でしょう。僕は確か角田光代が新聞書評で取り上げているのでこれを買ったように思うのだが、手に取って本当に引き込まれてしまった。グルメ小説でこんなに熱中するなんて自分でも不思議だな、くらいで読んでいって驚かされたのだから、たいへんに貴重な読書体験になった。それに最初から百合小説だとわかっていたら、手に取ることすらしなかった可能性が高い。自分の見識の狭さを、改めて反省した次第である。世の中は広い。面白さというのは、さらに広い視野の向こうにある、ということなのだろう。
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定期便でお願いします   きのう何食べた? 2022正月スペシャル

2024-06-18 | ドラマ

きのう何食べた? 2022正月スペシャル

 スペシャルの内容は三部構成になっていて、それぞれお話は独立している。一部目は,史郎の実家の家計事情があまりよくなく、堅物の父親から仕送り(後で返すとは言われるが)をするよう頼まれる。これには事情があって、母親が度重なる浪費を長年にわたり繰り返していたためらしい。しかしその理由が、史郎が同性愛から目覚め(そのように母は捉えていたということ)るために、悪徳業者から怪しい壺や宗教団体への貢ぎ物などをやっていたためだということを、史郎は知っていた。複雑な心境がありながらも、それは自分の所為だという気持ちもあるのだった……。
 第二部は同じゲイの友人カップルの小日向と航くんの、マゾ的恋愛の在り方講座である。献身的にわがままを受け入れることに快感を覚える小日向と、自分を安売りせず、相手をコントロールしながら束縛することに快楽を得られる航との、その関係性に呆れさせられることになる。
 三番目は、弁護士の仕事が超絶忙しくなった史郎に代わって、賢二が家計を任され日々の料理をすることになる。うっかり浪費しそうになりながらも、なんとか史郎のようなやり繰りを果たさそうと奮闘する。しかしながら史郎のあまりの忙しさのために、二人は完全にすれ違いの毎日となってしまう。そうして、とうとう爆発して好きなものを贅沢して作ろうと、逆転して思い至るのだったが……。
 三作ともなかなか構成的に素晴らしい。つれあいは一度見たはずであるというが、僕も実はそんな気はしないではなかったが、実のところその顛末がどうなるのかよく覚えていなかったので、問題なく楽しめた。ゲイのカップルの物語なのだが、基本的に男女のすれ違いと何ら変わりはない。ゲイであることの社会性というものに、おそらくもっと強い圧力はあるのだろうとは考えられるが、コメディなので、それは自然に描かれた世界観になっている。観ている方も了解できているので、うーん、そうだよなあ、という共感をもって観られるわけである。その上に料理のコツのあれこれも分かる。アサリは砂抜きして冷凍保存して使えるのである。加熱するとちゃんと口も開く。なるほど。
 そういう訳で、また久しぶりに楽しんだということになる。こういうドラマは、なんとなくお得感がある。知識も増えて良識も高まる。実際はどうなのかわからないけど、定期的に続けられていくべき物語なのでは無いだろうか。
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告白無しでつきあう人々

2024-06-17 | culture

 外国人と結婚したカップルの、日本との文化の違いで戸惑った話を集めたテレビ番組を見ていた。とにかく一緒に居るとイチャイチャされるというのがあるようで、彼ら彼女らには自然な行動であるわけだが、受ける側の日本人の感覚からすると、それなりに驚いてしまうのであろう(でもそれなりに慣れていくようだけど)。だがしかし日本に住んでいる人々なので、人前であれば多少の遠慮があるようで、人がいなくなれば大変なことになる。日本人だってそういう時期はあるにはあるんだろうけれど、その過激さにおいては比になりそうにない。負けである。感情を表に出す激しさに、何か大きな制限の違いがあるのかもしれない。またはそのような表現そのものを表に出すことが、奨励されているために過剰になるというか。
 しかしながらそういう彼らであっても、愛の告白というのはそれなりに慎重である、という事でもあった。少なくとも出会ってからすぐに愛しているというのは違うようで、さまざまな時間の共有を経て、たとえ途中で情事を重ねるような経過があったとしても、深い愛情はその後、といったような。そもそも愛の告白をしてから付き合うというような習慣が無いようで、一緒に居る時間や、デートや食事や諸々があって、形式的な告白など無しに、なし崩し的ともいえる二人の付き合いが続いていく、という感じなのだろうか。日本人の感覚からすると何やら落ち着かない感じもないでは無いが(ちゃんと意思確認というか、はっきりしない)、そもそもあいまいな文化と言われる日本のそれよりも、明確な何かというものが無いような気がする。告白無しの付き合いをするようなカップルというのは、むしろ日本では珍しい部類であるはずで、多くの場合男性の方から告白を経て、ステディな関係性が保たれていくような感覚があるはずだ。実際のところは男性主導を形作っているだけのことで、女性の方から誘導される場合であっても、基本的には形式が必要であろう。そういうちゃんとしたものがあってはじめて打ち解ける時間をその後に積み重ねるようなところがあって、確かに本当に愛しているなどという感覚は、その後にやってくるものなのかもしれないが……。その予感のある人を最初に選択するかどうか、ある意味で日本人のせっかちさが出ている、ということなのだろうか。
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コミュ障を克服する料理力   あたりのキッチン!

2024-06-16 | ドラマ

あたりのキッチン!

 原作漫画があるらしい(※1)。コミュ障で対人関係の苦手な辺清美だったが、絶対味覚の持ち主でもあり、食べたものの原材料や調味料を自分の舌で言い当てることができる。なんとかアルバイトをやりながら、病的な性格を修正し、得意の料理を活かせないかと「阿吽」という定食屋で働くようになる。そうして、そこの家族や仲間たちに支えられながら、得意の料理の腕も伸ばしていくことになるのだったが……。
 対人関係に難があるので、注文聞きにまず大きな問題がある。目を見て話すことができないので、近視の眼鏡をはずして注文を取りに行ったりする。そのようなハチャメチャはあるものの、料理を行う際の準備など、手際や理由についての飲み込みは早く、店主が何を考えて調理をしているのか、瞬時に見破る。高価な食材を使って、繊細な料理を作る店では無いが、客の好みに合わせて、一つ一つ丁寧に作ることを店主はモットーにしている。それに清美に対しても非常にやさしい。事情を汲んで、彼女ができることを十分に伸ばせるように配慮し、さらに的確なアドバイスもする。神である。
 ここに高校生の店主の息子清正が絡んできたり、大学での先輩で医学部の食の細い桜との関係も生まれる。そうしてこの桜に惚れたために、清美に協力を求める秋斗などが現れる。面白いのは、それぞれが何となく食べ物への問題であったり、奇妙なこだわりが強かったりしているわけで、彼女彼等は共通して支え合うような関係になっていることかもしれない。
 後半は料理に対する将来性を考えるようになり、謎の小学生が清正のライバルとして立ちはだかることにもなる。清美の知られざる過去も明かされ、彼女はこれからどう生きていくべきかという、人生の大きな選択を迫られることになるのだった。
 出てくる料理は、確かになんとなく地味な面もないでは無いが、ちょっと食べたいかもな、という絶妙さが感じられる。晩御飯も食べに来ているようだが、客が酒を飲んでいる風ではないのが、なんだか僕には不思議だ。ビール一本、お銚子一本、などルールがあるんだろうか。そもそも酒は置いてないとか……。うーん、ちょっと考えられないのだが、お話なので仕方なかろう。店主は、仕事の終わりにビールを飲んでいる。すべて片付けてアテは無しのようだ。こういうあたりが、酒を飲む僕にとってはミステリな訳である。それで生活が成り立つ人々というのは、本当に可能なのだろうか。
 しかしながらいつの間にか見ハマっていたという感じで、奇妙さもあるけれど面白かった。ゆるい人間関係だけれど(誰の恋愛が進展するか、すべて不透明だ)、それがほとんど保留的にも感じられるが、彼女らには長い将来がある、ということなのであろう。今を頑張るよりないのだから、これでいいのだろう。

※1 実はネットで少しだけ読んでみた。漫画なので少し設定が違うが(息子の清正が野球をやってるなど)、なるほど基本的にはドラマも同じようなキャラクターになっている。漫画なのでギャグ豊富な展開ではあるにせよ、主人公のコミュ障であるとか、料理のエピソードは、だいたいにおいて同じである。それに、やっぱり漫画として面白い。ドラマ化されるのは、当然のことだったのかもしれない。
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