カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

最近ラーメン食べてないが……

2020-11-30 | 

 長崎県というのはちゃんぽん文化というのがあるせいか、本来はあまりラーメンは食わない。いや、近年はよく食うようになっているはずで、それなりにラーメン屋はたくさんあるが、そこで素直にラーメンを食っているというのは、まだまだ大多数とはいいがたいのではないか。僕は長崎市や佐世保に住んでいる訳ではないので、そういう意味でも条件はだいぶ違うのだけれど、昼時にラーメン屋を探して入るというような習慣はない。出張なら高頻度でラーメンを食っていた時期はあるが、それは長崎ではなかったからだ。
 でもまあ、ラーメンはやはり食いたくなる。もう中年もいいところですぐに高齢の自分が想像できるようになって、ぶくぶくすぐに太ってしまうので、〆のラーメンということはしないことにしている。勢いでそういう事情になったとしても、せいぜい餃子を食べるか、メンマなどをつまみにさらに飲んだりする。若い人や、まだ無謀な人などがズルズルいわせて食べているのを眺めて、なんとなくわびしい時間をやり過ごす。もう帰ったらよかったのだ。
 複数の人と車で移動すると、サービスエリアなどでラーメンを食べる時がある。以前は僕が運転手というのは普通だったが、今はなんとなくこの役から外れることが多くなった。それでラーメンを食べてしまうと、やたらに眠くなるのである。自分がそうだったから、運転手役の人がラーメンを食っているのを見ると、その後がなんとなく不安になる。監視の目というか、それからの乗車後に饒舌になって、車内を盛り上げたりしたくなる。みんな寝てしまうと、運転手だって寝るのではないか。そう思いながら結局寝てしまって、目的地に着いて平和である。運転手さんありがとう、である。
 近年は、何と醤油ラーメンを出すような店が、地元でも見られるようになった。一度佐賀にも醤油ラーメンがあるので驚いたことがあるが、それだけ日本が狭くなったせいだろうと思う。なんでも東京文化がいいと思っている人がいるとか、関東あたりから移ってきた人がいるということなんだろうか。嫁いできた人もいるだろうし、そういうのは仕方ないが、でもまあ、それは無いのではないかと保守的な自分がいる。単にそういうのは、寂しい意固地のようなものかもしれない。で、試しに食べてみたりして、うーむ、まあ、そうだろうな、と思ったりする。そういうものを食べることができるようになった自分にも、もっと驚くべきかもしれない。
 少し遠出をすると、気に入った旨いラーメン屋というのはあるが、もうわざわざそういうことはしない。でもまあ、それで不満があるわけではない。ラーメンというのは、そこまで最高に旨くなくてもいいように思う。ラーメンらしい面構えがあって、小腹を満たすようなものであればいい。でもまあ、それでも旨いわけだから、なかなか偉いのである。もうあんまり食わないと言いながら、やはりときどき食っているのである。今日は食いに行かないが、明日は食べているのかもしれない。
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セクハラって奥が深いです   スキャンダル

2020-11-29 | 映画

スキャンダル/ジェイ・ローチ監督

 いわゆるこれは、「me too運動(#metoo)」の発端物語のようである。実際、映画としての演出はあるものの、少しばかりドキュメンタリー的な事実っぽい様子が見て取れる。
 大物ディレクター(ニュース部門のオーナーのような人。日本には例が無いが、ナベツネみたいなものなのだろうか)が、美人で足のきれいな若い女性を部屋に連れ込んで、いわゆる性的な関係をほのめかして、キャスターなど花形部門を世話する。すでに高齢でぶくぶく太って、歩行器を使って歩くような人物だが、そういうことには精力的だということだろう。
 しかし、トランプの大統領選(当選した四年前のもの)の時に、放送局の方針の沿わずにジャーナリズムとしての発言を優先させたために、結局はクビに追い込まれた人気キャスターが反旗を翻し訴訟を起こす。必ず同調してもらえると賭けに出たわけだが、組織的に大物ディレクターが怖い放送局にあって、その行動に共感のあるものの名乗り出ることのできない女性たちが大勢いるのだった。
 実際権力を使って性行為を強要する男がいることと、やはりそういう女性であることを使ってでも仕事を得たいという女性の心理もあるわけで、さらに性的な問題をテレビ局のような広く知られる環境で公表することの戸惑いもある。家族もいるし、これからの人生もある。(強要だったとはいえ)あの男と寝た女、というレッテルは一生消えないだろう。自分の子供にそのことを何と説明できるというのだろう。
 テンポよくお話は進み、様々な事情を抱えていた背景も映し出し、狂暴な世論や大衆をも敵に回しながら、苦しみぬいて運動の芽が育っていく様を見事に描いている。もともとすちゃめちゃコメディを撮っていた監督だったが、前作の「トランボ」といういい作品を撮っており、今作もなかなかの手腕のひかる一作になっている。大物女優の演技合戦にもなっていて、見どころは満載だ。強い女性であっても、性的な問題を抱えていると、とことんまで追い詰められていくというのがよく分かる。一方で自分たちの魅力が、男たちを動かすこともよく分かっている。しかし世論は、そういう内面まではまったく理解してはくれないのである。
 アメリカ大統領が、どうしてトランプになったのか、ということも含めて、ダイナミックの動いていく巨大なアメリカ社会そのものが見て取れる作品である。セクハラは日本にだってあるのだろうが、たぶんこんな風にはならない。そういうことも含めて、見どころのある力強い作品なのではなかろうか。
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未来から来た友人との一年   リテイク・シックスティーン

2020-11-28 | 読書

リテイク・シックスティーン/豊島ミホ著(幻冬舎)

 高校一年の沙織は、クラスで仲良くなったばかりの孝子に、本当は27歳のときの未来から来た、といわれる。もう一度16歳をやり直したいという理由でやってきたのだという。確かに孝子は、時々3年間の高校生活そのものを知っている風なのだった。謎は抱えたまま親しくなるのだったが、孝子は、隣に座った図々しいが活発で、本当は沙織のことが好きだという大海君を彼氏にしたり、突然反抗的な発言をする。未来に関することは極めて限定的で、それが本当かウソかも怪しい。だいたい、進学校らしい学校の雰囲気からいって、僕なんかのような男の目から見ると、なんだかちょっと変である。そうではあるが、孝子の彼氏である大海くんの親友で医者の息子の村山君も交えて、沙織視点の四人の青春のひと時が始まる。
 小説は沙織の一人称で語られるが、その謎の同級生孝子を中心として、いわば、あまり自主性のない沙織自身が、勉強もでき美人であるばかりか、グラビア・モデルにもなれるくらいの肉体でもありアイドル性がありながら、何か実態のつかめない青春の真っただ中にある。進路の問題もあるし、家庭の問題もちょっとくらいはある。
 何かお勧めの小説というたぐいの文章を読んだのだろうと思う。作者の豊島は、この作品を最後に小説家としての活動は辞めているそうで、そこらあたりもちょっと謎である。綿矢りさと同世代で、同じ早稲田で作家デビューはしていたらしいが、本人が嫌でそのことは当時伏せていたという。話題性があるので、出版社としてはそういう背景は公表したかっただろうとは考えられるが、後に作家をやめることも含めて、人間関係にギクシャクしたものを抱えて活動していた人なのかもしれない(勝手な想像だが)。
 それというのも、この高校生活の一年間を描いた青春生活が、何か微妙にギクシャクした含みのあるものに感じられるのである。僕は男だし、女子高生の考え方などみじんも分からないし、さらにあまりに昔のことで、こういう生活自体を思い出すことも難しいわけだが、彼女らの抱えているらしい問題の一つも、ほとんど理解できない異次元のものだった。そういうことで読めた、ということもあるかもしれないが、なんで僕はこれを読んでいるのだろう、というような気分は抱えたままの読書だった。これが面白いかどうかさえ、分からないままだった。まあ、ふつうは読まない分野である。
 ところでこれを、やはり共感をもって読むらしい人がたくさんいるらしいことに、かなり不思議な気分を味わった。僕は帰宅部だったことも無いし、このような限られたグループのみで学校生活を送ったりもしなかった。それなりの複数の付き合いもあったのだろうが、同世代の付き合いの煩わしも同時に感じていた高校という空間だったわけで、正直言って、もう少しひねていたせいでもあるのだろう。こんな青春ってあるんだな。
 ところで孝子は、パラレルでどうなるんだろうな、とは思ったわけだが、これはそもそもSFなのかもよく分からなかった。まあ、そういうものなのでしょうけれど。
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可哀そうな人、アーサー   ジョーカー

2020-11-27 | 映画

ジョーカー/トッド・フィリップス監督

 街のコメディ事務所というか、チンドン屋タレント派遣(ピエロとして)のような仕事をしているアーサー。基本的にはコメディアン(ピン芸人)になりたいと思っているようだが、精神も病んでおり、同じく精神も不安定で介護の必要な母親と二人暮らしだ。その精神の病気が関係してか、極度の緊張や、何か嫌な感情が湧くと、笑いが止まらなくなるという病状が出る。いわゆる不気味な男で、何か周りの人間は近寄りがたい。過去に何か秘密のようなものがあるらしく、母親が市長候補に寄せる思いと相まって、自分の出自も気になっている。ガキのチンピラからは絡まれ、仕事の上司もまったく理解がない。そういう最悪の生活の日々にあって、電車の中で女に絡むふざけた三人組の男達を見ていると、突然笑いが止まらなくなる。当然バカにされたと思った三人組の男たちは、ピエロの格好をしたアーサーに絡みだすのだったが……。
 精神病の状態が悪くなるアーサーの視点と、現実に起こっているゴッサムシティの市長選や暴動の様子が混ざり合って同時進行していき、何が現実のことで、何が夢のようなことなのか境が分からなくなる。ただし物事は進行し、何事かのメタファーを孕みながら、着実に歩みを進めていく様子だ。テレビでコメディを紹介する番組を好んで観ているアーサーは、実際にその番組に出て、自分の芸を披露するさまを想像し、しきりに練習する。実際のコメディの出来栄えはさておき、立ち振る舞いやダンスは身についている。しかし面白い話なんて、何一つ形になってはいないのだった。自分の置かれている境遇はますます怪しく苦しくなっていき、そうすると比例的に世間の騒ぎも大きくなり、その悲劇がまさに悲劇的にも見えるんじゃないか、と本人は考えているのである。
 よくできた映画だというのはよく分かるのだが、正直言って途中からはそんなに面白くない。先が見えるというか、予測できるというか。それでもしつこく笑い声をあげ、その精神病で苦しむ狂気が、正当なものとして描かれていくことが、観ていても苦しくなっていく。病気に対して、最初はプロもかかわっているはずだが、そのまま放置されたことによる悲劇としか捉えようがない。街では社会現象になっているから、それなりに自分の持っている狂気の正当性のようなことになっているものの、いわばそれは勝手にそうなってしまっただけのことで、自分自身が持っている狂気の巨大な形成のされ方としては弱いという気もする。ほとんどの願望は現実ですらないので、実際には何も起こっていなかったはずで、その説明はないにせよ、実際に起こった事との説明のようなものがあると、さらに物語は深みが増したのではなかろうか。まあ、あえてその謎解きを省いて、強大な悪であるジョーカーが生まれたのだということなんだろうが、そもそもジョーカーがなんであるかさえ知らない人には(僕もヒース・レジャーみたいなものしか知らないわけだし)、結局何だったのか、で終わる話だろう。特に面白い話でもないわけだし。
 ということで、何かが起こるはずだということがそれなりの中盤に起こって、そのまま停滞したと思ったら、後半にもそんなにたいしたことは起こらないようにも感じた。もうちょっと爆発してくれると、恐らくそののちのバットマンとの戦いも面白くなるのにな、と思った次第だった。
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中年男性、中学生になる   遥かな町へ

2020-11-26 | 読書

遥かな町へ/谷口ジロー著(小学館)

 48歳の男が、関西への出張の帰りに、なぜか故郷の倉敷行きの列車に乗っていることに気づく。どうして自分がそうしたのか、覚えが無いのだ。故郷に降り立つと、以前住んでいた家も人手に渡っており、何もかも変わり果てている。そこでせっかくだから亡くなった母の墓を参ることにするが、そのまま記憶が亡くなり、いきなり14歳の自分にタイムスリップしてしまう。そこでは当然母親は生きており、その14の時の夏に失踪した父もいた。理由も分からないまま失踪した父だったが、過去を知っている今の自分なら、父の失踪を止めることができるのではないか。まだ、幼さの残る14歳という時に戻って、48歳の男は悩みながらも青春のひと時を取り戻すのだった。
 有名な漫画らしいが、そうと聞いて読むことにした。なるほど、これは傑作である。48歳の男が子供社会に混ざると、それなりにスーパーマンのようなことになる。当時は嫌だったはずの勉強は楽しいし、若い肉体に戻って体は軽くなり、スポーツだって頑張ってできるようになっている。大人びた行動に、クラスのマドンナだった女の子から好意を寄せられるようにもなっていく(実際に付き合ってしまう)。そういうことと同時に、謎に満ちた父の失踪の秘密も、探っていくことになるのだった。
 タイムスリップという手法は、ある意味ではありふれた物語になりがちだが、現在と過去の関係が、そのためにどうこうなるような話では無いようだ。しかし自分の経験した過去とは別の出来事が起こり、そうして何かを変えられるような期待を持つようになる。34年も前の過去であるから、細かい記憶はあいまいではあるが、しかし父が失踪したような大きな事件は当然覚えている。友人関係も微妙に変化はするが、それで大きな将来が変わってしまうものなのかは分かりえない。主人公は明らかに異質の存在のはずだが、その変化に対して、周りの大人も子供も、なんとなく遠回しに不気味にも思い、面白くも思っているのではないか(一部面白くない嫉妬は受けるが)。
 時々中学生である自分のことを忘れるわけだが、大人のようなふるまいをして羽目を外したりすると、ちゃんと大人に怒られることになる。一応子供だから、そういうことは受け入れる。でもまあ本当は大人になっているから、自分と同じかそれより年下に怒られている訳で、妙な心境なのではないか。今の時代なら多少不合理な理由で怒られる訳だが、子供のふりをして受け入れるというのはどういう気分だろうか。
 妙な感動もあって、なるほどなあ、という感慨もある。いろいろと悲しいものが含まれてもいるが、決して後味は悪くない。こういうことで行くと、パラレルに残された自分の人生が困るのではないかとは思ったけど、まあ、それはそれである。戻ってきても、いい人生になればいいのである。
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運が悪かったが、運を出し切った   1917命をかけた伝令

2020-11-25 | 映画

1917命をかけた伝令/サム・メンデス監督

 第一次大戦時の連合軍側の兵士二人(英国)が、通信網が途絶えて連絡の取れなくなった前線へ、ドイツ軍の罠が待っているために攻撃を中止するとの伝令を伝えるよう命じられる。前線を隔てているのは長く連なる塹壕で、お互いがその塹壕の中から攻撃を仕掛けあう状況で向かい合っている。連合軍側はそれなりに有利に攻め込んでおり、そのためにドイツ軍は大きく撤退している。この状況で、さらに打撃を加えるべく、最前線の部隊は総攻撃を計画していた。
  ところが、航空機などによる視察でみる敵陣の様子では、深く撤退後に兵を固めており、これはいわば罠であることが分かった。前線への通信が途絶えているのだが、その前線で兄が戦っている兵士とともに友人である上等兵二人を、明日の朝までに総攻撃前の最前線へ伝令に送ったという訳だった。
 最初から妙なカメラワークだと思っていたら、ほとんどワンテイクで撮ったようなやり方で二人の様子を延々と映していく。二人が進んでいく長い塹壕の中と、馬や兵士の死体が置き去りにされている中間帯の悲惨な様子。鉄条網を超えて敵方塹壕や、地下待機所など、当時の戦場のリアルな様子もくまなくわかる。人間は食料が乏しくひもじくしているが、人間とともに塹壕生活をしている鼠は丸々と太り(死んだ兵士などを食っているのだろう)、そのコントラストも凄まじい。特撮であろうけれど、二人の関わる状況にドイツ軍の飛行機が落ちてきて、とりあえずパイロットを助けると悲劇が起こる。さらに伝令の使命が増して、伝令の兵士は、まさに自分の命ぎりぎりの状態で前線の味方の軍を探していくのだった。
 戦闘シーンもリアルだし、いきなり線上に観客は放り込まれて、実体験の戦争という雰囲気を味わうことになる。実際には分からないようにいくつかカットは挟んであるが、長いシーンと軽妙に合わさっていて、ほとんど気にならないつなぎになっている。時間の経過は端折ってあるが、ほぼこの兵士の体験する一日一晩の流れを、そのまま観客も体験する指向だ。これがものすごく上手くいっていて、素晴らしい映画に仕上がっている。戦場の緊張感や、まさに一瞬で形勢が変わる命の駆け引きや、隠れている住人とのふれあいや、この青年の心の動きなどが、見事に表現されている。はっきり言って稀に見る傑作である。これほどの映画は、そうそう作られるものではないだろう。
 映画の表現というのは、まだまだ可能性があるな、と改めて感じさせられる。実話が元なのだろうが、戦場がどのようなものなのかというのは、思想などを排除して考えるのはあんがい難しい。それに歴史なのだから、どうしても現代人の目が入ってしまう。そういうもろもろを削ぎ落しても、一回性の歴史の再現というのは極めて難しいものだ。それならいっそのこと、同じように実際にやってみてはどうか。そういう気位を感じる作品になっている。体験としての戦争を、ぜひとも観るべきであろう。
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時間調整は大変だ

2020-11-24 | つぶやき

 いわゆるコロナ禍というやつで、リアル会議というのは確かに減っているのだが、まったく無くなったわけではない。いやむしろ少人数の集まりというのはそれなりにあって、そうして頻繁に集まっている。具体的なやり取りであるとか、アイディアだしだとかいうようなものは、リアルでディスカッションしたほうがはるかに効率がいい。ZOOMなんかの会議を経験してみて、あらためてそういうことに実感を伴うようになって、あえてそのような集まりを持つようになったというべきかもしれない。ウェブ会議も並行してやっているので、なんだかんだとむしろ忙しい。何しろ時間調整をするのは同じことで、さらにその時間までにやることだってあるからである。〆切りがどんどんめぐってくるような感覚があって、日々の流れが速くなっている。
 その時間調整なのである。これもいろいろあって、事務局機能のあるところは、そこがやってくれるのでありがたいのだが、しかし、これが一様ではない。メールで指定日がいくつかあるのに丸を付けて返すというのが一般的だが、いきなりその日のみ指定というのもある。まあ、主力の人の都合なのだろうが、これは調整ではない。いまだにFAXのところがあるし、それは何か都合があるということだろうとは分かるが、いくつも予備日を確保していって、いつの間にか重複が増えていく。決まったものから出席する旨連絡するが、その後同じ日に別会議が飛び込んでくることが多くなった。どうも最初はその日を開けていたらしい。手帳を見ると、丸とか△とか□とか、さらには色違いなどで手帳の日付にいろいろ書いてある。まあ日程調整でつけていたのは分かるのだが、何しろ全部を空けるわけにはいかない。たまにラインで調整をするところがあって、それなら誰がどの程度の都合なのか事前にわかるので話が早いのだが、だからといって全部が上手くいくわけではない。そうして重複したが、どうしても何とかならないかというような話になると、その日しか空いてないのなら、前後の時間を調整しなおす。午前なら早い時間。午後なら遅い時間。困るのは遅くなると、そのまま飯でも、ということになり、ついでだから飯の席で手早くやろう、などという人もいる。
 僕は酒も飲むのだから、そうすると結局飲み会の都合である。そういえばしばらく一緒に飲んでなかったね、ということになったりして、結構盛り上がる。そうすると、また今度もやりましょうということになったりする。
 いや、これは困った話だったのかどうか分からなくなった。そういう具合になっておるのでありまする。
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車好きが高じて泥棒になる   バニシングin 60

2020-11-23 | 映画

バニシングin 60/H・B・ハリッキー監督

 これは過去に子供のころ観たことがある。テレビのロードショーで流されたのだ。40分間もカーチェイスが続く物語で、正直言って途中いったいどうなるのか訳が分からなくなる。でもまあ、それでいいのだ、という作品。監督さんがスタントマン出身の人で、そういう映画を撮りたかったのだろう。続編も作られたが、製作途中の事故で監督さんが亡くなってしまったという。この作品を観ても分かると思うが、とにかくカーアクションは命懸けであることがヒシヒシと伝わる。現代ならCGを使ってもっと派手な演出が可能だろうけれど、当時はひたすら、自分たちの命を懸けてやるよりなかったのである。
 そういうわけでストーリは単純で、車を盗む組織の人間が、依頼のあった車を盗んでそろえる。盗んだ車は車体番号なんかを偽装してバレないようにする。その手口なんかも細かく紹介していて、犯罪映画としてもなかなかに楽しい(そして盗まれる側としては恐ろしい)。でもまあ、ちゃんと車両保険に入っている車を狙っているということにしてあり(最後のご婦人は可哀そうだけど)、一応良心的なふりはしている。
 とにかく最後は黄色いムスタングがひたすら警察に追われて逃げ回って、あちこちぶつけてボロボロになっていく。あれだけボロボロになっても車というのは走ることができるんだな、と感心する。もう絶対逃げ切れないと思うのだが、でも卓越したドライブ・テクニックがあって、逃げてしまう。ほんとに凄いのだ。
 ということで、これを観た少年たちは、翌日の学校で熱っぽく感動を語り合ったものだ。改めて観てみると、やっぱり時代がかったところは散見されるが、妙な映画なりにファンがいるのは納得できるところである。そういう意味ではカルト作品といえるかもしれない。
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アドレスは読まれるべき事項か

2020-11-22 | 雑記

 ラジオを聞いていると、番組のホームページのアドレスを事細かく言っている人がいる。スラッシュ、ドット、アットマーク、などなど。やたら長いのがあって、聞いていても待ち長い。
 さてしかし、これを聞いてメモでもして、実際にそれらの文字を打ち込んで、インターネットで検索している人ってどれくらいいるのだろう。だいたいラジオ番組のホームページであったとしても、その番組名を検索に掛けるだけで、安易に探し出せるに決まっている。
 番組の正式なアドレスを言うことで、まさか類似の検索先との差別化を図っている訳ではあるまい。自分の番組のいかがわしくなさを証明したいとか。
 ラジオ番組にはディレクターのような人もいることだろうし、もしかするとそのラジオ会社の幹部とか、何か規定めいたものがあるとかして、番組ホームページを紹介するときには正確なアドレスを読まなければならない、という決まりでもあるのだろうか。それを守っているのかどうか、審査をかけている組織があるとか。守らないと罰則があるとか。
 録画番組もあるとは思うが、だいたいこういう番組というのは、時間制限がうるさい、というのがあるかもしれない。何を言っているのかというかというと、番組の残り時間とか、話していい時間のコマ割りのようなものがあって、そこに埋める言葉数や調子によって、アドレスを読むというのは、計算がしやすい可能性がある。僕は特にラジオなどで話すような機会は無いが、アナウンサーとかタレントさんなら、そういう枠時間に対してどれくらい話したらいいのかは、経験も含めて、しっかり考えていることだろう。そういう時間調整の間のようなものとして、アドレスを読んで整えるような感覚があるのかもしれない。それで時間がつぶれたら、精神的に楽なるとか、落ち着くとか、そういうことがあってもおかしくない。
 時間があるというのは、そこに話で何かを埋める、という作業で考えると、それなりのプレッシャーである。だいぶ前の話で恐縮だが、授業の時間をきっちりと終わらせることに喜びを表明している先生がいた。こちらとしてもちゃんと終わるのでいい先生だと思っていたが、本当に最後の方は腕時計を見ながら話しだして、話が終わるとちょうどチャイムが鳴る。そうして誇らしげに教室を出ていかれるのである。だいたい少しくらい時間オーバーする先生が多い中、心がけは素晴らしいものだった。内容はほとんど覚えていないけど(まあ、だいぶ前の話ですしね)。
 さて、ラジオやテレビ番組で、生放送だと、話の途中でブチっと切れてしまうことがたまにある。時間配分を間違ったか、何か時計を見ることを怠ったのかしたのかな、と思う。やはりそういうのは、何かやっちまったな、というような心残りのようなものがあるような感覚はある。残念というか、何というか。早く終わると、間が悪くカッコ悪いが、途中だと落ち着かないものが残るようだ。やっぱりやっている方も、そういうのは何とか避けてやり遂げたい思いはあるだろう。アドレスを読むことが、そういうことと関係あるのかどうかまでは、本当のところは分からないまでも、一定のリズム感と、時間配分に関与できそうなことであるように思えるのである。実際は、どうなんでしょうね。
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純情な動機なら行動をしていい社会   続・激突!カージャック

2020-11-21 | 映画

続・激突!カージャック/スティーブン・スピルバーグ監督

 窃盗の罪で収監後出所してきたルー・ジーンだったが、息子は保護のため里親に出されていた。息子を取り戻したい一心で服役中の夫を無理やり脱獄させる。そのとき夫の友人の年老いた両親の車で上手く逃げ出すことができたわけだが、この車があまりにノロノロで迷惑運転とされパトカーに止められそうになってしまった。これを脱獄が見つかったと勘違いした二人は、車を奪って逃走。さらに追跡してきたパトカーの警官の拳銃を具合の悪いふりして奪ってしまう。今度は警官を人質に取りパトカーで逃走するのだった。
 自分たちが悪いというのをとりあえず棚に上げて置いて、息子を取り戻したい気持ちが先走っての逃走劇なのだが、多くのパトカーに追われ、さらにこの事件を聞き付けたマスコミ報道により、この犯人たちに同情する市民たちが連なって追っていくという車の大行列になる。そのおおげさな感じがいかにもアメリカ的で、スペクタクルで無邪気な犯罪コメディになっている。
 またこの映画はスピルバーグの劇場デビュー作である。しかしその前に、スピルバーグはすでにテレビ・ドラマでいくつか話題作を作っており(コロンボ・シリーズの一つも撮っている)、特にこの「続・激突」とある通り、名作ホラー「激突!」というテレビ作品で非常に高い評価を受けていた(「激突!」は日本やヨーロッパでは劇場公開もされた。多くの批評家や作家などがが絶賛し、例えば僕は吉行淳之介の文章を読んで、そんなに凄い映画なのか、と思って記憶にとどめたほどだ)。今作品は、それとはまったく関係がないにもかかわらず、日本語のタイトルは、紛らわしくもそういうことになってしまった。誤解して観た人は、かえって幻滅したことだろう。当時の日本の配給会社のいい加減さというのは、実に犯罪的である。
 実話をもとに作られた作品だが、恐らくこの事件は、全米的にそれなりの話題性と記憶に残るものだったのだろう。そういう題材をスピルバーグは任されて、疑似ドキュメンタリー的なものと、独自の解釈を交えた演出を行っている。日本人の目からすると、犯人の、特に主犯であるルー・ジーンのわがままさには、ほとんど共感ができない。自業自得である上に、多くの人々を巻き込んで、迷惑である。しかしアメリカ人の純情な大衆は、このような行動に一定の共感を持っていることが分かる。だから、無理を通そうとしているにもかかわらず、何とかその思いを成し遂げられるように、行動を共にするような人々が現れるのである。さらに人質である警官も、追っている警官も、何とか説得して止めさせたいとも、同情しているともいえる。そういう中途半端さが更に犯人たちの行動を助長させてしまっている。結果的に大きな悲劇となってしまうわけだが……。
 後の大監督スピルバーグを考えると、その多くのアイディアが見て取れる作品ではあるのだが、出来栄えが特にいいとは言えない。暇だったらどうぞ、という程度であろう。
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熱血和尚と子供たち

2020-11-20 | 感涙記

 休肝日の日に漠然とテレビを見ていたら、「廣中和尚」のドキュメンタリーをやっていた。厳密には廣中さんという住職のお寺に、問題児を10人(延べ人数としては何百人もいるという)程度住まわせて共同生活のようなことをしている話だった。不良少年だったり、家出や自殺未遂、窃盗などを繰り返すなどして、家庭では育てられる状態にない少年少女たちを、一時的に匿うというような取り組みをしているようだ。お寺は愛知の岡崎というところにあるらしく、そこには全国から困った状態に置かれている子供たちの駆け込み寺、というようなことになっている。もちろん本人も困っているが、家族や地域の人たちも困っていたのかもしれない。
 一応本人も納得して寺にやって来るのかもしれないが、最初から状態があまり良くない子たちが集まって、様々なトラブルを起こす。寺の住職やその仲間たちとの間では、それなりに愛想がよかったり仲良く暮らしているようなのだが、学校に行ったり、もちろんそもそも学校に行かなかったり、行方が分からなくなったり、いろんな事件を起こす。その都度テレビでは「おじさん」といわれている和尚さんや仲間たちが、探して回って迎えに行く。時には激しく叱り、しっかり本人や仲間たちが納得がいくまで話し合って、いわゆる仲裁させる。
 これが本当にドキュメンタリーなのか、というドラマがある。寺の中の生活とはいえ、一緒にご飯を食べるとか、役割分担を決めて掃除洗濯などをやるとか、一応外出は行先を和尚さんにつげた上に門限はあるという程度で、基本的には自由である。現代風に携帯電話はもっているし、煙草はプカプカやっている。酒はどうなのか分からなかったが、和尚さん自体もチェーンスモーカーで、みんなでプカプカ、煙がモウモウである。大人数だから生活費がものすごくかかっている様子で、和尚さんはお寺の務め以外にも講演会をひっきりなしに行い、奥さんは看護師としても働いている。こういう珍しさがあって講演会などにも呼ばれるのだろうが、逆にそういうことをやらなければ、このような生活は維持できないのである。
 不良の仲間たちは、共同生活をするうえで、非常に強い仲間意識をもっている。家庭などの問題のある子たちが多いが、そのような心の傷を抱えたうえで、親元を離れている寂しさもありながら、共同での生活で、何か自分なりに目標のようなものを持つようになり、何も強制されるわけでもないが、おじさんである和尚夫婦と、そうして仲間たちと一緒にいる中で、自然とそのような心得のようなものが芽生えていく様子だ。たびたび問題は立ち上がるけれど、そういう大きな事件を経て、家族などが再度かかわりを持つようになり、その子のみならず、何かの歯車が回り出すようなことになっていくのかもしれない。
 ドキュメンタリーは、もともと地元で放映されていたシリーズもののようで、お寺での共同生活を10数年にわたって撮り続けたものだ。すでに廣中さんは亡くなっており、今ではこのような共同生活は終わっているらしいが、いわゆるここの卒業生のような人々が、何年にもわたって生活してきた記録と、その後の大人になってからの様子が分かる。なかにはジャンキーから抜け出せなかった人もいたが(同居している相手が悪い)、多くの人はいい大人になり、新たな生活を送っているようだった。
 とにかくすさまじい生の迫力があって、本当に見るものを深く捉えて離さない内容になっている。何度も何度も何度も涙が出てきて困るのである。なかの子供たちが、本気になって自分の言葉で話をする。怒っている。そう簡単には心の内を明かさない狡猾さのあるような子供であっても、そういう手先の器用さでは乗り切れない真実を見破られてしまう。逃げてばかりいて、本当にはそのことに触れたくないこともあるのかもしれないが、しかしここでの生活では、そこから逃げては生きていけないのだ。そうして逃げないのだと自分で決めきれることができたなら、そこから自分なりの人生のようなものが始まっていくのだ。こういうのが真実の物語というのだろうな、と改めて思うのだった。別段不良でなくとも、多くの人は面倒なことから逃げながら生きている。もちろん程度問題はあろうけれど、逃げないという覚悟を持つことって、あんがい大切なんだと気づかされる。そういうのは子供だけの問題じゃなくて、大人である親の問題でもあったのだ。
 世の中にはいろんな人がいるもんだ。本当に偉い人って、案外あちこちで頑張っているのかもしれません。
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古いハードボイルド作品   刑事マディガン

2020-11-19 | 映画

刑事マディガン/ドン・シーゲル監督

 マフィアを捕まえるために朝から自宅に乗り込むと、男は裸の女と寝ていた(いきなりドアを蹴破って入ったのだから、そんなこともあろう)。服を着るのを眺めていたら、マフィアの服には拳銃が隠されていた。刑事マディガンと相棒は、ともに拳銃を奪われた上に逃げられてしまう。それで上司に叱られて、72時間(要するに三日)の猶予で拳銃を取り戻すように命令される。必死になってマフィアの男の行方を追うのだが、日頃から美人の奥さんにかまっていなかったので、これまたひどく叱られて何かのパーティに連れていく約束を守るように言われる(本心として時間がないのでそれどころじゃない)。いろいろと街の情報屋とかチンピラとか、ツテを頼ってマフィアの男を追うのだったが……。
 警察の地区のお偉いさんがヘンリー・フォンダで、彼も不倫しており、さらに部下であり友人でもある部長警部が贈賄をしている情報をつかんで悩んでいる。マディガンは、奥さんをパーティに連れてはいくが、結局知り合いの男に任せてしまう。挙句の果てにはその男と奥さんはいい感じなったりする(これにはいろいろあるが)。ついには奪われた拳銃で、パトロール中の警官二人が撃たれてしまう(うち一人は確実に死んだ)。マディガンは、暴力事件に関しては、非情でやり手なのかもしれないが、いささか軌道を逸してヤクザまがいに街のあちこちの店からただ飯を頂戴(要するに賄賂みたいなもの)している。要するに、ニューヨークの街というのは、きれいな奴なんて一人もいないハードボイルドなところなのだ、ということなのだろう。
 1968年制作の古い映画で、当時はテレビ・シリーズも作られたりしたそうで、人気があったのかもしれない。今見ると、お話はなんとなくちぐはぐで、感情移入しづらい。しかしまあ、ハードボイルドなのは分かるし、そんな乱暴な捜査のやり方でいい筈は無いので(今だったらデモが起こって、警察のメンツ丸つぶれだろう)、そういう意味ではいい時代だったのだろう。
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現在の罪は、過去の秘密にあり   絆

2020-11-18 | 読書

絆/小杉健治著(集英社文庫)

 夫殺しの容疑で、偽装工作が露呈後自白もしている弓丘奈緒子の裁判で、弁護士が無罪を主張する。その根拠とは何なのか。またこの事件を取材している記者の視点で物語は語られるのだが、この記者の子供のころに近所に住んでいたのが、奈緒子だった。大変な美貌の持ち主だったようで、多くの縁談のある女性だったが、家の借金もあり、裕福な社長に見初められ社長夫人となっていたのだった。そういう背景もあっての殺人事件でもあり、世間の注目もあった。裁判では、彼女の家族の意外な過去のことが事件の重要なカギとなっていたのだった。
 昭和3,40年代の事情もあるのだが、当時の知的障害者の事情なども盛り込んでの、社会の偏見や、現在の記者の置かれている個人的な事情なども絡めた社会派サスペンスになっており、テレビで3度もドラマ化された作品だそうだ。法廷でのやり取りばかりではあるが、自白も証拠もそろっている被告の状態が、溯る事20年の過去によって覆されていく。まさに大どんでん返しである。
 正直に言って、ちょっとこれはあり得ないとは思うものの、つじつまはしっかりしており、それなりに意外なことになる。様々な個人的な事情が絡んでいるとはいえ、実に不幸なめぐり合わせによって、人生が狂ってしまう。考えてみると多くの人が可哀そうであるし、関係者も必死になってそういう状況を繕ったということだ。そうしてまだ、戦後の正義の空気も残っていたということなのかもしれない。
 事情は少し古くなっているかもしれないが、文章は古びておらず、ぐいぐい読ませるものがある。僕は読んでいて、後半不覚にも泣いてしまった。袖で涙をぬぐいながら読み進まなければならなかった。まあ、僕の職業的な事情もあるのかもしれないが、何という物語なのだろう。単に涙もろくなっているだけのことかもしれないけれど……。
 非常に悪い奴だからそうなっていいものなのかという疑問はちょっとだけあるけれど、それはそれとして、結果的にはいい話である。こんな秘密なんて持ちたくはない、と思いますよ、きっと。
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もう作られることのない時代   コーヒー&シガレッツ

2020-11-17 | 映画

コーヒー&シガレッツ/ジム・ジャームッシュ監督

 11のコントを集めた作品。モノクロ。2003だか2005年の作品らしい。当時はまだジャームッシュは人気があって、志村けんなんかも、ちょっとだけ真似たりしていた。あんまりウケるようなコントではないので、たいてい失敗するのだろうが……。まあ、ウケるだろうという計算は高いが、今見ても分かるように、実際にはそんなに面白いわけではない。ああ、狙ってるな、というのが分かる程度である。
 ただちょっとびっくりしたのは、ホワイト・ストライプって、その当時から活動していたらしいことかもしれない。実際に売れたのはずっと後だったはずで、しかしジャームッシュと付き合いのあったミュージシャンだったようだ。トム・ウェイツとイギー・ポップなら、なんとなくその関係性は分かるのだけど、ジャック・ホワイトともつるんでたんだろうな。なかなかに感慨深い思いです。
 喫茶店なのか、レストランなのか分からないが、そういう店で、主に二人の人物が、コーヒー(だいぶ後半で紅茶もある)と煙草を、延々とプカプカやっておしゃべりをする。時には間が非常に長い。その間に妙な違和感があって、それが笑いのツボである。多くの場合、一方の側の思い込みが、相手の会話で覆るという感じかもしれない。ただその妙に嫌な感じになっていく空気感が、面白い感じでもあるということらしい。分かりにくい話かもしれないが、ジャームッシュ映画というのは、そういうものだった。そういう感じを「分かる」と思うことが、当時はおしゃれだったのだ。
 これだけ煙草を吸うので、当時も問題はあっただろうが、今ではとても制作されることは考えにくい作品群だろう。確かにタバコとコーヒーの相性というのは抜群で、そういう嗜好品を楽しむ時間が、人生の豊かさであった時代もあるのだ。もっとも作中でやはり煙草を避難され、吸えないコントも入っているが。また、煙草を素直に吸えない人間の信用のおけなさなども表現されていて、吸わない人間にはちょっと理解しがたいニュアンスもある。僕自身は、このようなコントの良さというのはほとんど分からないのだけど、やっぱり時代の産物だな、というのは分かる作品群なのだった。
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頑張れニッポン、という話では無いのだが……   フォードVSフェラーリ

2020-11-16 | 映画

フォードVSフェラーリ/ジェームズ・マンゴールド監督

 どうも、実話をもとに作られた物語らしい。1960年代にフェラーリはル・マンの24時間レースで連覇するなどしていたが、経営難に陥りフォードに身売りしそうになったが、結局フィアットと提携してフォードを蹴った。その上フォードの二世社長を罵倒した。これに怒ったお坊ちゃんフォード社長は、ル・マン参戦を決意する。そこでル・マン優勝経験のあるシェルビーという男にレースの協力を託すのだが、巨大組織であるフォードの命令系統は複雑で、シェルビーは自由に仕事をさせてもらえない。性格には癖があるものの、レーサーとしても自動車の整備の腕も確かなマイルズをシェルビーは使いたいのだが、どうしてもそうさせてもらえない。結局レースには負けたために、少し坊ちゃん社長を焚きつけて、やっとマイルズを自由に使えるようになったのだったが……。
 マイルズという男は、確かに癖がありすぎて協調性に欠ける。その上短気なのでシェルビーとも平気で喧嘩する(まあ、仕方ない面はあると思うが)。しかしまあ、美人の奥さんに愛され、息子からも敬愛されている。借金で自分の経営する自動車整備工場は傾いているが、要するに顧客からちゃんと料金を取れないお人よしなのかもしれない。そうではあるのだが、車にかける情熱はすさまじく、レーサーの腕も非常に高い。ところがフォードという会社は、ちゃんとレースに勝つことより、いろいろと社内のメンツが大切で、せっかくのレースを台無しにしようとばかり邪魔をする。シェルビーは、そのために間に立って苦心するが、自由人マイルズは、そんなことに頓着してない。最後はどういう訳か妥協するのだが、まんまと会社に騙されて可哀そうなことになってしまう。
 まあ、変な物語なのだが、大筋では実話をもとにしているようだ。アメリカ社会というのは、自由なんだか不自由なんだかよく分からない話だ。メンツを重んじて、それなりに愚かである。個人の中には優秀な人たちがいて頑張っているので、いろいろと栄光をつかむことができるというお話なのかもしれない。
 まあそういうことではあるが、面白くない映画ではない。わざわざ身内が邪魔をしなければ、もう少し簡単にレースで勝つことができたのだろうが、組織というものがそれを許さない。まるで日本の会社の物語みたいだが、アメリカだっておんなじだということだろう。でももう昔のお話だから、ひょっとすると今はもう違うのかもしれない。だからアメリカは元気で日本はダメなんだということを言いたいわけではないのだが、少しはそんな気もする。日本社会もこれを見て、頑張ってもらいたいものである。
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