カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

純粋さを汚すな

2011-04-30 | 時事
楽天・ベガルタ、仙台の本拠地で今季初戦

 このニュースはスポーツ面で無く社会面である。
 僕はこのような捉え方をするメディアの考え方に大変に危険なものを感じる。たまたま勝ったのだったらそれはそれで何の問題も無いのだけれど、そのような空気が勝敗に左右したとすれば、本来ならばまったくフェアとはいえなくなるのではあるまいか。無自覚だというのなら、さらに罪は重い。応援しているファンが勝つことを熱望すること自体には何の問題も無い。しかしその純粋さを曲げてまで、強引な圧力を加えて勝利を呼び込む空気を醸造することは罪深いのではあるまいか。個人的に復興の象徴に感じるのは自由だ。しかしまつりあげてそのようなストーリーを作り出すことは、勝負の世界における捏造のようなものだ。相手側もその圧力に屈することがあるとしたら、一種の八百長のようなものではあるまいか。
 さらに言うと、この一方的な勝利が本当に被災者のためになるということが、正義や良心だと思い込んでいることも問題だ。結局今後勝てなかったらどうするのだろう。勝つことが復興への希望なら、当然負けることは復興への挫折であるはずだ。勝つことの純粋さを汚してまで勝たなくてはならないのだろうか。
 また、被災者の中にも少なからず別のチームを応援している人もいるはずである。彼らの夢を砕くことに無頓着なままの良心を、無配慮な自己中心的と言わずに置くことなどできないのではないか。

 それにしてもマー君完投は良かったです。彼は本当に力のあるピッチャーだなあと感心しております。
 
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息もできない

2011-04-29 | 映画
息もできない/ヤン・イクチュン監督

 こういう映画を見ると、平和な家庭に生まれて本当にしあわせだったなあとつくづく思う。いや、本当は本当に幸福だったのかよく自覚してないのだけど、むしろ不幸だったこともそれなりにあったようにさえ思うのだけれど、このような状態に比べたら、特にこれといって文句を言うべきでないというような気分になるということだ。家庭内の暴力の逃げ場の無さと恐怖。そして際限のない暴力の連鎖。親の暴力があって子供も暴力に染まっていく。きっかけは貧困の影と、そして身内であるという親しさゆえの甘え。外では恐らくそこまで凶暴で無い筈の親が、家庭内では容赦なく暴力をふるう。そしてどんどんエスカレートしていく。絶対的な弱者である子供は、ただ泣いて耐えるより無い。苦しいが逃れられない。そして頼るしかないのは、恐らくその狂暴な親しかいないのだ。これを地獄といわずになんというか。
 最初は主人公のあまりの無頼ぶりに嫌悪しか覚えなかったが、段々事情が分かってきて、その心の中の限りない寂しさに共感さえ覚えていく。ついには心の再生を果たすかに見えたのだが…。
 韓国社会のことはよく分からないが、庶民が暴力の中に埋もれながら生活している様子が非常にリアルだ。現在は豊かになった韓国の事情はよく伝わってくるのだが、全体的にはこのような貧困の匂いが漂う社会なのかもしれない。もちろん映画だから誇張もあるだろうが、日本の30年代に通じるような、貧困と暴力の共存と、そして人情というものが良く伝わってくる。このような空気は、すでに日本では失われて久しい情景ではなかろうか。人間として生まれてきた悲しさというものが、見事に描かれた傑作ということは間違いがない。
 暴力をふるう人間にも才能というのがあるのではないだろうか。悲しいかなそのような才能に目覚めるしかない環境がある。必死でもがいて逃れてようとしても、自分自身はその世界に染まるより別の生き方ができない。
 痛い目にあわせて本当に分からせたい目的があるわけで、その目的達成の後、相手がどうなるのかを極力考えないのであれば、暴力というものは本当の威力を発揮する。つまり暴力は手段として用いられるわけで、目的ではない。目的達成のために最も短絡的に効果的なものが暴力であり、麻薬のようにその力に染まっていくのが人間である。破壊するのは一瞬だが、築きあげるのにはたいへんに時間と根気が必要だ。一度使ってしまった暴力は取り返しがつかないのであり、そして簡単に連鎖してしまう。最初に持ち上がってしまった怒りを具体的な形にしない努力は、そう簡単に抑止できるものではない。
 考えてみると豊かさというのは、そのような暴力を大きくねじ込むことができるような、さらに大きな力なのかもしれない。社会が家庭にまで安心を与えられるような、そのような大きな力を持つ国家で暮さない限り、本当に暴力から逃れることはできないのではなかろうか。そしてその社会からあぶれるような個人が出てくると、簡単にその部分は暴力化してしまうのだ。
 個人的な、そして小さな社会の地獄絵図を見ているようでいて、しかしながら社会的な豊かさとは何だというようなことまで考えさせられてしまった。日本を悪く言う人は趣味であればしょうがないが、しかし本当に豊かな国とは何なのか、改めてそのことを思わずにはいられないのだった。
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今こそ開拓者魂を

2011-04-29 | 時事
東京花火大会中止

 所属しているある団体では、六月に開催予定だったけど延期の上場所が大阪になると連絡があった。仕方のない面もあるが、この流れが復興の足かせになるのは間違いなかろう。東京に集まるのは確かに便利な面もあって、中央省庁に用事のある別の会議は普通に同じく6月開催で変更は無い。全国的な組織や連携が必要なものは、この流れの中でどのように対応していくことになるのか。確かに電力の問題もあるし一時的というようなことで無いのなら、大きく日本地図が変わるようなことになる可能性もある。西であれば災害が無いとも言えないのだけれど、人間の生きている時間軸で考えるとそうもいっていられなくなるかもしれない。
 家康の時代まで江戸は湿地帯で人の住めるようなところでは無かったという。このような災害になってみると、ひょっとするとその前の時代の人は、あの場所を選べなかっただけでなく、将来性を見込んでいなかったのではなかろうか。
 まあ、そんなことを言い出すと、日本自体が人の住むような場所ではなかったということにもなりかねないが…。もちろんもともと住んでいた人もいただろうが、多くの先祖は大陸から移動して日本に住みついたものらしい。事情があったのだろうけど、リスクがありながらも新天地として移ってきたことを思うと、この場所を何とかするより仕方がない。もともと僕らは開拓者の子孫なのである。
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もともと売る価値があるだけのこと

2011-04-28 | 時事
転売禁止の大相撲入場券、さっそくオークションに

 素直に売ればよかったのだと思う。それでもダフ屋は出てくるだろうが。
 相撲を見たい人が多ければ、大相撲は復活する。単純だがそれだけのことだと思う。国技なんていってこだわっているのは相撲を知らない人であって、基本的に興業なんだからそのことに徹すればいい。純粋に相撲は人気で支えられている日本を代表する興業文化なのだと思う。その連続で江戸時代から現代まで続いてきたのだ。しかし続くことが目的で無く、今を大切に方向転換しながらやっていけばいい。見捨てられれば終わるだけのことである。
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持ってるなら貯めずに使おう

2011-04-27 | 時事
1億6千万円強盗被害で脱税ばれた

 泣きっ面に蜂。
 それにしても持ってるなあ、とは素直な驚き。強盗も持っているのを知ってて押し入ったのだろうし、ひょっとすると脱税などの金と知っていて被害届を出さないと踏んでいたのかもしれない。ということは、近い筋の人か、もしくは頼まれたなどの関係ということも考えられないだろうか。金は戻らないかもしれないが、捕まる可能性は高いのではあるまいか。
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ミルクおやじ当選

2011-04-26 | 時事
子供たちの未来のために


 こういう人も当選したんだな。詳しくはここ。

 いろんな戦い方があるんだと感慨深いです。
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僕たちは何を経験してきたのだろう

2011-04-26 | 時事
福島「仮設」建設作業員募集に批判相次ぐ 韓国

 地元復興を考えると、福島で作業員募集をしてくれた方がいいとも思う。

 それにしても日本は危険な国になったものである。
 僕が中国に留学中に普賢岳の噴火が起こった。おなじ長崎県だが、僕自身の地理的感覚から日本に帰ったとしてもまったく自分自身の家族への危険への不安は無かった(火山灰が降ってくるらしいという話は友人から漏れ聞いていたが)。
 ところが中国国内の友人たちの反応はまったく違った。多くの人からお悔やみや心配からの同情の言葉をいただいたものだ。留学生のお世話をしている学校の事務担当の先生は、本当に真剣に、いざとなったら自分の養子してもいいとまで言われた。もう当分は日本には帰れないだろうし、日本は駄目になってしまったのだから、というような話は再三聞かされたものだ。僕はそのたびに、中国は大きすぎるから分からないかもしれないが、日本は人間のスケールから考えると大変に広く大きな国土をもつ国で、(確かに災害は大変な状況だけれど)過剰な心配はいらないのだと説得しなければならなかった。しかしながら僕はすっかり強がりを言う変な日本人ということになってしまったようだ。
 確かに災害というのは大変な事態である。しかしながら僕はその時に、その後に起こる風評被害の方がダメージが大きいことを思い知った。分からない人たちにいくら説明しても無理なのである。中には本当にこのまま日本は沈没してしまうというようなことを信じている人までいるようだった。それは単に日本から届く映像を見て素直に反応しているにすぎないのである。実際に大変なことが起こっているのは事実なのだが、なんだか僕は本当に複雑な気持ちを味わったものだ。僕は当時テレビをもっていなかったので個人的には案外早く心の平安を取り戻せたが、テレビをもっている人は長い間不安な気持ちは消えなかったようだ。
 今回の放射能の問題は別だというような意見もあるだろう。それはそうなのかもしれない。しかし、そうではないかもしれない。ただはっきりしているのは、少なくともあと何十年もの間、実際の被害とは別の被害の方が大きいままであるだろう。
 スリーマイルやチェルノブイリは、現在観光場所として人を集めるまでになったが、それまでにも長い時間が必要だった。フクシマもおそらくはそのような興味の場所になることは確実だが、その前の事態の収束の目途さえ不透明だ。
 心配ではないといえばウソになるが、ある程度自分自身で情報を集めて、自分自身で物事を判断して決めていかなければ、不安そのものは終息しない。いま本当に考えるべきことはそういうことである。
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何もしないから…

2011-04-25 | ことば
「何もしないからレジを開けなさい」と強盗

 見出しだけではレジを開けるだけの要求に過ぎなくて、まるで店員を騙したかのような印象を受ける。しかしながら包丁を突きつけてのこの言葉を発しているということで解釈すると、「何もあなたに対して危害を加えない」から「レジを開けて金をよこせ」といっていたことが判明する。つまり言っていることをそのまま伝えているようで、明らかに読者が誤読するように書いているということだ。まあ、言い回しに面白みがあるとの判断だろうけれど、このように事実というのは記述でゆがめることが簡単にできるのである。

 それにしてもこのお店で以前友人がバイトしてたなあ。二十年以上も前だけど…。
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政治の春のために

2011-04-24 | 時事
若者、選挙に行かないと損する?

 現実を見ると既に損しているわけだが、そのことすら関係ないから(気づいてない)行かないということなんだろうと思う。政治の損が自分の行動で変えられるということが信じられれば行動も変わる可能性はあるが…。
 しかしながら、有権者もそうなのだが、政治家のほうも、世代間の対立構造であるという認識を持っているとはいい難いのだとも思う。社会保障や福祉の充実について反対をする人などほとんど無く、教育の重要性についても異議を唱える人などものすごく少数に過ぎない。そうではあっても、その保障や充実にどのような財源を当てるのかということについては、案外無頓着なのではなかろうか。というか、必要だという要望に必要な財源は誰かが負担しなければならず、天から降ってくるなどということは、当たり前だがありえない。そのありえないことにもかかわらず、負担財源の多くを安易に借金に頼ってしまっていることが、将来的な負担の先送りとなる事態を招いており、つまりそれは若者へのしわ寄せになっているということなのだ。国だけの問題だけでなく、地方の財源問題も良く似た構造になっており、都市部や大企業で働く人々の負担を当てにして、再分配されることで何とか成り立っている現状である。日本というのは基本的に自立できずに一部の努力に寄りかかって頼りきっている幼児性の強い構造になってしまっているのだ。それでも何とかなってしまう過去の成長や経済力が本当に日本を支えているわけであり、なぜかそれが永遠に続くものと期待しているのかもしれない。しかし期待が現実と齟齬をきたしてしまった後が現在なのに、そのことにすら気づいていないというのが何よりの問題なのだ。厳しい言い方をすると、日本は終わりの始まりを迎えており、民主主義はその流れを止めることができないでいるのだ。
 ただ僕らにできることは、それでも努力を続けていこうとするのか、今すぐ終わることを受け入れるかのどちらかだけである。今のところ終わりを受け入れる(現実がそうなるから受け入れざるを得ないという意味で)方向しかオプションが無いのであるからどうしようもないのだが、実際には自分のことはしっかりとがんばって持ち場を守っている人たちがほとんどなのではなかろうか。オプションさえ増えれば選択ができるのに、選択をする機会すら持たされていないのである。
 つまり現状を変えられないのは、若者が選挙に行かないためなのではなく、その選択となる構造を作ることすらできない政治や世論にある。もっと戻ると、原状を国民に提示できる仕組みがうまくできていないのである。専門家の言葉は理解されないし、単純化された解説は間違いだらけだ。その上にたとえ正しいと思われることが明るみに出ても、信用する根拠やリテラシーの無い国民世論が待っている(と思われている)。
 繰り返すが、このことを許しているのは、日本という国の底力がそれなりに強大だということが何よりの担保なのであり、その信用が崩れてしまえば終わるということだ。残された時間は残り少ないというのに議論の俎上にも上がらないままでは、若者までが関心を持てるような政治の季節など最初から訪れるわけなど無いのである。
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100年程度は

2011-04-22 | 時事
消費税20%に向かう

 まさかこの記事で驚く人がいるとは当たり前すぎて信じられないのだが、問題は災害があったから20%でなく、もともとその水準だったのにあたかも災害が理由であるという認識をしてしまう人がいるかもしれないことだ。今となってはおそらく20%ではぜんぜんどうしようもないところに来てしまっているのかもしれない。本当に驚くべきことは現在でもまだ本当に具体的に話が進んでいないことなのである。さらにはもっと前にできなかったことかもしれない。これから100年くらいは時間をかけて、日本自体の復興を手掛けていかなければならないのかもしれない。本当に悪いことから目をそらさなければ、本来はできない話ではないと信じたいが、悲観的になってしまうのは、おそらく諦めてしまう人が相当いるだろうということだ。100年後は皆ほどんど死んでいるだろうが、それでもやるんだということ以外に希望は無いのである。
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福島県産野菜が大人気

2011-04-21 | 時事
福島県産野菜がネットで大人気

 結局風評被害とは過剰な自粛の方が大きいということだろう。ちゃんと福島県産の品物が売ってあれば、多くの消費者は買うということではないだろうか。
 思い切って出荷を拒否する市場や卸業者の名前を公表することにすれば、もう少し事態は改善される可能性もあるだろう。それこそが報道の本当の役割なんだと思う。
 選択するのはあくまで消費者で、一般大衆である。その選択さえ拒む現在の風潮こそ、最大の二次災害である。
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娘婿をスコップで

2011-04-20 | 雑記
「震災の片付けをしない」娘婿をスコップで殴る

 うーん、この微妙な可笑しさ加減が、妙に清涼剤のような感じもしないではない。大変なんだろうな、と同情はするのだけど、人間模様はあるわけで、あえて笑ってはいけないだろうか。
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2時間3分2秒

2011-04-19 | 時事
ムタイが2時間3分台でV

 2時間3分2秒だって。次元が違いすぎる。
 しかし世界記録では無いって言うのもかえってすごいという感じがする。関係無くすごい走りをやってしまう。力もすごいが、もっと根本的な何かの違いがあるのではなかろうか。無理をしないでも頑張れるような何か。それぐらい異次元の破壊力だ。
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今だから、というのはあるにせよ

2011-04-18 | 時事
7割が増税容認

 僕が政治のことを本当に分からなくなるのは、このような記事を読むにつけだ。世論がこのように痛みを容認していても、政治決断ができないのは何故なのだろう。その上このような世論形成は、政治家の努力でなされているものではぜんぜん違うのである。さらにばらまきを望んでもいないし止めてほしいと願っているのに、出てくる政策はばらまきばかりなのである。そしてその方面の法案を一所懸命通そうとする。彼らは一体誰の声を聞いて政治を行おうとしているのだろうか。
 世論がすべて正しいとはいえない。しかし、世論の後押しが無ければ政治を行うことはできない。どこからねじれていくのか、まったくの疑問である。
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無題です

2011-04-16 | 雑記
 僕は自分でも呆れるくらい饒舌な人間なのだが、しかし、語りたくないことだってあるにはある。語りたくないという理由をたくさん語ることはできるが、そのことそのものに触れたくないからさけたい、ということはある。オフレコだったら可能だが、場の空気としてやめて置くというのもある。まあ、それがタブーなんだろうな、といえばそうなのかもしれない。議論してもいいんだけど、めんどくさいというのだってあるし、それとこれとは別の話だしな、というのもある。だいたい俺の話なんか聞きたく無いよな、というのは自覚があるが、しかしおいらのブログなんだから良いじゃんというのがあるからこういう場があるわけだ。前にもこれは書いたが別段匿名で無くてもいいんだけど、事実上リアル僕を知っている人が多数であるのは事実だから匿名じゃないけどあえてなんとなくボケていて、それがいい場合だってあるんじゃないかということもあって始めたころと変わりなく続いているという感じだ。本来はそれは好きなことを躊躇せずに書けたらいいということだったのかもしれない。にもかかわらず書きたくないな、というのは、やっぱりなんだかつらいような感じもある訳だ。
 まあしかし、考えたことをまとめるというようなことをあえてせずに、自分自身をメモしていく作業がブログなんじゃなかろうかとも普段は思っているわけで、勇み足があったとしても、まあ、構わず進んでいきたいはずだった。今は、ちょっと離れたいな、みたいな感じなのかもしれない。スランプが無いわけでは無かったけど、貯まるほうが多いというのが普通だったから本当に苦しんだりはしなかった。書いてもいいという自由さが自分を苦しめるとは思わなかった。
 でも考えてみると、本当に言いたいことを全部書いてきたかというとそんなことは当然無くて、僕を知っている人は時に不思議に思うんじゃなかろうかと思うが、あんがい今かかわっている事は書いていなかったりしてきた。そういう中に僕の本音もあったわけで、書かなかったことの多くが事実としての僕を表してもいるのである。
 というわけで、ブログは僕のリアルじゃないかもしれないというところが、改めて僕としての最大の魅力なんだと思う。そしてそういうことを語ってしまうことにカタルシスがあるのであろう。書かないでいいことをこれからも書かないというだけのことなんだけど、書いてみると自分でそこが分かるところが書くことの面白さかもしれない。
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