カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

純粋なバカ野郎人生   わが心の銀河鉄道・宮沢賢治物語

2012-07-31 | 映画

わが心の銀河鉄道・宮沢賢治物語/大森一樹監督

 題名どおり宮沢賢治の生涯を描いたもの。どの程度まで真実かは知らないけれど、ある程度は史実にのっとっているものだろう。国民的な人気作家である賢治が、このように変人だったというのは、一般的にも知られていることなのだろうか。ある意味で自らの作品を作る人物としてふさわしい人間とも言えるのだけれど、妙に青臭く左翼がかった情熱家というのが見てとれる。
 父親は長男を理解できない堅物のように描かれているのだけれど、実際の言動はあんがいまっとうで、一方的に家族を困らせたり困惑させたりするのは賢治の方だったのではないか。それでも賢治は父親に認められたいという欲求もあったようで、ある意味、偉大すぎる父に対して背伸びをしている一生という捉え方も出来るかもしれない。僕はジュニア・ブッシュ大統領を描いた「W」という映画を思い出したが、基本的には同じような感情だったのではあるまいか。
 最大の理解者だった妹への愛情や、学生時代の友人との絆も物語の大きな柱になっている。そういう理想主義へ傾倒する心の支えだったものが、しかし一方は死に、一方は決別してしまう。そのあたりの葛藤を経て尚、晩年の開き直りのような境地に達するというくだりが、逆に大きな力となったり、支持者を得たりということの根本になって行ったのかもしれない。実直だけれど行き過ぎて、むしろ詐欺師のように怪しい。そうして作家としてはほとんどは死後に認められることになった訳で、そういうところはゴッホ的である。しかしゴッホはどう考えても不幸な生涯だったように見えるが、賢治の場合は経済的には恵まれており、そうして実際に奔放な人生を謳歌しており、他人に迷惑をかけた分幸福だったのではあるまいか。人生はわがままな方が勝ちである。
 結局変人だった賢治が死後これだけ愛されているのも、やはりその残された作品が素晴らしいということに尽きるのではあるまいか。その人となりが見事に表れている生涯までも、ある意味で愛されるということでもあるのだろう。しかしながら、それは結局、本当には理解できないまでも無償の愛をささげた両親や弟や、その仲間たちの尽力あってのことだったようにも思える。天才は理解されないということでは無くて、理解されるのに世間的な時間のかかるものであるという証明かもしれない。
 時代に合う人生を選ぶのか、それとも後世に残る人生を歩むのか。もちろんそのような選択を現世で出来る人は限られている訳だが…。
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自分の縄張りだったところ

2012-07-30 | 散歩

 自宅から15分ほど登ったところに清正公さま(子供の頃にはセイショコサマと発音してた)と呼んでいる神社があって、その脇の森の中に行きつけのクヌギの木があった。夏休みになると、目覚めてまずそこまで登って行くのが日課になっていた。その他にもポイントは考えてみると十数か所はあったようで、坊主の日はほぼ無かったように思う。数人のライバルがいるらしいことは知っていたが、取り合いになってもおこぼれくらいは獲得できるくらい供給サイドにも余裕があったのだろう。
 樹液を吸っているものをそのまま捕まえるというパターンが基本だけど、いなければ木を蹴って枝から落ちる音がする方向を探す。ほとんどはカナブンが大量に飛び立つか、時にはスズメバチなどが襲ってくる場合もあるので注意が必要だった。また木の皮の間にヒラタなどがひそんでいる場合があって、ナイフなどの道具も必需品だった。耳を澄ませてカサカサする葉音を丹念に見分けることも重要で、木に人が近づく前に地面に落ちてしまう警戒心の高い奴も見落とさないことも大切だった。音が無くてもある程度はまわりの地面をなめるように観察したり、少し掘ってみたりもしていたようだ。コクワやメスは問題外だったので、見つけても持ち帰らない。水牛と呼んでいるもの(いわゆる普通のノコギリ)やミヤマなどはかっこいいのでとりあえずは全部持って帰る。もちろんヒラタも大きいものなら珍しいので自慢ように持ち帰る。しかしながらこれはコレクションが増え過ぎても飼いきれないので、交換用とかあえて太っ腹に友人の分ける用とか、そういう感じでためていたように思う。カブトムシは基本的に贈答用で、自分で飼うのを趣味としていなかった。最初の頃はカブトムシでも遊んでいたように思うけど、だんだん飽きてしまったのだろう。それになんと言ってもクワガタの造形は本当にカッコよくて、いくら眺めても飽きなかった。威嚇してノコギリを高く振り上げるしぐさも可愛くてカッコいい。ワザと尻を弾いて怒らせて、力くべしたりして飽きずに遊んでいたものである。
 子供が小さい時には喜ぶかもしれないと思ってまた近所をうろうろしたのだが、子供の頃のように獲れることは無かった。数が減ったのもあるのかもしれないが、若いお父さんや自衛隊さんなどが、夜や早朝に取ってしまうものらしい。
 ある時珍しく職場近くで数匹ゲットしたので、小さな箱に詰めておみやげにすることにした。帰りがけに少し寄るところがあって車に置いていたのが悪かったらしく、戻ってきたらぜんぶコロリと死んでしまっていた。パチンコして車の中の子供が死ぬはずである。可愛そうなことをしてしまったという罪悪感で、それからは一切虫取りはしなくなってしまった。
 それにしても朝夕になると子供そっちのけで山々をうろうろしているのは若いお父さんらしい人たちばかりで、子供が虫籠下げて歩いている姿は見なくなってしまった。僕のライフ・スタイルに現れないだけかもしれないが、夏なのに寂しい感じがするものである。
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うどんの恨みは継続している

2012-07-28 | 

 高松出張中は頭の中で「うどん」のことがずっと気になっていたのだが、何しろ連れがあって行動が自由にならない。どういう訳か連れの人々はうどんに関心のない人ばかりのようで、三日間という機会を得ながら、結局ホテルの朝食のビュッフェに、わんこそばのようにして出されたものを食すに終わってしまった。なんとも残念だったのだけど、終いには陳健一の坦々麺を食べて帰る始末で、なんだかなあというオマケつきだった。まあ、辛くて旨くはあったのだけれど…。
 ご存知のように香川はうどん県というのを名乗っていて、観光のためだとはいえ、それほど強い執着をうどんに持っているということらしい。長崎だとカステラ県でもおかしいし、ちゃんぽん県でもおかしくないが、やはり行き過ぎという気がする。トルコライス県とかは何となくマニアックだし、しっぽく県というのもやはり局部すぎる。香川が如何に思いきったことをしているのかというのは、考えてみるとそういう比較をすると明らかにも思える。ラーメン屋さんだってそれなりにあったようだし、皆が本当に納得しているものかは何となく疑問には感じるが、うどんブームで調子に乗る前から、やはりそれなりに凄い自負があったことは確かだろう。
 そういう訳で僕の心は、自然にうどんに心を奪われていたのだけれど、やはり一緒にいるご年配の方にとっては、うどんなんてどうでもいいことなのかもしれなかった。日に三度飯は食うにせよ、昼は弁当なんかだったし、夜は飲みにいかなくてはならない。〆に再度食事をとろうなんて人は、年をとると居なくなる。最初からハードルが高い願いだったということなのだろう。
 今度いつ香川県に行けるものかはよく分からないが、このような結果はむしろ、うどんへの更なる渇望につながることになるような予感がする。実を言うと既に帰ってきてそれなりに時間が経過しているのに、うどんというのが気にかかっているのがその証拠である。幸い最近のブームもあって、讃岐うどん風のものはどこでも食べることが出来るようになっている。そうではあるのだけど、それで妥協してやりすごすのかというハードルも同時にあがっている感じがして、自分自身でもなんだかめんどくさい。
 少なくとも心置きなく食うためには、もう少し体重を落としてからにしたいところだ。日本の国なら増税してから絞るということらしいけど、個人でそれをやれば破綻するのは目に見えている。いや、本当は国だって同じことかもしれないですけど。
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やはり正義の行動は危険である

2012-07-27 | net & 社会

 大津のいじめ自殺事件で、加害者とみられる少年の顔写真や住所や両親の情報などがネット上で流れて話題になった。そのような情報流出があって、祖父と間違われた人が被害届を出したという報道も流れた。どの程度が本当であるかなど僕には知りようが無いが、加害者とみられる少年の転校先まで明らかにされているなど、社会的な報復という様相を呈している。この状態で学校に行けるものなのかは分からないし、親の仕事にも影響があるのは必至だろう。社会的リンチをやっている訳で、もはや人間的な正義であるとか無いとかいう段階では無いだろう。いじめで自殺まで追い込まれたということに対して世論で怒りが爆発するという背景までは理解できるものの、このような報復をすることで加害者への制裁がなされることの是非についても、議論が沸騰しているということもあるようだ。
 しかしながらこのような反応というのが、まさに最初に少年が自殺まで追い込まれたといういじめの実態を、奇しくもあらわしているように思えてならない。加害者達が集団でいじめるのは、何らかのターゲットを特定するきっかけがあったためだし、一旦その特定が出来た後は、このように集団で叩いても何ら罪の意識すら無くいじめを敢行出来るようになって行ったものだろう。そうしてそういう実態がありながら、学校を含め、社会的にはいじめた人間を止めることができなかった。そういう構図はネットの制裁の構図とまったく同じものだといってよい。つまり正義感にかられて情報を流す人間は、いじめ加害者と同じ精神構造である可能性が高いのである。
 情報流出に加担した人達を制裁出来ないのであれば、世間にはびこっているだろういじめ事件の解決は、同じようにこれからも出来ないということになるのではあるまいか。
 ただしかし、このようなネット上の反応は、やはり加害者が公の場で特定されていないように見える事への義憤が背景にあるのは確かだ。警察が具体的に動いているというのは報道されるが、具体的にどのような処罰へ展開するのはまったく分からない。もちろんその捜査線上にいるらしい加害者というのは、地元では特定が可能であるのだろう。そうするとやはり今回は警察の取った行動こそがこのような事件の展開を許したということも言えて、大変に罪深いということとも言えそうである。また、やはり警察の捜査ということの難しさも同時に考えていかなくてはならない気がする。
 無名の人の凶暴性や恐ろしさは、このような事件を見るとまざまざと思い知らされることになった。これは報道などによる社会的制裁も同じことである訳で、ペンによる正義という考え方は、今一度考えてみる必要がありそうだ。そのような正義感というものが人間の行動の正当性を担保するというのは、根本的に危ういものを含んでいる。実は単に娯楽のためにやっていることに過ぎないのに、いつの間にか正義にすり替わっているものも相当あるのではないか。社会的な成熟でこのような問題が解決されることがあるのかも疑問だが、少なくとも我々の社会は、大変に未熟なものだということを露呈してしまっている気がして残念なのである。
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衝撃的というか、そんなもんですか、というか

2012-07-26 | 時事

 確かにイチローのヤンキース移籍のニュースは衝撃的だが、古巣となってしまったマリナーズ三連戦前にやるというところが、なかなか戦略的なビジネスだと思う。野球ってそういう興行なんだということなのだろう。結構以前から練られていた計画なんだろうね。個人的にはイチローには既に興味は無いんだけど、このようなドライだけど人を熱くさせる仕組みを考えている人たちがいることには、なかなか興味をそそられる訳だ。
 しかしながら僕が野球を見なくなってしまった大きな理由は、このような移籍を自由にすることが当たり前になったことと、ドラフト問題という気がする。
 先にドラフトの事を言うと、野球選手といえども所属先は就職先でもある訳だから、戦力の偏りがどうだということの理由で縛るというのが疑問だ。そんなことしなくても十分偏りがあるのが現実ではないか。
 さて移籍問題なのだが、ドラフトのときはそのような縛りがありながら、チーム(会社)に所属すると、さまざまな理由で戦力を交換することが可能になるというのが、なんだかよく分からんのである。いや、実際にはそれは仕方ないし合理的だと思うのだけど、何となく整合性が取れていないという感じなのだ。もちろんポジションやチーム事情で移籍するのはぜんぜんかまわない事だけど、そうであるなら、やはりドラフトは止めた方がいいよね。
 僕は以前には、何となく阪神には好感を持ってたんだけど、広島のいい選手を次々に獲得して戦力を充実させるのを見ていて、どんどん白けてしまったという覚えがある。確かに広島は一軍選手の総年棒が巨人軍の二軍のそれ以下であるだろうけど、やっぱりそれでも阪神所属のマイナー球団なのではないだろう。若手のいい選手がどんどん育って、今からという時に移籍するのだから、これから優勝するということがあれば、それは本当に奇蹟だろう。
 もちろん子供の頃の記憶も大きい。有藤、と言えばロッテだし、田代、といえば大洋だ。本来は星野、といえば中日だったのに、まあ監督なら仕方ないとは思うものの、なんだかそんな感じからおかしくなっていった気がするね。活躍できなかった選手なら仕方ないとは思うけど、そのチームの顔が移籍しちゃあいかんでしょう。そういうところは、やっぱり面白くなくなる最大の理由なんじゃなかろうか。
 興味が無くなったとはいえ、イチローといえば、やっぱりオリックスよりマリナーズだった訳で、メジャーはそんな世界だとはいえ、彼等はよくまあ我慢が出来るよね。まあ、遠い国の世界の話だし、白けるのは自分の性格というだけの問題なんでありましょう。
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経験を絶対視する未来は暗い   「地球のからくり」に挑む

2012-07-25 | 読書

「地球のからくり」に挑む/大河内直彦著(新潮新書)

 現在のエネルギー政策について語ろうとするとき、311の影響が大きすぎて、すぐに脱原発か否かというような声高なものになりがちである。それはそれで大変重要だとは思うものの、やはり戦争中の非国民吊るしあげのような感じで議論にすらなっていないという気がする。もしくは文化大革命の頃の空気もこんな感じだったのではあるまいか。
 問題は地球の歴史から遡る必要があるのかもしれない。そんな流暢な、と感じる向きには、この問題の根本を見失う人である。地球や宇宙の仕組みを知らずして、エネルギー問題の根本は理解しえないのである。ましてや人間が登場してからの問題は、その仕組みを利用して培養して拡大しているようなものである。近代はそれが行き過ぎていることも確かだけれど、基本的に原子力を含め地球の資源を利用していることに変わりはない。そういう中で日本という国があって、他国との関係性の中でどのような立ち位置を持つのか、ということを順に考えていかなくてはならない。自分の好ましいものや利益だけで何かを考えていくのには、あまりにも近視眼的過ぎるということになるのであろう。
 そのような道筋の基本的なことを頭にいれこんでおくことが、自分の立ち位置を明確にする唯一の方法だと思う。他人のモノサシで無く、自分自身の考えを進めるためにも、最低限の知識は必要だということだ。知らなかったり、間違っているまま、自分の考えを上乗せして議論を進めても、建設的な結果を得られる訳が無いのだ。本来はそういうものをリテラシーというべきなのだと思うが、しかしその前段階で拒絶してしまう人が如何に多いことか。残念ではあるが、それほどの単純化思想が現代化というものの正体である。世の中は誰かの陰謀や、一部の利益のみで成り立っているのではない。結局そういう仕組みを理解しないために、安易にそのような考えに飛びついてしまうだけの事である。
 それにしても、著者が告白している通り、このような問題を専門家が一般の人たちに語る言葉が本当に足りないのだと思う。もしくは理解しうる言葉に変換する術を怠っているということも言えるだろう。基本的には研究を進めていくことが自らの使命ではあるとは思うものの、一般の人たちは理解しえないものを、誤解し続けるより無いという不幸の連鎖が続いてしまっている。結局その不理解というものが、誤解を越えて不信という症状で拒絶するということを生んでしまっている。正しいものが混じっている情報も、不都合そうに見えるというだけで、頭から信用しないということをしてしまう。その上で、間違った情報であっても、好ましいものに見えるようであれば、平気で採用して流布してしまう。既に元になって議論する土台すら失ってしまっている状態で、議論を始めるずっと以前の段階の混沌としている中で、状況判断をせざるを得ないということも起こってしまっている。さすがに酷いものは軌道修正できるものもあるだろうが、既に手遅れになっているようなものも生まれているようだ。間違ったものを元に判断をするのだから、その結果が既に残念だというのは当然のことである。そのような選択を僕らは子孫に残すということをしている訳で、いくら賢い次世代の人間であっても、破壊された土台で未来を作って行くことは足枷を科されているようなものだろう。感情は厄介なものだけれど、本当にコントロールできないものなのだろうか。この本の〆の言葉を引用するならば、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ということに尽きる。
 残念ながら人々の感情は、オイルショックや震災という経験に学んできたと言わざるを得ない。そうして政策が決定されている現実を思うと、やはり現代人はこの本を読むべきだということになるのだと思うのである。既に巷間では評価もされているが、改めて広く読まれるべき本だろう。
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心の無い宇宙人が、心を獲得する物語    2999年異性への旅

2012-07-24 | 映画

2999年異性への旅/マイク・ニコルズ監督

 邦題を見て選んだ人は失望するだろうし、邦題を見て観ることを諦めた人は楽しむことすらできない。そういう意味では、ひたすら残念な佳作コメディ。だって普通はこんな題名の映画を選んで観るなんて考える方がどうかしてるよ。確かに下半身ネタだし、家族で観ると気まずくなる場面も多いのだけど、なかなかどうしてかなり面白いんだから見なきゃもったいないという気すらする。まあ、人は選ぶということは言えても。
 ただしかし、説明しても観る気にならない可能性はある。クローンで増殖し続けたために生殖能力が無くなり男しかいない星の宇宙人が、その未来をかけて地球に選ばれた一人を送り込み、地球人との子供をもうけようと奮闘する物語。なんだけど、まあ、その筋だけでもくだらないことは見てとれる。しかし、このくだらなさがあんがい深くて、女性を理解することの難しさや、人間社会そのもの問題なんかも考えさせられるということになって行く。もちろんくだらなさを保ちながらそのような展開になるところが偉い訳で、こいつら本当にバカかもしれないと思いながら感心してしまい、しまいにはなんだか感動すらしてしまう。つまり、地球人必見なのではないかと思う訳だ。
 人間界に限ってのことだけれど、人間どうしの分かりあえなさというのはあんがい深くて、それぞれに勘違いしながら傷つけあったり、知らず知らずにダメージを受けたりしている訳だ。相手あってのこととはいえ、自分自身では相手のことすらうまく理解することも難しい。自分自身を鏡みていろいろ試みる人もいるのだろうけど、やはり何となくつらくなったりして長くはその努力も続けられない。終いには諦めて、その関係性の修復すら怠るようになってしまう。非常に不幸なことだけれど、実にありふれたことになってしまっている。
 たとえそうではあっても、ひょっとするとうまくいく秘訣はあるのではないか。そういうことに悩んでいる人は、ひょっとするとこの映画を見て、笑いながらその術を体得できるかもしれない。いや、適当に笑って忘れてしまってもぜんぜんかまわないのだけれど…。
 とにかく、バカ映画には違いないにせよ、面白いだけじゃなくていい映画だという感じになるところがなかなかなのである。邦題が悪くて損している見本のような佳作なのではないだろうか。
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求む、コーディネーター

2012-07-23 | 雑記

 ご近所の人と話をしていて、最近は東北からの移住者がそれなりに増えているということのようだった。中にはホットスポットというか、関東の別の県の人もいるらしいが、もうすぐ夏休みということもあって、夏場だけでもということで住む場所を探している若い夫婦がたくさんいるのだとか。
 しかしながら、空き家が無いということではないという。それこそ貸しても売ってもいいというのはゴマンとあるらしい。じゃあ値段が合わないのかというと、場合によってはタダでもいいというところだってあるのだとか。しかし最終的に貸せない事情というか、躊躇している家が多いのだそうだ。
 実際に人が住んでいるわけではないのだが、捨てられない荷物が残っているためなのだという。一部屋に荷物をまとめて封鎖してから利用してもらうようにするということも行われているらしいが、なかなかそうもいかないものがあったりもするという。箪笥や鏡台なんかはそのまま使っていいだろうけど、老人ホームに入っているおばあちゃんの着物だとか、置物だとかもろもろの捨てられないものが溜まっていて、整理できないというのが現状らしい。利用したいという人たちも比較的若い方が多くて、そして小さい子供連れという場合も多い。知らず知らずしまい込んでいるものを引きだしたり、うっかり壊したりというトラブルも発生しているのだとか。そういう話も漏れ伝わって、さらに躊躇して貸せないという人も多いのだという。悪循環である。
 しかしながらそういう家は、将来的には空き家となったり、廃墟となったりする可能性もある。僕は散歩も趣味だから日々感じていることだが、廃墟化した空き家というのはそれなりに目にする光景である。僕はそういう場所は個人的にはなんとなく物悲しく好きではあるが、将来的には社会問題化しかねない火種だとは感じている。廃墟となっても持ち主となっている人に関心が無かったり地理的に遠くてどうにもならない事情があったりしても、他人としてはどうしようもない。そうして放置されて雑草が茂り、あやしく朽ちていく。最終的に行政がどうにかするのか知らないけど、それなりに本当に予備軍があるとすると、社会問題化してからでは財政負担も馬鹿にならないのではあるまいか。
 せっかく需要がありそうな今の時期だからこそ、このあたりをコーディネートする人がいると、お互い助かるいい話じゃないかな、と思った次第であります。
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お勧め笑い本6(奇人変人編)

2012-07-21 | なんでもランキング
お勧め笑い本6(奇人変人編)

○箆棒な人々/武熊健太郎著(河出文庫)
 偉大な奇人たちのインタビュー、ドキュメンタリー。これが面白いのなんの。面白いんだけれど、他の歴史上の偉人たちよりも、むしろもっと偉いのではないかという気分にさせられるのだからまた面白い。憧れるところもあるけれど、とても真似なんてできない。いや、ひょっとすると真似すらしたくないかもしれないが、猛烈にリスペクトしてしまう。著者が興味本位に茶化していない、真の愛情をもって接することによって、人というのはこれほどまでに自分をさらけ出してくれるということなのだろう。凄い本であります。

○アフリカにょろり旅/青山潤著(講談社)
 真面目な研究のための標本集めのための旅である。使命を受けて未採集のウナギを探し求めて、まさに命がけの様相を呈していく。しかしながらやっぱりなんだか嫌なんだということも正直に見てとれて、悲惨だけど面白いのである。だんだんと身も心も荒んで、本当に精神的に苦しくなっていくさまも含めて、失礼だけれど笑うしかないのである。真面目だけど、人間って根本的に馬鹿なんだという感じもして、楽しいです。

○活字狂想曲/倉坂鬼一郎著(時事通信社)
 こんな人を採用してしまうと、職場の空気は最悪になるに違いない。そういう意味では著者は加害者でもあるのだが、しかしながら会社というのは実際に人間的に不条理な社会だということも言えて、いちいち、本当に大人のさまざまな嫌な理由がはびこっていて、著者はそれに抵抗し、逃げたり戦ったりしているということなのかもしれない。お互いに不幸なことには違いないが、それが実にブラックな笑いに仕上がっている。いくら生活のためとはいえ、折り合いがつけられないのであればやってはいけない。時に若者の離職問題なんかをネガティブに取り上げられることがあるのだが、このような環境に感じている人間が長く勤められる訳が無いのである。面白いが、同時に後味悪く考えさせられる素直な物語なのかもしれない。
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ある意味で似たもの同士だったのかも   ハロルドとモード

2012-07-20 | 映画

ハロルドとモード/ハル・アシュビー監督

 何度となく自殺を演じる屈折した青年と、毎日新しいことをするという奇怪なおばあさんの恋愛劇。おおよそ釣り合いが取れていないが、青年のひねくれた心は自立心の欠如のような感じなのだが、そのような甘えた人間が、世の中をかきまわすだけかき回す無茶苦茶なおばあちゃんに心を奪われて生きる喜びを見出していくという、いわゆる成長物語とも言える。変な映画であることはそうなのだけれど、西洋人の考える好ましさだとか若さだとかという概念が、見た目で無く精神性だということがよくわかる思想映画ということもできるだろう。まあその割には見た目こそを重視しようとする現代人のモデルもこの考えを原型にしている訳で、僕にとってこの考えが好ましいものかというのは保留が必要なのだが…。
 奇行に次ぐ奇行の連続がじわじわと笑いに変わって行くのだけれど、スカッと痛快かというとそういう感じではなく、やはりまあ、ブラックな笑いということなのであろう。この辺のブラック・ジョークは、ある程度のセンスを求められているようで、ノレ無いとつまらないかもしれない。そういう意味では風呂上がりに途中から観てしまった長男の方がびっくりしてしまったようで、この人たちはいったいなんだと思ったらしい。最初から観ないと、了解するのが困難な映画なのかもしれない。
 最近ではネットでも、死んだふりをする奥さんが話題になっていたけれど、気を引く手法として自殺を演じるというのは、あんがい昔からあるものなのだろうか。繰り返されるとウンザリするというのはよくわかることで、ドライにやり過ごす母親の姿は最初は異常に見えていたが、だんだん同情したくなってくるという感じもした。息子のことはこれっぽっちも理解できていないのは確かだが、多かれ少なかれ、親なんてそんなものだろう。いい年してるんだから、巣立つ方が自然である。それを妨げているのは富なのかどうか。そういう道楽が過ぎると、だんだん観客の心も離れてしまいかねないとも感じた。
 結局のところ自分の自由のために多くの人の迷惑を犠牲にしなければならないということが、その素晴らしい理念に対して今一つなじめないということなのかもしれない。別に特段僕は道徳を重んじる人間では無いのだけれど、モードの若々しい感性が、人間が生きる上でのしあわせの元なのであれば、どこかやはり悲しいという気もする。もちろん映画的には楽しいのだけれど、どこかで疲れることはないのかな、などと考えてしまった。
 楽しく遊ぶのにも体力が必要だ。奇行をやるには健康に留意しなくてはならないのかも分からない。
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お勧め笑い本5(抱腹絶倒編)

2012-07-19 | なんでもランキング

 今回は今までの笑いの中では一番強烈な部類を厳選。とにかくインパクトが強くて、さらにツボにハマると息をするのが苦しくなるくらい笑い転げてしまう。ついつい人に紹介したくなってウズウズしてしまうに違いない。

○言いまつがい/糸井重里編集(ほぼ日ブックス)
 ネタもあるんだろうが、こんなことが日常に起こるのでうかうかしてられないと思わせられる。それにしても身近な人がいちばんおもしろいのかもしれない。姉妹編というか続編などもあるのでしばらく楽しめます。

 以下二冊はこの企画もとの雑誌の中で池谷さんが紹介してくれたものをつい買っちゃったもの。実に抱腹絶倒。笑いすぎて苦しくなっちゃったよ。
○ジワジワくる○○/片岡K(アスペクト)
 これは妙な写真の紹介。コメントもさすが。文字通りジワジワ味わうものもあるのだけれど、むしろかなり強烈といえる。瞬間というのがいかに非現実的な事実を捉えるのかという不思議な世界でもあると思う。

○爆笑テストの珍回答500連発!(鉄人社)
 これもかなり強烈。本当に唸りながら真剣に書いたであろうものがあるということも可笑しいし、また諦めてふざけて書いたものだって、テストだからなお切ない。だいたいテスト問題というのは、本当に正解を書かせたいのか、間違いを書かせたいのかよく分からないものがあるのも事実だ。怒りながら笑っちゃう先生がお気の毒というかうらやましいというか。
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いじめの圧倒的解決策   ぼくのエリ 200歳の少女

2012-07-18 | 映画

ぼくのエリ 200歳の少女/トーマス・アルフレッドソン監督

 奇しくも最近はまたいじめ問題が話題になっている時期に、いじめ問題映画とも言える映画を観賞することになった。厳密にはバンパイヤおとぎ話なのだけれど、パンパイヤがどのようにして生き延びていくのかということが分かる仕組みになっている。人間の都合からすると恐ろしい存在なのだけど、あんがいか弱く地味に生きざるを得ない状況にあることが分かる。また食事の欲求に抗えないところなどもあって、恐ろしいというより、やはり哀れにも感じられる。考えようによっては簡単に増殖出来るものの、それをあえてあまりやらないということも言えるようで、そのようなバンパイヤの生態を考えるにはいい映画なのかもしれない。
 結果的にこれは恋愛なのだろうか、という疑問は残ったものの、少年はすっかり参ってしまったことは明らかだろう。少年には事情があるが、必ずしも一方的によわよわしい訳ではない。むしろ日本社会のいじめよりも重層的で具体性があり、ジャイアン型というか、マフィア型の破滅的な暴力を内包している。このようないじめが最後まで上手くいったとしても、いずれにしても破滅するより無い訳で、むしろ結末は夢のようなやさしいもののようにさえ感じられる。それくらい今までの苦痛のカタルシスとして、ある程度の残忍こそが必要だったからである。原作もあるらしい作品だが、いじめに対する解決策を提示するというよりも、いじめに対する怒りの答えは本来こういうものでありたいというファンタジーなのだと思う。
 むしろ少女の保護者的な男性の姿こそが、後で考えると本当の純愛ということが言えて、少女と性的な関係にあるのかどうかは分からないのだけれど、やはり命をかけるだけの強烈な情動を持っていたらしいことは想像できるのである。少女というのは200歳なのかどうかもよく分からないのだが、実際には子供では無いということで、やはり年少の恋愛劇としては無理があるという感じがする。偶然性が織りなされているようでいて、どこか仕組まれたところを勘ぐってみたくなったりして、そうしてみると、そのための人の死はなんだったのかとさらに考えさせられてしまう。いじめ問題が背景になければ、どうもすっきりしない映画であるということなのであろう。
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お勧め笑い本4

2012-07-17 | なんでもランキング
お勧め笑い本4

そう言えば小説でもいけるな、と思い追記。

○吉里吉里人/井上ひさし著(新潮文庫)
 ユーモアたっぷりに語られる内容は教養小説そのものなのだが、やはりなんともヘンテコで、そうしてどうしてなかなか壮大だったりする。やっていることは日本からの分離独立を企てるいわばクーデターという物騒なモノなのだけれど、数々の難題を文字通り頓知で乗りきろうとするところがサスペンス調でもあり一気に読めてしまう。また、考えてみると国家や農政など現在にも続いているさまざまな問題提起にもなっていて、笑いながら何となく深く怒りを込めて考えさせられてしまうのである。東北って強いんだな、という印象も残っていて、現在の視線から見ても示唆的な内容なのではなかろうか。

○瘋癲老人日記/谷崎潤一郎著(新潮文庫他)
 フェティシズムを真面目に書いているのかもしれないけれど、それがなんとも言えないユーモアに見えるというか、はっきりいってつい笑ってしまう。みんな悪くてみんないい、という感じもして、やっぱり誰もがしあわせなのである。僕がもう少し老人になったら、さらに奥深く味わい深く思うかもしれないが、そこまで人間が磨かれるかどうかは心もとない。別に憧れている訳ではないが、このような生き方が出来るだけで人間が幸福になれるかもしれないというアンチテーゼでもあるような気がして、なかなか恐ろしくもなるのである。

○クリスマスのフロスト/R.Dウィングフィールド著(創元推理文庫)
 なんだか無茶苦茶な構成に見えて収斂していくプロットは見事。だらしないのに何故か読む者にとっては心地よい人物であるのは、やはりどこか戦う人だからではないか。組織というのはさまざまな不条理を抱えながら個人を縛りあげていく。フロストはそういう抵抗勢力と戦う戦士なのだ。もちろんそれは自分に照らし合わせて応援している訳で、結果的にフロストが勝つのかどうかは秘密だけれど、どこかそういうところが痛快な感じがしてしまうのであろう。しかしながら周りにこんな人が実際に存在すると、やはり迷惑だと思うくらい僕らは狭量なのだということも、忘れてはならないのだとは思う。

もひとつおまけ。
○空中ブランコ/奥田英朗著(文春文庫)
 こんな医者が居るはず無いと思いながら、いや、いたら面白いのにな、という願望に変わって行くに違いない。少なくとも僕は、面白半分かもしれないが、こういう医者に治療を受けてもいいかもしれないとは思う。採血が苦手なので、やっぱり無理かな。
 連作読みきりになっており、その一つ一つの完成度も高い。笑いながら読んで精神浄化もされだろうから、二度お得という感じもする。軽く読んでも深く読んでも可笑しいものは可笑しくて、読み終るのが悲しい作品なのである。

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印が付けられている事

2012-07-16 | ことば

 アイルランド系の名前には頭にマック(MacとかMc)と付くと、「○○の子」という意味があるらしい。ドナルドの子はマクドナルド、アーサーの子はマッカーサーという具合に。家系などを名前であらわすという考えともつながるものだろう。
 また、同じくあちらでは素直にジュニアと付けたりしているが、日本人の感覚からするとかえってめんどくさい感じがしないではない。ジュニアで無いじいさんや父さんが死ぬと、ジュニアを外したりする。そういうのは家族内というか、親戚どうして勝手にやってくれればいいと思うが、ひょっとするとその偉大なじいさんなりの力にあやかるというか、そういう感覚があるのかもしれない。
 実を言うと僕の名前にもじいさんの名の一部である「明」という字が付いている。これは亡くなった祖父さんが、孫に自分の名前を付けたがったためらしい。そうであるから僕の兄にも「明」は付いている。これはファミリーである証だが、しかし父や叔父さんにも名前を付けたのだから欲張りという気がしないではない。ちなみに僕の弟からはさすがに父が名前を付けたがったらしく、祖父さんの所縁の文字は見てとれない。なんだか名前自体が権力闘争の一種のような気がしないではない。
 輪廻転生はアジア的な概念だという感覚があるが、このような名付けの習慣には、子孫にわたって自分の血が生き残るというような、いわば生まれ変わりの思想がありそうな気がする。それは伝統とも関係があるのだろうけれど、しかし同時に個人という個体は、やはり死んでいなくなるためにそのような痕跡や印を残していくということでもあるのだろう。死んだあとにそんなことをしてもたぶん本人には何の関係もないのだから、ある意味では無駄なことであるにせよ、そのような考え方は伝えられて、残るということになるのだろう。いわば連続する物語のようなもので、人間の持っている考え方の癖のようなものなのだろう。
 その国の文化には大きな違いもあるものだけれど、しかし突き詰めると似ているところもある。そういうめんどくささが人間らしさということでもあって、忘れてしまった記憶の中にも、今考えている原型のようなものが潜んでいるということもありそうである。気にしなければ無いということで素通りしているだけのことで、僕らはその影響から逃れることはできないのだと思うのである。
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ブック・ダーツ

2012-07-14 | 雑記

 文房具好きだというI橋さんが自身のブログで紹介していて、気になったので購入。
 基本的に本のしおりはなんだっていいので、目の前にあるものであれば何でも挟む。しおりの入っている本ならそのまま使うことが多いが、なければ本の帯だとか、同じくはさんである広告なんかもそのまま使う。栞紐は何故だかあんまり使わない。そう言えば何故なんだろう。
 他にも鉛筆やボールペン、葉書や写真、名刺なんかも挟んだりする。持ち歩くので落とすことも多いので、やはり薄い方がいいということはある。何にもなければページの端を折る。もっともこれは気になったら折る場合もあるから、本当にそこまでという目印か分からなくなる危険はあるようだ。
 そういう訳でなんでもいいのだが、時々行数が分からなくなるということもよく起こることだ。以前のテレビドラマなどでは、前回までのあらすじがあって本チャンが始まるというパターンが多かったが、まあそういう感じで多少の重複読みは気にせずに読んでいるが(それにすぐに忘れるのでかえって新鮮でいい場合もある)、やはり多少はまどろっこしい思いをすることはあるようだ。ボールペンで印をつけることもあるけど、普段から書き込んだり線をひいたりはするので、ページによっては一目瞭然という訳ではない。
 ということでブック・ダーツは、行を指し示すのには優れモノだな、と思った次第。しかしながら読んでいるときにどこに置いておくか、または持っておくか、というのは小さすぎて悩ましくはある。前のところに挟んだままにしておいて、読み進んだら挟み直すということをしているが、その作業がまどろっこしいと感じるほどには僕はせっかちなようだ。今は本に挟むというより、ほとんど会議資料のポストイット代わりに、あちこち挟んで遊んだりしている。何となく可愛らしくて憎めないヤツという小道具で気にいっております。
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