カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

泳げないで済みそうにない

2008-08-30 | 時事

 ここにきて経済対策の話が持ち上がっている。内容としていろいろあるにせよ、財政の健全化ということについては、どうも一時的に忘れようということのようだ。おそらく多くの人たちが陳情を重ねている結果なのだとは思うが、これが政治の現実かと思うと、やはり情けないものだと正直に思う。
 経済というものが将来においてどうなるというのは、不確実な要素がたぶんに含まれているとは思う。何故なら景気の良し悪しというのは、相対的な結果だからだ。現在の痛みが先行きを暗くして、ますます経済を悪くするのではないかと考えるのは、それは正直な感覚とは言えるだろう。そう考える人を単純に非難したいわけではない。
 しかし、現在景気の悪い状態にある業種の人たちの問題については、今のカンフル剤が一時的なものであればあるだけ、症状をさらに悪化させる結果につながる恐れがあることを自覚すべきなのではないかと思われる。捻挫したまま試合を続けさせ、次の試合以降の選手生命が絶たれるということもあると考えるべきだ。確かにトーナメント戦ならこの試合に負ければ将来などは無いのだという気持ちは分かる。しかし、だからと言って負け試合に執着して、別の将来の機会さえ失うのだとしたら、今の傷をいやすことを優先せざるを得ないことの方が常識なのではないか。その時期がいつだったのかという見極めは確かに難しい判断ではある。会社の経営ならその判断をくだすことに躊躇した時点でおそらく負けであろうが、政治ならチャラにしてやり直せるというのだろうか。僕にはそこのところがどうにも分からない。何が何でも健全化と言っているのではないが、少なくともそもそも健全化なくして国の将来があるのかという問題なのではなかったのか、と、シビアに考えて思うだけのことである。

 夜にY介君の会で高齢者医療の話を聞いた。非常にまっとうな話を聞けて、現実的な考えを述べていることに好感を持った。後期高齢者医療制度(すでに名前さえ変わったらしいが)というのは様々なヒステリックな議論を巻き起こしたが、医療を支える財源が危機的状況にあることにかわりはない。しかし国の方針として、選択的に必要なものに取り組まなければならないということを考えるのであれば、いくら問題が多かろうとやることはやらなければならないのだ。そういうことをうやむやのうちにいつの間にか通すのではなく、説得した上で通すということが何より政治家の役割で、批判を浴びたから曲げるのではなく、まっとうにやるべきことを通すということが必要なのだ。もちろんタイミングはあるにせよ、それが選挙との絡みがあるにせよ、実行するようなことでなければ何も始まりはしないのである。構造改革がダメで増税もダメで、つまるとことは先送り。もうどんづまりでも先送りができると考えている人が多いのは、先の寿命がない人たちの考えではないか。泥船が沈む前に泳ぎ方を鍛えておいたほうがよさそうであるな、という予感だけはするのであった。
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マヨネーズをかけるということ

2008-08-29 | 

 日経を読むとマヨネーズの売り上げが落ちていると報道されている。8年で12%減ということだ。原因として高カロリーを敬遠する健康趣向があげられているようだ。勝手にマヨネーズ好きはメタボに多いなどと言われている、というように断定している。これはデータがないので印象にすぎないと思われる。マヨネーズ好きの傾向を探ったものはそれなりにあるだろうが、結果としてメタボであるとは、おそらく複雑すぎて断定できるものではあるまい。真似して印象だけでいうと、マヨネーズ愛好家は圧倒的に若年層ではないか。彼らが中年や高齢者と比較してメタボが少ないことは証明出来よう。要するに最初から考えていない断定にすぎない。もちろん習慣としてマヨラーといわれる人たちがいることを面白おかしく取り上げた所為もあって、異常愛好家の印象が先走っているのだろう。
 しかしマヨネーズを避けて購入するのは、メタボを気にする人たちであることは確かではあろう。健康志向の油を使ったものなど商品の細分化もかなり進んでいる印象がある。また、記事にもあるとおり、マヨネーズの消費は落ちている代わりに、ドレッシング全体の売上は11%伸びているということだ。ノンオイルに限らず、ドレッシングをかけて野菜を食べるというスタイルが、かなり確立して裾野を広げているということだろう。
 考えてみると、おそらくつれあいが気をかけているということあろうが、あのマヨネーズの味というのをダイレクトに食べる機会はかなり少ないように思われる。時々茹でた野菜とマヨネーズの取り合わせ料理が出ることがあるが、最近は塩というのもけっこう多いようだ。どちらもおいしいが、アスパラとかブロッコリーなど、茹で上がってすぐのものにマヨネーズの取り合わせは、確立されたしあわせの図式であるように美味である。もちろん冷まして冷たくなってもおいしいが、しあわせ度という意味で茹でたての方が点数が高いのである。
 僕はマヨラーというほどマヨネーズ好きではないと思うが、ご飯にマヨネーズでも食べられないことはないとは思う。弁当屋の弁当のサラダなどにマヨネーズがかけてあって、じかにご飯の上にそのマヨネーズがはみ出てのってしまっている場合があるのだが、知らずにその飯を食っても特に違和感がない。それだけで飯を食わなければならない状況はなんだかひもじいという気持ちがわくだけのことで、マヨご飯は気持ちの悪いほど異常な状態とは考えられない。
 だいぶ以前に椎名誠がスパゲティにマヨネーズと鰹節をかけて、さらに醤油をどぼどぼかけて食うと旨いと何かに書いていて、それがいかにも旨そうに思われ、真似して食べたらたいして感心しなかった。何か九州の味ではないというような違和を感じた。だがしかしスパゲティとマヨネーズの相性が悪いわけではなくて、そのようにするのならツナとマヨネーズを混ぜてスパゲティと和えるのであれば格段に美味である。手間としてもそれほどの違いはあるまいが、味覚としての格のようなものは、それこそ格段の違いが生まれるように思う。
 学生時代にお八つとしてパンを食うということはあった。市販のもので格別に旨いと思われたのは、野菜マヨネーズというものだった。友人には焼きそばパンの方がシンパが多かったように思うが、僕は浮気をせずせっせと野菜マヨネーズを買って食べていた。もちろん二種類以上パンを買える余裕があれば他のものも買うことはあるが、一種類なら野菜マヨネーズと決めていた。この味に勝る安いパンというのはちょっと考えられなかった。年配の人にあんパンの思い出をノスタルジックに語る人が多いが、僕にとってのノスタルジーは、あの野菜マヨネーズかもしれない。
 以前は訪問例会というものがあったので、毎年一度は五島に渡っていた。魚介類が旨いのはもちろんだし、五島牛の焼き肉は外せないのだが、それにもましてささやかな楽しみは飲み疲れた(五島は必ず飲み疲れるのである)深夜に残されていた。飲んでいるので方向がおぼつかないのだけれど、アーケードのような商店街を外れるとすぐの路地に平山園という中華料理屋がある。これ以上飲んでいたらおそらく死ぬ。いいかげんに〆のラーメンを食べようということで寄るのである。ここのラーメン屋でなければならないのはもう一つメニューを頼むからで、そのラーメンと別の方がメインであるかもしれないのであった。それは何かというと、海老マヨネーズなのである。まさに絶品といわねばならないのである。今となっては海老マヨは大変にメジャーな食べ物となってどこでも食べられるものではあるけれど、おそらく僕は二十代中盤に、初めて海老マヨという食い物をここで食べた。飲み疲れてさらに食いつかれているにもかかわらず、この海老マヨをパクついて瓶ビールを飲んで、さらにラーメンを食べるのだった。翌朝はひどい状態になっていることは容易に予想できる状態にありながら、そういう予感さえ吹き飛ばしてしまえるような、自堕落で愉快で強力な魅力のある美味なのである。
 しかしやはりマヨネーズは後ろめたい食べ物になってしまった。マヨネーズだけがすべての肥る原因ではないはずなのに、その原因と考えられる王様の位を獲得しているように思える。マヨネーズさえかけてしまえば取りあえずなんでも食べてしまえるようなところもあるために、アンチグルメの象徴のような存在でもある。僕はお好み焼きはたいして好きではないが、マヨネーズがかけてあるので食べられるのではないかと疑っている。僕にとっては、おたふくソースよりマヨネーズの方が位が高いのである。
 日本の国においては、マヨネーズを誰にはばかることなくたっぷりかけて食べることができるという立場の人は、ある種の狂人を除いて、もっとも羨むべき体質としあわせを謳歌しているということができるのではないだろうか。
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ご兄弟?2

2008-08-29 | 散歩

 先日の何とかテリアの御婦人が、今日は二匹の何とかテリアを連れていた。黒くてほとんど見た目は一緒である。もう一匹いたのか、ああなるほど、これで「ご兄弟?」の意味がわかったよ、と思って近づいて、喜び勇んで「ご兄弟ですか?」と聞くと、
「違います」とむげもなく否定された。少なからずショックを受けて呆然としてしまった。だって、見た目はほとんど一緒だよ(おんなじ犬種なので当たり前だろうけど…)。
「雄と雌なんですよ」とおっしゃるのでご夫婦なのかもしれない。しかしなんとなくまたしてやられた気がして、この人は要注意である。
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昔の恋人

2008-08-28 | 読書
昔の恋人/藤堂志津子著(集英社文庫)

 昔の恋人に会ってみたいと思うのは自然なことなのだろうか。いや、単純に会いたいという気持ちは分からないではない。しかし、やはり現在の自分の立場というか年齢という時期もやはりかなり重要な要素になるだろう。現在の生活とはかけ離れた過去のことでも、恋愛ということを経た関係のものが再会するには、やはりなにがしかの危険な匂いがしないではない。そういうスリリングさを楽しみにする(期待する)ような場合であれば、積極的に会いたいという気持ちになるのはわかる。単に今はどうしているのかというような同窓会的な興味であるとかいうことでも、それは会いたいのかもしれない。しかし、見るだけの興味というのは、つまるところ見てしまえば終わりであって、ノスタルジーでさようならである。今の生活は、たぶん変わらないだろう。
 この小説の中の人たちは、過去の消化が完全に上手くいっていないようでもある。そういう危険な状態のまま過去との遭遇をするというのが、いかにスリリングなことなのかということがよく分かった。というより、著者の力量なのだけれど、実に読ませるというか、ぐいぐい引き込まれてしまって、たいして意外な結末じゃないのかもしれないが、あっと驚いてそういうものかと感心させられるのである。なるほど、このような魂の清算のさせ方があるのか、と妙に感心するのだ。それは、たぶん僕の年齢と近い人たちの大人のやり取りが展開されている所為もあるのだろうと思う。これは僕が二十代の頃にはたぶん分からなかった話ばかりだろう。
 人というのは、生きていく上で、少なからぬ心の傷を負うものなのではないかと思う。それは無意識にせよ、今の生活態度にも考え方にも影響があって、そして自分自身を形作っていることは間違いがなかろう。三つ子の魂のような性格的な変わらなさというものもあるというのはそれもわかるが、そういう性格的なものを揺り動かすぐらいの、今の行動まで影響を与えるぐらいの、体験的な傷というものがあるものではないか。それはいわゆるトラウマというようなものなのかもしれないが、多くの場合恋愛体験において、そのような傷を負う場合が多いのかもしれない。トラウマであれば、ちゃんと自分で意識づけできるようであれば、それは何とか抱え込んだままでも生活に支障はなかろう。しかし、わだかまりは残ったまま、そのしこりが消えないまま生きている人は、あんがい多いのかもしれないとも思う。人との関係において生じたしこりなので、やはりそのものを取り除くためにも、しこりを生じさせた人物とは、会ってみる必要があるのかもしれない。それもとても重要なのは、しかるべきタイミングで。
 そのタイミングのいうものが、中年というか、まだ色気の残っている時期である必要があるのだろう。それはまだ、セックスの関係が十分に芽生える可能性を必要とするという意味である。いや、年齢を重ねてもそういう問題がなくならないということは聞き及んでいるが、いわゆるまだまだ未熟なものを残したまま、表面的な魅力でもって相手を動かせるというフェロモンのようなものを持っている時期ということを言いたいだけである。僕は普段あまり意識していなかったが、たぶん女という性の人たちにとって、これは大変に重要なことなのかもしれない。
 正直に言ってというか、至極当たり前のことなのだが、恋愛というのは肉欲というものと切り離せはしない。そういう綺麗ごとで済ませられないものであるからこそ、深い傷さえ作り出すことがあるのだ。それは真正面からいうことがなかなかできないだけのことであって、人間が生きているというそのものの問題でさえあるのだろうとも思う。だからこそ、基本的にはそこから逃げずに、最終的には向き合わざるを得ない。結果的に翻弄される危険はあるにせよ、結局は自分自身を取り戻すためにも、会って確認をするという行為はやはり必要なのだろう。物語はちっともまっすぐなものではないけれど、非常にいさぎよく恋愛を語っている堂々とした傑作恋愛小説集だと思った。
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だだちゃ豆

2008-08-27 | 

 断るまでもないが、僕はグルメでも何でもない。食うものなんてどうだっていいとは思わないまでも、何かに執着して食うというようなことは特にない。「美味しんぼ」のような人たちが周りにいると、おそらく嫌悪感で顔がゆがんでしまうだろう。好奇心で食いたいと思うことはあるにせよ(名物など)、これを食わなきゃ落ち着かないというようなことはめったにないようである。いや、鬼太郎カレーはどうしても買いたくて粘って探して買い求めたので、やはり執着することはときにはあるのだけれど、鬼太郎の場合は息子へのプレゼントという側面があったので執着できたということはあるのかもしれない。
 しかしひょんなことで「だだちゃ豆」の存在を知った時から、気になって仕方がないという時間を過ごした。存在を知ったのはあいにく春先で、いくら探しても見つからなかったということが大きいのかもしれない。無かったのは当然で、八月中旬から九月頭ぐらいまでのごく短い時期にしか収穫されないのだという。どういうわけか保存も難しいらしい。山形の一部でしかとれないということも妙に不思議だ。産毛のようなものが少し黒っぽいし、見た目も悪いのだけれど、なんで普通の枝豆と違うのかというのがどうにも気になって仕方ないのである。枝豆は大豆だから豆腐にもなるんじゃなかろうかとも思うが、あえて枝豆としてしか食わないものなのだろうか。まあ、そこのところは実はどうでもいいが、食いたい思いは強まる一方で、長い時間待ちに待ったという感じだった。
 注文したのは盆前だったのだが、配達されたのは下旬になってからになった。なんと僕だけのブームではないらしいことがこれでわかる。いや、僕の知らないだけのことで、もともと巷間では噂の枝豆なのかもしれない。注文と配達される時期に間隔が空いたので、しばし忘れていた夜家に帰ると、茹であがった「だだちゃ豆」が食卓にあがっていた。さっそくビールをうぐうぐ飲んで、ひとつまみつまんだのだった。
 まあしかし期待が大きいというのもなんだな、というのが最初の感想。知らないで食えば枝豆には違いない味である。もの凄く神妙にしてパクつくと、味が濃いというか、なんとなくの違いは段々分かる程度ではあった。うーむ長い間待たせやがってイケずなやつだが、実はたんにまじめ一本なだけだったというようなオチなんだろうか。調理方法なんかも普通の枝豆よりうるさいことが書いてあったらしく、つれあいもいつもと勝手が違いながら茹でたとの由である。さらに少しばかり塩を足したりして、神妙さを保ちながらパクついて、食卓に並ぶ別の料理を食ったりするうちになんとなく空腹の方は落ち着いたようだった。
 しかし枝豆の力はここからなのかもしれない。もうこの辺でよしておこうと思ってテーブルから離れようとしたのだけれど、いつものように水割りの焼酎を口にするとなんとなくさびしくなって、手をのばしてテーブルの上のだだちゃ豆をつまんでしまう。子供の見ているテレビを横目で見ながら飲んでいるのだが、一度離れたテーブルの椅子にいつの間にか座りなおして目の前の豆に手を伸ばしている自分がいたのであった。いたのであったと気付いたのはガラスのボールに入っていただだちゃ豆が無くなったからで、無くなってしまうと殺伐とした静寂が訪れて、妙にあとを引く感覚が湧きあがってきた。いや、十分に味の方は理解したはずなのに、もう一度確かめ直したいような物足りなさなのである。そうだ、この不十分な渇きのようなものを与える程度においしいというものが枝豆なのである。やめられない止まらないは「かっぱえびせん」のみの特許なのではなく、この中途半端さが止められなくなる大きな理由なのではないかと思わせられる。
 まあしかし実のところ熱は少し引いて食べたという経験には満足しており、次回は地元の枝豆であってもいいのかなとは思ったのだったが…。
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残念ではあるけど

2008-08-26 | 時事

 オリンピックで野球が負けたことは、多くの人にとってショックが大きかったようである。星野監督への風当たりが強かったりして、彼の今までの名声も地に落ちたという感じだ。もともとコテコテの中日人で反巨人のやんちゃ坊主というのがまっとうなところだった人なのに、妙に国民的な人になってしまったのがそもそも痛かったのではないだろうか。また、日本チームの選手一人ひとりのふがいなさを嘆く言動も目につく。結果というものは改めて恐ろしいもので、期待が大きかった分落胆も大きいということなのだろう。
 しかしそんな感覚自体が僕にはなんだか意外なのだが、多くの人は本当に日本に金の実力があったと思っていたのだろうか。終わってからいうのは卑怯なのは分かっているけど、最初のキューバ戦をちょっとだけ見た感じでは、素直に今回はちょっと厳しいんじゃないかと誰しも思ったのではなかったか。そりゃあ実力的に日本はそれなりに(上位4チーム程度には)強そうだというのはわかるけど、メダルを取るのは至難の業であるだろうことは正直なところだったように思える。韓国キューバは特に抜きんでて強かったのは間違いないように見えたし、この二チームが結局金銀と取ったのは、ものすごくまともな結果を表しているように思える。試合の局面局面でおかしなところはあったにせよ(ボールゲームはそんなものだろう)、相手チームにだって変な采配やミスは結構あったし、結局は流れをつかめなかったというのが短期勝負の結果となったのであろう。確かにどんどん委縮して行って、かわいそうなほど弱そうに見えたのは日本の精神力の弱さだと思うが、もともと弱い国民性なんだから、それこそまともな日本人ということにすぎなかったのであろう。星野監督が悪いというより(まあ、そう思うのも自然だが)、素直に日本が弱かったと思う。期待の方が勘違いしていたのだ。
 話は違うようだが、ジーコが鹿島に来た時、ジーコはどのようなことを教えているのだということがよく報道にのぼった。一番僕が笑ってしまったのは、彼がしつこく指導したのは、シュートをゴールの枠に蹴るということだったという。日本の練習では最初からゴールの外に蹴る人が多すぎることにジーコが驚き、枠の中に蹴らなきゃ最初から得点にならないじゃないかということを言ったというのを聞いて、ああ確かに日本ではそうかもしれないなあと改めて思ったのだった。日本は案外テクニックとしてはものすごく劣るということではないのかもしれない。しかしなんだか当たり前すぎる基本的なことに、意外と無頓着なのである。
 バスケットボールの日本代表選手と一緒に酒を飲む機会があって、いろいろと練習の話を聞いたことがある。確か監督さんがユーゴスラビアとからへんの外国人で、日本人の指導者とは教える内容がぜんぜん違うので戸惑うことが多かったと言っていた。どんなふうに違うのかというと、テクニックのことは小学生でも知っている基本的なことばかりで、一から十まで精神力の話ばかりなのだという。その選手としてはそういう監督の態度にちょっと不満そうだったし、なんだか意外に思ったものだが、肝心なところは精神力だというのは、なんだか分からないではないなと思ったことだった。
 日本の指導者の多くは、その精神力のことばかりで合理的な指導をしていないという指摘をよく耳にする。今回の日本チームにおいても、そういう面ばかりで内容がなかったといわんばかりのものも多いように感じる。まあ本当にそういう面があるのかもしれないが、それだから日本のチームが負けてしまったのだという基本的な原因であったのかということになると、なんとなく疑問にも感じるのである。ただでさえ日の丸を背負うとか、日本のプロ野球の魂(またはメンツ)であるとかというような外野の重責がある中で、精神力の指導をしない指導者の方が問題があるのではないか。このチームでどれだけ勝ちたいという意識づけが明確になるほど、組織として強くなれるということは、あんがいまともな戦法のようにも思う。もちろん基本的には精神力だけでは勝てるものではない。それは先の戦争を例にとるまでもなく、明確に誤りではある。しかし、戦力の水準が高くなって、それも紙一重のような微妙な勝負の分かれ目にあるとき、勝敗を左右するような力を呼び込める決め手になるのは、最終的には精神力としか言いようがないのかもしれない。僕はオカルトの話をしているわけではないが、そうした精神力の涵養のために、あえて不合理でハードな練習をする必要さえあるのではないかとさえ思う。もちろん一律にそのように育てることが絶対的な必要要素だとは思わない。しかし、ナショナルチームのような寄せ集めの団体を指揮する上において一番大切なのは、精神的な強さを育てる戦法なのではないかとも思うのである。日本チームが実力以上の力を発揮できなかったのだとしたら、精神面の問題を取り上げるのは的の外れたものではないのではないか。技術的なものばかりに目を向けすぎて、精神面をないがしろにしてしまったことこそ、日本の敗因の第一要因であると考える方が妥当なんだと思うのである。
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スウィーニートッド

2008-08-25 | 映画
スウィーニートッド/ティム・バートン監督

 今回は僕なりのネタばれなので、未見の人は読まないように。まあ、あんまり評判良くないし、影響もそんなにないとは思われるが…。しかし多くの人たちはこの映画を勘違いしてみてしまったのではないかと思わないではない。監督の屈折した人間性からみて、彼は彼なりに行き場のなくなった人間の救いを描きたかったのではないかと僕は感じた。

 まあ、言われたとおり残酷で、黙って座ってみることができなかった。僕は血に弱いのだ。したがって映画館で観るなんてとんでもなかったことだろう。ミュージカルは生理的に嫌いなのでミュージカルとして感心することはほとんど無いのだけれど、もともとシュールな雰囲気の漂うジョニー・デップが歌うというのは面白いのかもしれなかった。また、これだけ残酷な話なんだし、ちょっと異常な世界なので、ミュージカルにするよりなかったのかもしれないと、制作の意図もわかる気がした。
 しかしながら物語として面白くないにせよ、この映画には不思議な魅力のあるのも確かである。観終わった後にも、妙にあとを引くというか、分かりきったようなストーリーにもかかわらず、大人の童話として納得のいくものがあったことは確かである。人はなかなか自分の欲望(たとえそれが復讐であるにせよ)を成就させることはできないもので、そのことは分かっていながら、そういう目的をなりふりかまわず達成させた後に残る無情な悲しさというものは、実はこのようなものなのかもしれないとも思わせられた。いえね、全然そんな話じゃなかったじゃん、という人の意見もわかりますよ。しかし、おそらくそんな話だったのだと読む方が、実はごく自然な映画の見方だと思う。
 またこの話は本当に救いのない物語なのでもまったく違うと思う。娘はおそらく今よりしあわせな将来をおくることになるだろうし、それも父親は殺人鬼だということを知らないままに新天地へ旅ゆくことになるということが十分に暗示されている(いや、写真を見たので気づいたかもしれないとは少し思うが、展開としては打ち消されていると考えた方が自然だろう)。自分の愚かさというものは、自分の中で完結されて、新しい憎悪を生まない未来を達成させただけでも、十分に寓話としてしあわせな物語だったのではないかとさえ思うのだった。そしてどこにも行きようがなく人間を踏み外し怪物になりはてた自分を救うことができたのは、形を変えた自分の良心である妻の行動だったということも、深い悲しみに打ちひしがれていながらも、十分に理解できるラストだと思う。彼は悪魔から復活して人間として死ねたのだ。嘘で塗り固められた将来を作ろうとした煩悩は燃え尽き、不器用でも正直な自分に戻ることができるということなのだ。他人に無理やり陰謀の世界に投げ込まれようとも、愚直に生きていくしかない自分の将来は、かなしくもこのような形で復活することができるのである。それは同じようにハリウッドで映画をつくるよりない監督の姿なのかもしれない。非凡なものを持っているとはいえ、現世では上手く立ち回れない人たちにとって、この物語は同じような救いの道しるべなのではないだろうか。
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当たり前だが、老けてたなあ

2008-08-25 | 音楽

 ホール・ロッタ・ラブか…。ギューンといわせてたけど、あれもエアギターじゃなかろうか、などと思ったりしたよ北京。
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鬱だと思ったのだが

2008-08-24 | 雑記

 最近気分がふさぎこんでいけない。妙な閉塞感にさいなまれるし、何かおかしな感じだ。考えてみると(税金やローンの率が変わって負担が増えて)大幅にお小遣いが減ったのもあるし、原油高もあるし、仕事の先行き感の無さもあるし、いろんな勧誘もあるし(いちいち断らなければならない)、つまらないミスが続いているし、大きなチョンボも犯すし、なんか気分を変えるために何かせんとあかんなあ、とは思うが重い腰が上らないし、ああ、ひょっとするとこれは鬱かもしれないと思い当たった。別に積極的に死にたいわけではないにしろ、人間はいつか死ぬし、それが明日でもまあいいかとは思う。将来の夢なんて最初から無いし、やり残して未練の残るようなことも特には無い。うーむ、これが鬱というやつか、と思って自らを観察すると、やはりだんだんと気分がふさぎこんできたように感じ出した。もうまいったなあ、オレ鬱だよ、なんてつれあいに打ち明けると、「夏バテじゃ」と言われる。そうか、その手があったか。最近は雨が続いて涼しかったので気づかなかったが、夏バテになってないというのは確かにまだ今年は気づいていない。これだけ暑かったのだもの、夏バテになってもおかしくは無いのかもしれない。しかし食欲はあるし、納得のいかないことも無いではないが、鬱より夏バテのほうがいいような気がする。これからもなんだか嫌な毎日は続きそうだが、夏バテであるのなら、いつかは終わりが来るだろう。
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反省しない方が健康だ

2008-08-22 | 時事

 たまたま職場のテレビで沢尻エリカが出ていた(というか報道されている?)ので、パッチギの時は彼女は可憐だったなあ、と呟いたら、まわりにいた女性陣が一斉に「でもねえ」という。ああ、エリカ様のことかと思って、あれぐらいは性格の問題だからいいんじゃないのというと、それなら最初から謝らなければいいのに、と更に冷ややかな声もでた。そういえば今(テレビに)映っている報道も批判的みたいだ。不機嫌なところはなかなか面白くてみんな楽しんだくせに可哀そうだなあと思うが、すっかり悪役キャラクターになったのだろうか。そういえば山本モナ(実は顔が分からないが)なんかも、僕には非常に好感が持てる人なのだが、この人の話の時も「でも不倫はよくない」と猛烈な非難を浴びたのだった。いや、そういう意味じゃなくてさ、懲りないところが人間的というかさ、なんだかいい人だなあと僕は感じたのだけれど、やはりそうは感じてもらえない人みたいだ。
 テレビに出ているタレントさんというのは、私生活でもいい人を演じなければならないのだろうか、と僕は思っている。そりゃいい人にこしたことはないんだろうけど、幻想を売り物として提供している立場の人なんだから、それなりの変人であったほうが、せっかくの自由人として生きていく上でいい見本になるんじゃなかろうか、と思うのである。外国(おもに米国)の芸能界スキャンダルなんかから漏れ伝わるところで感じていたのは、その絶大なる異常ぶりや破天荒なパワーの大きさだ。人間が欲望のままに生きると、これだけ変なことができるんだということで、僕は不思議な活力がわいてきて愉快なんだけど、そのために芸能スキャンダルにみんな群がっていると思ってたんだけど、違うんかいな。逆に最近の日本のメディアの報道ぶりというのは妙に潔癖で、なんだか気持が悪いのである。だから僕は基本的に日本のバラエティは見ない。不機嫌になるために情報を得ても仕方がない。しかし、職場の狭い範囲の空気から読んでいくと、やはりこれは世論の要望なのかもしれないとも思う。なんでそんな要望があるのかはまったく僕には理解不能だが、ひょっとすると、思いきりみんなで誰かをいじめる快感のようなものがあるんじゃなかろうか。まあ確かに政治に愚痴を言うようなものも似たようなところがあるようで、立場によっては誰かの利益は誰かの不利益の上に成り立っているわけで、あいつらは馬鹿だと公然と言えるのは、鬱憤晴らしといえなくはない。いやしかし、芸能人は人気商売なのだから(政治家もそうかも)客の好感を得ていなければならないという意見もあろう。まあ、ごもっともだけど、いじめて面白い対象とは思えないだけの話かもしれない。少なくとも僕は芸能人だから公然といじめの対象になっていいとは思わない。そういうものに負けないように異常なところへ暴走させているのかもしれないとさえ思う。負けてしまうとどのようになってしまうのかというのは、言わなくてもわかるだろう。まあしかし、人間というのはもともと残酷な性分があるのは仕方のないことで、お互いにガス抜きの存在を必要としているということなのだろうか。沢尻エリカと山本モナには、すでにこの世界でなければ生きられないのではないかとも思われ、世間の風にも負けずに頑張ってもらいたいものである。僕が味方になったところで、何にも力になれないのは残念だけどね。
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ご兄弟ですか?

2008-08-21 | ことば

 今日は珍しく小琳ちゃんも一緒になって散歩に行った。犬の散歩をしている人は多くて、道行に挨拶を交わす。犬同士も挨拶に鼻を近づけたりするが、怒って駄目だったりいろいろである。杏月ちゃんはこの挨拶がうまくいかないといつまでもクークー鳴いて悲しそうである。小琳ちゃんは終始知らん顔で、実に対照的である。
 なんというテリアか忘れたが、立派な顔立ちの黒いテリアを連れたご婦人が道端で休んでいる。正確にはこのテリアちゃんが動かなくなっているようだ。しかし杏月ちゃんが近づくと反応して、ちゃんと挨拶を交わしてくれた。少し歩く気になったのか、ちょっとだけ一緒に歩く。おばさんは「そちらはご兄弟ですか?」とおっしゃるのだが、小琳ちゃんはミニダックスだし、杏月ちゃんはシュナウザーとトイプーのあいの子母親とマルチーズの父親をもついわゆる何とかいう混血である。まあ、写真にあるとおりゴミのような風貌である。僕はしばし意味が分からず、いや、必ずしも血のつながっている意味として言っているのではなく、兄弟として育てているという意味なのかどうかなどと思案して、結局何とも返事が出来なかった。御婦人という人たちの多くは、こういう自然体で難しい質問をさらりとされるので、むやみに挨拶を変わすのはよくないことかもしれない。
 兄弟で思いだしたが、意味としては二匹とも雌なので言うとするならば姉妹なのかもしれないが、日本語としては特にそのように言わずとも、兄弟という表記で必ずしも間違いではない。しかし人間の場合あきらかに男と女の混在している場合には、表記として兄弟と書くことに何らかの誤解を生じさせるような気がしないではない。特に僕のように六人兄弟で男四人女二人の混在している状態にあるような立場の者にとって、僕の兄弟などと書くと単純に男数名の兄弟を連想する人が多いように思われて、別に嘘をついているわけでもないけれど、誤解させてしまっているのが事前に分かるままで黙っているのは、なんとなく気がひける。できれば最初から詳しく説明してもいいのだが、このようなことに時間を割くと、話の本文と著しく逸脱してしまいかねないし、まあ、正直言って面倒である。したがって最近はひらがなであえて「きょうだい」と書くことが多くなったのだが、この間ある機関紙に原稿を依頼されて、たまたま「きょうだい」(自分のではない)と書かざるを得ない場面があり、そのような個人ルールにのっとって書いて提出した。すると事務局から電話があり、このひらがな表記のままで本当に良いのかという確認があったのである。実際に対象となっている人たちには、実に多様に男女が混在しており、そのように書かざるを得ないと考えたという理由を説明して、そのままの表記にしてもらった。後でふと思ったのだが、簡単な漢字をひらがなのままに書くと、なんとなくしまりがないというか、はっきり言って知性が欠けるような不安があるのかもしれないとも思ったが、やたら微妙な漢字の多くなったワープロ変換社会においては、むしろひらがなで書くという人の方が、はるかに知性的であると個人的には感じている。
 そういえば以前米国からの留学生と話をしていて(日本語)、やはり兄弟の話になって、日本語で兄弟や姉妹とこだわるのは封建主義の表れでないかというような事を言われたことがある。なるほどあちらでは弟であるとか兄であるとか、ましてや妹や姉ということは特に表面的にはこだわらないらしい。彼には妹がいるということだったが、英語で話すときはsisterとだけ言って特に姉であるとか妹であるとか説明することは少ないのだという。ましてや言われた方がどちらかなど問いただすことは皆無で、女の兄弟がいるというだけの話以上に興味を持つのは日本人ぐらいだと言っていた。いや漢字文化である中国だってこれはこだわるはずで、日本人ぐらいだという考えは偏見であるとは思ったが、特に抗議することなく、そういう話に妙に感心した。
 ついでだが、第何代大統領などと必ず日本では言うが、あちらにも必ずしもそのような表現がないわけではないらしいが、何代目の大統領であると考える米国人はほとんどいないだろうということでもあった。しかし日本では新しい大統領が誕生すると必ずと言っていいほど第何代の大統領の誰それという。考えてみるとおかしな話であるが、大統領は代々受け継がれている地位ではなく、ただ単にその時代の誰がやったのかということの方が重要なのだという話なのだろう。これは確かに日本人には大統領制は最初から理解できない制度には違いないなあ、などと思ったのだった。
 まあしかしだいぶ話は遠くまで来てしまったが、小琳ちゃんと杏月ちゃんはきょうだいではない。ましてやきょうだいのようでもない。小琳ちゃんが年上だが、そのような序列があるわけでもない。しかし力関係はあるようで、これは僕らがどうこう言って教育するたぐいの問題でもない。いわゆるペットなのだが、しかしここまで生活の一部として家族と一体化していると、そのように言うのもなんだかニュアンスとして正確でないものも感じる。彼女らはいったい何といえば一番いい存在なのだろうか。また、そのようなニュアンスを伝えるにはどのような言葉がいいのだろうか。単純に我が家族といってもいいが、家族の一員と言っている他の家庭の犬のような存在なのかはよく分からない。これは僕の偏見かもしれないが、あえて家族と言っている人たちは、妙に進歩的な(と考えている)考えをひけらかしているようで、なんとなくそのような人たちと同じ意味での家族と言っているわけではないのだとも言いたくなるのである。まあ、これは別の機会に書こう。めんどうくさい。
 しかしながらだいぶ秋めいてきて涼しくなり、朝の散歩は非常に快適で気持ちが良かった。このまま残暑などに戻ることなく過ごしやすい日々が続くことを切に願うものである。
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火に油を注ぐ

2008-08-20 | ことば

 ひとのブログを見ていて楽しいのは、その考え方の視点の意外さかもしれない。トピックとしてどういう話題を取り上げるのかということも面白いが、同じものを見てどのように違うのかということが何より不思議だ。まさに羅生門である。会話の中でそのような異質なものやちょっとした違いというのは、その場ということもあって、よっぽどの変人同士でない限りお互い上手く修正されるものだけれど、文章というのは他人に見られるという配慮はある程度あるにせよ、自分の考えの暴走があるので、意外な方向に進んでいるという意識も少なく、意外な視点を自然に提供してしまうこともあるのだろう。
 というのも、やはり最近はオリンピックということもある。オリンピックはつい見てしまうので、お互いの話題として共通である場合が多くなる。これを見ないという人もそれなりに共感するが(それを押し通せる精神力は立派だ)、フリーチベットの人たちだってつい見てしまうというような魅惑の祭典であることは間違いあるまい。国別メダル数なんてどうでもいいと僕の頭の中では思っているくせに、やはり日本のメダルが増えるのは快感のあるのは正直なところ事実である。イチローが嫌いなのに彼のヒットが増えるとうれしいように(ちょっと違うかも)。
普段見向きもしない円盤投げなどを見て、諸外国の野人のような風貌の選手を眺めているだけでも楽しい。しかしなんで投げた後にあのように叫ぶのだろうか。力を出した後なんだから、落ち着いたほうがいいのではないか。
 走り高跳びもやっていて、これは毎回外国の基準でありながら不公平極まりないルールだと思って見ているが、一向に改正されないこころよさがある。単純に高さを競うのなら背の高い方が有利だけれど、重力もあるので、でかくなりすぎてもいけないということなんだろうか、俺には分からん。しかし単純なのは結構で、ジャンプ力が一番である人は結局負けた。どれだけの高さという基準の方にこだわっているのは、もともと高い人たちの理屈なんだろうとは思う。ウェイトにこだわるのは格闘技系(重さ系もあるけど)だし、陸上競技の場合は、人の違いに考慮しない方針なのかもしれない。
 ああそう、野球の話題だった。僕は国際試合の団体競技は嫌い(ワールドカップを除いて)なのだが、何故か息子が見てもいいとチャンネルを変えるので見た。こういう格下相手だと火がついて容赦ないのは情けないが、まあそれはいいとしよう。通りがかりのブログで思ったのは、野球用語のことだった。考えてみたこともなかったが、ダブルプレーだとか盗塁だとか、確かに日常では使わない専門用語には違いない。僕は日本に生まれた男なので野球にはそれなりになじみがあってかえって気付かなかったが、普段野球を見ない人がこういう機会に野球を見て、野球用語に初めて接するということもあるのだろう。身近なシュールな出来事だ。
 しかし確かにダブルプレー(併殺)をゲッツー(get two outだろうか)と言ったり、ゴロを打つとかポテンヒットだったり盗塁だったり、投手とキャッチャー関係だけをバッテリー(電池ではない)と言ったり、変わっていると言えばその通りだ。サヨナラ安打(ホームランとか)なんかも考えてみるとなんか変だ。野球用語って面白いもんだなあとも思う。国際試合だけストライクカウントより先にボールカウントからいうなど、いくら表示がそうだからと言って改めてしまうアナウンサーのまじめさは、名字より先に名前を言ってしまう英語教育のようでなんだか可笑しい。
 まあ野球は本当のところどうでもいいので、他の競技でも用語を聞きながら観戦を楽しむという手があるな、とも思った。
 ちなみに中国人が応援の時にいう「加油(ジャーヨウ)」というのは日本語では「がんばれ」の意であるのは間違いないが、火に油を注ぐとさらに燃え上がるように、燃えろというか、行け、というような掛声に近い感じがする。結果的に頑張れということで、日本語のがんばれの方がなんだか訳がわかんない気がするし、そういうわけのわからない言葉で応援する日本人ってやっぱり面白いのではないかと改めて思ったのだった。
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2008-08-19 | 読書
敵/筒井康隆著(新潮文庫)

 傑作の声がよく聞かれる作品で、まあ、いつかは読むだろうとは思っていた。読みやすい小説ではあるけれど、断片を細かく区切ってあるので、時々拾い読みして、結構読むのに時間がかかってしまったようにも思う。その細かいところももちろん面白いのだが、いわゆる「敵」の存在が匂いだしてから、徐々に後半への狂気へ流れていくところは、なかなか圧巻という感じで引き込まれた。前半の読書スピードと後半の読書スピードは、僕の場合明らかに違うような気がした。
 日記を細かく書くと、なんだか日記のために日常を送っているような錯覚に陥ることになることもあるし、実際そういうことになっているような人もいるようだけれど、実際にはいくら細かく書いたところで、日記は日常には追いつけない。ブログのようにネタを追い求めるという気分にはなるかもしれないが、それは書くべきかどうかなどと逡巡するからそうなるのであって、あることを素直に書き、かつ連想に遊べば、ほぼ書くものは尽きない。しかし儀助の書く(というか筒井の書く)自らの日常は、実は日記的なようでいて、かなり日記とは違う。小説なんだから当たり前だという指摘も出そうだが、まあ確かにその通りで、あったことを細かく書いているように見えて、それはかなり空想的な演技なのではないかとも思われた。
別にそうであってもいいにせよ、僕にはこの老人的生活のリアリティがやはり感じられないということがあったのかもしれない。それは僕自身がまだ老人ではないということもあるだろうけれど、儀助という人物が、またかなり特殊なような気がする所為もあるかもしれない。
 僕は仕事柄というか、立場上というか、それなりに年寄りの男性とは話をする機会の多い方なのではないかと思われる。僕のような若輩者に素直に自分の心情を語るような人はいないのかもしれないが、それでもお年寄りといわれる人たちがどのようなことを考えているのかということは、割合実感として理解しているようにも思う。それは社会認識的にどのようなものであるとかいうような確固たるものではないのかもしれないが、儀助のような老人(しかし75なので、若い老人だが)は、それでもかなり特殊の部類の人物であることは間違いがない。いや、むしろ男としては理想形のような、ちょっと出来すぎた人物のような気もする。そこのところが、なんとなく共感の少ない人物になってしまっている原因なのかもしれない。
 しかし儀助の幻想には、なんとなく共感できるから不思議な感じはする。男の寂しさや欲望ややせ我慢は、ともすると同時に快感の伴うこともあるだろうことは実感としてあるようである。今自分の欲望を果たしてしまいたいというものより、ここを我慢してしまうことの方が快感が深まるというのは、想像としてよく分かる。自制をきかせている自分自身に対しても快感を伴う。それは他から見ると単なるやせ我慢にすぎないようなたわいないことなのかもしれないが、本人の満足感はことのほか高いものなのである。僕がこのような老人生活を送るようになるのかどうかはまったく不明にせよ、ひとつの参考になるということはあるかもしれない。しかし今でも愚痴の多い性格だから、このように一見平穏に暮らす事など出来ようもなさそうだが…。
 ちょっとというかかなり違うのだとは分かっているが、シャマラン監督作品の映画的な世界も連想された。現実とはかなりかけ離れた不条理社会の方が圧倒的なリアリティを持ち始め、いつの間にか逆転してしまう。その境目さえもいつの間にか分からない。混乱しているくせに、不条理社会の方が本当の世界なのではないかとも思えてくる。そこのあたりの描き方は見事で、シャマラン監督と大いに違うのは、それでも読む者に破綻を感じさせない作品世界の構築のされ方であろう。正直な内面社会の表れなのか、虚構のあこがれ社会への逃避なのかというのはよく分からないが、このサスペンスは僕には恐ろしかった。自分で選択しているようで、しかし結局は自分自身方が囚われて逃げられなくなっているのではないか。老いというのはそういう心情を含んでいるのか。その時になってみないことには僕が何を考えるかはわからないことだが、恐れるより先に諦めてしまおうなどとも考えてしまった。やせ我慢するような若さのあるうちの幻想であるとうそぶいて、その時を待つことにしよう。
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次元の違う世界で戦う

2008-08-18 | 雑記

 ちょっと所用があって仕事に行った。用事はあっけなく済んだけれど、盆の間のいろいろな出来事を聞くと、それなりに何かが溜まっている感じはする。糸をほぐすように手をつけるよりないか、と考える。
 体調の悪い人も何人かいて心配はあるが、その当の本人に聞いてもどこがどのように悪いか要領を得ない。お腹が腫れているようにも見えるが、肥満のようにも見える。皮下脂肪はそんなに多くなくて、一部がポッコリしている。最近検査したばかりだし、腫瘍というものではないのかもしれない。痛みもないらしい。何かがおかしいということで見ているのだが、そのうち熱が上がりだして、結局後から鼻声になって風邪らしいということだった。この人はちょっと前に転倒してから急に体調か急変し、今は精神的にも不安定になってしまわれている。体がいう事を聞かないから、死にたいとまで言う。今までの元気さを知っているだけに、その豹変ぶりにこちらも戸惑うばかり。整形外科や脳神経に至るまで様々な病院で受診したが、その先々でまったく異常は見つからない。多少打撲の痕はあるにせよ、何故本人が動かないというのか分からないと医者も言う。本人だって分からないらしいが、動かせないものは動かせないのだという。
 ゴーっという雨音がして、激しい雨粒が叩きつけるように落ちてきた。渡り廊下近辺ではちょっと話もできないほどの雨音で、やかましい。どういうわけだかこの近辺には雨が落ちていなかったと聞く。隣町では降っているのに、こちらではゴロゴロという雷音しか鳴らなかったのだそうだ。このままでは何もかも心配だったから、まとまって降ってくれたらいいと祈るように言う人もあった。しかしまとまりすぎて降られてもやはり困るわけで、程度よく降ってくれるよう祈ったほうがいいと思った。
 テレビでは甲子園が準決勝だという。なんだか夏は終わりだなという気分にはなる。雨が降ったせいか、なんだか秋めいてきたように感じないではない。そういえば朝の散歩も少しは涼しくなってきている。前倒しで早い夏だったから、また秋も早く来ているのだろう。トンボもすっかり下界に降りて行ったようにも思う。山の田んぼには蝉の声だけである。
 家に帰って酒を飲んでいると、サザエさんが放映されていた。そういえば今日は日曜だったのだと驚いてしまう。夜の散歩をして迎えに来てもらって帰ってくると、今度はたかじんのVTRを撮ってもらっていた。夕方に一度びっくりしていたくせに改めて日曜だったと驚いてしまう。もちろん楽しく見て満足する。むつかしいテーマだなとも思うが、身近な人の話ではないので僕には気楽である。
 さて寝ようかとも思ったが、男子の一万メートルが行われていて、思わず見入ってしまう。北京とは時差が一時間のはずだが、こんなに遅くまで競技を行っているのだろうか。レースの方はわかってはいるけれどもの凄いスピードで、あのマサシでさえ付いていけない。これはまるで中距離走の世界である。当然日本人(ヨーロッパ人もだが)はとてもついていけるわけがなく、最後は一周抜きである。僕の方がなんだかつらくなるが、みなあきらめずぐいぐい走っているのは見て取れる。その健気さのかじられる姿に妙に感動させられる。松宮選手は淡々とゴールをして、それでも少しきつそうで、水を飲んでトラックを後にした。竹澤選手から先にインタビューを受けて、やはり淡々とレースを、それでもしっかりとした口調で振り返っていた。あの強い人たちがこのようにレースを終えたのだということが、わかってはいるとはいえシュールに感じられるインタビューだった。これだけの力の差は、人間の根本的な能力の差であることは間違いがない。努力やら夢やらがどうにか出来うる世界なのではない。しかし、この世界で生きる者にとっては、しっかりと前を見据えて走るより外にはないことも確かだ。竹澤や松宮は、そのように語っているということなんだと思う。見事な代表選手という気がして静かな感動を味わった。僕にはこのような負けを見ることこそ、オリンピックの価値があるようにも思う。それはどんなに苛酷な状況に置かれようと、自分のレースを組み立てようとする姿勢である。結果的にはうまくいかなかったのかもしれない。しかし静かな闘志は消えることはなく、次のステップを踏み始めるのである。5,000も見なきゃいけないな、と思ったのだった。
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赤い航路

2008-08-17 | 映画
赤い航路/ロマン・ポランスキー監督

 夫婦でインドまで客船で旅行している。その船で知り合った怪しげな女性とその夫である車椅子の男の回想がほとんどなのだが、おぞましいと思いながらも逃げられない魅力に取りつかれていく男の苦悩が英国人らしいということなのだろう。フランス女の個性的で怪しい雰囲気も異国情緒と合わさって悩ましいものになっているのかもしれない。アメリカ人作家の身勝手さは、やがてその身の破滅の伏線なのだが、いくらなんでもやり過ぎという感じもして、かなり変態的である。それにどうして彼らはこのようにお金があるのだろう。もともと資産家の夢のような話なのだろうか。
 かなりおかしな話ではあるのだけれど、そしてかなり変態チックな話なんだけれど、男と女の情念の、かなり核心的なところをついていて、見事というしかない仕上がりになっている。多少のしつこさはあるにせよ、意外などんでん返しがあり、後味は悪いが余韻として名画を観たような感慨が残る。
それにしても愛と欲望というのは、人間ドラマの中でも特にどうにもならない恐ろしさが内包されているものである。その先には滅亡が控えているにもかかわらず、今の瞬間は欲望の方がはるかに人間の行動を束縛してしまうのである。日本人は比較的に引っ込み思案だけれど、英国人だってそのような感じなのに、やはり抗うことができなかったということは理解できるのではないか。情けないが、同時にそれは仕組まれた罠でもあるのだろう。
 しかしながら出会いとその後の愛の展開と憎悪に至るまでの物語は、多くの人にはこれほど極端ではないにしろ、ひょっとすると誰もが体験するような男女の物語といえないこともないのではないか。彼らはある意味で素直に自分たちの運命に身をゆだねている。歯車が狂うのはほんのちょっとしたことだったのだけれど、一度狂いだしたものは二度と元には戻らないのかもしれない。戻らないにもかかわらず、その異常さから逃げずにどんどん先に進んで行ってしまう。そこまで行くと変態であるのだが、元々変態趣味なのだから、それすらも快感ということなのかもしれない。
 なかなか実践的にこのような人生を歩むわけにはいかない。物語は幻想的だが人間の欲望としては真実ではあろう。だからこそ映画として楽しむ世界であるということになるだろう。この物語だって、監督の趣向性として、単純に多くの人に知ってもらいたかったからこそつくられたものではないのか。自分たちだけで破滅に向かうのがもったいなかったのではなかったか。そのような狂気をもっている同類を嗅ぎつけて、仲間に引きずりこもうとしているのではないか。嫌悪で顔をゆがめて腹立たしい言葉を吐き捨てる若い英国紳士が物語にのめり込んでいくように、変態趣味の扉は普通の保守的な常識人をこそ虜にしていくのかもしれない。自分は関係ないとタカをくくっていると、痛い目にあうかもしれませんよ。
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