カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

カフェインは身を滅ぼす

2016-01-31 | 時事

 ちょっと前に若い男性がカフェイン中毒で亡くなったというニュースがあった。なんでもエナジードリンクを飲み過ぎであったらしい。報道では亡くなった男性は、そういうカフェイン入りのドリンクを習慣的に飲んでいたという。そういう書き方には誤解を生みやすいとは思うが、実際にはカフェインの錠剤も飲んでいたらしく、相当無理をして一気に多量の摂取をしたのがいけなかったのだろう。常習的で悪いとしたら、素直に寝て眠気を覚ますことをしなかったことと、いつも飲んでいるので、耐性があると思い込んで多量摂取に至った疑いはあろうかとは思われる。多少の警鐘の意味は見て取れるが、そのように摂取をしなければならないと考えている精神性や、その男性を取り巻く社会的背景が分かりにくい。あまりにレアケースなので、これが一般の人の警鐘になるという考えは浅はかだろう。
 しかしながら、普通はどれくらいが限界かというのは少し明確では無いらしい(※実際の致死量と考えられているのは、成人では5~10g。コーヒー約50杯分といわれている。よって医学界では、通常の生活において、コーヒーやお茶などから摂取されるカフェインで健康被害が起こる可能性は無いとされる)。だいたいの目安としては400mg程度以下にしておいた方がいいのではないかと新聞には書いてあった。コーヒー一杯には約135mgのカフェインがあると言われているので、3杯も続けて飲むと、だいたい限度となるようだ。まあ、3杯程度がぶ飲みするような人間は絶対に居ないとも思えないので、それなりに危険水準は高いものではないかもしれない。まあ、4杯目は時間を置いて飲むようにしましょう。
 どういう事情があったのかは知りえないが、とにかくカフェインで起きていようというのは安直な一時しのぎである。仕事などの事情だったとしたら、この人はよっぽど仕事の出来ない人だったのかもしれない。責任感が強かったという考え方もできるかもしれないが、眠気を抑えてやるような人に集中力があったとは考えにくい。一緒に仕事をするには、危険の伴う可能性のある迷惑そうな感じさえする。死んでしまったので不幸なことであったけれど、カフェインの過剰摂取の危険性を報じるよりも、その前の生活態度をどのように考えるかの方が建設的である。寝ることが出来ないほどに気になることがあるような生活自体が、きわめて不健全だ。その延長に、もしくはそれを助長することにカフェインを使うという思想の流れにこそ病理は隠されているはずである。
 それにしても、実際には若い男性だったということもあって、体力があって無理がきくからこそ、つらさを押し通してまで起きていようとしたのかもしれない。追い込んだのか追い込まれたのかは知らないけれど、欲望が身を滅ぼした例と戒めることとしよう。
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騒音災害が行き過ぎるとどうなるか   ツィス

2016-01-30 | 読書

ツィス/広瀬正著(集英社文庫)

 神奈川県のある市において、耳鳴りの音に悩む女性があらわれる。しかし彼女は、この地域を離れると、耳鳴りは治まるという。患者の娘として気にかけていた精神科医は、他の人にもその音が聞こえるのか確かめるが、どうも敏感な人には聞こえているらしいことを知る。そうして音響学の専門家に相談することになるのだが…。最初は一部の人にしか聞こえなかった現象が、どんどん広がりを見せていく。そのツィス音と思われる音は、地震のような自然災害と考えられ、その周辺にまで広がりを見せていき、ついに首都圏は耳栓なしでの生活が困難となってしまい、とうとう東京都民は各所へ疎開することになっていく。
 最初は精神科医とその患者の娘の恋の展開が軸になるかと思われたが、ツィス音で東京から人々が疎開する展開になってからは、聴覚の障害を持った画家と混血のモデルを通して混乱した東京を描くという展開になっていく。音の災害のために人々がどのようになっていくのか、そうして生まれる犯罪の捕り物劇、また、最後にはまったく意外な幕切れとなっていく。
 しかしながら基本的になんとなくほのぼのとしたお話が多く、混乱しながらも人々はそれなりに災害に対応していく。日本らしいと言えばそうだが、そうした日本らしさも、なんとなく考えさせられるお話となっている。
 オチとしては、なるほどそうだったのかとは思わせられたのだが、基本的には訳の分からないツィス音というものが発生して、それを調べていく内にどんどん広がりを見せていく展開に、得体のしれない集団の人間の面白さを描いていると言える。テレビで情報を得るうちに、どんどんと人々の生活は様変わりしていく。最終的に都は大疎開という判断を下すわけだが、その後の東京がどうなるのかというのは、なかなか興味深い未来像だったのではなかろうか。東京は以前から人が多すぎる街なのだが、このような災害には実は大変に弱いところなのかもしれない。これが実際に大きな被害を及ぼす地震などの災害ではなく、音が人々を苦しめるというのが、なかなかのアイディアだったと言わざるを得ない。人が死なない程度のことでありながら、暮らしていけなくなるということで、ほのぼのした印象を残す訳だが、人が居なくなった街というのは、事実上破壊されたようなものである。災害シュミレーション小説ともいえるSF作品なのではなかろうか。
 音のある世界では苦労を強いられる障害者が、耳栓で音を失った人々の中では優位に立てるというコントラストも、なんだか少し示唆的である。結局人間の自由を決めているものは、ちょっとした環境の違いに過ぎないのかもしれない。
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フランスの猫の舌

2016-01-29 | ことば

 ラング・ド・シャというクッキーがあるが、フランス語で「猫の舌」という意味だそうだ。へぇ。でも猫の舌には見えない。フランスのクッキーはなんか少し違うのかな。もっとも小さくてかわいくて猫の舌みたいに思えるものなのかもしれない。
 ところで、僕は大人になってからラング・ド・シャを知った。それは他でもなくつれあいがこれを買ったからで、いったいこれはなんだろうと思った。それでスーパーでこの商品の広告も見た。かっこいい俳優さんが宣伝してて、速水もこみちという名前だと知った。「もこみち」という衝撃的な名前がありうることが二重にショックだった。ググると名前の部分は本名らしくて、さらに驚きだ。意味もあるらしいが、根拠となっている話は怪しいらしい。イタリアだかスペイン語でモコという言葉が「まっすぐな」という意味があるらしく、道と続けて真っすぐな道という意味だという。ところがイタリアだかスペイン語でモコという言葉にはまっすぐという意味は無いのだそうだ。では一体何なのだ。
 もこみちはもういいが、考えてみるとフランス語で知っているものってあんまりないですね。ジュッテームとかボンソワールとかアルヌールってのは聞いたことがあるくらいだ。東北弁を話す人は比較的フランス語の発音が良いのだという話も聞いたことがあるけど、もっともらしくていい話である。
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罪悪感を突き抜ける   紙の月

2016-01-28 | 映画

紙の月/吉田大八監督

 原作は角田光代の小説。さらにこの原作に影響を与えただろう実際の事件は聞き覚えがあるような気もする。それくらい時々このような横領事件は起きている印象があるが、今はそれなりに対策は練られているのかもしれない。
 少し前まで主婦だったようだが銀行で契約社員として営業をしている梨花は、それなりの信頼も集めるようになっている。しかしながら夫はその働きぶりにあまり関心が無いようで、給与からちょっとだけ無理して時計をプレゼントするが、たいして喜ぶ様子すらない。そんな中営業先で見たことがある大学生の青年と不倫の恋に陥る。彼は学費を借金しているらしいことを知り、そのサラ金から借りている状況よりも、という考えからと純粋に何とかしてやりたい一心から金を貸そうと考える。そういう中で顧客から預かった金を借りるような感覚で横領してしまう。一度踏み外すとそのままズルズルとその触手を伸ばしていき、さらに自分の身分を越えた金を必要とするようになっていく。大学生の男は、最初は女から金を出してもらうことにかなり躊躇があったのだが、女の派手な金遣いと金持ちであるということを半ば信じ、そうしてどんどん調子づいて一緒にエスカレートしていく。好かれていることと自分に尽くしてくれることに快感を覚えるとともに、大人の女性に溺れるという感覚もあるのかもしれない。
 そのままいつまでも行けるわけが無いことは分かり切っており、罪悪感がありながらも軌道を逸した踏み外し方が異常すぎる。金持ちのような振る舞いとはいうが、最初から破滅的な金遣いの荒さなのだ。そのことが快感であるというのも分かるが、観ている側はただただそういう異常性が恐ろしい。そうして果たして、その横領は明るみに出てしまうことになるのだが…。
 爽快感というのとは少し違う。しかしこの破滅の道が、この女の解放とつながっていたことがよく分かるのである。途中で、単なるバカな女だとばかり思っていたから、また破滅の仕方も軌道を逸しすぎていて、何の共感も持てなくなりつつあった後だったから、この疾走感は、ちょっと意外だった。悪いと言えば悪すぎるのだけれど、そういう道徳さえも吹っ切ってしまうような、自主的な強い決意というものがいかに強いものなのか。また、そういう気分を引き出す、大島優子、小林聡美との掛け合いもなかなかである。そうして結果的には、アイドルから脱した宮沢りえのための映画だったのかもしれない。
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結局運に助けられた

2016-01-27 | 雑記

 雪で大混乱だった数日、今となって考えてみると、それでも大寒気団の到来について、大々的に事前に報道があったことはそれなりに混乱の歯止めになったようにも感じる。金曜あたりでふつうに話題に上るようになって、なんとなく心構えと備えができる余裕があった。余裕があったとはいえ、個人的にはタイヤ・チェーンを紛失していることを知ったのみで、この渦中に購入するのは逆にリスクが大きいと思われ、断念したのが後に祟ったわけだが…。
 ただ、この時点でそれなりに混乱もあった。籠る準備をする人で、コンビニやスーパーの棚が品薄になった。それでも近所のコンビニは、すばやく補充がなされていた様子だった。物流の連絡網は凄いものである。うちの職場の食糧事情も確認したが、パンなど余分に発注しようとしたけれど、それはやんわりと断られた。大量発注は難しいようだった。それでも厨房の認識としては、火曜あたりまでは十分余裕があるということだったので、大雪でも三日辛抱という計算では、何とかなるかな、とは考えていた。一応日曜と月曜の朝食時間を遅らせ、職員の出勤時間も1時間遅らせた。何人かは施設に前泊も可能とした。もっとも前の勤務の人が帰宅できない可能性もある。そのまま対応してもらえるかも考える必要がありそうだった。非常事態は、現場合わせを優先させる旨は決めておいた。
 それでも日曜の朝になって実際の大雪を見て、さらに静まり返った世界の音を聞いて、これは尋常では無いと改めて悟ることになる。職場に人間がいることは分かっていたので慌てることは無いにせよ、これは月曜の出勤は極めて困難であることが見て取れた。朝から動くのは危険なので午後から動くとして、しかし好転する見通しはあるだろうか? 最悪は今日から徒歩で移動すべきか考える必要がありそうだった。JRが動いているとは聞いたが、場合によっては途中で停まるかもしれない。車中泊のような事態も危険だ。タクシーは動いているらしい。それでも大変な競争にはなるだろう。運があれば、下界に降りられれば、拾えるかもしれない。
 そこで兄から電話があって、送ってもいいと言われる。好意に甘えることにして、改めて前泊で方向性が決まった。そうなると現場は指揮がとれるので、籠城も見通しがついた。
 それにしても日曜であるのは良かったのか悪かったのか。まちは完全に機能不全で、多くの人は籠っているに違いない。これは、多くの災害を未然に防いだとは考えられる。そうして月曜の準備、多くは休業の判断など、そのような決断の基準ににもなったと思われる。しかしながら公共交通機関の復旧は、逆にそれなりに遅れたようにも思う。いや、無理だったかもしれないが、火曜までの混乱を見るにつけ、公共交通機関の障害が大きければ、それだけ復旧も遅れるとわかった。
 この程度でもチェーン車であれば十分対応できることも分かった。さらに四駆の威力もさすがだった。車というのはよっぽどの山間部でない限り移動可能な頼もしさがあるようだ。このような日のためだけに四駆の購入をするのは効率的ではないかもしれないが、九州でも販売台数は一時的に増えるかもしれない。
 さて、現在は凍結による漏水が原因とされる断水や取水制限が長引きそうである。地域によっては混乱がまだまだ続くかもしれない。完全に備えることには逆に無理があるにせよ、いろいろと課題は浮き上がったと思う。雪に弱い地域は弱いなりに、自己努力するしかない。日曜をはさまない災害時にどうなっていたか。幸運を前に対応を考えるべきでは無かろう。
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劇団ひとり、見直しました   青天の霹靂

2016-01-26 | 映画

青天の霹靂/劇団ひとり監督

 そこそこの腕がありながら後輩のマジシャンにも人気で抜かれてしまってうだつの上がらない主人公。何年も関係の途絶えていた父親が浮浪者になっていた上死んだとの連絡を受ける。遺骨を受け取り、父が棲んでいたらしい橋の下のブルーシートで作った小屋を見に行くと、突然雷に打たれて40年前にタイムスリップしてしまう。そこで自分が生まれる前のマジシャンをしている父と、そうして家出したと教えられて子供の時から記憶にない母親と出会ってしまう。演芸場からは父とコンビを組むように仕向けられ、時代の違うテクニックを持つマジックで人気も出るのだが…。
 率直にいって、まともな映画になっている。そう思うのは、劇団ひとりという芸人が監督をしているということについての僕の見くびった偏見があったせいだろう。主人公を演ずる大泉洋の演技が良いというのもあるが、そうして、物語自体のベタベタ感のあるストーリーにもかかわらず、構成がしっかりしているので、ちゃんと鑑賞することが出来たという感じである。はっきり言って日本の普通の映画監督が撮ってしまうと、普通に駄作になってしまいそうな映画である。自分の書いた小説の映画化ということで、それなりに率直に映像化できたということなんだろうか。浅田次郎なんかの小説を映画化すると、やはり上手くいくんじゃなかろうか。
 主人公が現実社会でうだつがあがらないのは、マジックは出来ても気の利いたトークが苦手らしいというのはあるんだが、基本的に父との関係があまり良好ではなかった育ちと、母親のいなかったことによるものと自分なりに解釈しているところがある。母親にも見捨てられるような人間だったのではないかと卑下しているのだろう。さらに妙な見栄を張るところがあって、要するに素直さが無い。ところが若いころの父親というのが、まったく情けない男で、しかしこれが自分のルーツだと分かるのでさらに情けない。しかし母親らしい女性は、最初は口説こうとまでするくらい、悪くないのである。ではいったいどうして自分を捨てたのだろうか。謎はわりあい早く解けるが、そういう状況を段々と知ることで、そういううだつの上がらなさが、過去の不幸の所為ではないことが理解されていくのである。マジックが40年前の世界では段違いにウケるというのもあるが、そういう中でひねた自分が徐々に更生されていくという物語になっている。設定はずるいが、それなりに楽しめる作品ではないだろうか。
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運動と便秘の関係

2016-01-25 | 散歩

 僕自体はお腹が弱い体質なんであんまり覚えは無いけれど、便秘をする人には、食物繊維などを心がけて摂ることと、適度な運動が予防に効果があるといわれている。確かにそうだろうな、と思うのは他でもなく、ワンちゃんと散歩するときに実感する。
 それというのも、ある程度のマーキングの意識もあろうけれど、散歩しだして約10分もすると、だいたいの犬はもよおして来るようなんである。僕は子供の頃からずっと犬を飼うという家庭に育ったので、歴代では実に様々な犬たちとの付き合いがあるのだけれど、これはもう、ほとんど例外なく、散歩中にもよおすワンちゃんが圧倒的だ。
 散歩をするのが分かっていて、そのために溜めているという話もあるが、必ずしも定期便でなく、習慣的に必ず同じ時間ではない場合であっても、いやむしろ、既にウンチは済ませていたにもかかわらず、散歩しだすとさらに腸が活発に動いて、やはりもよおしてしまうというのがあるように感じる。
 その証拠に、実際にウンチを済ませたばかりで散歩に行くと、まだ不完全な状態でというか、完全に固まり切っていない柔らかな状態で、ウンチをしてしまうということにもなってしまうようなのだ。何が何でも出そうということでは無くて、自然に押し出されていくようなことが、犬の体の仕組みとして、あるのではないだろうか。
 もっとも犬というのは人間より数段鼻が利いて、ああ見えてもきれい好きというのがあるらしくて、家の中だとか犬小屋周辺にフンをするのは嫌がるという説もある。同じように鼻が利く豚であっても、豚小屋生活でなければ、自分の寝ている周辺にはフンをしないらしい。犬の仲間のタヌキなども、いわゆる決まった場所にフンをする習性がある。タヌキの溜めグソなどといわれるが、これも生活の場から離れた場所にフンをしたいという習慣であろうと考えられる。
 犬の場合トイレの習慣を人間の都合で覚えるのが下手な個体もいるようだけれど、単にもよおしたからどこでもいいと考えている訳でもないのではないか。できればコンクリートやアスファルトではなく、草むらのようなところで、マーキングも兼ねて致したいということも多少は配慮にいれながら、しかし運動して10分くらいの適当な場所に、致したいと考えておられるように感じられるのである。
 さて、運動は便秘に良いといわれているとはいえ、運動選手が便秘をしないのかというと、そうではないらしい。特に長距離を走るような陸上選手には、むしろ便秘の人が多いのだという。短い距離なら途中でトイレに駆け込むことが出来るが、長時間走るような人はそれがかなわない。要するに我慢するような習慣があってタイミングを逸してしまう。そうすると、我慢が重なって便秘がちになるのではないか、などという説もある。真偽は知らないのだけれど、まあ、致したくなったらできるだけ我慢しなくていいような生活をすることも、便秘予防にはなるのかもしれない。
 それにしてもワンちゃんというのは、ウンチをするときにも実に真剣に一所懸命に致すわけで、僕はこの犬の排便の姿にはいつも感心してしまうのである。物事はなんであるにせよ、一所懸命にやらなくてはならないなと、排便姿を観察して、いつも心に刻む毎日なのである。
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やっちまったバカさが清々しい   トーキョー・トライブ

2016-01-24 | 映画

トーキョー・トライブ/園子温監督

 近未来の東京の街の若きギャングたちの闘争を、ラップによるミュージカルで描いた作品。ただただバカっぽい変な映画で、よくまあ劇場公開されたもんだとあきれるようなところもある。僕んちはDVDだから居間で観ていたわけだが、つれあいは眠くも無いのに呆れて寝室に引っ込んでしまった。気の毒である。しかしまあ僕はこのバカさ加減にそれなりに感心し、少なからぬ感動を覚え観ることが出来た。観る方が馬鹿なら鑑賞に堪えうるということだ。当たり前だけど。
 恐らく誰かが指摘していることとは思うが、この映画には原作があるにせよ(漫画らしいが僕はまったく知らないし、当然未読である)、ミュージカルの古典的名作ウエストサイド物語をパロディにしているか、今風にいうとリスペクトしているということになるんだろうか。でもまあそのまま作っちゃったんでは面白くないのでラップにしちゃったんだろうし、本当にワルというものを描こうということと、さらにワル乗りがあってエロも満載アクションにしたということなんだろうと思う。多くの人が引くくらいの極端なものを作ろうという意気込みが感じられて、そうしてやっぱり苦労したんじゃなかろうかということも含めて、よくまあここまでやったもんだ、という感慨深いつくりになっていると思う。最初はちょっとなんじゃこりゃという感じも少しあったけれど、出ている役者さんたちもなんとなく気の毒な感じもしたのだけれど、苦労しながらもそれなりに楽しんでいるような感じもだんだんと伝わってきて、バカさ加減にもいい具合につかるようになって、感心しながら面白く観ることが出来た。これだけ荒唐無稽だから、そうであるからこそラップというのがじわじわ効いてきて、アメリカ人を馬鹿にしてるんだか尊敬してるんだか分からなくなって楽しい。未来の東京の若者はみんな馬鹿で、それはそれで大変にハッピーなんだろう。それはひょっとすると既に今もそういう面があるのかもしれず、そういう欲求が素直に出てしまうと本当に馬鹿にしか見えないという当然のことがここに描かれることになってしまった。海外の人が観て、日本人っていうのは勤勉で真面目だと思っていたところが、実はちゃんとバカがいるらしいとわかって、貿易摩擦も減るのではないだろうか。まあ、それ以前に海外でちゃんと配給されることがあるのかないのか。テレビではNGだろうし、扱いの難しい作品になってしまっているかもしれない。どうせ観るのはオタクだろうから、それでもいいのかもしれないんだけれど…。
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パパとママは、パパとママとお互いに呼ぶらしい

2016-01-23 | culture

 日本に住む外国人の日本人への疑問ということの中に、どうして日本人は親同士がパパ、ママと呼び合うの? というのがあった。似たようなのに子供のお母さんが、例えばタケシ君でのお母さんなら、「タケシくんのママ」と呼んで実際の名前を知らないまま付き合いが続いたりするのも、大変に不思議な感じがするそうだ。
 基本的にこれは、子供が中心のコミュニティならそれで不自由しないから、という日本人の使い分け問題にすぎないが、彼らが疑問に思うのはそれの無理解ということだけでなく、恐らく個人のアイディンティティの喪失に対する不安があるのではないか。パパやママには、パパやママ以前に名前があり子供だけが立場上パパやママと呼ぶべきだという、建前の上の疑問にすぎないだろう。実際の話とすれば、息子がダディと呼ぶこともあるが、ボブと呼ばれることもあるのが、米国人などの実情だろう。まあ、仕方ないさということでもあり、しかし日本だと、それでは子供が困るのではないかという心配が、さらにあってのことだということになるんじゃなかろうか。
 しかしながらそれには、彼らなりの偏見もあって、というか実感があるのだろうけど、実際に日本人の個人の喪失については、かなりの疑問を日ごろから持っているように感じる。日本人に個人が無いということは無いが、それは諸外国のものとはずいぶん違うとは思う。日本人は生きてはいない、というのは日本人の僕でも日ごろから感じているが、それはそれとして、個人主義の成り立ちの仕方、というか表し方の違いが誤解を生んでいるということなんだろう。日本人には個人があるが、いつも無くてもいいということでもあって、さらには自分の主張で何かを言ってどうにかなるより、自分たちの好ましい方向に、空気の力で動かしたい欲求の方が強いのだ。子供がパパ、ママ、と言わない方が、何かと面倒だし、実際に言わせるために便宜上そうしていると、習慣化して気にならない関係になってしまう。今更「マリコ」「オサム」などと名前で呼ぶのはめんどくさいのだ。まあ、いくらかシャイだとはいえることだろうけど…。
 とはいえ、僕は面と向かって子供たちからお父さんといわれたことはたぶん無い。彼らは他の人に対しては僕のことをお父さんと呼ぶらしいが、僕にはなんとなく言いそびれて習慣化したらしい。実はちょっとさびしい気分は以前にはあったのだが、まあ、日ごろから生きている個人主義の僕としたら、そのほうが当然であったというだけの話である。それになんというか、日ごろは気にしてないから、実際に不自由に感じられることは、やはり一度も無い。でもまあそういう日本人がいるとしても、日本人に疑問を持つ外国人に、そういう事実が伝わることも無いだろう。それがまあ、共存の日本人という共同体なんであろう。いや、僕はほんとにその中に入っているのかは、ちょっと怪しいのだけれども。
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もう一つの人生があったなら  エロス

2016-01-22 | 読書

エロス/広瀬正著(集英社文庫)

 副題は「もう一つの過去」。橘百合子という歌手が歌手になったのは、本当にあるきっかけが幸運を呼びデビューできたからだった。そのデビュー前の昭和8年にさかのぼって、もしその偶然が無かったらどのようになっていたのだろうか。そのような疑問から第二のパラレルな世界が同時に語られることになる。実は橘百合子は昭和8年当時、ある青年に惹かれていた。歌手になる偶然が無ければ、その青年と結ばれていたはずなのだ。歌手として大成している現在と対比して、結ばれていたもう一つの世界に生きてみると、どのようなことになっていたのだろうか。
 現在の歌手としての生活と、過去のもう一つの人生が交互に語られていくわけだが、恐らく過去の戦前の風俗を克明に取り入れて物語が構築されていて、それらの風物に人間が影響を受けて、ちょっとした時代検証のようなお話になっている。そういうところも面白さの一つだが、もう一つの人生において、恐らく歌手橘百合子が成功を収めながら結婚しなかった理由である恋愛世界が描かれていく。ほのぼのした戦前風景でありながら、身分違いの恋愛の顛末そのものが、大変に面白く描かれている。しかしながら身分違いの恋愛小説ならば、他にもたくさん描かれた題材であろう。そこにSF的な要素が絡んで、結果的に結末はそれなりに驚くべきことになっている。こんな話がどんでん返しのようなものだとは夢にも考えないで読んでいたので、思わずその個所を読み返してしまったほどだ。まあ、そんなに気にせずに読んでも十分に楽しいが、二度おいしい作品を読んだようなものだった。
 著者の広瀬正は、このようなSF作品で人気を博しながら結局直木賞を逃し、比較的若くして亡くなった(47歳)。文才以外にも多趣味な人であったようで、ジャズ・サックス奏者であったり、クラシック・カー制作なども手掛けていたという。死後も根強いファンがいるようで、現在も再版されて作品を読むことが可能となっている。僕自身も何かのついでで一冊もっていたようだが、今回読んだのが初めてである。タイミングもあるが、もっと早くに読んでも良かった作者だった。子供の頃にはSF作品はそれなりに好きだったはずだが、やはり既にその頃には古くなりかけていたのかもしれない。実際には古びた文体ではなく読みやすいので、子供の頃に読んでいたら熱中していたかもしれない。しかしながらそれも運のようなもので、この作品から手に取ったというのも、巡り会わせのような時のいたずらがあったのだろう。賞を取らなくても生き残る作品を書いたというだけでも、偉大な小説家なのではないだろうか。
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的を外しすぎてて…届かない

2016-01-21 | net & 社会

 ラジオ聴いてて雑感。
 経済のことは分からないけど、という前置きがあって、安倍さん批判であるらしい。経済成長を優先させるのがなぜ間違いなのか。それは経済を優先させて弱者を守る金を作り出すようなまやかしだから、であるかららしい。もともとの話として、経済的にどんなに困窮しようとも、守るべきは守るということが大切なのであって、先に経済があってはおかしいのではないか、と結んでいた。
 僕はしばらく本当に口があんぐりしてしまったかもしれない。
 そもそも論以前に破綻しているのに気付いていないのか。弱者保護の原資を巡る議論の前にそれがあるということの方が、まやかしではないのか。無い袖は振れないということわざがあるが、政治(国政)は基本的に税金の分配をしているようなものだ。分配できなければ国の政治は終わるだろう。例えばそういう国は、軍が政権を握っていたりする。民主的でなくとも、江戸時代でも基本的にはそういうことでは無かったか。守るべき人を守る為に人は何をすべきか。多くの人が働いている理由も、たぶんそんなところだろう。政治ですらなくとも、自明だからそうしている。それがおかしいと言っているに等しいことに、なぜ迷いを持たないのだろうか。
 もっとも安倍さんは、経済優先にさえ失敗はしている。さらに政策は左すぎる。さらに大きな政府過ぎて反自由主義者にも見える。それがまあ、普通にリベラルな人間が持つ感覚ではないかと思う。というのが比較的控えめな常識的一般人の感覚だろう。右の人がどう思っているかは知らないが、どうも極端な側からの眺めは傾斜しすぎてよく分からない。
 政権批判をするなら、まず現状を正確に見ることの方が大切である。レッテルで、思い込みで批判すると、何もかもが的外れだ。そうしてその的の外し方を批判すると政権を守っていると批判する。いつまでも安倍さんに行きつかない。政治家に声が届かないのは、自分と関係が無い批判だとしか思えないからではないか。もっとも届いている声の人は、そもそも平均ではないのだろうけれど…。
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他人の追悼などどうでもいい

2016-01-20 | 時事

 デビット・ボウイの死については、僕は小学生の高学年くらいからのファンなのでフツーに痛ましく感慨深い訳だが、例えそうであっても、巷間の反応については、なんとなく冷ややかな自分がいる。そういうところはひねているということは言えるのだけれど、当時のロック好きという若者らしい気分としては、今の人の嘆きというのは無いんじゃないか、という感じかもしれない。だが、死後新作が発表されたばかりということで、死ぬ直前まで、自らの死と向き合いながら創作活動をしていたということも伝えられ、最近は昔の名前で出ています的な再結成バンドの多い中、現役感のまま逝ってしまったミュージシャンとしては、まったく凄まじい信念に敬意を抱くものである。
 という複雑な気分のある中なんだが、日本はともかく、特に英国の政治家なども含んで、追悼のコメントが多数出された。それ自体は至極当然という感じもするし、日本とはロック・ミュージックの立ち位置が違うので、ひょっとすると、例えば美空ひばりが亡くなった、というようなニュアンスとも似ているものがあるのかな、とは想像される。
 僕がなんとなく嫌なのは、それに対する再反応ということを含んでいる。それというのも、いわゆる同僚のミュージシャンを問わず、こんなにもデビット・ボウイは社会的に追悼されているのだとし、それを誇らしげに日本に伝える向きのあるメディアに対してかもしれない。ロックというのは反骨精神があってナンボ、というところがあって、政治家が若いころにロック少年だったとしても、現在の立ち位置で見る場合、ああそうですか、と冷ややかに感じているくらいでちょうどいいと思う。それでロック・ミュージシャンが偉大になったりはしない。そういう態度は逆に、彼に対して情けないような気分という気がするのだろう。
 また、デビット・ボウイという人は、極端にいろいろな顔を持つということもあって、普通にさまざまな反応があって当然という気もしている。アニメオタク的な面もあっただろうし、俳優の顔や、中性的なセクシャルな立ち位置もあった。音楽もマイナーで前衛的な時代もあったし、ダンスミュージックで一世も風靡した。その後も変化し、絶対的な彼の姿というのは、きわめて限定するのは難しいような気もする。イベントの式典などに参加するときも奇抜な姿で、この人はいったいいくつになったら落ち着くんだろうと、僕なんかは愉快に見ていた。そういう変なところも含めてロック的な人生を歩んだ人なんではないか。
 特に早世した訳ではないが、チラリと聞いた新作の出来栄えも含めて(ドラム展開がかっこよかったな)、惜しまれる死であった。
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干されるのは確かに怖いが

2016-01-19 | 時事

 さて、スマップについては門外漢で、単なる雑音であるのは分かっているが、今回の騒動は僕にでも漏れ伝わってきた。何しろ普通に新聞に報じられたりしたし。当初の率直な感想としては、むしろいい話なのかな、とさえ感じていた。それというのも、いわゆるジャニーズ事務所の大きな流れとしては、既に嵐がその座に入れ替わっている印象がある。スマップのメンバーもそれぞれの自立度も高いことだし、一定の役割を終え事務所から独立する人がいる方が自然ということになるんだろうか。もちろん熱心なファンの人からすると残念という声があって当然であるけれど、そう言う声がまだまだ熱いうちの方が、花道としてはいいということかもしれない。惜しまれるタイミングこそが解散などの王道だろう。
 ところが報道とは裏腹に、本人たちの談話が聞かれない。なんだかおかしいぞ、という感じだったかもしれない。
 結局独立の話は無くて、マネージャーがクビになって、誰も出ていかなかった。これが日本の芸能界の悪しき伝統のようにも報じられている。結局事務所の圧力で仕事が干される、という未来しか描けず、タレントはそれに屈してしまったということだろうか。ネット関係ではそういう見方が強く、かなり残念な日本の会社員の縮図のような悲しい流れを見ているような気分になっていた。しかしそれとは裏腹に表の報道は、これでよかったかのような街頭の声ばかり。まったくテレビの世界は恐ろしいですね。
 でもまあ、本当に事務所が怖くて、独立後にテレビ局がタレントを使わなくなるなんてことがあるんだろうか。僕にはとても知りえないが、それってタレントの人気とまったく関係が無い話のようにも聞こえる。出なければすぐに忘れられるということはそうかもしれないが、これくらいの人たちが売り込んでも(ギャラ次第かもしれないけど)簡単に干すような局が本当にあるんだろうか。地方営業でも十分需要もあるだろうし、まったくよく分からない問題である。むしろジャニーズから抜けると言えば、手を挙げて支援する事務所がごまんとありそうな感じさえするんだけれど、無いんでしょうかね。それこそ仁義とかヤクザ的な世界だというのだろうか。そうかもしれないけど。
 ということで、スマップ自体にはなんだかお気の毒だったし、日本の社会としても、あんまり良い感じではない。この閉塞感が若者に伝播し、ますます内向きにならないようにしたいものである。大人がダメだから日本がダメだという縮図のお話では、まったく将来が暗い。たとえ芸能の世界がダメでも、僕らは頑張るより無いではないか。まあ独立したそれぞれが、足を引っ張り合って共倒れも悲惨なんだけれど…。
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結局女性が戦っている理由

2016-01-19 | culture

 現在イラクとシリアの地域は、モザイク国家といわれている。事実上国境で囲まれた国家としては成立しておらず、さまざまな集落ごとに民族ごとの集団が暮らしている。もちろん今話題になっているISというのは、そのような地域で主に展開している。現地の人間が中心であろうが、兵力は外国人などで補給しながら活動しているらしい。この地域は湾岸戦争などの混乱で武力的に政権が交代したりしており、複雑である。イスラムの国では宗教と政治が分離してないので、政権と関係が薄くなると、そのまま貧困に陥るということの原因ともなる。貧しい大衆が武力闘争を仕掛ける根本には、そうした貧困問題が根っこあるらしい。しかしISなどの武闘集団は人身売買や石油の利権などで多額の資金を要しており、貧しい人間が高額の給与を手にできる手っ取り早い方法となっているのだろう。
 さてこの地域には、もともと国家を持たないクルド人という民族がいる。クルド人は3000万人いるとされ、国家を持たない最大の民族といわれている。クルド人はこの周辺地域の国の中にも住んでおり、例えばトルコなどでは比較的待遇が悪いようだ。そうした民族の集団の結束は強く、逆にISなどと対抗して戦う集団を作っている。ISはそのような民族集団から主に女性などを誘拐し、人身売買を行っている。そういうことで具体的に敵として武力で対抗しているのである。さらにこの集団の兵士には多くの女性が参戦している。自らを守るという使命はもちろんあろうが、これがISに対してはたいそう効果があると考えられている。何しろISが信奉する極端なイスラム教解釈では、女性に殺されると天国に行けない。ジハードで殉職した人間は、天国に行き72人の処女を手にするほか多くの願いが叶うとされているが、女性の銃に倒れた人間は、すべてこれがパーになる。兵士の中に女性がいることが分かると、ISは一目散に逃げていく。流れ弾にでも当たって死んでしまうと取り返しがつかないと信じているのだ。
 まったく信じがたい滑稽さだが、そのようなことを信じているからこそ虐殺もできるということなのかもしれない。他民族や異教徒などを虐殺する際には躊躇はしないし、むしろ苦痛が増すように牛刀やナイフなどはあえて切れにくいものを使用して首を切るという。もちろんそのような残酷さというのは、相手が恐怖におののくための戦法だろうし、味方の裏切りを防止する役割も果たしているのかもしれない。ヤクザ社会では、裏切り者は出来るだけ残酷に虐殺するようだ。恐怖の支配というのは、まずは身内を恐れさせることが重要なのだろう。
 しかしながらこれらの恐怖の伝播は、テロの王道的手法である。実際にこの恐怖感から、ISはもちろんのこと、イスラム教を嫌悪する国や人々は着実に増えているだろう。その終わりのない報復の連鎖が彼らの活動元なのだが、まさに不可能な根こそぎ虐殺しか道が無いという解釈に行きつつあるように感じられる。もっとも既に空爆の被害者が出ている以上、その連鎖を断ち切る術は無いのかもしれない。お互いに相手ほどひどい者は無いという平行線の彼方があるだけなのだろう。
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女性性ってサスペンスだ   鍵のない夢を見る

2016-01-18 | 読書

鍵のない夢を見る/辻村深月著(文春文庫)

 5つの話からなる短編集。連作ではないが、犯罪を題材に巻き込まれたり関わったりする女性(または女の子)の心理を描写した内容が多い。
 まずちょっと驚いたのは、女の人がこんなことを考えているということを、あんまり考えたことが無かったからかもしれない。男の僕からするとかなり異質で、そうしてちょっと理解しづらい考えの展開の仕方をする。しかしだからといって本当に理解できない訳では無くて、ええっと驚きながらも、なんとなくなるほどとは理解できるのである。そういう感じで物事を考えるのはいくらなんでもやばいんじゃないか、という風に感じながらも、そのやばい感じの展開に話はちゃんと進んで行ってしまう。そういう部分がサスペンスになっていて成功しているという感じだ。後味は悪いのだが、お話が終わってホッとする。その前の感情の不安定さに耐えるより、いっそのこと破滅してしまった方が楽というか、とにかく行き着く方向が定まって安心するような読後感を味わった。ものすごいどんでん返しのようなカタルシスではないのだけれど、それなりに意外なものもあるし、逆にやっぱりそうなってしまうよな、というものであっても、危ういままではとても精神が持たない。そうではあるが次も読んでしまう。それがこの著者の力量ということなんだろう。
 たとえば二話目の放火の話では、合コンで知り合った好みでない男から誘われるのだが、保険の仕事をしている背景があって、むげに誘いを断れない。しかしその気が無いことを気付いてもらえるようにいろいろ画策しその間に様々な心の葛藤がある。それでも相手は自分の都合の良い方に捉えるのか、事態は一向に好転しない。それどころかこの男は、保険の仕事が絡むために現場で会うためだけに、消防団の立場でありながら放火をするのである。それだけなら単に異常なストーカーの話だが、そういう異常な行為を受けながら、他人にその事実を知られたくない感情と、見栄でちゃんと知られたいと思う葛藤が描かれるのである。それって一体何なのかよく分からないところはあるが、そういう風に考えてしまう受け身の女性の心理というのが、異常であるストーカー以上に狂っている感じが凄まじいのである。もちろん実際の被害者の心理がこういう感じがどうかは知らない。単に僕がこのような女心というようなものに無知なだけだったのかもしれない。そうして、こういう読み物があったんだな、と改めて感じ入ってしまったのだった。驚きました。
 僕は賞を取ったからという理由で小説を手に取ったりはしないのだけれど、こういう感じの作品が直木賞をとるのだなということを初めて知った。巻末の同郷の先輩作家である林真理子との対談も面白い。田舎の社会が既にミステリという感じもして、楽しいのかもしれない。田舎(もしくは都市部以外)の人が作家になるって、それだけでいい話ですね。
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