立場上、面接は時々する。身も蓋も無いことを言ってしまうと、短時間でその人となりが簡単に分かるはずもない。さらに僕がそのように人を見定める能力に長けているとは到底思えない。自分の判断力を信用できるほど、僕の能力は高くない。そういう人間が人を判断しなくてはならないのは、僕にとっても、そうして受ける側にとっても、お互いにそれなりに悲劇だと思うが、そういう滑稽なところこそが人生の醍醐味というべきところだろう。
さて、どういう人なら実際にはOKかということを聞かれることがある。何というか、これが上手く答えづらい。人というのはそれなりに多様だし、僕にも一貫性があるわけではない。もちろん最初からダメだなというのはあるけれど、時間がもったいないようでありながら、少しの期待をもって臨むしかないとは思っている。中にはひどく緊張するなどして、思わぬことを口走ってしまうような人がいないではないが、それはそれで特に失点ということは考えていない。ちなみに面接の時間だけその人を見ている訳でもないのは言うまでもない。こちらが考えているのは、全体として、いわゆる同僚(厳密には同僚ではないかもしれないが)としてここで勤めることにふさわしいかどうか、ということなんである。
面接をすると職場の見学をしてもらう。それで僕以外の人との、いわゆる当たりを見ている。僕だけに良い人というのがたまにいて、そういうことを後で尋ねる。皆が面接官である。もちろん、それでどうこうということはあんまり無い。見ている人も、自分の印象を判断材料にされたくない(だからあいまい)というのはあるかもしれない。
父の時代に、給与がいらないから働かせてくれ、と言ってくる人がいた。まあ、そこまで言うなら、ということで採用したが、数か月後に結局辞めたいと言ってきた。理由を聞くと、給与が少ない、ということだったという。
笑い話だが、しかしこれは結構参考にしている。要するに非常識なことは警戒する。極端なことを言う人は、どこか極端に偏っているのかもしれない。それでもいい場合もあるが、多くはやはり後で困る。
素晴らしい仕事だから勤めたいとか、祖母の世話をするうちに仕事にしたいと思ったとか、そういうことを言う人は結構多い。何かマニュアルでもあるのかもしれない。また、テレビの話題のような、通り一辺倒な常識の人というのがいて、これもたいがい自分で物事を考えていない。多少間違ったことを言う人でも、自分で考えて間違った人なら面白いから採用しようかな、と思う。思うけど実際がどうなのかは、ちょっと秘密です。