カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

お前はすでに死んでいる、かも

2023-04-30 | net & 社会

 選挙の話になると、本当にたいがい誤解ばかり、という感じ。悲しいことに政治的にそれなりに理解ありそうな感じなのに無知、という人が本当に多い。大人ってこんなに馬鹿なんだなって改めて思います。僕の若いころと何ら変わりはないのだけど、いつの間にか僕と同じ世代の人々が、昔の馬鹿な大人になっただけというか……。当事者なのに、いまだに社会が悪いと思い込んでいるんでしょうかね。それはあなたのせいなのに。
 でもまあ、考えてみると、馬鹿がいるから今の社会もあるのかな、とも思う訳で。こういう人たちは学歴は高い人も含まれているんだろうけど、そういう保険のかかった社会では上手くいくこともあるのかもしれないけど、結局融和的なことに欠けている、ということかもしれない。話せばわかるという民主的な取り組みは、相手の意見も聞くという事であって、自分の考えの押し付けではない。だから民主的な最終決定の多数決が成り立つわけで、今の政治はそれのための手続きに時間がかかりすぎている。圧倒的な数の優位性がありながら、なかなか早くに決められなかったり、誰かが即決して物事を進めることは、ほとんどなくなっている。結局それでいわゆる専門的に正しいという解答がありながら、政治的にゆがんだ世界になっているだけのことである。大衆に理解がないのだから、政治的に歪んでいる訳である。
 そういうことは分かっているのだが、人間的にそれを許容しているのが、今の政治だ。だからそもそも何かは間違っている。しかしそれが民意なのだ。そうして戦争はなくならないし、対立は顕在化している。人間というのは、それだけ愚かさを含んでいるから人間らしいのだろう。根本的には人間は愚かなので、政治があるのである。
 いい加減理解したほうがいいが、理解できないから大衆であり、ゆがんだ個人である。悪いのは政治家ではなく、自分自身だ。ガス抜きのために他人があるのではない。自分に向き合うことなく政治は無いのであって、不満に思う世の中は、自分の中にあるのである。行動すべきはそういう意味での民主性なのである。馬鹿でいられるのは本人の自由かもしれないが、ちゃんと目覚めないと、いつまでも民主的な人間になれないまま死んでしまいますよ。

※ 後で読み返すと、何に怒っていたんだろう。僕が戦うべきものは、そんなものでは無いのだけれど……。しかし毒というのは、時には吐く必要もあるのかな、とも考えたので、そのままにしておきます。どうもすいません。
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恐ろしいところにはまだ行けない

2023-04-29 | 

 田舎暮らしなので外食して恐ろしいことはめったに起きないが、それでも寿司屋というところはやっぱり恐ろし気なところが無い訳ではない。そんなに大きな面構えでないところに限って、それなりに立派ということがある。だからと言って銀座のように10万を超えるということは無いのだろうけど、1万ということはあり得る。それでも安い、という人もいるけど、通うところではないだろう。
 寿司屋が高いというのは、確かにそういうところだからという理由は分からないではない場合もある。本当にそういう高い素材を惜しげもなく使い、腕もあるならそうなってしまうしかないのかもしれない。また値段の高さは人を選んでいる場合もある。客が選ばれているからいい店を担保できるともいえる。選ばれた客だからこそ味も分かる訳で、そこはある程度の勝負もかねて、値段設定は考えられているに違いない。もちろんそれで成り立つような評判を保ち続ける必要もあろうから、田舎であるほど、生き残りは大変かもしれない。
 たまにはそういうところに行きたいと思わないではない。ちょっとした贅沢を味わうという意味でも、やはり行ってはみたい。あそこは良かったよ、という話を聞くと、そういうものかな、とも思う。しかしやはりそんなに近所でない場合が多く、そこまでして、と躊躇する。予約というのも面倒である。先の予定は他にもあるし、それが増えるのは嫌なのである。
 たまの贅沢だから、今風に言うと何か自分へのご褒美のようなものにもしたい。しかし自分だけのご褒美を自分で設けるのは気が引ける。今では無い将来のことだが、確かにそういうものを自分で決める場合であるとか、立場にない気がする。
 寿司は好きなのだが、酒を飲んでいる場合は、ずっとつまんでいるというのも嫌なのかもしれない。ああいうのは江戸前だと、パパッとつまんで帰るというのが粋というのだろう。そうするとせっかくの機会なのにせわしない。貧乏性なのでそういうカッコつけはどうもいけない。しかし無粋なのは恥ずかしい気もする。
 料理屋としての寿司屋には行く。それは自分一人ではない。そうすると何かくれという。もしくはつれの人が何かを頼む。料理屋というのは受け身の方が良くて、なんでもいいから客の顔を見て作ってくれるような店がいいと思う。そうすると通う必要があって、しかし通い方によっても、当たりはずれができてしまう。まあ、そういうものではあるのだが、結局は自分のその時の都合が相手に簡単に分かるはずは無かろう。要するに自分の側に許容が必要だ。それには修行も必要で、早い話がまだ僕には早すぎるのであろう。
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人間の方が怖い?

2023-04-28 | HORROR

 僕の母の口癖のようなものに、「幽霊やお化けのようなものは怖くない。生きている人間の方が怖い(大意)」というようなものがある。彼女にとっては、亡くなってしまったが、会いたい思いが強くお墓に行ってその人が出てくるのを待っていたことがある、という過去の美談の前置きとして語られるいいまわしなのだが、そんなことを実際にしたのかはともかく、しかし、確かに幽霊そのものより生きている人間の方が怖いというのは、それはそれでそうかもしれない、とは思う訳だ。
 僕はホラー映画は苦手で、それは他ならぬ怖がりだからで、わざわざ怖いのに見たくない。しかし時にはサスペンスとか興味本位で観てしまう場合もある訳で、そういう意味では娯楽であることは分かる。怖いけど、スリルは面白い経験である。
 問題は人間の怖さである。確かに僕らはまだ生きていて、実際に暗がりが怖いようなものとは別に、生身の人間として付き合っている人々がいて、そうして時には、その中の人が怖かったりするのである。それは時々目にすることなのだが、いわゆる恨みであるとか、妬みのようなものを垣間見るときに多い気がする。そういう感情は、残念ながら誰にでもあることだろうと思うのだが、普段は隠している。だから日頃の生活で頻繁に目にすることは無いのだが、時にこぼれ出るように目にすることがあるわけだ。そういうことがあると、嫌な感じとともに、ジワリと人間の持っている恐ろしさを思うのである。
 誰にでもある感情だと書いたが、実際のところ自分のことを鑑みても、あいつはいいよなあ、とかあいつは気に食わないな、というのは、ほとんど一時的な感情のようにも思う。それこそ若い頃には、気に食わない奴としばらく付き合わなければならないような状態というのはあったかもしれないが、すでに過去のことである。大人になると、いつまでも気に食わないというのは、ほとんどなくなる。というか、付き合わなければいいだけなので、あくまで表面的にやり過ごせばいいだけのことだ。相手だってそんなもんだろう。
 しかしながら、ライバル関係のようなものがあるようで、時にいつまでも続いてやっている人がある。傍目に面白がる人もいるようだが、そういうのはやめた方がいい。彼らは本気であって、火に油を注ぐようなことにもなりかねない。できれば近づかないことである。
 実はそういう関係なのかもしれないが、長年にわたってある人から嫌われている人を知っているのだが、近年少し体調がすぐれない様子なのである。周りの人もそのことを気遣っていて、それでも何とか気丈にしておられる。ところが実際はいろいろと都合の悪いところがあって、ふらふらしたり、ちょっとした失敗をしたりすることが増えている。それで、もうあんまり無理をしないようにという話になるのだが、ふと振り返ると、恨んでいるらしい人がその様子を見て、微笑んでいるのである。僕がみるとさっと無表情になるのだが、その前は明らかに笑っていた。うーん、と思うが、やはりそういうことなのだろうな。人間にはそういう楽しみがあるということなのだろうか。
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梅干しの種を割る

2023-04-27 | 

 本当に好きなのかどうかもよく分からないで食べているのは、梅干しである。子供がまだ小さいときには、僕が食べているだけで嫌がったので、しばらくの時期は食べていなかった。近年どういう訳か朝の食卓に梅干しが出されるようになって、ほぼ毎日食べている。納豆を食べてごはんに何かおかずがあって、それは焼き魚だったり目玉焼きに温野菜だったり昨日の残り物だったりもするが、そういうものと黄色いたくあんと塩昆布のようなものだったり高菜漬けだったりする。つくづく朝のごはんがおいしいものである。子供のころには知らなかったことだが、白いご飯は本当に甘みがあって素晴らしいものである。それに温かい豆乳とかみそ汁のようなものをときどき吸いこむ。もうご飯が無くなるな、という頃合いを見計らって一つつまむのが梅干しなのである。実はもうご飯を食べてしまった後の時もあるのだが、要するに最後に一つ食べる。食べる前に酸っぱさに身構えて、そうして実際酸っぱいのでその酸味に身もだえするようになりながら咀嚼して、タネをしばらく口の中で転がして遊んでいる。
 梅干しには種類があるのか、これがなかなか割れない。割れる時にはなんなく割れる日もあるのだが、しばらくがりがり葛藤してかみ砕く。そういえばこれを子供のころにやっていると、母から歯が悪くなるからやめなさい、とたしなめられたものである。今は母は僕より遅く起きてきて食事するので、そういうことは言われない。考えてみると父が梅干しの種を割って食べていたように思う。そうすると、僕も真似をして食べるようになったのだろうか。
 昼の弁当についているような小さいのではなく、大きな梅干しの芯の大きな種でなければならない。梅自体は、あんまり酸っぱくないものとかいろいろあるのだが、基本的には酸っぱいものの芯の方が望ましい。この芯の種のことを仁ということも何かで知ったが、しかし特にそういう習わしに倣うことなく、タネは種である。正確には種を割った中身の種であるが……。
 これも実際のところうまくて食べているのかよく分からないのだが、きれいに割れて食べることができると満足感がある。少しだけ酸っぱさが残った種の実は、ほんのり苦みのようなものが残っている。これを健康のために食べているわけでは無いし、歯が痛むリスクを抱えながら食べているわけで、ちょっと馬鹿っぽいところがあるような気もするが、やはり気になるので食べなければならない。せっかく酸っぱさに耐えながらたどり着いた芯である。一種のご褒美のようなものなのではなかろうか。

追伸:その後やはり歯が悪くなるような不安に駆られ、くるみ割りのプライヤーに似た形をした道具を買いました。殻が飛び散る場合があって、必ずしも使い勝手がよくない気もするけど、とりあえず歯で割ることはしなくなったのであります。
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僕らが生きて立ち会っているものごと

2023-04-26 | ことば

 考えてみると、言葉に興味を持ったのは、やはり父の影響もあったな、と思う。父は昭和一桁の人間で、最後の旧制中学の出なので、ふつうに漢字はよく知っていて、読めない漢字は無いのではないか、と子供ながらに頼りにしていた。父が読んで教えてくれた漢字を後で辞書を引くと、ちゃんとそう書いてある。これはとても楽しい体験だった。「あれなんて読むの?」と聞いて、読めなかったことは一度も無かったのではなかろうか。
 そうではあったのだが、ある日テレビの宣伝を見ていて、父が「センジョウザイで決まったのかもしれないな」とつぶやいた。何のことかというと、商品の洗浄剤のことである。これは本来「センデキザイ」と読むのが正しいのだが、「洗滌」と書かれていたものがデキと読めずに慣用的に、センジョウ(ややこしいことにジョウとも読めるが、この場合にはデキとしか読めないにもかかわらず、ということになる)と読んでしまう人がそれなりに居たものらしい。その上で当用漢字だか常用漢字から滌の字がもれてしまい、どういう訳か音も違うが読み間違う慣用読みと同じで意味合いが似ているという理由だか何だか知らない「浄」の字があてがわれてしまった。そうすると読み間違いのセンジョウの方ががぜん強くなってしまい、自社商品であるにもかかわらず間違い読みであるセンジョウザイと自ら宣伝してしまっている始末である。これではもうどうにもならなくて、正しさは押しやられてしまったのである。
 僕は何も、もともとあった正しさに戻せとか、原理主義的に元のものこそが唯一の正しさだと言いたいわけではない。そのような物事そのものが、何か言葉の面白さとして感じられたということなのである。こういうことは、あとで調べ直したりして正確にわかったことで、単に父が疑問に思ったという時代に立ち会えたことが、僕の子供のころに重なった訳である。そういえばそういう疑問に思うようなことは、日本語を使う僕ら自身にもたくさんある。あの人は何と言っていたとか、自分はこう言い間違えたとか、それこそ言葉にまつわることは、日常でごまんと発生する。別段それらは頭が悪かったからそうなったとかいう恥ずかし気な話ではなく、日本語というのは、そういうものなのである。
 もちろん、最初のころは、正しいものを知りたいとか、間違わないようにしたい、という気持ちもあったとは思う。でも、そのような使われ方であるとか意味合いなどの変化というのは、僕らが生きていることと同時性がある。僕らの使っている言葉は、ひょっとすると数世代先の人は、何か翻訳のようなものを使わないと理解できなくなっているのかもしれない。
 そういうのって、ちょっといとおしいことだとは思いませんか。
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小掃除を行う

2023-04-25 | 掲示板

 僕は例えば年末なんかになっても、基本的には自分の周りの大掃除はしない。自分と関係ないところは大掃除のふりをして掃除するが、自分の部屋であるとか仕事関係の書類というようなやつは、そういう時にはあまりいじらないようにしている。理由は実にシンプルで、そういうイベント性のある時に何かやると、たいてい失敗するからだ。せっかくだから盛大に捨ててしまおうとか、もっと細分化して整理し直そうだとか、僕のことだから考えるに違いないのである。そうすると本当に盛大に捨ててしまってきれいさっぱりになって、後で慌てて何かを探す毎日になってしまったり、細分化して整理することに苦心すぎて何も捨てられなくなり、ごみの山がさらに増えてしまう上に片づけも当然終わらない、などということになってしまう。どちらもうんざりすることこの上ない。
 しかしだからと言って、まったく掃除や整理をしないわけではない。定期的に書類は処分しなければ置くところが無くなるし、一定期間保存が望ましいものであっても、そういう期間を過ぎたら処分が適当だと感じられるものが増えて困る。うちは役場でもないし、今の仕事の範囲で不便なければ、たいていのものは処分可能かもしれない。その代表が撲自身だったら最悪だが、まあ、それは置いておいて、処分に励むわけだ。
 書類と言ってもほとんどが案内を含めた関係書類や会議のものであり、パンフや資料や冊子のようなものが大量に積み上がっている。日程調整などはほぼメールでのやり取りになっているのに、やはり会議の折には書面をダウンロードするし、リアルだと資料ももらう。無造作に時系列で並べているけれど、これが段ボールにいくつもということになるし、ファイルしているものがあふれても来る。こういうのはうっかり中身を見てしまうと思い出がよみがえったりもするので、とりあえず長期間手を付けなかったという様子を見て、バサッと捨ててしまう。もちろん封筒の中には日当のようなお金が入っている場合も過去にはあったので、封筒のざっくりした内容物くらいは確認する。どんどんごみ袋に放り込んで、いくつが袋の山ができたら処理場へもっていってもらうゴミ置き場に捨てに行く。そうしてすっきりしたはずの部屋に戻ってくると、実はまだそんなにすっきりしていない。結構捨てたけどな、と思うけれど、そもそものカオスの世界がそう簡単に整理される訳が無いのである。本はあふれているし、現在の仕事関係のものも増殖している。今作業しているものもあるし、だいたい整理してなかったのだから適当に山になっているあたりを少しいじったくらいでは、山の高さが数十センチ下がったくらいのものなのかもしれない。せっかくスペースができたから山になってた本を移し替えたり、新しく書類を置けるように段ボールを置いたりしたではないか。動けるスペースがそんなに無くても、手が届きさえすればいいと、さっきまで思っていたじゃないか。結局はそういうことで、根本的な型付けというのは、僕の死後誰かにやってもらうより無いのであろう。
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どちらも記録に残る言葉

2023-04-24 | ことば

 伊集院光と大江健三郎(もちろん生前である)が対談しているラジオをぼんやり聞いた。伊集院はいわば喋りのプロで展開のさせ方が上手く、しかも思ったより文学に通じていて感心したのだが、しかし問題はそうではなく、話というのは話ながら修正することができるが、文章は残るので慎重にならざるを得ずむつかしい、という立ち場であった。ところが大江の方はまったく逆で、話は事前に決まったことを話すとは限らないので不安だが、文章は何度も書き直すことができるので、そんな不安が無いという趣旨だった。いずれも自分の得意分野の方が言葉を扱いやすいということでもあるのだが、捉え方というか、感覚として同じことが逆になっている。では実際のところ多くの人はどう思っているのだろうか。
 大江は職業作家だから毎日続けて大量に文章を綴ってきた。さらに流行作家でもあり、学生時代からこれで食えたのだから稀有な存在だが、しかしおそらく〆切もあろうし、無限に書き直すことができたのだろうか。いや、ある程度納得のいくように推敲し、書き直していることは間違いなかろう事だが、どこかその文章において納得いくまでは書き直している、ということなのだろう。それでああいう難解な妙な文体になってしまうのだから変だけれど、いわゆる分かりやすく書くために書き直しているわけではない。適当にわかりにくいので、本心が知られないくらいには納得がいっているのだろうか。僕も時には文章は見直すし、その時にはかなり文章は書き直すが、無限にはしない。たくさん文章を書くのは癖だが、〆仕切りが本当にあるわけでは無いが、自分なりには〆切は設けていて、それに向かって書き直している。文章によってはどんどん増えるが、逆にどんどん削られていく日がある。そういうのは気分なのか体調なのか、はたまたその両方なのかは自分ではわからない。分かりやすく書き直すこともあるが、あえて分かる人だけに分かればいいだろう、という文章にしたりする。そういうリズムのようなものを面白がって欲しいけどな、とは思うのだけれど……。
 大江と比較するのはおこがましい問題であるとは思うが、文章というのはそういうよそ行き感とか仕掛けとかを忍ばせて作られるもので、多少は対象に合わせて変えることができる。だからその塊の文章ごとに、何か違う場合があるように感じる。それで誤解も受けるが、それで残念に思う時と、そうでないときがある。分かられないのは自分の力量不足かもしれないが、ある程度は仕方ないのである。
 さて話であるが、伊集院の言う記録の残らなさというのは、このラジオがネットに残っている録音であるということを考えると、そのことには当たらないことであるとはいえる。また対話であるが、聞いている人がいる限り、それはある意味で残っている。証拠というほどでは無い日常会話であったとしても、あの人がなんと言ったというのは、残った記録のようなものではないか。対話で瞬時の修正ができる場合もあるが、出来ない流れだってあるだろう。そういう意味では話し言葉の方が難しい場合が多い、とも思う。僕は居酒屋での会話はほとんど忘れているはずだが、うまく伝えられない言葉を発してしまった時は、夢で見たり翌日に反省して恥ずかしかったりする。忘れるように努めるけれど、そんなに簡単に忘れられるものではない。そういう意味で大江派であるともいえる。しかし不謹慎で軽率だから、話をすることができるのである。
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エルヴィス君臨す   エルヴィス

2023-04-23 | 映画

エルヴィス/バズ・ラーマン監督

 エルヴィス・プレスリーの生涯を描いた作品だが、視点としてはプレスリーのマネージャーとして暗躍し、プレスリーを育て上げもしたが、同時に破滅にも追いやったように見える通称パーカー大佐によるものである。プレスリーの生涯は当然よく知られたものであるはずだが、この世界中で最も成功したシンガーとしての人物像とは別の、いわゆる裏の顔のようなものを中心につづられている。プレスリー役のオースティン・バトラーは、たいへんな熱演をしているけれど、そっくりさんではない。僕らの知っているプレスリーのイメージとは多少違うような容姿ではあるのだけれど、そうでありながらプレスリーを演じ切っているところは、なかなかに凄いものがある。しかしながら晩年のプレスリーはさすがにかなり太って変化してしまっていて、映画では本物の映像も取り交ぜてある。それだけプレスリーの変遷は、凄まじいともいえるのかもしれない。
 プレスリーの成功にパーカー大佐の寄与が大きいことは間違いないのだが、それはその当時のアメリカ社会の在り方もあると思われる。プレスリーは白人でありながら、黒人と同じような歌い方ができて、さらにそれとはまた違った色も出すことができた。セックス・シンボルとして、人々を魅了する力があった。しかし同時にそれに対して眉をひそめる白人社会の軋轢があった。パーカー大佐はそのあたりの世論のようなものを上手く感知し、大人社会でもプレスリーが弾圧されないように、保護をしていた側面がある。もっともそのことは、パーカー大佐自身の保身もあったのかもしれない。彼自身にも大きな問題がいくつもあったからである。
 プレスリーの偉大さは、そういう問題を抱えながらもスターとしてゆるぎないパフォーマンスを続けることができたことだ。無茶な生活をし続け、容姿的には肥満で崩れながら、さらにドラッグに溺れ、贅沢三昧をやりながら破産の危機にもあった。夫婦としても破綻していたが、家族はプレスリーに寄生していた。最大の理解者である母も亡くし、精神的にはボロボロだったようだ。しかしステージではボロボロの状態でも素晴らしいパフォーマンスを演じるのである。歌が上手いだけでなく、音楽的な天性のセンスが光っており、今聴いても色あせることが無い。本当に素晴らしすぎる存在だったと、改めて確認することができるだろう。もっとも映画的にカタルシスがあるかどうかは、ちょっとどうかという演出ではあるわけだが……。
 しかしながら、そのような絶大な表の成功を収めた人物が幸福だったかと言えば、必ずしもそうとはいえそうにない。そこのあたりが、映画としての見どころと言えば、そうなっている。それでいて悲しくも素晴らしいのが、偉大なスターというものなのかもしれない。
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理由なく人を嫌ってはいけない

2023-04-22 | net & 社会

 時にはそんなにたいした理由なく苦手というか、気に入らないものがある。その代表的な人物がイーロン・マスクであった。彼を称賛する人々がたくさんいることも知っているし、その理由もそれなりに同意できる。その上でこれ以上ない成功をおさめ、まだ人生においても若い。
 別に金持ちが嫌いってわけでもないし、若い人が嫌いなわけではない。妬ましい感情が無いとは言えないが、他人が金持ちであろうがなかろうが、基本的には僕とは関係が無い。自分が金持ちであるとか貧乏であるならば、その立場で自分を考えるだけのことだからだ。しかしそれでももっと金が欲しくて、大金持ちであるイーロン・マスクが僕に何もしてくれないのはどうかしていると考える向きもある。しかしそんなこと考えたって仕方ないじゃないか。考えたところで、どうせ金など工面してくれないのだから。
 若さにおいてはちょっと年下くらいの若さだ。そんなことで嫉妬しない。それに僕は、若いからいいという考えはない。今より若くなりたいとも思わないし、若い頃に戻りたいとも思わない。また同じような苦労を繰り返したくない。
 マスクさんのことだった。ずいぶん前からこの名前はメディアに露出していたわけだが、特に興味は無かった。あるドキュメンタリーでマスク氏のインタビューがあって、宇宙のこととか電気自動車のことなどを語っていた。まあ、凄いのかもしれないけれど、そんなものかな、とも感じた。やりたいことをやりたい人がやればいいのだ。でも、ちょっと気になったのは、投資家を呼び込むためなのかどうか分からないが、ちょっと盛ってる感があることだった。既に相当な資産家で、さらに会社の資産価値も高い。それだけでも十分に資源があるように思われるのだが、さらに欲しがっている風である。まあ、そういう世界の人はそういう感じなのかもしれないが、そこに何か胡散臭いものを嗅ぎ取ってしまったというか。さらに続けて地下の高速輸送網の話もしていた。これは妄想ではないのか。絶対に無理だとは言えないかもしれないが、まあ、無理なたぐいだろう。そういうものを他の事業にも含ませているのではないか。そんな疑問がインタビューを見ていて湧いたというのがある。
 彼の会社の代表格であるテスラの資産価値は、トヨタの4倍以上の120兆円と言われている。しかしその車の生産量は100万台くらいだから、1000万台を売るトヨタの10分の1程度である。もちろんこれから伸ばすということだろうけど、同じになるだけでも相当な労力が必要だろう。要するに資産価値は期待値で、実際の実力とはかけ離れている。だからまちでテスラ社の車を見るだけでも苦労する。僕の住んでいるまちでテスラの販売店が何処にあるのか、僕は知らない。
 何らかのからくりがそこにあるはずだが、それが宇宙開発やエネルギ―関連の他の会社などとも連動しているということであれば、まだまだ勉強不足の僕には分からないだけのことかもしれない。しかしながらそれは、基本的には期待値であろう。
 そうしてツイッター社の買収の騒動があった。これもいろいろ分からないところをたくさん含んでいるが、その不可解さの基本には、彼の自己顕示が透けて見える。これ以上ない成功者が、それでもまだ称賛を欲しがるものなのだろうか。事実はそうであると言っているようなもので、そんな金を使ってまでエキセントリックな言動に歯止めがかけられないもののようだ。それらの彼なりの正しさというものは何なのだろうか。
 まだまだあるが、そのような一連のいかがわしさなどがあって気に入らなかったわけであるが、しかし最近ちょっとした変化があった。これも過去にマスクさんが言ったことらしいが、若い人がイノベーションを起こすためのアドバイスとして「基本原理に立ち戻ることの大切さ」を説いていたのだ。多くの人はそんなことはしないで、その先のことばかり考えている。しかし本当に大切なのは、もっとも基本にある真理を見つけ、そこから考えをスタートさせないと、イノベーションは起こせない、ということらしい。なんだ、それは。確かにそれこそが大切なことで、完全に同意できる素晴らしい考え方じゃないか!
 という訳で、僕のイーロン・マスク評価は揺れている。本当に彼が基本原理を大切にしているのであれば、イノベーションは起こせるかもしれない。その真理が間違っていなければだけれど。
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誤りは、誤った人には正せない

2023-04-21 | 時事

 未遂に終わったとはいえ、またテロ事件が起きたことのショックは計り知れない。安全だと思われている国日本で、白昼堂々と選挙戦の真っただ中にこのようなことが起こる。まさに信じられない思いだ。その信じられない異常さこそ、日本でのテロの影響の大きさにつながっている。テレビの報道画面を見ていて、僕の周りの人々の反応はさまざまではあったが、驚きとともに一番多く聞かれたのは、日本の警備はお粗末だ、ということだった。僕自身はまったくそんなことは感じていなかったので、まずはその反応や怒りのようなものに、かなり違和感を持った。その後ネットから爆弾が放り込まれた瞬間の映像を見た。すぐに爆発しなかったのが幸いしているとは感じられるものの、いわゆる警備の人が必死で素早く行動している様子が分かる。もちろん爆弾の精度が悪いのか(手作りだし、実際のところは分からないが、おそらくすぐに爆発するはずのものだったが、失敗したのではなかろうか)、結果的にはそのような状況にあって、大きなけが人は出なかった様子だ。皆が気づく反応の遅さはあるように感じるが、あのような状況であれば、それは致し方ないようにも思う。いったいなんだ、と状況が分からない人々にとっては、そのように分からないものへの確認の方が先にあって、思うように逃げることすらできないのではなかろうか。爆弾が持ち込まれないような警備でない限り、対処としてはあれ以上のことが本当にできたのかは疑わしい。爆弾を投げた犯人の周りの人々も、実に素早く行動している。何か妙な行動をした人間に対して、その反応が素早いもののように思える。すべてが警備の人では無かったらしいことも驚きだが、結局は犯人のたいして緻密でなかった行動もあって、最悪の事態は未然に防ぐことができた。ある意味でそれは、過去の経験に学んだこともあるだろうとは考えられそうだ。
 結局は、それにしても不可解で不思議な人間が、まだまだくすぶっているのではないか、という不穏な気分ではなかろうか。安倍さんを殺した犯人は、最大限のテロを成功させただけでなく、多くの世論を味方に付けてしまった。結果的に今回のテロを呼び込んだと言っても過言では無いだろう。統一教会という闇があったのは、いわゆるずいぶん昔から公然と知られていたことにもかかわらず、タイミング悪くオウム事件が起こり、勝手に人々はそれを長期にわたって忘れていただけのことである。その後も統一教会の家族が過激に対応する応酬の出来事は、ときどき漏れ伝わっていたが、人々はそれらは一部の人々の不幸だとくらいにしか受け止めていなかった。おそらくだが多くの人は、いまだにそんな人たちがいるなんてことは確かに忘れていたけれど、それに似たことが他でも行われていることくらい、ふつうは気づいていたはずだ。宗教の自由は保障されるべきだと思うが、病気や貧困にはびこるこれらの闇は、いまだに大きく根を張り広がっているのである。
 残念ながらこのようなテロは、政治とは無関係な個人的な屈折した思いが原因であるようだ。さらにそうであるならば、未然に防ぐのは不可能である。よって前回の山上のような人間を擁護するような政治的な気分というものこそ、しっかりした認識で紐解いていくことが肝心だと思われる。明らかに誤解したままで政治の悪を追求する愚かさを、改める必要がある。それは政治家を守るためというよりも、自分たちの社会を健全に保つための賢さに他ならない。間違っている人間に、その間違いの愚かさを理解させる必要がある。間違った認識を持った人が、その誤りを正すことなど不可能に近いのである。それがこのような事件を呼び込んでしまった日本社会の責任でもあるだろう。
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知らない店には入りにくい

2023-04-20 | 境界線

 出張の時、あんまりスナックには入らない。地元じゃないから事情を知らない、というのはあるが、そういう知らない感じが恐ろしげだというのが大きいが、しかし以前は構わずにスナックに入っていたような気もする。いつの間にか入らなくなったのであって、それはなんでだろうな、と思った訳だ。
 要するに若い頃は怖いものを知らないというのが、まずある。ぼったくりバーというのに何度も懲らしめられたが、しかしまた行ったりしている。懲りてはいないらしい。むしろ明け方近くまで交番の中で議論したりして値段交渉し直して、あとから思うと面白かった(その時は困っていたが)。それでもそれなりに取られたことは確かで、なんで懲りないのだろう。
 それと以前は別に先輩方と行ったりすることもあり、そういう人たちが無理して選んだ店に入ればよかった。たまにお前が探せと言われることもあったが、まあ後ろに人がいる状況で店を開けて回って物色して選んだ。酔っているのでできただけのことである。
 今はそういうのさえ煩わしいと思うのか、物色などはほとんどしない。誰かがどうしてもスナックに行きましょうと言わない限り、入らない。カラオケの音がうるさくても煩わしいし、皆が静かに飲みすぎているのも不気味である。客がいなければ不安だし、客が多ければ入れはしない。
 出張でも夕ご飯は食べるわけで、要するにそういう時には当然酒は飲む。人がいるとあれこれと話が弾んで、もう一軒ということになる。相手が何を好んで飲むのかということがあるけれど、スナックを選ばないのであれば、また食べ物屋に入ったりする。この選択も、なかなか難しかったりする。おでん屋のような店だったり、ふつうのチェーンの居酒屋だったりする。もうお腹いっぱいなので、漬物だけでいい、というと怪訝な顔をされたりする。
 洋酒を飲むのなら、今風のバーがあって助かるが、しかしハイボールばかりじゃつまらないかもな、などと考えてしまって、ウイスキーのロックなんかを飲んでしまうと、たちまち酔っぱらってしまう。一杯の単価が高いところがあったりして、頭も財布もフラフラになってしまう。
 そんな時に、やっぱりスナックでも良かったのにな、と思うのだが、なかなかそういうのは、上手く行かないものなのである。今度は頑張って探してみるかな。
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そもそも選択をする側の資質が試されているのが選挙である(結論)

2023-04-19 | culture

 僕が選挙に関わっている関係もあると思うが、選挙批判のようなものをぶつけられることも多い。僕の責任において答えられるものと答えられないものがあると思うが、多少不当な意見であるという印象がある上に、それらの考えや印象については、ほぼ100%に近い誤解であると言える。しかしながらたとえそうであるとはいえ、少しその意見や感想について、そう思われるのも分からないではないところもある。
 例えばこんなに議員はいらないとする意見だが、そういう意見を受けて多くの地方議員定数は自ら減らされてきている経緯をほとんどの人は知らないようだ。だいたいにおいて議員の定数というのは人口割りであったのがスタートだ。もちろん他国と比較してみれば分かると思うが、日本より少ないところもあるが、日本より多いところももちろんある。少なくすればいいというのは、よく考えたらたいした根拠では無いことくらいすぐにわかるはずで、少なくするとその分市民の意見が通りにくくなる。何故かというと選挙に強い人しか当選しなくなり、そういう組織力や財力のある人しか上がらない選挙において、選挙自体にチャレンジする人も減るだろう。それだけ多くの人の意見を拾い上げられなくなるということになる。人口割りというのは乱暴ではある面はあるけれど、議会による委員会数であるとか、その中での活発な意見の拾い上げなどを勘案すると、やはり一定の人数は必要だというのが妥当なところだろう。
 また地方選挙の成り立ちを考えると、その地区ごとに人物を立てて議員を送り込むという基本があったのだろうと思われる(都市部と周辺地区の利益は必ずしも同じとはいえない)。もちろん今もその名残はあって、町内会長などの要人の支援が、基本的には欠かせないと思われる。もっともそのコミュニティ自体が崩壊しつつある現状があって、そこにいわゆる空中戦であるとか、新しい選挙展開がなされるようになったわけだ。実際には投票率自体が下がり続けている一番の要因は、議員の責任というよりも、そのような社会の成り立ちにおいて選挙制度が追い付いていない可能性の方が高い。しかしそういう事情はもう戻りはしないので、投票率が低い中での民意の拾い上げということになり、結局は一部の人間の意見しか吸い上げることのできない仕組みが完成したということだろう。選ばれる側の論理からすると、今の選挙はそれだけ難しさが増している。その中で限られた試行錯誤の戦い方以外に、選択肢が無くなったのである。
 また諸外国では議員報酬がそもそもないところが多く、報酬があっても議会出席などの日当制が多かったりする(※日当制については、日本でも検討の余地はありそうだ)。当然地方議員の多くは兼業ということになる。日本の議員は専業がほとんどなので(農業や会社役員という人でも少数である)、そういうあたりはちょっと事情が違う。しかしながらこれも当然批判があり、結局そのような立場の人でなければ議員になれないということにもつながっており、根本的に日本の事情とは合わない(例えば英国やアメリカなどでは、基本的に大きな組織や企業の支援の無い人が議員になれないことになる)。また若い人が十分な報酬で議員になれるということを考えると、それなりの水準である方が、なり手の質を担保しているとも考えられる。それでもこのありさまだと言われたら、確かにそういうところもあるが、しかしそういう批判は、やはり選挙に関わってあらわすべきであろう。(続くかどうかは不明)
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自由という逃亡者たち

2023-04-18 | culture

 統一地方選挙真っただ中というところなのだが、まあいろいろあるんで特に取り上げてなかったんだが、やっぱり選挙には行かないな、という知り合いに会って、どうしてなんだろうと聞いてみたわけだ。何故って当然のことらしく「自分は自由だから」ということでした。その自由は政治の力かもしれないけど、基本的に知らないことだし、選挙のやり方も知らないし、投票用紙はたぶん実家だし、つれの人(この方は新婚さんのようだ)も当たり前に行かない訳で、そういう文化に無いということらしい。「お願いしてもだめですか?」と言ってみたが、そのような理由があるんで行くわけがないのだそうだ。
 選挙の投票率なんかの話もあるが、そういう中で選挙は行われているということなのである。このような発言に心を痛めたり怒りを覚える向きも理解できるが(僕だってそうだから)、それは単なる人間の責任問題のような倫理観というものだけでは説明がつかないものが潜んでいるように思われてならない。彼ら(彼女ら)をしかりつけたところで、目の前には存在しない、大多数の選挙棄権者の行動を促す決め手にはなりはしないだろう。むしろそういう態度こそを、彼らは嫌悪することだろう。そうしてそのような選挙に向き合う真剣さそのものについて、彼らの理解はますます遠のくのであろう。残念ながら。
 ではどうしたら、ということは、散々言われていることである。いっそのこと罰則を設けるのが効果的であるのは間違いないが(例えば選挙権を没収させ、所得税など減免処置の対象外にするなど)、自発的な望ましさを期待する心情もあろうと思われる。罰則を設けている国もあるが、おおむね投票率が下がり続ける現象は、どこの国でも見られることであるようだ。多少事情の違うところもあるが、世代間の分断や、多様な文化の受け入れなどもそれなりに影響のあることかもしれない。
 日本の場合は特に、選挙権の生まれる前の段階では政治の関心はそれほど低くないものの、社会人になって数年すると、すぐに政治への興味が失われてしまう現実があるようだ。そうであるとするならば、若者が社会人になって数年のうちに、心の変貌が見られるわけである。それは様々な要素を含んではいるとはいえ、要するに大人社会への「失望」と捉えてもいいのかもしれない。もしくは大人になる過程での無気力のようなものではないか。
 ここまでは何のことなのかよく分からない人もいるのかもしれないが、そのようにさせることが、日本社会のシステムのようなものがあって、結果がそういうものを招いているとするならば、なかなかに困難を深めるものを感じさせられる。書きながらどうしたものかとも思う訳だが、要するに彼らが大人社会になじまない限り、それはそれなりにむつかしい。それはいわば若者の死でもあるかもしれない。もちろん若者でなくてもそんな人もいて、別段人間らしく生きていない人もいるわけで、ますます訳が分かりにくいのかもしれないが、要するにそういう社会について、表面的には付き合いをしているのかもしれないけれど、心から向き合うことはしないということでもあるかもしれない。
 こういうものは、つまるところ、選挙とは全く関係の無いものが、選挙に関係してしまっている結果になっていると言えるのではないか。だから彼らは「自由である」という的外れな感覚をもって、選挙に行かない理由を自分の中で感じている訳だ。やはり今後も若者が虐げられる社会の構築にならざるを得ないのは、その自由に対する懲罰なのかもしれない。
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睦月ちゃんの体重が増えていく

2023-04-17 | 睦月ちゃん

 睦月ちゃんがぐんぐん成長している。ミニチュア・シュナウザーの体重は4~8キロとされていて、実に大雑把なのだが、4か月以上ですでに6キロはあるようで、まだ増えるのだろうか。もう大きくならなくていいと思うが、僕が思ったところで仕方がない(実は今量ったら6.4キロでした)。
 前に飼っていた杏月ちゃんとどうしても比較してしまうところがあるのだが、杏月ちゃんはだいたい5キロ以下だったこともあって、特にものすごく大きく感じるのかもしれない。胴回りがずんぐりしていて逞しい。別段肥満でそうなっているということではなく、成長段階でそういう体型であるということだろう。半年は成長するものと考えられるので、おそらくまだ大きくなるのかもしれないのである。
 いまだに無駄噛みが多いし、じゃれ合いも激しい。要するにつまるところまだ赤ちゃんのようなものだし、いや、少なくとも幼児なのだろうと思われるのだが、ともかくでかくなった。駆けずり回ってうるさいし、しかし疲れてコトンと寝ている。寝る子は育つというので、また大きくなるのは困る。起こすべきなのだろうか?
 噛みつきながら体当たりしてくる力強さがあって、ウェイトの分だけ衝撃度も強くなる。日々これが強くなっているような感じもあって、引っ張り方も激しい。都合の悪いものを噛んで、逃げる。これがまた捕まえられないくらいすばしっこい。運動神経はいいのである。自分からはしつこくかみついてじゃれついてくるくせに、捕まえようとすると捕まえられない。そういう時は呼んでもキョトンとしたりして来ない。困ったものである。
 抱っこしている間も何かに嚙みつこうとするし、そうするとバランスも崩れて、さらに重たい。落とすわけにもいかないのでこちらは頑張るわけなのだが、何しろそういうこちらの事情を勘案しないで暴れる。いったい何を考えているのか。
 それだけやんちゃなのに、いまだに外が怖くて、ろくに散歩ができない。散歩できないストレス(運動量が多いので)で、暴れているわけでは無いのかもしれない。車に乗っている間がおとなしいらしく(つれあいがドライブに連れていくらしい)、その時は可愛いのだそうだ。おとなしいと可愛いのだからおとなしくして欲しい。しかしその願いは、外出で怖がっているとき限定なのだろう。
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訳わかんないが面白い   マトリックス レザレクションズ

2023-04-16 | 映画

マトリックス レザレクションズ/ラナ・ウォシャオスキー監督

 マトリックス三部作は終わったと思っていたら、まだ続編があった。しかしながら観ていてよく分からないところは結局あったのだが、続いているようなところもあるようだ。仮想空間ものはその後たくさん見られるようになって、違和感は無くなっているものの、やはり何が現実なのかよく分からないし、その中の人々がどういう立ち位置なのかも今一つだ。王様のように君臨している人もはっきりしないし、そもそもこの世界観を構築したものとは何なのだろう。
 そのような過去のあるネオは、しかし今は平穏にゲームをつくって暮らしている。しかしその暮らしている現実の中にあって、再び過去の面影がもたれていることには気づいている。そうして実際に、またネオの力を欲する連中が現れて勧誘を受けるのだった。最初のころは力も戻らず、戸惑いの多いネオだったが、段々と新しい世界の構築され方を理解してゆき、また救世主として求められている自分に苦悩していくのだった……。
 そもそもこのマトリックス世界の混沌としたものこそが面白いのと、うまく理解できなくても、自分の意志力や信じる力などがさらに次の段階へ自分たちを引き上げることにある展開に燃えるものがある。まるで日本の漫画世界であると同時に、独特のセンスがごっちゃ混ぜでかっこいいのである。続き物であるけれど、いったい誰が今は何になっているのか予測ができないし、それでよかったのかどうかも分からないのだが、ネオとトリニティーが元気で動けるうちは、まだまだマトリックスは健在だということではなかろうか。そういう現実とも入れ子状態にあることが、マトリックスが社会現象にもなったものとつながっているようにも思える。最初にマトリックスを観たのは二十年以上前になる訳で、やはり感慨深い。本来のあの弾をよけるイナバウワーをもっと見せるべきだとは、思ったことでした。
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