カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

行き先のわからない人探し   長江哀歌

2023-02-28 | 映画

長江哀歌/ジャン・ジャンクー監督

 長江の三峡ダムの建設によって水没していく街の人たちの、主に人探しの物語のようだ。とはいえ風変わりな映画で、ギャグなのかSFなのかよく分からないものが映像で出てきたりする。そうして二つの人探しの話が出てきて、無関係なのに何か関係がありそうなそぶりを見せるのだが、ちょっとどうしてそうなっているのかはよく分からない。しかし並べられて、元に戻って、平然と話は進んでいく。そういう混乱を含めて、雰囲気を楽しむ映画なのかもしれない。
 どういう訳か娘を見たいという理由で、16年ぶりに妻に会いに来る男がいる。しかしまちは水没しているので、妻は別の下流のまちに行っているらしい。仕方がないので、この町でしばらく働いて待つことにするのだった。一方以前夫に会いに来た妻がいて、これは一緒に探してくれる人がいて、なんとか翌日に遭うことができるが、しかし離婚したいのだという。また元に戻って、やっとまちに妻が帰って来ることになるが……。
 という話のはずだが、間違ってたらごめんなさい。とにかく間合いは長いけど、よく内容が分からないのである。これって、本当につながっている話なんだろうか? 
 しかしながら上流の町から下ってきて、不良ばかりが住んでいる街に来て、何となく苦労はするが馴染んでいって、しかしやっぱり帰っていくのだろうと思う。どうして離れたのかがそもそもよくわからないが、都合があってそうならなければならない。そこには本当に愛があったのかさえよく分からない。何となく感情はありそうだけど、かなりドライな感じもするし、あえて表に出さないだけの問題かもしれない。そのほうが雰囲気が出て、いい感じになるという計算でもあるんだろうか。
 でもまあ、実際そんな感じで、悪くないものも伝わる。変な社会の話なので、素直にギャグとしても面白いのである。北野武映画のように、かっこつけてるのかもしれないが、そういう気の衒い方は、あんがい映画を観る者には親和性のあるものかもしれない。素直にわからないままでいないで、何か余分に考えてしまうせいだろう。
 ところで僕は、この辺りは若いころに旅行した。けれどちっとも懐かしい雰囲気ではない。中国って、やっぱりいろいろ事情が激変した国なのかもしれない。本当にこれからどこに行くのであろうか。
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詰んでいる可能性のある毎日

2023-02-27 | 境界線

 毎日のことではあるが、いつも何かを選んではいる。そんなことは当たり前かもしれないが、選択をすることが、生活そのものだともいえる。どうするか? もしくはどうしたいか? という問いは、ひとから言われるだけのことではなく、自分自身でも問うている。無意識の選択も無いでは無いが、そのプロセスとして、自分自身の道筋のようなものがあるように感じる。
 そういう中で、仕事のことを別にすると、僕が毎日選ぶことに疲れていることがある。それは何を見るか、ということである。いざ選ぶ段になって、なかなか選べないのである。若い頃には、面白そうなものが多くて困るというのが第一だったはずなのに、今はどれもそんなに面白そうにも感じられず、かといって何も見ないことの方が、時間的に詰まらないから、とりあえずそれらから、出来るだけ最適なものは無いか、と悩んでいる傾向がある。そうしてその選択後にも、何か観続けることができなくなって、中断して、別を選び直すことも多い。このような自分の不安定さが、さらに自分を不安にさせる。
 とりあえず映画で考えてみると、ネットフリックスのマイリストが31本あるようだ。どのみち見ないと思われるものは、性格上常に削除しているので、おそらく見るだろうリストだと言っていい(それでも観ないかもしれないが)。そうしてアマゾンのマイアイテムのプライムで見られるものだけで、46本ある。レンタルでなければ見られないものが、206もある。プライムになる期待があるが、そのままならないかもしれないのは、レンタルしてみるかもしれない可能性はあるが、とりあえず46本を優先する考えがあることを、今気づかされた。それでもこれらの合計から考えて、今年中に全部見ることは、ほぼ不可能だろう。
 これらの中から、毎日何かを見ようとはしている。すぐに映画を見る場合もあるし、別に録画している番組を見る場合もある。この録画のストックは、めんどくさいので数えていないが、5分で見られる料理番組や子供向け教育もの、ニュース解説や30分程度の番組ものや、特集物などのドキュメンタリーあわせて200本以上が、常時ストックされている。これももう全部見るのは不可能だろうから、酔った折に定期的に削除は繰り返している(酔ってないと削除する決断が難しい)。
 要するにこれらの選択肢の多さに、疲れ果ててしまっているのかもしれない。時期にもよるとは思うが、今は精神的な弱い時期とも重なっているのかもしれなくて、積極的に選び取る力が弱くなっている可能性もある。
 これに合わせて、常時読み止しの本がある。読もうと思って選別したストックが机に並べたり積んだりしているスペースがあるが、これが入れ替えながら50冊程度はある。今は図書館から借りている本が2冊だが、予約が一冊あるし、行けば読もうと思っているストックが、やはり50冊程度ある。鞄には持ち歩く文庫が二冊。今実際に進行中で読んでいる本は8冊ほどか。目次程度とか飛ばし読みしてちょっと目を通した本で、とりあえず棚に積んだものは数百冊はある。目が行くと、これもまた読むかもしれない。そうして毎月届く雑誌もあるし、まあ読むべき書類なんかもあるんである。やはり人生は限られているので、将棋で言えば、僕の毎日は既に詰んでいる。とは思うが、悪あがきしている。それなのに家に帰ると、また何を見るか考えなければならない。選べないのが当たり前だ。
 そういえば、そういうことを防ごうと思って、見るべきリストを作っておいているのだった。何本も線を引いているリストを眺めると、これが数ページにもわたっている。いったい何のためのリストであるのか。いつもこれを更新して、さらにリストが増えているのかもしれないし、以前に書いたリストが、すでにどこかにあるのである。やはり何かが詰んでいる。とりあえず何かを選択したら、集中することにしよう。
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これって誰の都合の良さなんだろう   ホームアゲイン

2023-02-26 | 映画

ホームアゲイン/ヘイリー・マイヤーズ=シャイア監督

 夫と別居して娘二人を連れて、亡くなった父の家に移り住むことになる。そういう中、娘を母に預けて飲みに行った折に、若い三人の男と意気投合する。さらに彼らは亡くなった父を尊敬する映画関係者だったために、行きがかり上この三人の男たちとの同居生活が始まるのだった。
 三人の男たちは映画作りのためにハリウッドにやって来て、才能を認められつつある。その中の一人とは、年が離れているものの惹かれあうものがある。シナリオを描いている男は、娘との関係も良好だ。何か新生活も張り合いが出てきて、上手く行きそうに思えてきたころに、夫が復縁を迫ってやってくるのだった。
 主演のリース・ウィザースプーンが娘二人を持つ母親役をやっているのが、一番のミソになっている作品だと思われる。以前に若い可愛らしい力で一世を風靡し、大人文化を破壊した女性が、(役だとはいえ)ほとんどシングルマザーとして奮闘しなければならない立場になっている。すでに若くは無いが、設定としては、若い男に惹かれる魅力は堅持しているようなのだが……。
 映画というより、ホームテレビドラマのようなノリである。セックスは匂わせるけれど、それなりに健全だし、妙な展開ではあるが、ちょっとぬるい感じでグダグダお話が進む。深みのある人間関係とも思えないし、結果的に本当にそれで良かったのかな、という感じもする。なんと言えばいいか、結局恵まれた人々の、いっときの危機的騒動が混じった話なのかな、という感じだろうか。まあ、世の中厳しいだけが現実では無いのは確かだけれど……。
 そういう訳で、なんで最後まで見てしまったのだろうと、自分でも呆れる。そういうあたりの見極めの甘さが、僕自身の欠点だということなのかもしれない。
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作品がすべてだと思いたいだけ

2023-02-25 | 音楽

 それにしても最近はよく死ぬな、という感じだ。ロック高齢化問題という背景があるので当たり前だけれど、要するに僕らの若いころに聞いていたちょっと先輩たちが鬼籍に入るお年頃になったのである。ただ、だいぶお久しぶりで忘れていた人ばかりだった頃とは違って、今もそれなりに活動していたりするから、ちょっと驚いたりするのかもしれない。昔の名前で出ていますが通用するのは、昔の名前を憶えている人が生きているからである。要するにもう少ししたら、僕らもその後を引き継ぐのだろう。確かにそう考えると、寂しいな。
 そうして過去を思い出したりするんだが、思い出すついでに知らなかったこともずいぶん知るようになる。自分の記憶違いも見つかるし、あんがい当時考えていたことと違う印象が、新たに生まれたりする。当時はネットも無かったし、買える雑誌も限られていた。ラジオでもそこまで詳しく解説は無かったと思う。そういう意味では、ある種純粋に曲だけを聞いていたのかもしれない。その曲とその時の青春の情景とともに。
 作家などでもいわれることだが、人物よりその人が生んだ作品こそすべてだ、という考え方がある。ミュージシャンも基本的にはそのように考えたいという気分はある。だから多少素行の悪い面があろうとも、たいがいのことは目をつむって、次に生まれる作品を楽しみにしているし、素晴らしいパフォーマンスを期待している。それで十分じゃないか。
 そうなんだけれど、いわゆる著名になっていくと、パパラッチというか、私生活を含めたゴシップの方が、人々の関心を集めていく。そうしてそのような情報をたくさん知っているからこそ、さらに上級のファンになっていくようなところもある。あの曲はすでに別れたあの子のことが書かれている、という話はごまんとある。今だと有名人同士付き合っていて、その恋愛の情景をそのまま歌詞にしていることで、さらに爆発的に売り上げを伸ばす女性シンガーもいるほどだ(あの人のことですが、複数いるな)。そういうリアリティこそが作品の面白さをさらに引き出し、そうしてアイコンそのものを引き立てていく。実際のところ生きているのに伝記が書かれ、さまざまなメディアに露出するゴシップこそ、今を生きている僕らの生活の糧になっていくようなところがある。作品がすべてである著名人なんてものは、それこそが理想的な幻想に過ぎないのではなかろうか。
 しかしながらその人のことを本当に知りえることはむつかしい。いつまでもその距離は縮まらない。集めるのはその人の周辺の情報のみであり、その人の生のものではありえない。偶像化された人物は、その人そのものではありえないのである。
 結局は曲に向き合って、同時代性と自分の記憶をたどるよりない。自分が生きているからこそ曲が聞けるのであって、この先のことなんて知りうることもできないのだから。
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これを運命と言わずなんという   少年の君

2023-02-24 | 映画

少年の君/デレク・ツァン監督

 最初と終わりにいじめ問題の撲滅キャンペーンのようなことをメッセージとして伝えてあるが、もちろんそのことを真摯に取り上げている作品であるにせよ、実際はそういうことを主題にしたようなキャンペーン映画ではない。それはいわゆる背景であって、本当の主題であるのは、青春の純愛と言っていいだろう。
 受験戦争真っただ中にある中国の進学校にあって、クラスメイトが中庭に飛び降りて自殺する。執拗ないじめを受けてのことだった。それでいじめられるターゲットが自分(チェン・ニェン)に移ってしまう。受験の圧力の影響なのか、いじめの質は悪質かつ執拗だった。そんな中、集団暴行を受けている不良少年を、行きがかり上助けようとして失敗するが、それでふたりは不思議な絆を持つことになる。
 チェンへのいじめは執拗を極め、また母親も問題のある人物で救いが無い。不良少年のシャオベイが、通学中のボディガードをすることになるのだったが……。
 主演を演じる女子高校生役(大人の訳も劇中にはあるが)のチョウ・ドンユィが、まずものすごくいい。童顔というのもあるが、撮影時、実際には二十代半ば以降の年齢だったはずなのに、女子高校生としてもちょっと幼いくらいの面影を残している。弱さと強さの両方が演じ分けられていて、それだけでもかなり説得力がある。その頃の将来のすべてがかかっていると考えられる受験の直近にありながら、凄まじいいじめの圧力が加わり、さらに抗いがたく惹かれあう男女の情念まで演じ切っている。こんな女優さんは、世界中でもちょっと考えられないくらい居ないのではないか(日本だと安達祐実がいたが)。
 不良少年のシャオペイの生活も、生きるためには仕方のない面もある。最底辺の暮らしの中で、必死にもがきながら犯罪に手をそめながらも生きているのである。
 大人たちの中にも、このような状況を何とかしたいとは考えているものもいる。しかし如何せん、その余裕がこの社会には無いのである。過酷さは濃淡があるにせよ、競争社会にあってどうすることもできない。自分自身で生き抜くよりほかに、その状況から抜け出す術はないのだ。その最善の道が、受験にあるということだろう。
 現代社会にあって、既に純愛という物語は描きがたくなっている。世界的な潮流は、ほとんど同性愛の世界にしか、純愛の分野は残されていないような状況だ。それだけリアリティのある過酷な状況は改善され、社会的な圧力が二人の壁になるような環境は、物語として説得力を持たなくなってしまった。受験生である女子高生と、まちの底辺の不良少年が愛を突き通すなんて突飛なことが、これほど純粋に歌われて、さらにそれしかないくらい信じられるなんてことは、奇跡としか言いようが無いだろう。そうしてそれを目撃する機会が、誰にでもあるのである。観るべき映画は、残念ながらそんなに多くは無い。この映画は、間違いなくその一つなのである。
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僕はまねをして描いていた

2023-02-23 | 感涙記

 松本零士が亡くなった。僕は小学生高学年くらいの時、なんだか必死で漫画を描いていた時期があって、実は松本零士を結構模写していたのである。最初は石森章太郎をまねていたが、よりベタの多い松本零士に鞍替えした。さらにメカの絵では、なるべく計器類をたくさん描いてそれらしくみせるのだが、それも松本零士の影響だった。しかしメーテルのような細めの美女は、描くのが難しくて断念した。美しかったり可愛かったりする女の人を描くのはあんがいむつかしい問題で、さらにあの松本零士の美女像というのは、独特のタッチとバランスによって成り立っていて、完全にまねしないとああいう風にならないのである。さらに松本零士は少年漫画にしてはそれなりにエッチっぽい裸の女性をたくさん描いていたが、しかし服を脱いでいることは確からしいが、なんとなくぼんやりして描きにくいのである。なのでともかく僕はエッチな漫画を描いていたわけでは無かったので(これは本当のことです)、そういった要素はすべてすっ飛ばして男だけの世界を描いていた。
 999は、映画も父と一緒に観たと思うのだが、観終わったら「今の子供はこういうのが面白いと思うのか」と父が言っていた。僕は何と答えたか忘れてしまった。
 当時999をスリーナインと読むのは英語的にはどうなのか? 論争があった。しかしまあ、読んでしまったものは仕方が無いのと、別段日本の漫画だし、作者が設定した読みなので問題ないと言われていた。そういうことを松本零士が語っているものか知りたかったが、よく分からなかった。
 友達のお兄さんが「男おいどん」を結構持っていて、それを遊びに行った折に盗み見して読んだ。四畳半シリーズという分野があって、とにかく男は汚く、女性は美しい妙な世界観なのであった。よく考えてみると他の松本零士作品ともほとんど共通するものではあるのだが、こういう情けなさと男らしさが一体となった怨念のようなものが、作者の中にあったのだろうか。僕は無頼派とはいえないどちらかと言えばヒッピー的な軟派な人間だが、このような松本零士の男性像には少なからず影響を受けたのではなかろうか。
 その後コミックはいくつか買った覚えがあるが、おそらく母親に当時の漫画はすべて捨てられてしまった。ちょっともったいなかったが仕方がない。今考えても正確にそれらの物語を、いわゆるスジとして覚えてはいないのだけれど、ちょっと哲学的な謎のある作風もあって、やっぱりかっこよかったのに憧れていたのだろう。ご冥福をお祈りいたします。合掌。
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死ねば死ぬほど成長する   オール・ユー・ニード・イズ・キル

2023-02-22 | 映画

オール・ユー・ニード・イズ・キル/タグ・ライマン監督

 原題は「Edge of Tomorrow」。ただし、原作の日本の小説があり、それが「All you need is kill」なのである(ややこしい)。SFにはよくあるタイムループ物であるが、見ているとわかると思うが、ゲームのリセットでゲーマーが成長していく物語と同じような感覚であることも分かる。そうしてそれが、このお話の大きなカギを握っている。
 近未来異星人に地球は襲われているわけだが、広報担当の戦闘は未経験の少佐が前線に巻き込まれ、すぐに死ぬ。しかしその時に、偶然敵側の少し偉い個体の血を浴びて死んだものだから、時間をさかのぼる何らかのループに巻き込まれてしまったらしい。前線に送り込まれて目覚めて死ぬまでの二日間、もう何度も何度も繰り返し生き返りながら、同じような体験をする。最初は試行錯誤してちょっとくらいやり方があるものと考えるが、敵の圧倒的な戦闘能力の高さや動きの速さ、さらに予期不能な展開の目まぐるしさなどがあって、おそらくだが数百回もの経験を積んで、見事な戦士へと成長していく。そこで出会ったタイムループの謎を知る英雄女戦士と知り合い、ともに何度ものタイムループ(実際は本人だけのようだけれど)を体験していき、さまざまな時間ルートを模索しながら、根本的な敵の大元を殲滅させるべく活躍していく物語。
 時間軸としては同じ日を繰り返し体験しているのだけれど、記憶はリセットされず、書き換えられない。それが新しい知識として次の場面で生かされ、どんどん新たなエリアまで進むことができる。基本的にはそのような戦闘ゲームとの類似性があるものと思われるが、時には戦法を変えて、ちょっとした違うコースから次の一日を送ることも可能なようである。戦闘能力が著しく低下するような怪我を負ったら、即リセットで死んでしまった方がいいという。下手に生き残り輸血を受けると、タイムループのパワーを失ってしまうという設定である。人間関係も、片方は一度経験した場面かもしれないが、自分は初体験ということがある。半信半疑だが、相手は確実に未来のことを知っている。さて、自分にはどんな未来が待っているのだろうか。
 映画的に究極に追い詰められたクライマックスを迎えることになるが、終わりは必ずしも後味が悪いわけではない。ちょっと人によってはどうなったか分からないものが無い訳では無いが、うまい戻り方をしたものだな、と思いました。
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自分は誰かに殺される可能性がある

2023-02-21 | 境界線

 「運命のボタン」という思考実験がある。誰かから「このボタンを押すと一億円あげます。ただし、このボタンを押すことで、どこかの誰かが死ぬことになります。ボタンを押しますか?」と言われたらどうするか、というのがある。倫理学ではどうするべきか、に一応の答えらしきものがあるようだが、あなたなら、どうしますか?
 これは読んでいる本の中での出題だったが、これに答えがあると考えていることにまず僕は疑問を感じる(いや、答えはあるが)。何故ならどう答えたっていい問題なら、どう答えたって何の問題もないとまず考えてしまうからだ。人が死ぬのにお金をもらっていいのか? と考える人がいるのだろうか? ちょっと不思議である。お金をもらったところで、自分で誰かを殺すわけではない。こういう問題を振ってきた人が殺すのかもわからないが、第一、嘘を言っているかもしれない。一億円が嘘でないことを願うが、くれるというものを、何故断るか。いや、断るかもしれないが、それはそういう問題を振ってくること自体が怪しいと考えるから、ならわかる。それくらいで一億円くれるはずがないからだ。この問題は現実的にはあり得ないということも分かる。絶対あり得ないか? と言われてもあり得ないと言い切れるくらいあり得ない。そんなことに意味が無い、とも思われるから。しかし思考実験のためにあるとすると、その場合にだけあり得る。人が死ぬのをわかっていてボタンが押せるのかを問うているから。だからこれを押せる、もしくは押せない、という二択において、何かの意味を考えている可能性はある。倫理的には誰かが死ぬとわかっていて、ボタンを押すのはおろかだと言いたいのも、簡単に予想がつく。誰かがお金をもらって、自分が死ぬかもしれない可能性を容認することになるからだとも、それはそれでわかる。それは設問には含まれていないが、自分だけにこういう問題が振られているとは限らない、という前提の考えがあるのだろう。しかしそんなにお金を使ってどうするのか? ということがあるので、他の人にむやみに設問がある、という考えは浅はかだろう。自分に一億円をやってもいいという余裕があって、面白がって言っているので、相手は一億円を失ってもよいと考える人、と予想できる。失ってもいい一億円なら、自分ならもっと有効に使えるだろう。どのみち今の時間にも、自分と関係ない人はどこかで死んでいる。その殺すことを知っているのなら、警察に届けるだろう。誰かが死ぬと言っている人が殺すのなら、一億円もらって通報する。何故なら僕が依頼を受けたわけでは無いのだから、直接的に何の関係も見だせない。一億円の報酬をもらった上で、その人が支払った上に他人を殺すのであれば、僕が依頼したことにはならないからだ。たとえそれが僕の殺したかった人であったとしても、自分にはわかり得ないのだから、偶然である。
 現実に僕らは一億円の報酬とまでいかないまでも、このようなボタンは日ごろから押している、ということも考えられる。例えばだが、車の運転である。自動車事故によって、日々どこかで誰かが犠牲になっているはずだ。それは自分の運転した車でないだけのことで、車が無かったら犠牲にはなりえない人である。しかし車を運転することには自分の便宜上の利益があり、犠牲になる可能性を事前に知りながら、車の運転がなされている。そう考えると、多くの人々が、既にボタンを押していることになるはずだ。この思考実験には、そのような致命的なミスがある。押してはいけない問題ではなく、押してしまう人間社会の仕組みを説明すべきなのだ。むしろそのような犠牲の上に個人の便宜がある。車でなくとも、社会の仕組みのために、誰かの犠牲の可能性はゼロにはできない。
 そう考えると、別の命題の答えも出そうな気もする。世の中はトレードの問題なのかもしれないと。さて、今日はここまで。思考実験は有名な「トロッコ問題」を含め、くだらないものが多い。理由は現実には何も使えないことにあるだろう。そういうことを考えない人向けの限定なのであって、やはり科学などから見ると幼稚である。まあ、言いすぎているのは分かるが、結局そうみられていることを打開する努力がいるのではなかろうか。
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美しさは最大の権力   ヘルタースケルター

2023-02-20 | 映画

ヘルタースケルター/蜷川実花監督

 原作は岡崎京子の漫画。カリスマ・モデルのりりこは、実は違法の美容整形を受けた完全な人造人間である。性格も悪く、ドラッグをやってて支離滅裂である。様々な危ない橋を渡っているけれど、その人造の美貌は多くの人の心を捉えて離さないために、大人気を誇っている。本人もある意味で登り詰めたスターの座に君臨する、現代の女王だ。しかし無理な整形を繰り返したために肌のシミのようなものを隠さなければならないし、その人工的な美貌の維持のために、定期的な整形手術を受け続けなければならない。そのうえ性格も悪いだけでなく、ドラッグに依存し続けてもいて、献身的なマネージャー・カップルを使って悪事も働く。そうして新しい美しさで注目を集めるライバルが登場して台頭してくるので、プレッシャーで押しつぶされそうになっていくのだった……。
 主人公を演じているのが沢尻エリカで、彼女を知っている我々は、実に彼女そのものの映画ではないか、と疑いを持つに違いない。しかし彼女は演じている訳であって、本人を地でいっているわけではないかもしれないところが、最大のみそである。とにかくそれは本当に演じているのが本人なのか、よく分からなくなって凄いことになっていく。最初からそうなるのではないかという予感は当然あるが、どんどんその期待のままお話は突き進んでいって、本当にひどくなってしまう。僕は原作も読んでいるはずだが、ほんとにこんな話だったっけ? と思ってしまうほど、かえってリアリティがあるかもしれない。これほど漫画的な映画なのに、それでいいのだろうか……。    もちろん、いいのだが……。
 セックスにドラッグに裏切りに嫉妬に、もう大変である。危ない橋ばかり渡っているけど、きれいであるうちは、そのすべてが上手く行く力になっている。それは本人自身が一番よく分かっていて、その美しさのために様々な苦痛に耐え抜いている。それは本当に自分のためなのか、実は人々の期待の為なのだろうか。本人の狂気のはずなのに、それが人々の彼女にそそぐ願望そのものではないか、とも思われる訳である。そこらあたりがこの映画の映画的なところなのだろう。嫌悪的な酷さだが、しかしそれが人間の持つ欲望の果てなのである。
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悲しみと付き合う   悲しい本(Sad book)

2023-02-19 | 読書

悲しい本(Sad book)/マイケル・ローゼン(文)クエンティン・ブレイク(絵)翻訳谷川俊太郎(あかね書房)

 絵本。題名の通り、ある男が悲しんでいる本。エディという息子を亡くし悲しんでいる。ママもここにはいない。悲しみを話す相手がいない。何の事情か知らないが、家族とは暮らしていない孤独な生活なのだろうか。息子との楽しい出来事をあれこれ思い出し、そうして特に誕生日のことを思い出すのだった……。
 まあ、詩というか、そういう言葉と絵が連動している。自分一人で抱え込んでいる悲しみのこと、なのかもしれない。具体的には息子の死が、ここではたいへんに大きい。しかしその裏にも、何かの悲しみが隠されている様子がわかる。男は孤独で、その悲しみを癒す術が、自分の想像力以外にない。そうして悲しみは増幅し、自分自身を包み込んでしまうかのようだ。
 悲しい時に悲しくないふりをすると、どうなるか。ふりをしているだけだから、やはり本心は悲しい。じゃあいっそのこと素直に暗い顔をしていると、どうか。さらにふさぎ込んでしまう。違う事を考えたらどうだろう。考えようとしても、どうしても悲しいことを思い出してしまう。散歩に行ってはどうだろう。道ゆく人が、無神経で嫌になる。
 ひとには様々な悲しみがある。取り返しのつかない悲しみもある。それに抗える術なんて、ほとんどない。悲しいは、その目の前にあるすべてなのだ。
 でもそれでどうなるのだろう? 僕には分からない。悲しいときは悲しんでも、悲しいがそれで仕方がない。いつまでどこまで悲しいのか。人それぞれなんで、どれくらいで十分悲しんだかなんて、わかり得ないじゃないか。それぞれの悲しみのふちに陥りながら、出来れば孤独なままでなく、悲しんでいけたらいいんじゃないか。ひとりなら……、それは更に悲しすぎる。
 そんな本を読んで楽しい訳が無いが、楽しくなるための本では無い。十分悲しみに付き合ってあげたらいいのだろう。
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死体は増やさないようにしよう   リバーズ・エッジ

2023-02-18 | 映画

リバーズ・エッジ/行定勲監督

 原作は岡崎京子の漫画。漫画の方はずいぶん前に読んだことがある。基本的には元にしているが、映画的になんとなく違うところがあるような気もする。
 人間関係はなんだか複雑で、説明するのが面倒くさい。いじめられている山田君がいて、それを助ける若草さんがいる。けれど若草さんは山田君をいじめている観音崎君と寝ていて、観音崎君は性欲が強くて他にもクラスメイトの小山さんとも付き合っているし、学校でも性交をしている。小山さんも複数の男と関係があるようで、妊娠するが誰の子供か分からない。いじめられている山田君は同性愛者だけど、ノンケの田島さんと付き合っていてデートには行く(セックスはしない)。山田君は、白骨化した死体が葦の茂る河原にあるのを知っているのであった。
 他にも含みがあるが、それでさらに事件が起こるのだが、それは観てのお楽しみ。いや、最初から示唆されているが、どうしてなのかはスジを追ってみてください。もっとも、基本的には、そういうミステリを追って物語の流れを楽しむ映画ではないけれど。
 漫画を読んだ時も衝撃を受けたけれど、それは原作が良いからである。映画になるとどうなるか気になったが、出ている若い俳優たちは頑張ってるな、という感じだろうか。いびつな青春を描いていて、よく分からない人間関係ではあるものの、それらしくもあるのは確かだ。何かが既に壊れていて、後半更にもっと激しく壊れてしまう。その過程を描くとこうなってしまったのだろう。
 僕としては演技としても頑張っていた主役でない小山さんがかわいそうだと思ったが、何故か一番ひどい悪者である観音崎君には、物語は甘い。そういうところは不思議ではあるものの、そういうものかもしれないとは思う。まあ、こういうのに明確な答えなんてないし、観た人が考えたらいいと思う。
 漫画にも確かあった科白だが、同性愛者をノンケが見ている視点というと、すぐにセックスのことばかりになってしまうという指摘は、慧眼である。僕はこの漫画でそのことに気づかされて、同性愛者を改めて理解できた。そういう世界に生きていく困難が、幾重にも重なって絡まっている。いや、もうこれは簡単に理解してはいけないのである。分からないところは、簡単にわかろうとしなくてもいいのかもしれない。
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地球環境を考えるための逃げ道

2023-02-17 | 時事

 「クロ現」見てたら、航空機燃料に廃油(使用済み食用油など)の再利用をしたSAF(※持続可能な航空燃料、という意味らしい)というものを混ぜて使うことにより、二酸化炭素を削減する取り組みが過熱していることを特集していた。航空機というのは、自動車などの運送用機械の全体としては排出量が必ずしも大きくは無いが、一機が飛ぶ排出量としては、二酸化炭素の排出量が突出しており、取り組み方によっては削減量を減らす余地のあるものであるらしい。そこで化石燃料でないSAFを使うことで、SAF自体が植物などの経由した由来から作られることから、80%の二酸化炭素削減になるとされ、燃料としては最低でも3倍以上の価格がありながら欧州の航空機はこれをほんの数パーセント燃料に混ぜて使うことで、二酸化炭素削減に貢献しているとのことである(日本ももちろん少しだけやっている)。
 ところがそのような取り組みがあるために、日本の廃油の引き取り値段が高騰し、海外からの買い付けに回されている実態が明らかになる。既に業者取引は仕組みとして品薄で、家庭用の回収に力が入れられるまでになっている。それでも完全にいきわたったとしても足りないのだが。その為にこれまでリサイクルとして成り立っていた家畜の飼糧としての再利用が、困難になっているという。そもそもそれだけでは燃料として不足しているので、他の原料の開発が急がれている現状があるようだ。卵などの価格が高騰している後押しに直接つながっている訳で、既に私たちの生活に影響が出ているのである。
 ヨーロッパの航空会社が経費を過分に掛けてもこれをやっている背景は、表向きは将来の二酸化炭素削減に向けてと言っているだけだ。何故なら根本的に二酸化炭素の排出を止めて旅客機を飛ばすエネルギー源を確保する技術が、現代には無いのだから。実際の話は、顧客が長距離鉄道などに取られている危機感があるからである。二酸化炭素をたくさん使う航空機を使うことは、一般的な感覚として「恥ずかしい」とことされるまでに人々の意識が変化しているためだ。社会のために個人が取れる「良い行い」として、不便やコストや時間をかけても、飛行機に乗らない「善行」を人々は嬉々として行っている。さらにヨーロッパは陸続きということもあり、陸路で国境を超えることもできる。一二時間の航空機の移動距離であれば、陸路で一晩で済む、というのもある。国内線は航空便を禁止にする動きさえあるという。また、日本で言うと、このような取り組みをしない国として、航空便を停止するかもしれないという脅し付きである。
 SAFの成り立ちで二酸化炭素を削減できるという理屈は、単純なので理解できる。しかし燃料として使う以上、二酸化炭素を排出することに何の変りもない。要するに、前提が詭弁なのである。その上でコストを過分に掛けるので、厳密な排出量がどれくらいかは計算する能力が僕には無いが、複雑であればあるほど、二酸化炭素の排出量は増えるのは当然である。さらに高価なので金持ちににしかできない上に、いわゆる途上国へのハードルを上げていることだろう。植物経由の燃料として問題とされている上に、東南アジアに負担を強いているパーム油の問題も無視している。パーム油に限らず、再利用のコストは安価な労働力の方が有利なのは明らかなので、そのような負担は階級的な別の国への負担に変わっている仕組みが透けて見える。その為にヨーロッパ以外の国での森林伐採も、加速度的に進むことだろう。
 馬鹿げているが、それがヨーロッパを支配しているメディア思想なのである。もちろん日本もそれに追従しているわけだ。これらの発端となる理想主義が、ある意味その純粋さゆえに暴走してしまう。現実との乖離を埋めるために、結局は欺瞞的な手法を生んでしまうのである。それはおそらく時間の経過とともに、大きなほころびを作り出すことになる。それに気づくには、それなりの破壊を伴う代償が必要だろう。僕たちは、もう取り返しがつかない流れだということを、傍観しているに過ぎないのかもしれない。
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古典的だが現代女性の奔放さのモデル   ブリジット・ジョーンズの日記

2023-02-16 | 映画

ブリジット・ジョーンズの日記/シャロン・マクガイア監督

 BSで録画したものを観た。すでに20年以上前の作品になるんだな、と感慨深い。小説も映画も大ヒットして、それなりに世間のブームにもなった作品だと思う。特に主演のレニー・ゼルウィガーは、この映画で大ブレイクして、個性的な女優として人気を博すことになる。お話の土台となっているのは、これまた英国文学史上息の長い人気のある、グダグダ恋愛小説の傑作「傲慢と偏見」である。これのドラマ版も全世界で大ヒットして、いまだに人気があるといわれる名作である。男が観ても大して面白くないのに、なぜか年頃の女性の心をとらえる物語のようで、基本的にダーシーを演じるコリン・ファースの若き頃の代表作といえる。これが現代社会で、またしてもグダグダした恋愛劇に生まれ変わるわけで、知っている人は、にやにやしながら観ていたに違いない。
 お話は当時は適齢期を少し過ぎた女性が、田舎の両親からバツイチだが弁護士の男性を紹介される、という設定から始まる。実は幼馴染で、まったく知らない仲ではないが、ダサいセーターを着て現れたダーシーに、最初ブリジットはあらわに失望する。そもそも職場の上司でイケメンのダニエルに恋心を抱いており、どうもダニエルも好意を寄せている風で、戦略的にじらして恋の駆け引きに成功しそうなのだったが……。
 ブリジットは奔放な現代女性ということなのだが、職場には薄着で出勤するし、パーティではバニーガールで現れるし、しかしけっこうドジで失敗ばかりしている。料理も上手とは言えない。これが等身大女性代表という感じで、要するに当時の同世代に近い女性の投影しやすい愛らしい存在なのかもしれない。もちろん男性が見ても、ちょいセクシーの可愛らしい女性なのである。ちょっとギャグはきついし、恋愛のやり方として感心しないが、二転三転して面白いのである。
 作品はその後、第二作第三作とあいだを開けて作られることになる。よく考えるとその二作を先に観て、これを見逃していたかもしれない。いや、見たはずだと思うが、ほとんど忘れていて、楽しめたのだった。記憶力が悪いと映画を観る分には得だと言えるのかもしれない。悲しさは多少あるけれど……。
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先を埋めて記録をつける

2023-02-15 | 掲示板

 以前も書いたと思うが、自分のことで呆れるというか、どうにも性分として困ることがいくつかある。全部は書きたくないので一つとりあえずあげておくと、このブログかもしれない。この文章が上がるのはおそらく2月の15日ころになる予定であるが、現在は7日である。お気づきの人もいると思うが、だいたい映画を二日にいっぺん。その間に何か別のものを交互に入れている。だから映画の分は既に20日までは上がっている。たまに今あげたいタイムリーさを感じると、翌日に繰り上げてあげることもあるが、だいたいにおいてこのような感じで、先んじて何か書いている。別段暇だからということでは無くて、逆に毎日上げるのが難しい可能性がある日に備えて、このようなことをしてしまうのかもしれないと思う。ちょっとした時間の空きに、メモなどを見てまとめる。そうするとすぐに文章にはなる。あとで一度か二度見直して校正することもあるし、そうするとまた別の文が出来上がったりする。いくつかの話を掛け合わせることもあるし、逆にそのように別の考えが浮かんで別枠で書いたりするわけだ。続き物はあまり書かないが、それでもたまにはそれもやる。あれこれ考えていた正体が見える場合もあるし、出来るだけ短くと思いながら舌足らずのような気もすることもあって、前段部分が長くなりすぎている。そうすると最初から別の話になったりする。ストックは最小限でいい気もするのだが、そのようにしてたまりすぎることがある。あんまりたまりすぎたな、と思うとさすがに数日寝かせておく。15日以上先になるとだいたいもう書かないのだが、そうすればそうするで、たいてい書かなければ忘れるので、また何かこしらえて書かなくてはならない。そういう性分なので日記はつけないが、こういうものを書いたという記録はつけている。そうするとその記録をつける行為に何らかの快感のようなものがあるらしく、もっと記録を増やしたいような気もする。書き終えてそういう記録が一行増えると、ちょっと満足である。日頃いくつもの複数の案件を抱えていて、それらが完全に終わるなんてことはそんなに無くて、継続していくつかは絡み合い、そうしてまた次の仕事も舞い込む。おそらくそういう気分の中にあって、ブログで何かを書いて終わるということが、ちょっとした精神安定につながっている可能性がある。ブログにはどれくらいの人がやって来たかということが分かるようになっていて、始めたころにはこれが少し励みになっていた。しかし実際のところ、僕のような無名の人間が雑文を書いたところで、読んでくれる人は簡単に増えない。一時期は少し増えて一日に二三百人ということもあったが、そうするとしばらくして今度は少し減っていく。飽きてしまうということもあるのだろうし、そもそも長文なら読まない人の方が多いのだろうとも思う。実際にフェイスブックなどで友達の人からそういわれたこともあって、見に来ているのに読まないのか、と衝撃を受けた。けれど僕だって他人の長い文章を全部読んでいるのかは怪しい。まあ当然か、と思うと気が楽になるというか、そもそも人数を増やすのが目的で書いていたかも怪しいことで、まあ、気にならなくなった。つまるところ自分の問題であるのだから続いているのであって、書いたらまた、一行何をどれくらい何分で書いた、と記録する。別段それは見返さないのだけど、それだけで書いた甲斐があるような気もするから不思議である。そんなだからいつ止めたっていいし、確かに未練もそんなにない気もするんだけど、文章を書いていると自分の考えも確認できるわけだし、何かちょっとだけすっきりすることもある。そうならないこともあるんだけど、そうなる場合もあるのである。結局それで先に備えてまで書いてしまう。こういう性分の人は僕以外にもいると思うが、やはり少しくらいは困ってはいないだろうか。いや、困らないかもしれないが……。
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性と成長と決意   The hand of god

2023-02-14 | 映画

The hand of god/パオロ・ソレンティーノ監督

 イタリア映画だが、英語のままの表記である。原題は当然イタリア語で、だからこれは英語表記の邦題ということになる。ちょっと変であるが、こういうのが配給会社の感覚なのだろう。
 監督さんの自伝的物語だそうで、いわゆるヰタセクスアリスである。若い頃の性欲に関する成長物語ということになる(※)。イタリア人だからなのか、その上にナポリ人だからなのか、非常に直接的に女のことばかり考えている。そうしてそれでいいという風潮があるようだ。そういう中の地元の大きな事件として、マラドーナがナポリに来て活躍していた時期と重なっていたということで、邦題(つまり原題の英訳)となったのだろう。そうして自伝だし、この監督さんの振り返りなので、自分が映画監督を志すきっかけというか、決意のようなものがこの頃にあったのだ、と告白しているのである。そこのあたりはドラマとしても描かれているものの、やや哲学的な感じもあって、要するにかっこつけたかったのかもしれない。その後仕事をして監督になったはずで、そういう実用的な話には、ならないのである。
 家族の物語でもあるが、それらの人物は皆風変わりな人ばかりである。それがナポリ人の気質なのだろうけれど、こんな人々が日本にいると、すでに犯罪的だ。冗談も好きで、たびたびそれが行き過ぎる。そういうことは、いわば復讐にもなっていて、単に暴力をふるうと問題だが、冗談で演劇的にやると、許さなくてはならないような文化がある。できるだけ大掛かりにそれをやり、当事者を困らせる。それを見て皆で笑う。いじめと紙一重のものなのだろう。
 しかしながら成長とともに、楽しかった家族の在り方も変化していく。何か決定的に壊れていくものがある。その後に自分なりの再生があるということを示唆していて、いつまでも同じ状態が続くわけではないものが、人生そのものということになるのかもしれない。妙な映画だが、いわゆる既に古典的な作品のような風格を備えている。監督は集大成でこういうお話を描きたかったのかもしれない。


※ 以前の文学作品にはこのような視点で自分語りをするというスタイルがあったのである。(女性のことは一応知らないが)男性の思春期というものを語る場合、いわゆる自分の性欲を抑えられない多感な時期を経て、本当の大人になっていくということが言えるようで、童貞のころのことと、そうでなくなった時期に、明確な違いがあるという考え方があるのだと思う。文学作品としては好まれて読まれたものだが、今考えると、ゴシップ的な興味や、私小説として人に自分をさらけ出すことでの、強い意志をあらわすものなのかもしれない。
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