カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ただ飯は旨くない

2008-11-29 | 雑記

 県P大会の準備の為設営作業を行なった。仕事の都合とはいえ遅れて参加して、弁当まで頂くのは申し訳ないような気がした。参加している人も多くて、どんどん捗るというか、順調に形が出来ていくのは楽しかった。ただ船頭さんが多くて意見のいいっぱなしという風景もあって、そういう場面はなんとなく苦手で距離を置くのだった。程度もあるが、人が多すぎても協調できない自分がいるようだ。
 捗りすぎて空き時間が出来てどうしようかということになって結局一時解散になった。後で関係者のブログを見ると、その間にもいろいろと作業はあったようで、そういうことならそっちの方面のお手伝いをしてもよかったな、とは思った。それは他の参加者も同じだったのではないだろうか。
 段取りというのは確かに難しくて、何をするということが明確に伝わらないと効率が悪くなる。それはある程度の経験も必要で、この大会のようにほとんど誰も過去の経験を知らないような状態のものを準備するのだから、その難しさはよく分かる。本来なら親より教師の方が経験があるはずなので、現場監督のポストに少し権限の強い教師がいるといいとは思うのだが、そうも行かないものらしい。こういう組織の立場というのが微妙なのかもしれないとは思った。
 PTAだけの話ではないが、とりあえず関係者が一同に集まって問題を協議するというのも考え物だと思う。必ずしも全員が完全に集まらないという問題もあろうが、参加してもしなくてもよい人間がいて、緊張感が緩む。結局不必要な場面に付き合う人の参加意識が低下していって、関係責任者との緊張のギャップが広がってしまう。そうして本番になって現場監督が右往左往するようなことが生まれてしまうのだ。兵隊が育たなければ本番は戦えないのである。責任者に指示されて動くことに不満のある人は少なかろうが、自分で不安を抱えながらそこにいるだけの人間になってしまうことは、ただむなしいのみだ。何度かは役割分担の内容を確認する必要があるとはいえ、漠然とした空気の中に放り出される人をつくらないことが大切なのではないかと思った。
 ともあれ、今は既に本番である。せっかくだから楽しんで役割を果たしていこう。少なくとも弁当を食っても申し訳ない気分にならない程度には…。
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暇らしい

2008-11-28 | 映画
NEXT/リー・タマホリ監督

 ビデオ屋でツルポンにばったり会って、最近は暇だという話題になったのだが、まあ、それはJCの常識的な感覚として暇であるというのに過ぎなくて、それなりに忙しいんだけど、ビデオを借りて観るぐらいは暇なんだということを言っているわけである。まあ、忙しくても映画ぐらいは観ることはまったく不可能とは言えないが。それでも最近感じることは、以前は何かの会議があれば必ず飲みに行くことが当たり前で、もしそうでない方がなんとなく気持ち悪いというか、おさまりがつかないというか、そういう感覚は確かにあった。当然睡眠不足の毎日が続いて、それなりに効率が悪かったはずだけれど、無理もきいて強引に乗り切って、それでもやる気がふりしぼられたりできて充実さえ感じることがあった。今はなんというか疲れが残るというか、先に休んで体力があるときでなければ飲みに行こうなどとはとても思えない。ましてや連日飲みに行くなどのようなことがあると、本当に体がつらい。一昨日のぼっちゃんと後輩という人たちと痛飲しており、せっかくツルポンと出会ったにせよ、今度どうだという話に発展しないということが、如実に体力の衰えを証明するのである。まあ、ビデオ借りに来たのに飲みに行く相談をしている方が一般的にはおかしいのかもしれないが、以前の僕らであれば、今の方が異常なのだということがいいたいだけである。
 さて、それで、ツルポンのお勧め映画がこれだったのである。よく見ると、リー・タマホリ監督ではないですか。なんとなく僕には懐かしい。
 何も考えずに飽きずに面白いということだったので、僕も何も考えないつもりで観たのだが、なんとなくこれは、僕のような人間にはつじつまをあれこれ考えてしまうので、落ち着かなかった。そうして考えていると、すじがどんどん進んで、結局酔っ払ってあんまり頭に入らないのだった。だけど、そういえばこの映画は評判が良かったということは思いだして、確かにウケの良い映画に仕上がっていることは間違いがない。コッポラの甥っ子さんの髪の毛も増えているようでなによりだった。
 あの後ツルポンは何を借りたのか確認しなかった。スターシップトゥルーパーズ3かテレビドラマシリーズを借りようかなどと思案している様子だったが、他に並んでいるタイトルを眺めても既に相当見ているらしかった。貸し出している映画の選択が狭まるほど見ているらしいということは、やはり暇にはなっているのだろうな、とは思う。今度飲みに行くということは、あんがい約束可能だったのではなかっただろうか。
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昆虫を食べる訓練は必要か

2008-11-27 | 

 食料危機に備えて将来の人は昆虫食が避けられないという話がある。牛や豚などの家畜を育てるために、相当の飼料などの餌を必要とするため、効率が悪くて、とても地球上の人間の食料をまかないきれない時代がくるとのことらしい。ふーんそうか。なんだか切迫した気分になれないけれど、今でもアフリカなんかの国々では、貧困や飢餓にあえいでいる多くの人たちがいるらしいことはなんとなく聞き及んでいる。誰かが嘘をついていない限り、地球の人口がものすごい勢いで増えていることも事実なんだろう。そうすると、とても一人一人に食料がいきわたるなんてことは不可能になってくるのかもしれない。人間が増え過ぎるからいけないといっても、人道的に人間を減らす手立てはそうそうあるものではない。日本のように出生率が下がって自殺者が多いなんていう国が増えるなんてことも考えにくいし、またそのような状態がこれから続くものかも不確定だ。
 しかし昆虫を食うという話題は、そういう信憑性と逼迫感がセットになっていないとなかなか抵抗が強いものらしい。何も今からその時に備えて昆虫を食えるように鍛錬するという人は、ただの変人には違いない。
 いや、昔はイナゴを食っていたんだよ、という話はよく聞く。まあ僕だってイナゴの佃煮は食ったことがある。旨いとは言えないにしろ、不味くもないという感じで、特に抵抗はなかった。あれなら、まあ、普通に食える類には違いない。
 タイに行った折にはお約束のカナブンは結構食った。これを食えない日本人が多くて、僕が代表選手になって調子にのってボリボリ食ったので、ごく一部の人間からは尊敬を集めたものである。だがしかし、単に僕は食えるというだけのことで、決して旨く感じていたわけではない。首根っこのところが苦いので取り除くとよい、と言われたが、まあ取り除いても苦味があって、そんなにいける食べ物ではなかった。ビールのつまみならば、いつの間にか意識しなくても食えるという食べ物だった。
 あれはどこだったか記憶が確かではないが、中国の旅行中に映画館の前の屋台で得体のしれない昆虫を食ったことがある。見た目はゴキブリで、油で揚げてあってパリパリしていた。一緒にいた中国人がゴキブリだといっていたが、正確には台所にいるゴキブリではないとも言っていた。じゃあどんなゴキブリなんだろうかと思ったが、当時の僕の語学力ではその点ははっきりしなかった。ひょっとするとタガメのような別の生命体であったかもしれなかった。
 ハチノコは大変な高級食材というか、珍味であるが、これはなんとなく僕は苦手だった。何かにつけてあって、味自体はその漬けてある液体がしみたものだったのだろうが、食感でブチュっというようなつぶれ方をしたのが気持ち悪かった。もっと食べていいと言われたが、その時は遠慮した。まあ、今ならそんなに気にならずに食えるとは思うが、当時の僕は若く未熟だったのだ。せっかくの体験だったのに、味の記憶さえはっきりしない。
 つのだじろうの漫画で、あれは恐怖新聞の中の一話だったのかはっきりしないが、虫を殺して遊んでいる子供の弁当の中身が、虫に変わってしまうというものがあった。最初はご飯粒の中に青虫のようなものが混ざっていて、知らず知らずに噛んでしまうのだけれど、日に日にだんだんと虫の量が増えてきて、弁当の中身が全部虫に満ちていく。少年も慣れていって、その虫の弁当を普通に食うようになってしまう。食べだすと結構いけるよ、という話で、これはしばらく気分が悪くなったものだが、今考えるとずいぶん差別的な物語である。将来の人類に失礼ではないか。
 まあ、将来昆虫を食わなければいけないとして、イナゴやバッタはたくさん取れそうだけれど、基本的には大量に育てる必要も出てくることだろう。その時にどんな虫が選ばれることになるのだろうか。イナゴの大発生というものがあるらしいが、そういうものが安定的に供給されるということにはなりそうに無い。
 現在でも日本では日本でとれるイナゴでは足りなくて、中国から輸入されているのだという。そんなに需要があるとは知らなかったが、一部の人間が趣味的に食っていると想像するのだが、そんな需要でも不足する程度の供給しかかなわないということなのではないか。そうだとすると、昆虫食を大々的に普及させる方が高コストになりはしないだろうか。
 カロリーとか栄養価ということも勘案しなければならないにしろ、昆虫食を普及させるより、やはり農作物の作付けを増やすという方向が、自然な流れになりそうな気がする。そうすると、やはりネックは水問題ということになりそうで、人類の将来的な最大の課題は、水の供給をどうするのかということになっていくのかもしれない。僕は今日も相変わらず二日酔いで、本当に水はありがたいなあと感謝しておるところでございます。
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ガス抜きに付き合う

2008-11-26 | 雑記

 スクールガード情報交換会というものに出席する。何にも考えないで出席したので、何を情報交換したらいいのか戸惑った。学校や登下校時の児童生徒の問題がいろいろ出て、まあ、参考になったとは言えるのかもしれない。元不良少年としては何が問題なのかよく分からないところも正直あるのだが、そんなことを発言しても仕方がないので黙っていた。
 小さい芽から摘んでおくことで問題を肥大化させないという意味では、地域の力は重要だとも思うし、真剣に取り組んでおられる人たちにはそれなりに敬意も払いたいと思う。そういう大人の良心ということでは、地道に活動するしか道はないのであろう。
 まあ、本心ではなんだかなあというため息をつきたくなるような問題意識の発言もたくさん耳にしてうんざりしたのだが、そういう田舎の風景というものを否定しても仕方がない。御協力頂いていることには感謝をしておこう。ただしかし、問題提起のみを羅列して悲観的な社会観で子供を見るフィルターの掛かった意見の多くを耳にするのは、かなりアホらしいことも確かである。早くPTAから抜けだして、まともな社会へ逃げ出したくなるのはこんな時である。情報交換にまったく意味がないとは言わないにしろ、歪んだ社会観を披露する場になり下がっている現状を見ると、ほとんど時間の無駄であろう。
 付き合わされる無駄を象徴しているのは、学校長の出席がないことでも明らかである。出て意味があると考えているのであれば、必ずどこかの校長が出席しているはずであろう。
 地域のお年寄りの存在に意味がないとは考えていない。お元気な人たちが何か自分の力を地域に役立てたいと考えておられることは大変に尊いことである。しかし、だからといって現状を読み間違って物事を考えてしまうことは、かえって老害をまいているようなものではないか。
 具体案を出して協議したり、方法論を提案できるようなシステムが構築できないのであれば、この会議に未来はなかろう。いや、ひょっとすると、彼らの立場を利用したガス抜きの時間を設けることで、さらなる暴発を未然に防いでいるということなのかもしれない。そういう意味では結果的に子供の安全を守っているということか。なんだかトホホで救われないが、老害を何とかするということを真剣に考えることの方が、子供の安全よりはるかに難しいことは確かであろう。それも若い人間の役割であると割り切るより仕方がないのかもわからない。彼らは想像以上に孤立し孤独なのであろう。
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ふさぎこんでしまう気分だ

2008-11-24 | 時事

 元厚生事務次官殺傷テロの犯人が報道されている通りだとすると、これほど意味の無い殺人であったのかという脱力感を禁じえない。本当だとするとやはり精神異常者である可能性は高そうだし、無罪という方向へ舵が切られていくことになるのだろうか。そうであれば39条をどうにかすべきだということは、本当に真剣に考えなくてはならないことだろう。詐病の可能性も含めて、社会不安が治まらない気もする。
 たかじんの番組をビデオで見ると、裁判員制度のことを取り上げていた。僕はこの制度には不安を持っていたし、はっきりと馬鹿げた愚策だと思っていたのだが、この番組で裁判員制度の問題点を指摘する井上何某という人の話を聞いていると、やはりこの井上氏のような裁判官に判断を任せることの方が問題が大きいかもしれないと思うのだった。本人はきわめてまともに問題を憂いているには違いないのだが、この人がまともな判断が出来る人のようにはとても思えないのだ。ちょっと特殊すぎる感じが漂っていて、小さいことにこだわりすぎて人を裁くことに適さない印象を受けた。すべての判事の代表ではないにしろ、このような考え方の人が判事を務めていたことは事実である。裁判員制度が行なわれることになったのは、やはり根本的に信用できないレベルの人が現職にそれなりに存在するということがいえるのではないだろうか。
 麻生総理の失言には違いないとは思い、あきれもするのだけれど、医師の常識欠落発言に抗議する医師会の方が常識的に何かが欠落しているようにも見えるのは確かである。もちろんすべての医師がおかしいなんて事はありえないし、医師以外の職業の人の方がおかしい可能性のほうが高いようにも思えるけれど、それを差し引いても執拗に騒ぎ立てる神経の方に異常さがにじみ出ている。今まで政治的に強い影響力を持って政治にかかわってきたことは事実だし、その影響力が行使できなくなった後に病院の諸問題が表面化してきたことも、大きな背景なのではないかとも思える。救急医療を支える大病院の勤務医に対する差別的な境遇が大きな歪になるまで拡大した責任の多くは、これまでの医師会の活動ではなかったのか。
 しかしながら、専門家という人たちに対するこの漠然とした不安のようなものは何なのかという思いがないわけではない。すべて任せておけばいいなどとはいえないにせよ、それほど信用というものが脆弱になってしまうのは何故なのか。
 考えてみると、いろいろな物事に対して人々が潔癖になりすぎて、不安というものが鰯の大群が揺れ動くようにうごめいているようなイメージがある。そのまま何かに飲み込まれるだけの運命にありながら、ただうごめくままに迷走するより無い鰯であるならば、思い切って群れから離れる決意をすべきなのかもしれない。先ずは自分の目で物事を確かめることから始めなければ、とてもこの不安な空気から独立することがかなわないのではないだろうか。
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年末に僕の車でかかる曲は

2008-11-22 | 音楽

 ボブ・ディランの未発表曲を集めたアルバムが話題になっている。未発表曲というのはファンにとっては気になるものではあるにせよ、制作している側にとっては抹殺したい過去もあるような気がするのと、そういうものまで引っ張り出して売るという商魂もなんだか気に食わないところがあって、無視というわけではないが、特に聞く気が起らなかった。まあしかしラジオではやはり曲がかかる。そして確かにボブ・ディラン。そして確かになんだか凄い。何なんだこの人は。何でこれが未発表曲なんだ。なんというクオリティだ。今までの発表されていた多くの曲よりかえっていいんじゃないか。何なんだよいったい。という気分がふつふつとわいてきて、かなり精神的に混乱させられた。言っておくが、僕はそんなにボブ・ディランのいいファンなんかではない。正直に言ってもの凄い過去の人という感じで、ノーベル文学賞候補であるにせよ、実は人格的に問題があるような偏見もあるし、凄いとは認めはするものの、そんなに尊敬しているわけじゃない。しかしこれは凄い。アマゾンでつい確認してしまって、ただ本当に収められている曲の確認のつもりだったのに、ワンクリックで購入ボタンを文字通りクリックすることにためらいがなかった。やられた。給料日前なんだよ。どうしてくれるんだよ。まあ、引き落としはまだ先か。年末の忘年会は二次会をパスすることにしよう。帰りはタクシーじゃなくて、歩いて帰ることにするよ。たいしたことないよ。寒空の中たったの30分じゃん。千鳥足で職務質問されても「いえボブ・ディランが…」なんて本当のことを口走ったら、かえって怪しくなってしまうのである。

 僕の個人的に関心があったのは、止めたらいいのにという不安があるクイーンの再結成で、そしてその不安が見事的中して、なんでまたポール・ロジャース。とほほ、なんだこの音は。まんまツェッペリンじゃん、痛すぎる。という感想をもった。これは財布のひもに影響がなさそうであることが、なんとなくホッとする残念さであった。

 少し前の渋谷さんの番組のリクエスト特集で、何故だかヴァン・ヘイレンで盛り上がったのだが、後からなんだかまだ心のくすぶりが取れなくて、サミーヘイガーの加入後は無視するとしても、やはり昔はよかったなあ、などというノスタルおやじになり下がってしまうのだった。ただしジャンプは好きになれない。あの繰り返しは耳障りだ。本当はライトハンドなんてあんまり好きじゃないんだけれど、エディだけは別なんだよ、またやってくれ。というのは本心である。もちろん兄貴のドラムも炸裂して、信じられないクオリティのホット・フォー・ティチャ―は不滅です。やっぱりロックちゅうもんは、凄くてぶっ飛んでなきゃいけませんな。まあ、自然に頭が悪くなるような口調になってしまうのは困るけれど、そんなような表現にならざるを得ない破壊力ということなのである。
 そういう訳で僕の年末は、ボブディランとヴァン・ヘイレンということで決定いたしました。
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サイクルがまわりますように

2008-11-21 | 雑記

 大村青年会議所主催のまちづくりセミナーを見てきた。市長のマニフェスト検証をどのようにやるのかということで、聴衆の多くの人もかなり期待している面持ちだった。こういうところに足を運んでくる人たちなので、相当関心の高い層なのではなかっただろうか。しかしながら、段上での議論ならここまでで限界かなとも感じたことは確かだ。そういう意味では検証という作業も政治家の政治生命まで踏み込む行為ということを理解したうえでやるべきことなのかもしれない。まずは勇気ある行動ということでも大変意義深いことであった。みなさんお疲れ様でした。
 今回はマニフェストの大御所の北川正恭氏が来たことは大きかったと思った。独自のとぼけたような話芸で、かなり革新的なことをズバリ言ったりして気持ちがいい。「そうはいっても政治というのは…」と思っている聴衆の心理を見事に代弁している共感の話術が素晴らしいと思った。本当は日本の政治は、まだまだだいぶ道半ばという状態だと思うが、なんだか相当大きくスタートが切れたような気分にはなったので、流石だなあと思った次第。ある意味でのせられたのだろうけれど、そうでなければ革新などできないことだろう。
 今後のことを思うと、政治家に如何にマニフェストを正確に作ってもらうかということになるのかもしれない。検証がやりづらいというのは、基になっているマニフェストがまずいからということが何より大きい。成果のあるものだけがマニフェストに沿っているからであって、そうでないものは、作り方に問題があったということなのだろう。正確に作ることが困難というより、必ずしも有利じゃないと思われているところがある可能性もある。だとすれば有利に作れる手法を、政治家へ提言するようなことも必要になってくるかもしれない。政治にはこういうことをやってほしいという素直な思いを、具体性を持って語ることができればいいということなのだが、そこには必ず利権があるともいえるところが、また、政策の難しさかもしれない。なんだか本当にまどろっこしいです。

 話を聞きながら発展して、単なるふざけたような思いつきをした。
 交通の便を活かすということで、長崎の玄関口にやってくる人に何かアピールをする方法が有効であることは間違いがないだろう。もうやってるよ、ということは言えるだろうが、やり方が何かまずいのではないか。もともと大村が目的じゃないということなんだから普通にやっても釣れるわけがない。
 ふと思ったのは、大村に目的をもって来る仕事の人を取り込んではどうかということだ。遠くから仕事で大村にやってくる人といったら、ボート場へ来る芸人さんではないか!彼らに地場の食材で盛大にふるまってみてはどうか。彼らだってお笑いのネタだけでなく、いろんな話の題材を探しているに違いない。普通にふるまうのではなく、それこそ異常にふるまえば、バラエティ番組などでうっかり宣伝してくれるかもしれない。なんだか姑息な手段であるけれど、せっかく高いギャラで呼んでいる人を取り込むのが悪い事とは思えない。
 まあ、こんな程度のことを政策といってはいけないだろうが、思いつきが実行に移されるチャンスがあるというだけで、いろいろアイディアを出す人が出てくることも確かだろう。面白いがキーワードで政策がつくられるようなことがあってもいいのになあ、などと夢想しただけである。政治を堅苦しくする生真面目さだけが明るい明日になるわけでもないだろう。
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ボージョレとオバーマ

2008-11-20 | ことば

 朝のニュースを見ていると「ボージョレ・ヌーボー」と発音していた。NHKだったけれど、なんとなく違和感。いつの間にボーと伸ばすようになったのだろう。気になったけれど以下の記事で納得した。

http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20081113/1020872/?P=1

 いろいろと事情があるものですね。外来語は難しい。しかし僕はボジョレー派で行こうとは思った次第。今年飲むかどうかはまだ分りませんが…。
 
 ちょっと前にはOBAMA大統領は、「オバーマ」ではないかという話も聞いた。You tubeで向こうのニュースなどを見てみると、早口なので分かりにくいにせよ、なんとなく「オバーマ」ではあるとは感じるが、ほとんど伸ばすというより語尾が上がるために延びるような語感だという気がする。むしろ日本語で「オバーマ」と伸ばす方がいやらしく感じる。発音に近い感じでカタカナ表記することは、マクドナルドのような例をとるまでもなくほとんど困難なので、表記は「オバマ」で何ら問題ないだろうと思った。
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大麻は合法化するのか

2008-11-19 | 時事

 最近大麻にまつわる報道が増えているように感じるが、報道がその極悪ぶりを書きたてている割には、大麻を合法化すべきだという意見もチラホラ見られるようにもなっているように感じる。煙草より害がないことは明らかであると書いてあるものもあるけれど、煙草だってそんなに害がないことは明らかなんだから、そういう比較もどうもなあと思う。ただ中毒性が弱いというのはそうかもしれないから、そのことを指して言っているのかもしれない。また、大麻を吸うと酒に酔っているような状態にはなるので、車の運転など、問題になることはたくさんあるだろう。吸っているときは匂いがするにせよ、吸った後は酒に酔っている人のように匂うわけじゃないから、ちょっと判断が難しいこともあるんじゃなかろうか。酒酔い運転のように取り締まれないということになれば、社会的な危険は単純に増加しそうだ。また、持ち運びが簡単で、どこでも吸うことができそうなので、職場で吸ったり、学校で吸ったりなんていうことも、それなりに出てくることだろう。このことの抵抗はそれなりに強そうで、社会的理解には大きな隔たりがあるのではないか。
 大麻自体はたいした害はないにせよ、ゲートドラックとしての危険があるという指摘もある。さらに強い麻薬への入り口だという説である。まあ、それはそうかもしれないとは思うものの、もっと危険なヤツというのがどれぐらい不健康なものなのかということとの隔たりを考えると、そこまで影響があるのかな、とも思う。特に日本においては、大麻自体がこのように厳しい取り締まりによって規制されているので、大麻に手を伸ばす人はすでに踏み外しているといえるわけで、そういう人は、さらに次のステップへと駆け上がっていくということが多いのではないか。合法化されて一般化されると、非合法のドラッグの方が最初のゲートになる可能性が高いような気がしないではない。僕のように日常的に飲酒するような人間にとっては、大麻のような飛び方はたいしたものではないので、他の非合法ドラッグとは、なんとなく別モノという気がする。
 またアルコール中毒の人や、うつ病の人に処方されると治療効果があるという意見もある。作家の中島らもなどは、大麻が合法化されていれば死なずに済んだのではないか、などといわれている。医者が処方するということであれば、大麻の合法化には意味があるかもしれない。そのような管理であれば、今まで通りにかどうかはあるにせよ、ゆるやかに規制ができるかもしれない。
 大麻の売買が問題であるというのが現在の状況であると想像するのだが、いわゆるヤクザとかチンピラのような人の資金源として、大麻の存在があるのだろうか。長崎県には米軍が駐留している関係もあって、まあ、それなりに誰かに相談すると簡単に大麻ぐらいは手に入る環境にあるらしいとは聞く。もちろん米軍に限らず、それなりに一般化しているという話も聞いたことはある。あれは長崎県ではなかったけれど、ある飲み屋さんで酒を飲んでいるときに大麻の匂いが漂ってきたという経験がある。ああ、日本でもそれなりに普及しているらしいなと驚いたのだけど、どの程度なのかはよく知らない。ヤクザに限らず売買している実態はあるんじゃなかろうかとも思う。
 そのように大麻という存在がそれなりに普及している実態があるのであれば、今のような報道が頻発するのは必然だったのかもしれない。叩けばどこでも埃が出るのであれば、いやな奴を見せしめに捕まえる(いわゆるタレ込むというやつですね)ということも起きてくるのかもしれない。まあ、本当に誰もが認めるような日常の風景になっていないのは、まだまだ驚いて報道を聞いている人がいることからも見て取れるわけで、マスコミが言うような驚くべき実態ではないことの証左ではあろう。
 しかしながら、麻薬の取り締まりが難しいのは、売る人も買う人もともにハッピーだからという話がある。コカインとかの中毒性の強いものは人体に影響があるので発覚するけれど、大麻のようにほぼ人体に悪影響を及ぼさないものはいつまでも発覚しないのだという。なるほどとは思うけれど、やはりそれはあんまり害がないということを暗に認めているということも言えて、欲しい時は買うけれど、買えなくて死にそうになるほど苦しいというような極悪ドラッグとは、やはり一線を引いて考えるべきことのようにも感じる。そういう背景がさらに一般の人の不安を煽っているのだとしたら、今の報道はやはり行き過ぎということにはなるかもしれない。
 諸外国が合法で日本が遅れているという批判は、そんなことに合理性を感じない僕にはどうにも説得力はない。死刑を禁止しているヨーロッパが進んでいるなんていうことはほとんど幻想だし、やはり国内世論が認めるということの方が大麻の合法化へのカギになることだろう。そういうことであれば、やはり大麻というものが簡単に合法化されるということは考えにくいと思われる。残念だが、今後も大麻を愛好する人はこっそりばれないように楽しんでください。
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車酔いしない人にお勧め映画

2008-11-18 | 時事

クローバーフィールド/マット・リーヴス監督

 映画館で観た人には、最初に車酔いのような感じになる恐れがある旨注意があったそうである。いくら注意されたところで、具合の悪くなる人は減らないとは思う。それぐらい手ぶれ映像は不快で、なんじゃこりゃという怒りにも似た感情をしばらく我慢しなくてはならない。必要以上に前ふりが長いように感じはするが、そういう日常的な状態を見る人にも慣れてもらおうという趣旨だったのかもしれない。その後に続く出来事はまさに衝撃的というか、物語の中にぐいぐい引っ張られる感覚は新鮮だった。この映画を普通の映画的な文法で撮っても、おそらくはここまで没頭できなかったのではないかとも思う。もう少しぶれない映像だと助かったのだけれど、疑似ドキュメンタリーのような感覚を共有するということでは、やはりかなりの効果があったと認めざるを得ない。
 そういう訳で、ものすごくおもしろかった訳だが、後で考えてみるとたいした話なのではない。しかし、やはりこの設定というのは、いろいろつかえて面白いものだとも感じた。だいたい最近のパニック映画は説明が多すぎるというか、効果を邪魔してでも因果関係を明らかにし過ぎていたのかもしれない。ゴジラが何故生まれたのかということよりも、ゴジラが街を壊すのを見るのが、何よりの楽しみであるはずである。もちろんまったく背景が分からないというのは物語そのものを破綻させかねないギャンブルには違いないのだけれど、変に社会的なテーマをぶたれるよりも、パニックそのものを楽しむことに特化するという態度は、あんがいこれからも流行りそうな感じがしないではない。わけわかんないけど大変なことになっているというのは、それだけで十分にスリリングで物語を引っ張るスパイスとしてかなり効くことは確かであるようだ。
 また、この映画は妙に教訓的な気分にもさせられる変な映画でもあった。必要以上に撮影をやめないのは何故かという疑問はあるにせよ、状況が分からないまま危険を冒すことはかなり難しいことだということはよく理解できた。しかし人々と同じ行動を取ったとしても必ずしも安全というわけでもない。自分なりにどのようにすべきか考えて、よく知ってそうな人に極秘情報を聞き出さなければならない。まあ、そうそう都合よくはいかないにせよ、このように極端に情報が少ない状態におかれるというのが、災害などに巻き込まれた状態だということも言えるだろう。多くの人はパニックに見舞われ、ただ迷走するより他にない。ある意味で主人公たちは仲間を助けるという目的があったからこそ、それなりの行動をとることができたともいえるだろう。もちろん運がいいだけとも言えはするけれど…。
 それにしてもネズミがたくさん逃げているときは、何も考えずにネズミと一緒に逃げた方がいいようである。ネズミが逃げてきた方向を確かめるなんてことは、たんに愚かしい時間の無駄である。車酔いに強い人は、迷わず見るべし、と思う。
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委員も当事者なんだけどね

2008-11-17 | ことば

 卒業したのでいまさら感があるのだけれど、言葉の解釈をあれこれ言う割に、なんだかあやふやなままの使われ方をするある言葉についての雑感である。
 青年会議所用語なんだと思うが、役職を持ってないいわゆる一般会員のことをフロア(床floor)メンバーという使い方をする場合があった。講演会などで壇上にいる人が、聴衆に向かって「フロアからも意見を…」などとやることから、おもにスピーチをする立場から多くの人に問いかけるときにフロアという言い方をするのだろうと思う。基本的な活動の拠点は委員会という単位を大切にする会なので、委員長を中心に、副委員長、他の委員という構成がはっきりしている。そういう意味では委員長という役職は特別で、委員会を代表して壇上で発表する機会が格段に多くなるためなのか、役職のない委員の人を指してフロアメンバーだという場合も多かったのだろうと僕は解釈をしていた。
 ところがそういう役職のない委員をフロアメンバー(床にいる会員)などというのはおかしい、または不適切、または単なる言い間違いなどの説が現れて、フロアじゃなくてフォロアメンバーだ、ということもよくいわれていた。意味合いとしては委員長をフォローする、助ける立場じゃないか、という考え方らしい。しかしながらこれも和製英語的な考え方であることに変わりがなく、followerとなれば信奉者とか家来というような意味ではないか。別に自分の意志で配属されているわけでもなかろうし、家来といわれると抵抗を感じる人もいるのではないか。日本でフォローするというと助け舟を出すようなニュアンスがあるけど、followであるなら単純に付いていくとか続けるという意味のはずで、まずはここから誤解のもとがあるようにも思う。意見などに賛成するような行動ならフォローでいいと思うが、これが少しづつ拡大して普及解釈されているように思える。
 単に音が似ている言葉を使い分けようとしたがると、なんだかそのまま言葉が暴走してしまうという感じがする。最初からフロアメンバーという言葉に、少なからぬ問題があるのであろう。であるなら、いっそのことこの言葉を言い換えたらどうだろうか。わざわざ英語でいう必要もないと思うが、今風だとサポーター(もしくはサポートメンバー)だろうか。まあ、これも本当には支持できない人もいるだろうから正直なところ適当ともいえないが、サッカーの応援団のように一緒に戦っているという感じがあれば、必ずしも不適切とは思えない。
 別に卒業して寂しくなってJCのことを語っているわけではないのであしからず。自分たちのことは先輩の意見を完全に無視してでも自分たちで考えて切り開いていってほしいと思っております。そういう人にサポートできる程の力はないけれど、みなさん頑張ってください。
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頑なにならないように

2008-11-15 | 映画

グッバイ・レーニン/ヴォルフガング・ベッカー監督
やさしい嘘/ジュリー・ベルトゥチェリ監督

 嘘も方便といわれる。気遣いとしての嘘はあり得るということだろう。嘘をつくことが相手にとって良いことというのは、どういう場合が多いのだろうか。お世辞は嘘の一種かもしれないが、あまりに真っ赤な嘘だとかえって白々しい。相手に信用してもらう必要もあるので、もともと相手がそう思っているようなことであれば嘘にはならない。もしくはそう思いたいということであっても、受け入れやすいということだ。少なからずそういってもらうことで、願望をかなえることにもなるのかもしれない。
 さて、奇しくもどちらの映画も社会主義国という体制が背景にあるようである。社会主義というものは、ある意味でその存在そのものが嘘の下手な体制であったということなのではないか。何故なら資本主義だって嘘はついているわけで、そのことはある程度了解済みで動いているようなところがある。社会主義は厳格にその事実を認めようとしない。頑固な嘘なので崩壊の仕方が激しくならざるを得ない。なんだかそんな気もする。
 そういう危なかっしい嘘であっても、おそらく当事者たちにとっては永遠に続くであろうことのように思えるようになると、さらに悲劇的なことになってしまう。自分自身を嘘に合せなければ生活ができないのである。さらにそういう嘘が嘘でなくなった後であっても、その嘘に付き合い続けようとする試みを行うとどうなるのか、ということがこの映画の仕組みになっている。クリスマスのサンタのようなものを、サンタの正体を知っている人につき続けるようなものなのだけれど、これが映画の中ではある程度はうまくいくわけで、本当に危うい綱渡りである。まあ、誰でも予想することだが、いつまでもそのままでいられるわけがない。その時になって人はどのような行動をとるのかという意外性については、映画を見てもらうよりないのかもしれない。
 二つとも本当に成功した話なのかどうかは置いておくが、相手を傷つけたくないという思いを持っている嘘であっても、自分自身の心にあるエゴというか、保身のための嘘であることには変わりがない。嘘というのは、結局は自分を守るためについてしまうものなのだ。どうしても嘘をつかなければならないような立場になったら、ばれた時に素直になれるのかという覚悟が必要になる(まあ、開き直る人もいるかもしれないが)。もちろんばれない可能性もあるから、ギャンブルなのかもしれない。もしくはその嘘自体を自分も信じて心中するか。
 まあしかし、このような大それた嘘をつき続けるつもりがあるのなら、素直に話す決断をする方がずっと楽なような気がしないではない。それにいつまでも逃げ続けるような毎日に耐えられるのかということも加味すると、とても割に合う嘘ではない気もする。少なくとも僕は、こういう嘘に加担する立場になるような仲間とは一緒にいたくない。さて、それでは本当に僕が正直者なのかどうかというと、それはやはり内緒にいておくのである。程度の問題はあるにせよ、やはり嘘の利用の仕方で人間の生活はなりたっているのかもしれないのだから。
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馬鹿げているなりに使いようもあるかも

2008-11-14 | 時事

 馬鹿げたばらまき給付だけれど、嫌がっている地方の自治体の反応を見ると、そっちの方は仕事なんだから文句言うなよな、という気分にはなる。膨大な手続きをやらなくてはならないし、そのために膨大なお金が掛かるのは、この人たちの残業代や手当の上乗せ分だろう。彼らには二重で給付するようなもので、役人以外の人こそ割に合わないという感じだ。いっそのこと仕事自体は派遣社員に限るとかいうような方法でやってもらったらどうか。
 経済的効果は期待できないという意見が大勢であるように感じられるが、よく考えてみるとやはりお金を手にすると使う人は多いのではないかという感触がある。それも当たり前だが低所得層ほど確実に使う。年末商戦に間に合えば、それこそ使わざるを得ない。子供だってテレビを見て聞き知っているので、クリスマスのプレゼントなど、かなり期待していることも確実だ。貯金に回す人は比較的余裕があるという証拠で、口ではそんなこと言ってるけれど、実際には使ったという人が多くなるのではないか。
 所得が多い人が辞退するというのも、所得が多いから家計が黒字だとは限らない訳で、最初からそのような姑息なことに応じない(動じない)人こそ金を稼ぐこともあるだろうし、辞退者はそんなに増えないのではないか。また、辞退しなくてその分寄付や投資に回す可能性だってあるのだから、辞退させない方が経済的な効果が大きいだろう。ホリエモンのような案もあるようだし、下手をすると面白いことを出来るチャンスがあるかもしれない。やり方はかなりまずい政策であるにせよ、経済効果が無いということには必ずしもならないのではないか。いや、将来的にはもっと駄目だとしても。
 しかしながら、給付に乗じた詐欺や、ファンドなどの勧誘なども誘発することは必至で、誰のものだという些細な金の取り合いなどのトラブルだって起こるには違いない。その上に自民党の首をさらに絞めるような評判ぶりが定着するみたいな雲ゆきで、これは本当に選挙どころではない状態に自ら陥れたのではないだろうか。事実上野党が政権を運営している状態というのが麻生政権ということで、なんだかみじめというか、かわいそうにさえ思えるようになってしまった。僕はもちろんありがたく給付金は使わせてもらう上に、自民党に向けては合掌をしたいと思います。
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後悔は済んでからするものである

2008-11-13 | 散歩

 最近はなんだか寝坊ぎみになっていて、朝起きることがなんとなくつらい。夜更かしをしすぎているわけでもないのだけれど、もう少し寝ていたい気分が強いのかもしれない。普段はつれあいが起こしてくれるのだけれど、一緒になって杏月ちゃんも期待を込めてウロウロしたりするのだが、最近の寒さの所為か、一緒に布団に入ったり、下のストーブのまわりをウロウロしたりしている様子である。ついまたウトウトの世界に戻ったりして、十分二十分と時間が過ぎていく。そうなるとさらに億劫さが増してきて、いっそのこと散歩などに行くものか、と言う気分になるのだけれど、階下に降りると一気に杏月ちゃんは興奮するし、仕方ないかと諦めて服を着る。
 そのように寝坊したからといって、朝はまだそう簡単に明るくならなくなった。風の強い日が何日か続き、いよいよ冬になったと思っていたが、暗いうちはそんなに風は冷たくは感じない。すっかり明るくなって、さあいよいよ太陽がお目見えするぞ、という頃合いに、一気に気温が下がっていくのが分かる。リードをもつ手がかじかんで、痛くなるような感じさえする。ジャンパーのポケットに片手を突っ込んだりもするけれど、一度冷えた手を温めるために、ジーンズの後ろのポケットに手を突っ込んだりする。幾分体温が伝わるような気がするからで、上着のポケットより暖かいのだ。
 そういう寒い朝だけれど、本当の冬の朝なのではない。本当に寒くなると、素手ではとても朝の空気の中をうろつくことはできなくなる。今はまだ素手で寒さを楽しむ朝という感じで、つらくもなくていい季節なのである。仕事がなければもう少し遠くまで歩きたいところだが、残念ながらコースを端折って帰らなければならない。やはりもう少し早く起きておくべきだったなあと、いまさらながら少しだけ反省するのだが、翌朝にそのことを覚えている日はないのであった。
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支持は取り下げます

2008-11-12 | 時事

 いちどブログネタでまともだと支持した田母神氏の論文(と謳った文章)だけれど、内容的には怪しい歴史記述に基づいた推論もあるようだ。ほとんど孫引きの知識を集めて(ある意味で自分の都合のため)まとめたために検証を怠っているということなのだと思う。いずれにしても間違ったものを元に意見を主張することは、朝日新聞などの手法と変わらない。主張そのものには共感を覚えるものの、そういう意味では残念だがこの文章そのものを支持することはできないと、考えを改めたいと思う。
 自虐史観もくだらないが、それはその主張のくだらなさ以上に、基にしている資料を改竄したりする立ち位置そのものに問題があることが大きい。主張が正しいからと言って、嘘をついていいとは言えない。
 そして僕自身が半可通であったことと、やはり検証を行う労力を怠ったりしたことについても、やはり問題があったと反省している。申し訳ありませんでした。僕は朝令暮改の修正主義者なので、間違いを認めないと落ち着かない。正しい主張をすることには興味がないが、間違ったまま気付かない方が罪が大きい。
 しかしながら田母神氏については、自衛隊を飛び出したことで自由を獲得されたのだと思う。ずいぶん退職金をもらうものだなあとは思うものの、返納されたりしないようで、それはそれで良かったのだと思う。憲法改正の議論がますます盛んになって、結果的にどうなるかは別にして、もっと大きな帰着につながる展開へ発展することを願っている。
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