カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

二つの時代と二人の女性が混ざり合う   ラストナイト・イン・ソーホー

2022-09-26 | 映画

ラストナイト・イン・ソーホー/エドガー・ライト監督

 ファッション・デザインの勉強のためにロンドンに出てきたエロイーズは、ソーホー地区の安宿だが魅力的な部屋を借りることができる。しかしその部屋は夜になるとネオンサインの点滅の明かりが差し込み、以前の借主のナイトクラブで歌っていたサンディの体にタイムスリップして同調してしまう体験をする。エロイーズが霊感の強い女性であることと、年代は違うものの、同世代の以前の借主の何らかの事情があってそうなってしまうらしいが、だんだんと現実の生活と同調して迷い込む過去のロンドンの街との境目があいまいになっていくのだった。
 ずいぶん前評判のいい映画だとは聞いていた。それで楽しみにして観ていたが、確かに幻想的な同調する二人の女性の体験が見事に描かれていて、ホラー要素も交えながら、実にテンポよくお話は進んでいく。後半境目がいよいよあいまいになり、かなり危ないことになっていくのだが、その謎解きのどんでん返しも、なかなかに鮮やかである。これだけ評判通り素晴らしい出来栄えの娯楽映画も、今時珍しい感じである。ヒヤヒヤさせられて、恐ろしい体験を同時にすることになるわけだが、恐ろしいながらも、以前のロンドンの体験も楽しいものがあったりして、そういうギャップも含めて見事なサスペンス展開が繰り広げられる。良く練られた構造を持った映画作りの見本のような作品なのではなかろうか。
 おそらくこの映画には、詳しく見るといろいろな仕掛けがあるはずである。出ている女優も同世代だが、何か現代とはずれている異質さがあるし、おそらく当時のロンドンも忠実に再現されている。演じている俳優たちも入り組んでいるが、現代と当時の風俗のありようも、映画的な見せ場としてよくあらわされているように感じる。そういう意味ではかなりオタクっぽい訳だが、同時に洗練もされていて、いわゆるウケどころもかなり計算ずくなのではなかろうか。そういうところも分かる人にはわかる、という憎らしさが光る映画だと言えるだろう。この監督さんやるなあ、という脱帽映画なのだった。
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猫の集会はバレている?

2022-09-25 | 散歩

 そんなに猫の多い町に住んでいるわけではないが、猫とはすれ違う。ほとんど僕を意識している猫ばかりではないが、まったく無視しているわけではなさそうだ。時々おっ、というような表情をする奴もいるけれど、僕が近づいていくような方向である場合は、ちっ、面倒な奴だな、といった風に足早やに姿を消したりする。そういう態度を取られると、なんだか少し悪かったかな、という気分になる。僕が歩いているのなんて勝手なことだが、猫に影響を与える歩き方をするのは、なんだかすまない思いを喚起させるのかもしれない。
 町道の一番大きな通りのちょっと上の方のお宅に、猫の集まるところがある。おそらくその家で数匹は確実に飼っておられるのだろうと推察するが、それ以外のご近所の猫も、ついでに集まっているのではないかとも思われる。年に二度くらいは、子猫が増えているような気がしないではない。そういう猫が道に飛び出すとヒヤッとするが、ひかれているのかどうかまでは知らない。僕は線路も時々歩いているが、線路そばで猫が死んでいるのは数回見たことがある。でも、翌日には死体は消えている。誰が片付けたのかまでは知らないのだが、この辺りで田んぼを作っている誰かではないかとは思っている。もしかするとあの猫の多いお宅当たりのおじいさんではないかとも思うのだが、それはそのあたりの数人のおじさんたちを含む人々が、線路そばの田んぼも作っているらしいことを知っているからだ。田んぼから線路が見えて、猫が死んでいるのも確認できるはずだ。そうして片付けてくれているのではないか、と勝手に思っているのである。
 それで、いつもではないが、その猫の集まるお宅の猫を写真に収めてみようかなんて気を起こすことがある。猫の集会というのがあるのはよく知られていることだが、そのような集会が行われているようなときに、写真を撮れば面白いのではないか。猫の集会は何故行われているのかという目的は謎だが、定期的に開催されていることは間違いが無くて、それに僕は確かにこの辺りで集会があることを、何度も目撃しているのである。猫たちは思い思いに集まりはするが、じゃれあったり、実際に話をしたりしている様子はない(当たり前だ)。集まりはするものの、一定の距離間のようなものがあって、ただ、皆で佇んでいる。いつも何匹かいるお宅の玄関の前のこともあるし、農具倉庫の影の時もある。一段下がったところに小さな田んぼとのすきまに柿の木があって、そこの三角の空いたスペースがある。そこでも見たことがあるし、その田んぼの先にコンクリートの坂道の途中で縦長に集まっていたりもした。ともかくここいらの近辺での集まりに意味があるに違いない。
 それで今日はどうかな、という感じで時々覗いているのだが、そう思っているときには、なかなか本格的な集会は行われないものである。数匹はいるのだが、若い猫はすぐににげてしまい、集まりの形態が簡単に崩れる。年配らしい茶の少し太ったやつは顔だけは動かすが、本当に近づかない限りは逃げたりはしない。皆もその茶に見習ってほしいものだが、一匹が反応すると、数匹はすぐに連動して動いてしまう。僕が集会に興味があることがすでに知れ渡ってしまったのだろうか。仕方がないので、あきらめて、別の道を行くしかない。いづれは何らかの形で、集会に出くわすこともあることだろう。
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来るべきメタバースの世界   竜とそばかすの姫

2022-09-24 | 映画

竜とそばかすの姫/細田守監督

 幼いころに自分を助けて死んでしまった母の悲しみのためか、人前で歌うことができなくなった鈴は、しかし仮想空間での自分の分身の姿になると、見事な歌声で人々を魅了してしまうスターになる。仮想空間とはいえ、現実の才能が基礎になって、その世界で才能を伸ばすことが可能なのだという。全世界に絶大な支持を広げる大スターとなったものの、現実では田舎で引っ込み思案でろくに恋心も表に出せない女子高生に過ぎない。ところが仮想空間で竜となりむやみに正義ぶる人たちに暴力で暴れまわる存在と、かかわりを持つことになる。この竜にも現実に心の闇を抱えていることを直感的に感じる鈴は、友人のネット事情に詳しい女の子とともに、現実の竜の境遇を救おうと試みるのだったが……。
 仮想空間の、いわゆるアバターとしてのスター性と、現実の地味さ加減の落差と、しかし来るべきメタバースのありようと可能性をもって作られた物語と言っていい。アニメならではの非現実の演出が冴える作品になっている。ただし細田作品に特徴的な人間関係のあり得ない現実感というのもあるので、まあふつうに警察に行くべき問題ではないかと素直に気付いてしまうと、前提が大きくグラつくのも確かである。親子関係も良くないし、現実的ではない。この母親の子への無理解で、大きな傷を負わせることになるわけで、残酷である。
 というような瑕瑾はあるものの、メタバース世界観は、そうかもしれないな、という迫力がある。曲については好き嫌いがあるし、日本語で世界を席巻できるとはとても思えないが(坂本九という前例はあるにせよ)、課金なしでそのような大きな力を持てる人間が出てくるというのは、面白いかもしれない。実際にそういう才能のある人がすでに活躍している世界があるのかもしれないし。そうして多くの識者が予想するメタバースの世界観の可能性が、手っ取り早く理解できるかもしれない。まあ、そのうち勝手にやってくるものだとしても。
 日本においては匿名だから別人であるとか、別の可能性だとか別の人格だとか、そういうものが担保できるという考え方があるように思うのだが、そういう大切というか、知られてはならないものというようなものが、メタバースによってある一定の担保があるということが重要だとは、実は僕は考えていない。実際のSNSでも、つまるところ有名人の方が圧倒的な影響力があるわけで、裏も表も、少なからぬ影響があって当たり前のような気がする。もちろんこの物語では一定のキーにはなっているけれど、そうでなければ本当に解決できない問題であるのかどうか、ちょっと疑問の方が大きかった。それよりも、女子高生には、地元での恋でしょう! って感じっすかね。
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テントウムシは強い虫

2022-09-23 | Science & nature

 僕は子供のころ、よく草の上なんかに寝転がっていた記憶がある。要するに田舎だったということもあるが、そうしていると、テントウムシが体に付くようなことが頻繁にあった。テントウムシはすぐ飛び立つ虫だけれど、ちょっとどんくさいところがあって、すぐに捕まえられる。てのひらに転がして、観察というかちょっとだけ遊ぶ。隙を見て飛んで行ってしまうまで。
 まあナナホシテントウが一般的なのは分かるが、実際はそれが目立つからというのがあって、確かに種類は結構ある。黄色いのもあるし、星の数が違うものもある。大きさも、ちょっとまばらである(なんと200種もあるという)。特に虫好きというのでもなかったので、そこまでは気にしてなかった。しかしながらテントウムシがそれなりに目立つ虫で、なおかつ多様なのには理由があるらしいのだった。実はテントウムシというのは、虫社会においては、かなりのツワモノであるらしいのだ。
 それというのも、しばらく触っていると分かるが、頭と胴体の隙間のようなところから、黄色い汁を出すことがある。これが鳥にとっては、たまらなく嫌なものらしいのだ。鳥に限らず捕食者であるカエルやトカゲなどにも共通であるようで、テントウムシを捕食したとしても、あの黄色い汁がたまらなく不味いらしい。知らない個体が誤って食べることがあるとしても、もう二度と口にしなくなるという。そうすると、別のテントウムシの個体は狙われることすらしない。虫の擬態の多くは、捕食者から身を隠すためである場合が多いが、実は別の虫の幼虫が、テントウムシに擬態するものもいる。テントウムシに間違われることで、鳥などから身を守ることができるようだ。それでテントウムシは、堂々と派手な色に進化しても何ら問題ないし、むしろそれが捕食者へのサインともなっているのかもしれない。ハチのように警戒色で脅す必要もなく、(人間の勝手な感想に過ぎないが)、面白い色彩になった大きな理由と言えそうだ。
 そのようなテントウムシにも苦手なものが無いとは言えない。好物のアブラムシの周辺にいるアリである。彼らは強力なアゴを持っているので、下手をすると足をかみ切られたりすることもある。しかしテントウムシのあの丸っこい体は滑りやすいもののようで、アリは容易にテントウムシを捉えることができないともいう。背中を向けると滑ってしまって、アリが足にかみつく前にするりと逃れることができるという。なかなかに狡猾なのだ。
 しかしながら、テントウムシに卵を植え付けて孵化させ、そのままテントウムシを動けなくして成長するハチもいるという。テントウムシはなすすべなくそのハチに内部を食べられ、動けないまま結果的に成虫になるまでハチを守ることになる。卵を植え付けられたテントウムシはあわれというしかないが、しかしハチが成虫として飛び立った後は、多くの個体は復活を遂げ、また活動をするものがいるのだという。なかなかに強靭でたくましいのだ。
 テントウムシの名前の由来は、おそらくお天道様に向かって草などを登っていく習性をさしていると思われるが(上って先が無くなると太陽に向かって飛び立つから、ということもある)、どうして下っていかないのかは、ちょっと不思議である。とにかく上るだけ上ってみると、何かいいことがあったのかもしれない。まあ、これも擬人化しすぎるとよくないことは分かっているが、強いから前向きでいられるのかもしれない。
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弱すぎるロシヤだが、厄介であることに変わりない

2022-09-22 | 時事

 ロシヤのウクライナ侵攻が始まって半年以上が過ぎてしまった。時に情勢は伝えられるものの、膠着したものも感じられる。インドがロシヤに「戦争なんかおやめなさい」といったところ、ウクライナが話に応じない(ので停戦できない)、と答えたらしい。インドも凄いなと思うが、やっぱりプーチンも変人である。やめどころが分からないというのが本音のようにも感じるけれど、そういうことは決して言わないのだろう。
 北朝鮮とも繋がりを強化したり、中国とも会談をしている。北とはかなり親密にならざるを得ないところがあるが、かえって北の外交のしたたかさに従わざるを得なくなったようにも見受けられる。本来はここまで親しくしなくても良い仲間なのに、今は親しくしてくれるところなんて少ないのだから、いいとか悪いとか考える余裕すら失っているのではないか。
 中国は、今回はかなり距離を置いたままだとも言われている。過去に恩義があるとはいえ、このまま親密に同胞であり続けるかは思案のしどころということなのか。中国は今回のことで、改めてロシヤの弱すぎる姿に驚いているともいわれる。考えてみると、いつの間にかロシヤは中国の8分の1ほどの経済力しかない国であった。国土の広さはともかく、改めて大国ではなくなった国との無理なつきあいとのリスクを考えなければならないということかもしれない。もちろん核を持っているので、本当に弱いとは言えない筈なのだが、核をちらつかせることができても、それを本当に使うのは、事実上の破滅に過ぎない。NATOの別の国とも戦う余力のために弱いロシヤを演じているのだとする説もあるが、その前にウクライナに勝てないことには、話にならないことである。エネルギーは持っていても買ってくれるところが無ければ意味は無い。つまりそういうところでは付き合うことができるものの、アメリカの共通の敵としての同盟であるという認識は緩やかに保ちながら、国際社会で完全に欧米と手を切ることの困難さは一番理解していることだろう。地政学的に分かち難い関係や利点がありながら、やはり一定の距離は置こうということになったのではないか。
 さて、日本なのである。いちおう構図の上では西側と協調する道を選んだと言えるのだが、それは他でもなくアメリカがあり、台湾がある。そうして対峙している、ロシヤというより、やはり中国なのではないか。中国は予定通り超大国に事実上伸上がり、米国と対峙する図式になっている。ところがロシヤとは協和性が強いにもかかわらず、一定の距離を置いてはいる。ロシヤはインドとも対話をしており完全な孤立ではない道を探っているように見えるが、ヨーロッパと米国網は、完全にロシヤを包囲する形で牽制している。そこでロシヤはロシヤの傀儡国家のベラルーシ経由で欧州とは付き合い、中東やアジア、東南アジアなどへ手を伸ばしているように見える。これらの国は日本とも関係が無い訳でなく、要するに日本に影響が無いわけではない。今は止めているようだが、ロシヤの液化天然ガスの最大の輸出国は日本だったわけで、売り先を迂回させてでも日本に売りたいというのはあるのではないか。もちろん本音では、日本は買いたいということであろうし。
 今回のことは、かなり驚きをもって傍観せざるを得ない状況に見えていたわけだが、長期化し、多少落ち着いてきたところにあって、かなり膠着しながらも新冷戦としての足固めがなされてきているようにも思われる。関連しての北朝鮮との拉致問題などは凍結してしまったし、北方領土問題は絶望的になってしまった。この期に及んで、なんと日本では国葬問題や統一教会なんだという。やはり平和な国なのかもしれないが、それなりの取り返しのつかない問題が着々と周りに火種を作り、時には固められて行っている。いくら騒ぎがあろうとも、とりあえずすぐに選挙になるわけでもないし(今解散するわけがないじゃないか)、基本的には何も変わることなんて無いのだろう。水槽の中の金魚にとっては、ということではあるのだが……。
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ミルメークとソフトめん

2022-09-21 | 

 「おいしい給食」という短いドラマのようなものがあって面白いのだが(これはたぶんいつかドラマの欄で紹介すると思う。映画になったりシーズン2があったりする人気作のようだから、すでに皆さんご存じだろうけれど)、給食の風景そのものに、僕の時代からするとかなり違和感のあるものが多いのに驚いている。撮影風景が、おそらく埼玉あたりだろうことはクレジットから読み取れるが、その田舎の風景が、まずは九州とはかなり違う。河原が広いし、自然が多い。その割に生徒が多い。まあそのあたりはどうでもいいか。
 そうそう、問題の給食なのである。設定が中学なので、今は地元の市でも中学の給食があるらしいことくらいは知っているけれど、かなり違和感はある。僕らの時代には無かったことだし、しかし中学生で給食を食べている風景を見ると、なんだか中学生がずいぶん幼い感じになる。先生たちは横柄だが(これは僕らの時代の方が凄かった)、妙に皆聞き分けがいい。見た目が不良っぽい生徒もいるが、この子だって聞き分けがいい。僕らの時代なら先生の車に瑕がついていたりしたはずだが(先生にこんなことを言われて黙っている不良などいない)、そういう心配もなさそうだ。いわゆる中学生風景として、ずいぶん嘘っぽい。ああ、また脱線してしまった……。
 給食に給仕がおわったあと、この学校では食事を前にして校歌を歌う。食べ物を前にして歌を歌うなんて、コロナ禍の前でもちょっと考えにくい。僕らだったらぜったいにふざけていたか、歌なんか無視するに決まっている。その上に衛生面で……。おっと、前に進まなくては。
 で、みんなで「いただきます」なんてことをする。小学生低学年ならするかもしれないが、高学年の小学生でも、もうそんなことはしなかっただろう。先生が音頭を取っても、皆無視したはずだ。さらにテーブルをグループごとに集めたりするのだが、これもするところとしないところに分かれていたように思う。僕らの時代は生徒数が多かったので、机を移動させる余裕がほどんどなかった。机の横のフックに何かひっかけていると、机の間の通路を歩くのも難しかった。だから基本的に食べるときに動かすと、他の机との接触が面倒である。食べているときにはふざけている生徒がたくさんいるので、出来る限り早く食べて退散するに限る。食べ物に何か入れられたり、牛乳を撒かれたりするので、給食なんてものをまじめに食べるなんて時間ではありえなかった。何を食べたかなんてことは考えることもせずに、さっさとボールをもって校庭に逃げてしまうことしか考えていなかった(と思う)。
 ちっとも内容にたどり着かないが、牛乳が瓶なのである。これもちょっと記憶にない。瓶の牛乳なんてものは、当時だってほとんど残っていなかった銭湯などに行かなければ見ることは無かったし、中学生になって新聞配達を始めたころに、配達先で牛乳瓶を玄関先に出している家があることで、配達の牛乳を飲んでいるお宅があるんだと知ったくらいのもので、すでに当時もノスタルジックだった。今もあるだろうことは想像くらいはできるが、僕の日常に存在するものではない。田舎の生活とは、牛乳瓶とは無縁のことを言うのだ(もちろん偏見だと思うが)。
 さらにこの牛乳に、ときどき給食でミルメークという粉末の味付けのものが付くことがあるという。そんなものは見たことが無いし、まったく知らない。関東地方の習慣かもしれないが(ググるとかなり地方でばらつきのあるものらしい)、牛乳でも人によっては抵抗を感じている年頃(僕は成長過渡期で呑めなくなった。消化酵素が無くなるタイプの人間だったのだろう。味は好きだが、あとの生活を考えると怖くて困るのである)なのに、こういう粉末を入れて飲もうとする人間は九州にはほとんどいないだろう(偏見だとは思うが)。
さらにもっと驚いたのは、「ソフトめん」という存在だ。給食の具とは別に袋に入ったまま出されて、それを自分で開けてソースというか具に混ぜて食べるのだという。まさに驚異の食事で、そんなものが出されたら、長崎県の子供なら窓から投げ捨てるなどして掃除が大変なことになるだろう(偏見だと思うが)。ふつうにスパゲティのミートソースでも、麺との混ざり具合で苦労して食に集中できない人間としては、こんなものが中学生のころに出たとしたら、困惑して食事どころでは無かっただろう。ましてやカッターシャツなどを着ている人がこれを食べようなんてことは不可能に近く、親からも学校に苦情の嵐が来たに違いない。長崎県では普通の中学生が食べるなんて不可能な食材なのだ。
 というところまで書いて、あとはたぶん続きます。ドラマ未だ全部見てないので。ドラマの面白いところは、こういう食材と僕との違和感とは別のところにあるので、悪しからずご了承のほどを。
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凄まじい情けなさと暴力の世界   小銭をかぞえる

2022-09-20 | 読書

小銭をかぞえる/西村賢太著(文春文庫)

 表題作のほか「焼却炉いき赤ん坊」の二編が収められている。子供のころ父親が強姦強盗事件を起こし両親が離婚。そういう家庭に育ったためか、自分も暴力をふるって家族から金を巻き上げるなどして、中卒の上にろくな仕事もできず、そうして女にもてるはずもない鬱積した青年時代を過ごす。が、どういう訳かやっとのことで付き合ってもらえる女と同棲して性的にはかなり助かることにはなるが、そういう育ち方にひねた考え方を持っており、子供をつくるなどとんでもないと思っており、自分の遺伝子を残したくない云々と言って女のなんとなく子供を欲しい気持ちをないがしろにしている。要するに生活力もなく自信もない。ただ私淑して勝手に弟子であると自認している作家の藤澤淸造に傾倒しており、全集を編纂刊行することを夢見ている。
 ほとんど女のパートの仕事で得た収入を頼って食わせてもらっているうえに、女の父親から三百万の借金をして藤澤淸造の全集を作る約束をしているが、結局使い込んでしまっている。女は実家では犬を飼っていたらしく、犬のぬいぐるみを買ってきてそれをしきりに可愛がり、こわいろを使って犬の代わりに子供っぽく話をしたりしてじゃれ付いてきたりする。鬱陶しいし面白くも感じていないが、後ろめたさもあり、なんとなく機嫌を取るような気分にもなり、付き合ってもいる。しかし自分が所蔵している古書を女がうっかり傷つけてしまった時に猛烈な怒りに駆られ……。
 という一連の流れの二編で、今でいうDVをあからさまに告白する私小説である。僕は以前西村作の「どうで死ぬ身の一踊り」で衝撃を受けて、とてもこの人の作品を二度と読む気にはなれなかったが(女に対して激しい暴力ばかり振るうから。私小説なのに……、ということは実話ではないか!)、どうも僕と同年のようだし、今年死んでしまったというので、この文庫本を買ってしまったのだろうと思う。で、遅ればせながら、何の気なしに手に取り読んでしまった。
 どうせ女に暴力をふるうというのは分かっているので(私小説だし、西村はそういう人らしいので)、読んでいる最中はずっとおびえながらその場面に達するのを怖がっているのだが、この主人公の男の情けなさというのが実に半端なくて、いつまでたってもウジウジしているうえに、自分が悪いのに逆切れして暴言を吐き、警察沙汰になったので反省して手を出さないまでも、なんとか女がいないとどうにもならないし、しかし勝手に嫉妬心などもわいてきたりして暴れるのである。考え方も偏っているうえに、人を平気で騙して、その上になんとか金を工面できると、急に気分がうわずって、自分だけ贅沢しようと考えたりする。本当にとんでもなく嫌でダメな男で、しかしそれは自虐のギャグでもあるらしい。
 こういうのは面白いというのかなんだかわからないが、勇気のあることなのだろうとは思う。何しろ解説には町田康が適切な一篇を書いていて、これが私小説の良さを見事にあらわしている。自分の体験を自分自身で再現して、自分の中にある人間としての誠実さと意地汚さをまんべんなく書き記している。それが私小説だとはいえ、こんな恐ろしいことは、ふつうの人はとても出来はしない。家族も許しはしないだろう。それで西村賢太は、実際に家族とは連絡を取ることはしなかったようだし、このモデルとなっている別れたと言われる女にも訴えられるのを恐れて、設定はずいぶんと変えてあるともいわれている。しかし一方で、この女の人のネタは一部では割れていて、稲垣潤一のファンの間では有名な人だとも言われているらしい。そういう面白さは確かにあって、しかしもう死んでしまったので、本当に確認するのは難しいのかもしれない。天国などにはとても行ける人ではないと思うが、ご冥福をお祈りしたします。合掌。
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青森その2

2022-09-19 | 散歩
 会場までのシャトルバスはあるんですが、歩いていこうと思ってロビーに行くと、顔を知った先輩がおられて、一緒にタクシーに乗せてってくれるという事で、お供しました。しかし大会が始まるまで一時間以上あったんで、結局外に出て散歩しました。(まるで僕の人生そのもののようだ)

 いきなりいい感じの床屋さんがあって、ちょっと感動しました。



 バイク屋さんがあって、ほとんど除雪車売ってました。すごいな。


 文化会館前に「若き日」と題されるブロンズがありました。女子師範学校の跡地なんだそうです。


 式典やら基調報告やらを聞いて、おおすじ今回の方向性を把握して午前終了。

 分科会前にお弁当食べました。


 そのあとも夕方までお勉強して、懇親会があって、ものすごく大きな法人の方とお話出来たりして、なるほどなあ、と思いました。ウチとはスケールが違いすぎます(数百億円規模だって! そんなところ、ほんとにあるんですね)。でもまあ、凄いところは凄いなりの歴史があるようで、戦争やらいろんなことを体験して、行政や政治の前に、いろいろやってこられたんだ、ということのようです。やっぱり凄いところは、何かが違うんだなあ、という感じでありました。
 そうして二次会、三次会まであって、詳細はまた別に……。先輩もおられたのに、ほんとに元気いいですね。


 
 
 2時前に帰ってきて6時過ぎに起きてシャワー浴びました。ちょっとくらくらする感じはあったんですが、朝ご飯も美味しかったです。


 ということで、かなりつらい状況に陥りながらも午前中なんとか勉強いたしまして、これも多分別の枠で語ることもあるとは思うのですが、福祉の現状とぼくのやっている事業所のことなども改めて考えたりして、きついとはいえ寝ることもなく、頑張って勉強をそれなりの枠でやりぬいたのでありました(偉い!)。



 でもですね、帰らないといけないのです。
 携帯で調べてみると、わざわざ駅まで戻らなくても、空港行のバスには乗れるようです。


 そういうことで、バス停めがけて歩きます。




 市役所前です。



 そういう感じでバス停まで来てみると、なんとまだ40分以上時間があるんですよ! 余裕持ち過ぎました。


 仕方ないので、また来た道戻ってぶらぶらしました。


 さびれたというか、公園があるんですね。本町公園というらしいです。緑があっていいなあ、と思ってましたが、犬の糞が2メートルに一つくらい転がってまして、あんがい凄まじいところでありました。



 また市役所に戻ってきたよ。


 それで僕以外にもえらく髪が乱れたおじさんと一緒にバスに乗ることが出来ました。めでたしめでたし。

 青森空港は人がごった返してまして、なんとご飯はほとんど20分以上待ち。で、またご飯は抜きましょうかね。助かります。
 行きと同じで伊丹乗り換えで、しかしこの乗り換え待ち時間が2時間あって、空港内ぐるぐる歩いて8000歩、ばかみたいでしたね。歩けてよかったですけど。
 伊丹でも知った人が何人かいて、こういう会があったからかな、と思ってたら、全然違う用事だったそうです。世間って狭いですよね。みんな忙しいってことですか。いや、忙しい人は忙しいってことでしょうね。ほっといてくれたらいいのに、そういう人に何かが集中するんですよね。



 抜け道があってですね、JALとANAと売店をうろうろしてました。おみやげはあんまり買いませんでしたが……。




 大村帰ってきて、さすがにホッとしましたね。けど、結構疲れてて、この夜はさらにつらかったです。
 こういうことがあって、改めて考えることが結構あって、そういうことも今後まとめて語りたいと思います。だいたいこういうブログを書いている事でも、皆さん察してくださっているものとは思うのですが、僕という人間は、何かを系統だてて考えないと落ち着かないところがあるようなのです。しかし、何かを考えるにしても、ひとところにいるよりも、移動することによって、その外的な刺激によって、さらに考えるというのが、自分に合ったスタイルなのかな、と思うのです。ま、誰だってそうかもしれないですけどね。
 大いに刺激を受けて、疲れたけれど、もっと違う事も考えられるかな、と思っております。僕のやっている業界というのは、先行きはあまり良くはありません。しかし、やるべきことはあるのかな、とも思うのです。かっこつけて言いますと、それが僕の使命のようなものかなと、言うことができるのかもしれません。とりあえず、頑張ります。

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青森その1

2022-09-18 | 散歩

 飛行機での出張なんて、実に何年ぶりでしょうね。長かった。
(※これを読んだつれあいに指摘されましたが、春には東京行ってますね。昨年もどこか行ったと言ってますね。単に忘れっぽかっただけのようです。すいません)

 でもさすが空港ですね。すでに知った人とも数名立ち話になりました。出張は必要ですもんね。お互い頑張りましょう。


 今回は伊丹空港で乗り換えて、向かったのは青森でした。


 青森空港は山の上にあって、バスで下界に下ってきて、着いたのは青森駅。まだ9月なんで、雪も無し。とにかく日差しも強くて暑いのでした。


 実は昼飯食って無くて、どうしようかなと思いながら歩いてたんですが、なんとなく思うような店もなく、ぶらぶらと泊りの予定のホテルまで歩いたのでした。




 ホテルの前にあったのは一念寺。ねぶたの飾りのような雰囲気のあるお寺でした。今年の夏は盛り上がったんでしょうね。



 とりあえず部屋からの風景。もう昼はいいかな。というか、普段はあんまり昼食ってるわけでは無いんですよね。でも体重減らないですけど。


 外に出ると、世界で一番美しい水のモニュメントがありました。なんじゃそりゃ、って感じがいいですね。


 青森は何年か前にも来たんで、街の雰囲気はよく覚えてます。というか、碁盤の目のように整然と区画整理された並びになってて、どこを歩いてるのか分かりやすいのです。


 飲み屋さんもたくさんあって、そうして何となくちょっと古くて、いい感じですけどね。


 ただ歩いてて、すぐに信号が変わるのがめんどくさい感じですね。冬の雪のことを考えてのことなんだろうか。謎であります。


 この日は総会があって、主催者の晩餐会があって、浅虫温泉ってところに行ったんですよ。近くにいる人とずっと話をしてて、写真撮るの忘れてました。
 料理もいろいろ豪華だったんですが、アワビしか撮ってませんでした。これものすごく旨かったです。


 帰りのバスが泊まりのホテルまで送るという事だったんでそのまま乗ってましたら、ほかの人はぞろぞろ降りてしまって、残ったのは二人だけ。その方も別のホテルで帰るという事でしたんで、コンビニ寄って、シャワー浴びて、チューハイ呑んで、ワイン飲みました。


 そうしたら5時過ぎには目が覚めちゃって、6時前から並んで朝飯食べました。


 ちょっと時間あるんで散歩です。空気は少しは冷たいかな、とは思うけど、寒いわけではありません。


 6時過ぎって言っても、それなりに陽は上がってて、もうまぶしくてたまりません。


 抜け道飲み屋街通りました。


 ネットでも確認できるんですが、帰りのバス停と時間を確認しておきました。後でまったくの無駄になることになるんですが、まあ、それはそれとして。


 いわゆる表通りは整然とキレイなのですが。



 ちょっと路地に入ると、かなりぼろくさくなります。裏まで手が回らなかった、って感じっすかね。



 僕としては、そういう表裏のある方が人間臭くて好きではあるのですが……。



 道路にはあちこちにこのようなひっかき傷があります。


 いわゆる除雪の跡なんでしょうね。大変だよね、ほんとに。


 あの三角の建物が物産館で、手前に泊まりのホテルがあります。



 コンビニ寄って新聞買って帰りました。


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バスのあおり運転

2022-09-17 | 時事

 地元の新聞を読んでいたら、県営バスの運転手が、子会社の県央バスにあおり運転をしたとされ、懲戒処分として停職6ヶ月に処されたというのがあった。飯盛の県道で片道一車線。法定速度30キロのところを24~27キロで走行していた前車両のバスにイライラして、2キロ、6分間にわたり、車間を詰めたり反対車線に出てパッシングしたりクラクションを鳴らしたりした。さらに赤信号で停車時にはバスを降りて前のバスの運転手に「なぜ道を譲らないのか」と怒鳴りつけた。二人に面識は無かった。
 気になったのはこれが3月のことで、処分された運転手は7月になって道交法違反で反則金7千円を支払ったという。「事件」の発覚は前を運転していた運転手(33)が上司に相談したというのだが、それはいつのことだったのだろうか。ともあれ、この告発から下ること五か月後に反則金を支払った上に停職になったもののようだ。この間に何かあったような気がしないではないが、このことが表に出た一番大きなことになったということなんではなかろうか(憶測)。つまりこの男には余罪があるような気が、ものすごくする。そこをすっ飛ばしてあおり運転にだけ注目してしまっているのではないか。
 それにしてもなんだが、これは業務中のことだし、会社が処分するのは何かが怖かったからだろうと思うものの、やはりあおり運転というものが、社会的に注目されている「悪事」であるから、大きな(枠は小さいニュースだけれど)ニュースとなったと思われる。
 そういう前提があるにせよ、山道で大型のバスやらトラックが、必要以上にノロノロされるのは困ったものだよな、とも思うのである。どうしても遅くなる車両があるのは分かるのだが、そういうのが前を走っているのは、不運としか言いようが無い。このあおられたバスにしても乗客が2名乗っていたというから、さらに慎重になっていたのかもしれない。でもまあ24キロだというから、あおり運転まではしないまでも、イライラはよく分かる。後続の県営バスの後ろにも1台車がいたともいう。譲ってもらえる猶予があれば、そうして欲しいところだったのかもしれない。
 そういう訳で、普通だったら、多少の同情の余地がありそうなのだが、6ヶ月の停職というのは、退職を促すもののようにも感じられる。会社側としては、あおり運転を重く見てもいるが、懲戒退職までには至らないと逃げた可能性がある(処分が重すぎる不当解雇として)。これを機に自主退職してくれたらいいということではないか。要するにこの運転手を厄介払いしたかった、という考えがあったのではなかろうか。こういうニュースを見て気になるのは、そういう一連の隠れているような人間関係にあるのである。
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