カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

愚民政策が国を救う(かも)

2008-10-31 | 時事

 麻生首相の景気対策の発表があった。まあ月並みにいうとばらまきであるけれど、やることは分かっていたのでなるほどという感じ。消費税アップの明言について噛みついている向きもあるが、民主党とは違って財源を示しているのだというのが素直なメッセージであろう。消費税を上げるということは、確かに時期が大切であるにせよ、もう逃れられない現実であることはほとんど明らかなのだから、明言することは正直者として悪くない行動だとは感じる。ばらまきなら小沢の方が凄いことは予想できるし、しかし足りな過ぎでは面白くないし、これでもかなり思い切ってやっていることはその通りなんだと思う。日本は低所得に限らず所得税は金持ちからしかとっていないので、景気刺激策には思い切って給付金をやるしかないと考えたのだろう。税金を払っていない人たちには減税しようがないのでこのようなことをしてしまうのである。まあ、公明党が好きなやり方で、彼らの支持層へ訴えるにはこれが一番効果的だったという認識なんだろう。ばらまきは愚民政策だというのはその通りだろうし、日本の国のためにはかなり危ないやり方であるにせよ、泥船が沈む前であれば、やはり金が欲しいと思う人もいるのだろう。いや、くれるんなら欲しいには欲しいが、それって結局は自分が払っていることを知っている人は面白くもなんともない。共産主義国でないのに富の再分配が政治の役割なんだというのは、やはりどこか不公平な感じもするんだけど、公平な税金には国民のアレルギーが強いので、愚民政策をやるというのは自民党らしいまっとうさだと考えた方がいいのだと思う。
 選挙の先延ばしについてはかなり前から分かっていたことなので、なんで騒いでいるのかよく分からない。相棒が早くといっても、来年4月が見えてきた感じだ。いや、9月さえ見えてきた。まあ、遅ければ遅いほど政界再編の機運は高まるとも思えるので、どうせならその方がいいのかもしれない。民主党のいうように年末解散なら、民主がとりあえずは勝って、そのあとやはり半年から一年ぐらいで民主がつぶれてその後の再編ということになる可能性が高いので、実は自民ががんばって、そのために崩壊した方が話が早いということなのである。もちろん麻生さんはそんなことは夢にも思ってないだろうけど、結果的には仲間の首を絞めていることは変わりがなくて、福田さんからバトンを受けた意味というものはすべてなくなってしまった。
 ただ今回ちょっと良かったなと思ったことは高速料金が安くなることだ。二年間の限定処置だというけれど、こういう公共料金的なものは一度下げたらなかなかあげられなくなることは間違いがない。例えば物流は下がった料金で利益をギリギリであげるようにして競争することは間違いがない。もうあげられたらお手上げですということに当然なって、あげることは事実上不可能になるという環境になるのである。そうすると、今までの借金の返済もあるが、さらに負担が増えて財源もパンクするので、真面目に新しい道路をつくっている場合ではなくなってしまうだろう。つまりかなり道路問題では健全化の道筋ができたということが巡り巡って言えそうで、これは誠におめでたいことだと思う。自民道路族は失業するから再編もさらに進む。新たに事業を起こして国を引っ張る人材も出やすくなる環境になっていくかもしれない。
 やっていることは愚民政策で馬鹿に見えるけれど、早く崩壊した方が再建の早道であるという日本の事情を考えると、自殺行為が報われるということもあるのかもしれない。僕はやっとETCをネットで購入した。少なくともこのような行動を起こす人は増えるのではないだろうか。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

汽車の通る町

2008-10-30 | ことば

 電車の通っていない地方に住んでいるので、子供の頃から汽車という言葉の方が馴染みが深い。しかしその汽車であるディーゼルカーという奴にも、めったに乗ることは無い。地方の町は公共交通機関と馴染みがない場所のことなのかもしれない。
 子供の頃にハンバーガーを食べるために片道一時間近くかけて汽車に乗って遊びに行くことはあって、しかしそれでも汽車賃がもったいなくなり、早朝から起きて自転車をこいで丸一日がかりでハンバーガーを食べに行ったりしていた。日見峠というだらだら長い坂道を延々とこぐのがつらかったことだけはしっかりと覚えている。
 さてしかしその汽車であるが、汽車で来たというと怪訝な顔をする人がいることに気づいた。それは長崎でのことだったが、確かに諫早からは電車でも行けるわけだが、僕は汽車に乗ってきたのだから何の間違いでもない。その夜は飲んでおり「それでは帰りは電車ですね」と彼はさりげなく言うのだった。「いや、帰りも汽車です」と訂正しようかとも思ったが、なんとなく思いとどまった。彼が何故そうしたのかは本当には分からないことだが、妙に僕に気遣って電車という言葉を使ったようなのかもしれなかった。汽車でしか帰ることができない田舎に住んでいるということを気遣ってくれているということなのだろうか。
 ところが駅前で人と会う約束があって、待っている間人ごみの会話を聞くともなしに聞いていると、学生風の男が、「お、ちょうど電車の時間だ」といって改札へ急いでいた。改札の先には汽車が停まっており、まさに今から出発するようだった。その発車を伝えるアナウンスでは「この列車は(ほとんど一両なのに!)」と言っているようだった。僕はなんだか少し混乱してしまうのだった。汽車という言葉は、いつの間にか忌み嫌われる言葉になってしまったのだろうか。山手線のアナウンスなどは、確かに電車とはっきり言っている。まあ、東京などでは寝台特急でない限り、ほとんど電車しかいないのかもしれない。田舎へ行くと、電車と汽車が混在する。そうすると列車という表現になるのだろうか。しかしそうであっても、田舎に住みながら利用している人たちは、電車という言葉に馴染みをもつのだろうか。あの学生さんは都会からこちらに移り住んで来たということなのだろうか。
 まあそれでも、今後も汽車になじみのある生活になるとも考えられない。ディーゼルカーは子供の頃から比べるとどんどん短くなっており、ほとんどレールの上を走るバスのように、一つの箱で走る姿も見られるようになってしまった。そのうちに誰も乗らなくなって、消えてしまうことにもなるのだろうか。そうしたら本当に汽車という言葉を使わなくなる日がやってくるのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老いらくの性と圧倒的バイオレンスの二本立て

2008-10-29 | 読書
百合祭/桃谷放子著(講談社)

 老いらくの恋の物語だと言ってしまえばそんな感じに話は進むので、油断してはいけない。出会いから平凡であるけれど、個人の感情を鮮やかに描いているし、情景としても坦々としており、このすごく盛り上がる感じではないのだけれど、それなりの高揚感がある。いわゆる物語が非常にリアルで、僕はまだ老人という世代ではないはずなんだけれど、妙に共感してすんなり物語の中に入り込むことができた。素直に上手いということなんだろう。そしてどんどん危険な感じになっていくのもスリリングで楽しい。ちょっと悲惨なことになっても、ユーモアのセンスも手伝って、なんだか救われて後味は悪くない。いや、やられたね、ということは言えて、なんにも言えなくなるというか。
 この話とは直接関係はないが、ふと思いだした話がある。大岡越前が夫婦の情のもつれとも思われる殺人事件を裁く際に、その夫婦が高齢であったことから疑問に思い、自分の母親に女というのは幾つぐらいまで性欲があるものかと尋ねた。老女となっている母親は言葉では答えず、火箸で囲炉裏の灰をただ掻き回した。それを見た大岡越前は、「灰になるまで(つまり死ぬまで)」であると読み取り、判断の材料とした(たぶん死罪ということだったのだか、忘れた)という。僕はつれあいにいつも叱られるぐらい記憶力が弱いので、ちょっと怪しいけれどそのような話だったと思う。まあ、当たり前のことなのかもしれないけれど、女に限らず男だって同じことなのではないか。同じく昔の話だがロン・ハワードの映画で「コクーン」というのがあったけれど、あれは宇宙人の力で若返った老人が活躍し、性的にも復活してとても楽しそうだった。まあ、遠慮しているだけで年をとっても色気が無くなるわけではないということは国際的にも言えることなのだろう。
 しかしながら僕が知らないだけかもしれないが、ここまであからさまに老人の性を描いた作品も珍しいのではないか。ちゃんとセックスまで書いていて潔い。そんなにポルノチックではないので安心してお読みください。むしろほのぼの笑えます。

 まあ、表題作はそのように読んで、上手いもんだねと感心して、もう一作収められている話(「赤富士」)がものすごいバイオレンスで驚いた。僕のまわりにアル中の人もいるので、これはかなり実感がこもって怖かった。まるで本当にあった話を忠実に再現したのではないかとさえ思わせられた。
 これもまたふと思ったのだけど、いじめられて虐げられている人はこのように爆発するといいんじゃないだろうか、などとも考えた。この後のことを考えると非常にやばい状況になることは間違いがないのだろうが、もう振り切ってしまったので何も怖いものはない。おそらくすべてを失うことは失うのだろうけれど、一方的に勝利者はバイオレンスの行使者なんじゃないか。その爆発が屈折しているにせよ、人間の止められない狂気が誰にでも潜んでいることは、また当然のことではないか。いつの間にか僕は中途半端なりに大人になったが、このような狂気が自分の中にあることに少なからず怯えていたことがあったようにも思った。暴力を受ける方も恐ろしいのだが、ふるう方も恐ろしいのである。そういう感じがよく描かれており、恐ろしい話だが大変に感心してしまったのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たくましく生きよう宣言

2008-10-28 | 時事

「あるある解散」ですいすい議案が通っていたけれど、無いことがばれた後ではそりゃ当然滞る。そうなればゴネるのが悪いということでなすりあいになって、ますます遅らせる魂胆だろう。こりゃ本気で任期満了までやるつもりなのかもしれない。結局政局より経済なんていうのは真っ赤なウソなのだと思う。政府が経済政策をうまく取ったから景気が回復した例があるのかという気もするし、政府にヤーヤー言って生き残ってきたのはゾンビばかりじゃないですか。日銀にはやることがあるとは思うけれど、もう本当に分かっている人は政府には何も期待してないって。こんなことやってるからますます嫌気がさして、直接関係ない株価がもっと下がることにもなるんじゃなかろうか。最近は新聞まで結託して政局よりも対策だなんていいだして、わけわかんないけどなんか言わなきゃ、という前に勉強したら。深刻な米国だって任期満了で仕方がないとはいえ、大統領選を延期するなんてことはしない。まあ、マスコミが勝手に選挙をやるんだとあおって日程まで決めてしまっただけの話で、麻生さんがそのような考えを持っていなかったことは最初からなんとなく伝わってたこともあるにはるんだよね。僕がこりゃあ選挙やらないね、と飲んだ席で呟いたら、まわりにいる人みんなそんなことは有り得ないって言ってたもんね。みんなが思うようにならないのが政治の世界ということなんだろう。
 しかし市場の反応も反応だよなあ。トヨタをはじめ優良企業の業績がものすごく悪化するようなこと言っているけど、間違いなくトヨタは世界一の座を確実にした訳(敵が死にそうだから)で、このような企業が対策を打てない状況にあるわけがないのである。資産もたっぷりあるし、財務状況はものすごくいいんだから。つまりマスコミの方がそのような材料で株価が下がっていると勘違いしているだけのことで、日本企業の業績不安というより、世界不況そのものに対する恐怖感が、一番臆病な国民性の日本において突出しているということなのだということである。こっちの方は気分がのるかそるかということが大切なので、誰かもう大丈夫だ、って大声でいわなきゃならないのかもしれない。まあ、言ってもどよーんとしらけているままかもしれないけどね。まあ、いつまでも下げ止まらないことはないってことは確かで、そろそろ底かなあってぐらいは言っておいたほうが身のためなんじゃないですか。まあ、底じゃなかったら本当にみんな死んじゃうだけのことで、それはそれでどうなのよ、とは思うにせよ、たくましく生きるよりないのではあった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の世界席巻という感じには見えなかった

2008-10-27 | 時事

 NHK特集を見ていると、企業買収の様子をやっていた。以前の「日本人がやってきた」というなんだか恐怖にも似た反応から、ずいぶん様子が違ってきたのだなあと感じられた。放送の中ではだいぶ以前の映像が流れて、なんだか田中角栄にも似たおっさんが「やあやあ」と手を挙げながら登場する様を工場のアメリカ人従業員がポカンとして眺めているものがあって、なんだかすごくカッコ悪いのであった。ところが今はちゃんと日本人が英語でブリーフィングして、買収された従業員が次々に手をあげて質問し返している。もともと自由の国だということは知っていたけど、こういうところはアメリカというところの幸福な部分だとも感じた。最終的には日本が自分の我を通すわけだが、かなり綿密に話し合いが繰り返されたことが映像を通して理解できた。日本の利点で譲れないものは譲れない。そういうことをやはり米国流に通したということなのであろう。基本的には日本企業が外国企業を買収するという特殊性というものは、今やほとんどなくなったということなのかもしれない。
 日本企業が米国の企業を買収することのアレルギーというものがあることは理解できる。逆に言って米国企業が日本企業を買収するときなどのアレルギーの方が凄かったわけで、ある意味ではお互い様である。しかし米国企業を買収したのは日本企業のみだったわけでもないし、むしろ欧州のものよりはるかに少なかったということはあまり伝わっていないように感じる。企業買収はかなり活発化しているらしいことは確かで、それはそれで仕方のないことだし、今となってはある種のセールスで、本当に買ってもらわなければ明日がないということでもあるために、むしろ積極的に買ってほしいというところまで来ているのではないか。日本の企業が買収を仕掛けることで、むしろ人助け国助けしているという風景もあるように思う。結果的に世界戦略上、生き残りをかけているわけで、これは日本企業だからとか欧州企業だからという事とは、もう既に次元の違うレベルの問題になっているのだと思う。
 実際に日本においても多くの外資系の企業は存在しているけれど、日本で商売しているということは少なからず日本の商慣行どおりに活動しているようで、ほとんど違和感などないのではないか。むしろやはり日本企業より少なからぬ社風が自由なようで、憧れの外資系という働く側にとっての羨みもあるのではないか。しかし外国の日系企業が不自由かというとたぶんそんなことはなく、まあ、一部いろいろうるさいとは思っているかもしれないが、やはりその国の方針の方が強く出るということもあるだろう。働いているのはほとんど現地の人間なのだから、そんなことは当り前であろう。
 ともあれ、日系企業が増えるから日本が優秀であるという明確なところはない。今は有利だから買収を進めるということにすぎないのである。金持ちの本領発揮であるが、まあ、それも企業が金持ちということで、本当に日本人がお金持ちすぎるわけでもない。むしろ日本の企業にいても、将来は自由な国へ行くチャンスが増えているということも言えて、これから大企業へ就職する人は、面白みが増すということかもしれない。まあ、それでも一部の人であることには変わりがないのであるが…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒い季節に突入

2008-10-26 | 時事

 少し寒くなってきたようだ。そろそろ灯油を買わなければならないとつれあいも言っている。原油価格の反映が末端まで浸透する時間がどれぐらいのものなのかわからないけれど、出来るだけ遅い方が安くなるはずの流れである。ガソリンもどんどん安くなってるよ、という話だが、円高もあるので今の値段でもとても底値とは言えない。そういうわけで、もう少し暖かい日が続いて欲しい。
 しかしながら株価をみると、米国より日本の反応の方が激しい。輸出産業の打撃を嫌っての過剰反応のように見えるが、円安だからという理由より米国他の景気後退のほうが深刻であるということの方が正しく、結果は一緒じゃないかではなく、米国を買うなどきちんとした戦略を持つべきチャンスの時だと何故考えないのだろうか。確実に原料も安くなるのだから、相対的にいろいろとやりやすくなるわけで、やはりここまで慄くことは、今までの経験を勘違いしたチキン・ハートであるように思える。実際にここまで下がると、早くて半年後ぐらいには本当にそれらの企業ももたなくなるだろう。世界中からほとんどうらやむようないい状況の日本が勝手に自滅していく様を、他国はどのような視線で眺めていることだろうか。
しかし一方で、今までは仮の円安状態を強引に維持し続けてきたということも本当らしく、化けの皮が強引に剥がされたことによって崩壊してしまうのだというシナリオであるなら、努力を怠ってきたツケが回ってきたと解釈しなくてはならないのかもしれない。日本の金融がどうだとか政府は言ってるし、バブル崩壊で何を学んだのかお前らは、という失笑を買っている。いや、もう他国にとってはそれどころではないか。
 しかしこうなってくると、本当に頼りになるのは自分自身の力である。もしくはコネクションかもしれない。原料は何処から買えるとか、何処と協力して仕事をするとか、基本的な信用度の高いところしか生き残れないだろう。そういう意味では、堅実な実力が試されているときということも言えるわけで、面白い人には面白いことが起こせるのだとも思う。自分の力でそこに何かあると嗅ぎ分けられた人にしか、前に進むことは出来ないだろう。頼っていた組織だとか、享受していた甘い汁だとか、いつまでもすがっている人はすがっていればいいのだ。確かに恐ろしいとも思うけれど、まあ、強引に愉快だと思おう。
 考えてみると今日は、最初に予想されていた選挙の日だったようにも思う。政局よりも経済対策だと思っているはずだと強弁しているけれど、選挙をしなければますます経済対策の方が遅れるわけで、まあ、ホンネは本当に選挙をする意味が無い(つまり勝てない)ということに過ぎず、単に見苦しいと思う。次に政局を担っても、今の状況を変えられる政策を持っている党は居ないのだから、貧乏くじを引かせればいいのである。まあ、押し付けあって誰もやらなくなる日が来るとも思えないし、政権与党というのは、本当に美味しいところなんだろうなあ、とつくづく証明しているのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

将来の危険が減る

2008-10-25 | 

 冷凍インゲンだとかカップ麺だとか悪質な犯罪が続いて、何かが壊れたという感じがする。一気に危機的な状況になっているのは、せっかくの円高還元商品を売りにくくされた商社などであろう。もちろん危険なまま流通していいのかという問題は深刻ではあるけれど、すべての中国製品が危険であることは当然ながら逆にありえない。回収するという行為はゼスチャーとしてさらなる反感を買わないようにというだけのことであって、おそらく問題解決へつながるという事とはまったく異なる性質のものである。しかし中国には解決する力もないように見えるし、国内の捜査でもどの程度のことができるのかはまったく分からない。犯人が自ら名乗り出るようなことも考えられないし、このテロを行った人の完全なる勝利ということは言えることなのかもしれない。
 さてしかし実際問題としてこのような不安を持つことは分からないではないが、自分で食品を作る人以外で完全なる安全を保障したものなどはあり得ないわけで、どこかで妥協して選択するという行為を実行するより手がないことも明らかだ。殺虫剤などでどの程度具合が悪くなったのかはよく分からないにせよ、(危険な水準ならば)少なくとも食べている途中で分かる程度だったらしく、死者が出ているわけでもない。あいにくそういう商品に出くわしたとしても、とりあえずは自分で判断できるようではあるようだ。子供ならどうするとかいろいろ考える人もいるだろうけれど、さて、こんなときに本当にそのような商品に当たる方が奇跡的に少数なのではあるまいか。
 商品を販売している多くの会社も、摘発されてからでは致命傷を負うので、必死で内部調査を行っている最中だろう。皮肉にも現在流通している状態のものこそ、安全度が格段に高いとも考えられる。どの道国内産のものだけで日本の国民の食は支えられないのだから、円高のさらなる圧力の中で、まだまだ洗練されていない新規参入組の危険な商品が出回るのは、時間の問題であろう。
 統計上、農産品での残留農薬の濃度が一番高いのは、実は国内産のものである。これは普通に考えると当然のことで、特に露地栽培ものである限り、農薬の使われていない野菜が流通することはほとんどなく、産地に近い野菜ほど残留濃度も高いからである。もちろん使われている農薬の種類が国内と中国では違うではないかということは言えるけれど、もともと国内産の野菜は、リスクの高い商品であることは明確な事実である。
 これは農業従事者が一方的に悪いのだということも一概に言えない。何故なら消費者の方が、農薬のかかっていない野菜を選ばないからである。ここでキョトンとしてしまう人がいるように思うが、消費者のほとんどは、野菜だって見た目で選んでいるからである。冬の野菜とか土の下(ジャガイモなど)からとれるもの以外で、農薬を使わずに栽培して虫のつかないようなものは、たぶん人間にも食べられないものである。理屈上手間をかければ何とかなると考えるかもしれないが、人間の手間なんて限界があるし、商品として生産するということであれば、無農薬のものは間違いなくとんでもない高値にならざるを得ない。実際にそうやって防衛して高い商品を買っている人たちもいるようだけれど、全国民がそのレベルで流通する野菜を食べることは不可能だろう。もちろん程度ということが肝心で、現在のレベルで知らないまま安心した方が平和であるのかもしれないが。
 このような事件が発覚することで世の中は少しづつ安全な方向に向かっているとは言えるのだとも思う。中国の生産業者は間違いなく大きな打撃を受けており、立ち行かなくなるところも出てくるだろう。しかしそれでも信用を勝ち取るところは選別されていくわけで、多少のコストを上乗せしても這い上がってくるだろう。少なくとも次のライバル国が現れるまでは。
 日本の製品もあれだけ米国に叩かれながらも結局はシュアを伸ばし続けた。最終的に製造コストが安い方が商売として強いので、日本の国産品が諸外国にいつまでも優位性を保てることの方が奇跡と言わざるを得ない。一時的に国内産を買うことで安心していては、将来の安心を棒に振ることになりかねないのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どんなお姿の犬なのかなあ

2008-10-24 | 散歩

 朝の散歩ではだいたい同じようなコースを歩いているわけだが、時間的に同じなのかというと、かなりに日によって異なっている。ひとえに杏月ちゃんの気まぐれの時間にどれだけ割かれるのか、というのがポイントになっているようだ。道端の草はもちろん、電柱やそのまま地面の上に、僕には分からない微妙な変化のある匂いを嗅いで楽しんでおられる。多くは糞尿の匂いだろうけれど、同じイヌ属が触れたであろう場所には、その大きさやら性別や年齢など、さまざまな情報が含まれているといわれている。それらの情報をつまびらかに取り込むために、熱心にかぎながらフンフンとデータ処理を行っているのかもしれない。時々深刻そうに首をかしげて、最後に軽くくしゃみのように鼻息を吐き出し、嗅ぎすぎた匂いをリセットしたりしている。そうしてしかるべき場所には、雌犬であってもマーキングをする。ひょっとするとお気に召した雄犬へのメッセージなのかもしれず、内心穏やかでいられない。いや、このメッセージが正確に伝わるような賢い紳士であってほしいものだとは思う。僕には姿の見えないワンちゃんだが、杏月ちゃんには見えているのだろうか。

 さて、散歩コースにある堤には鴨の群れが見られるようになった。ここ数日で確実に増えたように思えるので、いよいよ季節は変わるのだろうということが予感させられる。もう充分に感じられるではないかという意見もあるだろうけれど、まだまだ日中は汗ばむ暑さだし、本当に秋らしいという感じがあんまりしていなかった。例年なら十月には、寒がりの我が家ではストーブがたかれる日が数日はあったようにも思われる。まだ十月が残っているにせよ、お湯割りの焼酎を飲むと汗ばむことがあるようだ。温かい日が続くことは歓迎していいけれど、そろそろ衣替えしたいようなしたくないような、そんな気分である。

 近所に羽の一部分が白いカラスがいて、アルビノというのかどうかはともかく、カササギほどではないにしろ、両方の羽の一部分が白くなっていて、一部の人々(最初はお隣のおじさんから聞いた)の間ではささやかながら話題になっている。そのカラスが最近うちの車庫の上にとまっているのを見かけるようになった。たいていは車庫前にある可燃ごみの集積場所が目当てなのだが、ゴミのない日にもぼちぼちその場所に来ることがあるようだ。たいてい二羽で、もう一羽は真っ黒なので、正確な関係は分からないにしろ、この一部白ガラスのみの変化であるようだ。警戒心が強くてなかなか写真に写すことができずにいるのだが、近所の人がときどき望遠レンズでこの被写体を狙っているようである。しかし、白い部分も羽を広げて飛び立つときに改めて分かる程度の範囲であって、ものすごく変わったカラスという風情ではない。その中途半端さが、いいといえばいいのかもしれないが…。

 そういえば今年も稲刈りは済んだ。打ち上げはどうすっかなあと思うが、まだ決めていない。今年は一部虫にやられて、ちょっと期待したより二等米が増えてしまったようだ。来週あたりから新米になるようだけれど、僕のダイエットの佳境であることに、ひそかに危機感を強めている。とりあえず散歩の距離でも伸ばすかなあ、などとも思うが、抜本的には食わないことの方が何百倍も重要なので、コメ倉庫には近づかないでおくことにしよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パッケージへの哀愁

2008-10-23 | 音楽

 CDのことを実際にこのようにいうのかどうかは別として、マスターといえば確かに僕らもマスターテープとかいって回してダビングしていた。基本的にはそんなに違いは無いのではないか。携帯する音楽は、情報として変化したわけではない。
 もちろんパッケージはいらないの?という疑問があるのかもしれない。まあどうしてもいらないわけじゃないのだろうけれど、携帯するということを考えると、やはり邪魔には違いない。そりゃ財政的に叶うことならば、家でマスターは保管して、末端は携帯するというスタイルをとりたいという裏心だってあるのではないか。しかしやはりお金がかかるので、高校生には無理な話だということなのではないか。30代以上でないと、つまりリッチでないとマスターを所有することができなくなったということの方が読み方としては素直な気がする。音楽会社の思惑通りに、今まで高い値段の支出を一方的に余儀なくされていたというのが真相であって、今の状態はミュージシャンと消費者の自由が広がったと考える方が素直なのではあるまいか。今までは音楽会社と契約しなければ食っていくすべがなかった音楽家は、自由に個人で音楽を配信して販売することができるようになった。途中のマージンが要らないので、消費者にとってもリーズナブルであり満足度も高いのではないか。また音楽業界が衰退しているというけれど、音楽家のコンサートやライブの収入は逆に増えていて、気軽に音源が普及しやすくなったために、宣伝効果もあって、直接足を運んで音楽を観るという行為にもつながっているものと思われる。
 CDの存在をノスタルジックに嘆く心情は理解できるにせよ、別に驚くべき事態に陥っているわけでは全然ない。僕らがウォークマンで街を闊歩したスタイルと、基本的にはまったく同じようなものであろう。いや、むしろ背景はこのように自由になり可能性も広がっている。音楽業界(に限らずだけど)は急速に変貌し、新規参入が増えるだろう。レコード会社は早急にCDの価格をレンタル料金並みに下げて抵抗するより手がないのではないか。この状態は衰退とはまったく逆の、大きなチャンスであるということがいえるのだと思う。
 若者がミュージシャンになることは、もっとも安直で簡単な夢になったのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

挨拶を邪魔するもの

2008-10-21 | ことば

 最近ちょっと挨拶で話をする機会が続いて、久しぶりに緊張の連続だった。こういうことには、ある程度の連続性が必要で、間が開くとまた話しづらくなってしまうようだ。続くときには馬鹿みたいに何度も話す機会があったものだけれど、途切れると案外めったに挨拶しなくてもいいようになる。他人の集まるところへ近づかなくてよくなれば、自然に挨拶しなくてもよくなるのだろう。なんとなく理想の生活だが、浮世の義理があるのでそのような理想の世界に住むことはかなわない。しかし、もう少し年をとって付き合いが無くなると、逆に寂しくなるものなのかもしれない。
 僕は気が小さいので人前に立つというのが今だに慣れないようである。慣れの問題だから続いているときは、まったく緊張しないという頃もあった。しかしやはりそれも一時のことで、場が変わるとそれなりに緊張感が戻る。酷いときには膝がふるえて、それが他人に見られると思うのがまた恥ずかしく、さらに緊張する。懇親会などの席で最後に何か言わなければならなくなったりすると、ほとんど何を食っても味がしない。がぶがぶ酒をあおって前後が分からなくなってしまう。その上出番前に最高に尿意が高まって大変なことになってしまう。壇上でもじもじしながら無様な姿を幾度もさらしてきたことを思うと、まったく情けないものである。どの道挨拶しなければならないのであれば、その場でいきなり指名してくれたならどんなに楽だろうと思うのだった(実際そういう機会もそれなりにあったけれど)。困惑はするだろうけれど逆に開き直るので、僕の性格では突然指名の方が楽なのである。
 まあそれぐらい緊張するのだけれど、不思議なことに話し出すにつれ自然に落ち着くことが多い。特に会場が広くてマイクを使うようなときは、自分の声が聞こえてくると途端に落ち着いたりする。ひどく昔のことだがバンドをやっていた頃もそうで、ステージに立つ前は逃げ出したくなって弱気になっていたくせに、歌いだすと開き直るというかだんだん楽しくなってくる。終わる頃には時間が愛おしい。できることならまた最初からやり直したいくらいなのである。まあ、挨拶はちょっと違いはするのだけれど、必ずと言っていいほど失敗があるし何か言い足りないような気持も残って、できることならやりなおしたいという気にはなるものである。壇上に長くいるのは嫌われるの(僕だって他人事なら嫌いである)で出来るだけしないように注意してはいるのだが、思いのたけが残りすぎるとしつこくなっていつまでも居座ってしまうのかもしれない。
 しかし短く話すというのはやはりむつかしい。何かを言うということは、やはり何かを伝えたいということもあるからである。対話でないからちゃんと伝わるものなのかが分からない。だからといって講演ではないのだから、くどくど説明したからといって伝わるものではない。中途半端な時間ならかえって焦点がボケてしまって何にもならない。しかしワンフレーズで言えるような単純性は、どこか誤解を招くような不安がある。何を削って鋭く出来るのか。やはり短いものこそ準備をする必要があるのかもしれない。
 いや、いざとなるとやはり少しは準備をする。以前は通勤の車の中で実際にいろいろ話してみて、内容を組み立てたりしたこともある。何度も何度も同じような話をしてみて、実際に精度が上がっていくことは実感ができる。しかしある時からぱったりそういうことをしなくなってしまった。理由としてはなんとなく演劇調になってしまうように思われたからである。芝居がかった物言いが良い場合もないではないが、役者としての大根ぶりが洗練されるには時間がかかる。いろんな人の話を聞いてみて感じるのは、やはりライブ的な勢いが、良いスピーチを活かす最大の武器のような気がする。
 サッと考えて、できるだけサッと的確に言えればいい。理想としてはそうなのだけれど、それが簡単にできないので悩むのであろう。結局どこか格好をつけすぎる自意識過剰な自分が邪魔をしているのかもしれない。他人がどう思うのかなんてことは、本当には分かるものではない。自分の役割を役割らしく粛々とこなしていくより無いのであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文字の大きさ

2008-10-21 | 掲示板
 多くの人に言われているわけではないが、文字が小さいという指摘は受けたことがあった。実はどうしたら大きくなるのか知らなかっただけである。投稿時にサイズを選択する必要があったらしい。ためしに大きな文字でテストしてみます。ただでさえ長いと苦情が来るくらいだから、あんまり読まれてはいない可能性のほうが高いし、俯瞰するには小さい文字のほうがいいという意見もあるかもしれない。まあ、読みやすいのは大きいほうであるとは思うので、今後は大きいままかもしれません。

追伸:大きくしたっていっても、そんなに違わないですね。失礼しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子育て論なんだろうか

2008-10-20 | 読書
ハイエク 知識社会の自由主義/池田信夫著(PHP新書)

 今のような先行きの大変に不安な状況の中でどのような経済的な政策がとられるべきなのかというのは、なかなか素人には考えが及ばないものなのかもしれない。政府として何とかすべきだということも、まことしやかに議論されているけれど、そのような政策が実行されてその後に、本当に経済が元気になるのかということの分かる人がどれぐらいいるものだろう。経済というものは、我々生き物と同じように動き回り、そうしてかなり身勝手に様子を変えているように見える。
 計画的に経済を操ることができるのかというのは、歴史上いろいろな例があったともいえる。そうして国家が計画的に操作しようとして失敗しているように見えるものの代表が、共産主義であろう。今やマルクス経済学はほとんど論外であることは当たり前になっているにもかかわらず、時折やはり頭を表してくることがあるので、かなりびっくりもしてしまうけれど、どの道今後主流になることはやはりないのだと思う。
 しかし輿論では、今からというか現在吹き荒れている新自由主義の行き過ぎへの批判の声も厳しい。経済というものは振り子のように行ったり来たりしているようにも見えることがあって、一方に振り子が振り切れたら猛烈な勢いで戻ってくるようなことがあるようだ。その原因となった力のすべてが、新自由主義によるものであったのかというのは、たとえ今がそのように見えるということであるにせよ、よく分かってはいないのではないか。
 自由だから腐敗するというのは、確かにありうることであるにせよ、不自由だから腐敗しない理由なのではないようにも思う。ただしかし、経済を伸ばすという欲について忠実であるのは、自由という枠組みでない限り、なかなかうまくいくものではないこともまた真実で、欲を持ちすぎるのは格好の良いものではない(これは僕の感覚だろうが)にしろ、仕方のないことであるとは考えている。この欲が富を生み出し、人間活動の基礎にもなりうる経済の活況を生むことは、間違いではないのである。
 ここであえて戻っていく振り子に力を加えて、規制を強めてコントロールしなければならないということが加速するのは、これからの将来を明るくするものなのではない。微調整はいるかもしれないけれど大きなふり戻しすぎは危険で、将来の不安がさらに増すことで、傷口はさらに広く深くなりかねないのである。
 最近真面目に復活を果たしているように見えるケインズという人は、現在でいう財務官僚という立場を利用して、財政支出を正当化して、理論を組み立てた人らしい。結果が失敗していることは歴史が証明しているにもかかわらず、もちろんその為にケインズ理論は墓場へ行ったにもかかわらずのこのこと復活しているのは、今がケインズ後の新たな失敗という前提に立っていると考えている人が多いためであろう。いや、現実的に失敗しているではないかというのは、金融危機の騒動で目先が見えなくなったためにおこる錯覚で、あれはある意味で詐欺事件で金が消えたということであって、経済政策が失敗したため起こったことではないのだということを改めて知るべきではないか。経済というものは生き物であって、いいとか悪いとかいう状態は結果なのである。
 じゃあどうしたらいいの、というのが誰もが考えることで、そんなことが分かっているのなら誰も苦労はしないというのが正直なところだろう。あえて言うなら先行きの不安を増大させないということに尽きるのではないか。だから銀行は救済され、ゾンビ企業は逆に退場しなければならないのである。
 しかしながら文系の人の考えている経済騒動は、最後にはどの論を信じるというような態度をとりがちである。何であれ主義であるとかないとかいうようなことが強調され過ぎるのも、ある意味で信者としてどの論をとるのだというような事を言っているように見えるのである。
 まあ、経済学というものがケインズのいうようにある種のパンフレットであるというのは本当のようで、結局はその配られたパンフレットの信用度で政策が動かされてしまうのは仕方のないことなのかもしれない。ということであるなら、ハイエクが長い間理解されず批判されて葬られてきたことは、パンフレットとしては人々の心を打つ魅力がないのかもしれない。
 しかし、魅力がないから間違っているとは限らないわけで、少しでも理解する人が増えると、今のような危機的な先行き不安の連鎖する馬鹿げた財政負債は増えていなかったであろう。日本の場合まだまだ増えそうな圧力の方が強くなる魔のスパイラル状態にいるように思えて暗くなるのだが、結局理解できるだけの頭の回転が追い付いていかない政治体制であるということに尽きるのではないだろうか。
 もちろん学問であるから、新たな学問により葬り去られるということはあるのかもしれない。自由というものは皮肉なことに、多くの場合流血の革命というような暴力的な騒動の後に誕生してきた仕組みである。枠組みが自然に組み立てられていくというような計画性の上で成り立ったものなのではないのである。つまりいつまでも完全なものではありえない。しかし人間が選択して育てていかなければならないものであることには変わりはなく、子育てに困難はつきものなのではないだろうか。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬鹿な親なのだろうか

2008-10-18 | 時事

 振り込め詐欺の問題は確かに深刻なのかもしれないが、いくらなんでもこれだけ騒がれているのに被害が出るのは、何か被害者の方もおかしいんじゃないかと単純に疑問に思うのである。巧妙な手口といわれている内容も、騙されやすい人が騙されるべくして騙されているという感じさえする。言っちゃ悪いが馬鹿は防ぎようがないような…。
 ところがですね、考えてみると、というか自分のことを振り返ってみると、あぶなかった経験があるのであった。
 職場に電話があって、お宅の会社の車が事故を起こしたらしいという。それなりに驚いて確かなことなのか確認するために、乗車している人や車のナンバーを確認したい旨を相手に伝えた。そうするとお宅の従業員がそう言っているのだから間違いがないとか何とか言って教えてくれない。では電話で直接話せないかというと、それもできないという。あれこれ言っているとちょっと待ってください、と待たされたまま電話が切れた。着信履歴は非通知だった。一応外に出ている人間に一通り連絡したが、誰も事故などおこしていない。おかしな電話だったなあと思うが、よく考えてみるとあの後お金を振り込むなどの話になったのかもしれないと思い当たった。巧妙かどうかは別にして、確かに一瞬驚きと共に信じそうになったような気もしないではない。相手の対応も冷静そうであったし、事故ならば大変な緊急事態だという認識があるから、そこに付け込んで信じさせるというような心理が働かないとも言えない。なるほど、これならいろいろな手口がありそうだなと思ったことだった。
 また電話での振り込め詐欺ではないが、以前に一度うっかり振り込んだということはあった。これは一種の右翼団体からの雑誌の料金の請求書が来たものを、事務員がそのまま確認せずにお金を振り込んでしまったのだ。雑誌だったので連絡先がしっかり明記されており、電話で誤って振り込んだ旨を伝えて返金するよう依頼した。このような誠意を覆すような行為(返金することが)は、人間として間違っているとか何とかいろいろ説教されたが、意外なことにちゃんとお金は返してくれた。封さえ開けていなかったにしろ、ちゃんとその雑誌は手元にあって、送料はこちらが負担して送り返した。
 このようなことはあんがい頻繁にあって、寄付しろとか何か買えという電話は定期的に来るようである。最初はそれなりに驚いて困惑しながら長時間電話で脅され続けたものであるが、最近は接客中で失礼しますとか何とか言ってこちらから電話を切るようにしている。ある時はそれでも電話が掛かってきて「お前のような奴は許せない。今すぐそっちに行くから待っていろ」などと脅されたけれど、今のところやってきた人は一人もいない。
 まあある意味で、こちらは交渉事にいくらか覚えがあるので、このようなことに慣れてきているということもあるから何とか助かってきたということも言えなくはないのかもしれない。いきなり素人というか、普通に生活している人にこのような電話が掛かってくると、興奮して信じ切ってしまうということが起こりうるのかも、とは思う。自分の息子かどうかさえ分からないというのは異常であるように感じるけれど、非常時の興奮状態はすでに冷静ではない状態ともいえ、敵はそのような非常時の演出のたくみさで勝負しているということなのだろう。考えてみると朝バナナ・ダイエットが流行るとバナナが売り切れるぐらい大衆というものは扇動されやすいものである。馬鹿な人間が馬鹿だから引っかかるというような単純な犯罪ではない、人間の人間らしい行動を逆手に取った犯罪であるからこそ被害がここまで広がったということは、振り込め詐欺には言えることなのかもしれない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢のない国

2008-10-15 | 時事

 今年は4人の日本人がノーベル賞を受賞したという。益川さんという人のインタビューを聞く限りでは、ずいぶん時季外れな受賞になったようだけれど、素直におめでたいこととして割り切れない姿は、人間として素晴らしいと思った。自分の業績を利用した人間の業績が認められての連鎖的な受賞ということであるようだ。4人がそろってご高齢で、なおかつかなり過去の業績であるということからも、ある程度は共通して言えることなのかもしれない。しかしながら、科学は巨人の肩に乗って、つまり一定の積み重ねの上に成し遂げられているともいえるわけで、その功績が少ないということでは無い。認められるか、そうでないかという問題であるだけのことで、本当に凄すぎて誰も理解できずに埋もれている科学者だっていることだろうとも思う。生きているうちに認められたということは、大変に素晴らしい栄誉ではないだろうか。
 さてしかし、日本人の受賞で日本という国が世界に認められたという論調の報道には、かなり違和感がある。そんな事を言っている国が一体どこにあるというのだろうか。米国や中国などが今回の日本人の受賞で、基礎科学での素晴らしい国であるという認識をしたというようなことがあったり、またそのように感じた人がどれぐらいいたのかということを考えてみると、限りなくゼロなのではないか。いや、外国のことで関心がないという話ではない。たとえ4人もの日本人がノーベル賞を取ったのですよと教えたとしても、それがどの程度凄い国としてのインパクトを与えうるものなのかということさえ疑問を感じる。うへえ、こんなに小さな国から4人も出たんですか、などと感心してくれるような人は、よっぽどの日本人以外居そうに無いではないか。
 ノーベル賞ではないが、メジャーリーグで日本人選手が活躍することで、日本人が認められているというような事をいう人がいるけれど、たぶんそんなことは少しもないことだと思う。ひょっとするとイチローは米国人の誇りだとまでは思わないまでも(いや、そのように考えている人は必ずいるだろう)、普通にメジャーリーガーとして凄いということの方が一般的な米国人の認識ではなかろうかと思われる。何故なら活躍しているのはあくまで米国内でのことだから。プエルトリコとかベネズエラだとかその他もろもろの国の選手もたくさんいるけれど、そうした人がいくら活躍したからといって、米国人がそれらの国を凄い国だと考えることは少ないだろう。米国に来たから凄い選手なのであって、国の業績なのでは無いからである。たまたま凄い才能をもった人が、その国の出身にすぎないということなのだろうと思う。
 ノーベル賞に戻ると、4人というけれど、そういう訳で2人はおそらく米国の業績であるということも言えると思う。日本では育つことのできなかった人だからこそ米国で業績を伸ばすことができた(実際には受賞した業績の時期が米国での活動と重ならない人もいるようだが)ようにも見えるし、受賞した本人だってそのように物事をとらえている可能性がある。いまさら日本人といわれたって、内心では迷惑なのではないか。
 また、わざわざ英語で書かれた論文が評価されたということも言えるので、基準の前にそのようなアクションがないものでなければ選考に上がらない現実を思うと、実に狭い社会の判断であるように思えなくもない。このような賞を受けずとも、どうしても原文で取り組みたいと思えるような研究であれば、フランス語であれ日本語であれ、世界中で評価を受けるに違いないからである。
 実際に日本で優れた研究がなされていると、諸外国からも研究者は集まっている。現実として、科学の分野でなくとも日本が優れているものであれば、外国人であっても多くの人が日本にやってきて、熱心に研究がおこなわれているのである。それこそが日本が誇るべきものであって、すでに尊敬を勝ち取っていると言えるのではないか。
 日本人が凄いのだと自画自賛する姿は、ノーベル賞を取らないと自国の業績さえ分からないのが日本人だといっているようで、本当に情けない国であると宣伝しているようなものではないか。
 まあ特に科学の分野に日本が冷たい国であることは、この国を動かしている多くの人が文系であるように思われることでも分かることなのかもしれない。日本というのは本当にバランスが偏っていて、報道においてもこのような偏重を生むほどに、科学離れし過ぎている社会なのかもしれない。子供が科学に憧れをもたないのは、まともに評価できる大人が育たなかったということに尽きるようにも思える。今後も日本人のノーベル賞の受賞者が増加傾向になるということは、ますます難しいということを表している現象なのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノーカントリー

2008-10-14 | 映画
ノーカントリー/コーエン兄弟監督

 まあなんというか、酷い暴力だとは思う。こんな感じで殺されてはとてもかなわない。ましてや一方的に賭けに乗るか(コインの表裏の賭けに勝てば殺されない)と言われれば、まったくまっぴらな話である。生き残ったとしても命をありがたいと思うものだろうか。
 しかし最初の印象とはだんだん違ってきて、冷酷ながら、何か別の倫理というものを持っているような気がしないではないとも考えられるようになる。無差別に近い殺人の繰り返しなのではなく、何かの秩序にのっとって、ある意味で審判のようなことがくだされているのではないか。もちろん人間であるから、本人が神か何か超越した存在に勝手になるわけにはいかない。そういう意味では、賭けという偶然を利用しているのではないか。
 正直に言って、僕は意味を理解したわけでも何でもない。まったく難解でチンプンカンプンだ。ただ、この殺人鬼というか殺し屋に、良心といえるのかどうかは分からないにしろ、何らかの倫理観があるように見えたことは確かなのである。
 偶然大金を手にして追われることになったハンターは、まったくの悪人なのではない。むしろ善良なところがあったために、追われる証拠をつくってしまったようである。反撃の勝負に出てからも、必ずしも負けているとは言えないような展開ではあった。
 しかし勝負があったのは、あるきっかけでお互いが話をする機会が生まれたからである。それは人間の欲の発露であったかもしれず、その後のまったくの無意味に見える関係者の殺害に至るまで話は、一方的なルールではあるにせよ、殺人鬼側の冷徹なルール厳守と倫理が含まれていると考えられるのである。殺される側に殺されるほどの理由があるように思われないことは当事者として当然のことであるにせよ、殺す側の倫理には反しているということにもなるのかもしれない。不条理では片づけられない条理が、この展開の中に含まれていると読んだ方が映画的には正しい見方だろう。
 しかし無論、こんなむちゃくちゃな倫理を受け入れるわけにはいかない。社会のルールでは考えられない超越した倫理だからである。しかしそのような了解は、いったい誰と誰との了解なのだろう。人間の持っている普遍的な倫理観といえるのだろうか。
 まったく困った映画だとは思う。こんな終わられ方とするのは迷惑だとは正直に思ったのだけれど、今になってみると心の中のいろいろなところを揺さぶられていたことに気づく。人間というのは知らず知らず傲慢に生きているのではないか。殺人鬼は自らも血を流す人間には違いないが、だからこそ人間を超越することのできた哲学を持つに至っているのではないかとさえ思われる。決してターミネーターではない、生き物としての残酷さをもった素直な生き方をしている人物なのかもしれないのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする