カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

変わりゆくアメリカのユダヤ世論

2024-10-06 | ドキュメンタリ

 イスラエルの最大の支援国家は、米国である。いわゆるユダヤ人と言われる人が、500万人以上住んでいるともいわれる。ユダヤ人という分類は、特段民族というものとは厳密に違うものがあるのでカウントが怪しいのだが、イスラエルに600万人のユダヤ人がいるとされるので、その次に多くのユダヤ人が住んでいる国だともいわれる。ニューヨークは、ユダヤ人のまちだという人もいるし、しかし多様化が自然な米国にあって、ユダヤ人の影響力は小さくはないらしいというくらいは、前提として認識しておいていいだろう。
 そうしてアメリカの各大学には、ヒレルというユダヤ人などがたまり場になるような施設がもうけてあるという。そこでは実際にイスラエルに行ったことのある、ユダヤ教の教えができる若者がいるようだ。イスラエル軍での体験を語れる人などもいた。ユダヤ人が歴史的にいかに迫害を受けてきて、そうしてやっと自分の国を持つことができて、度重なる妨害に屈することなく、ユダヤ人として生きていくことができる。ユダヤ人の多くは、そのような教育を子供のころから繰り返し受けている。そうして青年になって、約束の地であるイスラエルの国を守るために、アメリカからも多くの人が志願して兵役に向かうのである。いわばこれは、そういうシステムになっているのだろう。
 ところが一方で、アメリカは実際には多民族国家で、中東からの人間も多く住んでいる。イスラム教徒だっているわけだし、パレスチナ人だっている。ユダヤ人のみのコミュニティでは、まさかユダヤ教やユダヤに関するイスラエル問題について、反対の意見を言うものはいない。しかし自由な討論が可能な集会では、イスラエル問題に意義を申し立てる若者は当然いる。ユダヤ人は歴史的には哀れなる民族かもしれないが、事パレスチナ問題においては、迫害している側では無いのか。そうして現在のガザ地区の戦闘は、あまりに一方的なジュノサイドでは無いのか。軍事的な優位性はもとより、テロやハマスのような武装勢力と戦う事で正当化しているだけのことで、犠牲になっているのはガザに住んでいる一般の市民がほとんどではないか。
 そうして実際にアメリカのユダヤ人の若者も、イスラエルに行ってみて気づくのである。パレスチナ人への一方的な日常の迫害や、ほとんどいじめにも似た圧力や暴力。人々が住む建物の入り口に柵を張りめぐらして自由を奪い、夜間になると捕まえて収容所に送る。もちろんその前にリンチする。ひとのいないところで静かに農業を営んでいる家族の小屋を壊し、家畜を野放しにする。人々が生活のために掘っている井戸に動物に死体を投げ入れ、時には科学物質を混ぜたりする。とてもじゃないが生活が行き詰って国外に移動する人々を、迫害して苛めぬくのである。志願してユダヤ人のために働きに来た若者は、実際にはそのような迫害に加担していたことに、だんだんと気づいていく。イスラエルの現状は、そのようにしてイスラエルの国を守り維持しようとしている活動なのだ。
 もちろんこのような議論にはバランスも必要で、中東のハマスの蛮行にも目に余るものがある。ユダヤの一般市民は人質として捉えられ、多くの人は激しい暴行や拷問にさらされる。女性は何度も何度も強姦され殺される。彼らにしても復讐かもしれないが、これはもう今やどっちもどっちである。何度も話し合いの場が持たれ、和平は成立したかに見られたが、やはりどちらともなく約束は破られ、何度も何度もやってはやり返すことを繰り返しているわけだ。そのたびにお互いに軍備を整え、憎悪の連鎖を訴え、暴力を拡大していく。
 しかしながらだからこそ、最大の支援国家であるアメリカでこのような双方の議論が行われることには意味がある。これまでは一方的にユダヤが優勢で、その意見だけが通ってきたために莫大な資金と共に、イスラエルは支援を受けてきたのである。今の政治情勢が簡単に変化するものでは無かろうが、少なくとも現状を知るユダヤ人の若者がアメリカで生活していくことで、少しづつ何かが変わるかもしれない。つまるところどちらかの勝利という一方的な形での解決は、歴史上はあり得ない事だけは、明らかなことなのである。
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完全なる日々は儚い   パーフェクト・デイズ

2024-10-05 | 映画

パーフェクト・デイズ/ヴィム・ヴェンダーズ監督

 渋谷の公共トイレの清掃員として働く男がいる。朝起きて歯磨きして髭を整えて、車のエンジンをかけて缶コーヒーを飲んでから出勤する。ある意味判で押したような毎日の繰り返しをして、夜には布団の中で読書して寝て、週末か時折には行きつけの小料理を出す妙齢のママのいる店に通う。同僚の若者はちゃらちゃらした奴で、こんな仕事をしているにもかかわらず金がないと女にもてないと思い込んでいて、風俗なのか、そんなような女にうつつを抜かしていながら愚痴ばかり言う。ある日姪っ子が突然に訪ねてきて居候する。彼女は一人暮らしのおじさんの生活に興味を持ち、それなりにその彼なりの生活に面白みを感じる。男には何か事情があって、大きな会社(同族)で働いていたが、それをやめて、このような生活を選んでやっているということが分かる。毎日カセットテープで古くなった洋楽を聞き、神宮の森でサンドイッチを食べて、木々の様子をモノクロ写真に収める。ささやかながら確かにあるしあわせを満喫しているのである。
 監督がドイツ人というのもあるが、完全に日本への何かの勘違いを抱いた外国映画になっている。几帳面でまじめな日本人像というのはあるのかもしれないが、こんな日本人は日本には存在しない。完全にある種のファンタジーである。日本の若者も、外国人のそれであり、日本人的に物事を考えることは無い。様々な女たちが、男の姿に密かに関心を持っている様子だが、こういう男ならふつうは放っておかないのが女たちであり、こういう風にならないから、日本の男は放っておかれるのである。確かに役者は役所広司で、その淡々たる演技は素晴らしいのだが、彼はまったく平均的な日本人からかけ離れている。そうしてすでに外国人化している。僕には彼から日本男児のおじさんの匂いが伝わらないし、ヨーロッパのダンディ臭さえ感じられる。もちろんそれは彼が完璧に演じているからで、それをカメラに収めると、外国映画になるということである。もっともそれだから、映画として観て新鮮でもあるかもしれないのだが……。
 あまりに美しすぎる生活は、同時に何かもろいものがある。完全である時間は、実に儚いものなのかもしれない。もちろんその前後に体験したものがあって、その対比が無い限り、これらの完全さは際立たない。そういう事がこの価値観を成り立たせている前提であって、最初からこの男がこんな生活をしていたのでは、絵にはならないということなのである。だからこそ、それは実は一瞬の出来事なのかもしれなくて、同じような毎日ではありえないのであろう。
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振り返って目標を立て直そう   僕はなぜ一生外国語を学ぶのか

2024-10-04 | 読書

僕はなぜ一生外国語を学ぶのか/ロバート・ファウザー著(CUON)

 著者のファウザーさんは、日本語はもちろん、数か国語を操る人らしい。そうしてこの本は、韓国語で書かれたものを日本人の翻訳者が訳したもの。ちょっと癖のある文章はそのためであるらしく、基本的には韓国の人に向けて書かれてあるニュアンスが残っている。日本でも教鞭をとっていたようだが、英語はもちろん教えていただろうけど、鹿児島大学では、なんとアメリカ人にもかかわらず韓国語を教えていたという。ネットでちょっと動画も見てみたが、顔が完全に外国人なのだが、かなり癖の少ないきれいな日本語を使っていた。本文にも書いてあるが、外国語の発音を覚えるのが好きらしく、その様な学習姿勢の表れであるのかもしれない。
 内容は多岐にわたっているのだが、本人の外国語に接してきた歴史を軸にして、言葉を学ぶ姿勢そのものから、どのようにして学ぶのかということに至るまで、懇切丁寧にお話を展開していっている。我々日本人や、それ以外の英語圏以外の人々にとっては、多くの場合外国語を学ぶ代表格は、他でもなく英語なのだろうけれど、ファウザーさんは、なにも英語だけを学ぶだけが能じゃない、ってことを何度も説くのである。本人は母語が英語というのもある可能性はあるが、とにかくその他の言語の、本人が興味を持った気の向くままに、出来れば複数の言語を、それこそ一生学んでいく人生こそ、素晴らしい、ということなのだろう。言葉を学ぶことは、学習ではあるものの、いわば訓練というか、楽器やスポーツのようなものの方に近く、毎日鍛錬を積むような必要がある。そうしてしばらく怠ると、自分の母語でない単語は、スルスルとどんどん忘れられていく。一度到達した高みであっても、その維持のために時間を費やす必要があるのだ。多くの、というか、あえて言いきってしまうと、ほとんど大多数の日本人の英語に対する挫折についても、それは思い当たるところなのではないか。どこまで勉強したのかというのはあてにならず、学生時代はそれなりに英語が得意だった人においても、長く使われていない英語能力は、今は怪しいものになってしまっているのではないか。耳の痛いところなのではあるが、しかし外国語を学ぶというのは、そんなことを気にする前に、ちゃんと自分を振り返って、また新たな目標を立て直し(それは低くで良くて目的達成可能なものが何より好ましい)、またコツコツと時間をつくって楽しくやることなのだという。そうして実際、時にはスランプに見舞われたり、苦痛になってみたり、相性の悪い相手だったりすることもあるにせよ、基本的には外国語の鍛錬は楽しいものなのだそうだ。人に褒められるのも嬉しいものだが、なに、自分が満足したらいい問題なので、自分で達成できる喜びに、毎日浸りながらやり続けられたらいいのである。そうして、簡単だったり短時間だったりする道はすべて怪しいので、地道に自分の納得のいくようにやらなければならない。だから挫折するのだということも十分にわきまえながら、しかし外国語を学ぶ喜びの方が、人生においてなにものにも勝る、ということかもしれない。
 読みながらネットで英文を訳しながら読んだり、自分で発音を工夫したりしながら過ごす時間が増えた。もちろんそんなことばかりやっているわけにはいかないのだが、なんとなくだが、確かに僕が学生時代だった頃とは、まったく学習環境が変わっていることにも気づかされた。もうだいぶ忘れてしまった中国語の表現が、ふとテレビから聞こえてきたり、そういうのをまたネットで検索し直して、新たな発見もあった。確かにずいぶん長い間外国語から離れてしまったかもしれないが、自分なりにまた何かを始めるのもいいのかもしれない。そうしてこの本は、外国語を学ぶだけではない、他の事にも役に立つ考え方の基本が詰まっていると思う。そういう意味では、生き方さえ変えられる本と言えるかもしれない。
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恐ろしい日本人の人たち   福田村事件

2024-10-03 | 映画

福田村事件/森達也監督

 関東大震災の後に、火災をはじめ多くの犠牲者が増えた混乱の中、さまざまなデマが流布し、特に朝鮮人が日本人を虐殺しているというということで自警団が組織され(実は朝鮮人などの外国人も、絶え間なく日本人から襲われることから自警団を組織したともいわれている)、多くの日本人が暴走して虐殺を繰り返した史実をもとに、特に千葉県の福田村で起こった日本人の薬売りの行商人を殺戮した記録を再現したドラマである。少しばかり長尺なのは、その虐殺に至る背景を描くために、福田村の一見平和でありながら閉鎖的な日本社会の縮図と、そこに織りなす民主的な人々と対をなす封建主義的な日本人の姿を描いている。一度は朝鮮半島に渡り教師をしていた村出身のエリートが、自由でハイカラな妻を連れ立って帰って来るが、何か機嫌が悪く妻に浮気され、失望する姿などが群像劇の一部として展開される。お国のために軍隊に若者を順に送り出している村人たちは、過去に軍に行ったことのある中高年の意見が重要である村社会になっている。しかし実態としては、軍に行ってもたいした働きは出来ず、殴られるなどして苦労して帰って来ただけの事であった。そういう不満は隠しながら、村の秩序を守ることに腐心する者たちが、大きな勢力を形成していたものだという感じである。
 そうしてそういう村に四国から薬売りの行商人15人が、商売の旅で立ち寄る。彼らは身分の低い「エタ・ヒニン」階級の人々であり、ちゃんとした職に就けないばかりか、土地さえ分け与えられない人々である。いわば行商をするより生きていく方法が無い。その薬にしても、多少怪しいもの売りでもある。そういうことを了解しながらも、なんとか行商で食いつないでいたという事らしい。そうしてこの村で震災に巻き込まれ、商売もままならないので帰ろうとしていたところ、朝鮮人ではないかと怪しまれ、村人に囲まれてしまうのだった。
 ドラマの中には、多少現代の視点も混ざっている感はあるが、当時の非道な日本人の狂気の姿を、徐々に浮き彫り出そうとしている。酷いことになっていることは、意識の高い人々にはちゃんとわかってはいた。しかしながらそのような意識が醸造されている一般大衆を前にして、その人たちは結局何もすることができないのである。いや、何かやろうと行動に移すのだが、大きな波のような力を前にして、それらの間違いをただすことなど到底できない。そもそも大きな不満がある中に、訳の分からない大惨事が起こってしまう。もともとあった差別意識もあり、ちょっとしたきっかけで大虐殺が公然と行われてしまうのである。
 さらにこの事件の悲惨さは、虐殺をされた人々はそのまま歴史に埋もれ消え、公然と殺した人々は、一度は数年の罪を追うことになりながらも、全員結局恩赦となって釈放されたという事実が残るのみである。自分たちの不満のはけ口のためにいじめぬかれて殺された人々は、結局は何のために生まれてきたのか、という物語なのである。
 実はこの映画、たまたま僕は9月1日に観た(関東大震災の日だ)。最初は他の映画を物色していたのだが、急に気が変わってこれを選択したのだ。それもほとんど無意識に。観ていて、なんとなく妙な映画だから(浮気したとかどうだとか、なんだかお家騒動なのかいじめなのかよく分からない話がずいぶん続くのだ)途中だけどやめようかとも思ったのだが、やっぱりなんとなく見続けてしまった。まったくひどい当事者たちは、しかし実はそれなりに善人でもあるということかもしれないが、やっぱりそんなに善人には見えない。あんまりカタルシスは無い物語だけれど、お前は観ておけということで導かれたということなのかもしれなかった。
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君子豹変す

2024-10-02 | 時事

 石破さんが首相になるとは分かってはいたものの、その前に何と解散を宣言してしまった。僕は個人的に総裁選後にはなるべく早く選挙をすべきだという考えをそもそも持ってはいたものの、(そのことにについて石破さん本人は)早期解散をするのは無責任だと批判していた選挙前の話は何だったのか? という豹変ぶりと、まともな政治家としてかじ取りを見せた(まあ、マスコミはこれを忘れているようだが、野党は当然批判している)。こういうのはメディアは結構無視するけど、むしろ石破さんの長期にわたる政権への執着も見て取れる。現実主義的に物事をとらえられる柔軟さがあるわけで、先に選挙をすべきというセオリーにちゃんと従うことが出来るような心の準備があったのだろう。総裁選選挙としては、相手との違いを見せる戦略として、早期選挙は行うべきではないと言ったに過ぎない訳だ。臨機応変に意見を変えるのは、現代の過去発言が録画されているキャンセルカルチャーには即さないが、人として生きる上だとか、まともな政治家としては大切な資質である。間違いをただすことこそ、人の生きる道なのである。
 そういう事なのであるが、人気のあるうちにいろいろ周辺のことが洗い出されることになる訳で、旧安倍派は、いったん一掃される形になった。これはまあ、表面だけしか見ていないマスコミ向けということなのだが、党内基盤の弱さでもあるわけで、なんとしてでも選挙には勝たなくてはならない。政党政治としては、政治政策そのものより重要なのは勝つことなので、その後の権力闘争においても、実権をしっかり握るためにも大切である。アジア版NATOとか、外交においての政策は、かなり警戒されているのは見て取れるし、週が明けての株価の大暴落も気になるところで、いったん財政健全化などの思惑は引っ込めるかもしれない。日本の将来にはいいことなのだが、やはり外圧や周辺圧には、屈せざるを得ないところなのだろう。もちろんそれでも僕は基本的には期待をしているわけで、地元では本人より人気のあるという奥さんにあやかって、物腰低く粘り強く頑張ってもらいたいところなのである。ほんとです。たのんます。まあ、選挙になるので大変なんだけど……。
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ハンバーガーにかぶりつく文化

2024-10-02 | ドキュメンタリ

 アメリカの様々なまちのハンバーガーを紹介したものをぼんやり見ていた。おそらくだが、以前その一つ一つが独立した短いものを見た記憶がある。元ネタとしてつながっているものがこれだったのかもしれない。
 ニューヨークのハンバーガーは、値段も高いがビジネスマンのパワーランチという感じだった。何億も売り上げる成功者たちがかぶりつくのは、三千円近くする崩れ落ちそうなハンバーガーだ。いっときここで休息し、またガッツリ稼いで回るのである。
 南部のまちでは自分たちがカウボーイとして育てた新鮮な肉にかぶりつく。店にはカウボーイハットをかぶったまま入って、食べる前には帽子をとって神に食事の恵みを感謝する。そうしてガブッと食らいつくわけだ。ここも値段はそれなりだが、ボリュームたっぷりだ。
 黒人シンガー上がりのマスターが作るナマズバーガーだとか、バター滴る退役軍人のたまり場バーガーだとか。屋台風の店舗でいくつもまとめて買える小ぶりのやつだとか。やはり小さい箱で10くらいまとめて買う形式の一口サイズバーガーだとか。様々な階級のそれぞれの生活に合わせた形のハンバーガーが紹介されていた。値段も数百円から数千円まで幅広い。基本的にはロードサイドの店舗が多く、短時間で焼き上げるためにひき肉を伸ばして、鉄板に押し付けて焼くスタイルが多い。肉汁滴るパテに、チーズにオニオン、酸っぱいピクルス系やトマトレタスにベーコン、特製のソースを掛けるものや、ケチャップにマスタードたっぷりで、バンズにかぶりつくと口の周りがべっとり汚れるというのが基本形である。俺たちアメリカ人なんだから、これなんだよな! って顔して食べている。もちろんゲイも女性も、ハンバーガーにかぶりつくときは、あんまり口の周りは気にしてない風なのだった。
 別の番組だったけど、以前カナダの田舎町で鹿だったかトナカイだったか、そんな肉のハンバーガーを食べているのも見たことがある。カナダ人の国民食だ、と言っていた。まあそれは北米なので、お仲間ということなのかもしれない。ハワイでも食べるのは食べるのだろうし、ご当地バーガーがあるのは当然のことだろう。
 しかしながらハンバーグというのは、ハンブルグ出身のドイツ人労働者がアメリカ人に伝えて広がったものだし、そのようなひき肉を挟んで食べる文化のもとは、ロシヤ経由でドイツに伝わったものだともいわれている。ハンバーガーのルーツはアメリカではないのだ。
 近頃はハンバーグでない由来のチキンであるとか米であるとか、別の野菜であるとか、魚なんかであっても、バンズに挟んで食べると○○バーガーと言ったりするが、まあ、そういう命名で別にかまわないのだけれど、それはだからハンバーガーではない。もっともだからチキンならチキンバーガーだし、バンズで挟んで無ければサンドイッチだったりするが、必ずしもバンズでないものであっても、ハンバーガーで紹介されてもいた。それもまあ大雑把なアメリカ文化だと言えば、そういうものなのかもしれない。
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まさになんてことしてくれるんだ、の世界   バビロン

2024-10-01 | 映画

バビロン/デイミアン・チャゼル監督

 ハリウッドの初期の全盛時代と言われる、サイレントからトーキーに様変わりする頃の業界の喧騒と狂気を描いたもの。大変な栄華を極めたハリウッド村の中にあって、毎晩酔狂に明け暮れ、湯水のように金を使い、またその取り巻きの渦の中で泳ぎまわる人々の、いわば群像劇のようなものになっている。サイレントの見た目だけ美しい俳優たちの、科白まで覚えなければならない次の時代の演技への戸惑いと葛藤と挫折を中心に、世代交代の中でひときわ精彩を放つ女優の破天荒な暴走に翻弄される映画会社の男の行動が中心に据えられている。表と裏のごった煮の中にあって、生き延びていくために奔走するが、それでも思うように動いてくれない才能あるジャンキーに振り回される訳だ。まさにゲロまみれのグロテスクな世界なのである。オエっと来ること請け合いである。
 基本的には彩り豊かだが下品そのものの栄華を、これでもかというようにぶち込んだ世界になっている。尺も長くてどうしたものか、という感じだが、ちゃんとした締まりのある作品でもない。頑張りすぎて空回りしているのだが、時折なるほどもあるので、この監督も暴走してしまったのかもしれない。まあ、これまでが良すぎた、ということもあるのかもしれないが、気負いすぎて名作になり損ねた感がある。何も面白いものばかりが映画じゃないので、たまにはそんな作品を作ってしまったとしても、仕方ないことなのかもしれないが……。
 ハリウッドの女優目指してパーティにやって来た奔放な女性がいて、実際彼女は機転も聞いて、人々を引き付けるものがある。新人の映画会社の助手のような男がこれに魅せられ、実際に彼女がハリウッドで力をつけてくるそのものの様子を追っかける形になる。そうして彼自身も成長し、映画会社の中では重要な位置を占めるようになっていく。一方でサイレントの大スターで、この喧噪の中心人物だった俳優は、次の世代になじめないばかりか、自分の衰退をなかなかに認めることができない。しかしながら、もう元のような大作映画からのオファーが来ることは、無くなってしまうのだった。
 基本には悲しいトーンがあるのだが、この題材ははっきり言ってもう出尽くしているのではないか。これまでの数々の映画の中で語られてきた文法と、なにか目新しい視点がある訳ではない。もちろん見た目には非常に豪華だが、そこに仕掛けれれているもので特異なものと言えば、ゲロををはじめとするおぞましい下品さだ。まあ、良くも悪くもそれが、現代風という訳なのかもしれない。
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旅の目的が食べる事らしい

2024-09-30 | net & 社会

 主に富裕層らしいが、フーディーと言われる人たちがいるという。世界中を旅する人たちなのだが、その目的は「食」。その地でしか味わえない美食を求めて、実際に世界中を飛び回る。基本は高級レストラン廻りなのだろうけど、その料理そのものよりもはるかに多くの資金をかけて、食べるためだけの移動を厭わず、金に糸目をつけない。
 有名なシェフの有名な料理はもちろんだが、主に食材を大切にしているともされる。流通に適さない希少なものであるとか、その産地で新鮮なままであるとか、その地での季節限定であるとか、そういうものである。常に最高のものを求めて、世界中を飛び回る。そういうものを食べたいという欲求と、実際に口にする感動を求めているということなのだろう。
 かつて、というか今もミュシュランはあるのだろうが、タイヤメーカーのレストラン・ガイド本に乗っているレストラン巡りをする富豪というのは、以前より有名である。日本のものが出たことで、日本にも多くのグルメがやって来たともいわれる。海外から予約し、その日に合わせて来日しておられるのだろう。一種の酔狂だが、そういう事が可能な人間であることの喜びがあるのかもしれない。
 ミシュランは興味本位に読んでみたが、もちろん有名な店が多くて知っているところがあるものの、まったく意外というか、ほんとかね、というような店も多く取り上げられていたという。僕には細かく分かりようが無いが、パラパラ見ただけで予約には至らなかった。一瞬行ってみてもいいかな、という場所の店もあるのだが、やはりそこまでして、という気持ちが勝るのかもしれない。正直なところ食べてみたいが、だからどうした、というのもある。僕にそこまで最高のものがわかるとも思えない訳だし、話のついでにしては、手間がかかりそうである。面倒なのだ。
 以前父の本棚の一角に、東京大阪の店のガイド本とか、池波正太郎の本などがあって、ちょっと意外に思ったことがあったが、出張か何かで思い立ったことがあったのかもしれない。実際に行ったかどうかまでは、いまさら知りようが無いが。
 もちろん僕は、料理本はよく買うし、ガイドのたぐいも探せばたくさんあると思う。パラパラめくってそのまま忘れてしまうのがほとんどだけど、なかには実際に行ってみた、というのはある。まあ、居酒屋とかラーメン屋だけど。でもまあそういうのを持って行って店を探したということではなく、なんとなく見たな、と思い出して行ってみた、という程度だ。用事があって、ぶらぶらして、携帯で検索するというのがほとんどになってしまって、紙の媒体で店を探すことはめったに無くなった。地図のたぐいをもって散歩していた時期もあるのだが、それは大雑把な位置関係と観光にでも立ち寄ろうか、という場合限定である。店は適当に入る。僕は食に関しては優柔不断なので、その時ラーメンの気分なのか定食などの気分なのか、判然としない。メニューを見て結局カレーだったりもするわけで、もう二度とこないかもしれない特殊な場所にしては、平凡すぎて後で何喰ったか忘れてしまう。思い出すことも無いでは無いが……。
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チワワちゃんを探せ   チワワちゃん

2024-09-29 | 映画

チワワちゃん/二宮健監督

 チワワちゃんが主人公じゃない、群像劇っぽいお話だけど、基本は嫉妬とか若い人の風俗の物語かもしれない。主人公はチワワちゃんじゃないつくりなんだけど、しかし結果的にはチワワちゃん演じる女優さんが一番素晴らしい作品かもしれない。少なくとも僕は、そんな感じでこの映画を観ていたように感じる。
 好きな男がいて、しかしその男は別の女をナンパしてディスコ(クラブっていうのか?)に連れてきた。その子の名前がチワワちゃん。それで何となくそのこが、自分たちの仲間のようなことになる。嫉妬心があるのだが、同時にモデルなんかもしている自分に憧れもして、懐いてくるチワワちゃん。チワワちゃんは胸も大きくスタイルがいいが、あまり中身の無いような女の子で、いつも明るい。ある時、店に来た客が600万円持っていることを知り、盗んでしまう。それは政治献金に使われるはずの金で、要するに表に出てはならないものだったようで、皆はそれで豪遊する。そういう、楽しいがなんだか浮遊感のある、現実味の追いつかない日々の中にチワワちゃんとの付き合いがあり、そうして実はチワワちゃんは、何者かに殺されてバラバラにされて見つかる。犯人は見つからない。騒動になるが、実のところチワワちゃんの本当の姿は、仲間たちは何も知らないも同然だったことを知るのである。
 原作は岡崎京子の漫画らしく、どの程度それに忠実なのかわからないけれど、ちょっとしたタガの外れ方の異常さのある作品になっている。面白いというか、奇妙なものを見ている浮遊感が伝わってくる。お金を取る場面だけは、誰か一人でも捕まればお終いじゃないかという嘘っぽさがあったけれど、実際そういう事と関連してチワワちゃんは殺されたのかもしれないけれど、結局犯人は見つかりそうもない。好きな男は、かっこいいだけで実際は中身は無いし、若いだけでうまく行かない自分たちの青春像が見事に描かれている、という感じだろうか。日本映画なので科白と音楽の音量が違いすぎて、落ち着いて映画を観られないという難点があるのだが、なんとか見通して、しかし何だったのかは、やはりよく分からないのだった。そういう映画なんだということだけど。
 しかしやっぱりチワワちゃんには、何か奇妙な悲しみが詰まっている。中身が無いような女というものを、好きか嫌いかは別にして、そういう風に生きざるを得ない可愛い女を、彼女自身が演じるように生きていた、ということなのではなかろうか。多かれ少なかれ、楽しそうに生きていくには、若い女としてそういうものがある、ということなのだろうか。僕にはわかり得ないが、そういうものが青春の正体なのかもしれない。
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検証できれば、答えには行きつくが

2024-09-28 | Science & nature

 夏になると日本の場合、怪談ものが急に増える。暑い夏を少しでも涼しく、という意味があるというが、それも怪しい。夏場は盆もあるし、夜に出歩く機会も増えるとも考えられるし、そういう事とも関係あるのではないか。特に子供が集まる行事なんかもあるし、肝試しのような遊びも多い。まあ、面白かった思い出も無いでは無いが、習慣というか、風物詩としての恐ろしさの季節なのかもしれない。
 僕は特段のホラー好きでは無いが、そういう分野がある以上、結構読んでしまっているかもしれない。そんなに目新しい思いをすることも少なくなったが、基本不思議な体験と共に語られる都市伝説系のものが、なんとなく近年は増えているような感覚がある。確かにお岩さんのようなものは、ひどくかわいそうすぎるいじめ問題のような気もしないでは無いし、不思議な経験という一回性の物語の方が、身近なものとして受け入れやすいのではあるまいか。
 それでまあ、そういう面白さに特化した作り話については、それはいいのである。何しろ楽しみなんだから、よく作られたものの方が良い。ちょっと気になるというか、そうであってもいまだにまだ、「科学では説明できないこれらの現象」という事実の記録として、これらの怪談などを扱う人が多いことかもしれない。いやいや、科学で証明できない事実が、怪奇現象というものですらないのではないか。
 実際のところ、それらの怪奇現象が作り話でない限りは、ほとんどの場合、科学的に説明が済んでいるものばかりである。どうして怪奇現象のようなことが起こるのかというのは、たいてい検証されつくされていると思われる。ちょっと調べたら、そんなことはほとんど自明で、すぐにわかるものばかりだろう。人間が体験する不思議な現象というのは、人間だから体験しているとも言えて、そういう方面からも解説しているものは多い。人間という生き物は、抽象も扱う力があって、そういうものから類推して、さまざまなものを見ることができる。見えるだけでは無くて、そういうものを感じ取ることもできるわけだ。それは特殊能力として備わっているという事では無くて、個人的に感じられるような事であっても、その個人だからこそ感知できることであることからも、かなり説明のつくものである可能性の方が強い。分かり切っているわけではないのかもしれないが、慎重にそれらを検証することによって、かなり科学的に説明することは可能になっている。要はそれを理解できるかどうか、という問題に過ぎないのではないか。
 しかしながら恐怖というのは厄介で、僕はニ十センチを超すゴキブリを見たという人も知っているし、悪魔の話声を聞いた人も知っている。皆その様な生の体験をしたからこそ、その恐怖に打ち震えている。それは、確かに事実とは違うはずのものではあるが、本人の体験には違いないものだろう。見間違いや聞き違いを除外して、それで説明を求められても、絶対に答えには行きつかないだけのことなのであるけれど。そうして、そうであると頭でわかっている人であっても、恐怖感を抱く感じというのは、確かにあるものなのだ。怖い話を聞いた後に一人でトイレに入るだけでも、ちょっとした不安に襲われるのが普通のことなのである。それが涼しい出来事なのかは、僕にはよく分からないが、それが文化と言えば、そういうものなのかもしれない。
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