カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

事故死した四人の成仏のさせ方   思いのこし

2016-02-29 | 映画

思いのこし/平川雄一朗監督

 道路に飛び出してきた男をはねた上に反対車線に乗り出して他の車両と衝突してしまい死んでしまった四人だったが、はねた男が無事だった上に何故か死んでしまった四人はこの男とだけは普通に接することが出来るらしいことが分かる。事故だから突然死んでしまった訳で、それなりに生前にやり残した感のあるために成仏が出来ていないということかもしれない。幽霊と交信ができるが基本的にどうしようもない男が奔走することになる基本路線はコメディだが、いわゆる幽霊が現世世界と縁を切る為のドラマが感動的であるというつくりである。テレビドラマのような映画なのだが、広末涼子らがポールダンサーとしてセクシーダンスを踊るということと、主演の岡田将生が女装などして奮闘するのが見どころである。実際に岡田の悪い男ぶりはなかなか似合っていて、多少わざとらしいが、金に執着があるために無理難題にチャレンジしていく様は、それなりに楽しい。特に最初の死んでしまった新婦の代わりに結婚式に臨む姿は、デミ・ムーアが主演したゴーストを少しばかりバカっぽくして再演したような楽しさがあった。後のエピソードはちょっと現実離れしすぎて蛇足といっても良かったが(まあ、それが映画のほとんどだが)。
 原作小説(「彼女との上手な別れ方」岡本貴也著(小学館))があるらしいが未読。多少設定は変えてあるところはあるようだが、基本的には同じような人助け(金のためだが)をする話らしい。
 最初の頃にこのダメ男が派手に車にはねられるのに、ほとんど無傷でさらに幽霊と普通に話したり接したりできるという設定があったので、四人の成仏と共に彼も死んでしまうのだろうと勝手に思っていた。実は彼も幽霊だったというか。それは僕が勝手にそう思っていただけのことなんだが、そうなった方がいいような気がしたのは、この男のダメっぷりが更生されていく物語の〆としてそれがふさわしく思えたからだろう。物語はそうはならない訳だが、四人目の一人息子を幽霊として長く見守っていきたいと願っていた女は、その願いとは違う形で成仏できることになる。そのためにはやはり男は生きていく必要が出てきたのかな、と納得したのだった。それはおそらく原作者の考え方であろうからそれでいいので、終わった後もいい余韻にはなったのかと思う。
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皿うどんはめんどくさい場合がある

2016-02-28 | 

 長崎県人だからという訳ではないが、皿うどんは大好きである。ただし、どちらかといえば太麺。そんなことを言うと、長崎県人としては少し気が引ける気もするが、事実だから仕方がない。それというのも、厳密にいうと、長崎市の人にとっては、伝統的で正当な皿うどんとは、やはり細麺のことだろうからだ。
 中華料理店などで単品で注文すると、最初からあんかけ状態で来るので問題が無いが、いわゆるコース料理で皿うどんが来る場合は、時々注意が必要である。まず細麺が皿に乗ってくるのだが、これをおもむろに適当につぶして待つ(素手でつぶしてよい)。そうして後から具というか、あんかけのようなものをかけて食べる。長崎市の人だけが集まるような会合で宴席などがあると、ほとんどの人がこのようなスタイルを普通にとる。この場合太麺が良いとかいう選択肢がそもそもない気がする。皿うどんは太麺で食べる人もいるらしいが、そんなことはよそでやってくれ、という気位が感じられる。恐ろしいが、しかしこれはこれで旨いので、激しく拒絶するほどのことでは無い。
 言い忘れたが、もちろん食べるときは金蝶ソースを掛けて食べる。そうしなくてもけっこうだが、それならばできるだけ掛けてないそぶりは見せない方がいいだろう。掛け忘れたと思われて、隣の人が親切に掛けてくださることもある。「いや私は掛けない」と言うと角が立ちそうなので、とにかくばれないように素早く食べるべしである。またそのような席では酢をかけるのは遠慮しよう。きっと嫌な顔をされるだろうし、個人の好みとはいえ、大いにその場の人々を不快にさせてしまうことだろう。せっかくの料理を台無しにするような節度の無い人間として、印象を広めてしまうことになるだろう。
 さて、そういう恐ろしいことはめったに体験できないだろうからいいのだが、皿うどんというのは長崎県といっても、北部のものは別であると考えた方がいい場合もある。佐世保地区の皿うどんは、時々焼きそばのようなものがあるからだ。焼きちゃん、というのもあって、これは皿うどんのような感じだ。最近はだいぶこなれてきて皿うどんは共通認識できるところが増えてはいるが、町の食堂のような場所では、長崎県人でも驚きの別物が出てくる場合がある。ちゃんぽん文化も今や長崎だけのものではないし、皿うどん文化も、同じように多様性があるということだ。ただ、同じ長崎県だから共通認識で皿うどんが作られているという考え方は、捨てた方がいいと思う。まあ、それが楽しく食べて心の平穏が得られる心構えである。
 そういう訳で、僕自身は長崎市の限られたエリート層の人間ではないから、普通に太麺の皿うどんを食べて何の遠慮も感じていない。太麺といっても少し炒めてパリパリ感が残っている感じがベストだ。要するに家庭の味がこれだったということで、母が厳密に長崎市内出身者ではない長崎人(なんだかどうかは実は僕は厳密には知らない。母は謎の多い人なのだ)だからそうなっているのかもしれない。さらに結婚して、つれあいの作るものはやはりちょっと母とも違う。さらに彼女はソースさえもかけない。真似して慣れてくると、僕もそのような趣向性になっている。おふくろの味というが、既にそのような味が僕の好みのベースにさえなっていない。そうして皿うどんにおいても、食べ方の多様性の方が僕自身には好ましく思えるような変遷があったということなんだろう。
 でもまあときどきは何かの間違いで、細麺を無性に食べたくなる場合がある。そうして金蝶ソースをドバドバ掛けて食べるのだ。宴会なんかの時に、多少酔っぱらうとそうなる場合がある。そうしてそうやって食べてみて、やっぱり皿うどんは、どのように食べても旨いな、と思うのであった。
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神様を見たい人にはどうぞ   I(アイ)

2016-02-27 | 読書

I(アイ)/いがらしみきお著(小学館)

 率直にいって、妙な漫画を読んでしまったような感じがする。変な漫画ではないし、おかしな漫画でもない。そうしてなんだかすごいことは分かるのだが、妙な感じなのである。聖書の中のお話のような気もするし、現代における人間の精神性という感じも無いではない。そうしてこの話を素直に受け止められるのか、という問いがあったとすると、それにも何だか自信が無い。しかしながら漫画にはものすごい力があって、ゴリゴリと押し出される感じで続きを読むより無かった。いったいこれは何だというのかというのは、最後まで実はよく分からなかったのだけれど、ともかくすさまじく、感動的だった。なんとなくこの漫画の言葉通り、見るものを見るような感覚がわずかながら残ったのだった。
 神様を見たいというあいまいな欲求のために、まさに探し求める一生の物語である。何度も神らしき存在は出てくるが、それは陰であったり風景であったり不思議な現象だったり、つまるところよく分かりはしない。しかし彼らには分かっており、読んでいる僕らにもそれは伝わる。当然だが周りの人間はにわかには分かりえない。分からないが付き合っているうちに、なんだかそれらしいというか、もしくは不思議な体験をすることになる。それは確かに神が行っていることかもしれないが、いわゆる意味というものが欠けているような印象もある。たくさん人が死ぬが、それは普通の生活でも人は死ぬわけで、その意味がことさら意味として語られている訳ではない。生きている彼らでなければ神は分からないし、ある意味で殺されているように見える人たちだって、流れの中で必然だったのかさえ怪しい。物語は淡々と続くが、この行き当たりばったりのような混乱したようなストーリーが、神の発見に必要だったのかさえよく分からない。むしろ人間の方が、神を許しているかのような話も多いのである。人間の目から見ると、神というのは気まぐれにとんでもない蛮行を繰り返している。人間にはなす術がないから、さらにその存在が分かりえないから、受け入れるより無いのである。いろんなものを削げ落として人間性を失っていくごとに、神の影を見るようなことが可能になっていくようである。それでも関わる人間は勝手に関わり命を落としていく。それに対しての神からの答えは、当然のように何もない。一応お話は終わるのだろうという予感はあったにせよ、この物語の本来的な意味であるとか、それが言葉の上でなんであるというのは、つまるところよく分からないのだが、不思議な気分のまま、自分があたかも体験したかのごとく、なんとなく神がいてもおかしくないような気分になるのである。
 まさしくそれが漫画を読むという行為においての神体験である。騙されたと思って読んでみたらいいと思う。
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履歴書をどう見ているか

2016-02-26 | culture

 履歴書は「手書きかワープロか」問題、というのがあるらしい。立場上面接はするが、考えてみると手書きの履歴書以外見たことが無い、と思う。履歴書買ってくると、手書きするより無いというのもあるが、ネットからダウンロードもできるから、そのままワープロ機能で書き込むことも可能だろう。たまにしか新卒は採らないし、多数就職の願書を出すようなところではワープロが普通なのかもしれないが、たぶんそのような事情のタイミングで求人を出していない所為だろう。また、進路関係の指導で、手書きを奨励するようなこともあるのかもしれない。率直にいって、手書きであるとかワープロであるからという理由で選考に差が出るとは考えにくいが、多数の人間が選考に関わる場合、手書きを優先させるような人情というのはある可能性がある(そういう人事担当は必ずいるだろう)。たぶん、その見えざる圧力のような心情が、手書きの履歴書という形に現れるのかもしれない。
 それはいいのだが、それでは手書きの履歴書を書くべきなのか問題、ということも考えられる訳だ、議論となっているのはたぶんそこだろう。有利ならば素直に手書きにすべきということなんだろうけれど、手書きを優位に考えるような人事担当を据えるような会社に、本当に就職すべきか、ということも問われている訳だ。それは、そのような不合理なことを求めているということを表しており、要するにブラック企業的な、マイナスのオーラを発していることにはならないか。また、そう考える人もいるのかもしれない、という訳だ。だからこそ、そういう企業を選ばないためにも、ワープロで履歴書を書いて出すべきではないか、という議論らしい。そうすると、またいろいろ意見が出たりして面白がっている訳である。就職したい身の人としては、ますます悩ましい問題であろう。
 しかしながら履歴書もらって面接して、時には小テストなどをして、それで適切に人選が出来ているのか、というのは、実は心もとない話ではあるのだ。その程度でいい人材かどうかが分かりえるはずが無い。だから人事担当者はそれなりに悩むわけで、例えば人事に関する本を読み漁ったり、そうして実際に他の企業の人事担当者などと交流して勉強したりするわけだ。
 僕も実際にそういうセミナーに出たり本も数冊読んだりした覚えがある。そこで実際に言われたり書かれたりすることに、履歴書は手書きで書いてもらって、その字までちゃんと見るようにというアドバイスが結構あったりするのである。中には字がきれいである必要は無いが、丁寧に書かれていることと、ちゃんと筆圧をかけて書かれてあるか、裏から透かして見るようにということも、読んだ覚えがある。実はそんなもんかなと思って、筆圧のある履歴書を書いてきた人を採用したら、まあ、何というか、特に素晴らしかった訳ではなかった。まったく当てにならないことを言ったり書いたりする人が多いのである。
 まあ、そういうことなんで、手書きかどうかなんて最初から気にせずに、履歴書なんて書いたらいいと思う。どのみち履歴書の書き方なんて、採用の重要な点ではあり得ない。恐らく採用するかしないかというのは、履歴書以前の問題か、それ以後の何かであることなのだろう。
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生きている実感   まんが新白河原人 ウーパ!

2016-02-25 | 読書

まんが新白河原人 ウーパ!/守山大著(講談社)

 漫画家として30年生きてきた人間が、福島の荒れ地を買い上げ、開墾してログハウスまで建ててしまう。その顛末を漫画にしたもの。
 もともと物質社会に対しての疑問のようなものが著者にはあったのかもしれない。漫画家の生活がどんなものなのかはよく分からないが、連載が終わったのを機に、土地を物色し、福島に東京ドーム一個分という広さの荒れ地を購入する。酔狂はとどまらず、木を切り、荒れ地を開墾して、ログハウスを建てていく。もともとそういう経験があったわけでもないが、漫画のスケールでは無くて、一分の一の土地に立体のものを描くようだ。チェーンソーはもちろん鉈などの道具を駆使し、とうとうパワーショベル(ユンボ)まで購入する。まさに自然と格闘して地道に土地を切り開いていく。苦労しているのだが、同時に確かな喜びがそこにはあって、別にやってみたい訳ではないのだけれど、読んでいてワクワクして思わず引き込まれてしまった。
 僕は最初からとんでもない田舎暮らしをしているので、著者のような憧れは微塵も持たない訳だが、田舎暮らしだから普通にチェーンソーもユンボも扱ったことはある。しかしながら彼のように、本当の荒れ地を、それも一人で切り開いてログハウスを建てようなんて夢見たことは一度だってない。これを読んで感銘を受けたが、だからといってこれからもそんなことを夢見ることも無いだろう。そのような対極にあるような軟弱な僕でさえ引き込まれて読んだのだから、こういう世界が好きな人には、相当たまらない世界が描かれているのではないか。
 それにしても山の中の自分の土地とはいえ、下手をすると遭難しかねないような環境である。日々の食事はコンビニかインスタント麺のようだし、めったに風呂に入れるわけでもなさそうだし、トイレは普通に野グソである。テントの中で犬と共に寝て、日が昇る一時間前からワクワクしながら日中の作業に没頭する。手の豆は破れ、木の根と格闘し、一日の仕事は難航してはかどらないこともままある。それでもあきらめることなく、それこそ取りつかれたように山の中でもがいている。漫画家だから、今まではおそらく一日の大半は椅子に座って仕事をしていたことだろう。そのような長い時間を、体を使ってリセットするような、そういう感覚があったのかもしれない。もしくは長年感じていた自分なりの鬱積したような気分というか、新生する自分自身の脱皮のための儀式のようなものがあったのではなかろうか。そうして普通ならあきらめそうな無謀な行動が積み上がり、ついに本当に自分一人でログハウスまで建ててしまうのである。
 パートナー(たぶん奥さん)は非常に現実的な人で、理解はしながらも懐疑的に見守っている。現代社会の普通の感覚を忘れずに持っていて、時には厳しい批判を加えて、そうして時には素直に驚き賞賛してくれる。自分なりに無理なところはすっぱりと拒絶はしながら、べったりしたところのない偉大な理解者である。おそらく著者の中にある鬱積した以前の気分もいたわりながら、そうして本当は心配もしながら、この無謀な冒険を見守っていたのではなかろうか。無謀な行動でありながら、本当に分かりえないことかもしれないが、何か精神的にかなり行き詰ったものが、著者の中にあったのではないかと邪推するものだが、そう言うことも含めてこの冒険が、実は危険な賭けのようなものだったのではないかと思いながら読んでいた。そうして再生されていく生命感のようなものが、まさに生き生きと躍動していくドラマが生まれるのである。
 世の中には変わった人がいるな、というだけならそれでもいいだろう。しかしながら、どこか万人にも共感のある、身近にありそうでなかなか普通では味わえない冒険世界が繰り広げられる。恐らくまだこの冒険は続いていることだろう。それが人が生きているということで、その意味の発端にふれるだけでも大いに価値のある漫画ではないだろうか。
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僕の一万円札の価値

2016-02-24 | 時事

 世間はマイナス金利のよく訳の分からなさに困惑しながら騒いでいる感じがある。僕だってその意味するところはよく分からない訳だが、マイナス金利の行き過ぎた国などは、金を借りるとお金がさらに付いてくるような現象もあるらしい。それだったらみんな借りるはずだが、そうまでして金を貸し出さなければならない何かの仕組みがあるらしい。
 しかしながら多くの人は銀行にお金を預けているだろうけれど、今の状態だって事実上マイナス金利だという話もある。預けたって大した金利は無いのに、時間によっては引き出すだけで手数料を取られる。大手銀行は取らないところもあるが、要するにこの手数料収入は銀行には馬鹿にならない収入なのかもしれない。
 ところで、銀行は預金などでお金を集めてどうするか。当たり前だがこの金をさらに誰かに貸して、その金利で利益を得ている訳だ。それが銀行の仕事の王道である。今はいろいろやってるのでそれだけではもちろんないが、基本的にはそれが仕事である。
 さて、しかし銀行には自己資本比率というのがある。持っている金を貸しているが、持ってない金を貸していることもあるということだ。要するに国から銀行は金が借りられるらしい。問題は、たぶんこの金利のことのようだ。マイナスの金利でお金をもっと市場に出すという意味は、恐らくそういう意味だろう。銀行は自己資本をそんなに気にしなくても、顧客の要望に応じでお金を貸し出しやすくなるということらしい。
 そうして理屈として日本のお金がじゃんじゃん市場に出ていくと、当然日本のお金の価値が下がっていく。理屈としては手元の一万円札を燃やしてしまうと、他の人の持っている一万円札は、その分の価値があがる。もちろんたくさんの一万円札が市場にあるので実感はないが…。逆に考えるとお金が市場に流れる訳だから、やはりその価値が下がるということになる。結果的に日本の円の値段が下がる。日本の資産の価値も下がるけれど。そうして日本の価値が下がることで、相対的な日本の製品や労働力などがディスカウントされるという考え方らしい。要するに国際競争力があがるという訳だ。
 まあ、他にもいろいろあるらしいが、政府の狙いの大きなものは、だから円安誘導のようだ。この意味の危うさが分かる人にはそこが問題に見えるということである。あとはそれぞれ考えてみてください。
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沖縄はゆるく楽しい   おばぁタイムス

2016-02-23 | 読書

おばぁタイムス/大城さとし著(沖縄タイムス社)

 沖縄タイムスという新聞に掲載されていた漫画らしい。今風にいうと、いわゆる超ゆるい四コマ漫画。これは偏見だが、ただでさえゆるい内容なのに、主人公が沖縄のご老人であるということが、そのゆるさをさらに増してゆるくしている。正直言って、本当にどうしようかというくらいどうしようもないゆるい話が展開されていて、苦笑したり失笑したりしているうちにハマっていくという感じだろうか。一二話だけ読んでそのままなら、ひょっとするとこの感じを楽しめないかもしれない。連載時は週に一度だったらしいから、それはかなり驚異的なことのようにも思える。恐らく読んでいた人々は、数か月してからぼんやりといいかもな~、と感じておられたのではあるまいか。
 この漫画は沖縄感満載で、さらにローカルすぎるところがあって、方言もなんとなくという感じで理解するより無い。しかしながら観光客が喜ぶような沖縄の美しい海が紹介されている訳でもないし、美味しい食べ物が出てくるわけでもない。ちんすこうは出てくるが、ちょっとこれが食べたくなるという表現でもない。しかしながら、恐らくだが、沖縄の人間は、なるほどね、と思いながら読むだろうし、僕のような沖縄人ではない人間は?と思いながらも楽しめるわけだ。いや、それにしても沖縄って奥が深いな、とは思いましたが…。
 こういうローカル漫画が、沖縄に限らずあちこちにも存在するのが、日本の漫画文化の奥深さという感じもする。なんでも漫画にしてしまえばいいというものではないが、しかしながら、なんでも中央に集まればいいという訳でもない。地方創生というのは政治的には正しい主張(というか地方では支持を受けやすいだけの話だが)だと思うが、地域が本当に活き活きするというのは、このようなゆるいローカル色の強い漫画が、その地域を越えて楽しまれるということにもあるのではなかろうか。日本というのは小さな島国という固定観念を捨てて、本当に多様で広い国土と人間文化があるということを、あくまでゆるく楽しめればいいのではないか。まあ、実際はそんなに大それた陰謀を含んだ漫画ではまったくないのだろうけれど、実際は人気が続きシリーズ化しているようである。これは大変にめでたいことのように思えるのだった。
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一瞬の分析的判断力

2016-02-22 | ことば

 国語学者の金田一秀穂が、日本語は分析的な言語だ、ということを言っていた。英語が何でも「Ouch!」で済ませているのに対して、「痛っ」「熱っ」「きつっ」「冷っ」など、短くてもどんな風に思っているか瞬時に言葉で反応することが出来るからだ、ということだった。まあ、確かに、とは思うものの。英語だって「Hot!」なんて一瞬で言いうことだってありそうな気もした。要するに構えていて短い単語を瞬時に発する習慣のようなものがあって、熱いものが最初は何か分からない状態だと、「痛っ」と発音する人がいてもおかしくないのではないか。
 それというのもお湯の入っていないヤカンをいきなり素手で持ってもらうようなことをすると、ヤカンが熱いわけではなくとも、「熱っ」と思わず口にしてしまう人がいるのは、実験で明らかにされている。日本人の多くは、熱いかもしれないという状況に既に構えて感情を準備しており、そうして実際にそうである場合に、短い単語を発する習慣があるということではなかろうか。とっさのときにも事前にどうなるかもしれないという考えや準備をしている可能性を、他の言語の人と違うように行っているということが証明できれば、金田一説は成り立つことが出来るかもしれない。
 しかしながらこれは、日本語は分析的ではないという批判が、言語学の中であるために金田一が反論しているということは言える。他の言語に対してそのような面があるという批判は慎重になされなければならないもので、普通に考えるときわめて怪しいものが多いのは確かだ。確かに以前から、フランス語や英語は日本語より論理的であるという説はごまんと存在するようだ。ほとんどは半可通で、ある場面においてはそういうことはあるように見えるにせよ、論理的でないのは日本語の所為ではほとんど違う話であろう。そういう変な批判に対して、国語学者としては反論したくなる。そこで言葉の論理性(ここでは分析的ということだが)を表す事例を探していたのではないだろうか。確かに一瞬の使い分けが可能なように見えるところがあって、考えようによっては、実に分析的だ。しかし繰り返すが、それは言語の所為では無い可能性も消えない。まあ、面白いのでいいのではあるんだけれど。
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そういう世界があるんだという了解   るろうに剣心

2016-02-21 | 映画

るろうに剣心/大友啓史監督

 原作は漫画らしい。さらにかなり漫画の通りの科白だったりするらしい。時代に忠実な話ではないし、事実上現代の物語であるということを了解したうえで鑑賞すべし、という感じだろうか。
 舞台は幕末から明治。「人斬り抜刀斎」と呼ばれ恐れられた暗殺者が、改心して人を斬らない人間になっていたのだが、明治になっても辻斬りを行う人間が出たり、阿片でひと儲けする悪党などがいて、その混乱の中でいろいろあって巻き込まれてチャンバラをするという話。一応明治ということになっているが、言葉遣いはほぼ現代語だし、「ござる」の使い方もおかしい。まあ、そういう世界だと了解が必要ということだろう。殺陣もフェンシングのような感じで、日本刀を扱えば不可能な動きが多発する。これもそういう世界のことという了解が必要だろう。時々その時代の実在の人も出てくるが、もちろんあり得ない設定ということも了解が必要だろう。だんだんしつこくなってきたが、ともかくエンタティメントだから仕方がないということなんだろう。
 面白くないことも無いんだが、映画というよりテレビ・ドラマを見ているような感じかもしれない。映像美的に映画チックな場面があるにせよ、ちょっと学芸会的とでもいおうか。続編も予約してたはずだが、ちょっと考え直す必要がありそうだ。まあ、カッコいい役者さんも出ているし可愛らしい女優さんも出ているから、それ目当ての人にはいい映画かもしれない。でもまあ、日本の娯楽としての方向性はこういうことにあるのかな、という勉強にはなるかもしれない。僕は世間に疎いので、こういう感じなのね、なるほどね、とは少しは思ったけど、単なる勘違いかもしれない。
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肩こりを忘れよう

2016-02-20 | 境界線

 事務的な仕事で座ることが多いのと、移動は自動車、そうしてやはりパソコンを使うというのがあるかもしれない。他でもなく僕の肩こりの原因である。それに近眼で目の使い方が下手だというのがあるかもしれない。さらに老眼が進んでおり細かいものがよく見えない。眼鏡を外すと見えるが、その分実物に近づかなくてはならない。ただでさえ疲れるのに疲れることが多い。人間関係で悩んだりするようなことはずいぶん減ったけれど(たぶん鈍感になったせいだ。いや、それはもともとだったが…)、それ以外でも面倒なことはしょっちゅう持ち上がる。僕抜きにやって欲しい問題もあるが、やらざるを得ず仕方ないことでもある。まあ、しかしそれはそれで多かれ少なかれ、好むと好まざるにかかわらず、誰でもそのような日常を送っておられることだろう。問題を肩こりに戻すと、やはり個人差があって、ひどく凝る人と凝らない人がいるのではないかということだ。
 実は今まで肩こりしないという人は何人か知っている。うらやましい限りだが、そう言えばその中には眼鏡をかけている人もいたような気もする。目の問題だけじゃないのかもしれない。仕事を抱え込んでいるような人もいたし、まあ、ノー天気そうに見えてはいるが、悩みがあるかないかなどは、他人の僕には知りえないことだ。体質のようなものがあるのかしらん。
 外国人の多くは肩こりをしないという。日本語の「肩がこる」という表現にあたるものが、具体的にはちょっと違うということもあるらしい。窮屈であるとか不自由であるとかは普通にあることなんだろうけど、その結果として肩がこるとは限らないということのようだ。もっとも原因となっているような座りながら長時間パソコン相手に何かやるようなことがあって、実際に肩がこるような生理現象があったとしても、それを肩が凝ったと自覚するような習慣が無いのかもしれない。だから多くの外国人は、日本の習慣に慣れてくると、肩こりを自覚するようになることもあるんだそうだ。なんだか変な話だ。
 以前は腰痛持ちでもあったが、これは散歩をするようになってひと月くらいしたらいつの間にか治ってしまった。肩こりもそういう具合にいくらか改善した時期もあった。結局は運動不足が一番いけないらしい。また、風呂に5分は絶対につかるようにしている。寝ているときは出来るだけ肩を布団の外に出さないようにもしている。それらのことは結構効果の実感がある。失敗すると肩がこるからだ。凝ってしまうと何日間は苦しむ。あんまりひどいときはマッサージに行くこともあったが、これはその時は気持ちいいが、ある時ひどく揉み返しが来て苦しんで、やめることにした。聞くところによると、指圧などで血流が拡散して、血行が良くなったと錯覚するだけで効果のない人もいるらしい。実際にほぐれる人もいるだろうから好き好きであるが、僕には特効的でないということか。
 肩こりは苦しいが、その前に、凝らないようにすることの方が、何より大切だ。大切だが、やはり失敗したり忘れたりする。懲りないので、凝ってしまう。肩こりという単語を身に染みて覚えてしまった人間の、悲しい節理なのかもしれない。
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続編まで見てしまう自分が情けない   ゴットタン キス我慢選手権THE MOVIE 2 サイキック・ラブ

2016-02-19 | 映画

ゴットタン キス我慢選手権THE MOVIE 2 サイキック・ラブ/佐久間宣行監督

 前説省略。とにかくくだらないアドリブ劇の映画化第二弾。付き合う方もどうかしているとは思うのだが、やはり観てしまった。後悔するということでは無いが、まったくよくやるものである。呆れてしまうけれど、まあ、面白く観た訳である。
 今回もなんとなくということで、この企画がいきなり始まって、そうして劇団ひとりは、そのままアドリブ演技を繰り広げる。これが本当に凄いというか情けないというか、まあ、まったくよくやるよ、という感じ。この普通じゃない気分というもので、お話はぐいぐい進んでいく。そうして今回はそれなりにどんでん返しがあって、反則技ともいえるルール変更も余儀なくされて、しかし、その意外性は、馬鹿らしいながらもスターウォーズを見ているような感激を生む。いや、この物語がそういう海外の壮大なSF作品と同列になってしまう無茶苦茶さが、何とも言えない余韻を含んでいるというか…。いや、本当にバカバカしいのではあるんだけれど。
 基本的にはお色気でキスを迫られて、しかしながらルールなんでそれを我慢していれば済む話ではあるのだけれど、映画ともなると展開にはそれなりにストーリーがあって、それを考える上ではキスをしていいというタイミングがあるらしいことも見て取れる。劇団ひとりは、本当にこのシナリオを知らないのか疑問に思えるほどに難局を乗り切り、そうして決め台詞を吐く。それはそれで笑いどころを掴んでいて、完全にストーリーに乗り切ったかに見えていた。そうしてクライマックスのキスにとうとう到達することになったのだが…。だが、これが痛恨のミスで、最終クライマックスではなかったのだ。ではお話はどうなってしまうのか、ということで、まさに驚きの展開になだれ込んでいくのであった。まったく彼は本当の馬鹿である。いや、天才なのであった。
 確かに見たところで何の得にもならないとは思うが、さらにひょっとすると本当に馬鹿らしい話なのでかえって腹が立つような人もいるかもしれないのだが、こんな話が映画になって、さらに続編まで撮られるという日本の現状は、やはり憂いても憂い切れないものがありそうである。バカボンパパなら、それでいいのだ、と言うには違いないのだろうけれど…。
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早起きはつらい

2016-02-18 | 掲示板

 特に睡眠が短くていい人間ではないと思うが、時々極端に早い時間に目が覚める。喉が渇いたりトイレに行きたくなるというのも無いではないが、家で普通のペースで生活している分にはそういうことはそうそう起こらない。特にトイレに行きたい訳でもなく、特に喉が渇いている訳でもないのに目が覚める。隣を見るとつれあいがまだ寝ている。そういう場合は6時より前だとだいたいの相場が分かる。子供がいる頃は弁当作りなどがあってまだ早起きだったけれど、今はその必要が無い。そうするとこれは僕だけが早起きしたらしいと分かる。もちろん部屋も窓の外も暗い。僕は目が悪いので、部屋に時計があるのかも知らない。トイレに行くと便器の操作機にデジタル・時計がある。それで時間が分かるが、さて、また布団に戻るかどうか。四時前くらいだと、もう少し頑張って寝てみるかと思うが、四時過ぎだと起きてもいいかもしれないと考える。昼過ぎなどに眠くなるだろうことも予想されるが、後悔先に立たずともいうし、その時の自分が困るのは現在の自分にはあまり関係が無い。目覚めている自覚の方が強ければ、流れに任せたらよかろう。
 しかしながらそういう流れに身を任せると、当然生活のリズムというのは狂う。早起きは三文の得だというが、睡眠不足は人生の損失である。さらに早期のボケの原因とも言われているし。ただ、早く目覚めた朝が眠いわけではないから、録画番組を見たり本を読んだり、いつもよりじっくり新聞を読んだりブログを書いたりできる。これが得なのかどうかは不明だが、朝の時間は邪魔がはいることは少なく、もの凄くはかどる気分というのが味わえる場合もある。もちろんそうではないこともあるが。
 そうしてこのような早起きは、恐らく僕の休肝日とも関係があるし、そうして月に二度程度風邪をひくような原因となっている場合もあるようだ。ただでさえ体が弱いのだけが自慢なのだが、さらに免疫力を低下させるようなことに繋がっているのかもしれない。もっとも肝臓も大切なので、そのための代償であるのなら仕方がないことだが…。
 それとやはり僕も若くないというのがある。若いころには二度寝が簡単だったのに、これが難しくなっているのだ。二度寝の気分の悪さを味わうよりも、起きてしまった方が楽だ。そもそも二度寝が寝付かれないなんて最悪である。今からこんな調子じゃ、もっと高齢になったときはどうなってしまうのだろう。つれあいにも呆れられているが、それはもっと高齢にならなければ分からないことでは無いだろうか。
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とにかく自由でハッピー(でも世間(SNS)知らず)  シェフ 三ツ星フードトラック始めました

2016-02-17 | 映画

シェフ 三ツ星フードトラック始めました/ジョン・ファブロー監督

 主人公は、人気の三ツ星レストランのシェフをしている。そのレストランにグルメ評論家が食べに来ることになる。どうも彼は以前にこの評論家から好意的に取り上げられたことで、トップのシェフに登りつめているようだ。当然張り切って斬新な料理を作ろうと奮起するが、レストランのオーナーから、いつも来てくれる客が喜ぶいつも通りの無難な料理を作れと厳命を受ける。仕方なくそうするが、グルメ評論家からはめちゃくちゃな酷評を受け、ズタズタに傷ついてしまう。そういう中、分かれた妻のところ居る息子からSNS(ここではツイッターのようだ)の使い方を少し習う。そして、ツイッターでこき下ろした批評家に、再挑戦するようなことを書いてしまう。もちろん批評家はそれを受けて再度レストランに食べに来るが、その時もやはりオーナーが立ちはだかり、自分の店で好き勝手は出来ないということでそのまま首になってしまう。しかしながら批評家はレストランには食べに来ており、怒りが収まらない男は批評家に向かって罵倒を浴びせてしまう。その場面を他の客が画像に収め、さらにネットで再炎上するのである。ということで、腕は立つが困った人間としてどのレストランも男を採用することは無くなってしまう。で、再出発に元妻の元彼から譲ってもらったフードトラック(エンジン付き移動屋台のようなものですね)で、マイアミから再出発することになるのである。
 これが大雑把な前半だが、それまでも様々な料理が実に旨そうに作られるのだが、後半はジャンク風の屋台料理ながら、実にまたこれが旨そうな、そうしてまったくヘルシーでもない料理がどんどん作られる。それを見るだけでも結構楽しい。また危機的なさまざまな状況が、屋台で料理を作りながら移動することで、どんどん改善されていく。特に料理オタク過ぎて家庭を顧みなかったからこそ離婚したような男だったわけで、息子もつれて父親としての関係も取り戻していったりする。妙にセクシーな元妻とも関係改善されていくような感じだし…。
 有名レストランのシェフを務めるというのは、料理人として最高に登りつめたしあわせな状況だったかもしれない。しかし本来的に料理を楽しんで作る。または、その料理を客に喜んで食べてもらうという喜びからは、なんだかちょっとだけズレていくようなものがあるのかもしれない。組織で働くというのは多かれ少なかれそういうことはある。この物語は、恐らくそういうことへのアンチテーゼとしてのサクセス・ストーリーなのだ。それはあるいはリスクは大きく見えるようだけれど、例えばこのフードトラックのような安っぽい方法さえ思いつければ、もしくは本当に自分でやれるという一歩を踏み出すことが出来れば、自由にやることだって可能じゃないか。まあ、そういうことなんだろう。まったく夢のある物語である。
 映画としてはそれでいいが、くれぐれもまだまだ自分の腕に自信の無い人は真似しないように。あまりにハッピーなので老婆心ながらそんなことも思った。まあ、それも自分の人生なんだから、いらんお世話ではあるのだけれど…。
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孤立する私のこと

2016-02-16 | 音楽

 僕の世代のロック・ファンというのは、ちょっとナイーブに複雑なところがあって、ロックが好きだからといって、それが単純に共通項であるとは限らない。まあ、それは別の世代でも当たり前のことだとは思われるのだが、出来るだけ今の音も聞こうとは心がけてはいるものの、要するに心がけて聞かない限りは、今のロックというものに対して、たいした共感があるわけではない。いや、もちろん心が勝手にキャッチするような感覚になる場合もあるのだけれど、まあ、以前のように理解できているとは限らない。それでいいというのは、当然いいのだけれども。
 ところで今の世代や、たまにだが同世代であっても、ロックミュージックが好きだという話の展開になると、「じゃあ、ボンジョビとか」といわれてガックリ肩を落とすということがあるわけだ。いや、好きな人はいるだろうけど、そういう分類のされ方は乱暴だな、というか。今は言われ慣れたようなところがあるけど、ボンジョビがロックだという認識さえ、ちょっと意外な感じもしさえする。いや、ロックなんでしょうね。さすがに。
 しかしながら、本当に狭い範囲でロックが好きという訳でもないのである。ちょっと古いがパンクでもプログレでもリズム&ブルースでも聞くのである。ただ、テクノみたいなものだと、ちょっと好みが分かれるかな、という感じだろうか。初期のテクノと今のテクノはかなり乖離があるので当然だけれど。
 また、80年代になってからのダンスミュージックというのが、これまた複雑な感じがするのである。最近はロックレジェンドというような言葉があって、普通は例えばそういうのは、ジミヘンだとかジム・モリソンあたりまでだと、それなりにそうだったかな、という気分になるが、いわゆる最近はEDMがブームになってしまって、そうして最近はELOなんかも新譜を出すような驚くべき状況になってしまって、なんだかもうぐちゃぐちゃといろんなものが一緒くたになって、以前からいいものが聴きつがれてきたような言説を耳にしたりするのである。いや、絶対に断絶はあったはずで、僕らと今は切れていて当たり前なんだけど、そうしてそういう連携の気分なんて大人げなくいってまったくないのだけれど、相手の方から親和的に手を差し伸べられているような気分になる時があるという訳だ。
 まあ、何の事だか分からないだろうけれど、いい大人になっているにもかかわらず、ロックの話になると大人げなくなっている自分を発見してしまう訳です。それでまあ、今となってはずいぶんオジサンになったバンドが次々に新譜を出していて、以前ならストーンズとかオジー・オズボーン程度のお笑いで済んだものが、それですまなくなって複雑な心境なんである。結局、ちょっと聞いてしまったりもするけど、そしてそれなりに悪くないものもあってさすがだとも思うことがあるにせよ、でもまあ青春は帰らないものだな、という冷めていく自分がいる。仕方ないからヒップポップでも聞くべきなんだろうか(さらに混沌)。
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M田くん、大丈夫か…。   君の膵臓を食べたい

2016-02-15 | 読書

君の膵臓を食べたい/住野よる著(双葉社)

 最初に断わっておくと、この本自体はまったくお勧めでは無い。本当に稚拙な小説だと思ったし、むしろ酷すぎると頭を抱えたくなるような内容だった。しかしながら、お好きな人が、読むのは勝手である。
 じゃあなんで読んだのか、ということになるが、朋友のM田くんが「読め」と薦めてくれたからである。それでちゃんと買って読んだのだから、関係者の方はご了承ください。
 内容は、膵臓を悪くして余命いくばくもない女子高生と、そのことを知ったクラスメートの(人間関係を作るのが苦手な)男の子との交流を描いたものである。またその周辺の人間模様というか。会話がハードボイルド・エンタティメント系のこじゃれたもので、それが若年層で軟弱に交わされるとこうなる、という感じが特徴かもしれない。
 読みだして、普通ならすぐに放り出す類の本だと思ったが、しかし興味は、「なぜこんな作品をM田くんが薦めてくれたのだろうか?」という思いだけだったかもしれない。答えとしては単純に、彼が良いと思ったからなんだろうけど、それを僕に分かって欲しい気持ちもあったのかもしれない。ところが僕としては、その気持ちがさっぱりよく分からないのである。まったくの逆効果というか、本の好みなんて個人の勝手だから、それでも僕が読んだら面白がると考えてしまうくらい、僕らは分かり合えていないということに尽きるのかもしれない。まあ、それくらいは僕だってM田くんのことは知らない訳だが…。
 僕もまあ、高校生くらいの時から村上春樹は好きで読んでいて、要するに初期のあの翻訳調のクサい感じがツボにはまったからなんだろうけど、それで僕の方も大人になって、なんだかんだと文句を言うこともあるにせよ、やはりいまだになんとなくクサさの抜けない彼の作品は読んだりするわけだ。この作品の会話の展開というのは、恐らくそういう村上第二世代(伊坂幸太郎など)といわれる人たちの亜流のようなものなのだろう。ハマると中毒性があるのだろうというのは、分からないではない。
 M田くんも大人になって、いや、子供の頃から続いていることもかもしれないが、いろいろつらいことがあるのかもしれない。そういう気分がこの本によって救われたのなら何よりである。僕はつまらないものを読まされて荒んでしまったけれど…。でもまあ焼肉を食うなら、ロースやカルビばかりではちょっとしんどいことは確かである。ミノとかハツとかホルモンなどを、食べて元気になれるといいですね。
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