誰かがある人の文章をほめていて、その理由に「書いてあることに嘘が無いから」というのを見た。それを僕はメモしていた。詳しい状況はほとんど忘れてしまったが、どうしてこれに引っかかった自分がいるんだろう、と思う自分がいる。
嘘のない文章が好きだというのは、嘘のある文章が嫌いな可能性を示唆している。少なくとも彼は、書かれてある文章に、嘘か誠かの判断を下している。本当のことが書かれていれば好ましく、嘘であれば好きではないという、基準がそこに示されている。
文章を読んで、嘘か誠かわかる場合というのはどういう状況か。
その場に立ち会った第三者か、もともと知っている事実が書いてあったか。そういう検証的な何かの作業が、後から加えられたか。
おそらくなのだが、この場合の嘘が無いという感じ方には、そういうことを指して言っているようではない。自分自身が彼の言葉を信じられるという立場を、示している可能性の方が高い。そうして信じられるような、いわば実直な書き方そのものをほめているのかもしれない。
僕が引っ掛かった一番のことは、自分が信じたいとか、信じているような信念のようなものに対して、共感のある場合もあるんじゃないかと思えたからだ。たぶんそうなのだと思うが、真実を語る同志の考え方を、自分自身が称賛したい欲求があるのではないか。
そういう場合の真実というのは、実証的である必要は必ずしもないかもしれないが、しかしながら嘘のバイアスのかかった可能性の方が高くなるのではないか。すでに価値観として自分自身が信じているものの証言は、あえて検証の必要なく真実といってしまいやすくなるのではないか。
要するに、嘘が無い文章と紹介されている文章を目の前にすると、にわかには信じてはいけないような印象を持ってしまうと感じる。そこには少なくとも、検証もされていないが真実であると信じてほしいことか書かれているのではないか。第三者としては、それを生で受け取ることが危険なのではないか。
警告文でない文章が、かえって人を警戒させてしまう。本人の強い願望は、得てして人の目を曇らせてしまうこともあるのではなかろうか。