医師の一分/里見清一著(新潮新書)
最近はネットで現役の医者の愚痴というのは時々目にするようになった。特に臨床の若い医者というのは激務のようで、職場環境も悪いというか、ひどい患者もそれなりに多くて辟易させられているのだろう。どこも一緒だとはいえるかもしれないが、医者というのは誰もが勝手に崇高な立場にいるものだと思っているものだから、そういう人が公然と愚痴などを漏らすと、少しギョッとすることになる。少なくとも公然と愚痴るなら、もう少し知性があっても良かろうと思うのかもしれない。
そういう医者の愚痴り方の見本になるかは分からないが、出版されるような本で医者が愚痴るとこうなるという、見本のような本かもしれない。著者は癌を専門とする現役の医者らしい。見本としては品の無いところも無いではないが、しかしある意味で大変に正直にまっとうに愚痴っておられて立派である。死と対面する立場に居ながら、公然と人の命は平等で無いと言い切る勇気が、何より素晴らしいと思う。
書いてあるエピソードがいろいろあるのだが、いわゆる患者にはいろいろいるわけだから、そういうことに対面させられる医者にもいろいろ苦痛があるということだ。患者の方にも命にかかわる問題であるから、真剣にわがままを言うというのがあるのかもしれない。著者の方も人間的に達観する都合のいい人ばかりが人間らしいわけではないと理解しながらも、やはり不条理に耐えるストレスというものについて、それなりに理解してもらいたいという思いがあるのではなかろうか。医者というのはいわば医療の専門家であるわけで、それこそ患者のためを思ってやっているわけだが、患者の方の何が何でも治す方法があるはずであるという思いに、必ずしも全部応えられるはずも無いのである。何しろ悪いのは病気である。さらに患者にも背景があって、自殺しようとしているのに死ねないのから、子供なのに難病であるとかいうような幅がある。全部が同じわけがあるはずないと正直に理解できるのだが、しかしそれを認めてしまうというのは、いわゆる功利主義である。偉い人と偉くない人の命の差も当然あるということにもなるし、ジレンマは消えるものでは無い。
助かる助からない問題ということには、今は助かるがその助かり具合のさじ加減というのもある。いわゆるご高齢で、高度な医療を施しても、余命がいくらも伸びないという場合があるだろう。しかしこれは難しい問題があって、本人はもちろん、家族にしてみたところで、少しであっても何とかして欲しいという思いは、必ずしも嘘ではないだろう。医療費の高騰の問題もあるが、いつ死んだらいいのかという自然問題に、人間が介入するのが医療だということでもあって、悩みは尽きない。結局80や90になっても心臓弁の手術が施されたりする現実がある。植物状態であっても、やる場合だってあるらしい。やらなくていいとは公然とは言えないまでも、現場を知れば考えざるを得ない問題であろう。
つくづく医者なんてものは因果な商売だなと思う。これを読んで諦める人が増えたら、いいことがあるかどうかは分からないけれど、既になってしまった人はともかく、あんまり優秀な人が目指すべき世界ではなさそうだ。しかしながらさらに悲劇なのは、やはりそれなりに優秀そうな人が、医者の中に含まれているということかもしれない。巻末のドキュメントというか小説というか、おそらく実話をもとにしている文章があるのだが、辛口の随筆の後にこういうものを読むと、やはり医者でなくともつらい。あんまり心臓の強すぎる人が医者になるのも良くないのかもしれないが、ナイーブすぎる人が医者になるのも不幸だろう。これを読んで患者がおとなしくなるということも無いだろうし、悲劇はこれからも繰り返されるのだろう。