カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

雑音の方が大きくなりすぎて…

2014-07-31 | net & 社会

 一連の報道は完全に後手に回ってしまって、ほとんどネットでなければ物事が伝わってこない。表では憶測だが(もちろんネットもそれはあるしガセも多いが)かなり細部にわたって内容が報じられているのは圧倒的にネット上の方だ。有名人というのもあるが、未成年でも堂々と写真付きだし、本人の発信らしいものさえ雑音つきで見ることができる。かなりの確信犯だったことは間違いなかったようで、それは大変にショッキングだが、目的もそれなりに浮かび上がってくるようにも感じられる。個人的に知人だったこともあるので僕もショックを受けたが、この破壊工作というのは、間違いなく父親に向けられたテロのようなものなのだろう。病んでいるといえばそうだけれど、素直といえばそうともとれる。それで良い訳は無いが、確実にその思いは当人にも届いていることだろう。だからこそ本当に心配である。
 しばらく表ではこのようなことを小出しにして、言いにくいことは専門家という人を出して、あくまで表面を装って報道するより無いのだろう。既に的外れというのもあるし、しかしウラから情報を得て解析する人も逆にでてきているようである。
 さらに外野の愉快犯はエスカレートしている。教育関係者への風当たりも強くなっている。多くの場合当事者の子供からの発信だとは思うが、いつまでも取り繕うことでいいことはない。影響力が大きいというのは分かるが、結局後手でしかない。沈静化まで沈黙するのかもしれないけれど、結局自らこれを題材にするのだろうから、遊びのようなものである。向き合うというのはどういうことか、一定のまじめさは必要だろう。
 本人の思いがどこまで成功したのかは分からない。しかし手法は歪んでいるので、少し戸惑いはあるに違いない。しかし確実にいえることは、既に損なわれてしまったものが大きすぎる。巻き込んだものが取り返しがつかないだけに、長期にわたっても、簡単には済まないことだろう。このような頭のよさというのは、使い方の決定的な頭の悪さと絡んで、ひたすら悲しいという感じがする。だが、もう逃げ場もない。破壊の方向が、自らに進まないようにと願うばかりだ。どちらに転んでも誰も救われないが、本当に検証を進めるためにはそれでは何も分からない。いずれにしても、時間が必要なのだろうけれど…。
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騙すことに意味がある   モネ・ゲーム

2014-07-30 | 映画

モネ・ゲーム/マイケル・ホフマン監督

 「泥棒貴族」という映画のリメイクということらしい。元も良くできた犯罪映画コメディだったらしく、少し現代風にアレンジしなおして、さらにまじめ二枚目のコリン・ファースと、もともとコメディエンヌの素養のあるキャメロン・ディアスの共演ということで、一攫千金を狙ったのだろう。少しトウが立つといった感はあるが、二人とも楽しく演じていて、見ていても楽しい。特にコリン・ファースは、その堅物的な物言いがよく合っていて、いわゆるはまり役といっていいだろう。
 実際にモネの作品がこのような運命で眠っているものかは知らない。しかしそのような逸話があるからこそ、モノの値段というか、価値は確かに上がるものだろう。もちろん持っている人にとってはたまらない背景だけれど、持たざるものにとっては、単なるゴシップである。欲しいのは金のほうだけ、ということもいえて、つまり、気持ちよく金を払ってもらおうというわけである。
 しかしながら、このような詐欺というか、人を騙したり落としいれたりというようなゲームは、あるいは営業の人は多かれ少なかれしていることなのかもしれないが、なんと言うか大変に抵抗があるのは確かだ。嫌な気分が付きまとうというか、なんと言うか…。だから騙される人物は風変わりだったり、悪人だったりするように描かれる。騙す方が主人公側だから、このような生真面目さだったり、善人っぽいということが必要になってくるのであろう。ちょっと演技がかった演出にもなるし、ファンタジーということにもなる。楽しく騙し騙されを観る素養を養わなければならない。
 大人のための寓話といえばそうだし、一攫千金のどんでん返しカタルシス映画といえばそうである。なかなかにくいところではあるが、しかし、日本人には少しだけ引っかかるところはあるかもしれない。西洋人を楽しませるスパイスとして。日本人がいるらしいことはわかるので、それはそれで学習しておいてもいいのかもしれないけれど…。
 現実を忘れることに意味があるとしたら、及第点の娯楽作だろう。
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終わりの印象は美女が持っていく

2014-07-29 | 感涙記

 なんだかワールドカップが開催されていたこと自体が、かなり遠い過去のような気分になっているのだが、総集編などをビデオ録画などしてあって、ちゃんとふり返ることができると、それなりに冷静に過去を俯瞰することができるようになった。終わった後は寂しさとともに、日本やブラジルの負け方などに影響されて、なんとなく後味の悪いものを残したような感じもあったものだったが、今になって見るとそれなりに順当に強いものが勝ち、さらに優勝においても一番予想通りドイツのものになったということもあり、やはりこの世界はこの世界だったというようなものになっているのが不思議である。こうして日常を取り戻し祭りの終わりを眺めると、人々は少しだけ肌の脱皮したような感慨にふけるものなのかもしれない。
 さて、試合のほうはそうだったのだが、実はワールドカップで一番印象に残ったのは、他でもなくドイツの優勝後にグランドになだれ込んできたような美女集団の姿だったかもしれない。他ならぬドイツ代表選手たちの奥さんや恋人たちということだったのだろうけれど、皆選手にぴったりと寄り添い、恐らく愛を語り合い、喜びを分かち合っている様子だった。勝った瞬間は文字通りチームと観客と一体化して喜びを爆発させていた人達が、いっせいに個別に散らばって個人の喜びを一番親しいものと分かち合うという姿に変貌した。それを見せられている僕らは、なんともいえない違和感と衝撃を受けたという感じだった。それが悪いとはいえないのだが、日本にサッカー文化がどうだとか言う前に、決定的に何か違う文化圏のものの中でやっていたという現実を突きつけられたということになるのだろう。もちろん日本だって優勝するようなことになると、同じように美しい女性をピッチに上げるに違いないのだが、しかしながらそれは完全に日本文化ではなかろう。真似をしているだけのことに違いなくて、若い選手が多いからそれなりに絵になることだろうけれど、日本というチームの勝利感とは違うものになるのではなかろうか。いや、それは夢のようなことで、現実になるにはそれなりに文化が馴染んでいるのかもしれないが…。
 さらに気になったのは、恐らくアルゼンチンの恋人たちも、ひそかに待機していただろうことかもしれない。無駄になってしまったけれど、十分準備は怠っていなかっただろうことを思うと、悲しいというより少し恐ろしい。南米の場合だったら、もっと飛び跳ねたりして大変だったかもしれないが、それはそれで楽しいものだっただろうに…。
 しかしながらサッカー選手はもてるだろうからいらぬ心配だが、そういう人がいない人やちょうど喧嘩してる人なんかは肩身が狭い思いをするんだろうか? こういう習慣は自然なようで、かえって不自然な憶測をたくさん呼ぶという感じもする。なんだかみんな大変だなあ、という気がするんだけれど、これでいいのでしょうかね。まあ、ほんとにこんなものなのか、四年後も楽しみにいたしましょう。
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犯人は調子に乗りすぎだけれど…   刑事コロンボ・ルーサン刑事の犯罪

2014-07-28 | コロンボ

刑事コロンボ・ルーサン刑事の犯罪/バーナードLコワルスキー監督

 実際に米国の人気番組なのか知らないが、刑事ドラマの主人公とコロンボが対決するという図式。一種の自虐的なパロディにもなっていて、実際の捜査を、ドラマで殺人に慣れている刑事役にやれるのか、という笑いを取っている。しかし同時にそれはコロンボ自身にも言えることで、なんとなく重層的に自虐的なわけである。コロンボの方もこれを利用して、犯人に語るに落ちる作戦を取っているように見える。もしくはこれを利用して、会いに行く口実を作っている風だ。いつもはしつこく会いに行くので犯人に嫌われっぱなしなのだが、この場合は犯人は調子に乗って犯人探しに高じているという感じだ。観ていて痛々しい。
 それにしてもトリックには偶然の要素も多いし、捜査が始まってからもいろいろと工作をするなど、やはりどこか頓馬な感じもする。言っちゃ悪いが、犯人の程度はかなり低いという印象さえ残す。コロンボはわざと遊んでやっているんじゃないかと疑いたくなるほどだ。関係性やアリバイについても、なんだか本当に危なっかしい。計画は成功するのだけれど、それこそ上手く行き過ぎただけのことではなかろうか。
 話の筋とはまったく関係ないが、コロンボが犯人を落としたあとに、急に言葉遣いを変えるのも気に食わない。犯人だから横柄に扱っていいとも思えないし、手のひらを返したように馬鹿にしているようにも見える。日本のドラマではよくあることだが、犯人に向かって急にタメ口になるような警官の姿が描かれることが多いが、そういう態度が犯罪者に暴力をふるったりなどにつながるのではないかと疑っている。被害者ならともかく、第三者がそのようにしていいと思うのは、人間的な弱さや差別意識の現われだろう。コロンボは紳士的だからいいのであって、このあたりは日本側製作者の誤りなのではあるまいか。
 被害者は多少横柄な人間だったのかもしれないが、夫は浮気をしているし、目をかけている人間から殺されてしまったわけだし、なんとなく同情してしまうところがある。射撃の名手だったから一撃で死んだ(恐らく即死)ということくらいしか、浮ばれるところが無い。コロンボがこれに同情して態度を変えたという考えも出来ないではないが、なんとなく後味が悪いのだった。
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男女のための文法が必要かも   君とボクの虹色の世界

2014-07-27 | 映画

君とボクの虹色の世界/ミランダ・ジュライ監督

 男性と女性では見えている世界が違うという物言いがある。別段男女を分けなくても、人によって見え方は違うらしいということはある。しかしながらそのくくりとして性別を用いても、ある程度納得できる感覚があるのかもしれない。話をしていても物事の捉え方がずいぶん違うものだ、というのは時たま感じる。そういうものを映像で見ると、なるほど、こういう感じに少し近いのかな、と思ったりした。
 とにかく坦々としているわけだが、退屈する感じではない。大きな物語として一本の恋愛がないわけではないが、やはり小さい話を細切れにつないだような感じである。女性側が見ている恋愛観というものであるように思われるかもしれないが、確かにそういう感じはちょっとあるが、いわゆるものの見方というか、面白がりかたのようなものかもしれない。性的な話も多くて、そういう意味ではかなり意外だが、まあ、なんとなく面白いものだというのは分かる。共感のある人もいるだろうけど、もともと少し変わった人々が多い。女性の見方といったけれど、ちょっと変わった女性の見方という訂正は必要かもしれない。
 男である僕がなるほどと思うのは、やはり不可解な男性が多く描かれている感じかもしれない。男の僕が見ても、ちょっとこれは変だな、と思うわけだが、よく考えてみてみると、これは受け止めている女性視点から変に感じているからであると思われる。行動としては一緒のようだが、内面がすっ飛ばされて表現されている感じなのだ。この不可解なる生物「男性」。いや、たぶん不可解になるちょっと前の姿を見落としているんじゃないか、という気が少しする。見落としている部分は表現されていないわけで、当然本当かは分からない。しかし、そこのあたりは確信的に変化の予兆があったはずだと思う。結果的に予兆なくへんな行動をしたり変な言動をしたりする。あれ、どうしたんだろう、と女性は悩んでしまうらしい。
 これは一般的な男性監督の描く魔性の女なども、あんがいそういうからくりなのかもしれない。訳が分からないなりに、映画的にはそれなりの理屈がありそうなことは描かれてはいる。しかし恐らくそれは監督なり製作者なりの偏見が入っていて、そうして結果的にそのような演出になってしまった可能性がある。反面的にこのような映画を観ると、そのような疑いを持ってしまうのである。自らの偏見は自らの性から逃れられないためかもしれない。絶対に分かり合えない領域とはいえないかもしれないが、ある程度は誤解を解く作業は必要になるのだろう。もっとも、それを言葉だけでやるのが困難で、男女には他の文法が残されているということなのかもしれない。
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中年になったら観るドラマ   THE LONG GOODBYE

2014-07-26 | 映画

THE LONG GOODBYE/堀切園健太郎演出

 NHKの土曜ドラマシリーズ(5回)を観た。何故か録画していて、というか「長いお別れ」は当然読んでおり(村上訳ではない)、何でそれが日本で? という興味だったのだろう。ハードボイルドは読むには良いが、映像だとどうしてもちょっとお笑いっぽくなる。そういうことも興味にあったに違いない。
 結論を先に言うと、これがそれなりに成功していた。何故か役者さんは下手な人が多かったのだが、映像も台詞回しもそれなりに成功している。もちろん独特のキザな響きはあるにはある。それがお笑いに聞こえないくらいにはキマッているということだ。だいたいのところは確かに原作の翻訳というのは分からないではないが、かなり翻訳を変えているというか、まったく設定は違っている。むしろ小説よりはずいぶん甘い味付けになっているし、原発問題など、過去の話なのに妙に現代的な説教くささがあるのはダメなところだったが、その甘さも含めてそれなりに引っ張る雰囲気は出来ていたと思う。映画と比べると日本のドラマは映像も台詞回しもずいぶんと落ちるのが普通だけれど、これはなかなか良かった部類ではなかったろうか。というか5回にわたって、十分退屈なしに楽しむことが出来た。
 もっとも浅野忠信が良いというが大きいのはある。ちょうどこの時期に何かの賞を取ったらしいが、この円熟の域にあるというか、ちょうどいい具合に年を重ねているということなのだろう。オジサンくさくなっているが、それが渋みに通じている。ちょうどそういう感じがこのドラマに馴染んでいたということだろう。
 もっとも、それでも僕は原作を読んだときの驚きのようなものは、やはり無かった。ドラマはそのあたりのことは、あえて深いミステリということにはしていない様子だった。いや、謎解きはやるにはやったが、完全にひっくり返すようなストーリーにしなかったということだ。それは好みもあろうけど、そのおかげで一定のリズムは保ったまま最後までいったという感じに仕上がった。
 再放送があるのかは知らない。見逃した人は気が向いたら観たらいいだろう。ただし、禁煙中の人は苦しむかもしれないが…。
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出会い系の仕事   純喫茶磯辺

2014-07-25 | 映画

純喫茶磯辺/吉田恵輔監督

 以前友達と飲んでいて、その友人が実は喫茶店のマスターをやりたいと語るのを聞いたことがある。他人の好みなんでとやかく言うつもりは無いが、まったく???という感じではあった。パーソナリティが分かりにくいだろうけど、おおよそ客商売風の人間ではない。しかしながらよく聞くと、客あしらいが苦手でも自分の喫茶店のマスターなら、あんまり口も聞かずに何とかやれるのではないか、ということだった。そんなもんなんかね、僕は田舎もんだから、口をきかないマスターにえんえんと話しかけてしまいそうだけど…。
 ところでこの映画も、そういう風にいきなり離婚した片割れの父親が喫茶店を始めてしまって、それを手伝う女子高生の目から見た日常、というような趣になっている。いや、いろいろあるけど、まあ、そんなところだ。結果的に自立できない店のバイト女物語で終わってしまう変な映画ではあるが、喫茶店をめぐる変な回想ということであるのだろう。
 思春期の女性が親をどう見ている問題、ということもある。僕だってそういう時期はあったはずだが、やはりちょっと違ったな、という感じはあった。まあ、男と女の違いもあるし、父親を心配してるんだか邪魔をしているんだかよく分からない子供心理が描かれていて、要するに、また親が元に戻って欲しいという気持ちがあるということなんだろう。分からないではないが、やっぱりそんなもんかね。
 しかしながらたぶんコメディのはずだが、笑える映画ということでもない。お笑い芸人が多いので、皆あんまり演技が上手くないというのはある。そういってしまったが、宮迫は上手いので、まあ、彼のための映画かもしれない。ただ、これは笑えるのだろうか? 本業としてどうなのか、というのはあろう。狙っているのか、外しているのか、そこのあたりの分かりにくい映画なのかもしれない。結局変な不思議な話が、ふわっとしたまま現実から乖離して、物語自体がもう別にどうでもいいような感じになってしまった。そういうことを楽しむということなんだろうけれど、もう少し問題として考えたい自分が置いていかれてしまったのかもしれない。
 ところで僕は特に喫茶店のマスターになりたい願望はない。この映画の父親は、自分が入った喫茶店のマスターがコーヒーに絵を描いて客に出しているのを見て憧れたようだ。もっと平たく言うと、そういう客からモテることに憧れたわけだ。もっと解析して言うと、働きながら再婚できるチャンスがあると踏んだといえよう。だからこの映画は終始父親の恋愛がキーになっているということで、喫茶店だったら見知らぬ客との出会いサイトにもなるんじゃないか、という期待があったのだろう。だから僕に願望が無いのは、そういう期待をそういう仕事に求めていないことに尽きるのではないか。まあ、出会いは無いよりあったほうがいいのだろうが、つまるところ客よりバイトと恋に落ちるというのだったから、あながち的外れな計画だったわけではなさそうだ。これをヒントに頑張る人がいるかどうかは疑問だけれど…。
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切り裂きジャックを逃がすな タイム・アフター・タイム

2014-07-24 | 映画

タイム・アフター・タイム/ニコラス・メイヤー監督

 切り裂きジャック関係の映画を、これまでどれだけ観たことだろう。確かにショッキングな事件であるし、結局犯人が最後まで捕まらなかったと思われるところに、ミステリとともに題材にされやすいものとなっている原因があるのだろう。それはそうなのだが、これを元にお話を作りたい人がたくさんいるというのはどうなのか。それもたいていは元の切り裂きジャックの事件を追っているというだけのことではない。時には主流だが、時にはスパイスとして、誰でも知っているので使いやすい題材ということになるのだろうか。
 その上にこれはタイムマシンである。この道具も、まあ、いろいろ使いやすいということはあるのかもしれない。何しろ都合あわせに便利なのである。時間を順に追っていくのはいわば歴史だが、その順番が多少狂っても修正できる。未来の人間が知っている事実にあわせて、過去の時間と都合のつじつまを合わせてしまう。そうすると新たに可能なトリックも増えるというものだろう。
 何度も書いているが、しかしこれにはパラドクスも含まれている。さらに時空を超えた恋である。もうまったくどうしたものか、人間の出会いというのは実に限られた空間にしかないらしい。時空を超えて割り込んできた人間に、過去の人間はそのスペースを奪われる。要するにそういうことが物語には安易に起こってしまうわけだ。それは誰の所為なのか。作者の都合と見るものへのサービスのためなのであろう。
 過去の人が現代というか未来に来て最初に困るのは、実は換金であることも描かれている。社会生活には金が要る。しかし正規のルートでは身分証明などが必要になって、思うように換金できない。高価なものを持っていても、まさに宝の持ち腐れ。しかしながら切り裂きジャック側の都合からすると、これがかえって好都合。要するに、自分の正体が分からなくなっているわけだ。本来は同じように苦労したはずだが、犯罪者には時空を超えることが有利に働くわけだ。
 このことは実に示唆的で、タイムマシンが実際に出来たら、犯罪をどうする問題という厄介さが生まれるということになる。将来的に本当にタイムマシンが出来ないのだ、という理屈はある。出来たのなら今の世にも来ている筈だということだ。それはさておき、やはり出来ない方がいろいろと抑止力にはなるに違いない。安易に自分の状況から逃れられないからこそ、人というのは冷静なのかもしれない。いつでもどこにでもいけるというのは、あんがいかなり危険な状態かもしれない。時空の自由な移動は、人間性を破壊しかねない。娯楽として楽しむにしかず、なのかもしれない。
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ほんとに脱法?

2014-07-23 | HORROR

 脱法ハーブを吸って事故を起こす輩のニュースが多くなって、取締りがイタチゴッコになっている、というようなことを聞く。僕はその方面は詳しくないから良くわからなかったのだが、脱法ということになると、合法のハーブが売ってあるという意味にも聞こえる。合法ならば堂々と吸ってもいいという意味に取れるが、実はそうではないともいう。いわゆる飛ぶような成分が入っているということを謳ったり、逆にそのことを隠して販売してもどちらも取り締まり対象になるらしい。それじゃあぜんぜん脱法ハーブじゃないと思うのだが、ハーブの種類によっては、規制対象外のものがあるのだという理屈と、モノによっては吸うためではなく、風呂などで使用する芳香剤とか、お香として販売できるものがあるのではないか、という含みがあるらしい。なるほど。お香でいいにおいで、しかし飛びましたというのでは、知らなかったという言い逃れが出来るのだろうか。いや、結果的にそれも取り締まり対象に必ずなりそうで、やはり合法なハーブというのは極めてありえない表現であるように思われる。
 問題は、これらのハーブを吸って車の運転をして、さらに事故を起こすことにあるとも思われる。ラリっているのだから酒に酔うように規制は出来ないということかもしれないが、怪しければ十分摘発は出来るだろう。運転できないほどいわゆる酩酊状態になるようだから、危険運転であることはそれなりに明確そうだ。もっとも事故後に捕まるから問題があって、恐ろしいという印象を残すのかもしれない。
 酒酔い運転の場合は、飲んでも移動したい欲求ということである程度説明できるが、この手のハーブの場合も同じことなのだろうか。飛んだまま運転するのが楽しいとか、ラリっていると運転までしたくなるものなのだろうか。運転というのは持っていれば出来るので、やはり規制は難しい。酒酔いは、今では廻りの人間が止めるということはあるが、ハーブならもともと悪いので回りも隠す方向に流れるのではなかろうか。知られたくないし、相手にも関わりたくない。結果、簡単にハンドルを手にするということになるのだろうか。また、考えてみると車は密室でもあって、脱法ハーブをどのように吸引するかは知らないが、恐らくタバコを吸うように出来るとすると、運転中にタバコを吸うなんてことが規制できないように、廻りからはどうしようもないという感じはする。近年はタバコを吸う場所が極めて少なくなっているから、かえって自分の車の中で吸う人が増えているようにも思える。そうすると車の中に最初からハーブを仕込んでいるような場合もあるのではないか。
 簡単に手に入るような報道もあるが、僕は売っているのは見たことがない。飲み屋で大麻らしきものを吸っている人は見たことがあるけれど、それも実に数年前のことだ。一定のルートがあるらしいが、一般的にネットで販売しているのは、このようなハーブではなさそうである。こういうものが裏社会とのつながりであるようなことをいう人もあるが、やはり需要があるから開発も進むということになるだろう。もともとのモラル問題ではない(むしろ外れる事を目的としている考えもあろう)とすると、やはりこれはいつまでも続くイタチゴッコであるということになるのだろうか。


追伸: これを書いたのは少し前の事だったが、今朝の新聞を見ると、「危険ドラッグ」「危険ハーブ」と表記を変えることになったらしい。そりゃ、そうだろうね。しかし既に語感が馴染んでいることもあるので、しばらく違和感が消えないだろう。
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合衆国でいいじゃん

2014-07-22 | ことば
 国の名前をどういうのかはあんがい難しくて、日本なんか時々ニッポンなのかニホンなのか論争などが起こる。古いからそうなるのだが、僕はほんとはジッポンだったと思うけどね。
 さて、日本がUSAとしてのアメリカ国名を、アメリカ合衆国と習慣的に言ったり書いたりする。これは日本の問題なのだが、時々これを合州国と書いたりする人がいる。アメリカの州は日本の県などとは違って独自の法律があったりして、極めてネイションに近いものだという見方があり、国が寄り集まっているのだから合州国なのだ、という意味らしい。またステイツというのは、カザフスタンとかアフガニスタンなどのスタンとほぼ一緒の語源なんだそうだ。なるほどそれはもっともらしい。
 しかしながらこれは合衆国というのは明治初期に共和制であるという意味でつけたらしい。確かに米国には王様はいない。天皇もいない。大統領の親は八百屋かもしれない。
 また民主議会をさすという話もある。なんでも話し合いで決めることを衆議という。だから大勢で話し合って決めるから衆議院といっているのだ。語源としてはこれですね。
 しかしUSAという国名にはレパブリックという言葉が無い。だから誤解で合州国になっている可能性が高いが、困ったことだ。
 だから米国と書いた方がいいように思うが、まあ、日本人同士意味が通じたらいいのだから、放っとかれているのかもしれない。米国人もアメリカという場合があるようだが(だがこれはもっと国限定でなく広い地域をさしている可能性がある)、やはり普通はUSAの方なのだろう。
 しかし日本語文にUSAと書くと、やはり考えすぎというか収まりが悪い。会話で「USAがね」などとやられると、うヘ~、っとくるに違いない。「米国」は書くにはいいけど会話だと「アメリカ」というのがやっぱり普通だわな。
 合州国と書いている人には、どういうわけか少しインテリ風の人が多い感じもある。ひょっとすると一番気に食わないのは、そういう付随した背景の方かもしれない。
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神の出した選択問題(3)

2014-07-21 | 境界線

 日本に突きつけられているエネルギー問題は、事実上かなり厳しい現実に晒されている。震災による被災で原子力発電所の事故が起こってしまった以上、感情的にこの流れが政治判断に影響を与えているということである。
 脱原発というのは言葉の上では美しい正義感のこもった言葉であると受け止めている人も多いのかもしれないが、現在の資源消費の流れによる先進諸国の責任としては、はなはだ無責任を伴う語感があることを、認識する必要がありそうである。
 脱原発の国として代表的に語られるドイツという国がある。将来的に原子力発電をすべて止めてしまうという決議をしたためである。もちろん将来的だからどうなるかは未知数なのだが、一応そういう流れで施策は進められている。理由としてはやはり日本の原発事故を受けて、人間と原発の共存にはリスクが大きいという判断であろうと思われる。さらにドイツは資源国という顔もある。環境を無視するのであれば、自国での石炭の供給なども可能という保険がある。また、周辺国から電力を買う方法もある。さらに国土の関係で、ある程度の風力発電の開発の余地があるようだ。経済大国として金で解決する道をいくつか持っているという優位性で、自国の電力供給のバランスを図れると判断したのであろう。
 ところがドイツも日本と同じような工業国という顔もある。原発の代替電力で安定的に電力をまかなうことには、そもそも無理がありそうなのだ。実際上ドイツの国境沿いに工場は移転を加速しており、その国境沿いに周辺国の原発開発が進んでいるという流れになっているという。ドイツが原発をやめることにより、周辺国の原発需要は高まり、さらに数的には原発の数は、ドイツが原発を停止する以上に増えるのだという。
 先進国といわれる国が脱原発に流れることは、鉱物資源の高騰にもつながる。比較的安価だから発電に使われている原料が高くなれば、今度は途上国が原発の開発に流れざるを得ないということにもつながる。事実そのような流れは決定付いており、原子力発電所の開発数は飛躍的に伸びているようだ。
 日本だってもう国内では新たな原子力発電所の建設が難しくなっている。日本の製造メーカーは、海外でその活路を見出すより道が無いわけだ。実際にいくつか受注を受けているという報道も聞く。安全な原発を欲する国が、皮肉にも安全神話の崩壊した国から輸出された原発を使うわけである。
 エネルギー問題は、自国だけが解決したら済むものでは既になくなっている。しかし国内世論というのは、ある程度利己的に傾く傾向にある。感情的に仕方の無い面はあるにせよ、事実としてそのひずみを受けるのは周辺国であるわけだ。結局はそのバランス感覚をどうするのかということが何より大切で、だから選択は単純な感情で選ぶより論理を取るべきなのである。そのような役割や機能をどのようにして果たしていくのか。ドイツというのは、反面教師として存在する国になってしまったようである。(つづく)
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神の出した選択問題(2)

2014-07-20 | 境界線

 途上国においての火力発電については、由々しき問題として非難をするのはたやすいことだ。しかし、このような流れが倫理的に止められない理由は、やはりいくら環境に負荷がかかろうと、先に経済発展をしている国の身勝手な論理であるからである。だから先に経済発展をした国としての責任は、環境を破壊した償いを含めて、環境に負荷を与えない方法を採用していかなくてはならないことである。もちろん、現在の生活を維持するだけのためにも、電力供給は生命線である。そのような背景があって選択されたものが、他ならぬ原子力発電なのである。原子力発電の原料となっているウランについても天然資源であるから、資源を利用していることには違いはないが、非常に効率よく利用できることと、一度動かしたらランニングコストが安価であることと、そうして環境にはもっともやさしいというのが何より最大の利点である。もちろんリスクとしては、扱いが厄介というのをはじめとして、廃棄物の処理が困難であるということがある。ごみが物理的に捨てられないでたまる一方で、さらに人間の寿命スパンに対して遥かに長い時間の処理や蓄積時間を必要とする。そのような問題があるために、感情的にもっとも受け入れがたいと思われている解決策になっている。
 他には今のところ対応する選択肢はほとんど無い。太陽光や風水力などの発電は、小規模ならともかく、補完的な発電という側面しかない。現在の技術では、主流に躍り出ることは幻想でしかない。もっとも第三の技術進化による夢の発電方法が発見されないとも限らないから(候補はあんがいたくさんある。だが、期待が大きいために割り引いて考える必要もありそう)、ある程度のコスト上昇とともに、この二つのやりくりで、今のところこの場を切り抜ける時間稼ぎをしているという見方も出来る。結局は問題の先送りで、解決の積極的な道筋ではないわけであるが…。(つづく)
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神の出した選択問題(1)

2014-07-19 | 境界線

 インドネシアという国は、多くの島が連なって成り立っている、いわば島嶼国家ともいうべき地形にある。雨も多いらしく、近年の異常気象ともいわれる大雨が増え、冠水する地区も多いのだという。いわゆる地球温暖化による影響をもっとも受けやすい環境にあるともいわれている。
 ところがこの国の電力をまかなう発電所は、石炭を使った火力発電所が主である。世界的にも発展のめざましい国として注目を集めていることもあるが、その屋台骨を支える電力供給と需要に対して、積極的に火力発電を採用しているわけだ。西洋社会からは、このような流れがいわば奇異にうつる捉え方をされることが多いらしく、そういう論調に対してインドネシア政府は、やんわりと反発している。要するに、西洋社会は先に化石燃料を消費し先進化を進めてきたわけで、我々もその流れを踏襲し、発展をしようとしているだけのことだ、ということだ。一部社会の身勝手のために、成長を止めることは出来ない。まことにその通りで、先に経済発展を遂げた国がとやかく言える筋合いのものではない。しかし…。
 火力発電をまかなうもっとも安価な原料は、他ならぬ石炭である。量が多いというのもあるし、次々に鉱床が発見されて採掘がしやすいということもあるようだ。もっとも地下にある場合がほとんどだから、環境によっては採掘で大変な犠牲を払う必要もある。さらに燃焼において炭酸ガスをもっとも多く排出する。米国ではCO2を地下に埋め込みながら燃焼させるタイプの火力発電所があるらしいが、高度な技術はもちろんのこと、それなりのコストがかかることも間違いない。安価で発電できるという最大のメリットがある方法なのだから、公害のリスクと勘案しながら実行できるとしたら、魅力の大きいことは間違いが無い。
 経済の発展と電力供給というのは密接な関係がある。貧困からの脱出は、つまるところ経済発展以外に道が無い。だから貧困地区には発電所をまず建設することが肝要で、それさえも出来ないところが、いまだに成長を阻害され、もがいている。貧困の図式は多くの場合食べ物や疫病にスポットが当たりがちだが、実際には電力供給が最大の課題というのがまぎれもない事実である。先に紹介したインドネシアは、もっとも将来有望とされている経済成長の目覚しい国だ。多くの人がまもなく手にする最大公約的な冨を前にして、足止めを食うことは許されないことなのだ。(つづく)
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龍はもう目覚めている   経済大国インドネシア

2014-07-18 | 読書

経済大国インドネシア/佐藤百合著(中公新書)

 ご近所の銀行の支店長さんが研修というか旅行というか、とにかくインドネシアに行ってきたらしい。みやげ話にいろいろ聞いたが、なるほど面白そうな感じだなと思ったら、本棚にあった。
 というわけでうわさにも聞いているし、話題の多い国である。日本人の多くがどのように考えているのかは知らないが、徐々にこのように話題には上るようになっており、知っておいてなんら損は無いだろう。というか、普通に知っておいていいのではなかろうか。
 よく言われているように、インドネシアは比較的人口が多いというのがある。約2億5千万の民がいて、さらに増えていく。人口ボーナスというそうだが、若くて活きのいい働き手が今後も増え続けるという状況が、自然に経済を押し上げる要因になるということだ。それだけだと「なーんだ」と感じるかもしれないが、もちろんその元となる背景がいろいろある。日本だってつまるところそういう豊富な労働力が地方にたくさんいて、そういう人材をどんどんかき集めることができたから高度成長を成し遂げることが出来たということなんで、つまるところ極めて昔の日本の条件に近いという感覚で、まずはいいと思う。
 しかしながらやはり違う国なんでいろいろ本当は事情が違う。問題も数多い。ちょっと感覚的に違うというのはイスラム国だというのはある。しかしながらこれは日本では馴染みが少ないだけという感じの宗教に過ぎなくて、いわゆるファンダメンタリズムではなさそうなのだ。イスラムでもキリストでも原理主義が厄介なわけで、寛容なら問題なし。要するに島が多くて民族が多くて、そうして統一の言語でさえないのにまとまりがある。もともと海洋国家であることから人々が歴史的に自由に行き来し、多様性を認め合う素地がある。最大のイスラム教徒を抱える国家でありながら、排除の論理があまりなさそうなのだ。さらに最大派閥というか、最大の民族が、あえて自分らの有利性を誇示するようなこともしない。主流の言語でさえあえて統一しない。このことが最大のこの国というか地域の魅力であるといえ、民主国家として大統領を選出して国を治めている。もちろん最初は軍事のトップが首に座っていたけれど、あんがいリベラルに統治し、若く米国などで勉強した人間を登用して大胆な政策を次々に打ち出して、まさにダイナミックに変貌を遂げているというのが現実のようだ。
 実業家の台頭も著しく、華僑などの外国人勢力も力を持つ。また、オランダ病といわれる資源国家としての悩みもある(これは一次資源がある国は、その所為で他の産業が育ちにくくなるということがあることを指す)。経済危機にも陥ったし、官僚の腐敗による政治危機も経験している。そういう、大変な経験もありながら、まさにダイナミックに成長をしている姿が、何より頼もしいということになるのかもしれない。日本に失われてしまった若さのすべてがある。さらに日本には無い自由と寛容さがあるということかもしれない。
 また、インドネシアは親日国でもある。先の戦争では日本軍がこの地で暴れたにもかかわらず(もちろん禍根はあろう)、寛容さのほうが勝っている。さらに若者からも自然に憧れを持って好感度の高い国といわれている。もっとも韓国も積極的に売り込みをかけており、いつまで優位性が続くかは分からないのだが…。
 要するに、もともと資源国というのもあるが、日本との関係も深く、日本の企業も積極的に進出を果たし、または狙っており、日本の援助もあるが、それだけに頼る姿勢でなく自助や勤勉さも持ち合わせている。民主国家であるし寛容性も高いことから、日本のアジアのパートナーとして自然にその地位が上がっているという現実がある訳だ。距離的にまだまだ遠いように思うかもしれないが、国としての重要性が薄れることは考えにくい。近くても付き合いにくいところと無理にどうこうするより、信用できてお互いにハッピーなところと、もっと友好になるべきだということに尽きるだろう。さらにこの関係がモデルとなって、そういう友達の輪が広がるかもしれないということかもしれない。インドネシアの国際的な発言力は増しており、どこかの極端な肩入れをして自国だけ良ければいいというような外交もするわけではない。極めて信用の置ける可能性は高いわけだ。
 この本とは直接には関係ないが、最近大統領選挙があったばかりだ(これを書いているのは14日現在)。二人の候補が激しく競り合い、結局二人とも勝利宣言をしてしまったという不思議な状況になっているが(20日ごろはっきりするらしい)、多少はそういう混乱は今後もあるのかもしれない。まあ、日本のほうが密室で首相が決まるというのがあるわけで、むしろ開かれすぎている結果かもしれない。
 将来的には確実に経済規模としては日本を抜き去ることは確実視されている国である。日本は日本の生き方を模索しなければならないが、見習うべきは素直に目を向けて考える必要があるだろう。個人的に惜しむらくは、支店長と話をする前に読んでおけば良かったな、と思ったことだった。
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愛人はどっちか

2014-07-17 | ことば

 中国語で愛人といえば伴侶をさす。夫でも妻でもそのように使う。愛する人で実にストレートに素直なわけだが、日本人にはこれが少しこそばゆい感じがする。それというのも日本だと愛人といえば浮気相手というか、要するに伴侶とは別に愛する人、または情婦(情夫)をさすわけで、非常にめんどくさい。しかしあんがいこれは広く知られていることだろうから、あんがい混乱するということはないかもしれない。時々やはり中国語のほうが言葉として適当なのではないかと思うのだが、結婚が恋愛でない社会などにおいては、日本のニュアンスも分からないではない。まあ、あちこちに愛人がいるというのは、どちらでも困ったことには感じるが。
 ところで中国では夫のことを情夫というのだよ、と日本のある人に教わったことがあったが、これは後に丈夫というのだと分かった。大丈夫の丈で、しっかりしたというか転じて尊敬のニュアンスがあるようだ。発音もちょっと違っていて、あの人は何でこんな間違いを僕に教えてくれたのだろうと思った。
 さて西郷隆盛が好きだったといわれる言葉に敬天愛人というのがある。天を敬い人を愛す、というまっすぐさを感じさせられる言葉であるが、やはりこの愛人が引っかかる感じがしたのだった。ただ、段々と慣れるというのがあって、若いころよりも抵抗を感じなくなっている自分が居る。若いというのは性的に誤解しやすいということでもあるのかもしれない。
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