僕は九州は長崎県に住んでいるので、日頃の会話はふつうに方言が多いと思われる。口語では文章とは違う単語を、自然に使い分けているはずだ。しかしながら時々文章を書いていて、ワープロソフトがうまく反応しないというか、標準語として疑いなく使っていて、後に方言だと気付く言葉がある。思い出そうと思えば、それなりにたくさんあるはずなのだが、今回は「うてあう」がそうだった。「うてあう」と打つと「打て合う」と変換されたので「むむむ」となった。これは何かが違う。先日「供述」という文字を出そうと思って「きょうじつ」と打ち込んで「凶日」と出た時のような驚きだ。しかしそれは単なる思い込みによる打ち間違いだったので、今回は違う。「うてあう」という言葉に対して「打て合う」というのでは、意味としてちょっと変である。剣道や碁であれば通じる話かもしれないが、そういう状況でないのにこの漢字が当てられるには、相手がこちらの意思を酌んでいない証拠なのではあるまいか。
これは長崎弁というか、九州北部に共通する言葉のようだ。「うてあってくれない」とか「うてあってあげなさい」など、子供のころからよく言われていた気がする。子供のころだから、友達と仲良く遊びなさいという感じだろうか。子供同士だともう少し乱暴な言葉遣いになって、「かっちぇない」とかになるのかもしれないが、正確には忘れてしまった。
かつて「離合」が方言だと知った時以来の衝撃度があるが、これってやっぱり九州以外では通じないのだろう。あんまり特殊な語感も無いし、九州以外の人でも普通に使いそうな雰囲気も持っている。もっともこちらがそう思っているだけのことで、そうではないという感じが何とも具合が悪いのである。「相手にしない」というよりも、ずっと口語として自然な感じもするし、いわゆる柔らかさがある。方言というのは、共通で使っている分には、そういう親しみも込めて柔らかさがあるものかもしれないが、「うてあう」には共通語っぽい語感のままそれがあるのである。違う事実が目の前にあって、いくら頑張ってもその事実を変えようが無いのだが、つくづく残念な感じがするのかもしれない。こういうのは、やっぱりわからない人には全然通じない感覚なのだろうけれど……。
標準語だと「すれ違う」とか「行き違う」になるって最近知りました。
方言が漢字で変換されるのもすごいよね。