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カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

時事と合わせてどんな年?

2016-12-31 | 掲示板

 過去をあまり顧みないはずの僕だが、はて、今年はどんな年だったか考えない訳ではない。世間的にどんなだったかはよく分からないが、それに沿って考えないことも無い。実際には多くの報道などにゆだねてしまえばいいことだが、個人の思うことを自分なりに振り返るのは、自分を活かすことになるやもしれない。
 とはいえ、今年オリンピックがあったことなど、うっかり忘れそうであった。もともとそんなに関心のあることでは無いが、しかしオリンピックの報道は日々目にしていた。レスリングの選手だってそれなりに覚えた。そういえばロシヤは蚊帳の外だったな、というのも印象深い。北方領土問題を扱う番組で、ロシヤ人がシラケるオリンピックのことも紹介していた。強い国である必要のある国というのは、やはり何かと大変かもしれない。それなのにロシヤは金が19個で合計56個のメダルを獲得した。それで注目が無いというのだから選手は可哀そうな国である。これが日本だったら大威張りである。一方で大国でありながらメダルの少ないインドやインドネシアはいいなと思う。これからは増えていくだろうけど、僕の生きている間にそういう変化はみられるだろうか。また、開催国であるブラジルではあんまり盛り上がってない風で、それはそれで凄いな、と思った。
 さて、今年は英国のEU離脱問題とトランプ大統領の躍進という大きなトピックがあった。これは地域的問題でありながら、国際的な大きな流れであると思う。皆が自己中心的に物事を考えるとこうなる。しかし自己は自己中心的であるのが当たり前で、その考え方を改めて確認できる場が出来たということに過ぎないかもしれない。ヒトには良心もあるというが、そんなものは誰も信用できなくなったかのようだ。それが良いとか悪いとかいうことでなく、そういうものとして確認する作業が、これからも続いていくのではなかろうか。
 個人的には知人がたくさん死んだ。なんだか寂しい限りだ。そういう知り合いが増える年ごろになったということで、トコロテンのように僕もいずれは押し出されるのかもしれない。
 さらに仕事の上では、いろいろと大きな大会の多い年だった。それぞれ役割があって、それらを全部全うできなかったが、仕方がないものもあり、しかし疲れた。以前なら達成感もあってそれはそれでいい経験という気もするが、既に経験したことを活かして乗り切ったという感じもあって、さすがにこれはもう経験しなくてもいい問題かもしれないと思った。もう自分の順番で乗り切る物事ではないかもしれない。それ以上はやはり寂しい感想だが…。
 でもまあ楽しいこともあったはずだがな。そういうことは簡単に忘れる。出来るだけそういうことだけを覚えておけるような、そのような余生を目指すべきだろう(真に反省)。



追伸:報道を中心に振り返ったけど、今年の一番の事件だったのは、なんといっても熊本地震だったかもしれない。僕はいまだに時々夜が怖くなる。一度目の意外性に世界が変わり、あの二回目の本震は何時までも終わらない悪夢のように思えた。それでも本当には被災したわけでない自分(単に近隣県に棲んでいるというだけだ)。人間って本当にちっぽけな存在だとつくつく思ったのだった。
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故郷に散骨、そんなにいいか   あなたへ

2016-12-30 | 映画

あなたへ/降旗康夫監督

 高倉健、田中裕子主演。大滝秀治と高倉は、ともにこれが遺作となった。亡くなった妻の葬儀を終えると、妻が生前にNPOに託してあったという手紙を受け取る。そこでその手紙によると、故郷に散骨してほしいとの由である。それで夫は妻の故郷である平戸に妻の遺骨を散骨にしようとする。富山から平戸まで1000キロを超える道のりを、ワンボックスカーで下る旅である。基本的にロードムービーで、その旅の途中に出会った人々との妙な絡みが物語の伏線にもなっている。そうしてやっとたどり着いた平戸の台風の迫る漁村で、妻の最後の手紙の意味に悩みながら、散骨してくれる漁船を探すことになるのだが…。
 刑務所の作業専門官の主人公は、木工の腕を買われて受刑者に指導をしている。そこに童謡歌手として慰問に来ていた女性と知り合い遅い結婚をする。妻である彼女との夫婦生活は15年程度だったが、結局は病魔に倒れて先に亡くなってしまった訳だ。妻は元受刑者の内縁の妻だったようで、慰問の名を借りて刑務所に訪れていたようだ。その後内縁の夫も獄中死し、主人公と一緒になったという経緯を持つ。退職を控え(退職再雇用かもしれない)二人でゆっくりしようと話していた矢先に妻の方の病魔の進行が早く、亡くなってしまったようだ。仲は良かったのだろうが、本当には妻が何を考えて生きていたのか、寡黙なところの多い男には、実はよく分からないことだらけのような気がしている。妻は故郷で散骨を希望しているなんてこともまったく知らなかったし、さらにその故郷といわれる九州の僻地なんて、どんなところなのかさっぱり知らないのだった。
 富山からワンボックスカーで九州に下る間に、妙なキャンピングカーの男に興味を持たれたり、物産展で全国を売り歩くイカ飯弁当屋の社員二人との関係などを交えて南下していく。それぞれに何か妙な問題を抱えていて、自分の問題以外のものを、何かさらに抱え込みながら旅をしているような感じである。主人公は妻との想いのことが何より重要なのだが、物語としては、少し別のオチのようなモノが待っている。
 確かにもう少し年齢を重ねると、このような心情のようなものが分かるようにはなるのかもしれない。田舎の漁協が散骨について難色を示すような困難もあるが、散骨なんて、実にありふれていることだろう。もっとも多すぎて問題になっているとも聞きはするけれど。
 残されたものもそれなりの年齢だから、この思いを抱いて長く生きるという話ではない。むしろ絡んでいた主人公より若い男たちが、傷を抱えながら長い年月を生きていくのだろう。人間の生き方の連続性についてはいろいろあると思うが、このように何か途中に空白を作るような人々というのも、それなりにいるのであろう。実際には運転免許証や戸籍の問題なんかもあるから、そんなに簡単でもないんじゃないかとも思う訳だが…。
 僕個人的には、かみさんが死んでこんな旅をするような事には、やはりなって欲しくないものである。まあ、故郷は旅をするような遠くではないけれど(知っている限りでは)…。ということで、断固先に失礼せねば。さて、こればっかりは、どうなりますやら…。
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それでも巨匠動く

2016-12-29 | 雑記

 もうだいぶ前なんだが、宮崎駿さんがまたアニメを作っているらしいよ、というドキュメンタリーがあった。体力的に劇場用映画をまた作るなんてことは、もう無理だということで引退したらしいことは知っているけど、こういう人に引退があるのかというのはそもそも疑わしいことで、しかし最後の作品というのは宣伝になるから、本人の意思というものは別にして、制作側として引退の言葉が使われるに過ぎないのだろう。
 というのは別にすると、要するに手書きのアニメとは別に、友人らしいジョン・ラセター作品のようにCGにも興味をもったらしくて、小品にはかかわってみたようだ。でもまあ勝手は当然違って、CGのスタッフは苦労してダメそうだった。毛の一本一本の動きも気になるし、手書きとは違う動きにどうしても納得できない様子だった。でもまあ、ジブリの森ではその作品は観られるようになるらしいとかいう話ではあったな。
 CGを勉強するために、他のアイディア作品を見た場面があった。そのCGキャラクターは、痛みを感じない設定のためにどんな不自然な動きでも前に進もうとすると、妙な動きをして面白いということだ。手足を使うのみならず、顔だってどこだって歩行のために動かす。まるでゾンビが人間の想像を越えて動いているような不気味さがあった。
 これを見て宮崎氏は何か気に障ったらしく激怒する。知り合いの身障者のことを引き合いに出して、到底このCGは自分は認めることが出来ない、というのだった。よく考えてみるとそれは宮崎氏の偏見で、障害者の動きを連想して批判しているに過ぎない。障害者が痛みを感じないから不自然な動きをしているかどうかの想像力が欠けていることに無自覚なようだった。まあ、それは仕方の無い面はあるにせよ、俺は気に食わんな、で済む話である。
 まあ、そのような強烈なこだわりや偏見があるからこそ、一場面で人を引き込むようなアニメを作ることが出来るということではあるんだろう。
 ということではあるが、大ヒットメーカーが動くとなると、それはそれで気忙しい。いや、待ち遠しいということだろう。ヒトというのは貪欲で、だから宮崎氏はさらに追い込まれて変なことを考えざるを得ない。お互いに不幸なこともありそうだが、それはそれとして作品を待ちましょう。
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僕らは日々、今日を生きている   ぼくは明日、昨日のきみとデートする

2016-12-28 | 映画

ぼくは明日、昨日のきみとデートする/三木孝浩監督

 美大生のタカトシ君は、通学電車の中で見た女性に一目ぼれしてしまう。それまではおそらく奥手だった彼だが、電車から降りた彼女に声を掛けてみると決心する。何しろ、次には二度と出会えないかもしれないのだから。それでいきなり告白して、知り合うことには成功するが、うっかり連絡先などを聞き出してはいなかった。ただ別れ際、彼女は「また明日ね」と言ったのだった。
 そのようにして日々急激に親しくなっていく若いカップルの話が坦々と続く。ただし、彼女であるエミちゃんには、何か意味深な秘密が隠されているようなのだった。そうしてある日を境に、急激に物語はSFの世界に突入してしまう。
 実際に荒唐無稽な話でありながら、しかしその世界観は必ずしも映画的には不自然ではない。作り方が上手くて、話が破綻していないように見えるからだ。よく考えてみると片方にだけ情報が偏りすぎてしまった過去が気にならないではないし、そのメカニズムを説明してくれたであろう時間軸の問題についても、その真相がはっきり分かるにはそれなりの勉強が必要だっただろう。それでも映画としては、その時に疑問が浮かぶような演出ではない。そうしてたまらなく、涙なくして観られない話になっていく。これはもう、ちょっと反則である。個人差はあるだろうが、ハンカチ無くして鑑賞するには困難ではなかろうか。
 ネットの感想などを見てみると、やたらにネタバレを書いている人が多いように思う。また、もとになった原作小説もヒットしたそうで、そもそもお話を知って鑑賞する人がそれなりにいるということなんだろう。また、そうであるほうが最初から泣けるという意見も見られるようだ。しかしながら原作を読んでなくて観る人であるならば、僕は真っさらのまま素直にお話を追って観た方がいいように感じる。もちろん最初から注意深くエピソードを覚えておいた方がいいという注意は必要だけれど、主人公と同じようなショックを受けた方が、よりその苦しみを理解できるのではないか。まあ、それはある意味で残酷な行為ではあるのだけれど…。
 若い人向けの映画のような様相であるが、もちろん年老いた人が観てもいいと思う。一日の大切さを知るのは、そうしてその日々だけで生きていくことを知るのは、年齢には関係が無いだろう。さらにたまたま名前がタカトシさんであるとかエミさんであるならば、これはもう、精神的にはたまらない映画ではないだろうか。
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歪んだものをまっすぐに   ビハインド・ザ・コーヴ

2016-12-27 | 映画

ビハインド・ザ・コーヴ/八木景子監督

 伝統的イルカ漁や捕鯨を批判するためだけのダメ映画「ザ・コーヴ」が、潤沢な資金と人種差別を背景にアカデミー賞まで受賞するという、偏見に満ちた蛮行が実際に起こった。僕は映画を観たが、欧米人(日本人も含めてだが)は特に見るべきでない愚作で、話題にすることすら残念な作品だった。しかしながら日本のメディアなどは、事件としての報道はあったにせよ、これに正面から反論するようなことをした訳では無かった。しかしこのことに純粋に疑問を抱いた八木監督が、一人でカメラを担いで現地に赴き、さまざまな関係者と会って、ザ・コーヴという映画が撮られた背景というか、事実を追ったドキュメンタリー作品である。
 反捕鯨というのは、主に欧米人が勝手に思い込んだり偏見を抱えている為に起こしている人種差別という(彼らの側の)御楽であることは実証されているが(めんどくさいので省略するけど、普通に調べたらごまんと証明する資料は揃う)、これが科学でなく感情であるために、こじれて一方的に日本という国だけが敗北している政治問題である。だから、例えば米国は自らが捕鯨国でありながら、能天気に批判したりしている。彼らは自分らが人種的に優位であることに疑いが無く、また日本政府がこれを能力が無いがゆえに認めているように見えることから、既に勝者の立場から問題を捉えているようだ。しかしビハインド・ザ・コーヴのような真正面からの、それも英語での批判にさらされることには、特にそれが日本人からの反論であることも含めて、きわめてまれなことになっているのではないかと思われる。そういう意味で、この映画は大変に貴重なのである。
 食文化というものは、民族の違いなどで批判すべきものでは無い。クジラを食べることは、コメを食べることなどとも変わりのない、普通の食文化の一つである。しかしながら、クジラというのは野生動物であり、海の哺乳類であるのも事実だ。農畜産の盛んなベルギーなどは、場の撮影などを厳しく制限している。食肉として処理されたものには、人々は何の良心の呵責も感じないが、大型哺乳動物がされる現場を見ると、少なからぬショックを受けるものだからである。人類の歴史では、だからこれらに従事する者たちは、差別の対象になってきたのかもしれない。しかしクジラというのは広い洋上のことではあっても、人眼から隠すということが困難である。
 考えてみると、フランスのフォアグラを取る為のガチョウ(やアヒル)の飼育や、スペインやメキシコの闘牛は、一部激しく攻撃されている文化である。しかしこれらは文化なので、国連などで批准されるべき蛮行とはなりにくい(なる可能性はあるが。それが現代人という無知の民のなせる業である)。しかし捕鯨問題は、その前段階での疑いが、彼らの中に微塵も存在しない。
 今作品では、この感情を利用した世論操作が、ベトナム戦争の批判をかわすためになされたのではないか、というところにまで展開している。さらに考えていくと、真珠湾攻撃の非道性や、原爆投下という無差別大量殺戮の正当性問題など、主に欧米白色人種の陥りやすい自己中心的な考えをあぶりだすことにも成功している。人種的に脳の機能に優劣が無いとしたら、彼らにも理解できないことも無いはずだと思うが…。
 認める勇気を彼らの多くに持ってもらうためにも、広く、そしてできれば早く、欧米人が観るべき必須の映画である。そのためにも役人や政治家は、この問題を知らないだけでも罪にすべきなのではないか、と感じた次第である。当たり前に、ごく普通に、人間的な生活を取り戻すことが出来るのか。少なくとも一方的な暴力に晒され、尊厳も失いつつある残酷な世界を、変えなければならないのである。
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疑われたらとにかく逃げよう   君よ憤怒の川を渉れ

2016-12-26 | 映画

君よ憤怒の川を渉れ/佐藤純弥監督

 高倉健主演。原作は西村寿行の小説。1976年作品。この作品は中国でも8億人が見たというヒット作となり、出演した高倉健や中野良子は、あちらでも大変に人気を博したとされる。
 突然強盗と暴行容疑、および別の盗難容疑まで併せて嫌疑がかかり逮捕された検察官の男だったが、何より自分で覚えが無いので、これは誰かにはめられたことが明確で、現場検証の折にそのまま逃走。自ら容疑を晴らすために北海道に飛ぶなどして奔走する。そこでクマに襲われかけている若い女性を助け(このあたりから少し無茶が続く)かくまってもらい、自家用飛行機を無償で貸してもらったりして上京しようとするのだが…。
 いろいろと闇の組織からにらまれたものだが、結局捕まったりして大変である。味方の刑事たちも敵にまわって気が抜けない。中野良子は服まで脱いで献身的に守ってくれようとするが、ほとんど無駄だ。そういうところは大変に楽しいのだけれど、熊が出たり馬が出たり、危うい場面に制御不能な何かが現れるのは漫画的過ぎるかもしれない。
 音楽の使い方も特徴があって、緊張感があるのか笑っていいのか戸惑うこともある。突っ込みどころ満載でありながら、しかしちゃんとお話は楽しいと思える。要するに娯楽作としてちゃんと楽しめるつくりになっていて、いい映画なんじゃないかと思った。少なくとも芸術ぶってつまらないものの何倍も素晴らしい。
 ちなみに映画の題名では「憤怒」は「ふんど」と読ませていたらしい。ふつうに「ふんぬ」と読んでしっくりこない人が多かったのではなかろうか。まあ、現代だとこれはどうなっているか分からないのだけれど。
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タイトルとスタイルを変えたい件

2016-12-25 | 掲示板

 さて年末になると一年を振り返ってみたりするが、それがあまりにも詳細だと自分でもめんどくさい。ちょっとブログ的な面だけを考えてみると、やはりそれでも反省すべき点が多々ある。それというのも実はこれを書いているのは12月のはじめ(2日)で、それで誰でも気づくはずだが、なんでそんな古いものが毎日上がっているブログの記事なのかというような疑問が少なからずあるはずだ。正直に告白していうと僕にはそのような過剰性のようなものがあって、ちょっと今書けるなというような時についつい書いてしまうようなことが積み重なっていつの間にかこうなってしまったということに過ぎない。一日に何本かあげていってもいいのかもしれないが、そんなウザいという自分の内面の声もあったりして、しかし日によっては一つも物理的に書けない場合があって、それなら雑誌などのように少し先のことを見越して書いてしまってもいいだろうし、また実際の所別段日記で書いている訳ではないし、早すぎるタイムリー性を大切にしている訳ではない。そうして書いたら日付順に繰り上げて行ったらどんどんたまって来て、しばらく書けないような日が続いても毎日上がるような日々が続いてしまったということだ。さらに溜まってひと月とかひと月半とか先のことになっていくようになって、さすがに少し自制して、あまり書かないように気を付けたりしていた。
 でもまあ考えてみると、最初の頃は書かないと精神的になんとなく不安のようなところがあったのだけど、いつの間にかブログのようなものが15年くらい続いてしまうと(それで「続・中岳」になっていて、もとは何もない「中岳」で、ホームページビルダーで書いていたが、何故かそれが飛んでしまって、「新・中岳」になって、また不都合が出たりして、面倒になってGOOで新たに書き出したという経緯がある)、いつの間にかそういうものは感じなくなっていることに気づいた。もうやめてもいいのだけれど、慣性の法則もあることだし、無理にそんなことをする必要もないな、という感じかもしれない。でも問題はまだあって、以前いた中岳から既に引っ越して3年になっていて、ブログ・タイトルとしては適当ではないような心情が個人的にはある。でもまあ住所が変わってしまったことなんて考えてみると関係のないことだから放っておいてしまったので、いつかは変えようとしていたはずだったのを思い出した。でも新しい住所の名前を入れる方針であった訳でもないから、またちょっと悩んでしまうのである。
 ということで来年になったら、いつかのタイミングでタイトルは変えようと思う。またいちおう匿名だが、ほとんどの人は当初とは違ってフェイスブック経由で見てもらっているはずだからリアルでも知っている人が多いと思うが、でもまあ保留の気持ちもあってまだそれはいいかな。実はリアルな僕ではない可能性も楽しいし。または僕が複数いるかもしれないし。
 などと計画性なく考えたりしていて、さらにやはり毎日あげたりせずに、あがらない空白の日も作ってみたいな、とも思う。別に宗教的な意味があるわけではないが、安息日があってもメリハリとしてはいい。たまにたくさん書いてあるから読まないという人もいるし、読まなくて溜まると嫌だという人もいるらしい。それはぜんぜん僕の所為ではないけれど、少しだけそれは気の毒というかなんというか、たくさんでない良さも見直すべきかということだろうか。
 というこんな感じですぐに長くなる。だいたい20分くらいでこんな感じになるわけで、書かない目標があんがい難しいのはお分かり頂けるだろうか。今年のブログ方面の反省の筈が来年の目標めいたものになってしまった。目標は新年に立てない方針なので、これはこれでいいのである。
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漫画かく描くべし かくかくしかじか

2016-12-24 | 読書

かくかくしかじか/東村アキコ著(集英社)

 全5巻。漫画。絵の先生の思い出を通した自伝的な話。ギャグも多いが基本的にマンガ道ものジャンルだと思う。強烈な個性の人々(もちろん著者含めて)が繰り広げる壮絶なシュール世界かもしれない。いや、実際の話だからリアルに納得する話も多いけど。
 漫画家になる人はどんな人か。絵が好きで描いていて、ストーリーのある物語を描いてしまう人だ。実に当たり前のことだが、そうしてある水準を無視するなら、それは誰にでも出来ることだ。実際にマンガを描いていたという人はごまんといるだろうし、今だって特にプロを目指している訳でなくとも、描いている人はいるだろう。
 ところが漫画家になりたい人はどんな人か。そうして、そう思っている人が漫画家になるにはどうしたらいいのだろうか。実はこの答えこそ、この作品に描かれていることでは無いかと思う。だから僕はマンガ道ものの作品だと読めてしまう。漫画家になりたいと思っている多くの人の中に、絶対にマンガ家になれない一群がいるように思われる。いくら絵が上手くてもダメなものはダメ。それがやる前から分かり切っているような人々。
 結局いくら漫画家になりたいと思い焦がれたとしても、肝心の作品を描かない人がほとんどなんじゃないかと思う。実は僕も小学生の高学年から中学生でバンドをやる前くらいまでは、漫画を描いていた。自分で自由に描くから、その当時読んでいた漫画雑誌での絵を模写したようなものが多かったし、ストーリーもほとんどパクリだった。読んで楽しかったものを自分なりに再現したいという欲求の方が強かったかもしれない。たくさん描いたが、ほとんどが未完のままだった。一緒に同人誌をやろうということになって、あてがわれた枚数と〆切があったものくらいしか、作品を完結できなかった。あとは学級新聞の四コマ漫画程度のものか。作品を完成させるというのはあんがい難しいもので、特殊なモチベーションを持続させないと、ほとんど不可能だと当時思った。
 それでもマンガの描ける人。たぶんそれが本当の漫画家の卵である。その後デビューしたり売れたりするのはどういう人なのかは、残念ながらこの漫画を読んだくらいじゃ分からない。いや、プロだって本当は分からないかもしれない。でもまあ、そうやって描き続けられる人が漫画家だし、そうでなくなった人は漫画家ではないのだろう。その差は単純で非常に厳しいものがあるようだ。
 さて、後は結構涙腺のゆるくなるお話である。ギャグを交えたセンチメンタルな演出が誠に上手いものである。もうずいぶん前から先生は亡くなっておられることは示唆されている訳だが、そこに至る道のりで、何度も何度もやられてしまう。まったくひどい人もいたものだが、それが漫画家として生きていくうえで、何よりのタフさを育成していたのである。絵をかく大変さと楽しさというものを掘り下げて回想すると、この著者の場合こうなってしまった。他の作品が好きな人以外でも、ぜひ読んでもらって実生活に活かしてもらいたい。
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偉大なる足跡は宇宙空間に

2016-12-23 | Science & nature

 ハッブルの法則などで知られるエドウィン・ハッブルは、「20世紀最大の天文学者」と言われている。遠い宇宙ほど早い速度で移動していることを突き止め(いわゆる膨張)、銀河以外の外側世界にも他の銀河や宇宙の広がりのあることを証明した。そのことにより、アインシュタインは定常宇宙を前提にして書かれた相対性理論を書き換えたとされる。
 ハッブルは若いころにはボクシングや陸上競技に高じ、天文学だけでなく数学や法律も学んだ。従軍し少佐ともなっている。一次大戦終了後に天文台に勤め、熱心に観測を進めた。そうして数々の発見を成し遂げることとなった。
 当時の天文学的な常識を大きく覆し、また、広げる発見だったために、先輩や仲間の天文学者とは論争騒ぎが絶えず、また観測に一人で執拗にこもるような性格とも伴い、いわば嫌われていたという。一方で時代の寵児として、芸能人などの有名人との交流も広く注目の的だった。要するに妬まれていたのかもしれない。性格的にも協調性のある方では無かったと言われている。63歳で生涯を閉じるが、もう少し長生き出来たら、ノーベル賞も間違いなかったとも言われている。もっともそのような賞がなくても、その偉大さに陰りのあるものではない。
 ところでハッブルが亡くなっても、(本人の意思だったと言われている)妻は葬式はせず、墓の場所も明らかにしなかった。いまだに遺体の所在は不明のままだという。さらにこれだけの偉大な人物とされながら、同僚や仲間たちから、銅像など記念碑的なものを立てるような機運があがらなかった。功績だけは後世に残り、本人の痕跡は消えたかに思われた。
 しかしながら時はながれ、1990年に打ち上げられた宇宙望遠鏡に、ハッブルの名が冠せられた。地球の大気の影響を受けずに宇宙空間で観測できる望遠鏡として、数々の研究の功績を飛躍的に増やした。まさに名前の通り、人間の財産とするにふさわしい、偉大な望遠鏡と言えるのではないか。ハッブルの子孫たちは、銅像などが建てられるより、はるかに誇らしく思っているのではなかろうか。
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劇薬だが飲んでみるべし   聲の形

2016-12-22 | 読書

聲の形/大今良時著(講談社)

 全7巻。漫画。前にも書いたと思うが、地元の弁論大会の休憩時間に、この原作をもとにした短時間ドラマの放映があった。僕はそれで初めて見たのだが、ひどく感情を揺さぶられる思いがした。たぶんそれがきっかけで買っておいたのだと思う。あらためて手に取って、また引き込まれて読んだという訳だ。
 漫画なので、必ずしもリアルな描写ということでは無く、デフォルメした極端さはあるのかもしれないが、むしろそのために、やはりひどく感情が揺さぶられる。いわゆる学校のいじめ問題を正面から取り上げていることと、障害児統合教育問題にも踏み込んで描いている。やはり極端だとは思うが、障害児と家庭問題、いじめと自殺についても、真正面から切り込んでいると思う。そのストレートさがこの漫画の一番の持ち味で、しつこいくらいに行ったり来たりの葛藤があって、その原因と結果である二人が、改めて恋愛を通じで悩むところに、物語の可能性があるようにも思う。よく考えると、やはりあり得そうには無いのに目をつぶるとしても。
 確かに冷静になって考えてみると、物語のエピソードには、小さいながら様々なあり得なさというのは散見される。しかし、それをも問題にしない真実がここに描かれていることが、何より凄い力になっている。いじめ問題はありふれているが、突き詰めて個人に還元して考えていくと、このような地獄絵図の世界であろうことが目の前に提示されているのだ。これが現実世界で、そしてよく見ないと見えない世界なのだ。みんな知っていたはずなのに…。
 主人公たちの考え方そのものは、多かれ少なかれ誰もが心の中で考えたことがあるだろうことだと思う。一方の聴覚障害の少女も、普通はここまではあり得なさそうだが、しかしもとになっているだろう感情は、理解できなくはない。そのように生きたい人間がいてもおかしくは無い。さらにそうだったからこそ、物語はきっかけをつかんで進むことが出来たのかもしれない。また、主人公の少年を好きな、過去の加害者の女の子においても、いつまでも自分のおかしさに気付けない葛藤を、荒削りに露出させている。それはそれで人間らしいともいえるかもしれない。
 この物語にはいくつもの可能性があるように思う。ひねた人間ばかり出てくるようで、ストレートで正直だし、地獄絵図ながら、本当に救われないままでお話が終わるわけではない。しかしただの楽観主義でもない。それぞれの立場の人も、ある意味でちゃんと描かれているし、ぶつかり合いは激しいにしても、逃げてばかりでない希望が見える。思うに、基本的にそういうことから避けてばかりいる現実が、いじめ問題そのものの根本的な問題だったのかもしれない。そうして多様な、気持ち悪さを隠さない、いろんな人を描き分けている。
 やはりこれは、現物を多くの人に見てもらうより他に無いと思う。非常に可能性の高い、劇薬的な漫画ではないだろうか。
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探偵と上から目線

2016-12-21 | 雑記

 「上から目線」という非難する言葉があるが、まあ、偉そうな物言い、という程度に理解していると、多少違うようなところがあるようにも思う。一般の人たちが使う上から目線というのは、単に感じ悪いというのも含め、さらに自分が嫌われる恐怖も含んだ広い意味があるようだ。単に断定的な言い方を避けて、提案型の語尾で話したり、意見をあいまいに保留するテクニックを指していたりする。なんだかご苦労なこったな、と思うが、そう思うのは既に上から目線っぽいな。
 好きか嫌いかと言えば、そりゃあ、そんなに好きではないと言えるとはいえ、偉そうな人が偉そうに言ったり、実際にえらい人が偉いことを言ったりするのは時には可愛らしくていいと思う。そういうことでは無いというのは分かるが、下っ端が偉そうなことを言いやがってと思うそのものが、すでに上から目線で、むしろそういう心情を自戒する方が先ではなかろうか。
 言いたいことはそういうことに尽きるが、不快な物言いの人とは付き合いたくないのもよく分かる。逃れられない立場の人は、お気の毒だが聞きながす方法を会得するより無いだろう。
 さて、先日読んでいた推理小説で御手洗潔というその方面では有名な人物がいるのだが、この人の言動がいきなり人を小ばかにして偉そうなキャラクター設定として笑いどころになっている。その滑稽さが小説的に読ませる面白さになっている訳だが、実際にこの人物の頭の良さで、見事な推理で謎を解くということになっていて、実は偉そうでなく偉い人物だということになるのかもしれない。特に作中でシャーロック・ホームズを腐す場面があるのだが、要するに名探偵を馬鹿にすることで、自分を高みに上げるような精神性のある幼さがあるわけで、そこが笑いどころになっている。単に変人らしく演じているところもあるのだが、しかしホームズが変な人間であるというのは結構聞く話で、それだけ好かれている人物ということは言えるにせよ、実際にホームズこそ、確かに上から目線の古典的典型人物ということもいえるのかもしれない。訳の分からなさがありながらなんだか凄い訳だが、やはりどうも勝手に偉そうな人物である。自分の高みからしか世の中を見ることが出来ないようで、上から目線以外に言葉を発することは不可能なのではなかろうか。
 というか人というのは、自分の分かり得ないことを勝手に素早く先走って理解できてしまうような人に、畏敬の念を抱きつつも不快な気持ちがあるのではないか。ひょっとすると頭の良さのようなものについての全般に、なんとなく不快なものを感じ取るのかもしれない。要するに劣等感のようなもので、言いたくないがそのような心情の現れの一つに、上から目線の不快さがあるのではないだろうか。
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猟奇的殺人だが怖い話ではない   占星術殺人事件

2016-12-20 | 読書

占星術殺人事件/島田荘司著(講談社文庫)

 本格ミステリ作品として名高い作品。ずいぶん前に購入だけして放置していた。
 40年前の二二六事件の当日、画家の梅沢平吉が密室で殺されているのが発見される。その後長女が物盗りと思われる形で殺される。さらにさらに妻や娘6人が突如失踪。バラバラ死体が各地で発見されていく。結局犯人は見つからないまま戦後になり、猟奇殺人ミステリ事件として出版され大変に話題になるものの、多くの素人探偵らが推理を働かせても謎が解かれないまま月日が流れてしまった。
 そんな折に占星術を生業にする御手洗という男に、友人の石岡がこの事件の謎解きを持ちかける。大変な変人らしい御手洗は、行きがかり上この大きな謎解きに挑むのだが…。
 流石に長らく読み継がれるだけあって、謎解きは見事な作品である。海外にもファンがいるらしい。確かに書いてあるヒントで犯人まで割り出せるような仕掛けにはなっているらしいけれど、やはり普通は無理でしょう。それだけ御手洗が凄いということにもなるが、何しろそういう作品である。作家のトリック構成が素晴らしいのだろう。
 ただしかし、謎解きの大きなヒントになる手記を巡っては、ちょっとそこまで個人的に入れ込む必要性も感じないし、また、そのような苦労もなんとなくやはり無理があるように思う。そこのところだけは、個人的に納得が薄かった印象だ。また、犯人が分かったとしても実際には時効なんだし、警察に知らせる必要も無かろう。その結果がどうなるというのは、謎解きが出来る人間だったら、当然予想もできたと思うので(何しろ読んでいてこれくらいは先が読めた)、そうなると探偵さんに人道的罪は無いのか、と考えてしまった。
 そういうことなんだが、途中もコミカルに進む場面もあるし、伏線が絡むエピソードもそれなりに面白い。忙しかったので数日はかかったが、やはり先は気になった。もともと評判の良いのは知っていたのだから、もっと早くに読んでおけば良かった。
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日本人は時間にルーズすぎる

2016-12-19 | culture

 先日テレビを見てたら、若い人が寝坊して遅刻してた。それでひどく怒られるわけだが、さらにその後も繰り返しその精神性を怒られていた。まあ、仕方ないがお気の毒でもあるような気がした。本人はそうでもなかったかもしれないが。
 以前に外国人が多く出演する番組の楽屋の様子を伝えるものを見た。打ち合わせ時間になっても日本人スタッフ以外は居ない。時間は間違ってなくて、その後ポツリポツリとやってくる。一時間遅れてもやってくる人がいる。結局本番まで来ない人さえいた。要するに打ち合わせ時間なんてどうでもいいのだろう。
 学生が集まってどこかに見学に行くため駅に集合するというのもあった。日本人以外にも外国人スタッフや留学生などがいる。日本人は10分前にはほぼ集合。ちょうどの時間くらいに外国人がドヤドヤやってくる。その後やはり遅刻がいて、最終的に行先を管理している主催の外国人先生が、20分以上遅れてやってきた。皆やれやれという顔をしているが、当然謝らない。後でスタッフがどうして? と訊ねると、自分だって忙しいし、自分が来なければ出発出来ないのだから良いではないか、といった。理屈は分からないし傲慢である。
 しかしながら、日本に来ている外国人の多くは、日本人の時間に正確なことは、良いことだと思う反面、多少辟易しているらしい。時間前に来ても時計を見て咎めるような顔をする人がいるという。たぶんギリギリだったのだろうが、間に合っているのにひどい対応だということだろう。
 日本人は相手に迷惑を掛けたくないから時間を守っているというような解説もあった。それは日本人としてはそれなりに納得いく考え方だと思った。ところがこれを聞いて反発して疑問を呈する外国人がいた。それも複数。それはどういう訳か?
 日本人は一方で時間にルーズすぎるというのだ!
 それというのも終業時間。終わりをズルズル守らない。関係ないから帰ろうとすると、まだ終わってない、などと叱られる。あれだけ始まりの時間にうるさいのに、終わりにルーズなのはどういう訳だ。まったく理解に苦しむ、という訳だ。
 若いころには僕もできなかったけれど、今は終わりにはサッサと帰る。言い忘れたことは後で電話すればいいし。職場ではいろいろやることがあってなかなか帰らないこともあるけど、いつまでも終わらない人間は僕も嫌いである。日本人が能力が足りないと思うのは、このような時間にルーズなところかもしれない。
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凄すぎてついていけない   マン・オブ・スティール

2016-12-18 | 映画
凄すぎてついていけない
マン・オブ・スティール/ザック・スナイダー監督

 いわゆるスーパーマン作品。比較的リアルにクリプトン星からスーパーマンたちが移住してくる理由を描いている。クリプトン星では星からのエネルギーを摂り尽くし、滅亡の危機を迎えている。クリプトン人類は出産は完全に管理されており、クリプトン人の交配では子供は生まれていない。そういう中で秘密裏に自然分娩で生まれた赤ん坊がいた。滅亡の危機にあってクーデターが勃発し、反乱軍の魔の手を逃れながら、赤ん坊は別の惑星へ最後の希望として送られる(その地が地球らしい)。ところが反乱軍はその後鎮圧され宇宙空間に幽閉されることになるが、希望の赤ん坊を取り逃がしたことに逆恨みをし、いつか見つけ出すと映画的に宣言して幽閉される。ほどなくクリプトン星は滅亡したため、すぐに自由の身になって宇宙を放浪することになったらしい。
 一方で地球に送られた子供は、地球の太陽エネルギーを取り込んで、まさしく桁外れの能力を獲得していく。しかしながら同じ地球の仲間にこの能力が知れることで迫害を恐れた育ての親たちは、かたくなに能力を隠して耐えるように教育する。時折奇跡的な救助事件を起こして有名になりかかりながら成長するが、何とか身元を隠して暮らしている。そんな中、北極の厚い氷に埋まっている2万年ほど前らしい未確認物体が発見される。スーパーマンの前身はこれに入り込み、自分が来た理由や本当の両親など様々な秘密を知ることになる。しかし、この解読をした信号が宇宙空間に漏れ、クリプトン星反乱軍が再び地球にやってくるのだった。
 そのあとの展開はひたすらドンチャン破壊行為の連続アクションである。あまりに能力が高すぎるので、実写映画とは言えない水準のアニメ作品(CG)になってしまう。動きが早くて強力で、ほとんどのものがなすすべなく破壊され尽くしてしまう。たまに恣意的に救助される人間もいるが、ほぼ関係なくありがつぶされるごとく多くの命が、たぶん、この混乱の中殺されていく。地球の文明との力の差が大きすぎて、人々はなす術がない。一応空軍なんかも頑張って攻撃しているが、相手からは素手でやっつけられたりしている。普通に無茶な領域だらけの展開なんだが、エスカレートして力強さは抑えが利かなくなっていて、ただただぶっ飛んで、収拾がつかなくなっていくのだった。
 まあ、めちゃめちゃなんだが、たいした理由や根拠のなしにヒーローは力が倍増して勝つのはお約束である。
 それにしても敵役だった将軍さんは、多少バカなところはあるんだろうが、理屈としては自分の民を守る為の行動であったということで、それなりに筋は通ってはいる。急に攻撃的になるものの、話し合いの余地が本当になかったかは、ちょっと疑問が残る描写だった。もちろんそれでも共存は難しいというが、種を越えて交配が出来るという根拠の方が実は希薄そうで、いくら姿かたちが似ていてともに英語が話せるからといって、人間の母体が宇宙人の子に耐えられるかどうかは危険だ。そもそも交配不可能だろう。
 まあ、そういう人間中心的な疑いのない価値観は、人間が作った娯楽なので仕方がないのだろう。地球がクリプトン星人の支配になりさらに文明を発展させた方が、宇宙的には将来性が高かったことは間違いなかったろう。
 ということで、大作でバカ映画だが、それでいいんだというハチャメチャ映画だった。
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ハートをROCK

2016-12-17 | 音楽

 松田聖子に「ハートをROCK」という歌がある。歌詞は松本隆、曲は甲斐よしひろである。曲調はシュープリームスの名曲「恋は焦らず」に似ていて、聖子ちゃんが歌っていた同じころには、ジェネシスのドラムだった毛の薄いフィル・コリンズがリメイクしてヒットしていた。だからその頃の僕たちは、単にパクリの曲という認識しかしていなかったけれど、よく聞いてみるとアレンジが似ているけれどメロディそのものが一緒という訳ではない。
 ところでしかし、この曲が好きだという同世代の男というのは意外に多くて、小さく盛り上がる話題の一つである。というか、ヒットしていない割に、皆よく知っている。
 僕がカラオケでよく歌っていたのは、聖子ちゃんでは「制服」で、これは赤いスイートピーのB面の曲だった。B面という表現を若い人は知らないので、このようにいうと同世代にはウケる。同じくB面(ガラスの林檎)だったSweet memories も地味にファンが多いけれど、これはサントリーのCMでもおなじみで、「制服」と同列に論じられるのには少し抵抗がある。まあ、そんなことを言いあって飲むのが楽しい訳だが。また、何故かこの歌詞について黒柳徹子が、女が男にベイビイというのはおかしいのではないか、と批判したりした。しかし現代では若い女が、男でも爺さんでも「かわいい」という。聖子ちゃんは少し時代が早すぎたのだろう。
 ところで「ハートをROCK」に戻すと、確かに聖子ちゃんらしい魔力のある曲なのである。歌詞はググって確認してもらいたいが、勉強のできる堅物の恐らく理系の男の子に恋心を抱き、困りながらも付き合っているちょいワルの女の子の感情を歌ったものである。クラクラするような安易な歌詞ながら、聖子ちゃんに興味が無い男の子でも誘惑されているような気分になる。今聞くと80年代の表面豪華主義的な嘘っぽさはあるものの、聖子ちゃんに騙される男たちを縮図にしている世界観が見事に表現されている。
 要するに聖子ちゃんというのは、ぶりっ子しててかわいいが、体育館の裏でたばこを吸っているイメージが一番いいと思うのである。それを知りながら抗えない、もしくは騙されていくというのが、正しい鑑賞の仕方だったのではないか。
 若いころというのは、まじめでいい子の魅力をまだわからないものである。まあ、それで仕方ないと言えばそうなんだけれど。
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