カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

必要とされるのは「砂」

2015-05-31 | HORROR

 都市化するということは、コンクリート化することとかなり等しい。都市の建物すべてがコンクリートではないけれど、その多くはコンクリートだからだ。都市化して人々が集積してくると、建物は高層化し、道路も高架にかけられたりする。コンクリートは人工の石で、高度や耐久性に優れており、さらに加工が比較的安易である。さらにやはりその上に安価であることが多用される大きな理由だろう。
 コンクリートは砂や砂利をセメントに水で溶いて固めたものだ。実際の建造物となると、実に大量の砂を使う。だからこそ都市化問題によって使われる大量の砂が、社会問題化しているということらしい。都市に住んでいる人間にはピンとこないかもしれないが、都市が膨張することで、地球規模の環境破壊が進んでいるのだ。
 もともと建築資材としての砂は、川などからとられていた。しかしながらすぐに底をついてしまい。現在のコンクリート用の砂のほとんどは、海底より掘削されている。問題になっているのはその量で、大量に掘削されていることにより、砂浜が減少し、沿岸が浸食されたり防波堤が倒壊したりの被害が多発しているという。高波などの被害が拡大する原因とも言われており、実際に多くの地で海水の被害がでている。すべてが砂の影響ではないのかもしれないが、少なくともその原因とは確実に絡んでいる。それほどの大量の砂がすでに都市化の建造物のために失われ、そうして加速度的にその必要量は増え続けている。なぜなら世界の各地で、巨大都市は拡大し続けているからである。
 また被害は沿岸部だけにとどまらない。海底の砂地の減少は、そこに住む生物の環境も破壊する。漁獲量減少とも関連するわけで、漁業を営む人の生活を圧迫させるし、食糧問題としても深刻である。自国の砂の掘削を規制しても、まだ規制の進んでいない国の砂が運ばれるだけである。たとえばシンガポールの建造物の砂は、その近辺の、例えばベトナムからの輸入である。複雑なのは、その砂を売って生計を立てている人もそれなりにいることで、規制をかけるとその人々の生活を圧迫させるということにもつながる。どちらに転んでも死活問題に変わりないのである。
 砂以外の原材料は無いのかということは、当然模索されてはいる。バイオ資材であるとか、廃材や瓦礫などを再利用する取り組みもある。そうしてそういう研究もそれなりになされてはいるらしい。しかしながらそれでも抜本的な解決の道筋に至っていないのは、海底の砂を、いわば盗掘することの方が、明らかに経済的に優位だからである。だから唯一の解決の道は、砂がある程度とりつくされ、その価値が高騰して、その優位性が崩れることしか望めそうにないことだ。そういうことになるまでに、これまでの被害以上にどこまで深刻さが拡大するのかは、誰もわかりはしないだろう。
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子供の方が現実的だ(ギリシャ問題)

2015-05-30 | 時事

 ギリシャの財政破綻問題というのはいまだに揉めているらしい。一度は緊縮財政案を受け入れ、追加融資を受けて再建に乗り出して一段落したかに見えたが、緊縮財政による財政改革に反対する政党が国民の支持を受けて第一党になってしまい、その約束をやんわりと反故にしようとしているためだ。しかしながらいくら国民の支持を受けているとはいえ、EU案を受け入れる以外に具体的に解決する道というのは事実上なくて、結局国民を裏切る政策に踏み切るのか否か、というような状況のようだ。まあ日本でも財政問題ではないが沖縄問題なんかは同じような図式だけれど、やはり地域世論というのはあるからいつまでも解決しない。本当に完全に破綻すると、当事者は最も困るし、支援側も当然困る。さらに飛び火して延焼は広がるだけだ。道は少ないが痛みを受け入れることは、それだけ困難だということだ。
 それだけなら身勝手な話だけで済むかもしれないが、ギリシャにはピレウス港という国際的に重要な拠点となりうる港をもっている。ここは既に三分の二を中国の国営企業が牛耳っており、さらに全体を買収してしまおうという動きがあるらしい。さらにそのような合理化をすることも、EUは支援の条件として求めている。もちろんそこで働いている人間や地域住人は猛烈に反対している。理由としては当然のこと今まで通りの生活の保障が無いし、主にこれまで通り働けるかどうかというだけでなく、すでに中国企業に買収されている地域の従業員の給与などの待遇が悪いらしいという根拠に基づいている。
 まあ、それはそうだろうな、とは思うわけだが、そもそも問題としてはギリシャの国民の7割近くは公務員だといわれ、さらにこのような労働者であっても組合の力が強い。結局財政破綻の原因そのものが、自分らの責任を放棄しているだけの図式である。事実上港を支配している三分の二の中国企業の仕事量がこの港を席巻しているにもかかわらず、少ないはずのギリシャ側の人間の方が、給与が高いらしいカラクリとはなんだろうか。働かないでもやっていけている現実というものが続かないことは、理解が足りないだけでは解決しないだろう。
 この話はドキュメンタリーで見たのだが、ある労働者の家族の中で父親は組合活動に奔走しているが、高校生くらいの息子は、現実的にこの街を離れ、できれば外国に出て将来は働くだろうことを模索している。そういう姿を母親は見て涙しているという図式なのだが、やはりこれは親よりも数段子供の方が現実的で、責任が無いのだから見切ってしまうことの方が普通だということに過ぎないだろう。ギリシャの人に本当に大人が多いのであれば、この子たちのためにやるべき選択を、決断すべきはずなのである。
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アンネの家

2015-05-29 | 雑記

 オランダに「アンネ・フランクの家」はある。もちろん、あのアンネの日記の作者が、隠れ住んだといわれる、家である。今でもたくさんの人が訪れる、いわば観光名所のような施設になっている。
 ちなみにアンネの日記は、もちろんアンネ自身が書いた日記だが、戦後に生き残った父親が出版し、ベストセラーになった。父親がかなり構成などに手を加え加筆したものと考えられている。実際にアンネはいろいろな人の批判を日記の中で書いているが、父親のものは削除されている疑いがあるという。
 それはいいとして、アンネの日記の影響力はいまだに強く、日記文学として素晴らしいのはもちろんだが、やはり、事実としてアウシュビッツで殺されていることが大きいだろう。人々はそういう背景も含めて、アンネに強い共感を覚え、そうしてアンネの家を訪ねていくのだ。
 アンネの家を管理しているのは、アンネ・フランク財団であるが、財団としては、アンネのユダヤ人迫害を教訓として、人種差別に反対する活動を行っているという。そういう背景もあってか、アンネの家を訪れる人々は、例えば黒人であるとか、同性愛者、チベットの僧侶など、迫害や差別に共感を持つ人々が多という。さらにこの家に来ることで、精神的な救いのようなものを得て帰るようである。
 アンネ自身は痛ましくも犠牲となり帰らぬ人になってしまったのだが、そのようなアンネの存在が、現在に生きる多くの人々の希望となっている訳だ。アンネに共感して物事を考えることは、だからやはり多くの人には必要になっている。アンネの家の意味というのは、悲しいが普遍的な象徴として、今後も必要とされていくのかもしれない。
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なんだかちょっとかわいそうすぎてノレなかったけど…   蠢動

2015-05-28 | 映画

蠢動/三上康男監督

 時代劇の雰囲気というのはかなりいいのだけれど、なんだか展開が妙なことになっていくな、という印象を持った。日ごろから単純化は良くないとは言っているものの、善悪が良くわからないというか。貧乏藩が幕府に隠れてずるをしようとしているのをバレるのが困るので、調査をしている人間を切殺し、更にその罪を自分らの仲間に無理に被せ、そうしてだまし討ちをしようとして、多くの仲間が共倒れになり、許せも糞もないだろう。そのような無情な藩は、現代人の目から見ると、つぶれてしまった方がよっぽどためになりそうだ。
 もっともそのような無情なもので藩をメンツの上で守らなければならないというのが武士だというのならば、やはり説明の上で命令を出して犠牲を出すべきではないか。家督を守らなければならない部下にとってみれば、裏切者・無法者の罪をだまされた上に着せられ、無残に殺されるというだけのことになると、死んでも浮かばれないし、裏で知っている武家の者たちが、それでよいという悪代官ばかりになってしまうようにも感じられる。昔の武士が皆、多かれ少なかれそんな連中だったというお話ならそれでもいいけれど、みんな貧乏が悪くて殿様が悪くないという無責任さが横行するのは、のちの日本人にも良くない見本のように思える。
 とまあ、そういう話なのだが、妙なせりふ回しも無いではないのだが、みな悲しくて誰もしあわせにはなれなくて、妙な感慨のある映画だ。繰り返すが、雰囲気としてはなんだか良いのである。そういうもろもろがラストに向かってどんどん崩れていく映画だとすると、それはそれでいいのかもしれない。結果的にはどうも、それだけの犠牲があったから藩は守られたということにはなるだろうから、見事な策であったともいえるのだろう。実は結構ばれていたような感じもしたが、しかしそれで済んでしまったのだから…。
 妙に迫力があっていい感じもあるので、時代劇が好きな人には、たぶん面白い映画なのではなかろうか。
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単にリンガーちゃんぽんを食っただけのことだが

2015-05-27 | 

 先日それなりに久しぶりにリンガーちゃんぽんを食べた。麺だが野菜がたくさんでその上にドレッシングをかけて食べる流儀らしい。前もそうやって食ったかもしれないが、少し抵抗はあるが、まあそれなりにおいしくいただいた。そうして何だか麺が変わっていることには気づいたが、まあ、会社の方針なんだろうから特にこれと言って意見は無い。ちょっとダマっぽかったけど、それは全自動化の過程でそういうこともあるということだろう。
 さて、それはそれでいいんだけど、以前にやはりFBの方でちゃんぽん学会というグループに入っていたんだが、昼時に大量にちゃんぽん画像がアップされていて、それ自体は大変に楽しいのだが、ダイエット的には苦しいので、あえて脱退した。そのちゃんぽん学会においてやはりちょっと以前のことだが、リンガーハットの画像が上がると、これはちゃんぽんなのか議論、というのが時折あがった。これは長崎県人にとってはそれなりに身近な話題で、要するに長崎県のちゃんぽんとは、これが少し出自や形態が違うためである。由緒が正しくないといけない食べ物ではないから、どうでもいいといえばどうでもいい話だが、長崎ちゃんぽん好きにはどうでもよくない話なんだな、ということである。で、そうなると食べ物ことだから、なんとなく後味悪く荒れる。丸亀製麺が本道の讃岐うどんなのか疑惑があるが、そうなると確かにリンガーは違うということになるが、しかし発祥は長崎からであるので紛らわしくはある。それで全国区であるので、これが長崎ちゃんぽんの入り口としての役割になっている。だからまあ、そういうことなんですでにゆるぎない支持があり、長崎県人がいくら声を大にしようと、もう勝負あって長崎ちゃんぽんの王道なのである。それに長崎県人と言っても、これで育った世代がすでに成人していたりして、さらにそれを他県の人に抵抗なく勧めることができるようになった。いわばこれは歴史である。
 そういうことは確か以前にも書いたが、しかし時折東京などに移り住んだ長崎県出身者などが、懐かしくなってリンガーちゃんぽんを食べるというのがあって、かなり複雑な気分になることはある。これがたとえば佐賀の井出ちゃんぽんであるなどすると、それは結構素直にそれでいいと思うわけで、要するに「長崎」の文字がいかんのかもしれない。佐世保の人なら長崎の文字が無い方が快い場合もあろうし、ちょっと長崎は複雑だ。要するに長崎県人の分裂である。
 さらに関係ないが、わが町においてもそれなりに古い龍踊りが残っているが、それは恐らく歴史的に中国人居留者が長崎市内以外にもいた事実があることなどが考えられるが、しかしこれがやはり長崎市内の龍踊りと少し違う。これは長崎市内の人からは時々非難めいたことを言われたりするが、仕方がないじゃないかという気はする。
 これまただから、長崎ちゃんぽんの広域化というのは、そのような問題をいくつもはらむことを意味する。すでに取り返しはつかないから生きている人間では複雑な気分になるわけだが、それもいつかは風化するだろう。でもまあ正直に言うと、リンガーちゃんぽんはそれでもちゃんと旨いから支持者があるわけで、それを陥れるような議論にならないよう自制は必要であろう。
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観ないでほしいクロサワ作品

2015-05-26 | なんでもランキング

 世界のクロサワといえば、言わずと知れた「黒澤明」という相場になっていたはずだが、しかし世界のクロサワはもう一人いる、と言わしめられたのが「黒沢清」監督である。
 日本でもカルト的に人気が高いが、しかしやっぱり興業的にはヒットメーカーというところではないのかもしれない。何しろ一般的ではないし、たまに売れはする作品もあるんだけれど、そういうのは特に関係のない僕らが見て自慢できる楽しさがあるわけではない。なんだかちょっとひねくれて好きだという人に囲まれてしまった感のある、やはり変わった人という気がする。
 だから紹介するけれど、ちっとも実はお勧めではない。強力に注意しておかないと危ないので繰り返すが、観ない方がいいかもしれない場合もある。人間知らないで生きていた方がしあわせな場合があろう。
 そういう場合は「回路」だとか「CURE」だとか「ドッペルゲンガー」あたりで一度立ち止まってみて、行く先を確認する方がいいかもしれない。前に進んでいいと思ったら、以下の作品を探してみるといいだろう。映画というか、当時はVシネマとか言われて、劇場でなくレンタル・ビデオを中心に発表された作品のようだ。

 最初に紹介するのは「復讐 運命の訪問者」である。一言で言って、僕は結構「これはなんだろう」と困惑した。でも、なんだかわからないがいい映画じゃないかと思ってしまった。どこかおかしいのだが、そのおかしさはそれなりに計算されている。そうして自分が狂わされてしまった、ということになるんだろうか。でもまあ、普通はこれはおかしいな、でとどまるべき作品だろう。
 で、次に「蛇の道」なのである。拷問なんかもあるし、これは普通に変だとわかる。分かるが、今度はストーリーが変な具合のミステリーになっていく。そうしてこれは結構面白いのである。それでネタバレになるから言えないが、最後のあたりは結構怖い。たぶんこれはハマったのだろうな、とあきらめるしかない。人生を踏み外したのだ。
 そうして「蜘蛛の糸」。もうこれは進んで観てしまって後悔先に立たずだ。いや、後悔するんじゃないかという気持ちは持ちながら、それでも後悔へ向かって共に進んでいく自分がいる。最後もやはり怖い。これがホラーだなんてちょっと困るじゃないか。
 そうして最後は「降霊」なのだ。これはもう最初から変で、そうしてもう最初から結構怖い。怖さは持続して嫌になるが、そうしてもうやめてくれという気分になるが、でももう逃げられないじゃないか。こんな人たちと僕は絶対に友達になりたくないのである。

 ということで、今はもう黒沢清のことは嫌いなんだが、でもまた新作を作ったりされたら観てしまうのだろう。あんまり人気なんか出ないで、そうして彼に金を出す人なんかが居なくなれば、もう彼の映画を観ないで済むのだ。それがきっとみんなにとってはいいことなんだけどな。


追伸:今朝の新聞をパラパラ見ていてびっくり。実はこの文章はひと月くらい前に書いていて今朝アップしたのはまったくの偶然である。これまでも監督賞は取っていたと思うが、改めておめでとうございました。まあ、そういう意味ではよく認められた変な監督さんだなと思う次第です。
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鏡の世界は恥ずかしい   イニシエーション・ラブ

2015-05-25 | 散歩

イニシエーション・ラブ/堤幸彦監督

 原作は読んでいるので、映画化と言われると素直に「?」と思っていた。映画なりに解釈が出来るとしたら、どうするんだ、ということである。ネタバレがあると楽しみが半減するようなどんでん返しミステリーなので理由を言うことはでいないが、それくらい疑問の方が大きいお話なんである。で、まあどうなのかというと、結論を確かめに行ったので、そりゃそうだろうな、という感じかもしれない。
 小説もそうなのだが、基本的にはぬるいラブコメめいた物語が主なのだが、これが実に決まった感じの映像になっていた。僕は前田敦子の事はそんなに知らないのだが、実際には彼女のための映画という感じなのだ。いや、彼女無しにはこの映像化は無かったのではないか。原作はそうだが、しかし前田敦子がいるから映像化してもいいかも、と思ったのではないのか。演技がどうだとか言うことはともかく、そういうことは関係なく(たぶん)この映画に納得する人の多くはそう感じたことだろう。
 舞台が僕の青春時代と同じなので、しかし僕は地方にいたので違いも無いではないが、なるほどというか、そういえばそんな感じだな、というのはけっこうよく分かった。とにかく皆よくタバコを吸い、仲間同士でつるんでいた。時代に反発もないではないが、それは単に時代をよく知らなかっただけのことだし、適当なところはあるにせよ、見栄を張ったり金が無かったりした。男女の告白の仕方だとか、いわゆる責任の有りどころのようなものは、個人的なキャラクターの考えもあるだろうが、なんとなく分かるものだった。今の人ならたぶん、少し共感が少ないのではないか。
 そんなことを考えながら、幾分気恥ずかしいような気分になった。やはり鏡の世界は恥ずかしいのだ。ところが見終わったあと後ろの若い人が、「面白かった」とつぶやいていた。いや、他人(ひと)の感想だからそれはいいんだけれど、一緒に見ていたつれあいとも後で話をしたんだが、面白い映画かというと、なんだかちょっと答えにくい。面白くない訳ではないのだが、これを本当にどんでん返しのネタを知らずに観たのなら、ずいぶん違った印象を持ったのだろうな、と素直に考えてしまうのであった。
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東さんとは誰の事か

2015-05-24 | HORROR

 大阪の件はシルバーデモクラシーが残念だという話に尽きるわけだが、しかし人口比で言うと、必ずしも若者が少ないわけではないので、そもそもシルバーデモクラシー問題では無いなどと言う人がいて混乱した。しかしながらやはり投票率として、若者が投票しないのだから老人の意見の方が政治的に強いということに何の変りもないのだから、単に混乱させるだけの意味のない考え方のように見える。民意として偏りが生じるのはそのためであるが、しかしそれが政治的にダメだとは言えても、不公正なのではないから制度的にはそれで何の問題もないのは当然である。しかしそういう正当性がありながら、あえてその正当性である構造まで否定して批判するのは、何かやはり考えがあって、単に批判のための批判が必要だという感覚があるのだろう。要するに否決されたことの正当性を擁護するための方便である。それなら最初から否決に至る正論で勝負すべきなんだから、勝者として今の良かったことをかみしめて喜べばいいだけのことではないか。そのことは滑稽ではあるにせよ、勝者というのはそういうものだ。
 ところで先日業界のある先輩と共に飲む機会があり、老人世界のことをいろいろと聞くことができた。その先輩は業界の引退をする年頃なのだが、すでに地域の老人会の事務局のようなこともしておられるらしい。
 そこで人事改選ということがあり、ある役職について自薦他薦の意見を議長が求めた。そこである人がすっと手を挙げて「ヒガシさんがいいと思います」という。会場はしばしざわついて、当のヒガシさんらしい人が恐る恐る、「あのーどうも私らしいけれど、私はアズマと言います」と言った。ところがその直後にやはり別の人が手を挙げて「私はヒガシさんがいいと思います」という発言をされたのだという。先輩は、「いや、すごい世界に足を踏み入れたものだな」と思われたそうだ。
 もちろん老害という言葉は、大変に強いニュアンスがあるし、多少は失礼なことであるとは思う。何も好き好んで人は年を取らないし、年をとってもその個人が悪いなどと言うことは微塵もない。しかしながらその局所的な世界であれば何も問題が無いにせよ、広く社会の中でそのような混乱があるのが困るわけだ。何にも悪いことはしておられないし、理解する範囲において、そのような判断があること自体は健全ではあろうとも、困るものは困る。結局は日本がそういう社会に突入してしまっている現実をどうするのかということだ。
 まあ、そのような面白き社会を楽しむ余裕がほんとにあるんだろうか、という話なんであるが…。
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自虐以外にも方法が…

2015-05-23 | なんでもランキング

 もう学生時代は過ぎたので、毎日授業を受けて、毎日眠かった日常に戻る恐れはたぶんなかろう。それは大変にしあわせなことだが、しかし大人にも会議というのが結構ある。自分の担当のあるものなら、それなりの緊張感があるだろうためにそんなに眠くなるということは無いが、しかし時にはというか多くの場合、ただ説明を聞いているだけのようなもの遭遇すると、これはもう激しく眠くなる。寝てはいけないと抗っていても、これが大変に苦しむ場合がある。決議を必要とするようなものは、中座さえやりにくい。最近は減ったが、大事な電話があるとかなんとかで、そわそわ席を立つような裏技を使う人もいたが、たぶんそういう人は基本的に信用されない。でも寝てはならないわけで、しかし実際には寝てしまう年配の人はいる。これは、我慢が出来なくなったというか、そういう立場に皆があきらめていることを自覚できている為だろう。
 眠気をとる方法はいろいろあるが、会議などで椅子に座った状態という条件でどのように眠気をとるのか、というノウハウになるとかなり限られたものになるだろう。
 多くの人がやった経験があるのは恐らく、腕などをつねってみたり、ペンなどで体の一部を刺してみたりする方法ではなかろうか。痛みで一瞬目が覚めるような感覚はあるが、繰り返すとなかなか効果が少なくなる。痛みというのは慣れがあるらしく、更に本格的に眠い状態だと、痛みが薄れていくような感覚があるようだ。いつまでもやって傷だらけで、結局体をいじめただけで他の記憶がないということもあるのではなかろうか。
 息を止める、というのや首を回したり、筋を揉んでみたりするというのも聞く。効果があるという話もあるし、やっぱりダメだという話がある。やはりこれも繰り返すと、慣れというか、飽きが来るというか、効果が薄れるらしい。
 飴やガムを噛むというのもある。水やお茶を飲むというのもある。これは少し効果が期待できるが、しかしこれは大人限定だろう。さらにコーヒーなどのカフェインの効果が出るのは実際には30分後くらいだそうで、実はそんなに即効性のある方法ではないらしい。
 あきらめていっそのこと寝る、というのもあるが、実際にかなり効果的だが、しかしやはり論外の方法といえるだろう。
 実は眠気を覚ますということを考える場合、決定的な方法は座ったままではかなり難しいらしい。そもそもの姿勢として、大人しく座るという動作に、睡眠導入作用がそもそもあるらしい。
 それでも目を覚まさせたいということになると、いろいろ空想する以外に道は無いらしい。脳が活性化して眠気が飛ぶというのは、つまるところ脳を活性化させて覚ますより他にないそうだ。夜に眠れない人は、寝る前にあれこれ考えすぎて眠れないというのがあるのではないか。ちょっと病的なら困るけれど、自発的にそのようなあれこれ考える状態を作ると、人の話は結局聞けないかもしれないが、とりあえずはそれなりに目が覚めていくのかもしれない。問題は眠いときにそういうネタをちゃんと思いつけるのか、ということだが、まあ、何とか頑張ってみてください。
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今年十数回目の…

2015-05-22 | 掲示板

 また風邪をこじらせた。天気もいいし、気温も高くなって、世間はクールビズだからネクタイしなくてもいいのかもしれないけど、なんとなくまだ立場上ネクタイしめて会議なんかに出席している身として、大変につらい。また、いつものように鼻水とくしゃみが大変なことになっている状態なんで、近くにいる人には警戒されるし、またそれなりに同情される。熱があるのかはあんまりわからない(気温が高いので多少その影響がある程度の熱だ)のだけれど、具合の方はちゃんと悪いし、鼻水対策として薬は飲んでいて、移動の車の運転も危険だ。薬を飲んで30分くらい経過すると、多少は効いていると実感はあるけれど、少しボーっとしてしまう。気を紛らわそうと思って空想世界に入るが、これもあんまりうまくいかない。薬が無いともっとつらいはずだが、なんとなく薬の所為でつらいという気分にもなる。早く時間が経過して、役割が終わらないかということが気になって、しかしそういうことを考えている自分もつらい。いつかは病気は治るはずだという思いがあって、そうして元気になった自分を夢想し、慰める。しかし実際にはつらいから、たいして慰めになったりはしない。
 ただ、薬を飲んでいて一つだけいいことはあって、ふだんは胃腸の調子が悪いのだけれど、これが少し改善する。恐らく抗生物質が腸内の細菌を殺すので、善玉菌まで死ぬのは困るにせよ、腸内の状況が好転するのだろうと考えられる。通勤などの移動に際して、一定の不安を抱えている身としては、この心配が減るというのは大変に助かる。でもまあ具合のいい方がいいといえばいいので、早く良くなって普通に空想世界を遊べるようになることを祈ってはいるのだけれど…。
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別腹をつくりたくない

2015-05-22 | 

 「甘いものは別腹」という表現はある。比喩として語られていることではあるにせよ、事実としてもそうであるらしいという。いや牛ではないので実際に胃が別にあるということではない。人間は、食べたいという思いが強くなると、脳の指令でまだ胃に食べ物が残っているにもかかわらず、無理に腸に送り出して新たなスペースができるのだという。実証もされているようで、何かの映像でもそんなようなことを見た覚えもある。
 以前大食い大会がテレビで流行っていたころに、大食いの人の胃の映像をレントゲンか何かで見るというのがあった。大食いの人たちは、食べ物をほとんど消化することなく、胃からどんどん腸の方へ食べ物が流れていく様子が見て取れた。この映像を一緒に見ていた医者が、これはちょっと考えられない現象だと驚いて頭を抱えていた。そういうありえないことが現実として起こるような、食べたいという猛烈な意思、というのがあるのかもしれない。
 そういうことを考えると、好きな食べ物は食べすぎるようにできているということになるわけで、ダイエットにおいては、まずは好きなものを目にしない設定が必要になるのかもしれない。さらにもっと食べたいという思いを、どうにかして制御できるようになると、お腹も減らなくなる可能性があるかもしれない。しかしながらそんなことは、そもそも可能なのかということでもあり、考えるだけ無駄な努力かもしれない。ある程度食べたら席から離れるというということにすると、そもそもデザートの別腹なんて現象は起こらないのかもしれない。そういう断念するタイミングというのはそれなりに難しそうだが。
 もっとも、我慢をするという行動は、精神力を疲労させることも知られている。集中力を奪い、決断力を甘くする。我慢ばかりしていると、目的達成へのモチベーションが下がってしまうのだ。要するに適当なところで、ダイエットなんてやめてしまえ、となる恐れがある。
 人間の欲求とは恐ろしい。自分自身から逃れられないように、自分の欲求からも、安易には逃れられない。別腹を食べ物以外で埋められるようになったら、どんなにいいだろうか。
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そのまんま実践本   スリム美人の生活習慣を真似したら

2015-05-21 | 読書

スリム美人の生活習慣を真似したら/わたなべぽん著(メディアファクトリー)

 副題なのか文字が小さくなって「1年間で30キロ痩せました」とある。本の題名としては文章でストレートである。内容は漫画。本人らしき写真も載っており、だぶだぶのズボンのウエストがすっぽり空いている。要するに実際にそれくらい本当に痩せたということのようだ。手に取ったのはそれが理由ではないが、なかなかのインパクトで、やはり結構売れたようだから知っている人も多いだろう。
 きっかけは便器に座ったら便座が割れたから。そのショックで初めて本気でダイエットを決意したということだ。自分が太っていることに本気で気付くと、自分がデブになるべくして、そうしてデブらしい行動ばかりしていることが分かる。では痩せているスリム美人というお手本がいるではないか、と思い立ち、スリムな人たちの行動を徹底気に観察し、真似をしてみようということである。そうすると次から次へと発見があり、いろいろと考えることになる。そうしてそれを自分なりにアレンジして実行していくと、やはりちゃんと体重が減るというお話だ。漫画だから面白おかしく書いているが、絵として事例が明示されていることと、ありがちな傾向が具体的に分かるので、実施する参考になる。女性目線だから男の僕には関係のなさそうなこと(おもにファッション)がそれなりにあるんだけれど、そういう憧れや自意識というのは、性別を超えて理解できるところである。
 また、男性の場合を考えると、やはり具体的には難しいということに改めて気づかされた。男性の痩せている付き合いのあるような人は、いないではないが、具体的にはあまりアグレッシブではないというか、本当に体質的に太らないような人が多いように思う。もちろん、スラッとしてかっこいい人もいるのだろうが、そういう人を憧れるような心情は特にない。嫉妬心が無いわけではないだろうけれど、それはそれで、要するに僕とは関係がない。それは男性的な思考性なのか僕の性格なのかはわからないが、事業が成功しているとか、人間関係が良好な環境だとかいうようなことと比べたら、特に注意してみるようなことは無い。まあそういう方面のことであっても、つまるところは自分とは関係がないので、一時の注意しか払わないけれど…。
 でもまあしかし、現在自分がダイエットしているということをコミットメントするためにも、このような漫画を読んで勉強したりしているという事実は必要だ。実際に居酒屋で飯を食いながら、話以外に少し注意を傾けると、やはり痩せ傾向の人は、最初に野菜や豆腐なんかを好んで食っているようだし、ある程度食うと追加注文はあえて箸をあんまりつけていないようにも見て取れる。少なくとも僕よりはペースが遅い。なるほどなるほど、と思って自分の箸を止める抑止力にはなるようだ。まあ、酔っていくので自分なりに怪しいわけだが…。
 ダイエットは食わなければ痩せるという単純なものでありながら、しかし複雑に難しい。人は腹が減る生き物だし、おいしいものは別腹で腹に入る。そうして人付き合いの基本の中に、食事という風景が広がっている。これはもう、人と会っているときは目の前に何らかの食べ物が存在することが多く、一人でいても食べ物は手の届くところにある。人類の歴史においては飢餓というものは深刻に多かったのだろうけれど、現代社会は安易に人を飢餓には陥れてくれない。さらに所得に関係がなく、飽食環境にあるのだ。
 ということで、少しは地道に頑張ろうと思います。生活を変えることに苦痛がなくなるようになればしめたものであろうというのが、良くわかる本なのである。
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ママチャリ、クール?

2015-05-20 | culture

 先日の続き。外国人のクールジャパンの「洗浄器付き便座」は、外国に行った人ならすぐに納得するだろうし、むしろなぜ普及しないのか不思議なのだが、まあ、200ボルト問題なんかもありそうだし、建築基準問題なんかもあるのかもしれない。でもまあ、外国人が帰国する際に購入する上位に位置するらしいので、輸出も時間の問題だろう。
 さて、では「ママチャリ」のどこが? ということだが、これは主に子供の座席が前についているものを指していて、外国では後ろにしか無いということのようだ。子供が前の方が目が行き届くだろうし、子供自身も楽しいだろう。さらに実際にお互いに楽しいということもあるようだ。
 こういうアイディアは、やはり外国人が意外と保守的だということもあるようだ。自転車の形状からいって、荷台はサドルの後ろと相場が決まっている。だからその場所にもう一人が乗るのが当たり前じゃないか、ということだろう。それはもともと日本でも一緒の筈で、しかしそうして少なからぬ事故が起こったりすることもあったかもしれない。そもそも小さい子供を自転車なんかに乗せるな、と批判する人もいるかもしれない。自転車メーカーが思いつかないということもあるし、そもそも自転車を生産しているところは、海外に拠点を移していることだろう。自国で生き残るためにはどのようにすべきかどいうことで、小さい子供のいる婦人を想定して自転車を開発するようなところが、日本にしかなかったのかもしれない。
 かくしてママチャリは登場した。これを見た外国人は、驚くとともに、激しく共感したということだろう。なんて変で、面白いんだろう。そうして実際に自分も欲しくなったのだ。
 ただし、クール・ジャパンには少しだけ意見がある。こういうことは日本の面白さであるにせよ、だからと言って日本が優れているということとは別問題だ。日本のモノづくりは、確かに素晴らしい面も多いにせよ、それは米国の生産工場だった側面が否めない。時代が変わってバトンタッチすべきところが増えており、過去の米国が体験したように、日本は既に一定の生産拠点としての優位性は薄れている。いいものを作る姿勢はいいとは思うが、それは日本人特有の優位性ではない。ママチャリのようなアイディアを実現するようなことは素晴らしいけれど、それはやはり一定の特異性が生み出した、ちょっと変なところということの方が大きい。それが面白いというのはいいけれど、決して優れていると驕ってはならないことだと思う。変な日本だから面白く、それが良くわかっていないから日本の特異性が生かされている訳だ。そういう文化を政府が後押しして広めるなんてことは、全然クールでもなんでもない。むしろ恥ずかしき自意識問題である。いいものはいいものとして普通に売り込めばよろしい。だから売り込むべきは、斜陽でなく頑張っているところに特化すべきだ。
 とまあ、そういうことだが、ママチャリに乗るのは、おじさんとしては少し恥ずかしいかもしれないです。
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半脳睡眠

2015-05-19 | 雑記

 イルカは眠るときに脳の半分だけを眠らせて、片目ずつをあけて眠ることができるんだそうだ。半脳睡眠というらしい。鳥なんかもできるのがいるらしい。完全に眠ると敵に襲われる危険があるというのと、特にイルカの場合は哺乳類のため、完全に眠ると溺れる危険があるということだろうか。だから寝ながら泳げるということで、まあひとごとなんで余計な心配ではあるが、半分居眠り泳ぎで大丈夫なんかな、とは思う。ともかく、なかなか器用なことである。
 実はイルカの睡眠はテレビで見たことがある。地中海だったか忘れたけれど、海底の砂場に集団でゴロンと寝ていて、順番にフラフラ浮かんで、寝たまま水面で呼吸して、そうしてまたフラフラと沈んでいくというものであった。なんだか大変だけど、確かに鰓呼吸ができないようだし、それはそれで、気持ちが良さそうというか、見ている分にはなかなかユーモラスな光景だと思った。
 ところで誰でも思うことだろうけど、人間だってこの半脳睡眠ができると、なかなか便利そうじゃないか。人間には欲望が大きいから、寝ないでいたいという人はそれなりにいることだろう。実はそういう研究をしている人というのは実際にいるらしく、実際に半分だけ目を閉じて、少しだけ半分の脳を休ませることができると公言しているような人もいるらしい。本当なら凄いけど、なんだかちょっとバカっぽい話ではある。
 でもまあ、いつまでも起きていられると困るような人もいるわけで、せめてそういう奴は、半分以上は寝ていてもらいたいものだ。死ねばいいとまではあえて言わないけれど、それくらい大人しくしていてくれないと、困る人にかわいそうである。コンビニなんかは開いてて助かるけれど、皆が一堂に静かに寝てしまうということがあった方が、人間にとってはお互いにいいことなんじゃなかろうか。
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二重行政肯定派の勝利

2015-05-18 | 時事

 大阪都構想の否決ニュースを見ていて、結果としてはその通りであるにせよ、都構想の反対の趣旨が「行政サービスが低下する」とする方の勝利であると報じているのを目にして、不思議な気分にはなる。大きすぎる大阪市の存在があって、いわゆる二重行政の無駄を省き、現行の行政サービスを向上させる政策が都構想なんだから、行政サービスを低下させる選択が下された、とするのが正しいのではないか。合理的な仕組みより、二重行政を存続させて、行政サービスが悪い方がいいと考えている人の方が多いということだ。もちろん大阪都にしたところで、実際にはそんなにメリットなんて無いんだよ、という主張はあるわけで、そうして実際に検討してみるとその通りの主張が一理あったとするのは分かるので、つまるところ、変化なしのままでも良いというか、このままでも何とかなるんじゃないかということの方が勝(まさ)ったのであろう。
 僕が住んでいる長崎県なんかだと、確かに長崎市というのが頭一つ大きな市で、中核市でもあって、いわゆる二重行政的に権限が大きい。もっとも大阪市みたいに極端に巨大ではないから単純比較はできないが、二重行政で無駄が多いのかというのは、はっきり言ってイエスだろう。そういうところに当然のように長崎市庁舎と長崎県庁が林立する。やっていることが必ずしも一緒ではないにせよ、かなりの部分は合理化なんかしていない。しかしながら長崎市の住人から考えてみると、長崎市独自の政策も打てるわけで、必ずしも悪いことばかりではない。強いところが強くて何が悪いのか、という主張があるとすれば、他市の住人である僕なんかからすると何にも言うことなんてない。他市に住んでいる方が悪いだけのことだ。
 しかしながらこれは、貧乏な地方に住んでいるから思うことであって、長崎市や大阪市のように比較的豊かなところからすると、その利ザヤを貧しき所に分配するのは損なことだろう。東京都なんかはまさにそうで、納めた税金の半分しか行政サービスとして戻らないのだから不平を言っても仕方がない。もっともそういう税金の分配が政治というシステムなんだから、その枠というものがどのようにすべきかというのは、課題解消されている訳ではない。そうして今回橋下さんは見事にそれに失敗した。いや、現実としては維新の会が知事と市長を独占しているのだから、効率よく今の段階ではやれているので、結局成功しながら敗北したというねじれが生じているということなんだろう。
 引退したら外野から圧力をかけることができるので、実際にはそういう選択をしたのかもしれない。まさにマスコミがそういう役割をやっている訳で、本当に戦おうとしている相手を変えてしまおうという考えかもしれない。もっとも実際には本当に嫌になっただけなのかもしれないけれど…。
 誤解する人もいるだろうから改めて付け加えておくと、僕は特に維新の会や橋下さんの支持者ではない。ただ、相変わらず報道というのはバランスが悪いものだな、ということだけであります。
コメント (2)
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