カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

命は平等でないけれど…   医師の一分

2015-01-31 | 読書

医師の一分/里見清一著(新潮新書)

 最近はネットで現役の医者の愚痴というのは時々目にするようになった。特に臨床の若い医者というのは激務のようで、職場環境も悪いというか、ひどい患者もそれなりに多くて辟易させられているのだろう。どこも一緒だとはいえるかもしれないが、医者というのは誰もが勝手に崇高な立場にいるものだと思っているものだから、そういう人が公然と愚痴などを漏らすと、少しギョッとすることになる。少なくとも公然と愚痴るなら、もう少し知性があっても良かろうと思うのかもしれない。
 そういう医者の愚痴り方の見本になるかは分からないが、出版されるような本で医者が愚痴るとこうなるという、見本のような本かもしれない。著者は癌を専門とする現役の医者らしい。見本としては品の無いところも無いではないが、しかしある意味で大変に正直にまっとうに愚痴っておられて立派である。死と対面する立場に居ながら、公然と人の命は平等で無いと言い切る勇気が、何より素晴らしいと思う。
 書いてあるエピソードがいろいろあるのだが、いわゆる患者にはいろいろいるわけだから、そういうことに対面させられる医者にもいろいろ苦痛があるということだ。患者の方にも命にかかわる問題であるから、真剣にわがままを言うというのがあるのかもしれない。著者の方も人間的に達観する都合のいい人ばかりが人間らしいわけではないと理解しながらも、やはり不条理に耐えるストレスというものについて、それなりに理解してもらいたいという思いがあるのではなかろうか。医者というのはいわば医療の専門家であるわけで、それこそ患者のためを思ってやっているわけだが、患者の方の何が何でも治す方法があるはずであるという思いに、必ずしも全部応えられるはずも無いのである。何しろ悪いのは病気である。さらに患者にも背景があって、自殺しようとしているのに死ねないのから、子供なのに難病であるとかいうような幅がある。全部が同じわけがあるはずないと正直に理解できるのだが、しかしそれを認めてしまうというのは、いわゆる功利主義である。偉い人と偉くない人の命の差も当然あるということにもなるし、ジレンマは消えるものでは無い。
 助かる助からない問題ということには、今は助かるがその助かり具合のさじ加減というのもある。いわゆるご高齢で、高度な医療を施しても、余命がいくらも伸びないという場合があるだろう。しかしこれは難しい問題があって、本人はもちろん、家族にしてみたところで、少しであっても何とかして欲しいという思いは、必ずしも嘘ではないだろう。医療費の高騰の問題もあるが、いつ死んだらいいのかという自然問題に、人間が介入するのが医療だということでもあって、悩みは尽きない。結局80や90になっても心臓弁の手術が施されたりする現実がある。植物状態であっても、やる場合だってあるらしい。やらなくていいとは公然とは言えないまでも、現場を知れば考えざるを得ない問題であろう。
 つくづく医者なんてものは因果な商売だなと思う。これを読んで諦める人が増えたら、いいことがあるかどうかは分からないけれど、既になってしまった人はともかく、あんまり優秀な人が目指すべき世界ではなさそうだ。しかしながらさらに悲劇なのは、やはりそれなりに優秀そうな人が、医者の中に含まれているということかもしれない。巻末のドキュメントというか小説というか、おそらく実話をもとにしている文章があるのだが、辛口の随筆の後にこういうものを読むと、やはり医者でなくともつらい。あんまり心臓の強すぎる人が医者になるのも良くないのかもしれないが、ナイーブすぎる人が医者になるのも不幸だろう。これを読んで患者がおとなしくなるということも無いだろうし、悲劇はこれからも繰り返されるのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変な帽子をかぶった謎の女を探せ   幻の女

2015-01-30 | 読書

幻の女/ウイリアム・アイリッシュ著(ハヤカワ文庫)

 古典的ミステリの名作。バーのカウンターで知り合った変な帽子をかぶった女と、一晩ショーを見て食事をして家に帰ると妻が殺されていた。それも自分の今日締めていたネクタイで。当然そのまま疑われ逮捕、死刑も確定してしまう。妻とは離婚話で話がもつれその勢いで家を飛び出して謎の女と出くわしたのだった。変な帽子をかぶっていた女と一緒だったというアリバイがあれば罪から逃れられるはずなのだが、彼女が見つからないばかりか、その晩彼女を見たという証人さえ、なかなか見つからないのだった。果たして何故それほど目立つ女のことを誰も覚えていないのか。真犯人は誰なのか。というお話。
 前半は妙に気取った文章と、まどろっこしい会話のやり取りが続く訳だが、それはそれなりにミステリの伏線にもなってはいる。さらに死者が増えるところはミステリとしてどうなのか、という多少の疑問はあったのだが、まあ、しかしそれは驚くべき結末のどんでん返しの伏線でもある。帽子の女を見つけるくだりで、ささやかなつながりをたどって人物を渡り歩く流れは大変面白くて、そのまどろっこしさは一気に解消される。次々に明かされる事実の意外性もなかなかのものである。当時の日本の多くのミステリ・ファンが長らくこの作品を愛したという逸話も含めて、まさしく伝説的な名作のようである。
 古典としての古さというのは確かにあるのだが、しかしながら戦後の日本のミステリ・ファンが、米国のこのようなミステリを歓迎し読みふけったというのは分からないではない話だ。非常にスタイリッシュだし、雑踏の中のニューヨークの都会的雰囲気は、日本のそれとはまさに異質なものだ。戦争やら疎開先から帰ってきた若者が、まさにむさぼり読むような夢のアメリカ社会がそこにある。街の描写は必ずしも的確に表されているわけではないのだが、バーやレストランや劇場やホテルやアパートというのは、焼け野原の日本とはかけ離れた世界だったことだろう。そこで原因となる愛憎劇と殺人。そうして警察の捜査の行き詰まりと友人の捜査の協力。そのすべてが目新しく新鮮に映っただろうことは想像に難くない。少し古くなったとは言ったが、そのまま映画にしても(実際映像化されている様だが)そのまま通るような文学世界に酔いながら、しかしミステリとしても驚かされる仕掛けなのだ。
 古典ではあっても残る作品というのは、結局はこのように映像が目に浮かぶような作品であったことが大きいと思われる。実はいくつも枝分かれしてしたかもしれないけれど、なんとかか細い糸をたどっていける帰納法ミステリの傑作ともいえるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実は不真面目「イスラム国」

2015-01-29 | HORROR

 「イスラム国とは何か」という米国のドキュメンタリーを見た。始まりをどこからにするかというのは第一の問題だが、とりあえずイラクからの米軍撤退からお話は始まる。オバマ大統領は撤退し勝利宣言し、当時のイラクの首相マリキとともに記者会見をした。その時にオバマ大統領は、マリキ首相に今後の内政干渉はしないととられるふるまいをした、という事になったらしい。
 その後マリキは、自らの暗殺計画があったとして、側近や副首相などの政府の要人を更迭する。その更迭された人材が、すべて自分の会派とは違うことで、事実上権力闘争を仕掛けたということだ。さらにこれは僕らには分かりにくいが、単なる政治的会派では無く、民族会派であるスンニ派を排除し、シーア派の支配を進めたということにある。もちろんそういう民族の争いであることはそもそもの戦争の原因であったはずで、因みにサダム・フセインはスンニ派だったわけだ。結果としてアメリカの介入によって主流の民族会派の支配を解き、反対会派の国家樹立を手伝ったことになるという訳だ。
 これで不満が噴出して、国外の石油資本の援助を受けた同じスンニ派の過激派組織が、激しく抵抗するようになる。その抵抗の芽を摘むために、さらにスンニ派の排斥が行われる。とうとうシリアなどから国境を越えた過激派組織が立ち上がって、それが「イスラム国」という事になったという事だ。
 彼らはどんどん南下して、周辺地域を次々に支配下におさめていく。そうして支配した地域において、今度はシーア派の住民を集団虐殺していくのである。詳しくは報じてなかったが、要するに国防軍といわれるシーア派の軍隊より、軍備が充実しているという事のようで、やはり支援する資金の流れがそれなりに大きいという事が見て取れる。過激派の局地的なテロとは様相が違う。そのままマリキは退陣に追い込まれるのだが、しかし相変わらずオバマは介入をしない。そうして事態はさらに混迷を深めるようになってしまった。
 その後一転して空爆に転じるようになってからは、今のようなテロへと事態が変わっているように見える。当然テロ側からすると、軍事介入が引き金のようにいう訳だが、もちろんそれも無関係ではないにしても、いわゆるそれはテロの正当化のための方便のようなものだろう。米国が一転して空爆に転じたのは、イラク国内に米国領事館や石油会社が多く駐留するアルビルという町に、イスラム国が侵攻してきたためである。イラクの国民のことはとりあえずどうでも良くて、米国に関係する石油にかかわると容赦しないという事のようだ。もともと人道的な建前であったことも痛いのだが、それで逆襲されているというのもお互いにどうかという事になっていると思われる。
 イスラム国というのは資金支援を得た民族闘争が原型になっているが、西側にテロを仕掛けることは、単なる犯罪をする自分たちを正当化するためだけの方便である。だから統治がもし成功したとしても、反撃の恐怖におびえ、過度の粛清を行う。過度の粛清に対しては、とても人間はその恐怖に耐えられないから、さらに過度の反発を招くことになる。それが延々とループして、やる前にやるしかないという事になってしまうようだ。お互いに悪いのは相手であると明確に、そして一方的に思っているわけで、それで協調や対話が成り立たないのである。そのような民族闘争には西側は関知しないけれど、結果的に石油利権には黙っていない。そこがズレながらも多くの国が巻き込まれる理由になっている。確かに米軍が駐留しているときでも、民間人を含め年間2万人余りの人が犠牲になっていたわけで、ある程度の安静化は見られると言われているにせよ、やはりことは簡単ではない。結局は石油利権の金額に見合うラインまでしか、介入しないという事なのかもしれない。
 以上のようなことから言えるのは、これは宗教の戦争ではない。信仰している宗教は基本的に重要でもない。あくまで建前の正義などを正当化するときに方便として使われているだけのことで、実に大義などは何にもない。しかし人々は宗教が根本にあるとして、宗派の戦いとして相手を憎むという事にしないと納得がいかないのかもしれない。そういうことは人間の持つ癖のようなものなのだろうか。出自のような自分ではどうにもならないことを持ち出して嫌っているとは、表だっていうことが出来ない。要するにお互いにまじめに宗教のことを考えるようになれば、民族闘争をする必要など無いのではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アトムの子として…   鉄腕アトム・地上最大のロボット

2015-01-28 | 読書

鉄腕アトム・地上最大のロボット/手塚治虫著(講談社)

 プルートゥを読んだので参考のために読んでみた。表題作のほか4編収録されている。実をいうと鉄腕アトムはちゃんと読んだことが無いような気がする。手塚作品はもちろん好きで様々な作品に親しんでいる。小中学生の頃にタイムリーにブラック・ジャックがチャンピオンに連載されていたようにも記憶している。テレビでは「ジェッター・マルス」が放映されていて、たぶん亜流のアトムなんだろうということくらいは子供でも知っていた。
 ところでお話は確かに面白いのだが、読む前の印象よりかなり子供向けに描かれているという感じだ。設定が単純で、展開もかなり強引なところがある。躍動感のある活劇は見どころだが、やはりこれもやや単調という感じ。後の手塚作品のようなドラマチックな書き込みが少ない。どういう事情があったのかは知らないが、後に手塚のインタビューでもやっつけ仕事だったと語っていたといわれる。それでも一定のレベルを保っているし、やや謙遜も交じっているものと思われるが、しかし手塚自身は作品には満足していなかったのかもしれない。
 しかしながらそうでありながら、後の浦沢作品の礎となる作品だったということでもあるわけで、やはり当時の子供たちの心をしっかりとつかんでいたに違いない。大人の目線で物事を判断するのは、作品の質に対しては失敗の元である。対象を書き分けているということが作家の凄さで、時代に合わない対象があれこれ言っても仕方あるまい。
 とはいえ、ロボットの苦悩という面で考えてみると、人間が愚かな事と対照的に、アトムらのロボットたちは、実に純粋に物事をとらえ行動していることに気づかされる。必要最小限の科白からそのことはちゃんと伝わってくるし、最初は凶悪な敵であったものがアトムに敗れる頃になると、必ずしも悪くないことがわかってくる。それでもアトムは敵をやっつけ壊していく。その後に悲しく肩を落とすのである。痛快に戦う楽しい漫画であるということだけでなく、おそらく多くの少年たちは、この戦いの悲しい原因を作った人間に思いをはせて、アトムに期待を寄せ続けたに違いないのである。
 実際にその子供たちの末裔である未来の僕らは、そのような漫画の中の愚かな人間とは違うように成長したのだろうか。批判的にみるとそのような反省なしに居られない。もちろん物事はそんなに単純ではないにせよ、やはり愚かだから人間だっただと気づくことは悲しい。アトムの子供として恥じるべきなのであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藍より出でて藍より青し   プルートゥ

2015-01-27 | 読書

プルートゥ(全8巻)/浦沢直樹著(小学館)

 原作が手塚治虫の「鉄腕アトム・地上最大のロボット」のリメイク作品ということらしい。念のために原作の方も読んでみたが、もとになっているということはなんとなくわかるが、やはり独立した作品と考えた方が良さそうだ。もちろん偉大な手塚治虫に敬意をこめて作られた作品には違いないが、浦沢の才能が見事に光る傑作に思える。手塚治虫が生きていたらどう思うのかという問題があるわけだが、素直に考えて、作品に誘発されてさらにすごい作品を作ろうとしたのではなかろうか。それはそれで空恐ろしく素晴らしいことではなかろうか。
 ロボットを描きながら、実際には人間ドラマを描いているということにはなる。精密で限りなく人間に近いロボットになると、当然人間と同じようなことを考えるようになる。能力は人間よりはるかに高いわけで、それならはるかに崇高なことを考えるのかというと、実際には人間らしいことを考えるようになるということだ。あまりにも人間らしくて、既に人間が実行できないことをやることになるにせよ、元の感情は、人間の持つ憎悪や愛といったようなことになる。そのような感情を獲得するようなロボットたちは、当然そのこと自体に戸惑いや葛藤を覚えるようである。そうして激しい戦いを通して、その感情を確かなものにしていく。多くの命が失われるが、そのような感情の大切さは読者に必ず伝わるはずだ。そういうところが、まさにこの作品の神髄といっていいだろう。
 またこの作品の主人公は、事実上アトムではない。一番その人間の感情に近づき、そうしてその謎を解き明かすことになるゲジヒトというロボット刑事が、事実上の主人公と言っていいだろう。刑事という職業柄、人間やロボットたちが犯す犯罪を解いていくわけだが、そういう謎解きと相まって、様々な感情の謎までも解き明かしていく。ロボットに本能というようなものがあるとは思えないが、あたかも人間のような感情を操るにつれ、後発的に本能的な感情が芽生えていくというさまが、何とも逆説的で面白い。本能的な感情にはつまるところ理由など無いはずなんだが、ロボットの感情は経験によって獲得されるものであるらしい。もちろん人間だってたとえば年を取ると涙もろくなるというようなことが言われる訳だが、そういうことと体験というものは無関係ではあるまい。物語が積み重なることで感情の重層的な絡まりも深まり、そうしてもっとも人間らしい生き方を選択するロボットになっていくわけだ。その先には深い悲しみが待っているにせよ、そういえば寿命が定かでないロボットにとっては、おそらくそれはかなり厄介なものになりそうである。
 このような作品に刺激を受けて、さらに素晴らしいものが将来には生まれ得るかもしれない。そのような連鎖に対する挑戦状のような作品なのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

踏み出せその一歩を!たぶん、それが生きている証だ   LIFE!

2015-01-26 | 映画

LIFE!/ベン・ステイラー監督

 雑誌の写真の管理のような地味な仕事をしているサラリーマンの男が、ささやかな恋心を抱く女性との恋愛劇が軸になる。さらに紛失したかもしれないネガを探して、辺境の地を飛び回るうちに男らしく成長するというサクセスストーリーでもある。かなりぶっ飛んだコメディなんだが、映像が美しく、音楽の使い方も絶妙。もともとデビット・ボウイは映像に向く曲が多いとは思うが、荒唐無稽にドラマチックな映像とマッチして、実に感動的である。お話としてはかなり無茶なんだが、かなり勇気が湧く素晴らしい感動巨編といってもいい。ちゃんとおかしなところは笑えるので、自分なりに突っ込みを入れながら楽しんだらいいだろう。
 うだつの上がらない男が自分の空想世界に入り込むというネタは、日本の漫画では定番のギャグだが、まあ、あちらでもそういう人がいるんだな、と改めて思った。特にうだつが上がらない男の特権だとは思わないが、たとえば赤毛のアンのような少女なら好ましい世界なのに、少年どころか中年の男がこれだと、非常に情けないと思われるのは、世界共通認識のようだ。そうなんだが、やはりこれは普通の人にだって、多少はありそうなものだけどな、とは思う。空想に没頭するほどリアルな社会では上手く行ってないという比喩ではあるが、しかし現実社会で上手く行く奴だって、口に出して言わないだけで、空想上のシミュレーションくらいはやっているだろう。実際に空想に耽ってボーっとしてしまうと危ない奴と思われるのだろうが、そこまで本当に没頭できるなら、それはそれでかなりの才能という気がしないではなかった。だからこそ有名な写真家にも一目置かれる頼れる男、ということになるんだろうか。
 ネタバレになってもそう問題の無い映画かもしれないけれど、物語にはいろいろな伏線が張ってある。そういう展開になるという予想はつきにくいはずなんだが、謎解きが次々に明かされていき、それなりのカタルシスだ。成長物語と先に書いたが、しかしながらどうしてどうして! この男ただモノじゃないのである。外国人の顔つきについてははっきり言ってよく分からないところはあるんだが、ヤサ男がたくましくなっていく様が良く表れていて、ちょっとした勇気が人間を変えていくという象徴になっている。何事も行動主義だ、という信念が芽生える、絶好の啓蒙物語といえるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グローバルに嫉妬している人に   なぜローカル経済から日本は甦るのか

2015-01-25 | 読書

なぜローカル経済から日本は甦るのか/冨山和彦著(PHP新書)

 副題は「GとLの経済成長戦略」。Gはグローバル、Lはローカルのこと。いろんな企業がある中、一部のG企業にも大いに頑張ってもらう政策整備はもちろん必要だけれど、日本の多くは当然のようにL企業ばかりなので、それはGと同じでよいわけが無い。話は分けて、それぞれに頑張ってもらおう、という極めて普通のことを説いている。まあ、普通に仕事をしているような人々は前々からそういうことは分かっていたはずのことなんだけど、しかしながらメディアの言動は、どんな企業でもグローバルが合言葉になってしまっているし、しかし国内の頭の固い企業の多くは、Lの視点でせっかくのG企業の足を引っ張ったりしている。議論がかみ合わないばかりか、弊害ばかりという感じだ。そういうことをきちんと整理して、それぞれに普通に頑張ってもらおうということを、言っている訳だ。わざわざこんなことになってしまうのは、やはりこの整理が皆上手く言ってない現実がある為なんだろう。
 現在からちょっと先を俯瞰してみると、日本全体もそうだけれど、特に地方はすぐに危機的な状況に陥っていくだろう。人口減少社会にあって、その未来はそう簡単には変えられない。ただし、それは現在のままの延長であるという正確な見立てによるものだ。今のままだとどうにもならないが、やり方によってはまだ手はある。要するに本気で気づくかどうかで初動に差がつく。そうして差があった状態で前を走った方が断然有利である。
 実は自然に様々なものは変わり始めている。それは僕も実感として日々感じていることだ。だから普通に手を打ってきたし、今後もその変化の方針に変わりはない。他人のことに何かを言うつもりもない。ただ、退場する人たちには速やかに出て行ってもらいたいだけのことだ。普通に競争して、普通に参入もできる自由さが、結局は自分自身を助けることにもなると思ってもいる。しかし大勢はまだその前の段階だというだけに過ぎない。そうして残念ながら、今の権力者が自ら退出する段階を経ないと、今の状況も変わらないだろう。だから既に僕は諦めてもいる。気を付けなければならないことは、そうでありながら、自分もそれに染まらないことだけだ。
 頑張る人が普通に頑張るにはどうするかの設計は、僕らだけの手にゆだねられてはいない。そういう現実にあってこのような当たり前の書物が、普通に普通の認識になることが必要なんだと思う。言葉遣いには多少の乱暴さも感じるかもしれないが、これは実は本当にずっと前から言われていることを現代訳にしただけのことかもしれないのだ。繰り返すが要は多くの人がそのことに気づくこと。そうして今を認めることだ。現実からしか未来の手は打てない。要するに読んでくれよ頭の固い人、という本である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

評価をさせたい人に答えたくない訳

2015-01-24 | なんでもランキング

 アマゾンでの買い物が多いので、頻繁にマーケットプレイスでの評価をせよとのメールを貰う。要するに買い物をすると言っても中古ばかり買っている貧乏人に過ぎないという証明でもあるわけだが、問題はそうではなく、これの返答をしたことが無い(と思う)。一番の問題は煩わしいから、という一言で済むのだが、さらに注文やら確認やら、そもそもアマゾンからのメールがスパム並みに多いというのが第一にある。最初の頃は確認していた時代もあったが、面倒なんで開かないで全部消す。時々商品が無くて返金のお知らせだったり、実際に商品が届かなかったり、さらには商品が間違っていることがあるわけだが、年に換算しても数回のことだし、メールで確認が簡単かもしれないが、やはりネットに履歴があるので、結局そっちで確認する。さらにメールだと何の商品だったか分からないことが多くて、ネットだと画像付というのもあって助かる。重さもあるんだろうが、確認メールは便利なようで結局そんなに役には立たないということだ。もっとも仕事や他のことは適用外に役立つから、こと頻度が多すぎるアマゾンについては、という断りがいるわけだが…。
 このような欄を作っていることからも分かるように、僕にだって評価基準に点数を入れたり、ランキングを付けたりすることが嫌いなわけではないとは思う。特に読書は長年の習慣もあるから、自分なりの評価基準のようなものは当然ある。だからランキングすることはわけは無い。むしろ安易だからあえてやらないというのはあるかもしれない。自分の為に書いているものを遠慮することも無いとは思うが、しかし好きなものはともあれ、嫌いなものに0点を付けるというのが、それなりにめんどくさいということがあるような気がする。
 本や映画などならまだいいとは思うが、特に食べ物なんかはそういうことを強く思う。要するに他人がそういうことをしているのを目にすると、かなり不快に思うことが多いからかもしれない。いわゆる品が無いというか、人間性に悖る行為のようにも思える。他人の袖見て何とやらで、やはりそういうのは、やめておいた方が良いと思うのかもしれない。
 評価をするというのはジャッジであって、ある意味で神の行為である。スポーツであれば同じ人間でこれをやるので、審判にも時には評価が下る。しかし時のジャッジは基本的に覆さない。もちろん個人の評価はスポーツではないから別物であるとはいえるわけだが、人間としての越権であるとか、下品さというのはそういうことからくる感情なのではないか。まあ、ダメなものはダメで良いものは良いが、しかし本当にそれは絶対であろうはずは無いものだ。
 しかしながら元に戻るが、これを強制的に評価させようというシステムにつきあうのが単に面白くないだけなのかもしれない。他人に評価してほしい感情に付き合うのはめんどくさいのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まだノーベル賞がらみの質問は見当たらないけれど…(と書いた途端、でてましたけど)

2015-01-23 | net & 社会

 出版社の主催で村上春樹が質問に答える形式のサイトが立ち上がった。これまでにもあったが、何年ぶりのことだろう。このやり取りはこれまでのように、やはり後に出版されることになるんだろう。
 実をいうと、やはり十年くらい前にこういうのがあったので、せっせと質問した覚えがある。3回取り上げてもらって、一つはカットにも取り上げてもらった(水丸さんもありがとう)。大変にいい思い出だ。質問が載っている本も本棚にあるはずで、探すのが面倒だから探せないが、あることを知っているだけでしあわせである。
 で、今までの質問をぱらぱら(実際はマウスをぐりぐり)眺めていたら、デッケンズのデビットカッパーフィールドの登場人物の名前であるユーライア・ヒープのことが書かれてあった。僕はこの小説を読んだことが無かったから知らなかったが、ユーライア・ヒープなら知っている。なぜなら有名なロックバンド名だから。ググったら有名な話らしいから、まったくうかつだったな。それにしても世の中には知らないことであふれている。そういうのも、気恥ずかしいけど、仕合せですね。
 さて、こういうのを見ていると、確かに面白いのだけど、だんだん調子が出てくるというか、最初の頃のお答えのものからするとだんだん妙な方向に行っているような印象を受ける。最初の人は待ってました!という焦りと気合が空回りしている感じなんだが、結局村上氏ははぐらかしているので上手くかみ合ってない。たぶん、こういうトーンですよ、という事を伝えているということなんだろう。そうしてだんだんそういうのを飲み込んで質問している人も出てくる。これにも結局はぐらかしているのだけれど、そうそう、そういう感じだぜ!というような雰囲気は出てきていると思われる。もしくはそういうものからお答えするという事でもあるんだろう。妙なことを言う人がもっと増えるといいですね。
 村上春樹みたいなビッグネームだから成り立つ企画ではあるけど、質問を受けて答えるというのは、少しうらやましい気もする。嫉妬という事ではないんだが、そういう感じだとネタが尽きないという事だろうか。
でもしかしこれと言って何の変哲もない質問も数多くあるわけで、ギャラがどれくらいかは知らないけど、そういう質問にはすべて目を通すと言っているのだから、やはりそれなりに大変な作業という事なんだろう。質問は今月末で終了するけれど、答えるのはしばらく続けるらしい。やはり、大変なんだろうな。今のところ質問するかどうかさえ決めていないが、せっかくだから運試しをするかどうか、といったところだ。
 それにしても世の中には色々な仕事があるもんだな、とつくづく思う。もちろんこのような作業が、おそらく創作上何かの役に立っているとか、少なくともやってもいいという何かの気分のようなものがあってのことではあるんだろう。そういう作業にせっせと協力する喜びもまた然り。そうしてそれを眺めて楽しんでいるという事だから、商売が見事に成立しているわけだ。ネットのみのマネタイズというのは大変に困難だと言われるが、やはりできる人にはできるという事なんでありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハードな刑事でいてほしい   刑事マディガン

2015-01-22 | 映画

刑事マディガン/ドン・シーゲル監督

 ちょっと古くなった感じだが、猛烈に働く刑事像は、後の他国の刑事にもつながるものがあるように感じた。つまりある程度の映画的な刑事の原型がここにあるという感じ。正義なのか悪人なのか、もしくはその両方という感じの刑事たちが、まさに寝る間も惜しんで、しかし時には休憩もして、事件を追う姿を描いて居る。脱線もするが時には大真面目。境界線の上でどっちに転ぶのか危なっかしい感じもしないではないけれど、失敗は失敗、ある程度は仕方なかった面もあるけれど、なんとか汚名返上とばかりに活躍する。やはり上手くいくとは限らないのだけれど…。
 実際の刑事さんの実態はほとんど知らない。時折会うこともあるが、ちょっとくらいしか話をしないし、さらに酒を飲んだりしてリラックスしているような時しか話したことが無いかもしれない。そういう時は、とてもハードなお仕事をされている感じには見えない。たまたまそういう人しか知らないだけかもしれないけど、仕事中の刑事さんに出会うことはまれだから、やはり映画やドラマの印象でしか、仕事の感じは分かりえないのかもしれない。
 実情とどういう差異があるのかはそういう訳で知らないが、地域の問題があるにしても、やはり刑事さんというのは、ある程度はハードにやって欲しいという願望があるかもしれない。特に凶悪犯を追うような立場の人たちにおいて、一般の人よりは少しばかりは危険を強いられていることは間違いないだろう職業の人たちが、かなりハードな毎日を送っておられると考えただけで、なんとなく好ましく感じられるわけだ。そりゃあ、そればっかりじゃつらい毎日かもしれないけど、そうでなくちゃ刑事に憧れてなるような人は居なくなるんじゃなかろうか。
 刑事マディガンの世界は、だからこそある種の発明的な刑事像があるのではないかと思ったりした。厳密にそれ以前の刑事像なんて知らない訳だけど、現在まで続く刑事のスタイルのようなものが、この映画にあるように感じる。まだまだ荒削りで洗練されてはいないのだけど、映画としての刑事の活躍は、この延長線上にあるのではないか。
 しかしながらやはり拳銃の国の刑事さんというのは、大変なんだろうな。せめて映画ではかっこよくして、無垢な子供たちが憧れるような存在で居てほしいものだ。なり手がいなくなれば、その世界はそれなりに不幸だろう。人気過ぎる稼業になるというのもどうかと思うが、ハードだけど矜持のある刑事さんがいてくれなくては困るのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イスラーム国に加担するな

2015-01-21 | 時事

 イスラーム国による邦人人質殺害警告事件が起きたことで、その周辺で様々な意見がみられる。ただどうする? のみの便乗お騒がせもあるけれど、ショッキングな事件に戸惑うことは普通の反応だろう。これで否応なくテロとの戦いに事実上巻き込まれてしまった日本という図式に、どう考えたらいいのか分からない人も多いのではなかろうか。
 映像の真偽の問題などもあるが、日本人が最低二人は拘束されているらしいという事実も、やはり混乱の原因だ。現在のところ身代金の馬鹿げた額もあって、ただ殺されることだけを待っているという状態なのだが(しかしそのまま殺されるかは未知数だ)、交渉でどうにかなるとかどうとかいうが、それは一方的に相手が決めることに過ぎないだろう。
 しかしながらそれでも身代金を払うべきだという意見もあるのかもしれないが、払えないということ以上に、それは最も危険な行為だという認識もすべきところだろう。犯人の要求に応じる、さらにこれほどの高額に応じるということになれば、このテロは大成功ということになるから、さらにまたこのような事件を繰り返す動機になるだろう。また、本当にお金がわたるようなことになると、当然武器などを購入する資金などに流れるわけで、多くの人を事実上殺す手助けをするという意味にもつながる。もっと多くの人を殺していいというシグナルということであって、そうやってもっと血を流せという解釈にしかならない。要するに、そういう道はもともと無い選択ということになると思われる。
 また、事実上巻き込まれた感がある為に、さらに介入するという道が開けているということも考えられる。そういう部分には議論が必要だが、それはさらに集団的な自衛権とは何ら関係が無い。国際社会では集団的自衛権はどこの国でもそもそも持っているものだ。日本にだけないというのは、著しくバランスの悪い妙な国内だけの論理に過ぎない。そんなことを気にしてこんなことをやっているのなら、彼らはイスーラム国では無く日本人だろう。
 もともとイスラーム国は、多くのイスラム教の人間にとっても敵である。そこのところを今一度認識しなおす必要はあるだろう。過激な一部の人には共感があるのかもしれないが、イスラム教の人間が、このような卑劣な行為を支持しているような誤った考えこそ改めるべきだろう。テロの目的はそのような憎悪の連鎖が第一であろう。
 さらにこのような影響をくみ取れるようにできるだけショッキングに演出しているわけで、実際にこの事に反応して、政権批判をしたり、西側諸国との協調関係を緩めるなどのニュアンスが伝わることが、さらにテロを助長することにつがなることを考えるべきだろう。彼らはテロが成功することを願っているわけで、それはテロによる影響力が及ぶことを指している。政府の足かせになる議論が国内的に沸騰する事とは、事実上イスラーム国との協調の意味と同じであるということを、まずは理解すべきだ、という事になるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子育てをしなかった人間の発言

2015-01-21 | 掲示板

 久しぶりにステージ上でスピーチをする機会があった。これがたぶん最後のPTA(育友会)の役割みたいなものかな、という感慨はあったが、だからと言って進んでやりたいわけではない。いちおう原稿を書くように言われて提出し、その写しをコピーして手元にも持っておいたが、しかしその原稿は車の中の鞄に置いてきた。それはいつものことだが、理由はそうしないと落ち着かないから。ある程度退路を断たないと、頼っていけない。
 時間は8分程度という中途半端な枠である。50分程度の時間に4人が順繰りに話をする。会場からの質問の時間もあるらしくて、そういうことになっているのだろう。実は打ち合わせ会議というのが別日にあったらしいのだが、僕は出張と重なり欠席している。当日も打ち合わせと称して会場を事前に見物したりした。僕ら以外にも講演会があったり、アトラクションがあったりする大会である。そのアトラクションの吹奏楽とバトントワリングを披露する生徒さんたちは、午後の出演にもかかわらず、なんと8時過ぎには集合が掛かっていたらしい。ということで、僕らも基本的にはほとんど待ち時間。お弁当もらったので文句を言ってはいけない。
 ということでそのアトラクションも講演も終わっていよいよ出番。幸いなことにトップバッター。確かに妙な緊張感が無いではないが、嫌なことは早く終わるに越したことはない。
 原稿を書いたと言ったが、内容的には同じようなことだが、8分に収まるか自信は無い。司会の人から紹介があって、時計で終了時間をだいたい確認してマイクの前に立った。これも大変に幸運なことに、照明が眩しくて会場がぼんやりとしか見えない。同志の学校の仲間が真ん中あたりにいるらしいのも知っているし、出だしの声のトーンが低すぎたのをなんとなく修正も出来て、やっと落ち着いてきた。とりあえずはなんとかなるだろうと思ったら、〆の冗談もなんとなく浮かんできて、原稿のエピソードのしつこい部分は端折って、別の話を埋め込んで、時計を見たらもう1分前だったので、ちょっと最後は何だっけと思ったけど、まあ途中で思いついた冗談を使用して話を閉じた。いつものことだが、終わってみると少し話し足りない気もする。しかし実際にはもっと聞きたい人なんてそんなにいない訳で、あとはステージ端のテーブルで何を考えて座っていようか。
 話す内容としては、最初なんでそれなりに場がほぐれたりウケればそれでよかったのでどうでも良いとはいえるのだが、実は伝えたいことも無かったわけではない。まじめに強調して言えばよかったかもとは思うが、少し理解しづらいことかもしれないので、やはりそんなに強調しなくてよかったかもしれない。
 それというのも、自分なりの子育てなり考え方なりというような答えは明確に持ってないし、さらに何をやってきたかというのは話した通りで何もしていない。そうして自分が子供に対して何か影響があるかというのは、それでもまったく影響がないわけが無かろうということだ。父親というのは古来、憎悪の対象でもあったように、むしろ悪影響のある存在かもしれないではないか。子供に良いことを伝えたい思いというのは十分理解しているけれど、そういう善意を持っていたとしても、存在自体が悪い影響を与えうる自覚を持たないというのは、逆に問題なのではないか。しかし、そういう悪の存在であろうとも、子供はその影響下にありながら、なんとか育つこともできるということだ。多くの以前子供だった大人たちのように。それが僕なりのメッセージだ。そして言い訳の内容だった訳だ。
 まあでも話通りに伝わらなくてもいいことなんである。なぜならそれでもやはり子は育つ。取り返しがつかないという考えもあるだろうが、実は高校生くらいの人間になると、親の影響というのは微々たるものであるらしい。彼らは既に次のステップを踏んでいるものなのだ。悲しいけれどそれでいい。要は子供より自分のことの方を心配すべきなんだろう。それは自分自身も生きている存在だからということだ。課題はそういう実感が本当にあるのかどうか。それは子供にも必ず伝わるものであるはずだ。既にテーマは決まっているのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まったく色あせることのない不屈の最終西部劇   許されざる者

2015-01-20 | 映画

許されざる者/クイント・イーストウッド監督

 20年ぶりくらいに観た。イーストウッドは嫌いではなかったが、どちらかというと普通の娯楽的に好きだったに過ぎない。しかしこの映画を観てからは本当に変わった。自分がなんと薄っぺらい観方しかしてこなかったのかと。まあ、これだけの作品に触れると、誰だって思うだろうことに過ぎないんだが、痛快な娯楽作としての体裁でありながら、しかしながら自ら痛烈にそのこと自体も批評している。優れた映画というのは作品自体が、世の中のことを語ることも可能なのだ。
 作中の人物は、それでも普通に過ちを犯している。そしてそのこと自体に深く傷つき、もがいている。架空の人物であっても、ちゃんと物事を考えている。そういうこと自体を語っている映画というのは、実はそんなに多くは無い。もしくはそのようなことが観ている人に分かることは、そうそう多くは無い。ひとは物語のスジとして死んでしまうのだけれど、しかしみじめに死んでいったり、あっけなくに死んでしまったとしても、実際には生身の人間が血を流すということを本当には感じさせてはならない場合がある。いちいちそんなことをしていたら、とても身が持たない。そもそも西部劇のドンパチの痛快さというのは、仮の世界で派手に死ぬからこそカタルシスがあるのだ。悪い奴が当然の報いとして、いわば罰を受けて死んでいくのだ。
 おそらくイーストウッドは、そうやってたくさんの悪人たちをスクリーンの中でむやみに殺してきた俳優の代表だ。それで名をあげて数々のヒット作にも恵まれ、そうして映画まで作るような立場になった。そういう生き方をしてきた人間は、これからだって客の要求としては、どんどん悪人を殺してほしいという要求をヒシヒシと感じていたはずではなかろうか。いかにもかっこよく殺しさえしていれば、自分の役割はそれでいいのである。
 しかし、生身のイーストウッドは、おそらくそれだけでいいとは考えていなかったのだろう。簡単に言うと、その思いがこの映画の答えである。映画の中の殺し屋が、仕事として人を殺すことに何のためらいが必要というのか。しかしためらっていて人が殺せるのか。そういうことを、その矛盾を持ちながら、しかし殺さずにいられない立場になるとしたらどうなるのか。
 また、殺される人間の多くは、実は本当に殺されるべきだったのかということも、ちゃんと疑問符が残る描き方もされている。確かに許しがたい罪を犯したともいえるが、殺されるべき罪だったのだろうか。許しがたい背景は複雑で、むしろ普段はそこまで極悪人では無かったのかもしれない。仲間が悪かっただけかもしれないし、さらに運が悪かっただけかもしれない。それでも復讐の為に殺されなくてはならない立場になってしまう。そうして本当にみじめに死んでいってしまうのだ。
 ちゃんと娯楽作として成り立ったうえで、しかしここまで人の死を掘り下げた作品が他にあるだろうか。殺された家族が泣くだけが、罪の重さをはかる物差しではない。人を殺してなお許されるような極悪な人間を描いても、他人の命の重さを考えることが出来るのである。永遠に残る最後の西部劇として、最もふさわしい唯一の作品といっていいだろう。

 なお、リメイクの日本作品は未見。このような愛すべき作品があって尚も見るべきか、それは自分には分からない。だから比較はできないが、この作品無しにリメイクも無いことである。そういう意味では、元を観てない人にはやはり立ち戻る必要があるのではないか。老婆心ながらそう思う次第である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんという愛憎の渦だろうか   同じ月を見ている

2015-01-19 | 読書

同じ月を見ている(全7巻)/土田世紀著(小学館)

 お話はいわゆる三角関係の恋愛ものと言えなくもないのだが、厳密に言ってと言うか、普通に考えても、この関係は普通の三角関係から逸脱しすぎている。漫画だからという枠の問題ではなく、超絶しすぎていると言ってもいいかもしれない。人間的な誰でも持っている感情の起伏が主に描かれているのだが、これが日本規模というか、地球の規模からもはるかに逸脱する膨張を見せてしまう。まるで神々の物語なのだが、しかしそれは個人個人の心の中の風景であって、それが絵で表現されることで、壮絶なものを見てしまったということを感じさせられるわけだ。人間の他人を想う心というのは、ここまですさまじい宇宙であったなんてことが、実際に死んでしまう人を含めて、見事に描かれていると言っていい。というか、やはり行き過ぎてはいるんだけれど、しかし、いくら大げさすぎるように見えはしても、どこまでも人間的な感情のデフォルメであることに変わりはない。劇中の人物はもちろん激しい感情をあらわにして、いつも正常な行動をとることが出来なくなってしまうが、激しい感情と相まって、いつも血が飛び散るような、激しい暴力が行きかっていく。考えてみると人間というのは、こんなにも多くの暴力の中に身をさらしてきたものかと、改めて考えたりする。もちろん堅気の僕らは彼らのようにやくざな世界に足を踏み入れたことなど無いのだけれど、しかしこのような人間ドラマとしてなら、感情の移り変わりとしてならば、やはり激しく理解できるものがあるのである。それは作家の力量で得られる世界ではあるが、しかし根本にあるのは、普通の人間の持っている嫉妬や憎悪の世界なのだ。そうしてそれを軽々と超越してしまうのは、いわゆるポエム的な言葉の世界なのだ。まったく不思議な漫画である。
 主人公のドンちゃんは、子供の頃にいじめられている状況からも分かるように、見た目は単なる馬鹿である。おそらく理由があってそうなっている風に見えなくもないが、設定では天然でそういうことのようだ。しかし彼の最大の能力は相手の気持ちがわかって、なおかつそれを絵にできることであるようだ。時にそれが火に油を注ぐようなことにもなりかねないが、しかし基本的には彼の絵で、多くの人は心を動かされてしまう。表面的に彼のことを理解できる人は居ないが、成行き上深くかかわったものだけは、彼のスケールの大きな人間像に心を動かされ、そうして当然影響を受けるわけだ。ドンちゃんの親友のユキにしろテツにしろ、物心ついた時からこのドンちゃんに影響を受けてしまって、そうして人生が決まってしまったようなものである。しかし同時に、そのために誰にも負けない強い絆を作ることが出来たのかもしれない。
 激しい一方的な愛憎劇に少し戸惑うところも無いではないが、それを取ってしまうとこの作品の流れは生まれてこない。過剰だが素直に身を任せて読んでいると、たまらなくやはり自分が小さな存在に思えてきて、そうして感情の宇宙旅行へ、いつの間にか旅立ってしまうような感じなのである。この全力感が心地よくなると、今度は本当に涙が止まらなくなるような感覚に陥る。僕はすぐに泣く人間だが、こんなにも次々に泣かされて非常に困った。そしてベタに泣いたことがとても恥ずかしい。まるで演歌じゃないか。
 今となっては失われた人々、というか最初からいるはずのない人々が、見事に漫画の中には存在している。素晴らしき二次元の人間たちである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しくて為になる無茶な面白さ   とりあえず地球が滅びる前に

2015-01-18 | 読書

とりあえず地球が滅びる前に(全4巻)/ねむようこ著(小学館)

 弱小高校女子バスケットボールチームが県大会で優勝しなければ地球が滅亡するという設定の世紀末漫画。突然神といわれるイケメンの男からそう告げられ、かなり戸惑いながらも女子高生という時間を満喫している女の子たちが、日ごろの不満や学校生活・恋も交えながら葛藤し、地球滅亡を防ごうと奮闘するのである。こんな紹介で間違ってないよな、俺。
 まあ、かなりめちゃくちゃな内容なんだが、実際にそうなってしまうらしいことはとりあえず信じざるを得ない状況にはなる。だからもちろん、必死になって努力は最小限はやっているということも描かれている。しかしその努力する背景や実際の女の子たちの科白というか考え方には、その状況にあってもなお、かなりずれているというか面白おかしい。それが漫画だからというよりは、そのような彼女たちの個性のようなものが、逆に現代的な女の子たちのリアルな感性を伝えているという逆説的な設定なのである。
 そうはいっても、地球が終わるらしいことと、自分たちが楽しく生きていることのリアルさというものには、やはりそれなりにギャップがある。だから終始ふざけきっている状況を抜けることが出来ない訳だが、この無茶な状況を、どうせ無茶だということに本当に気づいて、そうして真剣に無茶なことをやって解決しようと努力することになる。自分たちが何を大切にして、そうして何のために真剣になれるのか、そういう心情においては、大変に真摯に、まっとうに向き合おうとしているわけである。正直に言ってそれでもかなりご都合的なことはたくさんあるわけだが、これがどういう訳か、それなりに感動的ですらある。その開き直りに緊迫感の無さとか、そういうことは無いではないが、けれどそれはギャグとしても面白いし、無茶なりに整合性もあるように思われる。そうして実際にわくわくするような躍動感はしっかりあるわけで、下手なスポ根ものよりも試合においての緊張感と期待ががぜん高まるのである(ま、そういう感じには少なくともなります程度だが)。
 設定もだけれどアイデアもいろいろ生きていて、展開もほとんど先が読めない。恋愛のエピソードもかなり重要だし、女子高生の楽しい気分の移り変わりも、男の僕でさえなるほどと感心させられるくらいは分かるような気もする。全4巻というまとまりもいいし、完成度はそれなりに高い。まったく荒唐無稽なのに、この世界観はかなり良くできていると改めて思うことだろう。
 正直に言うと、だからどうだというような漫画ではない。しかし単に面白いからいいじゃん、というようなおふざけだけでもない。僕には考えさせられることがそれなりにたくさんあったと思う。僕だって自分の今と将来のことを、あたかも地球が滅亡する前提で真剣に考えたことなど無かったかもしれない。いや、真剣な漫画ではないかもしれないけれど、しかしそういうことはちゃんと伝わるような気がする。楽しくて為になるというのは、あんがいこういうことなんじゃないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする