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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

絆は強めたり深めたりできる

2025-02-09 | ことば

 新聞読んでたら「絆」という字の語源のことが紹介してあった。もともとは絆というのは、牛や馬を繋ぎ留めておく綱のことを指すらしい。絆には「ほだし」という読み方もあって、ほだしというのは、自由を束縛するという意味がある。恋人が絆しとなる、という具合である。糸へんに半分と書いてあるが、この半分は、牛という字の変形とみるのが自然なのだそうだ。なんだか恐ろしい漢字なのだ。
 さらにそういう意味の漢字なので、「絆が深まる」というのは、意味が分からないもののはずなのだが、誤用として使われるものが自然となり、通用するようになっているようだ。少し前の世代の人であれば、絆は強めるの方が自然に感じられようが、現代だと圧倒的に深めるものに変化したのではないか。さらにおそらくこれは、馬や牛とのつながりを指しているのではなく、人と人との関係性を指しており、お互いの関係を深めることをあらわす言葉として、絆を使うようになっているはずだ。そもそもの意味がだいぶ逸脱したにもかかわらず、実感としては、この言葉のニュアンスは、既に市民権を得ているものだろう。
 どうしてそうなってしまったのかは、想像するよりないが、赤い糸伝説のようなものとも関連があるのではないか。本当は目に見えないものだけれど、赤い糸で結ばれるというのは、恋愛などでは普通に使われるものだ。糸と糸が半分ずつで結ばれるイメージそのものが絆にはあるのではないか。さらにキズナという音も、それなりに感じがいい。今や牛や馬などを飼っている家の方が少数派だから、そういう事との関連も、想像すらできなくなっている。誰が使いだしたかは知らないが、そういう本来の意味が分からなくなったからこそ、なんとなく新しげで使い勝手の良いこの言葉が選ばれたのであろう。そうして誤用の方が連鎖して使われるようになり、定着していったということなのだろう。
 そういう訳で、実はあんがいに新しい言葉なのだと思うが、これはそれなりにこれからも生き延びていきそうな感じもする。いわゆるこういうもののふさわしさのような感じは、きわめて現代的だからだ。それは裏返して考えると、絆というものを介しての人間関係が、求められている為である。そういうものがあるのであれば、人間(日本人)は生きやすいものを感じているのだろう。空気というものを読むのであれば、やはり便利な言葉なのであろう。
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インタビューも練習を積む

2025-02-01 | ことば

 駅伝シーズンで楽しい季節なのだが、なんで長距離を観ていて楽しいのだろう。自分でもよく分からない。走るのを見ているだけで楽しいからいいのだけれど、やはり選手のインタビューも見逃せない。歴史的にも谷口博美の「こけちゃいました」のように、可笑しみがあるけれど感動を呼ぶような発言もたまに聞ける。近年の高校生などの「○○に勇気を与えたい」のようなくだらないものもあるにせよ(そういうのがいいと教わるのだろうけど、周りの大人にロクなのが居ないということだろう)、率直なことをたまにいう選手がいて、それはそれでいいものである。
 しかしながら区間賞をとるような選手には、人数制限があるとはいえ必ずアフリカ系のランナーがいて、まだまだ日本語では受け答えができないために英語などの通訳(現地語ではない場合が多い。それだけでも大変だろうに)が付いている。しかしながらおめでとうとありがとうと、勝負の勘どころなどを聞いても、通訳が追い付かなかったり、聞いたことと違う返答だったりしてちぐはぐなことが多い。レースが続いている関係もあって、時間が限られてもいるのだろう。そのまま尻切れトンボでインタビューが終了、ということもあるようだ。ちょっと選手が可哀そうかな、とも思うが、なんだかテレビ局側は、そんなことは気にしていないようにも見える。
 そもそも長距離走のインタビュアーというのは、あんまり長距離に通じていなさそうな人が多すぎる気もする。近年は少し反省の色がみられ、ちゃんとボードをもって、選手それぞれに違う質問をする人も出てきてはいるのだが、それでも質問が限られていて、返答後にさらに突っ込むような質問は、ほとんどないのが現状だ。そういうところがちょっと残念にも思えるが、青学のように普段から取材慣れしているところの選手たちはちょっと違って、それなりに状況を言語化するのに長けているように感じる。おそらくなのだが、大会後にも民放などに出演する機会もあるようで、そういうのを経験するということが、選手たちの返答力を鍛えることにつながっているのではなかろうか。それ自体がいいことなのかどうかまでは分からないが、今回最も注目を集めていた国学院が力負けしたにもかかわらず、主将のスピーチは注目を浴びたらしい。やはり競技と同じく、それなりに経験と練習を積んだ後の言葉というのは、鍛えられるということだろう。
 しかしながらそのようなアスリートたちが解説者になったりすると、今度は驚くほど饒舌に変身したりする。やはりこういう世界の人たちは、目の前の課題について、それなりに鍛えることに長けている人たちなのではなかろうか。まあ、そうでない人もいることはいるのだが……。
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宙づり状態

2025-01-16 | ことば

 新聞ではふつうにハング・パーラメントという言葉が使われるようになった。最初のころはカッコ書きで(宙吊り国会、とか宙吊り議会)となっていた。何度も使われていくうち、いちいちのかっこ書きは減っているのではないか。耳慣れないし元は英語らしいから、あちらの文化の表現であることは見て取れるし、カッコ書きの表現でも、なんとなく意味は取れる感じだ。議会が宙ぶらりんの議論になって、決まりにくい状態であることを指しているらしい。要するに少数与党の為で、どこの党や連立の組み方でも、多数を形成できない今の状態を、なんとか表現したいものらしい。先に少数与党は定着しつつあるように見えていて、ちょっと違和感はあるのだが、外国に先にある言葉であるし、これを日本にも当てはめるべきだという考えの人もいるのだろう。
 しかしよく考えてみると、議論が宙ぶらりんになっているというか宙吊りになっているというか、そういう議会の様子であるのか、なんだかよく分からないのである。議論の内容によっては、いろいろな政党の主張の内容を取り入れながら、基本的には多数決が決している。政治改革の内容は、野党案に与党が賛成する形にもなった。それでいいのかどうかというのはよく分からないが、僕が個人的に感じるのは、新聞解説なども含め、その様子は、比較的わかりやすくなった。いい議論なのか、財源がどうなのか、ともかく調整がなされる。内容が不透明でも、ともかくそれには向かうとか、政党同士で取り決めをしたりする。しかしその後はマスコミに向けて、不満を漏らしたりはしているが、それは支持している側へのパフォーマンスらしい。いちおうイニチアチブを取って進めていますよ、ってことなのだろう。
 要するに、これまでこういう事の解説は、よく調べないとわからないことが多かったし、マスコミは内容には興味が無かったので、多数の暴論で物事を通したなどというような、結果のみを報じているものが多かった。そんなものより数段今の方が、視界はいいのではあるまいか。もっとも議論の訴状に上がっている題材の、打ちスジがいいとは言えないものではあるのだが。基本バラマキであるとか減税であるとか保障であるとか、そんなことばかり言おうとしている。その前の財源論はどこかで負担増を強いる訳である。さらに消費税を一旦封印しているままだ。この状態が、破綻への入り口でない事を、祈って観ているしかないだけのことなのかもしれない。
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今年を象徴する一文字、とは

2024-12-21 | ことば

 年末だか新年だかになると、今年の一文字ってなことが話題になったりする。わざわざ一文字にする必要もないという気もしないではないし、これらの象徴的な文字を見て、共感できることが少ないのも事実だ。いったい誰がどういう心情でそんな文字を選択しているものなのだろうか。
 今年だけに限らない可能性はあるのだが、やっぱり暑すぎる夏の毎日を思うと「暑」という感じもしないではない。でもこれから毎年「暑」では芸が無いので「暑暑暑……」と続くのも良くない。それに年末になると、それなりに寒くなっている訳で、実感としては過去になってしまう。
 日本人の海外での活躍なども目立ったが、しかし一文字になると難しい。チームで頑張る中で成し遂げられるものがあるにせよ、強烈な個性でもあるのも確かだ。じゃあ「個」になると、なんだかやっぱり悩むところだ。でもまあ日本人の活躍と言っても、ほとんどあれは人間離れしたうえに、日本人離れしすぎている存在でもある。特殊なので「独」でもいいが、独逸って国もあることだし……。
 しかしまあ、日本を代表する出来事自体を決めかねる中でもあって、一種の洒落や批評性という事でもある。少数与党という言葉もよく聞かれている訳で、「少」だとやっぱりわかりにくいだろうか。
 混迷を深める世界情勢だから「混」でも良さそうだが、なんだか混浴めいてもいて分かりにくいかもしれない。
 なんとなく極端なブレ方をしそうな予感もあって「激」っぽい字も使いたいところだが、こういう激しい表現というのは際限が無くて、かえってシラケることにもなりそうだ。いろいろ激しいことが起こるというのは、今後数年にわたってずっとそんな予感もあって、いやな感じなのである。
 なんでこんなことを考え始めたのかというと、単純に新聞で今年の象徴的な漢字って何だったのだろう、というような設問があったせいである。つまり遊びなのだが、実際に考えると本当に難しいものだ。その上そんなに漢字を知っているわけではないのだし。
 世の中のことを言い表すのが難しいのなら、個人的なことを。実は散歩するのに、県の健康アプリで地域で歩数を争うものに参加するようになって、そのアプリの文字だけのことなのだけど、地域の姿の見えぬライバルの人たちと、日々歩数を競う毎日になっている。目標とする歩数は以前からあったのだが、そういうのは自分との戦いであって、気分が乗らないと外に出るのも億劫な日というのはあるのである。ところがこのアプリで自分の順位をみていると、自分と同じくらいの人が歩数を伸ばしているのが分かったりして、それじゃあ俺も頑張るか、という気分になって歩いてしまうのである。この影響は大きくて、ちゃんと毎日何らかの形で歩数を伸ばす努力をするようになった。僕の一番の出来事は、だからそのことなのだ。しかしそれはお互いに、知らず知らず意識しているだろうことでもありそうなので「互」というのはどうだろうか。まあ、個人的なことでまとめてしまって申し訳ないのだが……。
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流行どころか、ひどく勘違いかも

2024-12-18 | ことば

 流行語大賞に「ふてほど」というのが選ばれて、かなり批判の声を聞いたわけだが、確かにそれもそのはずというか、僕はこの言葉を聞いたことが一度としてなかったし、活字としても一度として読んだことが無かった。別に特別な隠居生活をしているわけでもない訳で、流行語を選ぶ媒体として、この賞の意味は失われている。しかしながらこの略語のもとになっている「不適切にもほどがある」というドラマがあることは、知らないでは無かった。観たことは残念ながら無かったが、そういうのは、テレビドラマなのだから、そういう事があって当然である。しかしこのドラマに関する雑誌記事などは読んだことがあるので、社会現象になっていたかはともかく、それなりにヒットした作品であろうことくらいは認識している。しかし、そういうことを知っていてもなお、「ふてほど」の違和感は大きい。誰もこれを略して言ったり書いたりしている場面が、一度として無かったからだ。そういうことは、繰り返すが僕が特殊なことだったのではなくて、批判の大きさから考えても、多くの人に共有できる感覚であっただろう。
 観ていなくても、内容の一部をなんとなく知っているのは、これをもとに昭和に関する現代の違和感を語る人が居たり、やはり記事で読んだことがあるからだ。昭和の時代に生きた僕としても、昭和は遠くになりにけりであって、当然いろいろな感慨はある。生まれてから青春のほとんどを昭和で過ごした訳で、その時代が懐かしく無い訳がない。しかしながら現在と比較して、それが良かったとか悪かったとかいうのは、さて、もう合わないだけの事であって、どうなんだろうとは思う。今が何でもいいとは言えないが、しかしもう元に戻ることは無いのだから。
 昭和の人の煙草のマナーがひどかったというのは、確かにそうだったのだが、それが当たり前の時代にあっては、当然ながら特段酷かったわけではない。乗り合いバスなどでは吸う人は無かったが、長距離の列車や、なんと飛行機では、たばこを吸う人がいたようだ。映画館でもタバコの火がチラチラすることがあったし(考えてみるとどこもそうだったわけではなく、古いタイプの映画館に、そういうところが残っていた)、病院でも患者はともかく、診療中の医者が吸ったりする病院もあった。確かに今考えると異様な光景に思えもするが、皆が許容していたのも確かで、すでにたばこの害は言われてもいたが(なんとコーヒーも同じように体に悪いとされていた)、まあ、多少の遠慮があればいいし、周りの人間が目下のものであれば、気にする必要など無かったのである(それこそが昭和的だとはいえるが)。
 昭和のことが良かったと言っている多くの人は、そのようなおおらかさの様なものに対して、言っていることが多いと思う。最近の人は、とか、最近の風潮は、とかいうような物言いの中に、妙に気を使わなければならない現代社会への視線がある。当然のことのようになっているかもしれないけれど、サービス的に気遣う姿勢は消えていて、注意しても改めるそぶりもないし、逆にパワハラだの上から目線だの、奇妙な論理でもって非難されかねない。以前は改めるべくものは、そうするチャンスがあったし、一定の良識のようなものは、むしろ高いものがあったのではないか。そういうあやふやなところなので、きっちりを比較ができかねるのだが、少なくともそのような気分的な対立のようなものが、存在する。つまるところそういうものが、おそらく不適切的なほどの問題の根底なのではないかと想像する。
 だいぶ話は思わぬ方向に来てしまった訳だが、もう共通理解も無い訳だし、全体的に納得のできる流行語なんてものは、そもそも存在しにくくなってしまった訳である。
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転がる石には

2024-12-15 | ことば

 村上レディオでストーンズの特集やっているときに、おそらくバンド名の由来である「転がる石には苔は生えない」ということわざのことを話していた。日本でも翻訳的には知られていることわざだろうし、それっぽい例えとして、まったく聞かない類のものでは無い。しかしながらなんといっても僕らにとっては、ストーンズ的な勢いとして、苔の生えない人生を送るような、そんな気分のような意味として理解していたわけだ。
 ところが元の英国での意味としては、いわゆる転職ばかりして落ち着いて仕事をしないような人間には、富はつかない、というようなことだったらしい。ええっていう感じもするが、そういう意味として言葉なら、反抗期のストーンズということになると、根無し草というか風来坊というか、そういう感じの意味合いがあったのかもしれない。分からないけど。
 そういえば、と思って、これも有名なボブ・ディランのライカローリンストーンってのもあるんで、改めて歌詞の意味を見てみると、やっぱり転がり落ちてしまって石ころのような不幸な女の人のことを歌ってたりしている。まあ、ボブ・ディランだから意味深でよく分からない比喩がたくさんまぶしてあるんで、分かるヤツにわかりゃいいだろって言いうか、ラリっててよく自分でも意味が分からないのを楽しんでいるような人なんで、そのように捉えていいのか知らないのだけれど、まあ、英国のことわざを援用しているということは言えるかもしれない。
 もっともやはり、村上春樹さんが言うように、アメリカに渡ると苔が生えない人生の方が、生き生きしていていい意味に変身する。苔を好きか嫌いかで、解釈が変わるということなのかもしれない。日本の場合国歌にもあるくらいだから、これくらい苔の好きな国民はいないのではないか、というオチがついていた。まあ、さすがですね。
 しかしまあ苔むしたお庭なんかの話だと、風情あっていいものかもしれないけれど、ふつうは苔の生えるようなところというのは、じめじめしてよろしくない気もする。山歩きなんかすると、苔の生えているようなところは歩きにくそうだ。まあ、苔にもよるのだけれど、僕はあちこち散歩してまわるので、雨が降った後に路地にある石垣なんかについていた苔が復活して緑に変化するさまなんかを眺めていると、すっかり枯れはててしまっていたと思われた苔も、あんがいしたたかに強い生き物なんだと感心する。そういう生き方ができるかどうかわからないけど、基本的には見習いたい存在なのではないだろうか。
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内なる頑張り精神は、相手に分かりはしない

2024-09-22 | ことば

 観ていたドラマの主人公は、子供のころから母親から「やればできる子」と言われ続けて、期待に応えるべく頑張りとおしてきたという。主人公は女性で、バリバリに仕事をこなしながら、ファッションもいけている。ただし、家事まではとても手が回らない、という設定だ。しかし「やればできる」呪縛に囚われ続けていて、特に仕事の内容・精度をあげるために、家に帰ってからも遅くまで頑張り続けてしまうことをやめられないのだ。
 まあ、「わかる、わかる」という若い女性心理(若くなくてもだが)をついているということなのだろうし、多かれ少なかれ自分なりの理想もあるし、さらに仕事に対する周りの期待にも応えたい一心が、彼女を突き動かしている。当然きついのだが、母親の呪縛が一番大きくて、母親はそれができなかったくせに、娘には当然のように自分の理想を押し付ける。そうして、時には心配もするかもしれないが、基本的には自分のエゴであることすら気づいていないのである。
 今どきまで続く酷い話だ、とは思うものの、この「やればできる」神話というのは、改めて根強いものがあるんだな、と見て取った。この主人公は、ある意味素直に「やればできる」を、今頑張る言葉として体現して頑張ることができる人間である。しかしながら現実の多くは、そのように頑張り続けられることの方が、稀なことである。そんな人が増えたら、もっと世の中は劇的に変わっているはずなのである。現実のところは、頑張っていることは頑張っているのだけれど、いつの間にか頑張っていない自分がいる、という人の方が多数派であろう。この「やればできる」という言葉は、頑張ろうとする心情としては、あまり適切ではない言葉遣いだし、そもそも残酷なだけで、ほとんどその頑張っている意識を剥ぐ効果さえあるものである。本当に頑張っている人に向けてこの言葉を吐く人には快感だが、受ける側には反感の方が多いのではあるまいか。少なくとも僕を含めた多くの人は、「お前は頑張ればできる人間だ」と言われたら、馬鹿にされていると思うか、もしくは今後は頑張ろうという気持ちが奮い立たないことだろう。せっかく今まで頑張って来たのに、この目の前の人は正当に評価さえできない人間なのだ、というのが見え透いているのだ。
 物事というのはなんでもそうだが、やらないことには何も始まらない、のである。それをやる前からやればできると言われたら、それはもうやらなくてもどうでもいいことと同じなのである。結果は付いてきてほしいものではあるにせよ、頑張ったから良いのかどうかは不透明だ。頑張ってもダメな時だってあるのが、きびしいが多くの場合の現実だ。だからこそ、結果のみを求める態度では無くて、頑張ることを素直に認めてほしいものである。それでこそ、次も頑張れるかもしれないではないか。
 ということで「やればできる」と言われる子の将来は、得てしてあまり頑張ることに熱心ではなくなってしまう。その方が気楽でいいというのなら、それもいいだろう。どのような価値観を持とうと、それこそ自由だ。親の呪縛からも、逃れて生きて行ければいいのかもしれない。
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野球用語で共通認識

2024-08-31 | ことば

 チームで仕事をするときに、野球用語を使ってみると、共通理解とかが早くて良いのだ、という話を聞いた。「トップバッターで行け」とか「今回は全員野球だ」とかいうように。
 まあ、なんとなく昭和の感じがするけど、ほんとにそんな職場あるのかな。「ここは直球勝負だ」とか「いい球だけ狙え」とか、言うんかね。本当によく分からない。それにいちいち場面に照らして言葉を選ぶの、大変そうである。それ「アウト」とか「セーフ」は聞いたことあるような気もするけど、すでに野球っぽい意識すらないかもしれない。
 でもまあ今は大谷君であって、相変わらず何もなくてもトップニュースだったりする。大谷君派生の関連話題にも事欠かず、例えば大谷君が飼っている犬種の事とか、実際に買おうとすると2年くらい待ちであるとか教えてくれる人がいる。まったく凄いことだ。何年か後には、日本ではメジャーな飼われている犬種になっているかもしれない(※ちなみに正式な犬種は覚えにくいようで、略して「コイケル」って言われているようだ。さらに大谷君が飼っている犬の名前にちなんで「デコピン」と呼ばれる場合もあるようだ)。(※ 始球式も素晴らしかったですね。こういうところが、大谷君サイドのエンタティメント性の高さでしょう)
 今年は二刀流じゃないので、もっぱら打ったかどうか。もちろんホームランのことだが、それで試合がどうなったかまでは知らない。僕だってドジャーズがどうなっているのかは知らない。よその国の事でもあるし。でも佐々木とかイチローが活躍していた頃は、マリナーズがゲーム差いくつでトップだとか知ってたものだけどな。
 ということでそんなに関心はわかないが、そんなことを言うのはあまり許されていない。日本人として関心のあるのが当然なのだから、そんなことを言ってはいけないのだそうだ。
 ある時まあ、大谷君はどうでもいいけど、って発言したら、それ誰それの前では言ったらだめですよ、と注意を受けた。何でも大谷君の試合を見にアメリカまで行ったくらい関心の高い人なんだそうだ。そんな発言を許せなくて怒るに違いないというのだ。そうなるともう、驚異の存在という以上のものがある訳だ。まあそういうのが、社会現象ということかもしれない。トランプ騒動(もしくはハリスさんとか、なんとか)と同じようなものだろう。
 野球用語が社会的に通用するというのは、確かに日本が野球の国であるという前提があってものだ。地域性もしっかりあって、仕事関係で大阪に行った折には、ほんとに頻繁に阪神の話題が続いてびっくりしたことがある。会う人会う人、阪神を絡めたジョークを言うのである。あそこでは阪神は一種の季語のようなものなのかもしれない。広島はそこまで無かったけど、若い女性が選手の名前をすらすらいうのは聞いたことがあるので、場合によっては凄いかもしれない。
 先日埼玉に行った折には、地元の人が確かにレッズのことを居酒屋で話していた。そういう意味では野球だけじゃなく、サッカーという地域もあるかもしれない。また、お隣の佐賀では、バレーボールとかバスケットボールのことを話しているのを見た。長崎でもサッカー話題をする人がいるので、地域のチームがいるんだろうか。そういう意味ではある種の集団主義を含むバラエティ差がある訳で、日本は野球から脱してスポーツとしての多様性が生まれているのかもしれない。
 しかしながらそうだとしても、暑い中試合を見に行く気にはとてもなれない。夏はホントはスポーツには向かない季節なんじゃなかろうか。
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流行歌の歌詞の評価について

2024-07-03 | ことば

 若い頃に荒井由実(松任谷)の歌を聴いていて、なんてすばらしい歌詞を書く人なんだろうと感動した覚えがあるが、考えてみると、その詩だけをそらんじて鑑賞することは無かった。世の中にはそれらの歌になっている詩を、もう少し評価してもいいのではないか、ということを言っている人もいるという。中島みゆきの詩などは、そのような評価に値するという研究なんかもあるらしい。
 そういえば知り合いの人に、家族で井上陽水を崇めているところがあって、一緒に飲むと陽水の話になって、しきりに褒めてばかりいるので閉口する。しかしながら陽水の詩というのは、変なところも多いが、確かに詩として素晴らしいような気もする。彼のキャラクターがなんとなく変な人なので、うまく評価されていないのではないか。いや、そういうファンがいるのだから、評価されているのかもしれないが……。
 考えてみるとボブ・ディランなんかはノーベル文学賞をとったので、海外では歌の歌詞であっても、それなりに評価する機運のようなものがあるのかもしれない。あちらの文学なんかでは、いわゆる韻をふむというのがいいらしく、そういうのはラップなんかでも伝統を守っているのだ、というのは聞いたことがある。日本語だとなんだとなく駄洒落っぽくて、そういうのは文学的には評価が低そうだが、西洋とか中国なんかだと、歌詞に韻を踏んでいるものは多いようだ。そういう面白さと単語の豊かな広がりのようなものを、感心する文化があるのだろう。日本語だと文字数で、俳句や短歌などの文学分野がある訳だが、韻を踏んだ詩の評価が高いとは、あまり感じられない。日本の歌にも、韻を踏んだようなもの(桑田佳祐だとか)はあるようだけど、詩の評価の高さにつながっているものだろうか。
 確かに日本の場合だと、歌われているメロディが無いと、その詩自体が良いとされるものは、あまりないように感じる。歌にされていない詩の方が、一段と文学的に上にあるように、扱われているのではないか。童謡にはいい詩があるというのは昔聞いたが、現代の流行歌の詩が評価されているようには聞かない。いや、僕が知らないだけだろうか。個人的には泉谷しげるの詩は、かっこいいと思うが、再評価されないものだろうか。
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文章にはハラスメントがいっぱい

2024-03-23 | ことば

 「マルハラ」というのがある。主にSNSの文面で、文章の最後に〇で終わると、なんだか威圧的だったり、冷たく感じられる、というものだ。最近の若者にそういう感覚があるということで、ハラスメントのように揶揄された言葉だという。
 これについてはいろいろなところで、このことについて書かれているものを読んだ。というか、一斉にこの話題を上げるコラムやエッセイが雑誌などにあふれた。基本的には軽い驚きとともに、そんなもんかね、という世代間の断絶を言っているようだ。僕も最初にこれを言われたところで何にも感じなかったし、むしろそれを面白がって紹介している一方の世代の感覚の方が、気になるかもしれない。
 これはおそらくなのだが、逆にSNSなどで文章が延々に続いていくことに、違和感を覚える側の言説では無いのか。実は僕は若い人々のラインなどのやり取りの方が、恐怖感を覚えるのだ。複数の人で文章を打ち込んでいるときなど、「え」とか「それで」とか、相槌なのかどうか、文字を打ち込んでくる。絵文字のこともあるが、それらの促しに、単に「いや」とか「そうね」とか、ともに意味が行き詰っているようなこともある。それらのやりとりをずっと眺めていることは無いのだが、多少間が空いた後であれ、突然やり取りがまた活発になったりする。このタイミングが何だか変な生き物を見るような感じがして、とても嫌なのだ。
 そういう事もあったためなのか、もうずいぶん前から着信音は鳴らないようにしているし、そういうやり取りの最中であっても、自分の時間帯でない限り見たりすることも無い。そういう恐怖(というか面倒だ)に、嫌気がさしたためだろう。たとえ相手からの問い合わせであったとしても、もうすぐには返さないと心に決めたくらいである。
 でもこの話は、ちょっと胡散臭い。いわゆる若者、いわゆるZ世代、と言われるような人々を、理解不能なので攻撃したいような、そんな感覚の方が強いのではないか。若い人が〇くらいで恐れおののくなんて、その方がファタジーっぽいではないか。単に世代間の文章の書き方の違いに、ウザいな、と思うとか、あれっ、ちょっと調子狂うな、くらいは心の中で叫んでいるのかもしれないが、まあ、そんなものじゃないの、が主流では無いのか。ほんとのことは分かりえないが、それくらいはお互いに思うのが自然だろう。
 でもまあ実のところ、絵文字などを多用するSNS文章というのは、中年の人(特に男性)に顕著だ、という意見もあるようだ。(笑)とかいうのは、もうずいぶん古いが、これを使うのは中年だけだろう(当時始まった習慣だから)。今は(www)を経て、(草)だそうだが、まあ面白くもなんともない。怒ったような文章を書いて(笑)も何にもないから、ニュアンスとして、その文面や流れをもって可笑しい、というのが理想である。分かるヤツだけ分かればいいのである(文面で、すでに明らかなわけで)。そんなに気の小さなことでごまかすような心情の方が、なにかやましいことがあるようで、却って詮索される、ということに気づかないのだろうか。まあ、気づかないからやってしまうのだろうけれど……。ともあれ、〇の怖い奴は、一生怖がっている人生を歩めばいいだけのことだろう。相手のせいではなく、自分のせいなのだから。
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何か時代の言葉が見つからない

2024-01-19 | ことば

 テレビを見てないわけでは厳密には違うのだが、いわゆるバラエティという感じのものは見てない所為もあるのか、会話の中で時折聞かれるタレントの名前とか、その関連らしい出来事にはずいぶん疎い。そういう僕でも知っていると言えば、やはり昨年のジャニーズ関連かもしれない。結局その後はどうなったのか、までを知らないだけのことで、さすがにいろいろあっているだろうことは、聞き及んでいたかもしれない。そうであるのに流行語などで「ジャニーズ」という単語が無かったように思うのは、なにか世の中の本当の流行ごとと関連する言葉と、流行というものには、なにか違いのようなものがあるのかな、という気はする。吉本の松本関連というのも勃発して、こっちもかなり悪質そうで、ちゃんとこういうことが議論の俎上に上がって、業界がこういう問題から払拭出来たらいいのにな、と思うのである。犠牲もあろうが、ちゃんと流れをつかんで欲しい。
 例えば阪神の優勝後にはじめて「アレ」というのを知ったのだが、ペナントでアレが騒がれていたというのは、一度として聞いたことが無かった。ニュースは見ているのに、アナウンサーは何を言っていたのだろう。むしろペナントとは関係のない大谷さんニュースは頻繁に聞いていて、もう忘れたが、変わった犬種の犬を飼っていることまで、当然のように知っている。調べればわかるはずだが、日本人と外国人のアクセントの違いで、実際の犬の名前とは別に外国語用の名前があるのだという。そういうことを飲み屋で詳しく説明してくれる人がいるのだから知っているのであって、やはりテレビを見たから知っているのではないのかもしれない。雑誌も読むのだから、そっち経由でも情報は入りそうだけど、そういうのは、やっぱりあんまり読まない気がする。いくらで契約したとかいうのも、やっぱりどうだっていい気がする。それよりも、そんなに大金を手にするのであれば、これからの活躍は難しくなる可能性の方が高くなるのではないか、という心配さえする。それでもいいのだという考えがあるのならそれでもいいが、スポーツ選手というのは、モチベーションが難しい分野であるはずで、これを失うことを恐れる方が、オオタニ選手本人にはいいかもしれないとさえ思う。もう本心での露出は難しいだろうが……。
 もう一人のすごい人である藤井クンについては、多くの人とおそらく同じで、そのすごさの本質はまるで分らないのだけれど、ただタイトルを取ったからというだけで凄いと信じているにすぎないまでも、凄すぎることは確からしく、これもいつまでもタイトルを取り続けなければそうでないのか、という問題まで、特に考えているわけではない。藤井君のような息子や孫がいたらどんなに誇らしいだろうか、という話題もあって、ひとというのはそういう感慨をもつものなのだな、とそういう人を観察して考えている。実際こういう人物がいないと業界が盛り上がらないということについては、業界人が一番妙な感慨を抱いているだろうことをつい考えてしまう訳で、おそらくだが切磋琢磨が激しくなっていくのではなかろうか。そうしてそれこそが、また藤井君を強くしそうである。
 実は昨年の流行語ことが書いてあるものをいまさらながらに読んで感想を書くつもりであったものが脱線ばかりしている感じなのだが、要するに何も実感するものが無いという虚無感があった。政治的には岸田政権は厳しいけれど、実質上それ以外の選択肢が無いという閉塞感と、自民党内部の抗争が別の形で出ているらしいという予感があるものの、それらしきものを掴んでいる人はあまりいない。いつの間にか遠いところで戦争をしていると感じているらしい日本人と、しかし明らかに欧米との対立軸で憎しみがぶつかり合っている構図がはっきりしながら、それでもどうにもできないでいる現実がある。もう少しそういうところを考えるべきが主体になっていいはずだが、根気が続かないのが世論である。そういう事こそが本当に恐ろしいことなのだが、それは僕自身も考え続けなければならないことだと、改めて感じているところなのである。さらに年明けて災害が続いている。なんだか妙な空気感が漂っているのだが、そういう気分のようなものでまた膠着するというのは、なにかさらに重たいものの幕開けでないことを祈るのみである。
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うてあってくれない言葉

2023-12-13 | ことば

 僕は九州は長崎県に住んでいるので、日頃の会話はふつうに方言が多いと思われる。口語では文章とは違う単語を、自然に使い分けているはずだ。しかしながら時々文章を書いていて、ワープロソフトがうまく反応しないというか、標準語として疑いなく使っていて、後に方言だと気付く言葉がある。思い出そうと思えば、それなりにたくさんあるはずなのだが、今回は「うてあう」がそうだった。「うてあう」と打つと「打て合う」と変換されたので「むむむ」となった。これは何かが違う。先日「供述」という文字を出そうと思って「きょうじつ」と打ち込んで「凶日」と出た時のような驚きだ。しかしそれは単なる思い込みによる打ち間違いだったので、今回は違う。「うてあう」という言葉に対して「打て合う」というのでは、意味としてちょっと変である。剣道や碁であれば通じる話かもしれないが、そういう状況でないのにこの漢字が当てられるには、相手がこちらの意思を酌んでいない証拠なのではあるまいか。
 これは長崎弁というか、九州北部に共通する言葉のようだ。「うてあってくれない」とか「うてあってあげなさい」など、子供のころからよく言われていた気がする。子供のころだから、友達と仲良く遊びなさいという感じだろうか。子供同士だともう少し乱暴な言葉遣いになって、「かっちぇない」とかになるのかもしれないが、正確には忘れてしまった。
 かつて「離合」が方言だと知った時以来の衝撃度があるが、これってやっぱり九州以外では通じないのだろう。あんまり特殊な語感も無いし、九州以外の人でも普通に使いそうな雰囲気も持っている。もっともこちらがそう思っているだけのことで、そうではないという感じが何とも具合が悪いのである。「相手にしない」というよりも、ずっと口語として自然な感じもするし、いわゆる柔らかさがある。方言というのは、共通で使っている分には、そういう親しみも込めて柔らかさがあるものかもしれないが、「うてあう」には共通語っぽい語感のままそれがあるのである。違う事実が目の前にあって、いくら頑張ってもその事実を変えようが無いのだが、つくづく残念な感じがするのかもしれない。こういうのは、やっぱりわからない人には全然通じない感覚なのだろうけれど……。
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電車を間違いと思ってほしい

2023-11-13 | ことば

 僕の住んでいるまちのローカル線に、電車は走っていない。新幹線は走っているのでまったく電車が無い訳では無いが、新幹線のことをあえて電車という人は少数派であろう。しかしながらテレビか何かの影響なのか、このローカル線に乗ることを「電車にのる」という人が増えている。長崎市などで会合があると、僕の地元の人が「電車できた」などと言っている。長崎市の場合「ちんちん電車」もあるではないか、と心の中で思うが、あれはたぶん「チンチン電車」であって、「電車」とはたぶん乗ってきた汽車のことを指しているのであろう。明らかに考え違いだが、どうして電車と言いたいのだろうか。電車が走ってないまちで電車なんて言うのは、なんだか田舎臭いではないか。
 でもなんと、ちょっと前からこれが、必ずしも間違いとは言い切れない事態になってきた。それというのもハイブリット車両が登場し、ディーゼル車であることには変わりないが、蓄電し、電気と併用して走ることができるらしい。これは厳密に電車であるとはいえないと僕は思うのだけれど、完全なる汽車ともいえないかもしれない。でもなんと言っていいかわからないし、ハイブリット汽車というよりもハイブリット型車両というべきなのかもしれず、そんな長ったらしい呼び方で定着するはずもなく、間違ったまま電車と言ってしまっている人に対して、ちょっとだけ電車と言っても必ずしも間違いとはいえないよ、程度のインパクトをもつものなのかもしれない。なんだか複雑な心境にさせられるのだが、悪意のあるものではあるまい。環境に配慮しているなどと言うが、実際は重量が重くなり、山間部の多い場所ではかえって非効率とも聞くし、ある程度の格好つけというところであろうけれど、やっぱり列車で完全ハイブリット車両を作るというのは、あんがいにむつかしいことなのかもしれない。そういうことを鑑みて考えると、列車を作っている会社に比して自動車会社というのは、それなりにスゴイ技術力があるということなのだろう。
 ところで村上レディオで村上春樹さんが、記者会見のことを「汽車会見」だと長らく思っていたと語っていた。子供のころのことなんだろうけど、なんだか嘘っぽいな、ということはさておいて、汽車で会見を行うと、確かに面白さはあるとは思った。実際にやってしまうと、大して面白くもないのは確かそうではあっても、そんな風に一瞬考えてみると面白いという類になるのだろう。作家のウソ性という語りであるにせよ、そういうものから創作は進んでいくものなのかもしれない。
 ところで電車という呼び名だが、やっぱり今どき汽車は無いだろうという思いと、「列車に乗る」という語感も、ちょっとまどろっこしいものがあるためなのだろう。ましてやディーゼル車、なんて論外になってしまう。田舎は列車どころか単車で走っている場合なんかもあるのだから、なおさらである。島鉄なんかは絶対単車だろう。島鉄に乗っている人が電車と言っているとしたらかなりのお笑いだが、たぶん乗ることも無いので確かめようがない。あれは料金を下げるべきであろう。
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モクトとするは何とする

2023-10-20 | ことば

 「目途」という字は、メドと読んでもモクトと読んでもいいという。意味としてもだいたい同じようなものであるらしい。そうであるが、一般的には圧倒的にメドと読んでいる人が多いという話もある。一般的に言って、日本語の主に話し言葉としての語感として、ある一定の見通しをさして、めどが立つ、めどをつける等々、表現の慣用的な語感が浸透している。要するに日本語として自然だし、和語的な響きも良い。幾分の柔らかさも感じられるはずで、引っかかりも少ない。正しいとか正しくないという話ではなく、多数派としての自然さがあるということである。
 一方のモクトは、はっきり言って特殊な持って廻った、角ばって威圧的な感覚があるはずだ。そうしてこれはやはり特殊な用語で、行政や政治家が使うことが多い。いわゆる業界用語である疑いがある。要するにあえてこの言葉を使うことで、仕事をしてます、的な気分を醸し出したいのかもしれない。彼らは期日を区切って成果を出すことに、恐れを持っている人たちである。約束を果たすことは本来は良い事なのだが、彼らにとっては違う。約束を果たしたことで、さらなる批判を受ける可能性が排除できなくなるからである。そういう事であったはずであるという証明を、その時点でしなければならない。実に勇気のある行動なのかもしれない。だからこそ一定の成果を出すと決めている以上、そこは一定の理解をさらに求めるために、もしくは自らを再度鼓舞するために、その区切りを特段に強調したくなってしまうのかもしれない。それが実のところモクトなのではないかと思われる。聴きざわりが悪いし、一般の人には何か引っかかりのある言葉遣いである以上に、何かこれを知らなかったら罪悪感を醸し出しそうな威圧感さえある。モクトって読んでるけど、それってメドだよね、くらいは漢字を読まなくても何となく伝わる。伝わるからこそ、何かはぐらかされているような気分にもなる。ああ、説明しているのは行政(政治家)であるな。そうであれば、あてにはならないことをいっているのだろうか?
 ということで、モクトと言われる期限については、実はだいたいのそのあたりね、くらいであるらしい。ちゃんとメドをつける事とは別物であるらしい。そういう理解が実は正しい。これは読みの問題では無くて、彼らの逃げの気持ちの表れなのである。何かあっても実は知らんよ、いちおうはやってますからね強調音というものであることを、理解すべきであろう。
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「アレ」は唐突である

2023-09-18 | ことば

 阪神の「アレ」っというのがあった。新聞で、阪神の優勝とともに書いてあった。僕はもし関心があったとしても二の次にしているスポーツという分野において(※理由はここでは述べない)、しかし毎日、新聞は目は通しているのである。これまでも認知してあった可能性はあるし(つまり見落としていた)、要するにすべては自分の責任にあるとしても、本当に「アレ」っと思ってしまったわけだ(要するにシャレです。すいません)。
 いろいろ調べてみると、「アレ」というのは優勝を指す言葉であるらしいし、省略した言葉の造語であるらしい。そういうことはググってもらうか、そもそも知っている人がいるだろうことを考えると、これまた省略するのだけど、そういう言葉が現実味を帯びてきた後に爆発的に「アレ」になって定着したのかもしれない。まったく恐れ入ったが、しかし、現実感としては、まったく異次元になってしまって、もうどうでもいい。
 阪神の優勝という象徴的な出来事は、つまりそういう物事も含めて盛り上がる。今では何でもかんでも主流派の象徴である「巨人」一強ではない。そのアンチというか、一方の返答が阪神という図式にあって、さらに地域性も含めているのがおもしろかったのであるけれど、今の時代にはそういう図式はまったく成り立たないと思われる。ネット社会ではしきりにバースや掛布を持ち出して再来観のようなものを作ろうとする圧力もあるのだが、それは一種のノスタルジーであって、共感の強い輪にはなっていない感じもする。歴史も大事だが、たぶん過去の栄光の感じと、今のそれとはまったく別の感慨があるのではないだろうか。なぜこれほど今年の阪神が強いのかは、分析結果が嫌というほどこれからあふれるだろうにせよ、こうなってしまったのだからもうそれはそれでいいというのが阪神ファンの本音だろう。これからもあるにせよ、こんなにすんなり喜びを表していいなんて、奇跡といわずなんと言おう。贅沢な不満を言うのであれば、凄すぎてあっけなかったということかもしれない。
 ということで、アレは分かったが、正直言ってあんまりかっこよくない印象も受ける。それは僕が外野であって、知らなかっただけであることもあるんだろうけど、喜びが漏れ伝わってきて共感を得ようとするときに、かなりの妨害感があった。そういうのが、本流でないことの、いわば傍流感の悲しさのような気もするのだった。
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