カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

猫の赤ちゃんみたいな猫

2016-03-31 | 雑記

 猫にバンビーノという種類がある。鹿の赤ちゃんをバンビというが、猫の赤ちゃんのような感じ、ということかもしれない。毛が無くて、生まれたてのままということであるともいえる。抱くとそのまま個体の体温が伝わりやすく、人気があるらしい。同じく交配で毛の極端に少なくなったスフィンクスという種類の亜種といわれ、長期的には定着するのかもしれない。
 しかしながら同じバンビーノだけを交配すると、やはり病気になりやすいという欠点があるようだ。それでバンビーノの雄だけは残し、メスは別種と掛け合わせ、毛の少ないものを、バンビーノとして残しているようだ。苦労が多いが、人間というものの癖がよく分かる種類といえるかもしれない。また、見た目やその特徴が魅力だとはいえ、そのような希少さも人気としての価値を高めている可能性もある。
 犬だってオオカミとまったく同じ遺伝子を持ちながら、これだけ多様な種類を誇っている。猫が犬のように多様な種類となるのは、いわば必然的なものだ(実際に猫の品種が作られ出したのは17世紀くらいからだと言われている)。僕らの孫の世代になると、想像もつかないような種類の猫が、生まれていることだろう。
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恋愛は同性愛だからこそせつない   渚のシンドバッド

2016-03-30 | 映画

渚のシンドバッド/橋口亮輔監督

 浜崎あゆみが女優だった頃の作品として知られる作品だが、同性愛や嫌悪の対象となる人間の青春劇としても、なかなかよくできた名作といえる作品ではなかろうか。
 ストーリー自体は単純で、クラスメイトで同じブラスバンド部のイケメン君に恋するせつない展開があるわけだが、これが多感な高校生でありながら同性であるというだけのことで、妙な緊張感が持続している。これにどうも過去に何か訳ありの転校生の女の子が絡んで、さらにギクシャクした三角関係が生まれる。好かれている男の子にしたって、物分かりの悪くない、いわゆるいい青年なんだけれど、いかんせん同性愛者ではない。仲の良い友人と思っていた人間から告白され、戸惑いながらも少しだけは受け入れるような気分になるが、周りの人間の偏見の中にありながら、どちら付かずに迷わされていく感じだ。一種の悲劇なのだが、どうにもならない恋心と性の衝動に自分を抑えられない同性愛の青年と、その思いに戸惑いながら、しかし転校生の女の子の方に惹かれている現実のあるノンケの青年の苦悩もまた、非常に同情してみることが出来た。むしろいじめられているのはどちらの方なのか、という感じだ。このどうしようもなさは、まさに同性愛の恋愛につきものの、行き場の不明瞭なせつなさということなのだろう。
 同性愛や、性の問題に苦しむ人間を見て、周りの人間の嫌悪感も激しい。本当に残酷なのだが、その残酷さを生む一種に気持ちの悪さというのもあるのは確かで、そういうことについても正面から向き合っている。しかし、そうでありながら、若い性愛へのけなげな姿も、危ういながら見事に演出されている。相手を好きだからこそ求めるというのは、確かに自然には違いないが、素直になれない環境下にあると、この状態が極めて危ういものであることが、見事に伝わってくるのである。なんだか見慣れた情景が多いような感じがして、途中から長崎の風景であることに気付いたが、そういう身近な過去の記憶のような、デジャブのような感覚が、頭を混乱させながらも、いつまでも続いていくような映画だった。
 映画賞なども受賞した映画だというが、当然と言えば当然だろう。娯楽作品として能天気になれるような作品ではないけれど、映画の王道として見事ないい映画である。
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やればできる人間になってはいけない理由

2016-03-29 | 感涙記

 今は体罰問題なんかで喧しくなっているので少し想像しづらくなっているかもしれないが、僕らの子供の頃にはいわゆる熱血先生というのがそれなりに居た。熱血先生モノのテレビドラマもたくさんあって、学校でも家庭でも両方で熱血先生だらけだった。なかなか騒々しいのだが、まさにそういう時代だったということがいえて、熱血先生が活躍しなくてはならないような土壌があったと思う。いわゆる学校には不良がいて、体育館裏とかテニスコートとか便所なんかにやたらにたむろしていて、なかなか恐ろしい風景だった。今だと沖縄とか茨城あたりじゃないとそういう人間は居ないのではないか。
 登下校には竹刀を持った先生が生徒の服装などを監視しており、本当の不良はそういうところは通ったりしないから捕まらないが、不良の目の有るような、というか、ちょっとした出来心というか、おしゃれのつもりではみ出すと、連れ出されて暴力(いや教育的指導)を振るわれるということがあった。僕は普通に大人しい子供だったが日常的に教師には暴力はふるわれており、カッターシャツが血だらけになるような毎日を送っていたわけだ。おふくろは血に濡れたシャツを洗いながら泣いていたものだ(これは少し嘘だが、半分は本当です)。
 普通の公立の学校は、まあそういうマッドマックスのような世界だったが、そういう先生の多くが、今度は先生同士の間では、基本的に不良連中をかばうのだった。これは昼の先生も夜のドラマの先生にも共通している現象で、どちらとも親和性のある考え方だったのかもしれない。というか今は僕は大人になったんで理由は分かるが、そういう先生方というのは本当にそういう不良に寄り添った理解者である自負があって、そうするとそういう立場で発言せざるを得なかったということが一番の理由だということである。そうして不良の味方をする先生は、孤立することなく、不当にその後も評価されるような風潮が世の中にあったのである。だからたいした能力が無い人でも、その後は出世した。まあだから彼らは単に合理的なだけだったのだろう。
 ところでそういう不良や出来の悪い生徒をかばう先生の口癖が「この子たちは、ちゃんとやればできる子たちなんです」というのが一番多かった。本人たちに向かっても、「お前らがやればできるのは、俺は知ってるんだぞ」というのだ。まあ、本気になれよ、という心情の吐露らしいが、きわめて当たり前といえば当たり前の言葉だなあ、とその当時から思っていたものだ。
 もちろんこれで不良たちが更生したり、やればできるという気持ちの転換を見せることは皆無だった。これもきわめて当然のことである。いわば言葉としては最悪の禁句だからである。
 もちろん「やればできる」は両方の耳に心地よい。しかしこれは人間のやる気を根本的に阻害する意味をストレートに含んでいる。やればできる人間は、当然できる人間であることを証明しなければならない。そうするとやればできる部分が本当であるなら、ちゃんとやらない理由をあれこれ探すことになるのだ。やればできるのだから、それがやれない状態に安定してさえいれば、自分がやればできる人であり続けられる訳だ。
 いろいろ忙しく不良らしく出歩いて、不良仲間の友情を深めて、カツアゲにいそしんだりゲームセンターに行ったり、路地でたばこを吸わなければならない。やればできることを本当にしてしまったら、それが結果として証明できるかどうかが分からなくなってしまう。ちゃんと勉強などをして結果を出せなかった場合、自分はやればできる人間ではなくなってしまう。やればできる人間は、やるべきことをできるだけ避ける選択をせざるを得なくなってしまうのだ。そうして実際には、本当に現実を知っている人間ほど、やればできる時期を逸してしまい、いまさら勉強しても、とても追いつけないレベルまで普通の生徒との差が出てしまう。追いつくまでの努力の量を冷静に判断すると、もう無理だということが分かる。もしくは本当にちょっとだけ努力のまねごとをするだけで、すぐに自分の無力さを悟るはずだ。そうすると彼らの合理的な判断として、諦めるという選択しか残されていない訳だ。
 要するにやればできる人間だからこそ、彼らの不良の地位というのは、不動のものとなる。彼らは熱血先生たちの犠牲者だった疑いが、あるのではなかろうか。
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やり直しがきく都合のいい人生   アバウト・タイム

2016-03-28 | 映画

アバウト・タイム/リチャード・カーティス監督

 副題に「~愛おしい時間について~」とある。恋愛ものがたりだが、実はSF作品でもあって、タイムトラベルものである。まあ、そういう仕掛けであるという説明のみで、SF的な映像世界はまったく無いのだけれど…。
 遺伝的な体質か何かの所為で、その家系の男だけが過去にさかのぼってタイムトラベルできるという人の恋愛物語。要するに女を口説くのにやり直しがきくので、ちょっとばかり有利というか、そういうことを利用して、物事を上手くやろうという魂胆の物語。
 何か失敗してしまったときに、もう一度このシチュエーションをやり直したい欲求というのは誰にでもあるだろう。でも時間に可塑性は無いから諦めるより無い。何とかして挽回するために苦労するより無い。ちょっとだけ前の時間にさかのぼることが出来たら、なんでもなくやり過ごすことが出来ただろうに、まったく困ったことだ。
 そうならないために人というのはちょっとだけ慎重に物事を進めるように学習するわけだが、これが出来ない人というのはいるのかもしれない。また失敗するからといって何もしない訳にはいかない。それは僕らは生きているからで、それをやめるまでは失敗のリスクは常にある。もう年を取ってしまったら、あんがいこれもあきらめのつくことかもしれないが。ある程度若すぎるというのは、そのような失敗が怖くてさらに後悔を重ねて生きていくものなのかもしれない。
 まあ、そういう風にして頻繁に過去にさかのぼって何とかうまくいく人生をもったように見える男だったが、そのうちにだんだんと考えを変えるようになる。それはどうしてなのだろうか。ということが結果的にこの映画の結論に至るわけだ。至極まっとうで、まあ、そう考えるより無いよな、とは思った。思ったが、同時にやはり人間は死が怖い。死を前にして時間をさかのぼらない人間は居ないのではないか。だからこれはファンタジーで、いくら何度も同じような一生であっても、飽きが来るくらいにならなければ自分の一生は閉じられないのではないか。諦めてしまったら、それはなんとく自殺めいてないか。
 タイムトラベルものは、どうしてもそのような哲学めいたことも考えてしまう。時間というのは極めて哲学的テーマで、だから物理現象としてはおそらく今後も人間レベルでは起こりえないのではなかろうか。
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才能を褒めると人間がダメになる(かも)

2016-03-27 | 境界線

 子供が無邪気に遊んでいる姿を眺めているのは、何というか、素直に心が緩むような心地よさがあるものだ。ご近所にも保育園があって、寒空にもかかわらず元気に飛び跳ねて遊んでいる。歓声も上がって何かと思うことも無いではないが、本当にいつまでも良く遊ぶものだと感心してしまう。僕のような人間がよそ様の子供をあんまり眺めているのも気が引けるので、張り付くように注意してみるようなことはそんなにできないが、誰かが何かを始めると周りに人間は敏感に反応して、模倣したり別のやり方を見つけたり、実に様々な反応を示す。そういう遊びや発見にたけている子供というのがいて、腕力だけでない力を発揮しているようにも見える。いわゆる賢い子というか、発達の過程のちょっとした差なのかもしれないが、頭の回転の速い子供というのはいるようである。
 子供はかわいいから「かわいい」ということは、よく大人には言われ慣れていることだろう。さらに何かを覚えたりできたりすると、凄いとか賢いというのだって、それなりに言われるのではないか。そういうことが嬉しくて、さらに大人に褒めてもらおうという考えを持ったり、それがモチベーションになるような気分というのは、大人の僕らでも安易に想像できることだ。褒めて伸ばすというようなこともよく聞くことだし、そのようにして成長していくことは大変に望ましい姿であると思われる。
 ところが、この子供の才能のようなものを褒めるというのは、実はそれなりに危険なものを含んでいる場合があるという。小学生くらいまでは、賢いとかすごいとか、よくできるね、というような声掛けが有効なのは間違いが無い。そうして自信を持つようになるというのは、大変に望ましいことだ。しかしながら、実際に自分自身も、他の仲間たちに比べて、それなりに賢いとか能力が優れているような自信を持ってしまうような、本当に賢い子供というか、そういう立場に立つような子供というのはいる訳である。先に才能が伸びて、周りの子供よりも、自分の方が明らかに能力が高い自覚がある。もちろん学校の成績も良くて、特に勉強など気にしなくても、先生のいうことさえ聞いていれば、自然にそこそこできてしまう。ますます自信がついて、自分は周りから抜けているということを確信していることだろう。
 そこまでは悪いことでは無いのである。ところがそういう子の中には、中学生くらいになって、なんとなく伸び悩むタイプの子が出てくることがある。しかし確かに賢いから、ちょっとやる気になれば、また成績などはよくなったりする。平均は下がり気味だが、時々何かのテストでは、突然高得点を取ったりする。要するにちょっと興味がわいてやりさえすれば、驚くほど能力があらわれる。元が賢いのだから、実際にやりさえすれば、実力はあらわれるわけだ。そういうことを理解できて、そのままコツコツやるような習慣がつけばもうけものだが、人間というのは不思議とそういう具合に上手く行くものではない。やればできるのだから、とりあえず多少サボっていても問題ないと考えてしまう訳だ。いつでも挽回できる自信もある。あくせくやらなくても自分は周りよりも高い能力があるのは間違いが無い。少ない努力であっても、十分やり過ごすことは可能なはずだ。
 実は伸び悩む子に周りの大人は、あんがいその子の才能を褒めることをしているというデータもあるそうだ。実際にそう見えるような事もあるのだろうが、もともと才能豊かなんだから大丈夫だとか、もともと賢いんだから何とかなる、というようなことを言ってしまう訳だ。本人もそう思っているから余計にその思いは強くなる。しかしその子に一番足りないのは何なのか。才能があるために努力をしなくなっていることだ。それなのに相変わらず、調子は出ていないのに才能は褒められるばかりだ。さらにやる気なんて出して、つらい努力なんてする気になれなくなるわけだ。
 結局後々伸びる子供というのは、頑張ることに喜びを覚える子供である。できる出来ないの結果が、頑張ったことによるものであることを自覚できると、さらに頑張りを続けることが出来る。もちろんそれに才能があったっていいのだけれど、才能が生きるのも自分の努力次第である。そんなことは大人だってわかっているはずなのだが、なかなかそのように褒めることが出来る人というのは、少ないということらしい。優れた指導者は、そういうことを知っている人かもしれない。
 さて、大人の社会では、自分の能力が低い人ほど自分に対しての能力に対する評価が高い傾向があるらしい。自分は出来る人なのに、周りの人に見る目が無くて評価が必要以上に低いという不満があるという。さて、そういう自覚のない人というのが、いわゆる当事者かもしれない。何しろ自覚が無いのだから。自分のことじゃないと考えた人は、すでにかなり怪しいですよ。
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色眼鏡のある僕が見ても面白い   博士と彼女のセオリー

2016-03-26 | 映画

博士と彼女のセオリー/ジェームズ・マーシュ監督

 車椅子の物理学者として著名なスティーブン・ホーキンス博士の半生を描いた作品。本人は生きている中でこのような伝記映画が作られたというのが、ちょっとした驚きかもしれない。それというのも基本的には恋愛映画なのだが、難病を抱えながら子供が生まれ、しかしお互いに浮気はするし結局離婚してしまう物語なのだ。観ながら、ええっと思う訳だが、それは実際のホーキング博士が、大変な難病に侵されており、ほとんど身動きのできない障害があるというのを、事前に多くの映像で知っている所為であると思われる。あんなに重い障害の人が、普通に子供をもうけて(3人も)、献身的に看護をしてくれる妻をさしおいて浮気もする(浮気もされるが)。人間はそれだけ自由でいいじゃないかと理屈では思うが、少なからず驚くのは当たり前ではないか。
 進行性の難病に侵されて余命2年とまで言われるところで結婚を決意し子供までもうけるということ自体が、実際には様々な困難と苦悩があったと思われる。もちろん映画でも、そのようなことは描かれるわけだが、本当に強い意志と、ある程度の楽観が備わっていることが何よりの救いかもしれない。さらにどんどん病気は進行していき、不自由さが増していく中で、研究も同時に怠らないし、実際に驚くような成果も出していく。正直に言って、日本などの別の国だったら、このようなことにはならないのではないかということも、考えないでは無かった。実際のホーキング博士はベストセラーの作家でもあるから生活が困窮したということは無いだろうが、やはり学校で勉学に励みながら、生活を立てていくことに不安が無かった訳は無かろう。そういう中で、どんどん自分は不自由になり、恐らく長くは生きられないだろうとも思いながら、恋愛も研究もできてしまうということが、本当に素晴らしいと思うのだった。苦難の少ない環境下であっても、人はなかなかこうは生きられない。どうしてもそういうことを重ねながら、物語を追って観た人が多いのではなかろうか。
 しかしながらこの映画がさらに素晴らしいのは、そういう苦難を、お涙ちょうだいの過剰な演出で描いている訳ではないことだろう。むしろ非常に客観的に、どちらかというと冷めた視点で、苦悩を淡々と描いている印象がある。それでもちゃんとそういう精神性は伝わるもので、妻がなんとなく介護自体につかれている様子だとか、ちょっとそういうことにひねてしまう感じなども、ちゃんと伝わってくるのである。結果的にそういう心の隙間のようなものがあって、浮気からそのまま別の恋愛に至ることも納得がいくようにも思った。倫理的にどうこうというより、人間的によく描かれている訳だ。
 基本的には明るい恋愛のハッピーな物語だ。研究内容を掘り下げた伝記ではなく、娯楽作として素晴らしい。ちょっとびっくりはしてしまったけど、いい映画ではなかろうか。
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助かるよ、努力の人

2016-03-25 | ことば

 地球で話されている言語の数は、カウントの仕方で違いがあるけれど、だいたい6000程度(5000~8000と諸説ある。理由はカウントの仕方で違いがある為で、例えば日本でも、一つと数える(またはアイヌと二つ)人と、沖縄地方の方言を細分化して数語あると数える学者がいるようだ)、それに比して国の数はだいたい200弱程度。そういう訳で、だいたい世界中の人々の50%以上は、バイリンガル(もしくはマルチリンガル)であるとされる。要するに多言語を扱える人は、ありふれた存在なのだ。むしろ一つの言語しか話せない人は、少数派とまではいかないが、中国人の一部(それでも人口が多いので多くなる)アメリカ人の一部、そして日本人くらいではないかといわれている。もっともそうではあっても、言語のコンプレックスのひときわ強いのは、日本人くらいではなかろうか。
 確かに英語ということに限ると、日本人が世界的にも抜きんでて下手であるというのは公然と認識されていることらしい。逆にいうと英語話者にとっても日本語は習得しにくい言語であるとも言われ、単にお互い様に過ぎないが、結局経済的な公用語としての日本人の立場として、コンプレックスのようなものがあるようだ。
 日本人が英語が苦手な理由には諸説あるが、単に日本人が馬鹿である可能性もぬぐえないにせよ(まあ、冗談ですよ、いちおう)、英語という言語が日本人には必要のないものであるためであるというのが一番大きい。先に述べたバイリンガルやマルチリンガルは、幼少時から多言語にふれている必要があって、生活上仕方なくそうなっているに過ぎないと思われる。生きる上でそうでなければ支障があるので、話せるようになれるということだ。言語というのは厄介で、9歳児の壁というのがあって、それ以前に接していなければ脳の機能が、いわば限定的になるようなことが起こっていると考えられている。もちろん、それ以後の習得でも人によっては流暢に多言語を扱うような場合もあるとは思われるが、基本的な脳の仕組みとしては、大変に困難なことらしい。要するに期間限定で多言語が出来なくなるのは人間らしいことなのである。日本人であるとか別の国の人であるとかはまったく関係が無い。
 つまり要約すると、日本人には必要のない英語で多くの日本人は苦労させられている訳だが、しかし大人になると、経済的な活動の理由で、一部の日本人は英語の必要性が増す事態が起こっている為に、さらに苦労させられている、ということだ。今さら無理な問題を蒸し返されて、社会的に混乱することが多いわけだ。もっとも本当に必要な人は、個人の大変な努力は必要だろうけれど、ある程度は多言語の習得は可能である。だから実際にそういうことになっているだけのことだろう。
 未来永劫日本人がそのような立場でいられるかどうかは別問題だが、基本的には多くの人口とそれなりに広い国土、内需型の経済が大きな日本である以上、今のような状況は、そんなに変わりはしない。それでいいかどうかもあるけれど(世界に羽ばたく大企業で無い限り)成熟した経済圏というのは、多かれ少なかれ、日本のようにならざるを得ない。
 もちろんそういう中だが、物好きな人や、奇特な人が頑張って多言語を習得してくれると、世界中のいろいろなことが伝わってきて本当に助かる。もう大人になってしまったほとんどの日本人は、そのような人に頼らざるを得ない状況であるということなんだろう。
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どんよりと重く、しかし実に読ませる   湿地

2016-03-24 | 読書

湿地/アーナルデュル・インドリダソン著(創元推理文庫)

 エーレンデュル(男)、エリンボルク(女)、シグルデュル=オーリ(男)、ホルベルク(男)、コルブリン(女)。これらの名前の後にあえて性別を記したのは、僕自身が読みながら、どっちだったか混乱したからだ。すべてファーストネームで(アイスランドでは普通にファーストネームを用いることの方が自然らしい)、恐らくだが、それらの性別らしい名前であるのだろう。東洋人がそんなことを思うとしても、かえって不思議に感じるかもしれない程度のことだが、この名前自体からも、遠い異国の風景が見えるようなミステリ作品である。
 最初に老人の死体が発見される。殺し方はずさんで不器用、典型的なアイスランドの殺人(要するにたいして複雑そうには見えないということらしい)と思われたが、事件を追ううち、何か複雑な事情が絡んでいるらしいことが明らかにされていく。殺された老人はならず者で、過去に強姦事件を起こしながら不起訴になっている。警察のずさんな捜査と傷つけられた女たち。そうして、そのような傷をなめるような捜査を続けなければならない刑事たちの苦悩も描かれる。そうして事は、図らずもアイスランドという国家の問題までをもあぶりださせることになっていく。
 アイスランドは、北海道と四国が合わさったくらいの広さの島国で、人口は三十万人あまり、火山活動が活発で、さらに一日中晴れるような天気も稀だという。だから天気の良い日になると商店などは臨時休業し、日に当たってのんびり過ごしたりするらしい。金融立国で景気が良かったが、リーマンショックで銀行は次々に倒産(現在は国有化)。貨幣が暴落したのでかえって工業などが復活し、現在は失業率も下がっているらしい。小さいながらダイナミックなところなのかもしれない。
 作品の背景はだからどんよりとした天気が多く、よく雨が降っている。天気と同じく描かれている人間模様も重くつらいものが感じられる。しかしながら文章のテンポがよく、いつの間にかグイグイ読ませる感じがある。余分なものをそぎ落として、しかし思わせぶりな不明瞭さは微塵もない。明るさが無いにもかかわらず、そこに何か良心的なものが流れている。複雑な内面を浮き彫りにする刑事物語でありながら、未来的な心の救済があるような気分になるのである。
 この物語が世界中でベストセラーになり、そうして日本語でも読めるようになったのは、ひとえにこれを読んだ多くの人が、この物語に共感を覚えたからに違いない。そうしてミステリとして大変に優れている。それは人間を描いているからに他ならず、そうしてそのような人間の感情には、万国共通性があるからであろう。まったく人間とは、面白い生き物というしかないではないか。
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二択問題ですらないが…

2016-03-23 | HORROR

 今夏までには参議院選があるらしく、さらに衆参ダブル選挙になる可能性も出ている。選挙の話題は、あんまり気色の良いものばかりではないから比較的に遠慮していたが、これの争点というのも、マスコミ的には面白くないものが多い。いったい何を見ているのか。
 まあそれはいいが、与党がもっとも情けないのは消費税問題で(しかし野党も増税には反対らしいが)、景気を理由にまた消費税増税を先送りにするようなことを言ったりしている。このような問題の先送りこそが今ある問題をさらに大きくしてきたわけで、将来においてはもっと大きな困難があるというのに。
 財政の問題は、今手を打たなければ、と言われ続けて既に数十年にはなる。恐らく30年くらい前に少しだけ手を打っていれば、ここまでは酷くならなかっただろうが、そんなに昔でなくとも、10数年前くらいなら、大変に痛みがあったとしても、まだ何とかなるようなところがあった可能性はある。今となっては既に選択すら実際には残っていないが、さらに事実を曲げてまでも無理な選択をしようとする。これが政治だというのはおこがましくて、そういう問題にも手を付けるのが諸外国の例を見るまでも無く当然なのだが、しかしまだ逃げようとしている。説得をするのが政治的な手腕であるから、事実を見て国民に対して語るべくは逃げる理由なのではない。
 しかしながら既に、もう打つ手は考え付かなくなっているのだろう。無理をすると批判されるが、破綻すると誰も責任を取らなくていいという理屈なのだろうか。
 ここに至っても(このままで)日本の財源は破綻しないと言っている人もいる。個人的には憶えのないことだし実感のない人が多いというのは理解できる。しかしながら借金を返さなくてもいいというのは倫理の問題でもなく、制度としてはあり得ないものであって、さらに一千兆円も越えるという額になってなお、その借金額が増え続けている現実を前にして、本当にそういうことを信じていられるというのが僕にはよく分からないのである。仮に財政が健全化して、毎年借金の元本が1兆円ずつ減らせるようになったとしても、要するに1000年以上返済の時間がかかる。どのみち僕らが生きているうちにはどうにもならないのだから、無理に苦しんで財政支出を絞るようなことをしたく無いというに過ぎないだろう。
 増税を先送りにすると、そのような破綻しても良い(もしくは健全化を諦めた)というサインと市場が捉える可能性もある。それすらも上手くかわせたとしても、さて、本当にあと十年がどうなるか。
 最悪は望んではいないが、それを待つというのは本当につらい。破綻するかしないかという二択問題では無い。何故なら破綻しないを証明するのに破綻しなければ証明できなければ、手遅れに過ぎないからだ。今や破綻しないとは考えにくくなっているものの、そうならないようにするしか道が無いだけのことだ。単に将来のことを真剣に考えよう、という問題に過ぎないかもしれない。でも、やっぱり考える人が少ない。政治の判断力というのは、そういう見方を指しているのかもしれない。
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歌がもっていった物語   くちびるに歌を

2016-03-22 | 映画

くちびるに歌を/三木孝浩監督

 アンジェラ・アキの「手紙」という歌に着想を得た中田永一の小説を原作に映画化したとされる。アンジェラの歌は僕にも子供がいるので、ずいぶん前に頻繁に聞いた。学校関係者が好きな歌なのだろうと思っていたが、ひょっとするとこの映画のようにコンクールなどで歌われるような曲なのかもしれない。小説の方は未読。
 出産代理の音楽の教員として、郷里の五島の中学で教鞭をとることになったピアニストの女性が、暗い過去を引きずりながら生徒たちをコンクールで歌わせる役をこなす物語。相当なことがあったらしいことは、最初の偏屈な態度からも察せられるが、これが主演の新垣結衣なので、単にワガママだけに見えるというのはある。結局ひどいことには違いなかったが、やはりワガママなだけだったような印象は消えなかった。可愛いのに損なことである。
 また、物語のもう一つの柱である歌の上手い障害ある兄を持つ少年の苦悩も描かれるが、こちらの方は、少年が良い人過ぎて、ちょっと泣けない感じだった。もう少し兄を恨むなど屈折してくれた方が、物語としてはリアルで良かったのではないか。結局才能のある人間が最後には勝つ、という物語ではないのだから。
 そうして最後にはどういう訳かアンジェラ・アキの歌の印象ばかりで、いったい何の話だったかよく分からなくなった。それなりに力のある曲であるというのは分かるのだけれど、みんなこれにやられて作ったから、これに執着しすぎてしまったのではないかとも思われた。僕には何の興味もない曲なので、印象としては混乱を覚えた。
 男の子どうしで友情を育む姿だとか、結局可愛いだけの先生のおかげで男子生徒の部員が増えて音楽に幅が出来たという仕組みなどは良かったと思うが、田舎の寄ってたかっての秘密の無さのようなものを、いくら東京で長く暮らしていたとはいえ、出身者の女性が無頓着に知らないというのは、ちょっと疑問に思えた。屈折している時間が長くて、歌の練習がドラマチックに発展しない。そういう頑張りのサクセスというのが、もう少し必要かもしれないと感じた。
 しかしながら今思い返してみると、逆にそれらがよくまとまっていたともいえるかもしれない。僕は長崎県の出身者だから、五島の風景も長崎市の公会堂も感じとしては知っている。五島も大きな学校のようで、不思議と田舎臭くない(まあ、田舎とはそんなものだが)。先生の授業中の方言だけが妙に田舎臭さを演出していて、ちょっと違和感があった。まあ、地方とはそんな場所ではあるんだけれど…。
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フラッグスタッフと第9の惑星

2016-03-21 | Science & nature

 生きているうちにアメリカ大陸に行くことがあるのかどうか分からないが、気になる場所というのがある。それは他ならぬ、フラッグスタッフという町である。
 人口は5万人あまり。標高が2100メートルあって、夏は涼しいが、冬にはスキー客でにぎわうくらい雪が降るようだ。アリゾナの交通の要所で、有名なルート66が通っている。東から西への鉄道も通る場所で、人より貨物列車が頻繁に行きかうという。また、グランドキャニオンなどの観光地とも近く、どちらかといえば素通りしてしまうようなところらしいが、もとは宿場町で栄えたという。町に住む人の平均年齢が若いのは(平均26.8歳なんだとか)、アリゾナ大学があるからのようだ。しかし、若者はこの町周辺の自然に魅せられ、そのまま棲みついてしまうのだという。逆に高齢者は冬の雪かきなどの労働が苦になり、町を出ていく。それで平均年齢が極端に若い町になるのだそうだ。
 しかしながら僕がこの町を知っているのは他でもなく、ローウェル天文台があることで有名だからだ。ローウェル天文台で、あの冥王星(プルート)が発見されたという。今は惑星から格下げしてしまったが、この名前は長い間忘れられることは無いだろう。
 天体観測には、このような高地であることで空気が澄んでいるという条件があって適しているということは言える。しかしながら研究用の天文台があるのは、実際にはもっと高い場所ばかりになってしまった。フラッグスタッフが素晴らしいのは、それなりに人が集まって棲む町でありながら、きれいな星空を眺めることが出来るためだ。それというのも星を眺める妨げになる、いわゆる光害が少ない町なのだ。夜間の照明は制限されて、必要な場所にはオレンジの光源が使われている。だから夜になっても暗い町なんだが、星はきれいに見えるという訳だ。
 もともとぼくは田舎暮らしだから、光の少ない場所に暮らしている。そうなんだけれど、やはり生活の中では夜になると光に頼ったものになる。そうしてその光源の豊富さのために、田舎といえども星空はいつもきれいとは言えない。なんだかもったいない話だが、人がいないのは寂しいので、これはこれで仕方のないことだ。でもまあフラッグスタッフみたいな町の取り組みは、ちょっと羨ましいかもしれない。

 ところで、冥王星は惑星の地位から滑り落ちてしまったが、最近では別の第9の惑星候補の星が、太陽系にあるらしいという発表があった。実際にはまだ見つかっている訳ではないが、理論上は存在すると言われている。質量も地球の10倍あるとされ、見つかれば惑星になることは確実だ。しかしながら、海王星までの距離の20倍も遠い軌道を通るとされていて、太陽の公転周期も1万年から2万年という。楕円軌道をえがいて公転しているわけだが、とにかく遠すぎる。いずれ発見されるのかもしれないが、自ら光らない星というのは、なかなか見つけるのが難しいのかもしれない。
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親がしっかりしてないと子供は力強い  海街diary

2016-03-20 | 映画

海街diary/是枝裕和監督

 原作は吉田秋生の漫画。さわりだけちょっとだけ読んだが、最初の方は結構原作通りという感じだった(だからといって後まで一緒なのかは分かりかねるが。また当然だが、すべての科白が一緒ではないし、坂道や旅館の名前などは違ったようだ)。しかしながら当たり前だが、漫画のキャラクターと俳優さんたちは少しばかり印象は違う。それで何の問題も無いが、映画の方が少しゆるい感じかもしれない。風景がリアルな分、不思議な感覚はする。
 子供の頃に離婚して出て行った父親が死んで、葬式に行くことになる。ちょっとわけありで、借金と浮気で母とは離婚し、母もその後再婚し、叔母から三姉妹は育てられた。しかしその叔母も亡くなり、若いながらも三姉妹はそのまま古い家に一緒に住んでいる。さて、亡くなった父親と一緒になった女は既に亡くなり、さらに父親は再婚し、亡くなった女との間に娘がいる。再婚相手の女性にも連れ子があって、厳密にはそれらの子もきょうだいには違いないが、要するに遺伝的なつながりのある妹がいるということだ。父の妻はあんまりしっかりしていない様子で、逆に無理にしっかりしすぎているように見える中学生の妹が不憫に思え、鎌倉に呼んで一緒に暮らすことになった。血のつながりはあるものの縁も無く離れて暮らしていた姉妹たちが、何気ない生活の中でその絆を深めていく物語である。
 女だけで暮らしている華やかさもあるし、逆に女だけの悲しさというものも感じられる。それぞれに男はいる様子だけれど、それがそのまま幸福に直結していない。それはこの姉妹が運命的に背負っている、身勝手な親の影響を受けた呪いのようなものなのだろうか。自ら(恋愛による)しあわせを享受してもいいのだろうが、選んだ男が悪いのか、その男たちの身勝手さも許すことが出来ない。そうして、その子のためにという思いがあって一緒に暮らすようになった末の妹も、実は本当には自分たちに気を許してはいないことに気づく。それは妹自身がもっている負い目のような感情だし、自分たちも女としての自分の殻を上手く破れていないのだった。
 映画的な演出としての女性性は、恐らく監督が男だからという視点がいくつか気になった。たぶんそれは原作の吉田には無い表現なのではないか。別にそれで悪いわけではないが、ほとんど男がいない時にも、男が見ていい感じの女というのはそんなにいないのではないか。まあ、好き好きではあるが、そういうメリハリがあって女として生きるという感じが、僕には女の強さや面白さだと思うのだ。
 それにしてもこの監督さん、変に崩れた家族関係を描くのが好きですね。それが彼のテーマということなのかもしれないけれど…。
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石の上にも三年とはいうが…

2016-03-19 | 

 列車の移動中に弁当を食べるのは旅の楽しみではあるが、そのようにして売られるご当地の駅弁をデパートの地下などでイベントとして売られるのも人気があるらしい。ご当地のさまざまな美味い弁当というのが一堂に会するということで、旅愁と食欲がそそられるということか。
 行楽シーズンに外でお弁当を広げて食べるというのも楽しいことだが、デパートの地下などでご当地弁当を買うというのは、皆どこでそれを食べるのだろうか。デパートがあるような街中というのは、弁当を食べる場所も限られるという気もする。弁当を家まで持ち帰って食べるということなんだろうか。まあ、冷めてもおいしいのが弁当だろうし、温めて食べたかったら電子レンジもあるだろう。特に外に持っていって食べるということでは無いのかもしれない。さらに気分だけでも旅の雰囲気を味わって、ご当地の食べ物を食べるというのが楽しいということか。もしくは以前に旅行に行ったことがあって、そのような旅の気分を再び味わってみようという趣向があるのかもしれない。もしくは行ったことは無いけれど、せめて弁当だけでも、というような気分もあるのか。
 ところでそのようなイベントのドキュメンタリーを見ただけのことなんだが、圧倒的に人気があったのは「イカめし」なのであった。期間中に何万食も売れていた。ものすごい行列で、それでも飛ぶように売れて、凄かった。あれだとひと財産築けますね。
 弁当とはいえ熾烈な競争があって、さまざまな工夫をしているらしかった。作っている様子を客に見せ、照明の当たり方を工夫し、そうして食材の匂いが漂うようにも考えている。分かりやすいシンプルなデザインをして、ちょっとでも足を止めて興味を持ってもらえるように、実に緻密な計算をしているところが、やはり人気が高いのだった。
 どの弁当も大変に魅力的に見えるのだが、しかし、やはりあまり人気の出ない弁当もある。地元の食材を厳選し、職人芸を磨いた自信作といえども、売れるにはやはり本当に客の注意を引く独自の工夫を凝らさなければならない。苦戦している高知の弁当を取り上げて紹介していたが、そこの弁当の担当者は、絶対に売れる自信も持って参戦している。食材も味も一級品である。間違いなく都会の人の口にも合うはずだという確信を持っているようだ。要は一口でも食べてもらえたら、絶対に美味しいと思ってもらえる筈なのである。そうではあるのだが、売れるということから考えると、なかなか上手くいかない。いろんな人からアドバイスをもらって、やっと工夫をするようになるのだが、時すでに遅し、期間中は目標販売数を大幅に下回ってしまうのだった。
 そのような努力の姿を見て、地元の商工会だか何だかの偉い人が、「確かによく頑張った。彼なら20年くらいがんばったら、何とかモノになるかもしれない」というのだった。
 ものを売るというのは厳しい世界なんである。自分のやりたいようにやったらいいのだが、結果がついてくるまで、そういうものが受け入れられるようになるまで、それだけの試行錯誤が必要だということなのかもしれない。ちょっと恐れ入った番組であった。
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自分のことがこんなに面白い   自分では気づかない、ココロの盲点・完全版

2016-03-18 | 読書

自分では気づかない、ココロの盲点・完全版/池谷裕二著(講談社ブルーバックス)

 副題に「本当の自分を知る練習問題80」とある。これの元になったというか出発点となる著書は、朝日出版から出ている。ただし問題は30問。だから完全版であるこの本は50問増やして充実させてある。記述が短いので早く読むこともできるが、一問一問それなりに考えさせられるところがあり、じっくり楽しむことが出来る。実は前著の30問の方は、僕が人前でお話をさせてもらうときなど、もう一度ひも解いてネタにしたことも多々あった。大変にお世話になりました。今後も、たぶんブログネタなどには、この本を繰り返し読み返すことになるだろうことも必至である。辞書的な機能があって重宝するし、僕も人間だから、このような認知バイアスを容易に忘れるようになっているはずだからである。多くの人が知っておくべき内容だけれど、知らない人間を騙すためには、知られていない方が有利である。商売をする人とか、素直に何か成功したいと思っている人には、それなりに役に立つことは間違いなかろう。ハウツーものに騙されるより、人間のことを知って戦略を立てられる方が何倍も有益である。もちろん敵も一部は知っているかもしれないので、その時はお互いに手を組んだらいいだろう。知っているというのは、時に世界を制することもあるかもしれない。
 人間が生存して今のような考えを持つに至るまで、脳というのは数々の偏見をそのしわに刻んできたに違いない。時にはそれが有利だったからという考えもあるだろうけど、そのために自分が安易にだまされやすい生き物になってしまったともいえる。世界中から差別や偏見が無くならないのも、ひょっとするとこの脳の仕組みが考え方に影響を与えているせいかもしれない。間違いは正せばいいとは思うけれど、間違いやすいことに全く気付かない人がほとんどそのまま生活をしている。そうしてそのことはどうすることもできない事実なのだ。様々な科学は、そのような人間を改めるように事実を提示しているが、提示された事実を見ても、素直に間違いに気づく人は少なかろう。はたから見ると愚かしいが、しかしそれは脳の仕組みの可愛いところでもあるのだ。一緒に笑いながらそのことを知るというのが、恐らくこの本の一番の楽しみ方であると思われる。実際に面白いからこのような完全版が作られたのだろうし、恐らくこの本の影響を受けて、さらにいろいろなアイディアが生まれるに違いない。さらにすべての認知バイアスの解説が終わっている訳ではないから、さらなる完全版や、続編も生まれるかもしれない。また、まだわかっていない認知バイアスについても研究が進むことだろう。一番の楽しいミステリが、自分自身であるという発見に満ちた面白本である。
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割引の得が、時々嫌いだ

2016-03-17 | 境界線

 出張の時など晩飯の問題が時々ある。研修など、一人でないときが結構あるが、知らない街の店選びというのは、なんとなく面倒だ。
 近年劇的に変わったのは、やはりなんといってもネット情報だ。もうこれは当たり前になっていて、むしろ調べないで店を探す人の方が少なくなったのではないか。若い人は店の前でその店自体を検索したりしている。理由を聞くとクーポンなどの割引があるのだという。ネットで見た、またはその検索しているツールでクーポンが出たりするらしい。若い人じゃなくても、事前に調べて、店のクーポンを印刷して手に持っている人などもいる。割引にはいろいろあるが、例えば生ビールが一杯タダ、みたいなものから、そもそものコースの料金設定自体がガクンと下がるものもあるんだそうだ。一人頭2,000円くらいお得になったりすることもあるとか。もともとの料金設定が間違ってるんじゃないか、とも思うが、客を呼び込むシステムとして、すっかりネットクーポンというのは定着しているのかもしれない。
 多くの客を呼び込むにはいい手段だし、リピートしてくれる客も掴みたいということだろう。偉い人がちゃんと計算して割引しているだろうから、客がお得でも店でもちゃんと得になるということなんだろう。より多くの客を取り込んでより多くの利益を見込むのは、商売としても人間としても実にまっとうな生き方である。非難する筋合いのものではない。
 そういうことであるが、理屈としては、それは分かるんだが、しかしなんとなく複雑な心境にもなる。
 要するに、それでも知らない人や、気にしない人は、いわゆる正規の料金を払っているということが気になるらしい。その人たちは、クーポンで得をしている人の分も負担していることにならないだろうか。店側としては、空きをなくして効率化したり、さらに上乗せした客を取り込むという意識だろうけれど、一定の基礎になっている客層の、さらに無頓着なコアな客へは、配慮の必要が無いのだろうか。同じものを提供して、人によっては料金が違う。調べればそれは誰でも知りえることかもしれないが、そこは一旦無視して料金を取ることに、何の良心の呵責も感じないのだろうか。いや、感じたとしても、どうにもならない問題かもしれないが…。
 おんなじようなことは、例えば新聞の購読料の新規の割引や、電話の乗り換えなんかの低価格競争なんかでも感じることだ。多くのコアになっている人たちの金を使って、新たな客へ価格のサービスをする。もちろんその後に課金して元を取ろうという魂胆だろうけど、いつまでも得を求めて乗り換える客の方が得が続くというシステムに、なんとなくやりきれないもどかしさを覚える。それは本当のファンを裏切っているというか、知らない人を、もしくはそんなことをするのに抵抗のある人を、限りなく無視しているような感じかもしれない。
 モノの値段には、情報こそ価値があるという側面でもあるかもしれない。売る側と買う側の情報の非対称性で、その差額で商売が成り立つということも言えるわけだが、今や買う方だって売る側の情報がほとんどわかるようになっている。知らない人間を無視して金をとるという行為は、そうやって正当化されているということになるんだろうか。
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