カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

みどりの日

2006-04-29 | 雑記
 昨日も総会に参加。まあ、お手伝いのような感じで何にもしなかったが…。K村直前も、T田室長もM浦君もなんとなくほっとした表情で、やっと区切りがついたな、という感慨もひとしおであった。みなさん疲れさまでした。Tきちゃんも微妙な答弁を切り抜けたという感じ、上手いというか、動じないというか、ある意味では立派である。
 しかしながら毎年会場から執拗に質問されるM本さんも健在で、見た感じよりお元気でなによりというか、正直言って呆れました。理解がないというか、悪意の情念が消化されないというか、日ごろはニコニコしている好々爺ではあるけれど、達観するには若すぎるのでしょう。
 一家言もって発言されるという姿は、単純に批判されるべきものではないとは思う。そういう人があってもいいだろう。率直に疑問を持っているという姿勢を多くの人の理解してもらいたいという思いもあるのだろう。そういう行動が共感を得るものであればいいのだが、はっきり言って、逆効果であろう。まあ、目的の達成が目的でもないようだし、それはそれでもいいだろう。
しかし、ここ数年にわたって、僕も個人的にではあるが、立場上いろいろとご説明申し上げてきた関係上、毎回同じような意見を拝聴するにあたって、真に脱力感を禁じえない。いわゆる苦労のし甲斐がない徒労感を覚えるのである。こういう問題は相互理解が必要で、おっしゃる内容をクリアするには、M本さんが、ご自分の立場を放棄されるより仕方がない。自分でやりたくないことを自主的にやった上でどうしてくれるばかりを言うのはフェアじゃない。昨年は最終的に個人的にあなたは寄付されなくても良いとまである部会長に言わせた上で、そうであるなら他の人が寄付するのはおかしいとまで言い出した。結局嫌がらせなのである。個人的な怨恨もある由だが、とばっちりを受けるのは面白いことではない。講演会をやりたいなら、聴衆に金を払って集めてはどうか。道楽につきあう人のことも考えて欲しいものである。
 今年も同じように(言葉の)暴力を振り回し続けるのだろうことを思うと、熱心な行動力を支えている体力を恨むより他にない。こういう人を退場させる合理的方法は今のところ考えられない。まあ、やり過ごすよりないのだろう。いづれこの爺さんもくたばるわけで、それだけが社会的に将来を明るくする材料なのである。
 悪口を言うのはいいのだが、あんまりさっぱりしないのは、この声が本人に届かないからだろう。聞いてもらいたいとは思わないし、僕がそんなことを言ったとしたら、又団体に不利益があるので黙るよりない。そういう不条理がさらに面白くないのだろう。

 朝から新聞を見るとインクが緑色である。麒麟のグリーンラベルというビールの広告も一緒になっており、ちょっと何事かと目を疑った。昭和天皇の誕生日の祝日が「みどりの日」ということになっているらしい。それにかけて緑色のインクを使用したのだろう。そして、それを見越して麒麟が宣伝に乗じたわけだ。まあ、赤の日とか黄色の日なんかでなくて良かったのかもしれない。
つれあいに聞いたら、昭和天皇が緑(自然)が好きだったかららしいとのこと。ちなみにみどりの日という名称は来年から5月4日に替わるそうで、29日は来年から昭和の日となるらしい。いろいろ思惑はあるようだが、みどりの日という名称はセンスがないことは確かだ。少なくとも僕にはなんだか語感が気持ち悪い。新緑の季節にふさわしいなどという意見もあるようだが、国民の祝日がそういう感覚ということがなんとなくよくわからない。
学生なら休みでよかったというところだが、都合で勝手に休める体制の方が整備されるべきであろう。クリスチャンでないのだから、休みを人に決められたくない。しかし、人は休みを決められないと働きすぎるという説があって、それで安息日が決められたのではないかという話がある。少なくとも昔のユダヤ人はそう考えたらしい。戦時中日本は「月月火水木金金」と歌っていたようだから、日本人に当てはめる説としては怪しい気がする。
日本人は確かに比較的まじめで勤勉だとは思うけれど、ポーズを取るのがうまいという気もする。人が働くから働くという人も多いようで、足並みがそろいやすいだけなのではないだろうか。自分だけ働くのも嫌だし、自分だけ休みなのも気が引ける。結局一週間程度の休みでも、ゴールデン(黄金)なのだろう。考えてみるとわびしい気分だ。
僕の職場では長期休暇を取ることを奨励して、年間の計画を立てて順番に長期休暇を取るよう提案したのだが、長続きしなかった。結局現場の一部は自分から計画を立てることができなかったのだ。いつの時期は誰が休めと命令されなければ無理ですよ、といわれる始末である。まあ、そうなのかもしれない。有給を使わなくても年間90日以上の休みがある。ついに平均労働時間は米国以下になってしまった。統計上はエコノミックアニマルではなくなったのかもしれない。しかし依然として働きすぎという感覚の人が多いようにも思うが、如何なものだろう。
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いろいろと変わってゆく

2006-04-28 | 雑記
 朝から引継ぎ事項など確認し、軽くミーティングをする日課である。内容的に連休前のあわただしさを覚える。それでいてなんとなく和やかで、spring has come なんだなあ、と感じる。仕事の関係上、完全連休となる人は少ないのだが、職員もそれなりに嬉しいのだろうと思う。仕事があって休みがあるのが幸せなんじゃないか、なんてふと考えた。休みばかりで退屈じゃ、こういう喜びもなかろう。

 利用者のきょうだいさんの面談。ご両親は既に他界されており、一番上のお兄さんが身元引受人として代表的に契約者でもあったわけだが、体調を崩され引受人を代わられることになった。ごきょうだいが多く、それぞれ住居も遠いらしい。今回は下から二番目という方が自分が引き受けたいとのことで相談に来たわけだ。いろいろ事情はあるわけだが、ご本人の事を考えるとそれが一番いい選択であるように思われる。
 仕事上の話は片付いたが、世話話となり、封建的なお兄さんの話になった。
弟さんが腰を悪くして診察を受けたが、症状が重く緊急入院しなくてはならなくなった。その旨お兄さんに伝えると、わがまま言わずに帰って来いと逆に叱られてどうにもならない。担当の医者から電話してもらって、なんとか納得してもらわなくてはならなかったという。万事そういうことで、振り回されて、自分には発言権などなく、気にはなっていたが勝手に話を進めるわけにもいかず、改めてやっとこちらに来ることができたということである。笑い話として話されたわけで、非難する意味で紹介しているのではない。ご両親を早くに亡くされ、一家を支えるという気持ちが強すぎる所為で、行き過ぎた封建的な態度を取られたのであろうと思う。今はそのお兄さんもご病気で床に伏しているという。弟さんとしては非常に困る存在だったには違いないが、やはりそれでも寂しいのだろうと思う。家族にもさまざまな環境の変化や節目があろう。何か大きな時代の変わり目のような、そういう気がして、こちらも感慨深くお聞きしたのである。
何か大きな力であっても、その力関係は、ある意味では安定していた時期もある。崩れそうになると、却って踏ん張って無理な力を出そうとするのではないか。今の時代の軋みは、そういう背景があるのではないか。

昼しばらくしてPTA総会。家からてくてく歩いて学校に行く。時間調整で遠回りする。考えてみると通学路を昼間に歩くことは少ない。子供のころと微妙に町並みは変わっているが、懐かしいような気分になる。しかし、日差しが強く背広では暑い。

学校に着いて、校庭にある二ノ宮尊徳さんを見に行く。携帯でパチリ。歩きながら本を読むのは態度として不真面目だ、といったのは養老さん。そういう不真面目な尊徳さんに愛着を持っている。勤勉さの象徴としてそこにいらっしゃるのだろうが、受け止める僕は違うメッセージを受信する。学校もいいところじゃないか。
体育館で総会。新役員の顔ぶれも、なんとなく初々しい。少し世代交代したかな。
つれあいを見つけて手を振ると、お隣のじゅんさんが、「わいどんは、嬉しそうやの」という。恥ずかしいが、確かになんとなく嬉しいような感じだ。
先生方の自己紹介の文法も、学校なんだなあ、という感じ。一般の社会人とは少し感じが違う。そういうらしさが先生という立場なのだろう。僕は子供じゃなくなったんだなと改めて感じる。
夜は懇親会。担任の先生とも話ができてよかった。お二人ともなかなかユニークな感じの先生で、それはそれでよかったと思う。お二人は先生同士でも仲がいいようで、そういう感じもあわせてよかった。
お母さん方ともいろいろと話をする。以前テレビ番組のドラマなんかででてくるPTAの親は、大抵感じが悪かったものだが、実際のこういうよりあいに参加するような人たちは、どちらかというと断りきれずに役を受けました、というような人の良さを感じさせる雰囲気を持っている。まあ、なかにはそうでない人もいるけど……。
同じ地区に住んでいるお母さんが、自分の家より近くに遠足に行くのは失礼だという。遠足については長距離歩かせるのはかわいそうという声があがって、随分距離が縮められたという。ちょっと前は岳の木場公園までとなり、自分の家はその又上にあるのに何てことだ、と思ったという。それだけでは飽きたらず、今は坂道でもかわいそうだという声があがって、森園公園になったという。そういう意見もあるだろうが、聞くほうは、何か自信がないのだろうな、と思う。決定したのは聞いた方だろう。それにしても、なんとなく煩わしいなあ。
確かに僕らの子供のころは雄ヶ原まで行って、ついでに琴平岳までひょいと登ったような気がする。帰り道は近くの家からバラバラに散っていく。僕は通り道に家があるので、自転車に乗って、まだリュックサックをからって下っているみんなを追い抜いて優越感に浸ったものだ。そういう気分は、たぶんもう子供達とは共有されない。そういうことが、時代の変わり目ということなのだろう。
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冷たい雨

2006-04-27 | 散歩
 雨が降っていたので昼の散歩を躊躇していた。最近は歩かないと調子が悪い。短い距離なら急ぎ足。二三日気温は下がっているが、すぐに汗ばむようになる。暑くなるとぶらぶら歩きに歩調を変える。立ち止まるのは性に合わない。服を脱いで調節するにも難しい季節になってきた。しかし汗をかくとすぐに寒くなって風邪をひく。その加減が難しい。
仕方ないので午後はこの際に取っておいたわけではないが、早急ではないにしろテーブルの端においてある懸案事項について各方面に電話でお尋ねする。考え方がうまく伝わらないところと、四月から担当が替わって見当がつかない人も多くて話が進まない。たらい回しのようにあちこち電話する羽目になる。一部返答は来週にして欲しいとのこと。そういえばだから先送りにしていたんだったな、と改めて思い出すこともいくつか。いっそのことこのまま放っておくかな。
雨は降るには降っているが、地面がしっとり濡れている程度で落ちてくる雨粒は大きくない。夕方流石にもじもじして、エイヤッと外に出る。歩き出したら、雨粒が大きくなってきた。眼鏡を雨粒がつたって視界が悪い。出たものは仕方がない。そのままかまわずずんずん歩いていると、雨も諦めて小降りになった。なんとなく勝ったようで嬉しい。
途中、背後から大声で「すいません」との声が聞こえる。振り向くと、「温泉はどこですか」と続けて問われる。はて、温泉なんてこのあたりにあったっけ? と思うが、そういえば、温泉はあるようだ。こちらも大声で指差しながら、「もっと下です」と答える。それを聞くと車に乗り込んだようだが、車はなかなか動かない。心配になってとことこ元来た道を戻って車のそばに寄る。考えてみると田舎の山道で、特徴になる場所がない。その道を右に曲がって分かれ道まで道なりにまっすぐ下って、右に曲がって道なりに下ってすぐ左側にあると説明(そんなような感じ)する。「そこなら通って来た」という。いかにも僕をとがめている口調だ。「それならもう少し注意して下ってください」と申し上げる。
車を後にして歩き出したが、果たしてたどり着いたものだろうか。その上、温泉は開いているだろうか。うわさには聞いたことがあるが、行ったことのある人はあんまり知らない。そういう意味では秘湯といえるのかもしれない。ご近所なので下手なことはいえないが、怪しい温泉である。
やっぱり歩くと気持ちがいい。雨と汗で服は濡れてしまったが、谷から吹き上げる風にさらされながらフィニッシュを歩いていると、心なしか少し乾いてしまったようにも思える。体はぽかぽかしているが、手先はかじかんでいる。春先の冷たい雨であった。
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勝手にお願い(同意無用)

2006-04-26 | 雑記

 サーバーの状態が悪いのか、正直なところよくわからないけれど、ホームページの更新ができなくなってしまった。僕はホームページビルダーを使って作成していたのだが、転送するにもサーバーが受け付けない。原因はまったくわからない。もうすぐやっとカウンターが1万に届くなあ、と楽しみにしていたのに、あんまりである。
 こうなるとなんとなく気分が悪い。毎日閲覧するK村君のブログがgooの様なので、僕もそこでブログを発信するということにすることにした。改行したりの編集や、写真だとか、ハイパーリンクというのだろうか、そういうこまごました作成の仕方はよくわからないのだが、困った時にはK村君に聞くことができるだろう。そういう気分だけでだいぶ安心だ。勝手に頼っているがよろしくお願いします。
 まだ誰も読者はいないことだろうが、それではやっぱり寂しいのでつれあいに電話して探してもらった。読者第一号おめでとう。そしてありがとう。しばらくは私信のようなものなのかもしれないが、ボチボチ歩んでいきましょう。(060426)
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欲と人間性

2006-04-26 | 散歩
 散歩しているとたくさんの捨てられた空き缶を目にする。人間の営みの姿は美しいものではない。道があれば、そこにはゴミがある。それが現実だ。
 以前製造責任で製品に回収料金を上乗せして販売するべきだという議論があったと思う。確かにそうでもしないとゴミの回収は財源的に難しいのかもしれない。しかしなあ、となんとなく抵抗を感じる。
 サラ金(といってはいけないんだって。でもサラ金だよね)の取立て問題がニュースになっている。返せない暴利をむさぼる問題は、架空の現実感だと思う。まあ、脱線するので止めるが、それは確かに問題ではあるけれど、程度問題としてヤクザものと一緒ではないようにも思える。一言で言って、取立てはやっぱり仕事として必要なんじゃないかとも思うからだ。仕事をしても金を回収できない場合もあるから、返してくれないということにもなんとなく同情が薄いのかもしれない。
 空き缶も借金も、捨てる人と返さない人がまず悪いと思う。騙してジュースを飲ませたり、騙して金を貸したのならいけないことだろう。まあ、借金の方は、厳密には同罪にあげるのは程度は違うかもしれないが、僕のいいたい理屈としては、まず最初に消費者問題ではないかということだ。第一に彼らの責任を追及することが先決で、製造元や貸し出し業者(好きじゃないけど)の責任問題は第二の問題なんじゃないか。救済処置(空き缶にはないが)を取らなければならない問題もあるとは思うが、消費者側をかえってバカにしている議論が多い気もする。ゴミを捨てないというのは文化であり、借りたものを返すというのは、人間の起源だともいわれている。この根本をないがしろにすることは、人間性の喪失なんじゃなかろうか。

 レッチリの新譜が出ますね。ちょっと聞いたけど、フルシアンテ節炸裂のようで、事実上レッチリはそういう時代の方が定着したようだ。M浦君は気に入らないだろうけれど、この音が世界中に受け入れられるという現実が、僕には結構シュールである。現代ではビートルズは生まれにくい状況だろうけれど、ある意味でレッチリはそういうバンドになっているのではないか。音としてはまったく違うといえば違うが、それだけ巨大になってしまった。そして、やっぱり聞かずにおられない魅力は抗いがたい。

 「隠し砦の三悪人」を観る。子供のころに観たことがある気がするが(場面に見覚えがある)ほとんどストーリーは忘れていたので十分楽しめた。やはり堂々面白い。映画はまず娯楽なんだということがしっかりしてないと駄目だなと思う。今でもこんな映画を撮ろうと思って撮れるものではなさそうだ。どこまでも馬鹿な百姓が、実に味があって人間臭い。偶然と必然を混合した展開もため息が出そうだ。この映画が後の様々な影響力を持っているのは、至極当然である。(060426)

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