カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

童貞は考えが違うのか

2013-11-30 | 境界線

 僕は他人の考えることは基本的によく分からない。理解しようという姿勢に問題があるというのであれば反省が必要だが、基本的によく読めていなかったり気付かないということのようだ。
 さらにこれが異性の場合だとどうにもならない。女の人の考えというのはほとんど未知の世界で、違う生物かもしれないというレベルかもしれない。それでも何となく愛犬の考えていることは分かる気がするから、生物の違いよりも隔たりが大きいかもしれない。
 この間そういう女性話になって、童貞の頃はもっと分からなかったという話題になった。そこで僕は特に反論はしなかったのだが、どうも引っかかるようなものがある。ほんとにそうだったかな。僕の場合は以前の方が分かっている部分もあったし今の方が分かるということもある。童貞というのがどういう考えなのかは既にかなりそれ自体が分からない感じもするが、今と違うのは単に年齢的なものなのではなかろうか。
 それというのも、僕は兄の影響があったのだろう、吉行淳之介や渡辺淳一の様な作家は、小学生の頃から既に読んでいたように思う。それでよく分からなかったのかというとそんな印象はあんまり無くて、小学生の頃はさすがに忘れたが、中高生の頃になると普通に面白いと思っていた。もちろん多少はスケベ心があったに違いないが、特に渡辺作品が驚くような性描写になるのはひとひらの雪あたりではないかと思うが、これは新聞の連載で読んで、朝から呆れていた。つまり家族が居る前でも特に平気で読んでいたのだろうから、あんまりスケベ心でも無かったのではないか。
 確かに吉行については、20を過ぎてもう一度一部を読み返してみたことがある。なんというか、妙に感心したからである。その頃になるともっと渡辺は過激になっていたが、もう興味は無くなっていた。むしろ性描写はほとんど無いが男女が時々セックスをする程度の吉行の方が、感じ入ってしまったということかもしれない。
 もちろん子供の頃に読んで大人の女性のことが理解できていたかは怪しい。しかし大人になっても引き続き大人の女性は分かっていないのだから、僕がそんなに変わってしまった訳では無いとも思う。
 童貞が今と違う考え方をするのかというと、たぶんそんなことは無いだろうと思う。しかし今になってみると、童貞だから分からないのかもしれないという不安はあったとは思う。でもそうで無くなってみると、変わらないという比較では、違いが分からないという検証ができるようになった。違うというのはそういうことであるかもしれない。
 いわゆる性交渉を経た後に、さらに相手の心情が深く理解できるというのは錯覚ではないか。余計に分からなくなったり不安になったりすることも普通に起こりうるわけだし、いわゆるさらに感情を揺さぶられることもあるかもしれない。何もない方が美しいというのも幻想だが、関係を持ったからと言って汚れるようなこともない。少なくとも僕にはそういう気分の違いはまったく理解できない。まあ、よかったね、という以外何があるというのだろう。
 つまりよく分からないのは、やはり違うと感じる人たちは、いったい何を持って違うようになったと感じているのだろうか。そういうもっともらしく聞こえる内容は、本当のことの様には僕には到底思えないのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

答えはやっぱり偉い   ピカソは本当に偉いのか?

2013-11-29 | 読書

ピカソは本当に偉いのか?/西岡文彦著(新潮新書)

 ピカソの絵を観ている時の不思議な感覚は何だろうか。何となく居心地が悪くなるような不安にもかられる。ものすごく値段も高いらしいことも知っている。いや、むしろそのことの方が気になるかもしれない。そういう非常に価値のあるらしいものなのに、正直に言ってその価値が良く分からないことの不安。いや、素晴らしいと言っている人に対するいかがわしさ。それは自分がそのことを正直に認められないという価値観の違いに、立っている位置すらグラグラしてしまうような不安定さを感じてしまうのではないか。
 その様な疑問や不安に対して、ある程度の解答を与えてくれる本である。何故ピカソはそんなに凄いのか、ピカソの絵が本当に価値があるのか、ある程度の考え方の仕組みが分かる。それで本当にピカソの絵が素晴らしく見えるかどうかは個人差があるかもしれないが、かなりの不安だったものは解消されるに違いない。現代社会の人の考え方の新しいからくりも分かる面があって、けっこうおいしい本である。ピカソという巨人を通して、人間の心理の一面も学ぶことができる。ピカソのようにふるまうことはできないまでも、ひょっとすると異性を虜にするノウハウのヒントくらいは掴むことができるかもしれない。人間が王様に支配される仕組みの様なものが分かるからである。またはおとなが子供に支配されるということも関係があって、実際そんなことは意識して理解してなどいなかった。絵を鑑賞する方法には、そのような不思議な人間関係までも理解する仕組みを考えることにもなるようなのである。単に美しいものを観て楽しむというだけでない鑑賞眼を養うことに、きっとなるに違いない。
 ただ、やはり現代絵画というか、そのような現代人を虜にする社会や考え方というのは、ある意味で狂っている。真実であるがゆえにその狂気もまた迫力がある。古来の芸術という考え方が連綿と受け継がれて今に至るということでは無くて、まったく違った土台をひっくり返すような転換を経て、現代絵画を楽しむということがなされている訳だ。そういうことを理解しないままに素直に絵を観ただけで理解できるものではないから、ピカソの絵には不安になっていただけのことなのだ。だからこれが嫌いだとかくだらないとか思って見ても、まったくそれは正しいことかもしれない。花鳥風月を愛する感覚でピカソを楽しむことはできないのである。
 それでもピカソはやはり偉い。これだけ凄いのだから現代の王になれたのだ。人間は石油や鉄やソフトウェアを売らなくても巨万の富を得ることができる。そうして実際にそれを成し遂げたピカソを知ることは、その道を知ることでもあるのだ。
 もっともだから単純に憧れることができるか。僕にはそれも疑問だったが、それは実際にこの本を手にとって、読んだ人に考えてもらおう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大人だから分かる純粋な心   テッド

2013-11-28 | 映画

テッド/セス・マクファーレン監督

 当然友情の比喩である。それもかなり純粋な好きだという気持ちの疑いの無い永遠性。何故なら相手は絶対に自分を裏切らないと信じ切っているから。男女間ではどうしても、これが上手くいかない。たぶんセックスによる嫉妬が邪魔するんだろう。性愛が無くても、恋愛というものと友情というものが、多少違うということでもあるかもしれない。その違いはなんだろうと考える時、この映画は最適ではないか。
 違うものであるはずなのに、恋愛を取るか友情を取るか選択を迫られる。そもそもそこのあたりが不条理だという話なのだが、これを恋愛相手に上手く説明することができない。悲劇というのはそういうことではないか。しかしその友情の相手はティディベアというクマである。科白の中でも度々出るが、たぶんこれは男の中にある子供の部分。おとなの恋愛をしている時に子供の心が邪魔をしているということだ。女は大人の男だから恋愛をしている訳で、男の子とは恋愛をしたくないということなのだろう。子育ては別だ、ということだろうか。僕にはこの違いがいまだに分からないが、しかしそういうことは言われないではないから、そういう不満がそもそも女の側にはあるということらしい。
 この映画で最高に盛りあがるのは、中で出てくるフラッシュ・ゴードンである。すべてを破壊する強烈さがある場面なのだが、その馬鹿さ加減は本当に素晴らしい。人間の気分の高揚が、これほどまで高ぶるような演出とはそうそうあるものではないだろう。
 実は僕も中学生だったか、アメリカでこのフラッシュ・ゴードンが映画になって盛り上がっているというニュースを見てかなり興味を持った経験がある。まあ、日本ではクイーンがサントラの音楽を作っているということで話題になったのだが、翌年に日本でも上映されたのだったと思う。そうして現物を観て、かなり驚いたというか、ずっこけた。こんなものを長い時間期待して待っていたという現実の信じられない失望と、そうして、これを本当に熱狂を持ってみていたというアメリカ人の不可解さに呆れたのだ。僕の様な子供が見ても明らかに子供だましの安っぽい正義物語。恥ずかしさを越えて馬鹿にしか見えない。ぜんぜん心が躍らないし、せっかくの音楽も馬鹿を助長するおおげさなジョークにしか聞こえない。本当に大がかりに騙されているのではないかという疑問符が、走馬灯のように頭の中を駆け巡るのだった。
 しかしそういう体験を経て、このテッドでフラッシュ・ゴードンを改めて観る。素晴らしい。素晴らしいのである。30数年の歳月を経て、僕の中に澱のように積もった疑問が一気に吹っ飛んだ。これだったのか! これを知らなかったのだから僕には分からなかったのだ。本当にもう最高だった。相変わらず馬鹿には違いないが、ぶっ飛んだ馬鹿だったのだ。
 人を選ぶ映画だという。待ってもらいたい。ぜんぜんそんなことは無いだろう。これは大人の女性にも観賞に耐えうる素晴らしい作品である。下品だって? 下品な言葉遣いの人が本当に下品なんだろうか? 純粋さが残っているからこそ下品に見えるだけじゃないのか。それは大人でないと理解できないだけのことじゃないか。
 つまり子供のままの人には、逆説的だがこの映画の価値は理解できないだろう。本当に子供のままの人は、この映画の入口に立てないかもしれないのだ。友情と恋愛の両方を知る人に、改めて捧げたい真の傑作コメディであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偉い人が会いに来る訳

2013-11-27 | HORROR

 最近まちの偉い人から、僕に会いたいというオファーがよくかかる。にわか人気者である。で、もちろん会ってみるのだが、ほとんどが誰それの息子や嫁を採用して欲しいというものなのである。全部採用してたら、またもう一つ事業所が必要になっちゃうよ。
 当たり前だけど、仕事の節目に多いのはこういう依頼である。彼等にしたって顔としての立場があるんだろうから仕方がないんだろうけど、お互い大変ですよね。もちろん、一人ずつちゃんとお会いして、これは、という人はこれもご縁で採用は致します。でも、やはり事情が合わなければお断りします。猫の子もらう訳じゃないですから。
 中にはよく聞くと、ご本人はぜんぜん乗り気じゃ無くて、周りに言われて渋々やってくる人も居たりする。親御さんなどが老後を心配して、近くにお子さんを置きたいというようなことがあるのかもしれない。本当にそれでいいのか、そういう心づもりで働けるのか問いかけると、先方からお断りを受けるということも多いのである。人事というのは重要な仕事の一つではあるんだけど、とにかくこういうことが多いとそれなりに疲れてしまう。
 田舎というのはこういうのがとにかく多くて、あらたな付き合いの為に御挨拶に行ったりすると、新たなお付き合い先としてこういう伝手の人のお話がころがりこんで来たりする。うちの事業所の評判が宜しいのであればそれは喜ばしいことには違いないが、本当に恐ろしい。
 うちの例ではないが、ある日町長から電話があって誰それと会って欲しいと言われた。で、同じように会ってみると、何かとよろしくなさそうな人だった。丁重にお断りしたところ、後日やはり町長からえらい剣幕でお叱りを受けた。俺の顔をつぶす気か、ということらしい。幸いなことにこの人は、今は落選しておられるということだ。
 もちろんしかるべき人の紹介で、しっかりしてくれるような場合もあるのかもしれない。そういうもんだよというお話も実際に聞く事があるし、あるいはそうかもしれないとは思うこともある。でもまあそういうことの方が、やはり少ないような印象がある。
 これもある偉い人から、選り抜きの人材を紹介してやる、といわれたことがある。僕もまだ若く、その圧力に屈した。さらに都合のいいことに、確かに一人欲しいというタイミングでもあった。それでうまく言えないが、大失敗だったな、ということだったのである。具体的に誰だったかは言えないが、こういうのは長い年月にわたって苦労する。要するに、僕はもう懲りてしまったので、絶対に安請け合いなど出来ないのである。
 偉い人が自分に会いに来るというのは、別段自分が同じように偉くなったからではないようだ。むしろまだ偉くないから会いやすいということなのかもしれない。偉くなりたいとは思わないけど、偉い人から会って欲しいと言われない人になりたいものだと思うのである。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブロンソン映画のリメイクらしい   メカニック

2013-11-26 | 映画

メカニック/サイモン・ウェスト監督

 スタイリッシュなアクション娯楽映画。いろいろ考える映画ではないが、扱っている展開は考えさせられないことは無い。殺し屋とはいえ、自分の仲間を暗殺しなければならない羽目になり、そうして殺した仲間のその息子は荒れているのだが、自分の弟子のようにして殺しの仕事を教えていく。父親が殺されたことは当然恨んでおり、事情は知らないらしいが、まあ、危うい関係と言っていいだろう。誰が考えてもそのままこの物語が終わるはずが無い。そうして仲間殺しのいきさつにも、組織的な疑問が見つかり…。というなかなかの設定なのである。殺しの仕事という特殊性があるが、つまるところテロリスト集団で、金によってやっているということだから、政治的でないかというのは不明だが、社会的な影響力を考えると、極めて政治的な役割ということも言える。何故なら重要な人を殺すと、社会が変わるのだから。
 途中から殺し方が激しくなってちょっと残念だったのだが、基本的な主人公の姿勢としては、殺された人間が不自然でない死にかたになるように、周到に準備してやるということをモットーにしている。事故であったり、病気であったりということに見せかけるよって、暗殺者の影を消し、足が付きにくいという理由もあるようだ。要はプロとして、仕事をきちんとこなし、より完璧を目指すことを生きがいのようにしているのかもしれない。
 ビジネスマンが仕事論として観るのであれば、それは確かに教訓的なことである。仕事が綺麗で完璧なのは、褒めても良いことかもしれない。また、時間軸をしっかりと捉えて計画を練る構成力があって、トラブルに対する対処も的確だからこそ達成できる訳で、いいことづくめである。脚本があるから出来る訳だけど、仕事をやっている人間が憧れる職人芸だろう。
 娯楽だからそれでいいんだけど、だから人間ドラマとして観ると、ここのところがかえってネックになるということでもある。ほとんど起こりうることを予測して行動できる能力を持っていることが、予測不可能な世界をわざわざ呼びこんでしまっているように見える。尊敬する相棒を殺さなければならない経緯も、考えようによっては予測可能であったり調査が可能だったのではないか。さらにクールに仕事をしている人間が、ある意味で復讐劇で激しいドンパチをやらかす。これは彼の美学やモットーに反することにはならないのだろうか。ラストはカッコつけすぎて却って出来過ぎ感があるが、それよりはあっさり殺しておくべきだったのではないか。まあそれでは客がその行動を理解できないかもしれないのだけど。
 終始男視線のカッコ良さなのだけど、こういうのって女性はどんなふうに感じるんだろうね。殺し自体が野蛮で嫌だというのを別にして、こういう男が本当に愛すべき対象になるのか。僕としてはそういうドラマの方が、がぜん興味が湧くような気がするのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウサギは結構旨い記憶がある

2013-11-25 | ことば

 子供の頃に、鳥は一羽二羽と数えることを教わった。ところがウサギも一羽二羽と数えるんだよ、という話になる。ウサギは明らかに鳥とは種類の違う生き物のように思える。それが鳥の仲間として数えられるのは不思議だ。昔の人はおかしいね、ということになったり、長い耳を羽に見立てていたのかもしれないね、ということを言われたりした。腑には落ちないが、分からないものは仕方が無い。そういうものだという話なのだろう。
 ところがこの間あるエッセイを読んでいたら、以前の日本では獣を食べてはいけないという禁忌があって、しかしウサギを食うために鳥と称して一羽二羽と数えたという。まさにそうだったのだ。それなら確かに耳を羽に見立てる意味も分かる。イノシシならちょっとシャレにもならないが、ウサギなら鳥と間違えていたという洒落に笑ってもらえるような気がしないではない。
 もっとも武士以外のものは普通に獣を食っていたという話はある。皆が鉄砲を持っていたはずはないから、罠を仕掛けたことだろう。そういうものにかかるのは、イノシシよりウサギの方が多いのではないかと、何となく思う。イノシシでもかかるかもしれないけど。
 実際は禁忌なのだから、見つかるとお咎めがあるのかもしれない。昔は人間の命の価値が人権ということで鑑みられるようなことは無いから、お役人の機嫌が悪ければ命を落としかねないだろう。最近でも北朝鮮では南のテレビ放送を観たということで相当数が粛清されたというニュースがあった。たぶん本当は違う理由だったかもしれないが、それくらいの罪で粛清される方が恐怖が大きい。こりゃ洒落がききまへんな、ということになると、言うことを真剣に聞かなければならない。
 ウサギの一羽二羽の名残を想像するに、庶民の賢さと共に皮肉のセンスも感じられる。それとともに、やりきれなさも。その分旨く食べたのなら何よりなのだけど…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憧れていたことのあるハンバーガー

2013-11-24 | 

 僕はどちらかというとそんなにパンが好きではない。別に米と比較してということでなく、日本のパンには甘いのが多くて、少し苦手意識があるのかもしれない。白い所より耳が食べがいがあると思うが、しかしサンドイッチは好きだから、パン全体が嫌いなわけではない。堅いフランスパンの様なものをちぎって酒のつまみにするのも悪くなくて、むしろ積極的に旨いと感じるから、好きではないという言い方は誤解を招く乱暴な言い方かもしれない。でもまあ、食事にパンというと、何となく貧相というか、語感から感じられる喜びは少ない、という感じだろうか。
 ところがパンの食べ方の種類であるハンバーガーになると、少し事情が変わるような感覚があるようだ。名前から言ってパンが主役では無いという言い方も出来るだろうが、やはりバンズに挟まれてないと、調子が出ない。ライスバーガーというものもあるらしいが、好きな人には申し訳ないが、それはちょっと違うのではないかと個人的には感じる。焼きおにぎりなんかの亜種としてなら、分からないではないのだけれど。
 ともあれハンバーガー。実は今となってはほとんど食ったりはしないのだが、若い頃の記憶としての旨い食べ物の代表格、という感じかもしれない。僕は特にアメリカナイズされた子供では無かったけれど、あこがれの食べ物という感覚はそれなりに持っている。小中学生の頃は、大村の町から自転車こいで、日見峠を越えて浜ん町のロッテリアにハンバーガーを食べに行ったことがあるくらいだ。さすがにくたびれて以後は汽車の方が多かったと思うが、諫早のサンアイには普通に自転車で行っていたから、やはり体力勝負が好きだったのだろう。
 今の好みの味覚とはたぶん違ったのだろうとも思う。最近はあんまり見なくなったけど、ハンバーガーと一緒にシェーキという甘い飲み物を飲んだり(吸うというか)していた。たぶんあれは今では食べるのは難しいだろう。しかしああいう奇怪なスタイルでさえ、若い頃というのは面白がるものだ。自分自身の体験でありながらけっこう不思議だ。
 中学生の時に大阪に移り住んでいた兄のところに、寝台特急に乗って遊びに行った。そこでドムドムというハンバーガー屋さんに入ったのをよく覚えている。兄が通勤に行くのに都合が良かったのかどうだかよく分からないが、電車の駅のそばにあったのではなかったか。ここでデカイ(種類は忘れた)奴をおごってもらって頬張った思い出は忘れがたい。まったく都会ではこんな旨いものが気軽に食えるんだなあ、という感じかもしれない。
 でもまあ、今となってはつれあいが作ってくれるハンバーガーが一番である。バンズを焼いて出来たてを食うというのは、店とは少しレベルの違う旨さが楽しめる。いや専門店だって旨いのだろうけど、ハンバーガーは家庭で食うべき味なのじゃなかろうか。
 まあ、実際には手軽に食うより、佐世保やモスのように手間をかける方が断然旨いということなんだろう。ハンバーガーは気持ちの余裕のある時に、のんびり食べるものなのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第三班に随行した

2013-11-23 | 散歩
 博多座に北島三郎の公演を観に行った。



 実はこれも仕事で、旅行の付き添いなのである。

 まずは弁当もらって席を探す。





トイレの前の作品。



弁当はこんな感じ。けっこう豪勢ではあった。



飾られていたミニチュア人形。歌舞伎なんかもやるんだろうね。



売店もたくさん出てた。



客席はこんな感じ。公演中は撮影禁止なので、雰囲気だけですが…。



 内容としては演劇と歌謡ショーに二部構成。
 演劇の脚本演出も北島三郎自身のもの。もちろん主演である。主題歌も当たり前に本人。林与一とか中田喜子なんかも出てたらしい。遠くて分かんなかったけど。
 信州は伊那というところでヤクザの抗争があって、主人公の勘太郎(だったと思う)は、簀巻きにされて川に流されて死んだものと思われていた。ところが5年後に帰ってくる。すると奥さんは3年前に再婚しており、その相手も町に無くてはならない信頼された岡っ引きで、基本的に大変にいい奴なのだ。最初は戸惑いを隠せなかったが、この町では追剥グループが暴れており情勢が不安なうえ、敵であったヤクザの組がその裏組織とつながっているばかりでなく、事実上町を牛耳っている。勘太郎は敵を討つことに決めているし、そのようなからみの中で妻と子供は諦めて岡っ引きに託そうと決心する。そうしてチャンバラ劇に突入する訳だ。子供との別れではシェーンの様なやり取りがあったりベタベタの演出なのだが、客席からは涙をすする声も漏れ聞こえていた。要するにそういう人のためのものなのだろう。僕としては愛憎からまってガタガタして欲しいのだが、まあ仕方が無い。他の映画でも借りて観ることにしなくては…。
 歌謡ショーの方は、もう笑うしかない。芸能生活が長い割にあんがいそんなにヒット作の無い北島なのだが、いろいろ歌ってきたらしいことは分かる。とにかくたくさん歌って、途中の掛け合いで笑わせたり至れり尽くせり。ド派手は終始続いてキンキラだったりビカビカだったりする。そうなんだけど最後にはさらにアクセルが踏みこまれて、暴走や爆発が起こる。船は荒波をかけ分けて進み。太鼓がとどろき花火は鳴り響き人があふれかえり踊り狂い華吹雪は舞いスモークはボンボン焚かれる。鷹がまい飛びその上に乗った北島が叫び歌っている。どこまでが現実でどこまでが虚構なのかもはや何も考えられない。僕はただ呆れはて大笑いである。自分でチケットを買うことは無いのだろうけど、このような体験ができたことは神に感謝したいところである。

 ということでそれなりに疲れて郊外のホテルへと移動。
ロビーの花が迎えてくれる。



クリスマスツリーも。



ウーパールーパーも居た。



廊下も長い。




ということで晩飯。

























といったところだったようだ。珍しく肉は無かったなあ、と終わってから話した。それでいいですけど。



風呂に入って買い出し組がコンビニに行ってくれて、部屋飲み宴会へ。







僕は同室の人の話が終わらず1時くらいまで飲んだらしい。お疲れっす。


で、今度は7時から朝食。



僕の方は和であります。



食後にコンビニまで散歩。けっこうな田舎なのだった。









午前の部で防災センターでいろいろ体験。



でも皆さんちょっと怖すぎてあんまり評判良くなかった。スタッフには訓練になりましたけどね。



なんとかおみやげセンターで釜めし昼食。



何年か前にPTAで寄ったところですね。結構広かった。



おみやげも適当に買う。



マジンガーZも居る。




希望者募ってメンタイ製造体験をする。



要するに辛子をまぶして秘伝の出汁につけて酒などで香りづけし5日以上待てばいいらしい。いや、教えてくれるから出来るだけのことで、やっぱりむつかしいのかもしれないですけど。








最後に大宰府に寄ることになっていた。









菊の花で1111年と書かれてあった。
まあ、そうなんだろうけど、実際には太宰府天満宮は町おこしで復興したんだから間は寂しい時期があったに違いないんだけどね。
いや、それでまったく問題ないです。











とにかく菊の季節ですなあ。









で、参拝してきた。



有名な飛梅ですね。







牛が動かなくなったという話から居るんだろうと思う。





で、また買い物して帰る。



人ごみがあって九ちゃんというキャラクターがいた。こういうのだいぶ増えて、もうなんだか僕にはわからんです。





それでもまだ金立で買いものするんだよね。




という訳で激しく疲れたが、楽しんできました。

近場の旅行で、時間の余裕もあったのだけど、みなさんまだまだやりたいことがいっぱいあったというアンケート結果でした。
仕方ない。また計画することに致しましょう。お疲れさまでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

酒飲みは助平か

2013-11-22 | 境界線

 酒を飲むと変貌する人というのは結構いる。まあ、飲んでも変わらないでいて、なにが楽しいかも疑問だが…。そして、アルコールによって酔うことは、既に人間が変わっているとは言える。
 いわゆる泣き上戸や怒り上戸笑い上戸などとは言う。人間の感情がダイレクトに現れやすくなるというか、これが過ぎるとそれなりに困った人になるということだろう。酔って喧嘩をするようなこともつまらない。議論は時には娯楽だが、やはり行き過ぎてしまうとそれなりに禍根を残してしまう。
 自制が効かなくなると困ったことをするので、それが本性を表すように感じる人もいるだろうが、基本的には脳がマヒして上手く働かなくなることだろうから、本当の自分から崩壊して別人になっているという解釈の方が正しいと思う。自分自身には違いないが、別の自分であるかもしれない。
 飲んで失敗することに、色事関係がある。ちょっと男性側の視点に過ぎるかもしれないが、矢鱈にエッチになってしまう人がいるようだ。そこのあたりを利用して客を誘う店も多いようだから、自然の摂理に即しているのかもしれない。しかし日中の人間関係では普通に接している人が、セクハラまがいの行動をとってしまうこともあるだろう。酒の席だから、で済まないと、それなりに困りそうだ。これで人生が終わる、なんていう悲劇の人もいるのではないか。自業自得だと女性側は非難するかもしれないが、家ではいいお父さんなんて人が、酒で身を滅ぼすことがあるなんて恐ろしいと思う。だから赦すべきだとは、やはり言えないのだけど…。
 「酒を発明したのは男である。ベッドに誘う道具として」というようなことも聞いたことがある。酔わせて目的を果たそうという魂胆なのだが、しかしそういう力を借りて口説かせている場合もありそうだ。敵がうぶな場合だけとは限らない。
 以前ある先輩が、「酒飲みは本当のスケベでは無い」と言っていた。べろんべろんになって女性のお尻を触っているようなオヤジの、どこがスケベで無いと言えるのか疑問に思うかもしれない。しかし酔いすぎてしまうと、性的能力は気持ちとは裏腹に落ちてしまう。また車の運転も出来なくなるから、ラブ・ホテルの選択肢が減る。ということらしい。本当のスケベはそんなミスはしない、のだそうだ。下戸と称して自制して飲まないような男には、用心が必要な場合もありそうであります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

究極の自分語りファンタジー   ライフ・オブ・パイ

2013-11-21 | 映画
ライフ・オブ・パイ/アン・リー監督

 副題は「虎と漂流した227日」。内容的はその通りの展開が主になっているのだが、その通りの内容と理解すると、意味は恐らく理解できない。その為にこの映画を観た人のさまざま解説がなされていて、たぶん、そういうことが好きな人の話に耳を傾けた方が理解が早いだろう。もちろん、映画を観終わった後にそうすべきだと注意しておくが。
 最後に科白で謎解きが簡単になされていると、僕も感じた。そうだったのか。しかし、そうであるからこそ、その謎の部分に大きな意味がある。漂流は巡礼の旅だし、自分自身の精神史だと捉えられる。長い時間海を漂流したらしいことだけは事実としてあるらしい。そういう中で人間はどんな体験をして、どんなことを考えるのだろうか。
 インドという国とインド人ということの神秘性もあると思う。今はインド人を意識しないで映画を作っても世界的にヒットしない。しかし、この映画はインド人との距離がある。インド人を使いながら、その本当にインド人が興味のあることではない別のことを語ろうとしている。実はインドとは遠いところにある西洋映画なのではないか。監督は台湾人だけど…。
 自分というものを考える時に宗教を背景に考えるという経験は、日本人の多数派では無いだろう。日本人は無宗教だからという考えもあるが、そうではないことに気付いてないだけなのだが、ここでは議論がそれるのでやめる。しかしやはり厳密には、宗教的な背景と個人史は別のものだと思っているのではないか。そうではあるが、自分なりの哲学を構築するには、体験の中に宗教的な考えが入ってくる。実は、そういうことは避けられるものではない。無意識の中に経験していることを、このような神秘体験として他人に語る。そうして語られたことに実体験に異常のものが含まれることになる。映画ではファンタジーになっていたが、しかしこれはこの人そのものの暗喩であることは明らかだ。彼の強烈な体験と思想が、物語として表に出る時、このような形にならざるを得なかったのだろう。
 ファンタジーだが、何となくそれでよかったのかという疑問を持つ人もいるかもしれない。そういう気分というものが嫌な人もいるかもしれないが、もちろんそれくらいでちょうどいいということも言える。何しろ自分の人生とは違うのだ。そうしてやはり自分と照らし合わせて考えてみたらどうだろう。そういう他人の人生で、自分の宗教観が変わるかもしれない。そうして、このような物語の変換のように、自分の考え方は変えてもいいものなのである。そういうことを楽しむ映画というのは、そうそうあるものではない。あえてお勧めしたいのは、そういうことをお互いに語りあいたいという気分もあるのだろう。むしろ、そのような感想を引き出すことに、この映画を観る楽しさがあるのであろう。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善意こそ、最善の注意を!

2013-11-20 | culture

 叔母の誕生日があり、だいたいの時期ということでつれだして買い物に出かけた。おふくろの姉だから齢80過ぎ。そういう感じはだいたいわかってもらえるだろうか。
 遊びだから楽しんでもらいたい。そういう思いはあるのだが、受けるほうにも遠慮はある。それはある程度は承知はしてるけれど、出かけたのはショッピングモール。買い物しかやることはないし、ある程度は欲しいものは聞いている。でも、品物を選ぶ段になると、気に入っているのか、気に入らないのか、なんとなく判然としない。品物をいろいろ見てはいるのだが、決定になかなか至らない。
 つまりここでどうしても遠慮が出てくるらしいのだ。ご年配なのでご家族の意向で自由になるお金もないらしい(これは仕方がないとも思う。僕らは立ち入れない)。自分で買うのはそれでも可能かもしれないが、そういう機会がたくさんあるわけではないのだろう。
 待ちの姿勢で物色する時間というのはそれなりに大変だ。ある程度と思ったら、品物を持ってレジへ走れ、である。
 それでよかったかどうかは、つまるところよく分からない。善意というのは、分かるようにやってはならない。品物を買うというのは、そこのところがリアルすぎて難しいのである。


 僕は学生時代に中国の福建省というところに留学していた。現地で知り合いになった友人はそれなりに多いし、本当に世話になった。本当にいろんな人と接して、それが僕の今の糧となっていることは間違いないが、やはりいろいろな背景があってのことであるのは今になってみると考えることはある。日本語を勉強している学生も多かったし、僕らも中国語を覚えたい。そういう接点の人が多くなるのは致し方無いことだったろう。
 仲良くなると、当たり前だが普通に一緒に食事をとるということになる。日本と中国というのは違うところもたくさんあるが、こういう風習においては似ているところはけっこうあって、西洋文化とは違う貸し借りの感覚というのがある。食事をするのは個人の問題だが、どちらが声をかけたかというので、おごりおごられというような貸し借りが発生することがある。基本的に彼らはそういうことに律義で、僕らは教えられることが多かった。つまり日本人の僕らより、彼らは数段律儀だし、礼儀正しいのである。
 しかし問題は、僕らは同じ学生とはいえ、為替の関係で、金の価値が違う。
 僕ら日本人留学生の集まりで、その日は街のホテルの朝食(要するに飲茶)を食おうということになっていた。僕は気軽にその時に現地のサッカー友達を呼んで一緒に食事をする提案をしていた。
 友人はやって来て、僕ら日本人留学生とも打ち解け、話は弾んだ。せっかくだからというか、流れに沿って、食べた皿や籠も進んだ。
 支払という段になって、僕らは当然のように日本人集団で割り勘にして済まそうとした。
 ここでちょっとしたやり取りがうまれてしまった。
 このやり取りは後になって知った話も混ざっている。面倒なのでごちゃ混ぜに話すが、やって来た友人は、金をかりてきてまで、この会に参加しているらしいということだった。いやいや、そんなこと気にすることないよ、と僕らはいう。でも、彼の気合いというか、思いというのはそれなりに強い。割り勘なのだが(日本円で二千円くらいだったろうか)、彼にしてみると、お父さんの給与の十分の一程度だということも後に知った。結局僕らはあやふやに押し切ったのだけど、ここまであとに残るような割り勘劇になるとは思ってもみなかった。
 その時は、本当に軽く考えていて、都合がいいのだからいいじゃないか、という程度だった。しかしそれ以後、彼の仲間も含めて、僕ら日本人の会のようなものの場所や設定によって、現地人や香港などの人たちの集まりには別の機会が生まれるようになったように思う。
 これは日本に住んでいる人にはわからない問題かもしれないな、とは思う。ひとは生まれた場所によって、事実上立場が違うのである。それは偉いとか偉くないとは違う問題である。僕だってそれによって違うなんてことを本気で信じているわけではない。でも、つきあいとして、そういう背景なしに人間というのは単純に対等に付き合うのは難しい問題なのだ。

 で、叔母の話に戻る。基本的にはそういうことではないか、と思ったりする。人間の感情というのはそのように厄介だ。配慮するというのは、そういうことも含めなければならない。僕はうまく立ち回れないけれど、単純にやってもいけないという試行錯誤をやっているということだ。うまくいかないことは多いのだけど、でもそれでも相手を尊重してやるしかないのではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寂しいわたくし性

2013-11-19 | net & 社会

 SNSに中毒性があるのは認める。僕は完全にその類の部類に入っているはずだ。
 さらに僕は発信過多の傾向がある。意識することもあるが、まあ、なんとなくの結果だ。発信しだすと止まらない感じになることがあって、いいかげんウザいだろうと思って自制する。それなりに内容的には個人的に過ぎないようにとは思うことはあるが、まあ、かまわんだろうということもある。時折思想的なこともにじんだりするかもしれないが、やはりそれは出さない配慮はしていると思う。議論したいわけじゃないし、ブログに書いたらいいのだ。
 そういう人は精神が乏しいのだという話も聞く。なるほどそうかもな、とは思うわけだ。そういう人だからこそ発信せずにいられない。それは作家性とも関係あるだろうし、まったく間違った見方ではなかろう。
 リア充、という言葉もある。どちらかというと、そういうことに満足度の高い人は、SNSどころはないというか、無視しているという話がある。ところが、そういう満足度のない人はもともと身元を曝せないという話もある。つまり、その中間のどこかの人に、発信過多がいるのかもしれない。
 でもまあ、分析はそんなことに過ぎない。自分がその類型であるという自覚は無い。でもまあ、そういうこともあるかもな、は、ある。でも時々、何か鬱積したものがあるんではないか、と考えたりはするし、そういう場合が自分にある場合もある。そのことだけの理由で発信している意識は無いけれど、深層心理にはあるのかもしれない。あったとしても、まあ、どうでもいいですけど…。
 問題は、発信過多にそういう傾向があるという考え方かもしれない。血液型診断のように、そういう類型を見ないことには人々は落ち着かないのだろうか? 僕の興味というのは、そういう傾向かもしれない。それならば、多少は面白いかもな、とは思う。
 本来は自由なものに、そういう注意書きが入る。そういう作業が好きな人がいるのかな、という気がする。そういうものは自分で考えるといいだけの話だけど、でもまあ、なんか不安になるんだろうか? 充実してない人が嘘をついてもいいのだろうし、でも、その意味がなんであるかは、あんまり考えても仕方ないのではないか。ひとによっては類型はいるだろうけど、当たったからどうだという先は、あんまりないのではあるまいか。
 ほどほど感はいるとは思うけど、個人の勝手には違いないし、知ったことか、という気分も美しいと思う。そういう人が増えると、日本はもっと住みやすいのだろうな、とは思う。思うが別にだからどうだとも思う。何を書くのか、だから、その人が思えばいいだけのことに過ぎないのだ。
 発信の多いのは、自分の生活の充実度の表明なのでは、だからちょっと違うと思うわけだ。たんにウケる予感のようなもの。そういう感覚や、やはり共感を求めているというのが強いと思う。そういうことではちょっとばかり寂しがりや、というのはあるのかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

情熱の冷め具合

2013-11-18 | 

 ラーメン好きについては人後に落ちない、と思っていた。もともと比較とか調べるというのは好きなところがある。性格的なものがあると思うのだが、聞いた話でも一応は自分でも試してみるとか、比較をして確かめてみたいという欲求にあらがえない。結果が残念でも、それは自分の体験として満足感を得られる性格かもしれない。しかし必ずしも今すぐに知りたいというより、少ししつこく忘れないというようなところがあるのかもしれない。だから、味覚のような分野については、割合心にとどめておいて、いつかはチャレンジするような心持があるのかもしれない。
 しかしながら、ラーメン。以前は情熱があったが、今はそれほどでもないかな、という感じになって来ているように思う。旨いラーメンを食いたいという欲求は相変わらずあるが、まあ、特に旨くなくてもいいような気分がだんだんとあるように感じる。僕のちゃんぽん観にも、もともとそういう感覚はあるが、でも、それとは少しばかり違う感じで、ラーメン欲求が変化したのかもしれないのである。
 だいたいラーメンが名物にあるような場所は、都市部が多い。大衆的といえばそうかもしれないけれど、都市というのは案外特徴があいまいだったりする。さらに現代的な視点もあって、思惑で新しいものを名物に仕立て上げたりする。そういうものと、ラーメン名物との相性がいいようなところがあるのではあるまいか。つまり、ラーメンが名物なんてところは、特長に乏しい貧しさを逆に感じさせられる。ある程度大きな都市の総体の中の一部であれば、それはそれでいいという感じだけかもしれない。
 旨いラーメン屋はタクシーの運転手に聞け、というのがあって、実際に聞いてみたりする。これは当たり外れが大きいという印象がある。距離の関係があるから近いと紹介しないという心理があるのではないか。だから目的地として聞かないで、すでに行き先が決まったあと、雑談で聞くということをしなくてはならない。〆にでも行くからさ、という感じで。
 で、そういう感じで出張中にタクシーの運転手に何気なく聞いたところ、「お客さん、ラーメン好きもいいけど、私の知り合いのラーメン好きは、みな早死にですよ。まだ若いからと思ってるかもしれないけど、あんな塩辛いもの好んで食ってたら、ろくなことないよ」と注意された。なるほど、そうかもしれない。
 結局のところ、だんだん情熱が薄れているのは、胃袋の弱り具合と関係があるのかもしれないですね。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正当、もう一人のビートルズ   バックビート

2013-11-17 | 映画

バックビート/イアン・ソフトリー監督

 もう一人のビートルズ話はいくつかある。つまり関わった人というのは多いから、そういう切り口の人は何人もいる訳だ。しかしながらスチュアート・サトクリフという人は、その中でも最も本家本元のような人だ。特にジョン・レノンとの仲が良かったことが伝えられている。もともとのベースだった(下手だったらしいが)ということもあり、ポールがジョンとの仲を嫉妬したという話もある。映画でもそのような場面はあった。結論を言うとメジャーデビュー前にバンドを脱退してしまい、ポールがベース担当に変更する。そういう背景だけは、何となくだが聞いたことがあったようだ。
 そういう事情をなぞるようなエピソードの映画なのだが、舞台はリバプールで無くドイツなのだ。ハンブルグのクラブの専属バンドの様な立場で、腕を磨くというか、生計を立てていたというか、まあ、そんな感じの活動をしていたらしい。しかしながらスチュアート自身は画家としての才能の方が強く、本人もそういう希望を持っていたようだ。あまりにも親友のジョンが熱心に一緒にバンドをやることを希望しているので、付き合っている風のところがある。しかしながらそのおかげでドイツに行き、写真家の女性と恋に落ち、絵の方面での自立に目覚めて、バンドを脱退する。熱心でない上に恋も忙しいし、やはり楽器の演奏では下手だったことが嫌だったんではなかろうか。ビートルズは確実に人気が出ているという実感があって、さらにメジャーのデビュー後の成功しそうな感じも十分手ごたえがある。そうなっていくと益々本来の自分の居場所の様なものが失われていくような違和感があったものかもしれない。
 お話自体はそういうことで、残念な人がいて華やかな後のビートルズのことを思うと切ないな、ということなのである。
 それにしても写真家の彼女と知り合って、彼女には彼氏がいて、いわゆる間男をして奪う場面があるんだけど、それでも悪びれる様子が無くてそのまんまというのは、これは倫理としてというより、彼等はずいぶん鈍感なものなのだな、と思った。そうなっちゃったんだから仕方ないよね、ということなんだろうか。確かにあちらでは不倫というのはそんなにある話じゃ無くて、浮気したらちゃんと離婚して次の生活が始まるみたいな正直な人が多いだけのことだという話を聞いたことがある。そういう訳で離婚率が高くなっているだけのことで、本来的に人間の恋愛というのは国によって違わないという趣旨らしい。そういうものかもしれないんだけど、やっぱりどうなんだろうね。僕には分からないです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

面白そうな雰囲気でつまらない感じ   タナカヒロシのすべて

2013-11-16 | 映画

タナカヒロシのすべて/田中誠監督

 率直に思うのは、なんか面白いだろう?という感じを強要しいているような変な印象かもしれない。それはそれで分からないではないのだが、面白がらないと仲間に入れてくれないような変な疎外感があって、つきあっているような感じもあるのだった。ちょっとだけ素直にニヤっとしそうになるのだが、いや、待て待て、と制止する心の中の自分もいる。つまりたいして面白くない訳だ。
 別段素人っぽいつくりが嫌な訳ではない。むしろ普通はそういうことも好感を持つところはあるのである。要は、ちょっと不思議でもあるけれど、面白くなりそうな細部で、ありえ無さに付き合いきれなくなるという感じなのだ。例えば医者との答弁なんだが、もう少しそれっぽい方が面白いんじゃないかと突っ込んでしまう訳だ。そこから怪しいと、後の怪しさが生きてこないというか、ある程度のコントラストがあってこそ、異質なキャラクターがより生きていくような気がしたのである。
 演技というより、普通にコント色が強いという感じもあるかもしれない。前衛を兼ねたコント劇ということか。それ自体が面白いものがあって、なるほどと思うので、やはり惜しいところは結構ある。しかし、人の不条理な不幸というのは、実はもう少し残酷な方がいい。もっと怒ったり、悲しんだりすると、この楽しさはもっと生きてくるのではないか。そうじゃ無くて違ったものを作りたかったというのは、たぶんそうなんだろうけど、それならばシュールな場面をもう少し増やした方がいいだろう。普通に淡々として、しかしリアルではない。やはりつきあわされるということになってしまう。
 俳優さん達とお笑いタレントさんが混じりあって演技をしている訳だが、どうしてもお笑いの人の方がやはり素人で、演技としてはかなり浮いてしまう。そういう中にあって、宮迫博之という人の嫌な存在感はなかなか良かった。こういう人なら映画としても上手くやっていけるのではないか。
 しかしながらこういう映画は、音楽を聞くように観るものなのだろう。意味なんてものはたいしてないのだろうし、そういうことを考えても仕方が無い。爽快さは無いけれど、終わり方はそれでもいい。いろいろあるけど、嫌なことは避けていると、いづれはいいことだってあるのかもしれない。映画だって時間がたてば終わってしまうように…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする