カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ある種の理想主義の恐ろしさ   KCIA 南山の部長たち

2022-11-30 | 映画

KCIA 南山の部長たち/ウ・ミンホ監督

 1979年の韓国。腐敗した政治を告発した政府の要員が、ヨーロッパに逃れていた。一方で国内でも、政府に不満を持つ大衆デモが起こっている。大統領はその権力の座を守るために粛正をかけていく中、その部下である部長と呼ばれる次の権力者の軋轢も、激しさを増していく。もともとの理想主義の中、クーデターにより政権を奪取した過去の経歴がある。そうした同志でもあり、大統領を守り抜く覚悟のあったキム諜報部部長だったが、過去の理想とかけ離れていくように見える大統領の姿に、苦悩を募らせていくのだったが……。
 史実をもとにしているので、結果は分かってはいるものの、権力闘争と、その政治情勢の中にある緊張感が、ひしひしと伝わってくる韓国映画らしい演出である。彼らはつまるところ暴力に長けている。爆発するまでの耐える時間を、じっくりと味わう映画ともいえるだろう。最初に静かに演じている俳優たちも、次の瞬間には激しいアクトになっていく。もうほんとに恐ろしいのである。
 その立場によっては、立場なりの正義のようなものがあるわけだが、見ている分には、そのどちらも悪人にしか見えない。そういう意味ではやくざの抗争のようなものだが、困ったことにこれは政治である。ちゃんと描かれてはいないが、その当時の韓国は、凄まじい経済発展を遂げ、最貧国から経済優等生へ踊り出した頃のことである。朴大統領は、そういう意味では評価の高かった部類だが、長期政権で事実上の独裁を批判されてもいた。このような内部軋轢のあったことは、事実としてあったのだろう。その後娘も大統領になるのだが、このような事件の後にも、一定の国民の支持があったことと無関係では無いだろう。
 日本では表立っての諜報機関は無いのだが、果たして本当にそうなのだろうか。権力に維持のためだけに諜報活動をしているものでは無かろうが、諸外国の考えというものも含め、諜報活動なしにその国の行方を決めるのは難しいことのように思える。つまりどの国であっても、多かれ少なかれ、諜報活動は行われていることだろう。もっともこの映画のように、暗殺までやっているのかどうかまでは、分かりえないのだが。まあ、やってはいるかもしれないけれど。
 ともあれ腐敗にしろ理想主義にしろ、人間というものは恐ろしいな、という史実でありました。
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僕は英語ができない

2022-11-29 | ことば

 先日僕の部屋に遊びに来ていたお客さんと、英語の話になった。僕の部屋の本棚に、英語学習の本があるのに目が留まったためだと思う。それで関連の本を棚からいくつか取り上げると、結構出てくる。話を交わしながら取り出すだけで15冊以上。隠れているものを後で数えると40冊以上はあると思う(真剣にはもう探さない)。辞書も英語関係で10冊近くはあるから、まるで英語に興味ある人みたいだ。自宅にもあるんで、100冊と言わない数の英語学習の本を持っていると思う。全部を読んだわけではないと思うし、何十年という歳月の間に買ったというだけの事だから、それくらいあるのは当然だとは思うけれど、学生時代に勉強した以外であっても、毎年英語に関する興味が途絶えず、少なからず学習し続けているということは言えるかもしれない。英語のことを、ある意味で多方面からそれなりに勉強し、知っていることも多くなったとは思うが、英語は得意ではないし、まったくと言っていいほど話せないし読めない。普段英語の歌ばかり聞いているけれど、意味なんてほとんど知らない。というか理解できない。
 日本人が英語ができないという話には、決着がついている。僕はそういう話をしたいわけではない。はっきり言って日本で生活している圧倒的多数の日本人にとって、英語は必要なものではない。不必要なものが、上達するはずがない。それが結論であることは明明白白だ。そうであるにもかかわらず、日本人の英語学習のことで論争が絶えないのは、日本人であるすべての人が、英語学習を強いられているにもかかわらず、英語ができないからであろう。当然のことをいろいろ言っても無駄であることに変わりがないのに……。
 もちろん僕だって、英語が話せたり、理解できたらいいな、とは思う。そう思って英語を勉強したりもしていたのかもしれない。しかしながら、英語を流暢に操るために必要な労力は、そうとう大変なものであるということも、長年の間学習したからこそ身をもって理解できることだ。それくらいの意欲をもって英語を勉強する強いこころというものが、僕には不足していることも分かった。将来にそれが変化する可能性は無いではないが、そうまでして英語を習得する理由が、今のところ僕には無い。英語ができないことは平気なことではないけれど、出来ない現実は当たり前だから受け入れるよりないだけのことなのだ。
 しかし、それくらい難しく嫌なところのある英語だけれど、ちょっとくらい学ぶには、面白いところが多い。いちいち、おおっと驚いたり、なるほどと感心したりする。ちょっと歯が立たない抽象的なところは残っているけれど、多少でもわかるところがあるのは楽しいものである。だからまた英語に関する本を買って、パラパラめくって楽しんでいる。他の言語を学ぶことは、英語に限らず、苦労多くて楽しいことだが、何しろ日本においては、他の言語を圧倒して多くの英語に関する文献にあふれている。これらの日本語で書かれている英語のことを読んでいるのが、何より楽しいということかもしれない。つまり英語を習得する方法としては、このような勉強法ではあまり役には立たないということなのだろう。もちろんこれは逆説的に必要のないものだから、これだけ面白いのかもしれない。それでも英語にだけ関わっているわけにもいかないので、これくらいの距離間でちょうどいいのかもしれない。
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英語にまつわる難問の数々   英語のアポリア

2022-11-28 | 読書

英語のアポリア/トム・ガリー著(研究者)

 副題「ネイティブが直面した言葉の難問」。ネイティブな発音ができるアメリカ人が、長年日本にいて英語を教えたり、また日本語を勉強した経験などから、主に日本における英語を考えてまとめた本。前にもそのような本は書いたことがあるようだが、必ずしもその続編ということではなさそうだ。
 英語というのは、日本人にとっては大変に習得が難しい言語である。もっとも日本人は他の言語も苦手としている可能性があるが、戦後しばらくしたのちほぼ全員の日本人が強制的に英語を学習した経験から、これだけの労力と時間を要しながら世界的にもダントツと言っていいほど英語を苦手としている国民も珍しいという感覚がある。それらのことは、改めて深く考えてみると、実に当たり前の結果のようなのだが、日本人には容易にその考えに結び付く人が少ない。たまに英語をできる人もいないわけではないし、そこそこならできる人もいないわけではないことも考えると、ほとんどぜんぜんと言っていいほどできない自分のことを考えると、本当に情けなくなってくるものである。そうであるから僕は時々こういう本を読んでしまうのだろうけど、この本を手に取ってみて、改めて自分たちの無能さの理由を再確認することができたし、日本人がどのように英語に向き合うべきだったのかも、かなりの理解を深めることができた。また、英語そのものの将来についても、いわば国際語としてほぼ定着した言語であるにもかかわらず、ネイティブの英語が国際語になっているわけではないこともよく分かった。いわゆる標準の英語というものは限りなくむつかしい問題になっていて、ネイティブでないどうしの英語のコミュニケーションもあり得るし、ネイティブの英語が英語話者に通じないことが普通になることもあるのかもしれない。さらにコンピュータが翻訳する能力も格段に上がっていて、教育としての英語の危機も訪れている。
 それぞれのトピックはたいへんに興味深く面白いのだが、それらは独立しての問題なのではなく、この章立ててあるお話の流れというのは繋がりがあって、いわば問題が絡み合っている。言葉の性質としてそうなってしまう場合もあるし、また生きている言葉の宿命としてそうなる場合もある。使用している人が様々なので、言葉というのはどんどん細分化していく傾向にあるらしい。もともとラテン語が共通だったのに細分化していった歴史にもあるように、英語というのはむつかしい袋小路に陥ってしまったようにも見える。
 さらに学習者としての日本人の英語の学習問題の、議論の不毛さもある。発音や会話などの実用の英語については、当然ネイティブから習う方に分がある。そんなのは当たり前である。しかし教養としての英語という概念があって、日本語教師から日本語として理解する語学の英語、という側面がある。このことで英語に限らず、日本語自体も見直して学習する姿勢がある。これは必ずしも実用的につかえるものでは無いにしろ、最初から学ぶ手立てとしては、人によっては興味が続き、有用である場合さえある。どちらかがすぐれているということは無いにもかかわらず、この教育論争は果てしなく続いている。拍車をかけて、学習時期の低年齢化問題もかまびすしい。個人で違う問題を、すべての日本人に当てはめているので、この問題が宙に浮いてしまうものらしい。
 本文は日本語ネイティブのチェックは受けているようだが、著者自身が書いた日本語である。オタク的な細部への見通しがあるし、組み立ても素晴らしい。日本語によるユーモアも感じられるし、なにより文章が上手いのである。楽しく読める上に、テーマの掘り下げはかなり深いものがある。英語学習者もそうでないものも、一緒になって英語問題を考えてみてはいかがだろうか。
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中途半端な断片を生きる

2022-11-27 | 境界線

 村上レディオで村上さんが、「映画館ではあんまりないけど、ビデオならだいぶあって、本も若い頃は頑張ってたけど、今は頑張っても良くならないことを知っているので(大意)」途中でやめることが多くなった。と語っていた。確かにそうだな、と思った訳である。
 しかし同時に、いまだにあんがい気になって、間をあけて再開するようなこともあるよな、とも思う。そういうのであたりもあるし、外れもある。
 要するに最後までいって、さらにがっかりするのが嫌なのである。途中で切り上げて、もう放り出してしまえたら、それはそれで人生をかなり有意義にできるのではないか。
 経済学の世界では、これはすでに解決済みの概念で、いわゆるサンクコストで説明できる。回収できない損失は、切ってしまうよりほかにない。というかそうするのが一番賢い。失った投資であるとか、過去の失恋などもそうだ。すでに取り返しがつかないものなので、今後の自分の将来には関係が無いことだ。引きずっても仕方ないじゃないか。要するにそういうことのように思う。まあ、詳しくは勉強してみてください。
 そうであるならば、映画や本というものであっても、面白くないと思ったら、とっとと止めて、もう放り出した方がましなのだ。何より時間の無駄でないし、新しくおもしろいものに手を出した方が自分にとっていいことだ。つまらない時間にお金をかけたとしても、ぜんぶ消費しなければ、損失額もわずかながら少なくて済む。お金は戻ってこないけれど、時間まで無駄にしないからだ。
 それは分かってるんだけどな、と考えている自分はいる。だってタルコフスキーの映画なんて、実に退屈で面白くもくそもないんだけど、その無駄な時間を観ていることが、いわばタルコフスキー映画の醍醐味だ。万延元年のフットボールだって、ずっと面白くなくて何のことやらわからないし文章はへたくその極みだけど、そのまま我慢して読んでいると、どういう訳か、後半一気に面白くなって満足するのである。そういうことがあるから、ほとんどの場合我慢しても読み続ける選択をしてしまうのだ。
 若い頃にそういう経験をしておきながら、しかしそれでもなお、ぜんぜん面白くもならないものの方が大半で、ちょっと見たり読んだりするだけで、あらかたこれはダメだと分かるようなことが多くなった(ように感じる)。そうなんだけど、これを観続けたり読み続けたりするのが苦痛なのにもかかわらず、ほのかな期待感のようなものがなかなか抜けるようなものでは無くて、やはり無理して続けてしまう。サンクコストが積み上がってしまう。損失がどんどん増えていく。そうして自己嫌悪に陥った自分を責める時間まで積み上がってしまう。なんということだろう。
 でも同時に体力のようなものが無くなったのも確かで、いくら時間を無駄にしても突き進むだけの力のようなものが、確実に無くなってしまった。そうなると詰まらなければ素直に眠くなるし、注意が散漫になって何も頭に入ってこない。ビデオなら途中で止めてトイレに行くと、もうなんだかもういいや、と気づいて他のことをしてしまうようになった。読んでいる本は放り投げられ、しおりが挟まったまま本棚に戻される。しばらくは気にならないわけではないが、同時に数冊読んでいるラインナップに復帰することが無くなるのである。もう体力が無いのだから、無理ができないし、僕の残りの人生の時間も減ってしまっているのである。消耗する余裕なんて、本当に無くなってしまったのだ。
 ということで途中で放り出す新たな習慣が、どんどんと生活の中を占めるようになった。もうほとんど多くの問題は、中途半端な断続である。終わりを知ることの無い始まりばかりの人生の残り時間、ということになるのだろうか。
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ひたすら耐えるような心情になる   喜劇愛妻物語

2022-11-26 | 映画

喜劇愛妻物語/足立紳監督

 売れない脚本家の男は、妻の稼ぎに頼りながら細々と仕事をつないでいるが、幼い娘もおり駄目おやじぶりで、妻には半ば愛想をつかされており、セックスレスである。そんな中四国へ取材のチャンスがあり、いっそ家族旅行を兼ねて、夫婦家族ともども円満に持ち込もうと画策するのだったが……。
 最初から、かなり妻からの拒絶が強く、取りつく島が無い。実際何をやってもダメな感じで、しかし性欲だけは前面に出ていて、情けない。これでは畢竟破綻するしかないようにも思うが、なんだかんだと文句を言いながら、妻は家族を支えている。そういう状態を何もできずに追い込んでいくのが、この男のようにも思える。
 そんな男にも、最初に妻に好かれた才能のようなものがあった。それでも駄目はダメという感じだけれど、いい感じのセンスはあったはずで、それは頑張れば、もう少し何とかなると、妻は心のどこかにそう思っているようだ。その努力の行き方に足りないものがあり、不満が募るばかりなのだ。そうなのに男は、自分の性欲に行き場の方ばかり気が行って落ち着かず、馬鹿なことばかり妄想し、何もまともに手につかないありさまなのである。そうしてこの家族は、どん底にまで落ち込むことになるのだった……。
 まあ、言ってみればそういう喜劇もあるんだろう、ということなのだろうか。面白く観ているというか、妻の毒気に冒されて、どんどん気分が悪くなるというか。笑いどころのツボがつかみにくい展開である。俳優たちは持ち前の雰囲気を持っていて、その駄目さぶりというのもよく分かるのだが、いくらそうでも、映画の演出的に、どこかで復活するというか、いいところだってあるというか、そういう感じで転換して欲しいものなのである。それが映画的なカタルシスというか。そういうものが無い映画だってそりゃあ在るというのは分かっちゃいるけど、期待するのが人情というものである。落ちるだけ落ちて、もう笑うしかないよな、というのは分かった。分かったが、やはりつらかった。
 そういう訳で、喜劇というより、これはもっと別のものである。まあ、それでも仲よくということで、マゾッけの強い映画ということになるんだろうか。
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予約にも縁がある

2022-11-25 | 掲示板

 訳あって、ある会の幹事さんを仰せつかる。今回は皆ラインのグループに入っている。そのラインに入っている日程調整のアプリが使える。他にもそういうアプリはあるんだろうけど、とりあえずそういった面倒なものを探す必要が無い。これでまずは、幹事である僕の都合のいい日を、いくつか選んで送信する。早く返信してね、と申し添えてあるから、すぐに返事が集まる。幸い二日ほど皆の都合のいい日が見つかる。それでは日付の早い日で、店の予約を取ることにする。コメントに希望の店の記入もあったようだから、それから順に連絡すればいい。
 そこでふと思い出したのだが、一つの店は一見さんお断りという噂を聞いたことがある。もうずいぶん前になるが、行ったことが無い訳では無いのだが(しかし店内がどんなだったかなど記憶もない)、店の人が僕を覚えているはずはない。でもまあ、この店を行きつけにしているある人を知っている。
 それで電話でどういう状況か聞いてみると、特に一見さんお断りを貫いているということではなく、いわゆるコロナが流行っている頃に、近くにあるホテルの客が県外の人ばかりだろうから、警戒してそれらしき客は断っていた、という経緯があったらしい。自分の名前を出していいから、予約してみたら、ということだった。
 なーんだ、と思って電話すると、小上がりの半分の部屋に予約が入ってて、僕らの人数ならその日は無理だそうだ。そもそもご縁がありませんでした。
 それならということで第二候補にも電話すると、そこもその日は半分に客が埋まっていて、僕らの人数ではダメだそうだ。両方とも人気店だし、ほとんどカウンターって感じだしな。
 実は散歩しながら相談したり電話したりしてたんだけど、後ろから「よう」と声を掛けられる。店の駐車場に停まっている車の中に、ある団体でお世話になった先輩が乗っていた。何してるんですか? と聞くと、店が開くまで店の前で待ってるんだそうだ。ここは鳥肉などを別に出す、飲んべでも暇つぶしのできるお好み焼き屋さんで、なるほどここもいいかもな、と思ったが、なんとなく今度集まる団体像と相違があるような気がして、やめた。
 散歩のころ合いの時間でつれあいが迎えに来たので、どこにしようかと相談すると、あっさりある店の名前が出た。買い物のときによく顔を合わせることのある、これもある団体の兄弟分の仲間の知り合いの店である。電話すると首尾よく予約が取れた。ここも案外すぐ埋まるので、やはり相性のようなものなのだろう。
 しかし考えてみると、だいぶ前にやはり僕が幹事を仰せつかったときも、この店だったような気がする。今回のような流れでは無かったものの、巡り巡ってこうなってしまうものらしい。まあ、単なる偶然であるにしても、縁ということにいたしましょう。
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今の感情を冷静に未来に向けられるか   ラブ&ドラッグ

2022-11-24 | 映画

ラブ&ドラッグ/エドワード・ズウィック監督

 バイアグラを売るセールスマンの実話をもとにした作品らしい。性の薬を売ることで、自らも性には奔放な営業をしていたが、そういう中で一人の女性と恋に落ちる。これも性目的が第一だったらしいのだが、彼女には秘密の進行性の病気があって、そのまま付き合い続けることができるのか不安になり、お互いに苦悩することになるのだった……。
 多少オーバーアクトでコメディ仕立てにしてあるが、問題はそれなりに重いものがある。病気なのでなんとかしたいという気持ちがあるのだけれど、そう簡単に改善できるものではない。その上進行性である。患者の会に出ることで、彼女は勇気を得るが、パートナーである彼には、逆に重いものがのしかかるような気がする。薬を売る仕事をしているので、医学業界にも詳しい。さらに営業成績は上がっていって出世のチャンスもつかめそうなのだ。このまま足かせにもなりかねない付き合いを、続けるべきなのだろうか……。
 軽い男に捕まってセックスに至ることになるが、彼はおそらくセックスだけが目的だったのだから、どのみち深い愛の言葉を交わすことは無駄になる。愛してると言ってくれるようになるが、さらに自分も言いたいが、それが短時間でのことに過ぎないのであれば、このまま短時間で終わらせた方がいいのではないか。要約すると、心の葛藤はそんなところかもしれない。男の方は、性的に楽しんでいれば、それはそれで楽しいには越したことは無いが、今いる女性を愛している現実も、確からしい感覚がある。それを信じるべきなのか。どのみち変わり果てて苦しむ未来を、見切ってしまうべきなのか。出世もするし、決断すべきは今なのではなかろうか。ということか。さて結末はどうなるでしょうか。
 セックスの時は自由に動けるようだし、しかしクスリの調子が悪いと、かなり動きが上手く行かなくなる。痙攣などもしてしまうようだ。たいへんに美しい人なので、すぐに恋人もできる。要するにどちらとも性的にはとても恵まれている男女なのだ。そういうこともまた、コメディ要素の軽さのようなことかもしれないが、選択肢が多いからこそ、その真実の愛を育むのもまた、むつかしい問題になっていく、ということなのかもしれない。
 まあちょっとそれは贅沢な悩みなんじゃない? という気もしないではないけれど……。
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ケーキを数えず買いたい

2022-11-23 | 

 そこのケーキ屋のケーキはみな小ぶりで、よく見ると小さな細工がいろいろと施してある。それは薄い板状のチョコレートだったり、飴細工だったり、ナッツや木の実のようなものかもしれない。クリームの盛り付けや、ハーブの葉っぱのようなものもある。午前中から寄ったからかもしれないが、種類は多いが、個数は必ずしも多くない。売り切れて列に空白もできているようだ。大きいままのホールケーキは見当たらず、注文品限定なんだろうか。ショーケース以外にも、焼き菓子が別の棚にあるようだ。
「お店は一人でやってらっしゃるんですか?」と聞くと、
「いえ、時間帯でバイトがもう一人」という。
「いや、作るのは……、とにかく、手が込んでるなと思って」
「ああ、割に合わないんですけどね」と言って店主らしき人は、笑った。
 確かに値段は一個400円台の後半が多いし、なかには600円台のものもある。ふつうのショートケーキよりさらに小ぶりなので、割高で高級感のあるものなのかもしれない。いくつか買えば、すぐにいい金額になるだろう。
 僕はケーキなどを買わない訳ではないが、それは自分が食べるためということでは、ほとんど違う。おみやげであり、贈答品である。時には自分でも食べるが、それは誰かから出された時だし、このようなお店で選んだものを食べようと思って買ったことというのは、ちょっと思いつかない。今回はつれあいが買うので付き合っているわけだが、今回もちょっとしたお祝いがあるので、ケーキも、ということなのだろう。他のプレゼントもたぶんありそうだ。
 そういえば、子供のころには、外が暗くなってから、ケーキを買いに行った記憶がある。父が仕事から帰ってきて、それからケーキを買いに行ったのだ。たぶん誰かの誕生日とか、お祝いの為だったのかどうか。きょうだい連れだって、喫茶店兼ケーキが当時はあって、そこのショーケースに並んでいるショートケーキを、選んで買ってよかった。一人一つか二つか忘れたけど、とにかく好きに選んでいい。選ばなければ、父が並んでいる種類に適当に指さして買ってしまう。数学が得意だったと自慢していたけれど、数を数えている風では無かった。そうやってたくさんのケーキを買うこと自体が、父にとっては楽しかったのだ(たぶん)。
 僕もできることなら、数を数えずにケーキを買ってみたいな。今ならそれが、たまにだったらできるのではないか。しかしながら、ケーキを選んでいるのはつれあいの方である。僕はそれを眺めているだけなのである。
 まあ、それでも楽しんでいるかもしれない。その選ばれているケーキの一つは、今日のお祝いの時に、僕の一つにもなるのかもしれない。いったい何を、僕は食べることになるんだろうか。
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裸だから語る力を持つ場合がある   ヘルムート・ニュートンと12人の女たち

2022-11-22 | 映画

ヘルムート・ニュートンと12人の女たち/ゲロ・フォン・ベーム監督

 ドキュメンタリー作品。ヴォーグなどの雑誌の写真を手掛けて著名なヘルムート・ニュートンを捉えた作品。撮影中に彼は自動車事故で亡くなったようで、まさに彼の最後を飾るというような構成になっている。12人の女たちという表記は逆に誤解を招く印象を受けるが、彼は基本的に女性を中心とするヌード写真を得意とした。あからさまに陰毛の見えているものもあるし、自分のペニスが写されている物さえある。大変にエロティックなものが無い訳ではないが、基本的にこれはアートと言っていいし、その過激さが一種のムーヴメントと捉えてもいいかもしれない。そのような嫌悪や反発を呼び覚ますことで、着実に写真家としてのキャリアを積み、巨大化していったことが分かっていく。無一文でスタートし、それでも何とか写真を撮り続け、最初は本当に誰も理解していなかった写真の価値を、グイグイと世の中に問うて行ったということなのかもしれない。
 ニュートン自体はナチス時代に少年期を過ごしたドイツ出身で、その影響を批判されることはあるが、本人は影響を受けない訳が無いじゃないかと平然としている。フランス語も堪能で、フランスの雑誌にも多く写真を提供しているようだし、フランスの女優やモデルも被写体にするようだ。その写真を観たら一目瞭然で、さまざまなヌードが、まさにニュートン作品として、それがそうなんだと分かるはずである。時には挑発的で、時にはシュールすぎて何が何だか分からない。例えばヌードの女は、性的な対象でありエロだが、同時に羞恥や恐怖であり、男に対して威圧的である。男を支配していると言ってもいいかもしれない。そういう表現を、写真を観るものに確実に訴える力がある。写されているモデルたちも、そのようにして自分以外の表現になっていることを理解しながら撮影を楽しんでいる。エロの対象で観られることよりも、そのような表現で何かを変えられることに、一種興奮を覚えるということなのかもしれない。
 僕には芸術はほとんどわからないし、ましてや写真というものは皆目わからない。ニュートン作品は確かに見たことがあったが、だからと言って奇抜だな、というくらいにしか興味もわかない。このような映画を観て、なるほど意味がやっと分かって、凄いことがなされているということが分かるわけだが、それでもやはり写真なんだから、本当にわかっているのか分からない。報道写真をやろうとしたら、相手が逃げていくので上手く行かず、辞めさせられた経歴があるんだという。思わず笑ってしまったが、なるほど、ある種の写真に向かないからこそ、このような写真を編み出した、ということは言えるのかもしれない。
 映画の途中から、だんだんと彼らの写真の様々な表情を読み取ることができるようになっていく。内容も面白いが、教養的にも極めて有用で刺激的な作品なのであった。

※ それにしてもスーザン・ソンダクって、実物は何にもわかってない嫌な女だったんだな。まあ、本も難解だけど……。姿を観られてよかったです。
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譲られて歩きたくない

2022-11-21 | 散歩

 道を歩いていると脇道から車が出てくることがよくある。停止線のある所なら、なんとなく歩行者が優先のような感じになって、僕が通るのを待ってもらうことが多い。ふつうの幹線道路のようなところに出る脇道からの車ならば、幹線道路の車の状況もあるから、これは歩行者として譲ってもらって当然というか、まあ、ふつうに歩行してもかまわない空気感がある。問題なのは住宅街のような碁盤の目のような道が入り組んでいるところなのだが、だいたいにおいて車は停止線で止まるようなことはしない。また見通しもあまりよくない場合もあるので、車は通りへ頭をスルスルと出してくる。そうして歩行者である僕を認めて、慌ててとまるのである。工事現場風のおやじさんなどは、それでもかまわず目をやったまま「おいらは仕事で忙しいうえに散歩なんかでほっつき歩いてのとは違うんだかんね」という顔をして道行く車さえなければ、かまわず出ていってしまう。もちろんそれには散歩している僕には、その意見に異論はない。だから全然かまわない。むしろ問題なのは、それなりに頭を出して停車して、やっと僕に気づいて、「先に行って」と手を動かして合図するような人なのである。僕としてはここまで来たんだから、そちらこそ先に行って欲しい。だから僕も手を前に出して振り、「お宅こそお先にどうぞ」とやる。しかし多くの場合、もう停まったんだからね、という感じで、前に出ない車が多いのである。僕も立ち止まっているので間が悪い。それに車の方が動きが早いのだから、行ってもらうとすぐに済む問題なのだ。でもじっと動かないと、なんだか譲られたのに悪いことをしているようなことになるので、それではと小走りになって横切らなければならない。どうしても走りたくない年頃ではないが、じっと見つめられた状況で小走りに横切るのは照れ臭い。そうしてやはり手で「やあ」という風にお礼めいた仕草をする。実はお礼は言いたくないのに、ついやってしまう。自分自身に間が悪い。
 歩道を歩いていると、コンビニなどの店に入ろうとする車が、道路でじっと停まっていることもある。確かに僕はそういう場面に差し掛かりつつあるが、数メートルは余裕があったりする。僕にかまわず店に入ったとしても、何の問題も無かったはずなのだ。しかし車は僕をやり過ごすために車を止め、歩道を横切るタイミングを待っている。その車の後ろは、みるみると後続の車が順番に停車して列をなしていく。僕は「お先にどうぞ」と手で合図をすでにしている。そうして立ち止まってもいるのである。そうする車の中の人物は、手を差し出してどうぞとやるのである。まったく迷惑な配慮である。後続の車のことを考えると、慌てて本当に走り出すよりない。本当に嫌な瞬間である。頓馬な歩行者が交通を妨げて、小さな渋滞を作りつつある。社会の迷惑なのだ。
 うっかり歩行者をはねて先々面倒なことになるのは、車の方かもしれない。それは僕だって運転するのでよく分かる。歩行者にスムーズに横切ってもらうには、どうしたらいいのか。若い人(中学生くらい)などは、車が来ているのをわかっていても、実に堂々と友だちと馬鹿話をしながらダラダラ歩いていく。癪に障るときもあるが、まあ、歩行者はそれだけ強い存在かもしれない。そういうことを考えると、やはり僕のような存在こそ、うざい、というべきなのかもしれない。
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勝ち取るという姿の体現   ビリーヴ 未来への大逆転

2022-11-20 | 映画

ビリーヴ 未来への大逆転/ミミ・レダー監督

 僕でも知っている著名人、ルース・ベイダー・キンズバーグ(RBGの略称でも著名)の伝記映画。長年アメリカの連邦最高裁判事を務めた。おばあちゃんのルース判事の姿しか知らなかったので、彼女の若いころの様子を知るという意味で、興味深い作品かもしれない。
 貧しい出のユダヤ人だった彼女は、しかし猛勉強して難関のハーバード大の法科に進んだ。その当時入学した500人中女性は9人だった。学校には女子トイレすらなかった。さらに当時ルースは学生結婚をしているのみならず、娘もいた。女性軽視の時代苦学を続け、優秀な成績で卒業したにもかかわらず、弁護士の事務所で女性を受け入れるところは無く、弁護士として就職することはできなかった。仕方なく下働きのような法律に関する仕事はしていたようだが、後に大学の教授となる。そのような中で、ある独身男性が親の介護をしているにもかかわらず控除を受けられないことが性差別に当たるとして、訴えを起こす。これは逆説的に、女性のみを対象にしていることで、女性の仕事を制限する差別に当たるものであるために、女性解放の意味合いもあるようである。しかし当時、これらの法律が何故性差別なのか、文化というものが何なのか、まったく理解できていない法曹界に立ち向かうことにもなった。実際には弁護士の経験のないルースには、立ちはだかる壁の大きさに圧倒されることになるのだった。
 女性差別の是正については、ほとんど見飽きるくらい見てきたような感覚があるが、しかしそれで足りているのかということになると、ちょっとまた考えてしまう。アメリカが進んでいると日本人の多くは漠然と考えていると思うのだが、果たして本当にそうなのか。確かに文化的にそうなっている現状がスパゲティ状に絡んでいて、子供を産む性である女性の役割は、漠然と決められているようにも感じる。そうでない人にとっては大きな壁であることは明確だが、それを個人的にどうにかする方法はほとんど無い。少なくともその場で局所的に手助けするより他に、何ができるのだろう。
 しかし問題は、実はそんなことではない。受け入れている性の人が、どの道理解など得られないことに絶望していて、さらにそういうことに問題を感じていないすべての人に、責任がある。要するに社会のことだ。理屈では理解できても現実が変わらないのは、社会が変わっていないからだ。しかし社会はそう簡単に変わらない。では個人は何をすべきか。
 この映画で分かることは、ルース自身が素晴らしいのはもちろんだが、その周りの人々が既に素晴らしい関係であることも見て取れる。そのような小さな塊が、周りによいこととして見えている。そこに本当の理解が伝播する力を帯びることになる。女性問題に限らず、これは大きなヒントになるのではなかろうか。
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手帳の切り替え時期の所為だ

2022-11-19 | HORROR

 既にひと月ほど前から来年の手帳を購入している。しかしながら実際に記入するのは、ぼちぼちと始まったばかりで、年度末の業界の総会などの早々に決められているものを書いているに過ぎない。手帳は内ポケットなどに入る小さいものを二十年ばかり続けて使っている。携帯電話などに記入していた時期もあったが、やはり文字をペンで書く方が格段に速いし俯瞰しやすい。事予定に関しては、手帳に勝るツールは無いのではないか。
 そうではあるのだが、この時期というのは、実はたいへんに危ない季節である。何故かというと、先の予定を二冊の手帳にかき分けることに問題があるからである。基本的には連動させて順に書きさえすればいいことのはずだが、さっと記入する際に、どっちかに先に書くことになる。あとで両方で確認して書き足せばいいのだが、それはやはり後回しになる場合が多い。基本的には今年の手帳を用いることが多いので、あとで新しい方を照会して書き足せばいい。それはそうなのだけれど、ときどき両方で違う予定が書かれていることに気づくことがあるのだ。
 電話やラインやメールなどで、同時に予定を調整する機会は多いが、こういうのは便利な反面、複数の予定日を候補日として記入する場合が多い。先のことだから、空いている日を書いて送信する。これは当たり前だ。そういう予定を、僕の場合記号を用いて、例えば白丸(〇)は委員会、などと手帳に書いておいて、空き日に〇の印をつける。次の会議なら△とかにする。空いてる日にこの〇や△は◎とかAとかBなどの記号や文字が並ぶことになる。決定すると赤ペンで〇などに線を引いて、決定した会議などの予定をしっかりと書きこむ。あんまり複数の記号を使うとかえって面倒なので、〇を消したら、新しい予定候補にまた〇を用いたりするわけだ。そうすると、一度消した〇のところに、新たな〇がついたりする。消したところだから完全に空いているはずだという思い込みが起こる。候補日は、時に変更を伴うことがある。一度決まったはずの予定日が、何かの都合で変わることがある。多くの場合ずいぶん前から事前に調整されるものには、新しくいろんな記号が重なったりする。そういう時に予定のブッキングが起こりやすいものと考えられる。あとの予定の方がさっさと決まって重ねられた後に、空いていたよね、とその日に過去の調整のものがかぶさって来る。こうなると、もう再調整がかなり難しい。そういうものを二つの手帳を用いてやると、さらに複雑になって混乱する。ただでさえ手帳は年末年始の予定のあわただしい時期に変える。だいたい11月の最終週くらいから新しい手帳へと切り替えるが、その時にはもう二つの手帳には複数の記号で埋まっていて、自分でも判別が難しくなっているのである。
 という訳で、僕が会議に欠席しているのは、それなりに理由があるのである。飲み会に欠席しているのは、それなりに理由があるのである。悪しからずご了承のほどを。
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しのぎを削る復讐劇   プレステージ

2022-11-18 | 映画

プレステージ/クリストファー・ノーラン監督

 主に二人のマジシャンの確執の物語である。二人はあるマジシャンの助手のような形でマジックの技を競っている。ある脱出マジックで、縄の結び方の失敗があって、女性を殺してしまう。その女性はアンジャーの妻でもあったため、ロープを結んだボーデンを憎み復讐の鬼となる。一方でボーデンも関係が悪化したアンジャーに嫌がらせややり返しをすることになるのだった。
 マジックのトリックは、分かってみると合理的というか、それはそうだろうという当たり前のことなのだが、その演出というか見せ方において、人々は騙され、大きな驚きと感動を呼び起こされる。そのようなトリックを仕掛けることに、マジシャンは心血を注ぐことになる。大きな仕掛けを仕組むことは、時には大変な危険を伴う。または、時には動物などの犠牲を強いている場合がある。丁寧に読み解いていくと、それらの仕掛けの数々が、この映画のプロットの伏線になっている。物語を追っていくにつれ、その仕掛けの伏線の意味も解かれていき、結末にはさらに驚かされる仕組みである。
 マジックは騙されるから面白いのであるが、騙される観客は、どうしてもその仕掛けをしりたくなるものだ。おそらくだが多くのマジシャンたちも、最初はそのような観客だったはずである。そうしてタネを知ったうえで、それを自分も試したくなる。驚かせた人々を見て、もっとすごいものをやりたくなっていくのだろう。その為に様々なアイディアを考案し、時には危険だと知りつつも、その危うい仕掛けにチャレンジしていくのである。そうして大きな成功を掴むと、大きな報酬も得られるということだ。
 観終わって難癖をつけたくなる性分があるので、正直言ってそれはちょっとどうなの? とは思ってしまった。入れ替わり問題には、個人の記憶の連続性もある。一方でその最初の方の謎は解かれることになるけれど、途中から生まれる科学トリックの方は、いまだに実現が不可能だ。しかしこれはSF作品だったのか? いや、そういう枠も飛び越えたトリックを使ったどんでん返しということなのだろう。これくらい行き過ぎていないと、観客を欺くことなどできないということなのだろう。また、実際はこのトリックを、仲間たちは共有していたはずである。大道具小道具舞台袖をはじめ多くのスタッフの協力のもとに、これらのマジックは行われている。そういうことで言えば、秘密は仲間内では知れている。だからスパイも送ることになるが、これだけの仕掛けなら、やはりタネは知れていたことだろう。単に信じられなかった、ということなのかもしれないが……。
 いつの間にかずいぶん前の作品になってしまって、今でも大御所達の若い姿が見られる。そういう意味では脂が乗りきっていたんだな、と改めて思う。そういう豪華さも含めて楽しむ映画かもしれない。
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雑誌をさかのぼる

2022-11-17 | つぶやき

 雑誌の記事を全部読む人なんているんだろうか? 少なくとも僕は読まない。雑誌なんだから、読みたいものだけ読んだって誰にも叱られやしない。雑誌でなくともそれは事情は同じだけど、雑誌の場合だと特にそういう気がする。目次のようなものも特に目に止めることも無くパラパラめくって、ときどき読んだりする。雑誌にもよるけど、だいたい気に入った連載などがあり、そういうのを先に読んで、残念なことに食わず嫌いもあって、まったく目も通さない文章もある。別段嫌っているとかいうのではないが、本当に気にもしていなくて、平然と読まない。
 そういう感じではあるけど、ごくたまに何かの間違いで、そういうものを読んでしまうことがある。これまでにも連載してきたものだから、過去にもこれは書かれていたものだと改めて気づく。そうするとなんだか過去のものも読んでみたいような欲求に駆られる。しかし雑誌というのは厄介で、読んだらそこらに放り出してしまうことも多い。以前の僕はそれなりに系統だって保管していた時期もあるのだが、ここ数十年は、もうそんなことはしていない。しかしそれなりに捨てないでとっておくことは、スペースが許す限りしている訳で、思い切って整理しようと考えない時期が長ければ、探して見つけ出すことは可能になる。そういう事って実は結構あるもので、ああ、今回も来たな、と思った時に、さかのぼることが出来るくらい残っていると、たいへんに助かる。
 そんな感じで過去の記事を探しながら読んでいくと、その人の文章以外のものを、これまた、つい読んでしまうこともある。そうするとその人の過去のものが気になりだす。著書も探せば持っているかもしれない。そうして本棚をあさることにもなる。あちこちひっくり返して大変な騒動だ。結局アマゾンでまたクリックしてしまって、数日後本が増える。そういう騒動でクリックしてしまうと、なんで買ったのかすでに覚えていないものが届けられて来たりして、困惑する。なんで買ったかも覚えていないというのは、もうすでに興味が失せているのである。
 雑誌と言っても、いわゆるPR誌というのを結構定期購読していて、近年はものすごい勢いで廃刊する数も多いが、それでも数誌は生き残って毎月届けられてくる。こういう雑誌は隔月で連載されているものがある。あるいは三か月に一回のペースで連載されている人もいる。こういうのは、探すのがさらに厄介になる。PR誌と言ってもそれなりに学術的なことを書いておられる人もいて(そのまんま学術誌もあるし)、物事の内容を前提から順に説明していくスタイルを取っているものも多い。そうすると、遡りだすと徹底して遡らないことには、内容がよく分からない。いや、そういえばそういう内容だったのだと、後になって遡ったことであらためて分かることもある。こういうのは腰を据えて取り組まないことには、歯が立たない。しかしそういうものこそ面白いのだから、たちが悪いのである。雑誌を読むというのは、そういう格闘の火種を含んでいるのである。
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美少年、君臨   永遠に僕のもの

2022-11-16 | 映画

永遠に僕のもの/ルイス・オルテガ監督

 美少年カルリートスは、人のものを盗っても罪の意識のかけらもない。捕まれば厄介なので逃げはするが、豪邸などに忍び込み、我が物顔で家の中のものを物色し、盗んでいく。そうして嘘も平気でつく。転校先の学校で、不良少年のラモンに、おそらくだが同性愛的に惹かれる。彼も彼の家の父親も、たいした不良ぶりで、拳銃を家の中で撃つなどして仲良くなる。意気投合後には、一緒に銃器や宝石などの窃盗を繰り返すようになり、大儲けする。しかしカルリートスの行動は行き過ぎており、彼らも警戒するようになるのだったが……。
 なんとこのモデルになった実際の事件や少年がいるらしく(現在も還暦すぎで服役中)、かなり脚色はされているだろうものの、これらの事件でアルゼンチンでは相当に有名なものであるらしい(そりゃあそうだろう)。主演の少年(青年?)は実際の人物に真似てあるわけで、中性的で蠱惑的な不良ぶりである。こんなのが近くにいるのは迷惑だろうが、その周りの人間は、何かその魅力に遠巻きながら憑りつかれていくものがあるようだ。まあ見ている日本人の僕にとっては、どのみち接点など無いだろうから、どうでもいいか。
 しかしながら破滅的に犯罪を繰り返し、人までも殺してしまう破天荒ぶりに、観ていてホトホト呆れてしまう。馬鹿なのには違いないが、タガが外れているので、そんなことはどうだっていいのである。特に家庭環境が荒れているということでもなく、普通の家に生まれた美少年で悪魔なのである。それだけでも結構漫画的なので、事実が無ければとんだ作り話である。
  元は英語のヒット曲がスペイン語でガンガン流れて、演出的には、なかなかに爽快かもしれない。いや、爽快というよりその破滅的な危うさに、なんだか目が離せなくなるような、保護的な視点が生まれてくるものかもしれない。周りにいる悪い奴らが透けて見えて、そんな極悪なものなんてものの価値が、うすっぺらくさえ感じられる。
 70年代などにアメリカなどでニューシネマが流行った訳だが、そういうカウンターカルチャーとしての反抗というものと、まるで別の次元の悪というものがそこにはある。もちろんハリウッドやヨーロッパとも少し別の、映画的な匂いがあるわけで、それらの作品に無意識で作られたものでは無かろう。しかしそうして出来上がったこの作品の、なんとも言えない差異というものがあって、妙なものを観てしまった満足感があった。まあ、このためにずっと刑務所で暮らすことになるんだから、やはり愚かなことだけれど……。
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