カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

重要なら何色?

2017-01-31 | Science

 単純なようだけど、忘れちゃいけないようなことは、赤ペンで書くと忘れにくくなるという。おそらくこれは、ふだんは黒で書くのに、重要だから赤に変えたという特殊性もあるし、やはり赤という色と、重要というサインとの結びつきが、それなりに強固に実感を伴うためであると考えられる。
 実際に色と感情というのは、かなり強力に左右されるようだ。陶器なども青っぽいと冷たさを感じるし、肉の赤などは、それだけで食欲が増進したりする。
 自分なりに気に入った色で何かを飾ると、それだけで気分が高揚するというのは、だから理にかなったことかもしれない。何もかも、それらしい色にすることは無いとは思うが、特に勝負事などには、色でそれなりに結果に違いが出てしまうかもしれない。
 僕は三色ボールペンが好きで常用しているけど、インクの色が均一に無くなるように、三色均一に使うようなことをしていることがある。自分で使うノートに何色で書くかなんて自由だから、特に重要でなくても赤で書いたりする。でも時々困るのは、何が重要だったか、ノートを見返して分からなくなることがあることだ。もともと書いた字が読めないということもあるのに、さらに何が重要なのかもわからないなんて、なんとなく損なような気がして、普通に黒を多く使うように習慣を改めた。そうして数か月たつのだけれど、黒で書いた文字が多いと、やはり青や赤はそれなりに目立つ。そうしてやはり重要なのは赤が多くて、ちょっとした疑問や気付きなどが青になっていることが多くなった。これは最初から自分でルール化したことでは無かったけど、自然にそういう書き分けをしているということのようだった。感情が色であらわされるようになったということだろうか。
 でもまあ残念ながら、赤で書いたところで、忘れることは忘れる。こればっかりは基本的な記憶力の弱さということなのかもしれない。
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人間の罪と赦しの意味を知る   あなたを抱きしめる日まで

2017-01-30 | 映画

あなたを抱きしめる日まで/スティーブン・フリアーズ監督

 ドキュメンタリーの原作のある作品。要するに実話がもとになっているらしい。50年前に十代で未婚の母になったフィロミナは、強制的に修道院に入らされ(カトリックでは未婚の妊娠は罪とされていたらしい)、さらにその時に息子とも引き離されてしまう。ずっと心残りだったが時は流れ、娘の知り合いの落ちぶれのみえるジャーナリストの男と共に、生き別れになった息子の消息を追うことになる。息子はアメリカの家庭の養子となり、その後弁護士として大統領の顧問弁護などを務めるまでになっていたことを知る。しかし既にエイズでこの世を去っていた。当時のアイルランドの修道院の闇を暴く展開と、引き離されて苦しんだであろう親子の運命を描いたものになっている。
 重いテーマの内容ではあるが、展開自体は重さばかりを強調して描かれてはいない。主人公の女性は、ロマンス小説の好きな普通のおばさんになっていて、その俗っぽさに事件のセンセーショナルな正義感に目覚める記者は、いささか辟易している。しかし、それ以上に宗教心に厚く、人間の赦しとは何かというようなテーマもさらりと描き切ってしまう展開も見事で、ドラマとして大変に見どころの多い作品に仕上がっている。時代や宗教の罪や個人の運命など重層的な問題をいくつも抱えながら、人間としての尊さとは何か、ガツンと頭を殴られたような感慨を抱くに違いない。
 現代的な目からすると、取り返しのつかない罪を犯しながら嘘で塗り固めて取り繕おうとするアイルランドのカトリック修道院への怒りへと収斂しそうなお話であるが、個人の思いは、それすらも平然と超えてしまうような力を持っていることに驚かされる訳である。宗教的な絶対的な正義が、例えば戦争などの自己肯定に繋がる考え方であることも見て取れるし、しかし時代を裁くということについて、無自覚なものには赦しという罪を背負わせることも大切だと教えられる。これを見た人間が何を思うかは自由だが、このような西洋人がいるのだというのは、東洋人の僕には、大変に驚きの多い展開だった。このような女性が多かったなら、日本への原爆投下の正当性などを平然と言えるアメリカ人などは、現代では通用しないであろう。
 いや、癒しというのは個人に帰する。いくら時間は戻らないにしても、息子の思いが理解できた母親の心情は、計り知れない心の救いなのかもしれない。
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子供に何を買ってやるか?

2017-01-29 | 境界線

 作詞家の松本隆と料理人の船越雅代という人が対談しているのを見た。詳しく覚えている訳では無いが、二人ともなんとなくユニークだな、という感じだった。ちょっと空気感が芸能的でない(もともと芸能人ではないかもしれないが)。でも、それなりのお二人とも凄いようだけど、別に肩ひじを張っている訳でもない。どちらかと言えばおとなしめだけど、でも自由さがある、という感じだろうか。
 まあ、それはそれとして、ひとつだけ印象に残ったのは、船越さんが子供の頃に、黒いランドセルを買ってもらったという話だった。女の子だし今とは違うから、それはそれなりに浮く。でもそれは毎日のことだろうし、意識せざるを得ない事だったろう。
 要するにそういう親の方針だったのだろうと思う。日本人として生きていく窮屈さに、親の方も何か割り切れない思いがあったのではなかろうか。子供にとっては一時の苦難だが、そういう思いは伝わるのではないか。結果的に日本で何かをする場合、船越さんにとっては、それは大いなる武器になっているのではないか。
 今だったらどんな方法がいいかな、とは思うが、それは各自考えてみることだろう。それにやはり日本だと、それなりに困るのは本人だ。しかしその先には、突き破る強さが生まれるかもしれない。もちろん逆にへこんでしまうかもしれないけれど。
 それにしても、女の子に黒いランドセル。いまだに無理な人は多いかもしれないな。
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ひねくれても頑固でもROCKで行こう   アンコール!!

2017-01-28 | 映画

アンコール!!/ポール・アンドリュー・ウィリアウムズ監督

 気難しい性格である爺さんのアーサーは、人付き合いが下手で、ついでに自分の息子ともギクシャクした関係である。妻のマリオンは闘病で苦しんでいるかたわら、地元のポップスを中心とする歌を題材にしたコーラス隊で歌うのを楽しみにしている。ところが妻の病状は思わしくなく、アーサーは戸惑いながらもマリオンの代理としてコーラス隊のメンバーに加わることになるのだが…。
 コーラス隊を率いる若い指導者の女の先生がいて、アーサーのような頑固者のお爺さんを上手くコントロールするということもある。逆に人生においては爺さんが、助言者にもなる場合がある。もともと長い年月を経て、それなりにあった問題がこじれて絡んで一言では言えないような複雑さを呈してどうにもならなくなっているように見える。アーサー爺さんは、そのことに怒りだけでなく悲しみも同時に抱いている。上手く説明が出来ないが、息子の閉ざされた心はいまだに優しさが残っていることを感じ取っているし、自分自身が変わらなければ、人付き合いが上手くいくはずのないこともわかっているのである。
 しかしながら、今さらというか、そんなことが出来れば何の苦労はしない。嫌われたままでいようとも、歌を歌うことで、自分なりの表現が出来るかもしれない。
 そうしてコーラス隊は大会に出場しながら、ある危機的な状況に見舞われることになり、奇しくもアーサーの行動が、大きくコーラス隊の命運をにぎることになるのだが…。
 夫婦の愛の物語かと思ったら、父と子の物語になったり、このコーラスを率いる若い女性がとコーラス隊そのものの反骨精神が、英国魂のようなものだったりする。良い子のコーラス隊ではぜんぜん無くて、ロックだったりエッチだったりする歌をガンガン歌う。若くない人が歌うので、かえって過激な感じもするかもしれない。まあ、実社会だと、いくら英国でもあまり考えにくい状況かもしれない。だからこその最後の方では、一般的なコーラス隊とのコントラストが鮮やかになるわけだが、ファンタジーとしてもなかなか素晴らしい演出だったのではなかろうか。なんとなく地味な感じだと勝手に思ってたけど、わりあい過激な英国らしいひねくれた良作だと思った。
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絵が素晴らしい本当の価値とは

2017-01-27 | 境界線

 「贋作師ベルトラッチ」というドキュメンタリーを観た。有名な画家の絵に似せた絵をかいて売りさばき、数十億円手にしながら、結局ばれて刑務所に行く前のインタビューを中心にしている。贋作は模写ではなく、著名な画家の空白期に描かれただろうと考えられるような作品をそれらしく描き、鑑定家を騙し、バイヤーを騙し、そうして高値で売りさばくという手口だったらしい。本人がちゃんとその手口を語っていることと、さらにその贋作づくりを実践している本人の様子を映像化している。ばれて残念がっているが(何しろ豪邸から独房行だ)反省は皆無。オリジナル画家より自分の方が、さらに手を加えているので絵として上だとも豪語する。もちろん騙された業界人は激怒しているが、そんなことは意に介していない。
 僕が面白く感じたのは、騙されたプロの画廊や評論家たちは、オリジナル画家には絵に心が感じられるがベルトラッチにはそれが無い、というくだり。騙されたのは誰だろう。結局これらのプロは、いまだに買い手を騙して平気だというのが語るに落ちていると思った。
 日本にも詐欺的な人が時折あらわれて世間を騒がせているけれど、おおむねこのような開き直りは見られない。口を閉ざすか、騙してないと言い張るか、そういうつもりは微塵も無かったと言うのが普通だろう。ベルトラッチさんは、騙したことを認めたうえで、ミスをした自分を呪い(自分自身に反省)、それでいて自分の芸術の価値を微塵も恥じていない。傲慢に見えるが、素直な人なのかもしれない。そうして当たり前だが、自分の絵を直接売るより、贋作だから高く売れることを自覚しており、そういう仕事師としてのプライドがあるということになるんだろうか。驚くべき発想の転換である。
 刑務所から出た後にも、彼はいわゆる贋作じみた作品を描き続けるだろうことが示唆されている。有名な画家が描きそうな絵をいまだに画き続けており、それは確かにそれらしく見えていた。しかし仕上げた最後に、彼はオリジナル作家のサインではなく、自分の名前をサインするのだ。それは騙すとまた刑務所行きであるからだというのもあるが、既に世界を驚かせる贋作師としての名声があり、その贋作作家のベルトラッチであることで一定の市場価値があるということである。
 これは確かにまともな成功者の物語ではない。しかし、やはり物の価値の根元を考えさせてくれる話ではなかろうか。
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サンクコストで失敗した   ザ・トライブ

2017-01-26 | 映画

ザ・トライブ/ミロスラヴ・スラボシュピツキー監督

 ある青年が、恐らく聾学校の高等部のようなところに入学後、その宿舎か何かの場所で不良集団の仲間にさせられ、売春を手伝うようになる。そのうちに売春をしている一人の女性と性関係を結び、ちょっと組織や学校に対しても反抗心がわいてきて、ひとりで癇癪を起こすのだが…。
 字幕が無いだけでなく、全編にわたって手話のみの会話で、その手話も外国語なので(日本語でも無理だが)まったく何を言っているのかさっぱりわからない。画面を追っていると意味が分かるということもほとんどなく、退屈だ。やたらに不良たちばかりが出てきて、暴力をふるったり、汚いことをしたり、物を壊したり、セックスしたり、堕胎したりする。それがショッキングということはあるが、だからなんだろう、という感じもする。ぼこぼこ殴り合ったり、かくかく動いて体を交えたりするが、何かとてもシュールである。そんなに簡単なものかな、という感じ。人もあんがい簡単に死んでいるように見える。それとも聾唖の人は、特に力が強いのだろうか。
 芸術的なのは分からないではないが、そもそも内容があんまり無いのと、さらによく分からないのでたいした意味も無いのと同じである。ありがたがる人向きの映画である。ちゃんと事前にそのことを理解した上でないと、時間がもったいないと思う。まあ、話題性としては成功しているようだけれど。
 結局観てしまったが、僕は正直なので素直に何にもわからなかった。そもそもあれは死んだのか死んだ後なのか、そうして実際は復讐で殺せたのか、夢なのか。まあ、今となってはどうでもいいけれど…。そういう芸術があるというのはそうだろうけど、付き合わされるのは迷惑ではあるまいか。マゾッけのある人向きの作品なんだろう。
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終わりの前の段階的終わり

2017-01-25 | 感涙記

 人が死ぬと感傷的になってしまうのは仕方がないことかもしれない。しかし、死というものは年齢を重ねると、着実に近づいてくる実感があるのも確かだ。ご高齢の人が時折、もういつ死んでもいい、というようなことを言うことがある。実際にそういう境地に達しておられるという人も皆無ではなかろうが、実は違うであろうことも分かる気がする。死ぬべき時が来ようとも、そんなに簡単に死にたくなるものでは無かろう。今やりたいことがあるからとか、いろいろ理由を考えないまでも、例えば単に腹が減ってしまっただけでも、食べて生きていることが楽しいような、それが生というものの本質だろう。
 しかし死が自分自身に降りかかるだろう猶予というものが、やはりもう忍び寄っている。自分の人生は半世紀になろうとしていて、それはまだまだという人もあるが、少なくともこれまでの人生よりは長いはずもなく、また、自分の身内の死亡年齢などを勘案してみてみると、もうそんなに猶予は無い。具体的に言って70歳になれるとは考えにくい。要するにもう20年あるかないか。ひとが二十歳になるのはめでたいが、僕があと20年生きていくのは、もうめでたくも無い。考えすぎるのも良くないにせよ、その実感はただ寂しい。
 では死ぬ前の準備をすべきなのか。これはもう始めていると言えばそう言えるが、しかし身辺を自殺前に整理していることとは違う。いつ死んでもおかしくは無いけれど、どの道死んだら自分で自覚などできないのだから、やるだけ無駄であるという思いもある。要するに何もする必要などない。残される家族には保険などもあろうが、勝手にやってもらうより無い。口出しなどできないのだから、残す必要もないのだ。
 生きているうちに好きなことをしてしまうのも、だからそれなりに無駄のような気もする。そのような思い出は、死後に持っていけるものではない。今までに楽しかったことは、今は知っているだけのことで、だからそれで今がハッピーな訳でもない。若いころに楽しかったことが、今も楽しいとは少し違うだろうし。しかし今楽しいことが、積極的に何かやって、楽しいことということでもないように思う。自分のことでありながら自分のことですらないような気もする。それって本当に僕が生きているということなんだろうか。
 結局は打ち切ってあまり考えなくするより無い。特にそれで鬱になるということも無いけれど、考えなければどうだっていいことだ。それって既にあんまり生きてないようなものかもしれないけれど、あんまり活発にやって生きてる実感を味わうような時代は、すでに終わりを遂げているのかもしれない。
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孤独な少年の奮闘   狩人の夜

2017-01-24 | 映画

狩人の夜/チャールズ・ロートン監督

 銀行強盗殺人を犯した父親が盗んだお金を、子供たちだけに誰にも言わないように、と託して逮捕される。同じ刑務所の部屋で、未亡人ばかり連続して殺して金を奪う殺人鬼の男がちょうど盗難車の刑で入っている。強盗殺人の父はそのまま絞首刑になるが、連続殺人犯は釈放され子供がありかを知っているだろうお金を目当てに未亡人宅に近づく。結局まわりの勧めもあって、子連れ未亡人はこの男と結婚する。子供たちは死んだ父親の誓いを守ってお金にありかをなかなか言わないが、母親は殺されてしまい、自分らも絶体絶命の立場になり、ボートに乗って逃げるのだが…。
 とにかく殺人鬼で偽伝道師役のロバート・ミッチャムがいやらしく恐ろしい。こんなに嫌な人間が世の中にいるのか、という嫌悪感が終始漂う。しかし多くの人は表面の神に仕える伝道師の姿にころりと騙されていく。もちろんこの善悪の人間のギャップが大きく、観ているものの心がかき乱されるという展開である。最終的には民衆も大変に怖い訳だが、出てくる者たちが普通のようでありながら皆異常であるような展開が、スリラーとして評価の高い映画となった理由かもしれない。子供の立場で追い込まれ逃げまどう場面は本当に怖かった。まあ、後の部分はなんとなく滑稽なところもあるんだけれど…。
 強盗殺人の父親は、死刑になるほど悪い人間だったが、善良な子供たちにとっては良い父だったのかもしれない。母親も最初は未亡人として子供を一人で育てようとしていたのだが、まわりの勧めや、魅力的な伝道師の姿の男にだまされるということになる。子供たちの妹の方は、やさしい新しいパパに気を許している。さらに途中で逃げ込んだ孤児を預かる女性の家にいた年頃の娘は、伝道師に心を奪われてぞっこんである。そういう環境の中にあって、少年だけは、終始正気を保っている訳だが、本当に理解者などはいないのだ。
 恐怖というものの図式として、これは後に影響が大きかったというのは分かった。キリスト教的な背景は、残念ながら僕にはよく分からなかったが、恐らくそういうことも含めて、西洋人はおののいた映画なのではないだろうか。残念なのは興業的は大失敗だったらしく、監督はその後映画を撮らなかった。確かに妙な映画だが、カルト作品として残るのかもしれない。
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今は均衡かどうかも分からないが

2017-01-23 | 時事

 新聞やテレビで、保育所の待機児童問題や、若者を中心とする奨学金問題などがよく特集で取り上げられている。何が問題点なのかは確かに解説されているのだが、政治が悪い所為なのか、改善が見られない。ほとんどがそんな結論で、不満である。さて本当に解決策は無いのだろうか?
 これらの問題と対峙して出される意見の多くに、個人の問題、いわゆる自己責任を持ち出す例を必ずマスコミは議論の中心の置こうとしている(ようにみえる)。それも不満の一つかもしれない。それは逆に議論のすり替えに過ぎないし、対立をあおって問題の解決の妨げになっているようにも感じるからだろう。
 しかしはっきり言って、この問題の一番の中心は、そういう問題とははるかにかけ離れたところにある。みんな分かっていてカマトトぶって言わないだけだ。それは何故なのかといつも考える訳だが、要するにそれは意見が分かれすぎるだけでなく、むしろそれを言い出すと反対する方が圧倒的多数であろうと思っているからだと思う。
 問題の核心は、税金が何故この分野に(十分に。少なくとも問題化されないほどに)配分されていないかに尽きるだろう。財源問題なら分配の仕方を変える方法があると考える人もいるかもしれないが、それは却下する(実は、僕がしている訳では無い)。そんなことが可能なら、数十年単位の前に既に可能だったからだ。今は現代で、状況はさらに悪化している。要するに世論的にほぼ不可能だ。
 明確に答えは一つしか無くて、それは言わずと知れた増税である。さらにもっと問題があって、たとえ増税してもその按分がこれらの問題へ配分されるかということも、まだまだハードルが高いということだ。まだ早急に逼迫して使われるべきと考えられている問題の方が、実際としても世論的にも力が圧倒的に強い。戦えば負けていたから、これらの問題は問題化したのである。
 もっと正直にいうと、ここまで書いてもわからない人がいるからこれらの問題が解決しないのである。だから結論を言うと、税金をあてにしてこれらの問題の解決は、今のところ見つからないだろう。
 ただ希望はある。このような均衡が崩れると、そんなことよりももっと重大(だと人々が思っていること)なことに心を奪われることになるだろう。そうすると、これらを問題として取り上げる人々は、もっと減っていくだろう。
 希望が、破綻か増税か(またはそれまでの猶予か)。妙な時代に生きているものだな、とつくづく思うのである。



※ 待機児童問題については、実はまったく解決策が無いではない(僕も一応業界人なので知らない訳では無い)。しかし、やはり現行のままでは不可能なために、これらの問題に含んだ。ともあれ、痛みを伴わない改革無しには、打開が不可能なことに変わりは無い。
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悲恋と呪い   ダーク・シャドウ

2017-01-22 | 映画

ダーク・シャドウ/ティム・バートン監督

 英国から米国東海岸のまちに越してきたコリンズ家は、水産業で財を成し、その地に君臨するような名家となる。一人息子がいて、お手伝いさんに手を出すが(性的に弄んだという感じだろうか)ある時美しい女性と出会い本当の恋に落ちてしまう。弄ばれたお手伝いの女は実は魔女であって、愛を手にできない恨みからコリンズ家に復讐の呪いをかける。息子バーナバスの両親は死に、恋人も崖から身投げしてしまう。後追いして自ら身を投げるが死ねず、呪いでバンパイヤと化していた。魔女から民衆がたきつけられ、バンパイヤと化したバーナバスは鎖で縛られた棺に地中深く封印されてしまう。
 それから200年後の1970年代に何かの工事の折に偶然バーナバスの棺が掘り起こされる。作業員9名はバンパイヤの餌食となる凄惨な事件となる。復活したバーナバスは元の家であるお城に戻るが、子孫は凋落し、それぞれ問題を抱えながら朽ちかけた城でひっそり暮らしていた。まちは200年間魔女が牛耳る世界へ変貌していたのだった。
 暗いタッチのゴチックホラーのような映像だが、基本的にティム・バートンの偏屈コメディになっている。久しぶりに面白い映画にあたったなあ、という感じで終始楽しめた。悪い冗談ばかりだし、滑っているし、悪ふざけもすぎる。正義の感覚など、普通なら大切なはずのことも、なんとなく感覚的にずれている。しかしながらお互いにそうだから仕方ない訳で、滑稽だけれど非常に悲しく、恐ろしいが悲酸さはむなしい。やっぱり変な人たちが真面目に妙な映画を作るという力量において、米国人の情熱というのは頭一つ抜けているのかもしれない。何とか娯楽の範疇にとどまっているけれど、ダメな場合はかなり悲惨なことになったのではなかろうか。
 今更好きも嫌いも無いが、映像は美しく、出てくる女性陣も魅力的である。普通にしていたらもっと美しいはずの人々が、病的にゆがめられた美しさを発揮している。そういうのが監督の趣味なんだろうな、と微笑ましい。中世と70年代が混沌として混ざり合い、中年の人向けの贅沢なコメディになっているのではなかろうか。
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他人事とは思えない内面の葛藤

2017-01-21 | ことば

 自分の心が狭い所為で使いたくない言葉というか、書く場合に使いたくない言葉の第一は「他人事」である。これは一定数必ずタニンゴトと読んでいる人がいる筈だろうと思うのと、だからとって人事と書くと「ジンジ」と読まれてしまう可能性も惜しい。何しろ意味が違う。辞書によってはもともと他人事と書いてあるのを、誤読を防ぐために「人事」が出たと記しているものもあるし、逆に「他人事」表記そのものを俗とするものもある。印象では巷間で使われる場合、よっぽどのことが無い限りタニンゴトが多数であろうと思う。要するに言葉としては、すでに市民権を得ているのだろう。残念ながら。
 そうであるが、雑誌の「考える人」の中の飯間浩明という人の文に、いまどきのネット世代の誤読の不寛容を紹介したものがあった。その例文の一つに「煮詰まる」が取り上げてあった。ためしに「頭が煮詰まって原稿が書けない」と書くと、たちまち指摘があがってくるのだという。そんなことは当然という気がするが、飯間氏は言語学者として、この用法を誤読とは明確に言えない、という考えを持っているようだ。「煮詰まって結論に近づく」という使い方が元であるというより、「考えが働かなくなる」という意味の方も、戦後同じ時期に使われているということであるらしい。なるほど。
 しかしながら、恐らくこれは「詰まる」の語感の方に問題がある所為だろうと思う。もとは、とことん議論をしようという考えから話を「煮詰める」という姿勢で臨んで、結論に至りそうになり「煮詰まってきた」のであって、考えが「行き詰って」「煮詰まった」ではないという立場がある。だから行き詰ったという感覚で使われた場合を誤用と言っているのであって、両方成立するのであれば真逆で困る。しかし一方で、確かに最初から行き詰ってしまった状態を「煮詰まって」しまったと考えている人は一定以上いて、現実に使われてもいる。また、そのほうが実感が伴って普通に通じている場合もあるのかもしれない。
 言葉に寛容になるのは結構だけれど、認めてしまって混在を許容することによって(言葉の)事故は増えるだろう。要するにこの事態を両側から最初から理解した人でなければ、使い分けが難しい問題ということだ。もっとも将来的には行き詰った「煮詰まる」が、語感として優勢になる可能性はある。
 やはりしかし心が狭い人間としては、それが非常に憎々しい。たとえこれが元々という根拠がなくとも、一度辞書的に優勢である現状を知っているからこそ、そう思ってしまうのではなかろうか。
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本棚に一冊   闇に這う者・ラヴクラフト傑作集

2017-01-20 | 読書

闇に這う者・ラヴクラフト傑作集/田辺剛著(KADOKAWA/エンターブレイン)

 著名の通りラヴクラフトの小説を漫画化したもの。二編が収めてある。恐怖ものということもあるが、画面が非常に暗い。細かい書き込みと真っ黒に塗られた箇所が多く、実に重々しい印象を受ける。そして得体のしれないものが描かれているのだが、はっきり描かれているはずなのに、スピード感もあるのに、それが何なのか、実はよく分からない。恐ろしいと言えばそうなのだが、おどろおどろしいと言った方がより適当かも知れない。怖い体験をしていることは分かるが、結局それは何なのかよく分からないのである。
 ミステリというか、謎解きの興味で物語を引っ張っているということは無いではない。しかしながらこれが何を意味するのか、それすら実はどうでもいいのかもしれない。読んでいる時もそうだが、読後感に何か不快な気分のようなものが残る。どうしてこうなってしまったのか、見たことを後悔する人もいるのではないか。しかし同時にこの魔力に囚われる人もたくさんいるのかもしれない。
 ホラーものでよく思うのだが、主人公は、危ないと察知しながら、どんどん危険な行動を止められなくなる。いわば自業自得のようなことになるのだが、しかし、やはり悪いのは邪悪なものなのだろう。スティーブン・キングは自分で怖いものを書いていて、椅子から立てなくなるような恐怖を味わうことがあるという。そこまで来ると、なんとなく変態ではないか。
 しかしながら、描いている著者自身がこのような恐怖世界に魅せられているのも事実だろう。読者を怖がらせる目的も無いではないが、自身が恐ろしくなければ、その迫力は伝わらない。そうしてこの画力が、まさにホラーそのものの作品といっていい。こういう漫画が本棚にあることが、なんとなく気になるような作品である。
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無駄も仕方がないことだ

2017-01-19 | 散歩

 趣味は散歩だが、別に好きでやっている訳では無い気もする。何故なら出かける前には、なんだか億劫だからだ。特に健康に留意するとかいう理由も、人に説明するのが億劫だからそれでいいかというだけだし、まあ、一日あまり動かないのも能がないし、実際に歩いてみると気持ちが悪い訳では無いことも知っているから、ある時間帯になると外に出てみるか、と思うに過ぎない。出てしまうと歩くより他にやることが無いから、そのままズルズル歩いて回って、適当にコースを回るとかえってくる。万歩計のメモリが増えているので、それだけが収穫という感じだろうか。
 歩いていると何も考えないこともあるが、まあ、やることも無いから何か考えている。時にはテーマを決めてじっくり考えることもあるが、たいがいは適当で、考えているのか考えてないのか分からなくなることもある。瞑想が良いこともわかっているが、散歩が瞑想のような効果のある場合のあることも、近年の研究では知られている。あまりごちゃごちゃ考えているときは明らかに別だが、道を歩いているままに風景を眺めていたり、聞こえてくる音を聞いたり、雑草なんかを眺めていると、かなり精神衛生的に良い感じにはなることがある。瞑想と同じだな、と自覚的に思ったりもする。だからまあ、無理に歩いてみるのは、あんがいかえって忙しかったりする時かもしれない。忙しさが変わるわけではないのだが、まあ、少しは落ち着くという感じだろうか。
 帰ったら、あれもやったりこれもやったりしなきゃな、と思う。思うがやらない場合もある。要するにあまり気が進まないものが、散歩をするから出来るようになる訳では無い。しかしまあ、散歩をしなくてもそれらは後回しだったことに変わりは無い。やれたのにやらなかった後悔よりも、散歩をしていて仕方なくやれなかった時間があった方が、どういう訳か気が楽なような気がする。これが瞑想的だと思う理由で、散歩をして仕方なく無駄な時間があったせいで、それを後悔するということでなく、むしろその仕方なさを認めてしまうような効果があるのかもしれない。どのみちそうたいしたことを俺がやれる訳では無い。ある時はそれが悲しいが、その悲しみはそう悲しくない問題かもしれない。
 そういうものでしかないが、億劫でも一応外に出てみる。寒いと出たことを恨みたくなるが、また、そのような無駄な時間をもくもくと過ごしている。無駄が増えただけのことかもしれないが、それは仕方がないことなのだ。
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一見カンフー映画みたいだが  バケモノの子

2017-01-18 | 映画

バケモノの子/細田守監督

 少年は小学生くらい。両親は離婚している。母親と一緒に暮らしていたが母が事故で死亡。どうも母方の親戚と上手くいって無いようで、深い憎悪を抱きながら家出する。渋谷の路地に入り込むと別世界があって、そこに住む化け物たちのまちに棲みつくことにする。一応腕っぷしが強い孤独な男の弟子入りという形になるが、バカなのか天才的なのか強くなる指導なんてできない(長嶋茂雄みたいな人である)。しかし、勝手に足さばきなどを真似て天才的な動きの極意をつかみ、ぐんぐん武道の腕を上げていく。それから年は流れ、少年は高校生くらいに成長している。もちろん武術の腕も格段に上がっている。同世代の化け物たちの中でも抜きんでている様子だ。そんな折ひょんなことから人間界の道が開かれ、学校で勉強したことが無い少年は、図書館で知り合った頭のいい女子高生(もちろんかわいい)から勉強を教わることになる。化け物界の渋谷界隈を支配しているウサギの爺さんが、引退して後継者を決めることにしていて、人望の厚いイノシシ男と長嶋茂雄的な男と戦うことになっている。思春期の少年の将来も絡んで、化け物界はどうなっていくのか。
 細田監督は前作にも化け物と人間の境界に悩む映画を製作している。どちらともつかない心の葛藤に興味があるのかもしれない。また、今となっては新海誠という巨星が登場してしまったが、アニメ界ではもっとも有力な宮崎駿の後継的な存在と目されていた。アニメ的な映像美も見事だし、着実にヒットを狙える素晴らしい才能であることは間違いないが。
 しかしながら難点があるとしたら、大人社会の描き方が、やや類型的過ぎるという感じはあるかもしれない。子供のまま成長する戸惑いは分かるのだが、大人の極端な拒絶や、逆に極端な寛容的精神に助けられすぎているきらいがある。そこまで描くには尺が足りないのかもしれないけれど。
 しかしながら、日本のアニメ界は実に面白いことになっていると想う。様々な分野で良作が作られるようになったのは喜ばしいことだ。実写映画がやや子供じみているものが増えた半面、一見子供のためのものであるようなアニメの方が、大人の鑑賞に堪える作品を作るようになっている。まだまだ期待をしていっても良いのではなかろうか。
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香菜、パクチー、コリアンダー

2017-01-17 | 

 先日つれあいと買いものしてて、コリアンダーとパクチーと香菜(シャンツァイ)が一緒だと知った。そう言うと、以前から教えたはずだと言われる。へえ、そうだったんだ。つれあいは以前から普通に知ってたんだな。さすがです。
 留学時代にシャンツァイにはなじみがあって、クサいが旨いと思って普通に食べていた。タイからの留学生とも何人も友達が出来て(寮が一緒だった)、彼らと一緒にバーベキューをやったりした。ちょこちょこタイらしい料理が別にあって、このシャンツァイも必ずと言っていいほどかかっていた。タイ人が使うとパクチーと僕らも言っていたようで、何かちょっとくらいは違うのかもしれないと漠然と思っていた。だからこれらが近いというのは感覚的には分かっていて、でもなんとなく完全に同じであるとは思ってなかった。うかつでした。ちなみにタイ人留学生が作るタイのスープ(やっぱりトムヤンクンだったのだろうか?)は当然絶品で、汗をかきながらよく食べさせてもらった。日本人は手巻き寿司なんかをつくってたと思う。タイの友人たちの名前は日本人には発音が難しくて、結局愛称で呼び合ってたんだけど、もうちょっと正式な名前を覚えておくべきだったと思う。
 日本に帰ってからしばらくしてコリアンダーという単語自体を聞いたようだった。どうもハーブの一種らしいよ、というくらいの知識である。韓国と関係でもあるのかしらん、という印象かもしれない。でもまあ、関係は無いそうで、ラテン語由来の英語名だという。乾燥した葉や実を香辛料に使うのだという。
 嫌われるのはカメムシのような匂いの所為だと思うが、日本では別名カメムシソウという場合もあるんだそうだ。夏の網戸にたくさんたまるカメムシには閉口するが、パクチーであれば嬉しいくらいだ。それくらい何にでも合う旨い葉っぱだと思うけれど、一部で嫌われているのならしょうがないな。食べたくない人は普通に食べなければいいだけだろう。しかし、いずれ世界中の食卓をシャンツァイで埋め尽くしてやろうではないか。
 とはいえ、日常ではやはりほんのたまにしか口にはしない。スーパーで大量に売っている気配もないし、ご近所にタイ料理店があるわけでもない。中華であっても、ちゃんぽんとチャーハンくらいしか食わない。そんなだからこれらが一緒だと意外な感じがしたんだろうな。すいませんでした。
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