カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

自分で考えているか、は重要だと思う

2016-06-30 | 境界線

 立場上、面接は時々する。身も蓋も無いことを言ってしまうと、短時間でその人となりが簡単に分かるはずもない。さらに僕がそのように人を見定める能力に長けているとは到底思えない。自分の判断力を信用できるほど、僕の能力は高くない。そういう人間が人を判断しなくてはならないのは、僕にとっても、そうして受ける側にとっても、お互いにそれなりに悲劇だと思うが、そういう滑稽なところこそが人生の醍醐味というべきところだろう。
 さて、どういう人なら実際にはOKかということを聞かれることがある。何というか、これが上手く答えづらい。人というのはそれなりに多様だし、僕にも一貫性があるわけではない。もちろん最初からダメだなというのはあるけれど、時間がもったいないようでありながら、少しの期待をもって臨むしかないとは思っている。中にはひどく緊張するなどして、思わぬことを口走ってしまうような人がいないではないが、それはそれで特に失点ということは考えていない。ちなみに面接の時間だけその人を見ている訳でもないのは言うまでもない。こちらが考えているのは、全体として、いわゆる同僚(厳密には同僚ではないかもしれないが)としてここで勤めることにふさわしいかどうか、ということなんである。
 面接をすると職場の見学をしてもらう。それで僕以外の人との、いわゆる当たりを見ている。僕だけに良い人というのがたまにいて、そういうことを後で尋ねる。皆が面接官である。もちろん、それでどうこうということはあんまり無い。見ている人も、自分の印象を判断材料にされたくない(だからあいまい)というのはあるかもしれない。
 父の時代に、給与がいらないから働かせてくれ、と言ってくる人がいた。まあ、そこまで言うなら、ということで採用したが、数か月後に結局辞めたいと言ってきた。理由を聞くと、給与が少ない、ということだったという。
 笑い話だが、しかしこれは結構参考にしている。要するに非常識なことは警戒する。極端なことを言う人は、どこか極端に偏っているのかもしれない。それでもいい場合もあるが、多くはやはり後で困る。
 素晴らしい仕事だから勤めたいとか、祖母の世話をするうちに仕事にしたいと思ったとか、そういうことを言う人は結構多い。何かマニュアルでもあるのかもしれない。また、テレビの話題のような、通り一辺倒な常識の人というのがいて、これもたいがい自分で物事を考えていない。多少間違ったことを言う人でも、自分で考えて間違った人なら面白いから採用しようかな、と思う。思うけど実際がどうなのかは、ちょっと秘密です。
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誰でもできるようになる本当の勉強法  使える語学力

2016-06-29 | 読書

使える語学力/橋本陽介著(祥伝社新書)

 副題が「7カ国語をモノにした実践法」。同じ著者に「7カ国語をモノにした人の勉強法」というのがあって、恐らくその続編という捉え方でいいだろう。記録を見ると前著も読んでいるようだ。
 著者の体験的な勉強法であるが、合理的だし、実際に王道であると思う。しかし多くの言葉の出来ない人は、だからこそこの著者のやり方でない勉強をしていることを理解するはずだ。著者は学校の先生だが、しかし学校教育で勉強して言葉の習得は不可能だろうとも言い切っている。要するにモノにする勉強法とはかけ離れている為である。
 耳の痛い話として、言葉の習得への読者の期待の多くは、ダイエットに求めるものと似ているという指摘だ。ダイエットが成功する方法は、実は多くの人は既に知っているはずなのだ。しかしそのような王道では無く、食べながらであるとか、楽にであるとか、王道とはかけ離れたテクニックがあるものだと多くの人は幻想を抱いている。わざわざ不成功の道を選んでいるのだから、達成できないだけのことなのだ。言葉においても同じであって、長い時間必死に勉強したという人もいるかもしれないが、それは本当のことかと問うている。やり方が間違っていたというのはあるが、実際に必死にやった程度によっては、それはそれなりにできるようになったはずなのだ。言葉が出来るようになった人は間違いなく、それなりに必死にやった人限定なのだ。王道から逃げず、音声を大切にして、その国の言葉の感覚を掴み、自分なりに応用して組み立てることをすると、誰でも言葉はおそらく習得できるものなのだろう。しかし日本人の多くは、実際には日本語以外に必要なわけでもないし、必死になって勉強する人など少ないという事実があるだけのことで、だから使える語学力を身につけられないだけのことなのだ。当たり前のことが書いてあるのは、そういうことだ。
 でもそういう絶望の話が書いてあるわけではない。簡単な話ではないにせよ、その王道的な勉強の仕方は、学校の勉強の仕方と違うだけのことで、要するに面白くない勉強ではないということにも気づかされるのだ。この勉強法は楽しいだけでなく、着実に身に付く。ちょっと意識を変えてみるだけで、実は僕は少しだけこの本を読んでいる間、いくつかの言い回しを覚えて、使える感覚を、少しだが同時に覚えた。まさに目からうろこで、感動的である。なるほどこんな感じというのは、昔ちょっとだけ中国語をかじった時にも、何回か覚えた記憶がある。そうしてそういう感覚で覚えた言葉は、現在でも忘れずに使える筈なのである。言葉って本当に面白いものだ。
 また言葉について、特に日本の教育の英語偏重についての苦言も書かれている。言葉といえばまず英語だというのは、かなり大上段に間違いである。だからこそこの著者は結果的に7カ国語(この数え方についても解説がある)使えるようになったかもしれないのだが(もちろん英語を含めて)。
 外国語を学ぶことで日本語が出来なくなるというのは幻想だ。むしろ日本語の理解も深まることだろう。世の中に蔓延する偏見もバッサリ切って爽快で、読むか読まないかで人生が変わる可能性の高い入門書である。多くの人が読んでしまったら、自分の優位性が揺らぐので、理解できない人には薦めない。偏見のある世の中で、自由に生きる人間になろう。
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平均値との闘い

2016-06-28 | 掲示板

 年度末に車の調子がなんとなくおかしくなって、オイル漏れなどで自分の駐車スペースの後に跡がくっきり残ったりなんかして不快だったので、諦めて買い替えた。通勤用なので、もちろん中古の軽である。でもまあ今までいつもアクセルを底まで踏んで坂道をのぼってたんで、地味ながらターボ車にした(結構贅沢だ)。日産だが相手先ブランドで、スズキの、というやつである。なかなか可愛い。びゅんびゅん走るのですぐに愛おしくなってしまった。周囲に気をつけねば。
 この新しい車はデジタルで燃費が表示される。これが最初は平均燃費が12.1㎞だった。まあ、そんなもんかね。と思ってたんだけど、一週間くらいするといつの間にか12.2、12.3となんとなく平均値が伸びている。給油は週に1回程度。給油での燃費の計算上は15㎞平均くらいなんじゃないかろうか。5万キロに満たない距離を前オーナーは走っており、車内は大人しい感じだから、たぶん女性と思われるが、燃費はあんまり良くない走りだったようだ。何しろ僕は構わずびゅんびゅん走っているのだから、その燃費より悪いなんてどうかしているんじゃないか。
 ここだけの話だが、カーナビには昔の走行の記録が残っていて、いちおう消去されてはいたけど、携帯電話の登録の跡があって、富の原あたりにお住まいの人らしいことまではなんとなくわかった。坂道の少ない場所だから、やはりアクセルワークに癖のある人だったのかもしれない。ひょっとすると彼氏というのが飛ばし屋のヤンキーだったか。まあ、勝手な想像に過ぎないですけど。
 以前にプリウスに乗り換えたという人が話していたけど、ガソリン車に比べると、断然に燃費が良くなって、燃費マニアになって、いろいろ距離を測ってその距離の燃費を記録に付けるなどして楽しいということを言っていた。なるほどそんなもんかね、と思ったものだったが、まあ、そんな感じで燃費の距離表示が伸びるのは、それなりの快感であることは理解できた。高速道路などを運転すると、また燃費が伸びている。ついには13㎞を越え、その後ひと月くらいで、また徐々に記録を伸ばし、とうとう平均14㎞を越えてしまった。実際の燃費はやはり15㎞くらいだろうから、それくらいの差でも平均だからならされていくということなんだろう。面白いものだ。
 しかしながら、表示の変化はかなり鈍化した。これが平均値の終りなのか、という不安もある。さらに、それから反転して平均値が逆に下がるようなことになると、残念な感じだ。気が付くとあんがい以前より安全運転になっているかもしれない。平均欲求は交通安全には良いことかもしれない。

追伸: 現在は14.8キロまで平均値は伸びた。たまに14.7キロに戻ることがあるようで、これが実質上の最高平均値かもしれない。
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サスペンスとバイオレンスとどんでん返してんこ盛り   アイディンティティ

2016-06-27 | 映画

アイディンティティ/ジェームズ・マンゴールド監督

 豪雨の中、交通事故で出血多量の妻を伴った男が助けを求めにモーテルに駆け込んでくる。雨の所為で道路は分断され、何故か電話などの電波も使えない状態。様々な問題を抱えた泊り客が集まり、次々に人が死んでいくことになるのだが…。
 ちょっとネタバレになるのだが、どうして題名がアイディンティティなのか、ということも途中で思い出すことになる。最初は安っぽいサスペンスものかと思っていたのだが、段々と事情が妙な具合に展開されていく。そうしてこれはちょっとあり得ない、と思えるところでお話は急展開して意外などんでん返しの連続となる。まさに連続するひっくり返り方が見事で、そういう考え方があるなんてちょっと反則かもしれないとさえ感じた。面白いですけど。
 一人一人にそれぞれに意外な事実が隠されているところが最初は面白いわけだが、それが絡んで人が実際に死ぬようなことになってくると、誰が主人公なのかさえ不明瞭になる。生き残りゲームなのかというとそうでもない、というところがまたびっくりさせられるわけで、物語の作りの重層的なところは、やはり見事というしかないかもしれない。ちょっと舞台劇のような演技の雰囲気はあるものの、考えてみるとモーテル内の出来事がほとんどだから、実際に舞台としての脚本があるのかもしれない。
 ちょっと古くなった映画だし、往年のスターめいた人たちの演技合戦というのがあって、これは予算の都合があるのか、かえって少し安っぽいが、そういうことも、映画の味になっている。まあ、そう感じる人が映画を製作したということなんだろうけど。
 最終的には法制度についても考えさせられるが、実際のところこのような配慮をするような時代は、すでに終わっているとは思う。まあ、架空の話なんだからそれを言うと野暮かもしれないですけど…。
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冷めてもうまいのが弁当の筈だが、今や温かいのが当たり前

2016-06-26 | culture

 弁当の話で思い出したが、何故海外諸国の人々が日本のお弁当を少し違った位置で捉えているのか、ということの大きな問題に、彼らの多くは、そもそも昼飯は温かいものを食う、ということがあるのだという。学校なら給食ということもあるだろうが、社会人ならもっぱら外食で温かいものをたのむということだろうか。中には昼休みが長くて、自宅に帰って食べるというのも聞くところだ。昼寝文化のあるところなんかは飯食った上に寝てくる時間もあったりするらしい。よその国の時間というのは日本とはまた違う可能性もあるかもしれない(ウソ)。
 しかしながら学校のような極端に集団になってしまうところ以外でお弁当を食べるというとき、現在ではほとんどの職場に電子レンジがあるだろうから、冷めたまま食べるというのは、それなりに少ないのではないか。僕の住んでいるところは田舎まちなので、路上に止めた車の中や、路肩で弁当を食っている労働者が結構いる。保温機能の付いた味噌汁までついた円筒形のデカい弁当を食っている人も結構いる。コンビニの広い駐車場で、買ったものも含めて、昼ごろには結構車の中で食べている人は多いものだ。車という個室で食事をする人というのはそれなりに多くなっているのではなかろうか。
 また時折会議などでオフィス街で昼を迎えることもある。僕はたいてい散歩をするが、ちょっとした空地や、川沿いの道にベンチなどがあると、結構な人たちが弁当を食べている。昼休みのランチの店などもあるんだろうが、それなりに時間に追われるという感覚も分からないではない。外に出る解放感もあるだろうし、貴重な空き地はテリトリーの奪い合いのあるところかもしれない。
 家から弁当を持ってこない人でも、昼は弁当という人は多いかもしれない。今は圧倒的にコンビニだろうけど、やはり温かい弁当といえばホカ弁であろう。僕が中学生くらいの時に急激に普及して、大手はもちろん、さまざまな弁当屋が乱立した。多少淘汰されたようなきらいはあるが、それこそ夜の居酒屋などがメインの店など、ランチでなく弁当を売っているようなところもけっこうみられるようになった。出張で知らない街を歩いていても、そういう弁当売りから声を掛けられたりする。前日の残り物なんかを加工するのかどうだか知らないけれど、少しでも売り上げのためにしのぎを削っている感じで、たくましい楽しさを感じるものだ。
 人間が三食、特に昼に飯を食うようになったのは、そんなに歴史のあることでは無いという。もちろん食う人は食ったかもしれないが、むしろ習慣的に三食食うのは限られた人であったという。それはそうかもしれないが、こと日本においては、昼飯を食うことは、むしろ当然視されている。僕は時々昼飯は抜いているのだけれど、持っていないのにご飯をくれる人は結構いる。弁当の余りが回ってくるときもあるし、何かおすそ分けでさらに食材が乗ったものが回ってきたりする。気を遣わせてしまうということもあろうが、誘惑はあちこちにあるし、容易に飢えることは難しい。弁当は、ある程度の食べる人の人数を予想して作られているはずであるが、相対的に食べる人以上に作られてしまう宿命にあるものかもしれない。飽食の時代だからこそ、弁当文化が過剰に花開くということになってしまうのかもしれない。
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派手に不快で素直にカタルシス娯楽作品   ジャンゴ 繋がれざる者

2016-06-25 | 映画

ジャンゴ 繋がれざる者/クエンティン・タランティーノ監督

 西部劇で黒人がヒーローになっている復讐娯楽劇。米国南部で、まだ黒人が奴隷として扱われている時代に、ドイツから来た賞金稼ぎの男から救い出された黒人の青年が、銃の腕も上げて賞金稼ぎを手伝いながら復讐もやり、そうして別の農場主の奴隷にされている元妻を救い出そうとするストーリーだ。
 いろいろと設定自体に冒険があるだけでなく、タランティーノ作品らしい過剰な暴力描写が売りのアクション作品になっている。差別的な描写や、人を陥れる手口や、また、人情を逆なでする不快な暴力が延々と続いていく。もちろんだから主人公が復讐を残酷に果たしていくことにカタルシスがある、妙な勧善懲悪作品になっている。素直に楽しんでも何の問題も無いが、何もかも過剰で行き過ぎで、そうしてかなり変な笑いが混ざっていて、面白いんだが困惑してしまう。ヤクザな人たちが悪ぶって嫌な感じの笑いが笑えない作品ばかりを撮ってきた監督だということを承知しているとはいえ、そうしてまあ、そうはいっても、後で激しいドンパチがあるんだろうことも了解しているのだけれど、この不快な場面を見せ続けられる身としては、いささか気分の悪くなりすぎるきらいはある。ディカプリオの演技も素晴らしく不快だし、サミュエル・L・ジャクソンはずっこけるくらいぶっ飛んでいる。いくらカタルシスがあると言っても、こんな世界で自由になっても、何の面白さも無いような気分になることもあるかもしれない。
 まあおそらく、そのように困惑しながらもそれなりに楽しみ、やっぱり本当はよく分かっていないかもしれない観客を見て楽しむような趣味がタランティーノにはあるに違いなくて、そういう意味ではなかなか良くできた作品だと言えるだろう。決して好きな作品ではないが、やっぱり悪くない作品なのだ。分かっているとはいえ、してやられたわけだし、マザーファッカーな科白の数々に、少なからぬ喝采を送ってしまった。まったく人でなしになってしまったものである。こんな映画でも楽しめてしまうくらい人間というのはくだらない。そうしてだからこそ、映画を明日も見ようという気分にさせられてしまうのであろう。
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お弁当と自由

2016-06-24 | culture

 外国人に対して、日本の弁当箱が売れているというのをテレビでやっていた。日本の弁当箱を海外(その人がフランス人なので、最初はフランスから)に紹介して評判を呼び、それが広まりを見せて(面白がられて)、逆輸入ではないが、日本でもそれらのお弁当箱がまた売れるような現象が起きているらしい。もともと日本では学校生活を通して一定のお弁当需要がありそうで、さらにそれが面白がられてそれなりのブームのようなことになっているのだろうか。
 もちろん外国にもランチボックスという言葉があるように、お弁当文化そのものが無いということでは無いだろう。しかしながら日本の弁当とは多少というか、そもそもかなり違うということのようだ。弁当の中身が調理されたもので無かったり、例えば林檎とかバナナをそのまま持っていくようなランチもある。パンの人もいるだろうし、まあ、手軽に何か食べ物を運んでいるだけだということも多いのかもしれない。
 実際にお弁当箱も人気なのだが、やはり日本のお弁当そのものの装いが(要するに内容が)驚きをもってウケているという感じもある。手が込みすぎてかえって敬遠する向きもあろうが、基本的には小さな箱の中に、さまざまなおかずが色とりどりにこまごまと入っているミクロの美しさが、国外の人たちを魅了するということかもしれない。真似して自分たちでも作ってみるような人も多いようだが、日本のように毎日のこととしては、やはり同じではないような感じだった。日本の主にお母さん方が、かなり早起きして毎日作っているお弁当文化というものに、それなりのインパクトがあるようである。語られてはいなかったが、ブラック企業は糾弾されても、このような愛情(労働)には、ある程度の畏敬の念があるのだろう。
 それは当然のことと僕も思うが、やはりそのような見た目を気にする文化というのは、本当には分かりえてないのではないかとは思う。戦争中に芋やカボチャしかなかった(もしくはそれすらない)という人は、弁当のつつみで中を隠して食べたという話はよく聞いたものだ。貧しいのはお互い様だろうに、そのような見た目の悪さのようなものを気にする日本人というのは、同じ日本人の僕からしても、ちょっと不思議な感じもする。しかしながら現代的な視点もやはりそこには隠れており、要するに弁当の中身は、ある程度人にも見られて良い公共の個人空間であることを暗に我々に伝えている。だからこそ、日本のお弁当は見た目にも美しく、それなりにいろどりが鮮やかになるということだろう。
 弁当のもとはどんなだったかというのは、当たり前だが出た先で食べるものが無いような状態が予想されるときに、持参した食べ物を包んだものだろう。木の皮や葉などにくるんだ握り飯のようなものが多かったと思われる。その後今は茶の湯などでしか残っていないが、面桶(めんつ、めんつう)という曲げわっぱの原型のようなものを、まさに食べ物の入れ物として使い出して、これをメントウと呼び、転じてベントウと呼ぶようになり、さらに字を弁当と当てたのだという。まったく面倒な変遷だが、やはりそれなりに古いということかもしれない。
 そのような弁当の中に入っていただろう握り飯の具には、今のような梅干しが最初からだった訳ではないという。梅干しは種を捨ててくるとキツネに憑かれるという迷信や、海に出る漁師は種を捨てると転覆するなどと言われたそうで、むしろ嫌われたらしい。だからつくだ煮や漬物のようなものや、そもそも塩だけということが多かったようだ。それがだんだんといろいろなものが入れられるようになるのだが、それはまた野外の花見などの宴会でお重を持っていくような遊びのようなものを庶民が真似しだすようなことがそれなりに無いと、現在のようには変化しなかったのではなかろうか。やはり内容の方も歴史ありなのだ。
 そういう変遷を経て、時代が下り、恐らく近代から現代へとの変わり目で大きな変化があり、現代においても直近の現在に、大きくお弁当の変革があったのではあるまいか。
 それは多少僕自身の無頓着があるとは思うが、僕の子供の頃のお弁当を考えると、運動会ならいざ知らず、日常のお弁当に、特に派手さは無かったようにも思う。まだ冷凍食品というのは一般的でなかったから、餃子とか前の晩の残り物がそれなりに主流のような気もする。もちろん玉子焼きというのはあったけど、そもそも僕はあまり好きでは無かったから(でも食べるけど)あんまり作ってもらってないようにも思う。お弁当箱の形状にもよるだろうけれど、汁っけの少ない焼いたり炒めたりした具に漬物や海苔なんかが入って、僕は男だからご飯がぎゅうぎゅうに詰まっていて、そうして弁当以外にもパンを捕食で食べるような毎日だったように思う。そうして学校帰りには買い食いして帰るのである。
 お袋は昭和ヒトケタの人だから、肉よりフライや焼いた魚が結構多かったのではなかろうか。その所為か、僕はいまだに昼に魚だと妙にホッとする。少なくとも、小学生の頃の給食から中学生のお弁当に変化した解放感というのが大きくて、もうあんな軍隊みたいな集団生活の飯を食わなくて良くて(でも馬鹿みたいにおかわりして食ったものだけれど)、自分の自由なご飯を母が作ってくれるというのはしあわせだった。そう、僕にとって弁当というのは、少し大人になれたことで自由を獲得したイメージと重なっているのかもしれない。
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痛快で楽しく傑作   駈込み女と駆出し男

2016-06-23 | 映画

駈込み女と駆出し男/原田眞人監督

 井上ひさしの原案の作品があるらしい。科白回しに確かに井上風のうんちくがあって、そういうところも確かに面白い。しかしそれ以上に、映画の映像としてかなりの水準の映画ではないかと思った。オープニングからのカメラの流れと映像の美しさは、本当にアッと引き込まれる感覚があった。そのまま身を任せて映画を観たらいいだけで、内容も締った素晴らしい娯楽作に仕上がっている。
 江戸時代の離縁がどれほど難しかったかという話は、実は知らない。この映画のように大変な困難があったというような話もあるし、逆に三行半の文章を夫を脅して書かせる(自分の自由のために)女もそれなりに居たという記述も読んだ記憶がある。現代の庶民とは違うが、あんがい夫婦という関係は緩やかだったという話もあるし、しかしながら武士の世界ではやはり難しかったのだ、というのもある。とりあえずは映画的な世界観で解釈するなら、大変に困難な世界だったという前提は必要だろう。まるでイスラム原理主義の人身売買の世界である。命からがら逃げのびて寺に保護されるなら良いが、前の段階で残酷物語のように飼い殺しされる女たちというのは、居たのかもしれない。駆け込み寺というのは確かにあったらしいから、やはり地獄世界から逃げた女も当然いたと考える方が自然ではあろう。
 夫次第では、そのように地獄のような妻の地位というのがあって、駆け込み寺が無ければ、自害するより自由になる道は無いという絶望があったのだろう。しかしながら、たとえ逃げてきたとしても、そんなに簡単には自由にはなれなかったり、寺の中での待遇が金次第だったりするというのも面白い感じだった。映画ではそこに若い医者が頓智をきかせて対処していく姿を中心に描かれていく。残酷な背景にありながら、多くは基本的にコメディになっていて、その掛け合いのような楽しいエピソードの連続があって、全体的には暗いトーンになっている訳ではない。しかしながら一定の緊張感が持続しているのは確かで、最終的には、やはりそれなりに血が流れる。悪い男たちが全部バタバタと反撃を食らうようだとさらに痛快だろうが、それなりに自制も効いているように思えた。娯楽作だが、そういうところがそれなりにリアルでもあり、そうして見応えにもなっていた。現代人には既に分かりづらい世の中でありながら、最低限は現代人だからこそ考えさせられる物語になっている。やはり強い女あってこそ、人のしあわせというのがあるようにも感じた。情に流されない浪花節の少ないところも大変に良かった。
 チャンバラ以外の時代劇で、これだけ面白い映画が作られた。この収穫は、映画界にとっても大変に意義深く大きなことだったのではないだろうか。
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現代人は、やはり今を生きるより無いのではないか

2016-06-22 | culture

 ISなどのイスラム原理主義とイスラム教とは別のものだとする議論がある。それはその通りだと僕自身は考えており、同じだとするには少し乱暴な感じさえしていた。同じくキリスト教にも原理主義的な人々はいるだろうし、仏教だって、例えばオウム真理教を知っている僕らからすると、あれが同じ仏教だと言われると、なんだか違うようだな、というような感覚は理解できるはずである。要するに距離感で理解が出来ないだけではないか。
 しかしながら、イスラム原理主義はイスラム教であることは間違いなさそうで、要するにイスラム教の中に含まれる狂気があるとする考え方というのがあるのだと思う。それは論理的にはその通りで、イスラム教徒の側にも、イスラム原理主義に対する批判があって当然で、その説明のような事を自らすべきではないかという思いはある。原理主義ではないイスラム教であっても、西側からすると、それなりにオカシイような感覚が全体的にあるからだろうと思われる。
 個人の宗教は自由であるし、ある程度の寛容の中で共存は可能なはずだが、それはお互いに侵食しない部分を残し、さらに暴力で解決しないというような最低限のつきあいができている前提が必要な感じだ。共通なもので交わりが不可能なら、やはりいつまでも対立するより仕方がない。あちら側の社会にこちらの人が行くときは、ある程度の風習を踏襲すべきだし、だからこそこちら側に来るなら、同じように踏襲すべき譲歩の態度がイスラムの側にも必要なのではないか。豚肉を食わないくらいは別にかまわないが、僕らが食っていることを非難されたくない。しかし目の前で食われると侮辱を感じるというのなら、何か別の食事方法を考えるより仕方ないのかもしれない。それはお互いに事前に勉強をするようなことを必要とはするのだろう。
 そのような前提が無いままだと、イスラム教の中に原理主義者がどうしても含まれてしまうということが払拭できない。区別できないものを、どのように理解したらいいのか、という声には、やはり説明し続けるより仕方がないのである。
 それにしても原理主義というのは厄介で、原理主義の側は、実は本家本元(少なくとも本人らはそう思っているということで)であるという優位性を持っているらしいことがある。何しろ出発点に戻って物事を解釈して、現代社会で無謀なことをしているからである。同じイスラム教の堕落した連中をも標的にして、外側を敵視して自分を守っている。危なっかしい面を除けば滑稽なのだが、その姿を映す鏡が彼等には見えないのである。
 彼ら的には正しいというのは、それは二千年という時間をさかのぼるから可能なことであるということになる。人間個人は二千年も生きられないから、やはりちょっと遡りすぎたということなのではないか。同じ日本人であっても、高々100年程度前の常識は現代日本では通用しないことも多いのではないか。多少理解できることもあろうけれど、一緒に暮らすには幾分の支障もあるだろう。二百年もさかのぼると、これはもうお互いに血を見るような光景が広がるような気もする。人間のスケールからすると、その程度で既に致命的に危ないのである。
 根本的に正しいものにさかのぼってしまうと、いや、遡りすぎてしまうと、歴史のあるものほど危険であるということになる。ある程度の折り合いというのは、昔の人からすると、率直に危険な暴力行為に見えるということかもしれない。
 しかし個人は現在でなければ生きられない。原理主義者はまず、時計を見る習慣をもってもらう必要がありそうである。
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人間は死んでも人間らしい  日本発狂

2016-06-21 | 読書

日本発狂/手塚治虫著(大都社)

 死後の世界と難民問題と恋愛の物語。そういうものがごちゃごちゃしており、特に後半は手塚作品にしてはそんなことで良かったのか、ちょっとまとまりに欠ける作品かもしれない。しかしながら死後の世界観と現世の都合と、幽霊が大量にやってくると迷惑になるという現実的な難民問題を考える材料にはなるだろう。現世世界に見られるUFOの謎や、パラレルワールド、幽体離脱や幽霊に足が何故無いのかなど、この漫画なりの回答があるのも面白い。そんなわけないとは思うけど、漫画なりに説明がついてしまう。手塚の想像力のたくましさに影響を受けた人は、それなりに多いのではなかろうか。
 しかしながら基本的に死後の世界観というのは、仏教などに影響を受けていると考えられる。死後肉体を離れた霊魂とその人たちが住む世界があって、その世界で死ぬと、今度は現世で生まれ変わる。民話的仏教観では生まれ変わりが必ずしも人間とは限らないが(だから虫などの殺生を嫌うことになる。その虫は、自分の親戚などの生まれ変わりかもしれないのだから)、この漫画では人間は同じ人間として生まれ変わるようだ。それはこの物語のロマンチックなオチにも通じているからだが、そのために死後の世界の人手不足は現世の人々を事故などで殺して補われるし、死後の世界でたくさん人の霊魂が死ぬと、現世でベビーブームが起こるという仕組みらしい。死後に霊魂が消滅するということもあるらしいので、そうすると絶対数を補う仕組みが必要な気もするし、人間の歴史から考えた人口増ということとも矛盾を感じないではないが、一時の瞬間的歴史の断片としての理屈と考えるより無いかもしれない。
 良く考えるといろいろ矛盾は見つかるが、それがSF作品ということでもある。さらにこの漫画の連載が高1を対象とする学習雑誌だったということらしく、若い高校生が楽しめる内容としてオカルトと恋愛を絡めたものにしたのかもしれない。しかし手塚独特の冷めたヒューマニズムもあるし、バタバタ活劇もあるし、人間ならではの苦悩や社会批判もみられる。それらのてんこ盛り加減のバランスが必ずしも良くないにせよ、逆に見ると、手塚作品らしい手法がいろいろ詰まった物語になっているとも思われる。死後の世界の戦争の意味というのはよく分からないのだが、それは人間の本性として断ち切ることのできない性(さが)として悲しさのようなものなのであろう。
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かな書きを多くしたい

2016-06-20 | ことば

 読めはするけど、書いてあるとなんとなくギョッとするというか、まあそうなんだけど、ひらがなの方がいいなと思う言葉はけっこう多い。ふだんの会話では普通に使うから違和感が無いのだけれど、文章にすると、あれっという感じだろうか。
 こういうのはだいたい和語が多くて、漢字をあてている為に起こる。漢字を知らなくても流れで読める場合もあるけれど、親切な人ならひらがなで書くべきところかもしれない。そんなところで文章に引っかかって読まれたくない。しかし意味としては重要だから読んでもらいたい。ちょっとした学の深い人ならそのような配慮をするようなことをやるかもしれない。
 苛め(虐め)なんかも、いじめの方がいいと思う。近年の社会問題化の影響か、頻繁に出るので読めるけれど、問題視しているならかなの方が親切だろう。
 拘るなんてのも、ひらがなでこだわって書いた方がいい。いや、すぐれた人間としてはこだわりを捨てるべきなのだが、人間が未熟だからこそこだわりが捨てられない訳で、拘って使うとかえって妙である。
 先日「身を窶す(やつす)」というのを見て、ははあ、やはり変換されてしまったか、と思った。読めるけどやっぱり不親切な感じは痛いかもしれない。漢字を知っているのなら、あえて使わずさらりと書いた方が、なんとなく立派な感じがする。
 誰でも使うからいいじゃないかという人もいるかもしれないが、当て字の類は語源的なものがある。「土産」などがそうで、どさん(または、とさん)という言葉もあるが、その土地のものを持ち帰ったりしたので「みやげ(これの語源はググってみてください。諸説あり)」の言葉をあてたのだろう。両方の意味が分かって便利だが、「みやげ」とひらがなで書いた方が、かえって温かみがあったりする。まあ、これは感覚かな。
 そういいながら、その人の癖というようなこともある。僕は手書きの頃は「やたら」は漢字で矢鱈と書いていた。「誰かの所為(せい)で」などもそうで、たぶんひらがなだと、引っかかりが少なすぎる感じがするからかもしれない。それに恐らく漱石などを読んだ後に、それらの当て字の多さに感化された可能性もある。昔はけっこう辞書を引きながら根気よく本を読んだものである。特に当て字は難儀したから、かえって覚えたのかもしれない。(※そういえば漱石には「硝子戸の中」という作品があって、たぶんこれは中をウチと読むはずである。そういえば流行歌などで「太陽の下」を下(した)と発音するものが多くてギョッとする。以前なら普通ならに下(もと)の方が自然だったよな。)
 「流石(さすが)」などはワープロになってからひらがなに変えることが多くなった。ちょっとかっこつけすぎかな、という遠慮があるのかもしれない。語源が面白いのでググってみてください。
 流行り(はやり)はそのまま使っている。また上手く(うまく)もそのまま。流行りは意味が伝わりやすいという考えがあるのだろう。上手くと書くのは「旨い(美味い)」という音が似て違う単語との区別の意識があるかもしれない。
 こういうのは振り仮名をふってもいいかなとは考えることがあるが、まあ、読めないことも無かろう、とタカをくくってしまう。こういうのは僕自身が学のない悲しさも含まれているのかもしれない。人間というのは知らず知らずのうちにコンプレックスがあらわれる。漢字ばかりの文章を書いている人を見るとそのように感じるので、逆にそのように感じられる場合があるというのは、考えてみてもいいだろう。まあ、無意識ならそれも気にしないのだからいいのだけれど。
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低予算でも頑張って撮りました的な映画   消された暗号-BLICK-ブリック

2016-06-19 | 映画

消された暗号-BLICK-ブリック/ライアン・ジョンソン監督

 学生が撮ったような映画。良くできているが、メジャー作品ではないのだろう。観方によると、そういうチープなところも作品の味にはなっていて、例えば麻薬の黒幕の家に行くと、そのお母さんからジュースとクッキーをもらったりする場面があったりする。ジョークではあろうけれど、それは高校生としてのリアルであろうし、それが麻薬組織の親玉の日常であるという恐怖感もあるわけだ。
 お話としては付き合っている彼女が死んでいて、その謎を追う一匹狼的な主人公のニヒルなハードボイルド的な謎解きミステリを軸に、高校にはびこる麻薬組織の暗躍と、さらなる犯罪の全貌が明らかになっていく物語である。いや、たぶんそうだったな、と今思い起こして思うのだけれど、断片断片が意図的にいろいろ繋がれていて、そういうことなんだろうけれど少し分かりにくく作られている。アクションもぶつぶつ要所が切れるようなところがあって、実際に誰が強いのかよく分かりにくい。そういうのも別の意味でいい緊張感にはなっているけれど、やはり学生さんなのに頑張って作ったんだな、というお話かもしれない。
 僕には映画でしか知りえないことだけれど、米国の高校という社会は、バスケットとかフットボールとかやっている花形の人々の周りをチアリーダーのような人たちが囲んでいる一方で、オタクたちはつれだって家とかでくすぶっているような二極化した社会だとばかり思っていた。まあ、確かに大麻などを学校に一定量くらいは持って行ってもいいような社会であるから、当然麻薬組織のようなものもあるんだろうし(日本だって探せばあるかもしれないけど)、アニメ社会でなくとも、このようなニヒルでかっこつけた一匹狼の生徒さんがいた方が面白いかもしれない。何か日本の学園ヒーローともなんとなくつながるような造詣があって、そういうものをカッコいいと思ってこのような作品を作ってしまうようなアニメでない映画オタクがいるんだろうな、という微笑ましさも感じられるのだった。
 その後この主演と監督は再びタッグを組んで「ルーパー」という映画も撮っているそうだ。ああ、あの映画もなんとなくこじゃれていて少し病んでいた。確かにこの系統の作品とはいえるだろう。そういう意味では彼らにとっても、ルーツとしての記念碑的な作品なのであろう。
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言葉を簡単にすべきなのか

2016-06-18 | net & 社会

 今夏からいよいよ18歳から投票できる選挙が行われそうだということもあってだろう、18歳の人が選挙に対しての戸惑いがある旨、素直に声を聞くような企画なりが増えているように感じる。議論があったのはずいぶん前だから本当に今さら感があるのだが、要するに直近になれば、実感がやっと伴ってきたということなんだろう。遅すぎか記憶力が無さすぎだろう。
 若い人たちが国会中継などを見た感想を聞いてインタビューしていたが、「言葉遣いが難しすぎて意味が分からない」という意見が圧倒的だった。こんなもので国民に何を訴えているのか、というような意見もあったし、もっと簡単な言葉で話すべきだという意見もあった。まあ、それらは感想の域に過ぎないが、これに返答する必要が本当にあるんだろうか。
 そもそも国会は国民に対して答弁をやっているものでは無かろう。分からないのは個人のレベルの話だから、国会に出ていない人に対して配慮すること自体が何かの間違いだろう。そういうものを見せて感想を取る立場の人たちの配慮の方が、足りないだけの話だ。もっとも報道の方も何を話しているのか解説するのが面倒だから、説明を怠っていた責任はありそうに思えるが、それは国会議員の責任とは少し違うのではないか。彼らは彼らなりのジャーゴンなどを使って議論せざるを得ない訳で、それは職業なので仕方がない。むしろ実際にはこれに参加しながら理解できていない人も混ざっていることの方を問題視すべきだろう。
 国会議員には一定の年齢に達すれば誰でも立候補できるようにはなっている。確かにそれは建前もあって、やはり誰もがなれるような訳ではない。しかしながら選挙は基本的には人気投票だから、有名人が選挙に出たなら、それなりに勝てる確率が高い。だから実際にそういう人が議員には多い。もちろん批判もあってハードルもあろうし、そもそもなりたいかどうかという個人が出てくるのか、という問題はある。ある程度の人の好さや自己顕示欲などの絡みが上手くゆくと、出てみようかという人は一定数いるのかもしれないが。無名で志のある人は、無名で無く志が広く理解されない限り、出てもいいが受からない。選挙に勝てなければ議員になれないというハードルを越える器量の持てるまでは、いわゆる修行というか、「何か」を持つ人でなければならないということだろう。他の職業なら資格試験や他のやり方があるだけのことであって、それが議員には選挙であるということだ。
 これらのことに若い人が関係ないならそれもいいだろう。しかしながら若い人でも、恐らくなのだが、議員になりたいと思うような人は、やはり一定数以上いつの世にもいると思う。そんなことは当たり前で、その人たちが目指すべきステージがあるだけのことなので、そのことを国民があれこれ考えたって感想に過ぎなくなるのはごく当たり前である。それは若い人の問題ですらない。誰でも出場できる甲子園の野球を、いったい誰が望んでいるというのだろう。
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成功したいのならこの映画を見よ   ダラス・バイヤーズクラブ

2016-06-17 | 映画

ダラス・バイヤーズクラブ/ジャン=マルク・バレ監督

 ロデオにまつわる賭け事のノミ行為などで金を巻き上げ、セックス・ドラッグ・アルコールにどっぷりつかった刹那的な生活をしているチンピラのロンという男がいた。実話をもとにした主人公なのだが、そのような危うい生活をしている男が、気分が悪くなって倒れてしまう。運ばれた病院で(おそらく血液検査などの結果)HIVに感染していることが発覚し、余命はわずか30日と宣告される。エイズがまだゲイなどに特有な病気であるという偏見を持っているマッチョなチンピラであるロンは、その自らの偏見のために医者を信用できないが(自分はゲイでないことを知っているので、それならばエイズであるはずが無いと思っている)、猛勉強してエイズの実態を知り、その上でジャンキー仲間と乱交をした折に(おそらく売春婦を媒介として)自らのエイズの感染をしたらしいことを悟る。さてしかし余命は後わずか、米国内でのエイズ・ワクチンでの治療は製薬会社と医者の癒着があって、さして効果のないまま(むしろ余命を縮めている様子だ)投与が続けられている。いろいろと裏ルートをたどり、お隣メキシコに医師免許を剥奪されながら医療行為を続け、一定の成果を上げているらしい元医者(もちろんメキシコでは現役)を訪ね、エイズは免疫力を低下させる病気なので、その治療自体を主とせず、自らの免疫力を高める治療(薬)を投与することで、かなりの成果が期待できることを知る。だが、その薬は米国では未承認(これは製薬会社の既得権を守る法律がある為らしい)なので国内に持ち込めない。自らの病気はこれで一時しのぎ出来る事実は分かったが、自分の飲んでいる薬の範囲であるという理由で大量に米国内に持ち込み商売をすることを思いつく。さらに薬を販売するとやはり薬事法に引っかかるので、会員制のクラブを組織し、その会員の会費を払うと会員特典として薬がついてくる(要するに販売ではない)というシステムを作り、商売を始めるのだった。そのクラブの名前がダラス・バイヤーズクラブなのだ。
 とにかくずる賢く機転が利く男だが、基本的にはジャンキーで馬鹿なのだが、自らの偏見で嫌っているが同じHIVに感染しているゲイの男との友情を中心に、薬を大量に販売し暴利を掴み、結果的に社会変革を起こすようなことを実行していくダイナミックな物語である。無茶で無茶苦茶で、さらに偏見の塊で感じが悪く、チンピラでだらしなく、法を破ることに良心の呵責さえ感じてない男なのだが、結果的にはそのおかげで、余命30日を七年あまりに伸ばして自由闊達に生命を謳歌しているように見える。自分のやれることはとことん前のめりになって実行していく。薬を求めて日本にも来たらしい。実際には法に触れているので度々摘発を受けるわけだが、法と癒着して妨害しているのは病院側の権力者で、実際に多くの患者を救っているのは他ならぬ無法者のジャンキーの方なのだ。
 まったく痛快でアメリカらしい屈折した正義の物語である。このような悪の権化のような最下流の男が、社会を変えうるのがアメリカなのだ。要するにアメリカ讃歌で、人間を救うのは、無謀だろうと自ら信じた行動力であることを教訓的に示しているハウツー映画でもある。自己啓発本を読んでいる暇があったら、この映画を観て成功のコツを掴むべきではないだろうか。
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選曲の火が着く

2016-06-16 | 音楽

 LINEのプロフィールの上のところにLINE music というちっこい表示が出ていて、これが自分の好きな音楽を添付できるシステムと知った。後で知ったことだが、ひと月限定の無料サービスということだった。後で知ったのだからなんとなくずるいな、という感覚は今はあるが、これに音楽を乗っけることを考えるのがそれなりに楽しい気分になったのは確かである。
 最初はやっぱりツェッペリンでRoyal orleans にしていたのだが、二日ぐらいしてふとHots on for nowhere に変更した。どちらかというと僕の感じじゃないかと思ったのだろうか。こんな風にして一度変えてみると、毎日変えないと調子が出ない。翌日は何故かヴァン・ヘイレンのhot for teacher にした。なんでだが笑っちゃうところが好きなのだ。
 ところで最初はカタカナで曲を探してたのだが、上手く探せないことが案外多い。めんどくさいがアマゾンを表示させて英語表記を確かめて探すと、検索率が格段に上がる。まあ、洋楽だから仕方がないことだけど、古い歌だとあんがいいろんな人がリメイクしてたりして、目当てのバンドに行きつかない。そうしてカラオケの曲が出てきたりして、そういうのもけっこう楽しいという感じだった。
 確かそこでクラッシュのtommy gun に変えて、やっぱ懐かしいなと感慨にふけり、モット・ザ・フープル all the young dudes に飛んだ。さすがにちょっと古いけど、格好はいい。せっかくだからクリームのsunshine of your love ときて、何故かここで思い出して10CCのI’m not in love にしてみた。だいぶ感じは変である。
 実は曲は変更しないまでも、それまでにけっこう曲の検索はしてしまう。前奏が長すぎたり地味だったりしてキャッチーじゃないな、と思うとどんどん次の曲を探す。何のためにやっているのかよく分からないからバカみたいなんだが、そういうのはたぶん面白いのだろう。
 本当はけっこういろんな曲を探し出して迷いに迷ってジミヘンはlittle wing にする。まあ、なんでもかっこいいからいいけど、こんなに短い曲だったっけ? 
 順番は怪しいが途中でスザンヌ・ヴェガのluka 。そして、スプリングスティーンのhungry heart 。ストーンズのjust my imagination などと選曲。ピストルズというか、シド・ヴィシャスのmy way も外せない。D・ボウイのcat people 。ドアーズは迷ったけどlight my fire にした。
 ここらあたりでロックロックばっかりもなんだか(そればっかりじゃないけど)な、と思ってTLCが何故か好きだった時代があってdiggin’ on you にしたんだが、ちょっと感傷的な個人的な事件があって、always on my mind はペットショップボーイズの方で選択した。プレスリーでも良かったんだけど、僕らの時代じゃないので。
 今後はもちろんニルバーナとかパールジャム、レッチリなども選択予定。王道ばっかりですいません。ジャニス・ジョプリンとかママス&パパスもボブ・ディランも行きます。たぶん。まあ、どうでもいいですね。結局、誰も聞いてないだろうことが寂しかっただけです。

追伸:結局その後のラインナップ。
smoking gun. / Robert cray
love is the drug ./ Roxy music
get into it . /The strypes
blues hand me down./ Vintage trouble
hold on. /Alabama Shakes
stop whispering. / Rediohead
i bet you look good on the dance floor./ Arctic monkeys
you can't hurry love./ The supremes
the dock of the bay./ Otis redding
you really got me. / the kinks
cold turkey./ john lennon
helter skelter./paul mccartney
chandelier. /sia
like a rolling stone./bob dylan
california dreamin'./ The Mamas & The Papas
move over./janis joplin
sympathy for the devil./rolling stones
every breath you take . /the police
money. / pink floyd
dani california./red hot chili peppers
jeremy./ perl jam
hard to make a stand. /shelyl crou
smells like teen spirit./nirvana
you might thik. /cars
build me up buttercup. / the foundations
bohemian rhapsody. / queen.
speech less. / lady gaga.
are you gonna be my girl./ jet.
what a wondeful wold. / ramones.
realin' in the years. / steely dan.
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