カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

議員を寝せない国会になれば……

2021-02-28 | net & 社会

 Twitter に新聞記事が上がっていて、その内容が読者投稿で、その投稿者は14歳の中学生で、内容としては国会での居眠りの批判してをしていて、そのような居眠り議員には罰則罰金を科すべきではないか、というようなことが書かれてあった。国民の多くが苦しんでいるこのコロナ禍にあって、非常に腹立たしいということかもしれない。よくまぁ重要な国会の席で寝ていられるものだ、と呆れている報道か何かを目にしたのかもしれない。国民はこんなに大変なのにと言う、不満の表れを書くことが、ちょっと賢い自分だという自惚れがあるんだろう。確かに14歳にしてその感性というのは、問題がある。そしてそういう子供を育ててしまう日本社会にも、問題はあるかもしれない。
 そもそも国会議員と私たちというのは、人間としてや、ましてや生物としては、そんなに大きな違いがあるわけではない。選挙に出るような人たちとは言え、だからと言って我々とは違う人類ではないし、だからこそ民主主義の制度に従って、この社会を構成している人たちに過ぎない。そうゆう人たちが国会の席で寝てしまうというのは、事実としては、眠たくなる答弁が繰り広げられているからである。何度も議論してきたことを、繰り返し繰り返し説明的に同じ内容で発言がなされる。質問その他もくだらなくて聞いてられない。ごくたまにいい質問が無いわけではないが、それは極めてごくたまの出来事でしかありえない。しかしまあ国会の席についていると、逃げる訳にもいかない。そうしたらどうしてもつまらないので、睡魔に襲われてしまうのではないか。その上にテレビに映される始末である。いわゆる災難である。そうして何か勘違いした中学生からも批判される。そういうものをまた取り上げる新聞もある。全くさらにやる気も失せる、というものである。
 国会議員が寝てしまうような国会というのは、おそらく国会議員じゃない人間が出席しても寝てしまうと思う。それは自然なのだ。何か面白そうな議論や面白そうな語りとかそういうことをやってしまうと、結局批判されてしまうので工夫のしようがない。そのような場に国会が陥っていしまっているということが問題であって、 それらが解決できないのであれば、こういう現象はなおりそうにない。しかしまあ国会にそういうものが求められていないのであろうから、今後も国会議員は寝てしまうのではないか。
 つまるところ批判のための批判が続いている現状を鑑みると、その結果として国会議員を寝せてしまうという現象しか起こりえない。もっとも国会議員が夜の時間にたっぷり睡眠を取ればいいという世の中になると、 居眠りは少なくなるかもしれないが、いい議論が積み重なるという事にはならないのかもしれない。そう考えると、やっぱりなかなか難しい問題である。まあ怒りに燃える頭の悪い中学生が新聞投稿する世の中よりは、少しはマシかもしれないが。
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スウェーデン旅行には気を付けよう   ミッドサマー

2021-02-27 | 映画

ミッドサマー/アリ・アスター監督

 主人公の女性は、事故か何かで家族を失った過去があるらしい。そのために少し神経症のような感じになっており、付き合っている彼氏もそのことを分かっておりながら、対応に戸惑いを感じていた。彼氏の方は友人グループとスウェーデン旅行を計画しており、もともと彼女まで連れていくつもりはなかったが、流れ的に一緒に旅することになる。そこでのコミュニティでの夏至の祭りに参加すると、何かどんどん奇妙な祭典が執り行われていき……。
 改めて断っておくべきことは、この映画は普通の映画の文法で撮られたものではなく、とにかく見る人々を混乱させるために工夫を凝らしたカルト的な作品なのである。とにかく変な映画が好きだとか、時間を浪費することをいとわない人くらいしか、この作品は好きになれないだろう。僕の母はなんとなく僕の後ろでこの作品をみせられて、裸でウロウロしてさせられた男が可哀そうだった、という感想を言っていた。まあ、事実そうなのだが、それだけの映画ではない。
 他でもなく僕自身も、この監督の前の作品である「ヘレディタリー継承」見て、今作品に期待したクチである。今となっては観て後悔してしまったけれど、まあ、前作の変な感じはそれなりに堪能出来て良かった。そこらあたりが現段階でのこの監督の限界なのかもしれないし、面白さなのかもしれない。それというのも、日本人の一部の者にとっては、このような儀式への受け入れは、もともとできていると思われるのだ。異常ではあるけれど、それはあくまで現在の自分の置かれている立場や世界が言わせているものであって、世界が違うとそういうものがあってもいいのかもしれない。ただしこちらだってそちらの世界には立ち入らない。少なくとも意見も言わないし、ましてや正否を問うべきものではない。
 結局のところ、イスラムやキリストでこの物語を描くとややこしくなるので北欧にしたのではないか。もちろん北欧をこそモチーフにすることでの意味はあったとは思うが、東洋やアマゾンみたいになると、なんだか当たり前すぎて面白くない。もちろん彼らにとっての話だけれど……。
 ということを、つい考えてしまうのだ。要するに日本人である僕には、この異常さは、あんがい了解済みだったのかもしれない。でもまあ強烈なので、興味ある方は、幻滅感も含めてお楽しみください。
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人の一生は退屈しのぎなんだそうだ

2021-02-26 | 母と暮らせば

 母と暮らしていて一番問題を感じるのは、やはり同じ話題の繰り返しを、聞かなければならないということだ。聞いたことのある話を、あたかもまだ聞いたことないようなふりをすることはできない。少なくとも僕には苦しい。かといって、いちいちそれを前にも聞いたよ、と注意するともできない。ずいぶん前にはそんなこともしたことがあったかもしれないが、今となっては、もうできない。それくらい不毛なことであることは、理解できている。そうであるから、要するにただ忍耐で聞くしかない(聞いてないと、つれあいからは言われるけれど)。
 結末の分かってる話を聞くというのがどれほど辛いのかというのは、それを経験をしないと、実感として分からないのではないか。一度聞いた話より2回目の方が楽しいことがあれば、いいのである。落語なら、何度か聞いても面白いことがあるが、母は落語を語っている訳ではないようだ。そういう過去の話を、2度や3度ではなく、延々と日々重ねて聞き暮らしている。
 それぐらい我慢しろよ、という人もいるかもしれない。他ならぬ自分の肉親である母を敬う気持ちがあれば、それくらいはなんでも無いことではないか。そんなことを本気で思っている人がいるとするならば、そういう人は、よっぽど愚かな人間であるだけのことである。まあ、そんな風に思えるというのは、人間としての無責任がなせる業で、しあわせでいいことかもしれないが、共感力がないというのは、単に経験値と想像力が足りない人間だということに過ぎない。人間的に甘いのである。
 なぜこれほど苦しく難しいことなのかと言うと、やはりその時間が退屈だからである。いかにも初めて話すが如く、同じ話が始まってしまう。それは当然のように、ふつうに自然に直観的に分かっている。最初のころは、いささか呆れるというか、やはりなんだか悲しいものがあった。そういう悲しさを毎日味わっていると、しかし悲しさも、飽きてしまうということを知った。そうすると、やはり辛いということだけが、残るものなのである。そしてその前に、もっとはるかに度数と場数をこなし耐えている妻に対し、大変申し訳ない気持ちにもなる。でもまあ僕は無理かなと、やっぱり思ってしまうのみで、どうすることもできない。母は、病院でも、特に脳が委縮するなど、問題があるとはされていない。それは一体どういうことなのか。良いことのようにも思うが、それは本当にいいことなんだろうか。今やそれすら、とても分かりえない事のように思える。
 要するに防衛反応としては、ほとんど聞いてない。つまり母が話してる間というのは、会話というより、ボーッとしているのに、かなり等しい。上手くいくと別の考えを思いついて、そうできることもあるが、一応相手は話をしており、対話というのは面と向かって無視するのはあんがい難しいもので、どうしても話は聞こえてくる。そういう場面で別の考え事をしたところで、その考えが上手く進んで、いいアイディアを生む、なんてことは起こらない。そうすると、また我に返って、ただボーっとしてると言うか、無益な時間を過ごしてると言うか。いっそのこと無我の境地のような修行ができているのならいいのにな、とか考える。
 修行ができて、それで悟りを開くようなことがあると、何かしあわせがつかめるとかすると、少しは張り合いができるかもしれない。しかしそんな心構えの人が、悟りを開いたという話は知らない。母と一緒に何か、全く生産性のない残りの人生を歩んでいるような気がするだけのことなのである。
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隣人は選べるのだろうか   クリーピー偽りの隣人

2021-02-25 | 映画

クリーピー偽りの隣人/黒沢清監督

 元警官で、犯罪心理学者として教鞭をとっている高倉は、妻とともに新居に引っ越す。近所にあいさつに回るが、その隣人が何だか風変わりでなんとなく不快なのである。一方、元同僚の後輩刑事から頼まれて、過去のサイコパスの殺人事件を調べている。それで一人だけ生き残った娘の証言を聞いているのだが、もう少しで核心に触れられる感じがありながら、なかなか上手くいかないのだった。そうするうちに隣人の行動がエスカレートしてゆき、妻に魔の手が伸びてきて……。
 最初から怪しいのは分かっているが、しかしこんな感じに気持ち悪いとは思っていなかった。重層的な話のはずだが、しかしだからちゃんと関連しているのだかどうだか。香川照之さんの演技が、上手いとか下手とかいう次元を超えて、気持ちが悪い。今となっては明らかすぎることであるけれど、やっぱり改めて凄い人なんだな、ということが確認できた。しかしながら警察をはじめとする人々が、結局はあんまり慎重に行動をしていなくて、だから簡単にやられてしまうにしろ、ちょっと設定として惜しいと思う。ガツンとやられるにせよ、やはりサイコパスだからこその仕組みがもっと必要な気もする。実は陥れるために複数の罠があるとか……。まあ、気持ちの悪さは伝わるのだから、それでいいのかもしれないが。
 捕まらないで殺人を続けているサイコパスはいるのかもしれないが、殺しをずっとやめないのであれば、やはりいづれは終わりが来るのだろうと思う。それまで犠牲者は増え続けるが、やはり事件を追う人もいるし、それにいつかはミスのようなことをするだろう。この作品では、家族というのを上手く使うわけだが、なるほど、そういうアイディアは、確かに使えるものかもしれない。また、そう考えるサイコパスがいるとしたら、この映画を参考にすることがあるのだろうか。いや、たぶんないだろう。やはりこの仕掛けのためには、偶然の成功も必要そうだからだ。それがミステリとしては惜しいところだが、まあ黒沢作品である。そういうことも許されるのかもしれない。
 それにしても、いくら隣人だからと言って、そうまでして仲よくしたいものだろうか。家を買ったりして住むという行為には、何か抗えない恐ろしさを含んでいるようにも感じる。そういう運のようなものから逃げられない人々は、きっと他にもいるに違いない。
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インドで彼らも考えた   マリーゴールド・ホテルで会いましょう

2021-02-24 | 映画

マリーゴールド・ホテルで会いましょう/ジョン・マッデン監督

 それぞれに事情があって、英国を離れて老後の生活を営んでみたくなった人々が、豪華な宮殿暮らしのように謳っていた広告を目にし、インドに旅立つ。しかしそこは、ろくに扉も閉まらないさびれたオンボロ宿を切り盛りする調子のいい青年の居る宿だった。それでも気を取り直して、それぞれにこの新天地での生活を始めようとするのだったが……。
 植民地にしていたインドに対して、英国はどのような感情をもっているのかはよく知らない。しかし旧植民地としての面影もあるし、なかには少年時代をここで過ごした人物もいる。貿易の関係なのか、単に映画的な配慮なのか、一定の人は英語を使うので根本的な生活は困らないということかもしれないが、恐ろしく生活の文化が違う世界に飛び込んで、毎日さまざまな事件が持ち上がってくる。そういうものだという楽観とあきらめのある人はいいが、さらに意固地になって外界を遮断するような人だっている。そうしてインド的な騒動の中、それぞれ英国では果たせなかった心の平穏のようなものを取り戻すことができるようになる人もいるのだった。
 文化ギャップを刺激にして、物事をあれこれ考えるのは良いことだとは思う。しかしながら、得てしてこういうのが得意なのは若者である。受け入れる側にそれなりの許容と自由な精神が無ければ、そういうものに対応できにくいと思われる。ところがこの映画では、真逆の偏屈な高齢者集団である。ひどいところであることは、実はまったく知らなかったわけでもなかろうが、もうこれはこの喧噪世界に慣れるよりない。面白いところもあるし、まあ、呆れることも多い。そうやって本国で味わった心の傷のようなものが、段々と癒されていき、そうしてここで、また新たなドラマが生まれていくわけだ。
 この映画評判が良くて、続編まで作られたようだ。僕としてはちょっと良い話過ぎるかな、という感じはしないではない。何故ならアジアンないい加減さは、それなりに実際に体験してきたことだから(まったく酷い目に会ったものだ)。もっと激しい葛藤が無ければ、異文化なんてそう簡単に受け入れられるものではない気もする。まあ、映画の時間もあるんで、これくらいでちょうどいいのであろうけど……。
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「鬼滅の刃」を知らないで語る

2021-02-23 | net & 社会

 「鬼滅の刃」を知らないのに「鬼滅の刃」を語る人がいる。結局「鬼滅ってさ」なんて語りが聞こえる。まあ、でもどうでもいいので聞いていない。しかしそういう人を必ずしも笑えない。なぜなら今から「鬼滅の刃」について語ろうとしているからだ。
 しかしながら厳密に言うと「鬼滅の刃」をまったく知らないという訳ではないのかもしれない。それだけブームというのはすごいもので、何らかの形でキメツノヤイバというものは見たことがある、と言うか聞いたことがある。問題は、内容はよく分からないということだ。テレビでやっているのかもしれないが、そのものは見たことが無い。いったいどこで放映されたのだろう。アニメであるとか映画であるとか漫画であるとか、そういうことは知っている。そういう背景的なものは、誰かが教えてくれたのかもしれないし、雑誌で見たのかもしれないし、ネットで見たのかもしれない。だから、そういう基本的なことは分かっているような気がする。それにスーパーとかで買い物をすると、いろんなものにこの「鬼滅の刃」の絵が書いてある。「鬼滅の刃」の絵であることが理解できているので、やっぱり何らかの情報が僕にも届いている。
 子供向けとばかり限らないものにだって、この絵が書いてある場合がある。いったいどんな大人が……、なんてことを思うが、別に非難するつもりはない。それは好き好きである。世の中にはそんな大人はいる。僕だって「ゲゲゲの鬼太郎」は好きである。それとこれとが同じなのかどうかが、分からないだけである。
 子供だけではないブームが、おそらく日本全国に広がっている。外国まで人気があるかどうかまでは、知らない。しかし日本のアニメなどは、少なからぬ海外にも影響があると聞いたことがあるので、ひょっとすると、そういう影響もあるかもしれない。
 さらに僕が知っていることでは、おそらくこれは大正時代だということもある。それは着物を着ているということと、そういう情報がおそらく誰かから聞いたのだろう。しかし大正時代の人が着物を着ているという印象は、これまであんまりなかった。そういう意味では、たいへんに啓蒙的な漫画かもしれない。
 しかし、そこまで知っているのに物語(ストーリー)は知らないのは、基本的には知ろうとしてないからかもしれない。どうしても知りたくないということもないけど、すでに大幅に乗り遅れてしまって、興味がわかない。さらにひねくれた自分がいて、今更そういうものに参加したくない。僕は人目を気にしない方なので、知らないのを恥ずかしいとは思わない。いや、いまさら聞くのが恥ずかしいのだろうか?
 人々の熱狂というのは、傍から見ると案外滑稽なものである。冷めた視線で熱狂を見てしまうと、その内容自体に興味が沸く前に、何か非常に面白くないものを見てしまったような、素通りてしまいたくなるような、そんな感じがするのである。もちろん乗り遅れてしまった人というのは僕以外にもいるはずなんだけども、そういう人たちが全て僕のような考え方ではないとは思うものの、しかし何か少しくらいは、似たような心境があるのではないか。別にそれで連携を取りたいわけではないけども、そういう人たちというのは、何かやはり似たような所があって、お互いが理解しやすいかもしれないではないか。
 もっともそういう人たちというのは、あまり一般的ではないはずで、だから乗り遅れてしまって孤立してるわけだから、やっぱり何か問題をもっている可能性が高い。さらにそのひね具合を鑑みても、性格が良いとは言えないのかもしれない。そうしてそれを自覚的でないとしたら、やっぱり付き合うべき人たちではないのかもしれない。自分のことを棚に上げて言えることは、それくらいであろうか。
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諫早のあのあたりが舞台だろうか   野呂邦暢ミステリ集成

2021-02-22 | 読書

野呂邦暢ミステリ集成(中公文庫)

 表題の通り、野呂邦暢の特にミステリだけを集めた作品集。小説だけでなく、エッセイもある。
 地元の文士なので興味をもっていくつかの作品は読んでいたが、恐らく初めて読むものばかりだった。要するにまだほとんど僕は何も知らなかったわけだ。もともと野呂はミステリ作品を好んで読んでいたらしく、また、ミステリらしい作品のアイデアも温めていたらしいことも見て取れる。亡くなる少し前に書かれたものが多かったようだが、印象としては、それまでの作品より、やや俗っぽいかもしれない。もっとも発表した雑誌や編集者の意向もあったのかもしれない。
 サスペンスとミステリが合わさった作品が多く、さらに血の絡んだ話もあるので、動きのあるものもある。仕掛けとなるミステリも味付けはそれなりに凝っていて、なるほど意外性もある。短編ばかりだから勝負が早いのだが、いくつか組み合わせて長編にもできそうな作品もあるように思った。もう叶わないことではあるが、そういう少し長めのミステリも読んでみたかった。
 ミステリ作品の多くは、読者を欺いてあっと言わせることに主眼を置いていると思う。野呂作品にももちろんそういう仕掛けがあるのだが、しかしそのトリックの奇抜さを競って書かれたのではないのではないか、と思われた。むしろそのトリックを解く前の緊張感のようなものに、翻弄される感情的なものを上手く表現しているように思う。なんだか不快でありながら、しかしそれを脱するには、謎を解かなければならない。解かれたからと言ってすべてが解決する話ばかりではないが、やはり少しホッとするものがある。嫌な感じをそのままにして突き放すようなものもあるにせよ、終わってみると開放が無いわけではない。考えすぎかもしれないが、そういうものから逃れようとする感情を、描くことに長けた人だったのかもしれない。
 なお、出身地である長崎の地名がそれなりに出てくる。住んでいる身としては、それだけでも何となくドキドキする。少し細工はしてあるけど、たぶんあそこらあたりのあの事情なのではないか。そういうところは地元サービスということだったのだろうか。少なくとも、地元民には楽しめる感情ではないだろうか。
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セクシーさは気まずい

2021-02-21 | 母と暮らせば

 映画を観るのは好きだが、家で映画を観ていると、時々困ったことになる。いわゆるラブシーンというか、セクシーなシーンになると、家族の間で、なんだか気まずい思いをする。特に僕は母と同居しているので、親子の間で、この気まずさを味わうことになる。
 母はセクシーな場面を見ると、というか、特にセクシーさを強調する女性が出てくると、だいたい決まって「寒くないのかな」という。確かにセクシーさを強調するような女性というのは、薄着かもしれない。言ってることは正しいかもしれないが、寒いかどうかが重要かというのは違う。いや違うと思う。僕はそれで答えに窮する。そんな風に問いかけられても、困るのである。実際にそのような薄着の女性が、北国の屋外でそんなことをしているのならば、「確かに寒そうだね」という返答も可能だろう。しかしながらそういう場面というのはたいてい屋内であるし、南国の灼熱の太陽のもとであったりする。とても「寒く無いのか?」という疑問に同意するわけにはいかない。
 しかしながら母はあえてそういう場面で、寒くないのかという疑問を呈するわけがあるのは分かる。黙ってそういう場面を見ていること自体が、気まずいからだろう。僕だって気まずいが、しかし何か言うようなことは特にない。そういった沈黙自体が、さらに気まずさを助長させているのかもしれない。それでそういう空気を壊したいがために、なんだか的外れだけど、そんなこと言ってしまうのかもしれない。
 しかしやはりこれは適当な表現ではないのであるが、実はそのセクシーさを理解できないということを、暗に言っているというのは分かる。要するに母はカマトトぶってるわけで、そのセクシーさ自体を無視したいのだと思う。そして出てきた言葉が「寒くないのかな」ということである。息子である僕はそれを分かっているので、正直かなり白ける。僕を生んだことのある女性が、そんなことを言っても意味があるのだろうか。もちろんセクシーな場面を前にして、僕自身が盛り上がってしまうわけにもいかない。そうであるから、それはそれでいいのかもしれないけれど……。ということを考えてみると、あながち母の戦略は、間違っているとは言い切れないのであった。
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ちょっと理屈が過ぎるかもしれない   ハッピー・デス・デイ・2U

2021-02-20 | 映画

ハッピー・デス・デイ・2U/クリストファー・B・ランドン監督

 一作目で、お話としては完結したかにみえた(が、恐らく大ヒットしたために急遽作られることになったのだろう)、続編。最初は彼氏のルームメイトが部屋に帰ってくる場面から始まり、その友人が大学で量子力学を学んでいる学生で、その実験において強力な磁場を作ることで(そんな説明は無いが、恐らくそんな感じ)タイムループが生み出されていることが暗に分かる。最初はそのアジア系のルームメイトが殺されるが、タイムループで前日に目覚める循環に陥ったのだった。ここまでは前作を見ている人間には、なるほど、そのように継承された話なのか、ということが理解されるはずである。そして、この状況を経験的に知っているツリーが問題を解決しようとすると、今度も別の次元に移ってのタイムループに、結局は自分自身がはまり込んでしまうことになってしまう。しかしその世界は、死んだはずの母が生きている、いわゆる別の次元の時間帯なのだった。しかし一方で、せっかくほんとうの愛を感じて付き合うようになった彼氏であるカーターは、友達の彼氏になっているのだった。もともと自分が生きていた母の居ない世界に戻ることは、とてもできそうにない。何しろ、もともとツリーの性格の悪い原因は、そのように母を亡くした過去の悲しみがそうさせていた可能性が高いのである。そんな悲しみと喪失をまた味わいたくはない。が、しかしそれは自分がもともといた世界ではない。そうして、本当の恋人との愛も真実だったはずなのだ。
 そういう精神的な葛藤はありながら、しかしこのタイムループ自体を止める方法が物理現象にある、ということはうっすら理解できる。何度も繰り返し殺されることになったが、その間に量子力学の実験の理論を学び、ループをとめる為に必要な理論を自分の頭の中で構築していくより方法が無いことも突きとめる。何しろタイムループの中の人々は、自分以外新たな学習の積み上げができないのである。自分はヤンキーのバカ女だったが、一応大学生だし、これはもう物理理論を導き出すための猛特訓を、何度も死にながら積み上げることになるのだった。
 まあ、続編だけれど、今度は殺人犯が重要という感じでは無くなり、さらに次元を飛び越えて違う世界で生きようとするために、設定や状況がちょっとだけズレてしまって、なんだか前回のループの再現性が少ない話になっている。まったく同じ状況が繰り返される中で、自分だけが経験を積んで試行錯誤する面白さがこの作品の最大の魅力なのだが、ちょっと複雑になった分、なんだかいい話になりすぎて、面白さも半減してしまった。すぐれた作品の続編は失敗するというジンクスを、破れなかったのかもしれない(そんなジンクスなんて本当は無い。勝手に僕個人がそう思っているだけなんだけど)。
 もっとも、前作のループがなぜ起こったかという解決篇として、かなり理屈を通した末にこうなったのは分かるのである。理屈の上では、そういうSF的な考え方はある。しかし、それで恋のしあわせは失われ、家族の愛が復活する。本人がこじれた性格で、本来は悪女であるから命を狙われていた前提がいつの間にか覆り、もともとそんなに悪くない女だったようなことになって、徐々に性格が改善されていくようなカタルシスがなくなってしまったのかもしれない。まあ、娯楽作としては及第点であるとは思うが、個人的には残念である。でもまあ、殺人のもとになる犯人も変えなければ謎解きは面白くはならないし、制作陣もいろいろと頭を悩ませて作ったお話ではあるんだろう。もともとヒットさせる能力が高い人たちのようだから、次回作に期待しましょう。
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雪の降る町で……

2021-02-19 | HORROR
 確かに前の晩から結構雪が降っていて、自宅に帰る駐車場の時にはすでにうっすらと積もりかけていた。これは翌朝少しヤバイかなあという感じは元々あったのである。だったのだが、翌朝新聞受けから外を見ると、これはもう銀世界。結構降ったなーっていう感じ。北国に住んだことがないから実感として比較のしようはないけど、いくら北国だってこれくらいだと、やっぱり少しは積もったな、というのではないか。もっとも九州の人間のように慌てた心情にはならないだろうけれど。
 テレビのニュースを見て、新聞も読んで、しかしその事態が変わるわけがない。まだ朝だし車が そんなに通っている訳ではない。自宅の上の方には大きな病院と、そうして大きな工場がある。通勤の人が山を登る。そういう車が轍を作って、後の車が通りやすくなるはずだ。しかし僕の自宅は少し住宅地というか、通勤だからといって交通量が多いわけではない。確か僕の車は四駆だったはずで、だからなのかチェーンは買わなかった。それがどうにも気になるというか、要するに運転には自信がない。一度外に出て様子を伺って、やっぱり雪は積もっていて、少し山側に歩いて行って、高速道路は通行止めらしいなということは分かった。車はそれなりに通っていて、雪が黒ずんで汚くなっている。この後僕が通る分には、通りやすい程度にはなっているはずだ。しかしこれはもう少し様子見て、もう少し車が通った方が、車で行くぶんには、もっと通りやすい道になるはずだ。それに正直言って、僕は朝のお腹の調子に不安がある。家を出る前に済ませるか、職場に着いてからの方がいいのだろうか。それは大きな問題だ。それで少し家で済ませようと考えた。いつも早めに出勤してはいるので、平時にはだいぶ早く職場にはついている。ということで、まだ余裕があるという考えが元になって、いつもより少し出勤が遅くなったのが、まず良くなかった。
 いつもとは通っている山道は避けて、交通量の多い平地の道を行くことにする。雪は大分融けていて問題ないが、しかしのろのろである。みんな慎重になっている。さらにやはり交通量は多いような気がする。僕と同じように山道を避けているのだ。信号までが遠い。そして信号が長い。多少は仕方ないなと思うが、さらに慎重になって、国道の道を選択する。そうするとさらに行列が長い。先にある2車線から1車線になる所為もあるかな、と考えている。しかし追越車線を行く車があって、動かない側からするとなんだかイライラする。先の方で譲っているんだろうか。まあ、人の好い人が先頭に多いのは、僕にはどうしようもない。なんとか自分を落ち着かせたい。そうしてやっと合流地点に来て、強引な車になんと僕は譲ってしまった。ハザードランプがチカチカしているが、僕の心はイライラするだけだ。更に渋滞は続く。本当にノロノロしている。どうして今日に限ってウスノロばっかり前にいるんだろう。いつも15分で通過するような距離に、結局40分かかってしまった。そして信号もなく流れが良くなった国道を行っても、やはりいつもより速度が遅く、通勤にトータルで1時間以上を要してしまった。唯一良かったのは、なんとかトイレ問題はスルー出来たことくらいだろうか。
 結果的に,本当に何年ぶりかだろうか、遅刻いたしました。なんと遅刻したのは、今回僕だけだったようで、早出の人も含めて皆さんふつうに出勤できたそうです。なんだか本当に申し訳ありませんでした。
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繰り返される最悪の誕生日   ハッピー・デス・デイ

2021-02-18 | 映画

ハッピー・デス・デイ/クリストファー・ランドン監督

 二日酔いでどこの誰とも知らない男のベッドで目覚める女子大生のツリーは、その日が誕生日だった。しかしながらこのツリーという女性は、非常に性格が悪く尻軽で、何事にも悪態をついては嫌われるような女でありながら、男にだけは興味を惹かれるという存在だった。で、最終的には変なお面をかぶった人物に殺されてしまうのだが、死んだはずなのに目が覚めると、またしても同じ誕生日の朝に戻るという、タイムループに陥ってしまう。翌日も同じような日常が繰り返され、最終的には殺される。そうして翌日も……。うんざりするけれど同じ最悪の日は繰り返され、何度も何度も殺されていくうちに、自分を殺した犯人に自分を殺させないようにしないことには、この同じ日の繰り返しが終わらないことを悟る(それも人に教えられて)。それで犯人は誰かということになるが、何しろ人から恨まれることばかりしてきた人生なので、誰に殺されてもおかしくは無いのだ。また、頭も悪いので、どうやってこの最悪の状態から抜け出してよいのか皆目分からない。そういうわけで、ともかく試行錯誤は続くのだった。
 映画の中でも言及があるが、「恋はデジャ、ブ」という元ネタになる映画をいじった、ホラー・コメディになっている。また「恋はデジャ・ブ」というのは、恐らくフランク・キャプラ監督作品の「素晴らしき哉、人生」という映画にインスパイヤされているに違いなく、最悪な人生をやり直すには、まっとうな人間になることで叶えられるというような、アメリカ的な倫理観や宗教観が元になっているものと考えられる。そういう土台あるという前提を知っていると更に楽しめる事とは思うものの、まったく知らなくて全然問題なく楽しめる作品である。何しろ本当に最悪でどうしようもない一日だったことが、主人公の考え方が変わることによって、なんだか好転していく気分に変わる。とてもじゃないけど好きになれそうにない主人公が、時にはたくましく、時にはたいへんにキュートに見えてくるようになる。そういう魔法がかった演出が、コメディやアクションとともに、息をつかせずに展開される。
 実は続編があって未見なのだが、もうこれは絶対に見ることになると思う。面白かったので、詳細はかまわないとは言えるが、実はいくつか「あれッ」っと思うようなことが無かったわけではない。正当な続編らしいし、この映画がそれだけ多くの人に支持されたからこそ作られたものであろう。ということで、また、それから感想は書き直すことに致します。
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人生は取り返しがつかない   紙の動物園

2021-02-17 | 読書

紙の動物園/ケン・リュウ著(早川書房)

 数々の主要な国際賞を受賞しているSFの名作短編集といわれている。まずこれはSF作品なのかどうなのかという話があるくらいなのだが、短編集の大きなくくりとしては、そうであってもおかしくはないかもしれない。いろいろあるので、明確にSF作品は入っているし、基本的には、背景を何かちょっとした力を用いてフィクションにしてあることは間違いはない。しかしこれを読んだ多くの人は、人種を超えた歴史的なことや、日常におけるふとした感情の機微について、深く考え込んでしまうのではなかろうか。
 著者は若い頃に家族とともにアメリカに移住し、そのままアメリカの学校を卒業し、企業に勤めたり起業して他の仕事したり弁護士になったりしながら作品を書いたようだ。若いなりに経歴も豊かだが、そのような素地が作品にも表れているような印象も受ける。アメリカ的な価値観を十分理解しながら、しかしルーツにあるアジア的な神秘主義を見事に作品に昇華させている。国際的に評価が高いというのは、そのような多様性に目を見開かれる人が多いということでもあろう。もちろん日本人である読者にとっても。日本でも又吉直樹が面白いと紹介したことも大きかったらしく、広く読まれる作品であるという。僕自身は又吉経由ではなかったが、なるほど、彼が納得したという理由も考えながら読むと、さらに興味深い作品群かもしれない。
 実を言うと、表題作を読みながら、僕は涙が止まらなくなった。ほとんど号泣という感じになって困ったのである。なんという悲しい話なのだろう。そうして同じアジア人として、このような切実な後悔の念はよく分かるのである。実際にアメリカに行ったことも無い人間でありながら、恐らくそうなってしまうアジアのマイノリティの心情が見事につづられている。そうしてこのような魔法というのは、確かに身近にあるはずなのである。そういうことをすべて失って、そうして忘れてしまったからこそ、この作品は味わい深くなる。
 短編集だからいろいろな作風のものが収められているが、表題作と最後の「文字占い師」というのが、なんとなく似たような印象が残る。もっとも底本にある作品集を分冊化した一つなのだという。訳者の解説だと、もっと他にも優れたものがあるというが、ともかく表題作である「紙の動物園」だけでも読むべきであろう。非常に短いが、これが数々の賞を重複して受賞した決定打だったはずである。そうしてもしも、心に後悔のわだかまりのある人がいたならば、これを読んで悔い改めなければならない。人生は取り返しがつかないものだからである。少なくとも、そのことを思い知ることになるだろう。
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自信が無いけどやっていく決意   東京公園

2021-02-16 | 映画

東京公園/青山真治監督

 写真家になろうとしている学生の光司は、友人であった幽霊のヒロと同居生活をしている。公園で気になる人物をランダムに写真に収める日常を送っていたが、ある歯科医の男から、ベビーカーを押して歩く若い母親の写真を毎日撮ってくれるように頼まれる。浮気調査のようなものなのかどうかわからないが、押し切られて引き受ける。
 光司には、血のつながらない年上の姉がおり、自分の母親が死んだ後父が再婚してきょうだいとなった過去がある。その再婚した後の母が病気になっており、離島までお見舞いに行く。そこで姉らと再会し、公園での写真の出来事などを話すのだったが……。
 いろいろ意味深なことは見て取れて、恋愛が絡んでいる。皆はそれぞれに自分の内にひっかかるものを抱えて生きているが、誰もそのことを相手にうまく伝えきれていない様子だ。それは、わだかまりのように長い年月自分自身にまとわりついていて、相手に思いを伝えない限り、その糸のように絡まったものが解ける術は無いのかもしれない。
 そうしてきっかけをもって思いが伝わると、順にほどけて、そうしてそれは元に戻らないかもしれないが、新しい流れが再び流れ出すようなことになっていくのかもしれない。
 演出的にまどろっこしい表現が多く、会話も交互にかわされ、昔の小津作品のような変な流れを生んでいる。それが効果的かどうかまで僕にはわからないが、成功しているようには見えない。意味深だが、そんなもので幽霊は消えるのだろうか。さらに人の猜疑心も消えるのだろうか。ちょっと中途半端かな、という印象か。
 それにしても主人公の三浦春馬は、もうこの世にいない。友人役の幽霊であるヒロを演じているのは、染谷将太である。奇しくも現代に妙なコントラストの残る二人が、こうして共演しているのを見るにつけ、映画というものの見方に、やはり現実の問題が絡んでしまうことを考えざるを得ない。そうしないと、今僕はこれを観なかったのだろうし。そしてやっぱり、残念な気持ちが映像を追いながら残るのであった。これはもう仕方のないことだと、諦めているにもかかわらず……。
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ラッコがやってきた場所

2021-02-15 | 境界線

 北海道のラッコを追ったドキュメンタリーを見た。これまでは見ることのなかった新しい居住者の存在が、話題になっている様子だった。おそらくラッコにとって豊富な食べ物があって、どこからかやってきたのだろうと思う。もっと寒い北の国から、新天地を探してやってきたのだろうか。
 ラッコというのはオスの個体が、それなりに広いテリトリーを持っているようで、それらの陣地を守りながら生活している。それらとは別の場所でメスが子育てをする。どうも一匹のメスが一匹の子供を順に育てるようで、一匹が独り立ちするまでの期間を考えると、効率はあまり良くない。ということは、爆発的にすぐに増えるとは考えにくいが、雌の個体がそれなりに同時に子育てを成功させうるなら、たしかに増えないことはない。個体数に対し領域は広そうで、まさに、ラッコにとって楽園のような場所が、あらたに生まれたのかもしれない。
 ところで気になったのは、この場所では漁師さんたちは、主に昆布を取っているらしい人が多かったのだが、しかしラッコの存在が全く気にならないわけじゃないようだ。ラッコは大食漢のようで、魚介類やその他の収穫に影響があるかもしれないと、心配はしているようだった。今のところは傍観していられる程度なのかもしれないが、産業として商品価値のある魚介類の取れ具合によっては、将来的にはそのような心配があるのだというレポートだったかもしれない。
 しかしながら更に思うのは、元々はラッコが見られなくなった原因は、人間が毛皮をとるために乱獲したためだと聞いたことがある。そうしてついには、これらの地区では絶滅してしまった。その後ラッコの居なくなった海では、ウニなどがたくさん増えだし、肝心の昆布の根っこをたくさん食べてしまう。そうすると昆布の漁場としては、必ずしも良い場所ではなくなってしまう。そういう話は聞いたことのあるものだ。もっともこの土地が、そうなのかどうかは定かではない。ある場所では、そのような昆布のなくなる磯焼きの状態を防ぐために、何とかラッコを移住させて増えすぎたウニの数を減らせないか、という取り組みをしているということも聞いたことがある。そうだとすると、そもそも 人間と共存するラッコというのは、理想郷のような感じでは無いのだろうか。
 ラッコは可愛いので、そうあって欲しいと思ったりするのかもしれない。生活をしている人たちにとって、いったいほんとうにそのような共存状態であるのかまでは、僕には分かり得ない。理想郷というのは案外難しいのである。
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ステージで水飲んでる……

2021-02-14 | 音楽

 いつものように渋谷さんの番組を聞いていたんだが、また新しいバンドがロンドンで注目されているという紹介が行われていた。black country, New road って言っていたようだが、これがまあ、学生バンドなんだろうけれど、文学性が高く、さらに実験的な音楽をやっていて、プロのミュージシャンからも注目されているのみならず、その評価も一様に高いのだという。芸術性が高いのには興味ないけど、まあ、面白いのが出て来たよ、って感じなのかもしれない。
 それはいいのだが、見た感じというかファッションの話になって、写真だと普段着で、まあ、学生風というか、あえて言うとIT企業の社員さんみたいだと、渋谷さんが言っていた。以前のアーケイド・ファイヤみたいなより、ずっとおとなしくまともでそうで、しかしふつうすぎるということなんだろうか。
 ここで小島さんが反応して、昔のロックミュージシャンは、ステージで大酒飲んでやっていたものだけど、90年代過ぎあたりから、ステージでミネラルウォーターを飲む連中が現れて、それで変わっていったんだ、というのを悲しい語り口で言うのだった。
 ああ、確かにそうだよな。僕らが聞いてたロックと今のロックの何が違うのかというのは正確に言い表すことはできないんだけど、そういう雰囲気としてのロックの決定的な違いは、ミネラル・ウォーターなのかもしれない。
 僕だって別段ステージで酒飲んでやってるのを、いいことだと思っていたわけではない。ちょっとやりすぎじゃないの? と呆れる気分もありはする。しかしまあ、客商売というのはそれなりにストレスだろうし、また曲を生み出すようなクリエイティブな人は、自分を保つのにそれなりの苦労もあろう。さらに言うと、会社勤めをやっている訳でもないし、恐らくそんな堅気の仕事もできる人たちじゃないだろうし、まあ、ともかく自由に今を満喫するよりないじゃないか。そんな感じを読み取って、ステージでの飲酒は、皆が黙認し、音を楽しんでいたわけだ。
 ところが今のロックの人では、音楽に向き合う時は、水を飲まなくてはならないのかもしれない。それはちっとも悪いことではなく、それ自体が新しく、支持しているファンも、そのことを好ましく思っているのではないか。普段の生活でプリウスに乗っているのかどうかは知らないけど、映画スターなんかは時折そんなことをする奴(ディカプリオとか)もいたけど、まさかロックスターまでスポーツカー以外に乗らなければならない時代が来るなんて、いったい誰が予想できたことだろう。そうして、それを求めるファンがいるなんてことが……。
 ということで、今時の新しいロックの姿は、面白いんだか面白くないんだか、最初からよく分からない。僕ら日本人にとって外タレというのは、胸毛出したり火を噴いたり、まあ、最初はサーカスとあまり変わらなかったのかもしれないけど、それがまたドキドキワクワクして楽しかったのだと思う。ふつうの服着た人たちが環境問題がどうのこうの言いながら楽器を鳴らしてどうすんの? って感じは、やっぱりどうにもノリが良くない感じなんだけどね。
 すいません、もうこれは年寄りの愚痴なんだね、きっと。
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