カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

バットマンは終わって欲しい   ダークナイト ライジング

2013-01-31 | 映画

ダークナイト ライジング/クリストファー・ノーラン監督

 素直に言えることは、観終わってしばらくは確かに感動していたんだが、どういう訳だがあとから思い起こしてみると、劇中に疑問に思ってしまったことを、いくつも思い起こしてしまったことだ。オープニングもドキドキしたし、ペインの圧倒的な強くて邪悪な感じも悪くは無かった。そういう部分こそこの映画を面白くしている最大の要素だから、(前作の)ジョーカーの良さとは違う次元で、十分評価できるとは言えるだろう。それは映画を観ていて素直に満足感のあったところである。
 そうなのだが、ペインらが完全にゴッサムシティを制圧してから、当然逆襲してくるだろうバットマンの登場までが、少しばかり不可解に思えることが多すぎるように感じた。ちょっと再生が観念的過ぎるせいで、かえってご都合主義のような感じもするし、逆襲の伏線のためだけの状況保持にしては不自然なことが多すぎるようなきらいもある。アメリカ政府(ワシントンがあるのか分からないけど)はいったい何をやってるんだ!という妙な怒りがわいてくるのだ。
 さらに飛んでラストもそれでいいのかもしれないが、まあ、ちょっと不完全燃焼かな、という気もする。そういうもんだよ、と心の中で自分を慰める自分がいる感じ。だってそういう映画なんだから仕方がないじゃないか、と自分で言い訳を作って無理に納得しているという感じかもしれない。
 そういうことは大変にマイナスの多い、はっきり言って破綻の多い作品だったということは間違いないのだけれど、それでも面白かったというのは事実である。そこのあたりはちょっと自己矛盾が含まれているかもしれないが、前作が素晴らしすぎたために辛口になっているところもあるのは事実だと思う。一般的な娯楽映画水準から言ったら、それはもう、大変に楽しめる映画であったことは確かだ。繰り返すが、どんどん絶望に追い込まれていく悪の勢力の拡大の仕方はなかなか圧巻で、テロリストはその一部でも模倣すると、かなりインパクトの強い社会的な影響を与えることが出来るということが言えるのではないか。もちろん現実にはそれは困るが、単純に憎悪の連鎖を狙ったテロなんてものは、いい加減やめてもらいたいものだ(この辺は映画と関係ないが…)。
 自己分裂的な感想になってしまうのだが、あんまり考えない人には素直にお勧めで、ちょっとめんどくさい性格の人には、用心が必要なスジになってしまっている大作映画である。
 人間は誰だって完全じゃないのがいいところなので、僕はノーラン監督はやっぱり好きですね。考え過ぎて盛りだくさんになると、人間はちょっと破綻する事もあるということなんじゃないでしょうか。そういう突っ込みも含めて、見返しても面白いだろう映画ということで、やはり何となく自分を慰めているのかな(?)。素直に完結編であって欲しい映画でありました。
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断る理由

2013-01-30 | culture

 新聞を読んでいたら徒然草の一節の紹介(第31段)があり、内容としては「雪の降る朝、ある人に言わなければならない事があり用件だけ記した手紙を書いたところ、返事に雪について一言もおっしゃらないような無粋な方の頼み事は聞く事が出来ない。残念である。とあった」というものであった。それを受けてアメリカ式の用件のみ手紙(メール)との比較を交えたエッセイであった。
 なるほど、そうなのであるし、よく分かるのだけれど、徒然草の内容については何となく引っかかるものがある。時候の挨拶というのは人間関係を和らげる作用もあって、場合によっては大切だし、日本人の感性としてはよくわかる話ではある。しかしながらどのような用件だったかはよく分からないが、頼みごとであったというのは間違いなさそうだ。頼みごとであるならば、引き受けるか受けないかということなので、乗り気でない場合は、お断りをしなければならない。しかしながらその断る理由というものを考えるのも誠に面倒なものなのである。いろいろ思案することになるだろうけれど、相手に非のあったほうが断りやすいという場合もあるのではないか。この場合は雪が降ったという印象的な出来事があった日のことである。そのことを理由にするのは、無粋であるのはそうだけれど、天気の所為だとして諦める事も出来るのではないか。配慮として日本人的な感じもあるし、上手い言いわけである。
 吉田兼好さんという人がどういう人だったのかは僕は知らないけど、エッセイは上手だったかもしれないが、嫌われ者だったかもしれない。いろいろと風情のある事を書きながら無粋なことをやったものである。もちろんそういう経験が、粋なことへの憧憬へつながったのかもしれない。頼み事は(内容にもよるが)出向いて行った方が良かったのではなかったか、と思ったことだった。
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メンディングテープ

2013-01-29 | 雑記
 特に文房具フェチってわけでもないんだけど、マイ・ブームなメンディングテープ。
 容器が可愛いのもいいんだけど、くっつき具合がよいというか。薄い乳色のテープを張り付けると透明になるという感じもなかなかよい。その上テープの上に文字を書けるのもいい感じです。
 本や資料なんかにポストイット張り付けるのも好きだし、もともとセロテープも好きだったかもしれない。メモした紙を机の周りにぺたぺた張り付けたりしていた訳だが、今やそれがすっかりメンディングテープに代替わりしたという訳。
 剥がした後の残らない感じもよくて、さらに少し古くなっても、いわゆるカピカピになりにくい感じもする。最近は商店やなんかでもメンディングで張り付けられたものもけっこう目につくようになり、着実に普及してるんだなあと実感もしている。この感覚に親しんでしまうと、セロテープには戻れないというような気分になります。
 恨みも何にも無い訳だが、セロさんは、いずれ淘汰されていくんではないでしょうか。
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苦労人、って言葉が浮かんできたよ

2013-01-28 | 音楽
Shugo Tokumaru - "Katachi" (Official Music Video)


 これってちょっと凄くないですか。音楽というより「感涙記」の方かな、って迷ってしまった。
 他のアニメーションだってそれなりに苦労しているだろうことは象像できるんだけど、これだとその苦労の跡が目の前に残っているということも大きいのかもしれない。

 単純に面白いので、また増殖して別の作品を目にするようになるかもしれませんね。
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当初怒りの記事だったが…

2013-01-27 | 時事

 教職員の早期退職問題には素朴な疑問がある。当初やり玉に挙がったのは埼玉だったが、後に同じように条例改正がなされた県もあるようである。また、やはり同じように時期的に早く改正というのが佐賀と徳島と熊本の三県らしい。もちろんそこからも早期退職はあるらしい。単純に埼玉県の人数が突出しているように見えるが、たぶん人口比だろう。
 教頭や担任を受け持つ教職員が含まれているということで、批判の対象にされるのはもっともだと思われるが、条例が改正される時期があらかじめ分かっていなかったようなフシがあって、まずは教頭や担任になる前に、その時期の退職を想定していない人事だったようである。退職時期というのは、やはり一般企業でも規定があるはずで、途中で変更される場合もある程度の考慮があってしかるべきとも思える。教職員について今までこのような事件が起こったということがあるのかは知らないが、恐らく今までは3月末が一般的なのであろう。さらにそのような条例施行時期が県によって違うというのは、やはり何か怪しいものを感じる。
 もちろん教職員というのは県の職員という公務員だから、一般の人から批判される対象であるのは当然である。それが教員であるまえに、公僕であるということであろう。しかしながらその立場が、恐らく一般の人からすれば羨まれるくらいの厚遇になっているという不満を借りて、このような情勢になっているという感も無いではない。さらにその他の教職員への社会的な鬱積や不満があるということなのかもしれない。
 そうではあるが、やはり途中からのルール改正においては、少しばかり同情の余地があるやにも思われる。退職しない教員が居ることから、非業な人達であるというコントラストが明確になっているものの、しかしながら退職しない人間が納得しているとも考えづらい。嫌嫌教員生活をまっとうするのであれば、やはりそれは一種の社会的制裁のようなものだろう。もっと平たく言うと、いじめである。
 もちろんそれでも厚遇には変わりないということも言えそうなのだが、妬みで人を引きずり下ろすような感覚というのは、まるで中国の下放のようなものではないか。それでもこのような政策を実行するという側の人間がおり、そしてそれを受けて辞めるという人間が生まれる。どちらとも情けない事には違いないが、一方だけが道義的に何もないというのが、さらに怪しい。子供がいじめで自殺するのを食い止めるなんてことは、この国には不可能だろう。
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知らんかっただけだけど

2013-01-26 | 音楽
[日本語字幕] PSY(??) - Gangnam Style(?????)


 何故か「マイヤフ~」とつぶやきながら廊下を歩いていたら、「古っ」っと、かなり馬鹿にされた。じゃあ、今はどんなのが流行りなんだよ、と聞いたら、昨年だったらこんな感じなんだという。(何故今じゃ無いのか聞きそびれた)
 ぜんぜん知らんかったよ。
 まあ、知らなくてもよかったのかもしれないけど、ぜんぜん新しさを感じないところが、僕の古さということかもしれない。いや、そういうのが巡り巡ってそうなんだろうな、というのは分かるんですけどね。世の中というのは本当に不思議だ。
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実際ナイーブでまいっている

2013-01-25 | 雑記
 いろいろあるのは分かるのだけど、やっぱり営業の人の話を聞くのはつらいものである。見積もりを出させてくれとかいろいろ言った挙句、比較資料を作るためにあれこれ調べさせられる。そうしてやはりどうこうお得ですということを熱心におっしゃる訳だ。中にはそれなりに義理のある人もいてむげに断れなくて、本当に会うだけなんだからというような事だったはずなのに、本当に何度も足しげく通ってこられて、実は本当はそれとなく残念ながらとお断りしても、見積もりだけだからとか言って職場の事務員に取り込んだりして仕方なしにさらに話を聞いたりしてしまって、断ることを前提にと言って会っているのに、最後にはこれだけお得ですよ、どうですか? と当たり前のように言ってくるのである。
 正直言ってこれくらい時間を割いたコストがあるんだから、既に大変に割高になってしまっている訳だし、今後もこんなことが続くのは御免だから断固結局は断ってしまう。
 自分が悪かったという嫌悪感だけが残る訳で、居留守を使うような人というのは、あんがい心の優しい人なんだろうな、と思うのであった。
 それにしてもこれって何度かボヤいてるな。やっぱりおいら成長してないだけかも知んない。
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西洋的誠実さの告白   哲学、女、唄、そして…

2013-01-24 | 読書
哲学、女、唄、そして…/ポール・ファイヤアーベント著(産業図書)

 ファイヤアーベントという人を知っていた訳ではない。科学哲学者として有名らしいのだけど、日本ではそんなになじみが無いのではないか。もちろん自分の無知を差し置いての話だが…。その人の自伝が何故本棚にあるのかというのはミステリーだが、それは毎度のことである。そしてなんとも無しに手にとってフムフムと読んだというわけだ。科学哲学に興味がある訳でも無いし、それに書かれてあることもそんなに理解できた訳ではない。ユーモアのある人らしいけど、翻訳の所為か、もちろん読む力もあってか、よく分からない事も多かった。奔放な人らしいとも思うし、戦争に行ったり、大変な思いをしたらしいことも分かる。4度も結婚したようだからもの好きかもしれないし、しかし不能だったとも書いている。科学的に子供を欲しがったような事も書いているので、実のところどんな感じかはよく分からないのだけれど。
 大学の先生というものがこのような存在なのかというと、やはり日本のそれとはかなり違う気もする。それなりに有能な人だから、特別待遇があったのだろうか。いくつかの大学を掛け持ちしたりするが、多くはアメリカだったようだ。オーストリア生まれのヨーロッパ人だから、英語圏の人のような感じではないが、しかし軸足はアメリカで花開いたということなんだろうか。しかし歌も歌うらしく、趣味的には極めてヨーロッパ的だ。歌手としてもやって行けたかもしれないと匂わせるところもあって、そのようなものを目指していたのかもしれない。しかしやはり教師として奔放にふるまっているように見える。働いている風ではなく、しかし大学からは欲しがられているようでもある。真面目に講義をしているようにも見えないが、しかし人気もある人だったようだ。学問的に認められるということが、人としての一生をそれなりに謳歌させうる重要な事であるということは、ある程度明白そうに思える。そうしてやはり、4度の結婚は、学校と関係があるはずなのである。
 しかしながらうらやましい人生かというと、必ずしもそれはよく分からない。楽しんでいる風でもあるし、苦しんでいる風でもある。日本人からすると奔放だけれど、しかしどこか生真面目に思索を繰り返している事が分かる。最後の奥さんの書いたあとがきからも、戦争の傷からくる痛みと、病気による痛みと、そして膨大な読書を通しての真摯さも紹介されている。実はかなり真面目な人だったのではあるまいか。いや、不真面目そうにふるまっているのは、人生を純粋に楽しもうとしているという考え方のみのことではないのか。
 やはりこれはユーモアの所為かもしれない。書いてある文章というのは、その本人が回想しているのである。主観が悪いわけではもちろんないが、時に読者は騙される。自伝は真実でもあり虚構でもある。本人にしか知りえない真実は、他人には分からない。克明に正直に告白されているものであっても、どこかそこには読みはかる力量を必要とする気がする。もちろんだからこそ自伝は面白いのかもしれず、時には小説を凌駕する力を生み出す。
 日本人はあまり自伝を書かないが(成功した経営者を除く)、言いたくない事が多いのかもしれない。そのまま墓場に持って行った方がいい。その様に考えているのかもしれない。自分のことだから勝手に色づけしてもよさそうだと思うのだが、正直さの性質が、たぶん違うということなのだろう。
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本当に出会いたいと思っていいのか

2013-01-23 | HORROR

 現在火星探査が行われており、地球以外の生命の発見があるのではないかという期待を集めている。それはそれで大変な発見だし、心がふるえるようなわくわく感があるのは確かだ。是非とも成果があがって欲しいと願っている。
 一方で、やはり地球外生命といっても、子供の頃に親しんだ、いわゆる火星人というような地球外知的生命というのは、やっぱり近くには居ないらしいな、という思いは新たにするのである。宇宙の広大さを考えると地球外生命や知的生命は必ずいるはずであるという確率的な可能性は十分に理解できることとはいえ、しかしやはりその実物に出会えるか否かという問題になると、地球人である人間の科学力では、自分の生きている間にそのような出来事が起こる可能性も、また随分低いらしいということも言えると思う。いつ起こってもおかしくないが、しかしそれは今であるとは考えにくいのである。
 地球外知的生命と出会ってみたいというのは単純な興味であるのだが、しかしやはり出会えるとしたら完全なる相手任せであるというのが実態なのである。そうであるとすると、それは必ず地球人よりはるかに文明的であるというか、科学的な何か別次元の力なり優位性を持った生命体であるということになる。もっと平たく言うと、我々より必ず優れた面であったり強力な力であったりするものを持ったものでなければ、我々はその生命に出会うことは無いのである。必ず我々より強い存在としか出会えない状況で相手に出会ってしまうというのは、実は大変にリスキーな事なのではあるまいか。
 つまりこれは過去に考えていたSF的世界観である、今では馬鹿げているとさえ思われるような火星人襲撃の様な、そういう恐怖の図式である。そうではないという保証が、やはり何もないということに違いなくて、いや、むしろそうである確率の方が高いのではではないかと思うのだ。優れた文明を持つ生命体がそのような凶暴なものである訳がない、という考えも分かるのだけれど、しかしそもそもそのような高い知性を持った生命体が、何故劣った人類とコンタクトを取るような選択をするのであろうか。
 同じような興味本位である可能性も無いではないが、恐らく現実の物理法則を越えてまでこちらに来ようとすることは、大変にリスキーなことに違いないのである。いわば命をかけて会いに来るというのは、その命に見合った何かの目的が無ければ行い得ない事なのではないか。それが単純なる侵略では無いとしても、はたして地球人にとって幸いなことであると考える方が、なんだかおめでたいという気がしないではない。さらに来て見て彼等が地球や地球人に落胆してしまったとしたら、はるかに優位にある生命体は、我らの処置をどのようにするというのであろうか。
 それでも会いに来てほしいという願いを持つのは、別に悪いことではないかもしれない。悪くは無いが、同時にかなり強烈に、地球人にとって良い生命体であるようにという願いも、併せてしておく必要があるだけのことである。我々の生命は彼らの手の内にある。慈悲なき別の人類であれば、我々を放っておいて欲しいものである。
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手袋にキスは名場面です   お嬢さん乾杯

2013-01-22 | 映画

お嬢さん乾杯/木下恵介監督

 没落華族の娘と成金実業家青年の見合いを描いたコメディ。身分というか育ちの違う人間のすれ違いや、背景にある事情を越えた感情の綾を描いた作品とも言える。これは当時の日本の事情だが、しかし同時になんだかアメリカ映画的な、スカッとした粘着性の少ない作風になっている。いい意味で娯楽に徹しているところがいいのかもしれない。
 当時の若者の風俗を描いているのだが、やはり今の目で見るとなんだかオジサンくさい。すぐに飲んだり歌ったり踊ったり殴ったりしている。昔の人は子供っぽいなあと思えると同時に、妙に封建的なところがあったりする。原節子は確かに日本人離れした現代的な顔つきだが、しかし当時の人々にとってはスターだったろうし、そんなに違和感は無かったかもしれない。主人公の関口宏の父親も今でいう青年実業家なんだけれど、やはりあくまで町工場のオヤジ的なところがあって、金儲けは上手いんだと自分で言ってるけど、今でいう金儲けが上手いということでは無くて、やはり実力者なのかもしれないとは思わせられる。いや、今の実業家が実力が無い人という訳ではないけど、いわゆる手に職系の堅実さがあるような感じというか…。
 没落お嬢さんには事情あって、いわば家族を救うお金のために見合いに同意している訳だが、段々とそのガサツだが人のよい青年に惹かれていく。最初はむしろ乗り気じゃなかった青年実業家の方は、いっぺんで娘の美しさに魅了されて夢中になるのだが、当然のように、本当に心から愛されたいと望むようになる。しかしそこには身分の違いと、女性の心を分からない未熟な男の姿がある。
 コメディなので意外なドタバタがあったりして、妙に笑わせられはするのだが、お話としてはまっとうな恋愛劇である。男女は心からの愛をお互いに欲しているのである。お金はきっかけであったり副次的なものであって、相手から好かれるという思いこそが、やはり本当のしあわせであるということだろう。それは現実にもフィクションじゃないと、僕も信じておりますが。

 ひとつだけ引っかかったのは、以前の婚約の相手と何も無かったと告白するくだりがあるんだけど、僕としては何かあった方が悩みが大きくてよかったんじゃないかなあ、などとも思った。まあ気にならない訳は無いだろうけど、そういうのをひっくるめて愛さずにはいられない、という思いこそ尊かったりするんではあるまいか。処女性が大切だというような考えは、どうにも僕には分からんこってす。そういうのって見栄というかなんというか、だからといって今自分の感じている愛情とは何の関係も無い気がするんですけどね。いっそのこと嘘を言ってまでという女心というのであれば、そうですか、というしか無くて、しかしいつまでも騙されたままでいいか、というのもお互いかえって悲しくないだろうか。聞きたくない話まで聞く必要も無いけど、黙ってたいならそれでいいという気もするし、あえて聞かないままでもいいとも思う。いっそのことミステリーでもいい訳で、そういうことにこだわらない人生を送りたいものであります。
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逃亡の訳

2013-01-21 | 雑記

 子供の頃からアニメ番組はよく見ていたと思うんだけど、やはり好みというか傾向というか、どうもぽっかりと同世代との共通感の欠ける分野というものがある。それが宇宙戦艦ヤマトと機動戦士ガンダムなのである。何故なのかはよく考えたことが無かったのだが、さらにぜんぜん知らない訳では無くて多少は見たはずなんだけど、まあ、要するに興味が持続しなかった訳だ。
 それで何故だかやはりあとになってエヴァンゲリオンというのがあって、これも映画版は見た筈なんだが、やはりぽっかりとあんまり記憶がない。似てないということも言えるかもしれないが、何となく似てるような気がしないではない。そうしてやはり傾向として興味がわかなかったということなんだろう。
 好き好きというのがあるから、そう言ってしまうとそれまでなんだけど、やはり話題について行けなくて、むしろどうしてこうまで同世代の男たちを魅了したこれらの作品群が僕からすり抜けてしまったのだろうか。
 エヴァはちょっと世代が違うので、それに厳密にいうとヤマトも実は少し上の世代という気がするので、問題はガンダムかな、という気もする。そうしてやはりアムロが嫌いとはっきり記憶がある。僕はああいうタイプの男がものすごく嫌いらしいのである。ではアムロがどういう男かというと、ものすごくデフォルメして言うと、優柔不断な天才ということができそうだ。つまり僕は優柔不断な天才が嫌なのだろう。
 なんでそんな事を思い出したのかというと、僕なりの日常生活においての伏線があるのだが、それは秘密である。つまりはまあ、そういうことさ。
 何事も明確にクリアなことなんてものは少ないのだけれど、堂々巡りをして物事がなかなか進まないのはストレスがたまるものである。そういうことを推し進めているような人が世の中にはいて、どうにも僕を妨害しているのではなかろうかと勘繰ってしまうこともある訳だ。ここではそれをアムロ・タイプと呼んでしまおう。
 表面的にはお付き合いする場合も無いではないが、実際にはそういう場合、僕はたいてい逃亡する。付き合う時間がもったいないと感じるからである。身に覚えのある人は怒らなくてもよいと思う。何故なら僕はあなたの天才ぶりに嫉妬しているのであろうから。
 天才は居てもかまわないけど、それプラスはやはり困る。そうしてかみ合わないものが無理をすることは無い。お互いの幸福のために今は離れておきましょう。
 だからといって、別の例えばシャアのことが好きな訳でもないので、やはり全体的な相性なんでしょうね。
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かたき討ちこそ活劇の基本   アフリカの女王

2013-01-20 | 映画
かたき討ちこそ活劇の基本
アフリカの女王/ジョン・ヒューストン監督

 最初の印象は、我らがボギーがなんじゃこりゃ、と正直に感じたのだが、これでオスカーを受賞したのだとか。なるほど。やはりこの意外性が時代にうけたということなんだろう。
 お話としてはいかんせん古いので、活劇の面白さというよりも無謀さの方が際立っているように見える。昔の女性の頑固さというのが男を苦しめる(楽しませる)典型ということかもしれない。無理は承知でかたき討ちに付き合わされる上、いろいろと意地悪をされるように見える。これが男だったら単なる極悪人で、ちっとも楽しくないことは明らかだけど、女性が意地を張るから面白いというのは、やはり時代の中の抑圧がそうさせているのだろう。
 それにしてもアフリカの話だけれど白人の都合の話ばかりで、そこのところも時代といえば時代だ。乗りこんできた人々も苦労したのだろうけれど、乗り込まれて勝手に家を焼かれたり戦争に駆り出された現地の黒人の人々は、なんだか本当に背景のような存在だ。明確に敵であるドイツ人をやっつければいいという単純さが、平和といえばそうなのかもしれないが…。
 そうではあるけれど、川下りが痛快だというのは、後の映画でもかなり影響のあることが分かる。どこかで見たようなデジャヴ感もあって、それはおそらくこの映画のオマージュの込められた場面を、どこかで見た記憶の所為だろう。単なる急流を下るだけでなく、事故を起こしても自分らの力で何とか乗り切るということも含めて、痛快な気分を味わうことが出来る。二転三転する危機と、それを打開するある種のご都合主義とのバランスが、観る者を酔わせる映画というところだろう。
 まあ、娯楽に忠実につくられた王道であるということで、ご都合には目をつぶることにしよう。いちいち気にしてたら楽しめないものね。
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一億人突破って

2013-01-19 | net & 社会
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD170LX_X10C13A1TJ2000/
 いまだにガラケーなのでちょっとびっくり。というかこのLINEというのをつれあいが見ているのは知っている。面白い写真があがるみたいで、時々見せてもらう。でもよく分かっていなくて、メールのやり取りみたいに、共通の相手のものを見ることが出来るらしいということしか知らなかった。まあ、考えてみると、極めてFB的なのかもしれないし、さらにハードルの低い、しかし連携の取れやすいツールということなのかもしれない。
なんでも危機論で語るのは好きじゃないけど、このあたりSNSの関係って、簡単に主導権が変わる可能性があるということなんだろう。
もちろん今の僕の携帯が壊れるということになると、スマホに変えざるを得ないということでもあるんだと思う。そして当たり前のように利用することになるんだろう。それでまた風景が変わることになるのかもしれないし、そんなに変化しないかもしれない。今はどうしようもないのでとにかく様子見だけれど、ある程度習慣的にFBになっているものがホントに変わるもんだろかね、と半信半疑だ。いやまあ、変わる前だからそんなもんでいい訳だけれど、その前にまた、違うものが登場するんだろうか。いまだに録音媒体でMDを使い続けているような人間というのは、本当に化石化していくような切なさを覚えるのであった。
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ノビた麺

2013-01-18 | 

 先日ノビてしまったカップ麺が好きだという人がいて、ぜんぜん共感できなかったのだが、本当にひとの好みというのは不思議なものである。ノビた麺でもぜんぜん食えない訳ではないが、やはり残念である。
 と思っていたんだが、息子の食べ残しのラーメンがドンブリに残っている。まだほんの少し麺がある。当然のびていて、見た目にも残念だ。そうしてつまんでみると、やはりのびている。一口食べてみて、のびて無い麺より当然美味しくは無いと思う。そうなんだけれど、本当にそんなに不味いのか。いや、不味いのだけれど、マズウマという言葉が頭に浮かぶ。その不味さそのものが、なんだかいける気もする。
 そう言えばカップ麺にお湯を注いでいると電話がかかってきて、しばらく用件を話していると、すっかり麺がのびてしまっていた事があった。麺がスープを吸ってしまって膨張している。自分の長電話と相手の間の悪さを罵るのだが、しかしなんだか諦めもつかない。少しばかり冷めているが、そのままかまわず啜ってしまった。なんだか情けないような気分にはなるが、ぜんぜん食えない訳ではない。そうして結局完食してしまったではないか。
 食い意地が張っているだけと言われればそれまで。あの不味さは進んで食べる気になれないだけのことで、ぜんぜん食えないレベルでは無い。好きかといわれると好きだとは言えない。それでもちょっとだけ懐かしいような気もするから、食の記憶というのは不思議なものである。
 好きといえる感性は無防備だが、しかしあんがい正直だったのかもしれないな、などと思いはするのであった。
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知らぬが…   廃市

2013-01-17 | 映画

廃市/大林宣彦監督

 ひとことで言うとひと夏の恋&ミステリー作品。というか、文学作品を映像でなぞったという感じかもしれない。
 柳川のまちは体験的に知っているので、このような退廃的な感じがちょっと不思議ということも言えるかもしれない。ウナギを食うべきだと思う訳だが、観光映画ということではなさそうだ。卒論を書きに静かなところに来たのだろうけれど、大人の目からすると、最初から見合いなのでは無かったのか、と思ったりする。いわゆる大人はあんまり登場しないのだけど、そのような大人の作為があって、ひと夏を過ごしたのではないだろうか。
 狭い社会の家の中の恋愛のミステリーがあるというのは、まあ、そうかもしれないし、いろいろ言い訳を聞いていて、どうでもよくはなってしまう。結果的にいちばん悲しい選択になってしまったということなんだろうけれど、単なる勘違いかもしれないとも思える。そんなに嫌なら逃げだせばいいのだけれど、貴族的な金持ち社会というのは、その生活から逃れられないものかもとも思う。日本は狭いというけれど、実はあんがい広いのにな、とも思うのである。外国だってあんがい遠くも無い。狭いのは狭い社会にいるという、個人の捉われ方に過ぎないのではあるまいか。
 このような文学的な感性の心地よさを表したかったということは分かる。田舎に住んでいる若い女に憧れる気持ちも分かる。実際にこのような物語はゴマンと描かれており、西洋作品でもそのような人間の精神の解放のようなものは、普通にあることだろいうことは分かる。日常に帰ると廃れるものらしく、だから思い出として貴重ということもあるかもしれない。場合によっては、後の人生にも影響が大きい。儚いが、しかし思いとしては強い。現実には無いものだから、いつまでも大切だということなのではあるまいか。単なる誤解かもしれないのだけれど、実はよく知らないから誤解したままでいられる。本当のことなんて知らないままが、しあわせなのである。
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