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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

巨大化する偶像

2025-02-21 | 雑記

 週刊文春に司馬遼太郎を原作とする「竜馬がゆく」の漫画連載がある。もう100回を超えていて、それなりに好評で続いているのではないかと思われる。僕も最初のころはパラパラ読んでいたはずだが、いつの間にか飛ばすようになってしまった。それでも時々は読むことはあるようだが、やっぱりそれは時々だ。司馬の書いた竜馬は高校生くらいの時に読んでひどく感動し、すっかりファンになった。まるで武田鉄矢である。そういう人は当時の日本にはかなりいて、しかしそれなりに静かにしていた。何しろあの小説はめっぽう面白いので、竜馬を好きにならざるを得ないのである。なので当時から、龍馬をいわゆる神格化するような土台は、すでにあったと思われる。高知は龍馬の出身地だというのは、それなりに伝播されていた。
 しかしながらまだ、幕末の志士と言えば当然のように上位に位置するのは、西郷隆盛や大久保利通、高杉晋作、木戸孝允であり、その後に坂本龍馬の記述があるのが普通であった。周辺の人物ではあるのは間違いなさそうだが、明治維新を成し遂げたのは坂本龍馬ではない。そんなことは明治から続く常識として、僕らの先輩方はちゃんと知っていたのである。坂本龍馬という人もいるんだよ、というのは明治末に奥さんだったお龍さんが語ったのがヒットして、小説にもなり話題をさらった。司馬はそれをもとに別の資料を紐解いて再構築したと言われる。だから「龍馬」ではなく「竜馬」の漢字をあえて使い、創作であることを示したといわれる。また、実際の龍馬は資料に乏しいところもあって、創作を挟みやすいところもあったのかもしれない。
 しかしながらその影響力は尋常では無かった。徐々に神格化された龍馬は、明治維新の第一の立役者まで躍進することになる。現代ではそれが歴史の常識になったように思われる。また、ドラマなどの世界のことだから、学術的にどうという事とは関係が無い。清水の次郎長は実在の人物であるが、演劇の世界で「寿司食いねえ」と言ったところで、それを史実ではどうだという人などいない。おんなじことなのである。
 おそらく僕が感じている今の坂本龍馬は、そういう意味で少しかけ離れたヒーローになってしまったのかもしれない。若い頃に純粋に感動して好きだった龍馬は、多くのドラマのイメージから、なんとなくいけ好かない人物へと変貌していった。もっと自由で普通のところがあって意外性のあるすっきりした青年像が、なにかとデカい事ばかり考えて人々を扇動する超人になってしまった。本当に残念である。
 まあ、実のところ、龍馬自身には罪はない。現代人が求める龍馬像には問題があるということである。そのような偶像でなければならない現代の人々の欲求には、より優れた龍馬像こそ日本人にあって欲しい資質なのかもしれない。それにこたえるだけの資質があったからこそ、龍馬は巨大な人物になれたのだろう。
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時代と気分とに同調し遅れてしまった

2025-01-10 | 雑記

 僕はもう野球の中継というのは観ないのだが、話題としての野球の話というは、身だしなみとしてする。新聞は読むし、しかしペナントも興味は無いから毎日順位を確かめることもしないけど、なんとなくは頭に入ってはいる。しかし、やはり普通の水準からすると、知らない方ではあろう。そうではあるのだが、話を合わせるくらいはできるので、やはり日本は野球の国で、あんまり知らなくても何とかなるような文化的なものはあるのだろうな、と思う。
 そういう中にあって、やっぱり一番便利な人は、長嶋さんである。大スターであると同時に、かなりおかしな人なので、掘り起こしても楽しい話題が豊富だ。ちょっとした怪しい話もあるけど、彼ならやりそうなことだし、付き合いのある人の長嶋話まで話を広げると、さらに広大なものが広がっていく。そうしてあんまり危険もない。いまさら悪く言う人もいない訳だし、もう勝ち負けとも関係なくなっているし、危ないものでは無い。
 居酒屋なんかで野球の話は危険だというのは昔から言われることだが、仲間内を事前に確認ができるのであれば、そこまで大変なことにはならない。いつまでもやっているとどうかというものはあるにせよ、まあこれも便利と言えば便利だ。近頃は女の人もそれなりに詳しい人もいたりするので、観る娯楽としての野球の広がりは、僕の子供の頃より自由なものになっているのではあるまいか。まあ、僕が興味を失っている理由もそんなところにあるのかもしれないが、しかし僕にとっては危険だからやめているところもあって、それはそれでいいのである。老後もあることだし、文化の多少性としてはどうかという問題はあるにせよ、そんなに気にしなくてもどうにかなるかもしれない。
 それでも野球の記憶のようなものに関しては、僕の場合村上春樹や村上龍のことがあって、ずっと引っかかっているようなところがある。彼らは贔屓にしている球団が活躍することで、いわゆる勇気や決断ができて、小説が書けたというようなことになっている。さて、僕にとってはそんなことは無い訳で、若い頃に清原や桑田が活躍しても、特に影響は受けなかった。しかしながら、子供の頃より巨人の神格化はなくなったし、球団色の強い選手もいなくなり、事実上日本のプロ野球はメジャーリーグに選手を送るマイナー化したものになった。それでもずいぶん年俸は上がっているようなので、実際はカッコつけずに日本で長くプレーしたい人も、増えているのではなかろうか。
 自分のひいきの球団が強くなって元気になるというのであれば、それは確かにしあわせなことではある。しかしそれが弱くなっても、まだ頑張ってほしいというのでファン歴が続けば、それは球団にとってもさらに励みになるだろう。そうしてそういうトンネルのような苦労のようなものを共有し続けて、まさに奇跡に思えるような展開が起こるような年になると、自分に何らかの変化が訪れることにもなるかもしれない。それは野球でなくてもいい事ではあるが、何年もそういう贔屓と付き合い続けていくことで、同調できる個人の奇跡であろう。もっともそれは、自分にとってもそういう変化の時とのシンクロの必要もありそうで、だからこそ大きなきっかけになっていくものであろう。
 しかしまあ、九州にはソフトバンクがいるじゃないかとは言われそうだが、つまるところ地元に通じた野球環境には無い訳で、そのような巨大な力を持ちうるものは、地元ではサッカーやバスケットになりつつあるのかもしれない。僕は移行できていないが、そういうタイミングに自分の生きている時間帯がうまく合わなかったのかもしれないな、という気もする。まあ、それで別に困ったことになっているわけではないのだけれど……。
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積読の罪悪感

2024-11-05 | 雑記

 積読本というのがあって、ひとの積読の写真を中心にその人の積読の状態を確かめるとでもいうか、全体像というか、要するにその人が買った本を眺める感慨を楽しむ分野がある訳だ。最近は人のお宅に邪魔する機会なんてそんなに無いし、ひとの積読状態というのは、そうそうお目にかかれるものでは無い。例外的なものに、大学の先生などの研究室にお邪魔するなどの場面(多くの場合軽いインタビューというか)があるくらいではないか。
 そんな感じではあるが、しかし積読本である。雑誌などの特集などで、積読状態を写した写真集などを見ることもある。作家さんだとか著名人の中にも読書家は多く、蔵書に囲まれた部屋乃至家の様子など垣間見ることができる。それらすべてが積読では無くて、単なる蔵書インテリアという感じも無いではないのだが、確かに僕はそれらの部屋の場面というのを録画しておいて、後で静止画面で本の背表紙を確認することはある。面白そうなら、クリックして買う。そういう意味では、ちょっとしたブックレビューの場でもある訳だ。
 そのような積読本を紹介した小文をたまたま読んでいて、このような積読状態を見ることで、自分の積読の罪悪感が減らせる、というのに目が留まった。罪悪感? 買って読まなくてはと思ってはいるものの、読めずに積んである本があるにもかかわらず、気になる本を買ってしまったりすることなどを指して、そのように言っているらしい。なるほど。
 確かにそんなような感情は以前にはあったのかもしれないとは思うものの、積読においてそのようなことを感じるというのは、ちょっと無かったな、と思ったのだ。別段無尽蔵に本を買っているわけではないし、ある程度予算も気にしながら本を買っていることに間違いはないが、そんなことを考えて本を買っていたら、とても本なんて買えないじゃないか、と思うのである。積読に対する麻痺なのかもしれないけど、本を読むには時間がかかる訳だし、本はある程度テキストの役割が強いので、時には線を惹いたり書き込んだりする必要がある。だから借りて読む場合と買って読む場合には明確に読み方に違いがある訳で、要するに借りて読むのは確認であるとか、どうしても手に入らないだとか一定の事情があることと、仕事をリタイアしたなどの事情が絡んだ人の場合であろうし、買って読まざるを得ない事情がこちらにはある、ということである。それと共に、やはり一定の積読量が無ければ、継続した読書においてのスピード感の担保であるとか、総体としての自分の興味の都合に対応できないことの方がつらい。基本的に買う本を全部読むのは物理的には不可能なことなのであって、読まないでいい本があるという状態の確認ができるだけでも、本を読み進むことの希望のようなものがあるような気がする。これは別段僕自身が特殊な感じで言っていることでは無くて、おそらくふつうの読書家の誰もが感じていることの代弁に過ぎないと思う。積読が無ければ、ふつうの状態で本を読めない可能性の方が強いのではあるまいか。
 まあ、そうはいっても、物理的な状態での蔵書の管理には限界がある。誰もが一定量のたくわえの制限を抱えているというのは、積読の最大の課題点だろう。それは確かに罪悪感を含むものであるのかもしれないが、読んでいない本があるから次の本を買うことの罪悪感とは明確に別のものであろう。
 ということで、読まない本を脇によけながら積読は積み上がる。いや、読まれるかもしれない可能性を膨らましながら増殖するということなのかもしれない。それはそれで、やはり楽しい読書のありようなのではなかろうか。
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夢を見ない人

2024-05-28 | 雑記

 たまに夢を見ない、という人がいる。本人が言うので、それを別の人間が否定するのも何なんだが、夢を見ない人間はいないと思われる。しかし夢を見ないのは、夢を見ているときに目覚めていない習慣の人である、という可能性の話になる。夢を見ているときに目覚めないというのは、そのタイミングで起きている、何かの要因があるのではないか。
 一般的に夢を見ているのはレム睡眠時であるとされている。レム睡眠は比較的に浅い眠りの時で、脳の一部は起きて活動している。寝ている人を観察すると、瞼がぴくぴくと動いている。そういう状態がレム睡眠だ。うちの犬を眺めていても、そういう状態で寝ているときがある。やはり夢を見ているようで、足をバタバタ動かしたりすることもある。夢の中で走っているのだろうか。こういう時に起こすと、なにか夢を見ていたと教えてくれるだろう(犬だからできないけど、相手が人間ならば)。内容を上手く教えてくれるかどうかは分からないが、要するに夢を見ない人は、その時に起こされるように誰かに頼むと、夢を見た例を作ることができるのではないか。
 しかしながら深い眠りであるノンレム睡眠時にも、夢を見ることがあるのだという。そういう時の夢は、あまりストーリー性はなく、なにか突発的な、単純で思考的な夢であるらしく、(覚醒後に)記憶に残りにくい夢であるという。夢を見ないと感じているひとは、ひょっとするとこの状態の時に目覚めてしまい、夢を覚えていないのではなかろうか。
 レム睡眠とノンレム睡眠は周期的に繰り返されており、一般的にそれは90分周期であるともいわれている。しかしながら個人差もあるので、その周期がひととは違う人ももちろんいる。目覚めが楽なのは、当然浅い眠りのレム睡眠(その直後が最適とも)時であるとされていて、要するに目覚めやすいので、多くの人は夢を見た記憶があるのだろう。目覚めにくいときに起きる習慣である人は、なにか目覚ましなどで無理に起きているとか、原因があるのではないか。自分の寝ている周期は、自分なりに工夫して実験するよりないが、寝る時間や起きる時間を工夫して、楽に起きられる自分なりの周期を見つけるのも、一つの手かもしれない。もっともこれも、お酒を飲みすぎたときとか、なにか寝つきが悪かった時など、習慣的に同じ状態とは必ずしも言えないことが起こるので、合わせにくいことかもしれない。
 ちなみに僕はふつうに夢は見ている。確かによく考えないと覚えていないが、気にもしていない。若い頃に、確か筒井康隆が、夢日記をつけていると書いていて、試しに僕もそういうことをしていた時期がある。これは慣れも必要で、一定時間続けていると、かなり思い出せるようになるようだ。しかしながら、やはりもやもやしたところが多いもので、思い出せそうで思い出せないのは、ちょっと苦しい感じもした。話の展開が、あまりつながっていない夢もあって、空を飛んでたのに誰かと会って、喧嘩したりするなど、唐突だったりする。何か意味のありそうなものもあるが、昼間に観た映画の影響があったり、やはり昼間に心配していたものごとが再現されていたり、という分かりやすいものは別として、ほとんどは意味不明という感じだった。思い出せないのが苦しいことが多かったので、だんだんつまらなくなってやめてしまった。夢なんか、苦労して思い出す必要など無いのである。起きているときに平和なのが一番で、夢を見ないのもまた、問題ないと言えば、その程度のことなのかもしれない。
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喫茶店で何か書けるか

2024-04-18 | 雑記

 文筆業の人が時々、喫茶店なんかで原稿を書くということについて書いている。今はほとんどパソコンだろうから、喫茶店やカフェで原稿を打っている訳だ。携帯で書いている人もいるというから、たまに真剣に携帯に文字を打ち込んでいる人を見かけるので、なにかの原稿を書いている可能性もあるかもしれない。まあ、ほとんどはSNSなんだろうけど。
 実際のところまでは知らないが、もちろん自宅でも仕事はするんだろうとは思われる。気分転換もかねてかもしれないし、又は本当に喫茶店などの方がうまく原稿を書けるような人もいるのかもしれない。喫茶店で原稿を書くというのは、それなりに一般的なようにも感じられない訳ではない。これまでに複数の作家やライターの人がそのように書いているのを、見かけるからである。別段気取って書かれているということではなさそうで、わざわざ喫茶店に行って書くということを、義務のようにして書いている人もいる。明日は喫茶店に行って頑張って原稿を仕上げる、などという表現でもわかるが、仕事の必死感が伝わる。適当に人がいて、そうして喫茶店なので特に他に動きもなく、テレビなどで気が散ることも無く、手元に別に何かさぼるようなものが置かれていない環境において、集中して原稿を書く環境というのが、喫茶店なのかもしれない。
 なぜ喫茶店で書くのか、というのを書いている人もいて、やはり何か行き詰ってしまって気分転換になる、という事でもあったろうし、わざわざ喫茶店まで来て書こうとしているので、覚悟が決まるようなところがあるのかもしれない。
 原稿を書くということではなかったが、ずいぶん以前に友達が遊びに来て、図書館一緒に勉強に行こうと誘うのである。僕の家から図書館まではずいぶん遠くて、さらに自転車こいで、最後に帰りには坂道を登らなくてはならない。しかし友人は、そうやって勉強した方が絶対捗るから、というのである。一二度は付き合って行ったかもしれないが、僕は図書館に行くと、本を探してしまうので勉強どころではなくダメだった。僕の地元に喫茶店が無い訳では無いのだが、やはり数が少ないし、人前で勉強するなんてことはなんとなく恥ずかしい行為のように思われ、出来なかった。
 前日何かの打ち合わせで適当な店を思いつかず、ファミレスに入ったのだ。昼時でもないのに結構人がいて、びっくりした。そうしていわゆるドリンクバーにたむろする学生生徒たちがいる。見るともなしに見ると、彼らはそれなりに静かに勉強していたのである。今の子はお金持ってるんだなあ、ということではなく、やはり環境的にこういう場所が捗る場合があるんだろう。作家の人は喫茶店と書いていたが、あんがいファミレスでも書いているのではないか。こういうところは長時間いても、あんまり客をとがめるところではなさそうだし、静かではないかもしれないが、覚悟はつきそうだ。捗るかまでは、僕にはわかり得ないことなのだが……。
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書いてみると落ち着くこと

2024-01-21 | 雑記

 なんだかちょっと書き過ぎているんじゃないか、という思いはある。でも書いているとなんだか落ち着くのである。忙しい合間にちょっとしたメモをしたためて、これはなんだかまとまりができそうだという予感があると、ちょっと単語を弄んでいく。そんな感じで書きだしたとしても、意外とそのままスルスル書けてみたりする。自分でも妙な感覚なんだが、そうしていると気分がいいかもしれない。いちおう推敲するのだけど、思い切って削ってみても意味は十分通じるな、と思うと、それはもうバッサリ切ってしまって構わない。むしろ付け足していくときりがないように文章は膨らんでいくもので、ときどき切らなくては仕方がない。そうやって切ったハッタをして、だいたい1000字くらいの塊ができる。また後日見返すことにはなるけれど、それでまた削って足してとやってみても、やっぱり千字ちょっとという感じだろうか。それより多くなりそうだと、別のテーマに発展して、そうしてまた別のワードを開いて書いたりする。そういうことを繰り返していると、もう来月の中旬くらいまで書いているものが溜まったりする。それはそれでいいんだけれど、その時に思う僕の気分というものは、今の僕の気分とは違うような気がして、不安になる。もちろんあんまりタイムリーなことを書かなければそれでいいので、特に普遍性を狙っているということは無いが、だからと言って生きているうちのことに過ぎない時代性が書いていることにはあるはずで、先のことなどあまり考えたくないのである。それに実際のところ、先のことなどまるで分りようが無いのである。気にならないということではなくて、考えても仕方ないと思うのだろう。
 それでも書いているというのは、やはり今の自分を知ることなのだと思う。自分の考えていることは、漠然とは自分でもわからない。映画を見たり本を読んだりして感想を持つと、それと同時に自分のことも考えている。僕はあの場面は感心しないとか、こういうことを書いてるけど、ちょっと違うんじゃないかとか、勝手に怒ったりするところは、やはり気になるところでもあるんだろう。同時にこれは面白いな、とか、こういう考え方や組み立て方があるんだな、というのを発見させられたりすると、心の底から嬉しくなってくる。そうしてそういう気分も書き留めておきたい。そういう感情が逃げ出したりしないことは分かっているんだけど、どうにもこうにも、そうしないと落ち着かないのである。
 年末年始というのは、どういう訳かいろいろと面倒なことが重なったりして、もちろん楽しいことも含めてあるのだけれど、まどろっこしくも書けない時間がある。そうすると、やはり何か吐き出してしまわないといけないような気分に襲われてしまう。しかしうっかり書きだしたりしたとしても、もう少しまとまる予感の前に時間切れで、次のことへ手を付けなくてはならなくなることがある。でもまあたとえそうであったとしても、その断片でも書き留めておいて後でみると、なんだかその時のヒントで気持ち的に片付いたことがあるかもしれないな、と思ったりする。全部のまとまりを欠けたとしても、それはそれでいいのである。自分の考えている全貌は、やはり自分では正確にわかり得ない。そういうことをがわかるだけでも、ずいぶん儲けものではないか。実際のところ、何が儲かったのかさえ、よく分からないのだけれど……。
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客が来たら片付けるか?

2023-11-27 | 雑記

 よくある光景に過ぎないが、部屋に遊びに行くと、ちょっと待ってと言われ、ドアの外で待たされることになる。部屋を片付けないと入れられない、というのは、割合日本人の感覚としては、あるある、なのかもしれない。しかしこれを外国人にすると、かなり変な風に受け止められることになる。知り合いであったり友人なら、いくら部屋が散らかってようが招き入れるのが、マナーのようなものだからだ。また外に待たせるより、招き入れてから待たせるのが普通だ。部屋の構造の問題や広さの関係もあるとは思うが、外国映画でも見てみると、よく分かる話である。外に待たせて何かを片づけるというのは、たいてい悪いことを隠すためであって、何にもないのであれば、いったんどうぞと中に入れる。向こうは握手文化を含め、いったんは相手を認め、その後裏切られたりすると激しく攻撃や反撃をするという考え方なのである。だから最初から認めてくれない相手(日本人)というのは、なんだか不信の対象になりやすい。また友人であればさらに、ちょっとした壁を崩さない嫌な奴に見えかねないのである。そんなことみじんもないのに。
 さてしかし、この部屋を片付けてから招き入れるのは、日本人にとっては、相手に配慮するマナーめいたものがある。せっかくお見えになったのだから、少なくともきれいに見せる必要があると考えるためだろう。自分も恥ずかしいし、汚いところに招き入れるのは、相手にも申し訳ないという心情がある。これは日本の家が狭いというのがまずはあるが、畳文化の所為ではないかという論調もある。畳というのは、そこに布団を敷いて寝る場でもあるし、それをたたんで何かをする場でもある。表面にあるものを片づけることによって、使用する目的が変化する。上にあるものは常に片付けられるものである。だからいったん何でも置いていいところでもあるけれど、きれいに整えられる宿命を負っている。日本人が外国人に比べてきれい好きのように見えるのは(と少なくとも日本人は思っている節がある)、そのような片づけの文化を背負っている所為ではなかろうか、という訳である。
 さてそれがそうなのかは実のところ僕にはよく分からないのだが、僕はどちらかというと、外国人の側の感覚の人間なのである。人が来たところでいちいち片付ける事なんてしない。相手が座るべき椅子の上に何か乗っていたら別だけれど、それも相手がのけたらいいことである。僕の机の上に乗っている資料の上に、相手が持ってきた資料のようなものを広げても全く平気だし、そもそも汚いものを相手に見られたところで、ちょっとバツが悪いな、はははは、ということである。自宅はつれあいが片付けてくれるのでよく分からないが、それ以外は、さすがにどうかな、ということにならない限り片づけない。気分転換になるのなら掃除もするけれど、それより他のことが気になるたちなので、片付けは後である。それでまあ困ることも年に何回かはあるけれど、片付けたからいいことがあったかどうかもよく分からない。だったらそのままにしておくだけのことで、お客さんはいらっしゃいである。どうか気を悪くしないでくださいませ。
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代車のガソリン問題

2023-10-15 | 雑記

 代車のガソリンの給油のタイミングが難しい。整備工は気の置けない友人のところに頼んでいるので、あんまり深くは考えていないところが多いのだが、しかし車を修理に出すと代車に乗らなくてはならない。ここの代車というのはたいていかなりのボロ車で、軽である。そうしていつも乗り出しの時にあまりガソリンが入っていない。一度ガソリンが入ってないぞ、と文句と言ったら、一リッターでいいからとりあえず入れて乗ってくれ、という事であった。以来そういうスタンスであることは理解はしているところではあるれど、さすがに一リッターを給油するわけにもいかず、満タンにはならない程度にそんたくして給油する。それでも修理がなかなか終わらなかったりすると、ガソリンはまた減ってしまう。不安になっていっそのこと満タンにしてやるか、などと思って実行すると、「出来たよ」と電話がかかってきたりする。できるだけ遠回りして車を取りに行くかとも考えるが、実にばかげたことでもあるし、諦めて取り換えに行くのである。
 振り返って考えてみると、実にせこい事ではあると思う。そうなんだが、何とも言えない不条理感があって、いっそのこと代車は満タンルールのようなものにしてくれないかと思う。実際にそういうところは多いのではないかとも思うが、レンタカーのように貸し出し時に必ず満タンであるようなケースばかりとは限らないだろう。整備工場のようなところは、必ずしも満タン返しではないルールのところが、それなりにありそうだ。車を整備するのが重要なのであって、その期間顧客に乗る車が無いのだから貸し出しているに過ぎない。そうでなければ困るのだけれど、場合によっては代車が無くてもいい客もいるだろう。うちの事業所などは代車なんていらないよ、と言っているが、いつも修理の車は取りに来てもらっているので、結局事業所の駐車場には整備工の人が乗ってきた車が停まっている。事実上の代車であるが、誰も乗るものではない。鍵は事務所で預かっているのだが、たまに面白がって乗ってみようかとも思うが、まあ、別段用事もないので乗らないのであった。うっかり乗ってガソリンが足りないなどと気づいてしまうと、やっぱりちょっと面倒ではないか。
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夏は楽しかったのに

2023-08-29 | 雑記

 年を取ると夏の暑さはつらいばかり、という気がする。外はいい天気なのに、日差しの強さに気が滅入る。実際に外に出ると、苦しい。車に乗ると、拷問めいている。いちおうクーラーが効いてきて汗が引く前に、目的地に着いてしまう。そうして着いても、玄関までが、やけに遠いのである。
 人と話していると、暑いですね~、と当たり前の会話がいつまでも続く。皆そのつらさを共有したいのだ。何もかもやってられない。仕事も早く切り上げてやめてしまいたい。会議もほどほどで済ませようじゃないか。もう帰ってビール飲んでもいいんじゃないか。
 そういう訳で、クーラーの利いた場所での夜の時間を、ひたすら待つのみである。
 しかしながら、子供のころにはこんな暑い毎日でも、なんだか楽しかったかもしれないな、とは思うのである。あれはいったい何だったのだろう。暑いのに外に遊びに出ていた。暑さ自体は、やはり苦しくなかった訳ではない。暑いなあ、とだらけた気分になっていたこともあったとは思う。でも坂道を登ったり、川を下ったり、あちこちわき道にそれながら、外の世界を満喫していた。虫に刺されて、ぼりぼり掻いて、それでも藪をかき分け虫を探したりした。それを取って、いったい何をしてたんだろう。多くの虫や魚や鳥を取ったが、多くはただ殺してしまうだけだった。そういう殺生を重ねることが、子供としての使命だったのだろうか。
 スイカを食べたりキュウリを食べたりトマトも食べた。冷やしてあると最高だが、特に冷やして無くても食べた。水分を補給してたのだろうが、そんな意識は特になかった。水も飲んでいたし麦茶も飲んでいたしサイダーもプラッシーも飲んだ。そうしてビニールに入った氷アイスをよく食べた。駄菓子屋なんかでは30円とかだったっけ。すぐに50円になったり値上がりはしたが、いわゆるアイスクリームよりも安価で、しかも氷の方が長持ちして、いつまでも齧っていた。あれは確かに夏の至福だった。今もやりたいわけでは無いのだが……。
 結局体力があったのだろうな、ということなのであろう。単に筋力をさすものではなく、精神的な無知による体力。好奇心による体力。そういうものが、湧き出るようなイメージがある。いつまでも若いというのは、つまるところ、そういう事なのであろう。
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下駄を履かされて生きているものとして

2023-05-30 | 雑記

 男の子だから云々ということは、確かに幼いころから様々な人に言われ続けていたことのように思う。それの誰が最初だっかさえあいまいで、多岐にわたる。単に記憶力が無いだけということかもしれないが……。一方で女だから、というのはあんまり気にしてはいなかった。男の子というのは、そんな感じではないか。
 しかし小学生の4年生くらいの時に、担任の男の先生(今考えると50代くらいのベテランの先生だったと思う)が、「女は将来男を支える立場に必ずなるので、そのような考えを今からしっかり身に着ける必要がある(大意)」という話を何かの拍子にした。これを覚えているのは、かなり違和感を持ったからだと思う。前後は忘れたが唐突な話ではなく、ホームルームの時間なのか、僕ら男子も交えて全体的な話として言ったからだ。
 それまで男子というのは、僕の感覚としては、女子とは一段劣る存在というか、価値の低いものだとばかり感じていたので、意外な思いがいっそうしたというのがある。勉強ができる上位は女の子であり、国語の読み上げなども女子の方が明らかに上手かった。学級委員というのは先生が勝手に決めていたと思うが、女子はすぐに決まるというか納得のいくものだが、男子の場合多少難があるが、仕方なく選ばれている感じだった。だいたいにおいて男子は女子に劣るので、いわば下駄を履かされているような存在だと、僕は思っていたのである。それなのにどうして、先生はそんなことを言うのだろう。
 女の子のクラスメートにそう後で言うと「家でもよく言われることだよ」と当たり前のように言った。いわゆるわきまえている、ということか。
 しかしながらこのくらいの年頃からだろうか、段々と男女というものを意識するというか、基本的に女子と一緒に遊ぶというのは、あまりなくなっていったかもしれない。時々は混ざるが、あくまでグループとしてというか。家に帰ってからも一緒に遊びに行くようなことは、僕はあまりしなくなった。
 体力的に男女差が出てきたというのは、あったと思う。ドッジボールとかソフトボールなどの競技では、明らかにひどく苦手にしている女子というのがいた。男子にもいるのだが、女子のそれはかなりひどい。ボール自体を上手く前に投げられないようだった。もちろんこれがものすごく機敏で上手な女子もいて、その差が男子より開きが大きい、という感じだったろうか。
 中学高校と進んでいって、これは制服もあると思うが、どんどんと男女の区別が明らかになり、区分が明確で、ほとんど交わるという接点が無くなる。まるで違う生き物みたいだ。話をしていても、考え方の起点というか、感じ方の相違というか、なるほど違うかもしれない、ということも多くなった。これは社会性を背景とするものだったのだろうか。今となってもよく分からない。
 確かに世の中の仕組み自体に、男性社会としての機能のようなものがあることは、よく分かる。文化を持ち出すのはちょっとずるいかもしれないが、伝統としてもそういう物事の考え方の根本に、それは残っている。そういうものをどうにかするのには、もっと違った仕組みづくりが必要かもしれない、とは思う。
 しかしながら僕の中には、いまだにちょっとした男女差の劣等感のようなものは、消えていない。僕らは下駄を履かされているだけのような、そういう感じだ。
 それというのも、やはり全体としての能力差において、いわゆる腕力を使えない法律統治下において、女子の方が男子より明らかに優秀ではないのか。持ち上げられないままの男子に、そのはっきりした能力を発揮できるような人間は、少ないのではないか。
 単に間違った考えを押し付けるような、あの担任の先生のような人々の思い込みで、思い込まされたままの人間たちがその秩序を守っているとしたら、どうなのだろうか。
 しかし下駄を履かされている男子の方が、生きやすい世の中なのかどうかも、怪しいものだとは思うのだが……。
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搭乗手順の変更があった

2023-04-11 | 雑記

 今回の出張は東京だったので、飛行機に乗った。だいたい出張の予定は、ひと月以上前に組まれるものが多いので、事前に予約してある場合がほとんどだ。そもそも飛行機に乗り遅れた以外で、当日のチケットを買った記憶は無いが……。
 そのようにして事前に予約しておくと、たいていの場合既に席も決まっているし(選択もしているのだろうけど→事務局が)、いわゆるスキップ・サービスというのがあって、搭乗手続きを省略できる。荷物を預けるのなら窓口に行かなければならないのは変わらないと思うが、出張などでは預ける荷物もないので、そのまま保安検査場に行けるのは重宝していた。チケットらしくない紙切れを機械にかざすと、あとは搭乗窓口の番号と、自分が搭乗するときの順番であるグループ表示がわかる。子供や高齢者など搭乗する場合に時間がかかったりする人たちの事前搭乗についてはもっともだと思うものの、飛行機というのがかなり差別的な乗り物で、お金を上乗せしたら早く乗れたりする会員制度をとっている。こういうのは西洋の悪しき習慣だと思うけれど、まあ船でもこういうのは根強いので、西洋文化にかぶれている日本では抗いがたい習慣なのであろう。
 しかし今回チケットらしきA4の紙切れを見てみると、いわゆるQRコードの読み取りになっている。老眼の身には読みにくい小さい文字が羅列してあって、今回はスキップ・サービスは無し、とある。何かたちまち不安にかられる仕組みなのである。携帯でコードを読み取るのは僕にもできないことでは無いだろうが、やはりアプリをダウンロードさせられるのだろうし、その後の手続きに、何か不備があると否応なく相手にしてくれないのである。この状況に立たされるだけでかなり苦痛を感じる。さらにその手続きのためのチケット発行は、24時間前からであると記されている。余裕を持った時間で準備さえさせてくれないつもりかもしれない(それくらいあれば十分でしょ、って上から目線である)。
 そういう訳で出発前のしかるべき前日まで、心静かに待ち続けることを心掛け、いざ携帯で挑んだわけである。急に書くのが面倒になって恐縮だが、ともかく詳しいことは忘れてしまったのもあるのだが、そのQRコードの載っている紙切れの小さい説明書きと、コードを読み取った後に携帯電話が誘導するアプリの説明を総合的に勘案しながら作業を進め、オンラインチェックインというものを果たすことができた。そうして改めてサービスが終了したと書いてあるので構えていたにもかかわらず、このような作業を厭わなければ、基本的にはこれまでと同じように窓口等の搭乗手続きは端折って、保安検査場に直行できるのであった。驚かすなよな、まったく、という感じである。
 それでもまあ、当日の朝つれあいに送ってもらう際に財布を忘れていたので一度取りに帰ったのが災いして、さらにコロナの影響で便数が減ったままなので、朝は極端に込み合っていて検査場前は折り重なった通路に長蛇の列ができており、拡声器で係員がしきりに〆切時刻が来ております、などと脅すのである。そういう係員の一人を捕まえて、今のままで乗ることができるか尋ねると、それは僕が乗ろうとしている飛行機会社とは違う会社のスタッフだったらしく、苦笑いをされただけで拒否された。そうしているうちに僕の後ろから来た十数人が、素知らぬ顔で僕を列から除外し、後ろに並び直させた。結果的に乗れたので良かったが(出発時刻が遅れた)、ヒッチコック映画のようなサスペンス搭乗となった。
 しかしながら結果的にはこのアプリは便利ではあって、帰りの便で搭乗機の変更などがあったのだが勝手にアプリがその変更お知らせしてくれるし、マイレージなどの登録も、勝手にしてくれるようだった。検査場と搭乗時には携帯の画面をそのコード画面に保つ必要があるにせよ、まあ携帯一つ持っていればいいというのは便利には違いない。その前にいろいろ紙が付随して機械から出てくる煩わしさはあるものの(どうせ後から捨てなければならない)、おおむね受け入れられる相談であった。めでたしめでたし。
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雄叫びは何と言っている?

2023-03-28 | 雑記

 野球見ていると、大谷投手が何か叫びながら投げている。甲高い声で、いったい何と言っているのだろうか。
 コロナの影響があって鳴り物応援の制限なんかがあってるようで、中継では様々な音が聞こえるようになった。それはかえってスポーツの臨場感のようなものを高めているようにも感じられて好ましい限りなのだが、それでもやはり最近は観客も増え声援も大きくなっている中にあって、しかし大谷さんのお声はそれなりに大きい。概ね気合入ってんなあ、という歓迎の雰囲気があるのだが(大谷さんは何をやってもいいという世間の風潮を形作っているスターだし)、しかしこの投げるたびに出る雄叫びというのは、ちょっと異質なものを感じさせられる。男にしては声域が高いし、まったく同じことを言っているようにも聞こえない。「おりゃー」といってようにも聞こえるし、「にゃー」と言っているようにも聞こえる。「きえー」と言っているかもしれないし、そもそも単語以前のものなのかもしれない。
 スポーツでは卓球なんかが激しいわけだが、あれは選手同士が近いので、威嚇するようなものと、ちょっとした流れのようなものを声によって引き寄せよう、というような習慣があるのではないか。もっとも打ち終わってから何か言っていて、自分で自分にはっぱをかけているたぐいかもしれない。
 雄叫びと言えばなんと言っても室伏広治なのだが、あれは単に力の無駄遣いという気もする。あそこまで投げた後に言うのであれば、投げる前にもっと力を込めるべきなのではなかろうか。
 テニスでも雄叫びをあげる選手が多い。ボールを打つタイミングが相手に分かるので、それでいいのかな、とも思う訳だが、まあ、みんなやってるのでそうなってるだけではなかろうか。シャラポワは自然に声が出るので恥ずかしがっていたと言われるが、ほんとに自然に出るものなんでしょうか。
 実際野球で考えると、マー君も時々言っていたし、ひょっとするとメジャーの選手では普通のことなのかもしれない。要するに日本人はこういうところもおとなしいということかもしれず、スポーツの国際化の流れにおいて、日本人が変わってきた、ということも言えるのかもしれない。祭りも掛け声はつきものだから、そもそも日本人にできないことでは無かろう。そうすると、日本のスポーツは、もっとうるさくやっていい分野なのかもわからない。
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汚い人間の代表とは

2023-01-28 | 雑記

 飲んでいるときに野球や政治の話は禁物とされる。+宗教もかもしれない。実感としてそれはよく分かるわけで、言いたいことはあるが、相手次第では口をつぐむことになる。納得できない自分に苦しむが、しかしいつも喧嘩をしたいわけではない。平和の方が大切である。
 それというのも、よくある政治家はひどいという話である。国会議員なら、国民を馬鹿にしているし、地方議員なら何も考えていない。首長も自己中だし、地元にもろくな人間はいない。選挙で選ぶべき人なんて一人もいないが、どうして必要な人が立候補しないのだろう。
 確かに一部首肯できそうなところもあるのだけれど、それって本当にそうなのだろうか。ひどい人が混じっている可能性は高いと思うのだが、そんな人ばっかりなんだっけ。でもまあ誰彼は凄くいいよって話は、シラケるような気もしないではない。いい人いっぱい知ってるけど、そういうと決まってそいつもひどい、と返されるというか、また、面倒なんである。人の悪口は最高の酒の肴なのであって、ある程度は仕方がない。だけどなんだかな、と思う訳だな、これが。
 しかしながら、普通の人たちというか、大衆というか、政治家でない日本人と、政治家である日本人に、それほどの犯罪などに手を染める資質に違いがあるのだろうか。特に金にまつわる不誠実さというのに、明確な違いがあるのか。政治家の方が金の誘惑に弱いとする根拠はあるのか。
 実際にそういう事件はごまんとあるじゃないか、と言われるかもしれないが、それはニュースとして取り上げることにおいて、政治家がそうすると面白いから多く感じるのではないだろうか。だいたいニュースの基本というのは、面白いからであるし、珍しいからである。交通事故は日常茶飯事だが、大きく取り上げられるのは目を引く悲惨さがあるものだ。子供がたくさん犠牲になるとか。現実に一番多く犠牲になっている高齢者のものは、ごくたまにしか話題にならない。アクセルとブレーキを踏み間違えたとか逆走したとかいうような、一般の人にも恐怖を呼び起こす題材なら別だろうが。
 何を言いたいかというと、ちょっとした金にまつわる犯罪は、圧倒的に一般の人たちの引き起こしたものが多いに違いない、と感じるからだ。銀行などの金融機関でのトラブルなんてものは、おそらくごまんとある。ほとんどは示談で、家族などが保証などして表に出ないだけだろう。僕の少ない体験を通してみても、金銭トラブルと実際には犯罪としても立証できただろう盗難や不正などは、これまでに数多く見ている。ほとんどは警察に届ける以前に話し合いの末、いわゆる内部の問題として済ませているだけである。実際に犯罪として表に出た例だって知ってもいる。ひどいのは知った人が強盗したというのだってある。しかしながらそういうものは、もちろん大きな報道に乗らないし、別段ひた隠しているわけでもないが、狭い社会のゴシップとして巷間に流れることもあるが、ニュースとして嗅ぎつけられることなんてない。ありふれているし、面白くもないからであろう。
 一方政治家であればどうだろう。ちょっとした行き違いであっても周りの目が厳しく光っているし、うわさが流れると嗅ぎまわる人も出てくるだろう。そうして表に出るようなことになると、大して大物でなくともそれなりのニュースに取り上げられるだろう。結果的に起訴まで至らない場合でも、いわば公人の不正を断罪される場合もあるようだ。そうしてぬくぬくと生きていると言われる。誤解だったと言えば見苦しいと言われるのがオチだろう。
 別段政治家を擁護する義理なんて無いが、政治家だから汚いなんていうのは単なる偏見に過ぎない(一般の人に比べるとむしろクリーンだし)。全体を見回せば完全にクリーンなんてありえないだけのことで、むしろ少ない難しい環境下でありながら不正に手を染める愚かな人間が居るに過ぎない。そういう厳しさの中で身を律して頑張って欲しいものではあるが、実際にそうしている方が大多数であろう。人間の弱さの見本として、そのようなことが起こるのだということであれば、むしろそれが人間の証明のようなものではあるまいか。良くは無いが、完全クリーンな人間ばかりの政治というのは、かえってクレイジーだろう。まあ、何処までいっても悲しい人間の荒涼としたサガを感じはするわけだが……。
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まちから消える古き良き名店

2022-10-01 | 雑記

 ドラマの「おいハンサム!」を観ていたら、いわゆる地元の町中華の名店が閉店に至ることを嘆いている場面があった。閉店となると客が急に押し寄せて並んでいる。それまで十分に行きもしなかったくせに、いまさら遅いのではないかと文句を言っていた。
 そういう話はよく聞くし、よく分かる感覚ではある。どこにでもありそうでいて、実はこの店でしか出せない味であり、雰囲気を持っている。以前から通ってはいたが、おやじもおばちゃんも年である。後継者を育てようにも、客足が伸びているわけではないし、もっと立地のいいところに、チェーン店が立ち並ぶようになってしまった。若い客や、おそらくこれまで通っていた人たちも、いつの間にか足が遠のいてしまって、やむなく店じまいを決意したものである。そうして独特の町中華の名店が、また一つ消えていくのである。
 もちろん図式としてはそうなのである。基本的には間違っていない。僕の住んでいる田舎であっても、そうやって多くの店が消えていき、また残された店も消えつつある。そうしてどこにでもあるチェーン店は、それなりに繁盛しているように見える。たとえ繁盛していなくても、また別の似たようなチェーン店が、やってくるのである。
 問題は、そうした独自の文化を持っていた店が消えることで、また我々の食文化の彩が、どんどん失われていくような寂しさである。世の中はほとんど画一化された風景になりつつある。こういう店が残らないのは、こういう店がいいという美意識というか、こういうものがおいしいと知っている舌を持った人が少なくなっているからではないか。自分たち以外の人々は、そういう人ばかりになってしまって、本当に素晴らしいものを迫害し、消え去る運命にさせているのではないか。
 おそらくそう言いたい人が、一定以上居るような気がするのである。
 僕の十代の終わりごろに、やたらとグルメを気取る中年男性が、店で食事をしながら、この味は分かってない、などとこれ見よがしに他の客が聞こえるように語りだしたことがあった。その多くの原因になったのは、グルメ漫画の「美味しんぼ」だとは思われるのだが、この漫画は確かに面白いところは無いことも無いのだが、どうにも究極の味などといううさん臭い目標を持った人たちが繰り広げるグルメ・ウンチクをちりばめた食バトルものだったのだが、今になって思うのだが、内容もかなり怪しかった。いや、かなりの部分偏見的だった。つまるところそんな味なんてものは幻想なのだから漫画に描けるわけで、現実の味が苦労したから誰もが得られるものなんかではありえない。いい食材といい料理人がいればおいしいものは確かにできるが、それにはそれなりの対価が必要なだけのことであり、貴族趣味的に追求できる人なんてものは限られている。誰もが求められる美味というのはあるにはあるが、あくまで大衆的に値段のバランスがいいものであるということである。そういうものが、いわゆる並ばないで手に入る可能性の方が少ない訳で、誰もが行けて誰もが食べられる現場というのは、田舎にしか存在しえないだろう。しかしそこには顧客が限られており、時代の流れとともに、その時代性とともに、まるで生涯を終えるように消えていかざるを得ないのである。店というものはいわゆる生き物と同じなのであって、その店を構成している人々とともに、寿命をまっとうしているのかもしれないのである。
 ということで感傷的になる気持ちは分かるのだが、それはおそらく周りの人間の責任なのではない。ましてや自分だけが分かっていられる問題ではないので、勘違いなのだ。惜しいのであれば、買い取って自分でやればいいのである。
 しかしまあ、地元の名店というのは、やはり育ち育てる素養がその場所になければ生まれるものではないかもしれない。今は名店といえない店であっても、さまざまな変遷をへて、名店に生まれ変わるかもしれないではないか。その時代に同時に生きていけるのかどうか。それが自分の運命のようなものなのである。
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読書会は遠い

2022-08-30 | 雑記

 読書会の本を読んだことで、読書会というのは体験したことが無いし、なんとなくそういうものに興味がわいてきた。とりあえず地元での読書会なんてものがやってないかな、とつらつらネットで検索したのだが、これが無いのである。長崎市内で開催されたものはあるようなのだが、今のコロナ禍ということの所為なのか、休止している様子だ。それにその読書会のスタイルというのが、一冊の本を読んで語り合うものではないらしく、自分が読んだ本を持ち寄って、内容を紹介するなど(いわゆるプレゼンという感じかな)で語り合うスタイルのようだ。ネットで開催されているようなものは全国的にあるようだけど、そういうものも、やはり一冊の課題本で語り合うというスタイルが見つからない。ネットで語り合う難しさが語られているブログなんかもつらつら読んだりして、なるほどそういうものかもしれないとも思う。また出会い系のような、交際目的はお断りというのがあって、そういえばそういうことも視野に入れたやり方もあるのかもしれないな、と逆に考えてしまった。そういう語り合いにおいて、いいきっかけになる可能性も皆無では無かろう。ふつうに世代がバラバラなものだと勝手に思い込んでいたので、ちょっと意外な感じもする。本で読んだ読書会というのは、最初はだいぶ高齢者の多いものだったようだし、三十年の時を経て、メンバーが入れ替わったかもしれないが、若い女性ではない人たちなのではないかという感じがにおわされる。そういうものだろうと勝手に思い込んでしまったのかもしれない。
 学生時代には友人と読んだ本のことについてよく語り合っていた。当時は同じ本を読んでいるような人というのはそれなりにいたもので、共通の物語について、文体について、そうして登場人物の考え方について、しきりにいろいろ話を交わしたりした。これが結構盛り上がったりして楽しかったのだが、知らない本の話を聞くと、さっそくそれを読んでみたりして、再度その話を持ってきて盛り上がったりもした。若い頃には体力もあるというのはあるし、少し背伸びをして読むというのもあって、実はけっこう難解であったとしても、無理やりゴリゴリ読み進んで格闘するようなところがあった。それで本当はよく分からないところがあったとしても、かまわずに読めたりして、その時はよく分かっていなかったが、あとでふと思い出して、あれはこういうことじゃないか、などと考えるのだった。そういう本を読んでいる友人の存在というのが、また、次の読書意欲にもつながっていたのではないか。
 本当のことを言うと、今後も続けて読書会のようなものに参加したいわけではない。ちょっと面倒な気もするし、僕の読書傾向からして、文学作品ばかり読みたいわけではない。もっともそういう本選びの時点で気の合う人を選びあうようなことも必要なのかもしれないが、そういう人がこの地域で見つかるのかは心もとない。読む速度や開催される頻度に合わせた生活スタイルが整うとも考えづらい。読書会というのは、ある程度の人口のある都市部での娯楽スタイルなのかもしれない。
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