カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

フードトラック結集の場所

2019-11-30 | culture

 首都ワシントンには、多くのフードトラックが集結するという。その数400台。もともと政府関係の官庁街や金融などのオフェスが融合する国際都市のビル街である。そういうビジネス街だからこそ店舗を構える飲食店が限られていて、いわゆるショッピングを楽しむような繁華街ではないことで、ランチのみの需要だけが高いということかもしれない。さらに公園などがあり、車を停めやすい環境もある。そういう中で特徴的なのは、やはりアメリカという多様性の文化が色濃く出ていて、フードトラックで世界40カ国以上にわたる多種多様な料理を楽しめるということだ。様々な人種が(米国と対立している国の民も含めた)ひしめき合って暮らしている米国において、食べ物を通じての交流や融合がみられているという見本のような現象なのだろう。
 フードトラックを営業する立場から特に大きな利点は、弁当などにしている料理の値段が、それなりに高いことだ。日本円換算で、ふつうに千二三百円はする。二千円近い値段の料理も、人気なら飛ぶように売れている。エリートの働く環境ということもあるのか、財布のひもは、比較的緩いのかもしれない(ゆわゆる彼らはリッチなのだ)。為替の関係以上に米国の食事はそもそも高いというのはあるが、それでもフードトラックの料理が千円以上で当然というのがびっくり。ハンバーガーでも千円台だ。これなら店舗を持たないとはいえ、車の改造代などの維持費、雨天時などの客足の波に対しても、何とか対抗できる客単価なのではなかろうか。
 人気の料理店はもちろんだが、その出身国独自の特徴を生かしているものが多い。そうでありながら、やはりアメリカ的なローカライズされた工夫が凝らされている様子も見て取れた。自国料理を基本にしながら、常にチャレンジしながら新商品を開発していた。人気が出ないなら、先に人気のある(例えばタコス)などを取り入れて、その中に独自食材をぶち込んで勝負するのである。
 いくらオフィス街だからと言って、既存店が無いわけでもなかろう。フードトラックの面白さと選択制、野外で食べるという気ままさ、そうして早く気軽といったところが魅力なのだろう。これだけあれば、一年でもすべての店は食べつくせない。アプリでも比較できるし、おいしく楽しい習慣になっているのだろう。
 また、あれだけトランプさんが輸入規制を厳しくしていると言っている割には、アメリカには他国の現地生産の様々な食材が揃う環境にもあるという。セルビアの醗酵したキャベツの葉だとか、メキシコのトウモロコシの粉だとか、その他南米の調味料に中国や日本の醤油、独自の各国のスパイスに魚醤、なんでもありである。まさにその物の本格派を保ちながら、多様性にも対応するのである。日本のラーメンも当然あったが、売っていたのは、日本で豚骨ラーメンの修行をしたアジアの人でありました(でもなぜか味噌ラーメンを売ってた)。たくましいものだな、ってつくづく感じますね。日本からの出店者もいて欲しいところだが、チャレンジャーがいないのだろうか。たこ焼きとか焼きそばとか、あそこでは勝負にならんのだろうか? 
 また、日本のどこかでも、フードトラックが流行ると楽しいかもしれませんね。
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切ない一時期の青春(少女)物語   リズと青い鳥

2019-11-29 | 映画

リズと青い鳥/山田尚子監督

 いわゆる京アニ作品らしい。「響け!ユーフォニアム」という作品があるのだが、その中の一部の部員のスピンオフ作品なのだという。
 吹奏楽部の女性とふたりの友情のような関係を描くことと、この時期の微妙な感情を、音楽と、そしてその曲の題材となった童話の物語と絡めて表現されている。ものすごく間延びした部分と、繊細なタッチの画風が絡んで、感情表現を細かく描いている。高校三年という限られた青春の時間と、音楽的なつながりをきっかけに仲が良くなったのに、その音楽のために嫉妬の感情が二人の間に齟齬をきたしていく。先生以外男がぜんぜん出てこないので、この時期の一種の同性愛のようなものが含まれているのかもしれない(僕にはよくわからないが)。
 最初はセリフも説明も少なくまどろっこしい展開だと感じるが、そういうところも細かさの一つの演出になっていて、この年頃の感情をうまく描き出しているようだ。まだ子供なので、わがままで自分本位すぎるきらいがあるけれど、まあ、そういう時期を経て大人になっていくということなんだろう。いわゆる不良っぽい人は出てこないし、大人の存在もほとんど感じられない。社会とのつながりもほぼ分からない限られた世界があって、しかし高校三年生は悩んでいるのである。失われていく切なさが、さらにこの時期の輝きを支えているのかもしれない。
 女性性が前面に出ているということかもしれないが、実を言うと男である僕にもこれは分からないではない世界観である。というか、こういう感情は共通なのではないか。確かにおとなしいしまどろっこしいが、そういう上手く表に出せない年頃であるのは、同じなのであろう。もう忘れてしまったけれど…。
 いい作品すぎて盛り上がりに欠けるが、しかしこういう作品がアニメで出されているというのは、日本の底力かもしれない。
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コンビニ・日本式で日本そのもので無し

2019-11-28 | 雑記

 マレーシアで日本式のコンビニを展開する試みのドキュメンタリーを見た。コンビニって言ったらアメリカのもんだろって気もするが、アメリカのコンビニと日本のコンビニは違うらしい。ちょっと前のニュースに沖縄で初めてセブンイレブンが出店したってのがあったけど、要するに出店するための売っているおにぎりや総菜なんかのネットワークを含めて、日本のコンビニとは店舗展開をする業態だということだ。それだけじゃうまくわからない人もいるかもしれないけど、問屋なんかから品物仕入れて売るだけの店だと、僕らが子供のころからあった近所の個人商店と変わりはしない。今のコンビニはそれとは別の店だということなんだろう。
 要するにマレーシアには、おそらくだが、スーパーや個人商店はあることだろうけど、何か商品を供給する拠点を要したコンビニチェーンが、しのぎを削っているってことらしい。それと日本はすでに飽和状態だから、アジアの景気のいいところに、このような店が進出して利益を得やすくなっているということのようだ。そこで日本式コンビニが参入して、競争しているわけだ。そうしてそこに必要とされる日本人もいるというわけだ。
 いろいろなるほど、と思ったけど、商品を品質管理しながら均質にネットワークに乗せて売るようなことというのは、割合日本式といえる商売なのかもしれない。もちろん他の国だって似てるものはたくさんあるはずだが、日本人的な要素が、それなりにたくさんあるらしいことも分かった。だからこそ受け入れられることもあるし、失敗していることもあるようだった。日本のドキュメンタリー番組だから、日本人が頑張っていいな、という展開が好ましいようだったけど、それなりに失敗していて参考になった。
 要するに日本的にチャレンジしてみるけど、現地に溶け込むには、ローカライズすることが大切なようだ。現地化するというのは、当然現地のニーズに合致するものでなければうまくいかない。日本そのものがいいというのは、僕らが日本人だからであって、日本のいいものであっても、あちらでいいものに少し変わらなければならない。そのままいいというのは、案外限られたものじゃないのだろうか。
 以前なら、どこに行ってもコカ・コーラなんて言うアメリカナイズ化された世界があったものだけど、今でも単純なものもありながら、ちゃんと複雑化していく社会があるんだな、と感心した。そうでなくちゃ面白くないもんね、世界って。
 まあ、マレーシアが、同じアジアの国といっても、それなりに個性がある異国だってことに過ぎないのかもしれないけど。日本は理解されにくい国かもしれないけど、それこそが強みでもあるわけで、海外で苦労する日本人にはお気の毒だけど、強情張らずに頑張ってもらいたいものであります。
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バラエティ、そしてちょっといつもと逆   にっぽんほら話

2019-11-27 | 読書

にっぽんほら話/和田誠著(講談社文庫)

 和田誠の掌編小説というような、短い作品が24編入っている。落語もSFも昔話も入っている変わった作品集だが、何より変わっているのは和田誠作品なのに、表紙と目次以外のイラストは、他のイラストレーターの書いたものだ。いろんな雑誌や広告に書いた文に、仲間から絵をつけてもらったという。
 和田誠とという人らしからぬ本であるかもしれないが、そういう変なところがまた、和田誠らしい感じもするから不思議である。オリジナリティにあふれていながら、なんだか知っているような話もある。誰かの与太話に聞いたことがあるような気がするものがあるが、それでも和田誠のように気が利いている訳であるはずが無い。なんとなくいい加減そうな話でも、しかし気が利いているとしか言いようがない。下品だったり残酷だったりもするんだけれど、そういう印象が残ったりはしない。軽すぎないし重すぎない。まさにこんな感じになるよりないよな、という感じかもしれない。
 和田誠が亡くなったので、持っているものとか、持ってないものとか適当にパラパラやっていて、これが一番薄いので先に全部読んでしまった。惜しい人が亡くなったなあ、と改めて思うのだった。
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鯨ようかんを思う

2019-11-26 | 

 宮崎の佐土原というところの名物で、鯨ようかんというのがあるらしい。広島の尾道にも鯨羊羹はあるようだが、同じものではない。米粉を練ったものをあんこで挟んで蒸したものらしく、素朴な味だという。見た目が鯨ということではなく、鯨の身のような感じのする和菓子ということか。いろいろネットで見ていくと、もともとこのお菓子を切る前がでかいので、鯨を模したものだったのかもしれない。不思議な感じもするけど、面白い名前と姿である。しかしながらこのお菓子は日持ちがしないらしく、製造日当日が賞味期限なのである。要するに、この佐土原以外では出回らない(宮崎空港に売ってあることもあるというが)。なので、そのあたりの人でなければ知られないし、食べることができない。
 ところが漫画家の東村アキコが、これをマンガに書いたり吹聴したりした。著名人の紹介で、それなりに知られるようになったようだ。もちろん旅の人の見聞やインスタ映えもするだろうし、この土地ではまちおこしで「くじらのぼり」もあるというからPRもしたのかもしれない。古い歴史のあるものらしく、あんがいそれなりに知られているものなのかもしれない。
 実は僕自身は和菓子自体をあまり食べたいとは思わない。食べようとすれば食べきれないわけではないのだが、そもそも自分から積極的に食べたいと思うことは無い。何かの間違いでおいしいと思うことも無いではないが、甘いものが口の中に残る感覚があまり好きではないようだ。
 でも気になったのは他でもなく、鯨なのである。僕の働いている事業所のある東彼杵町は、鯨で有名な町なのである。だからクジラ肉そのものはポピュラーに売られているものの、このようなお菓子は無いな、と思ったのである。鯨をモチーフにして、何か食べ物を開発できないだろうか。そのまま真似るのも芸が無いし、なんとなく気はひける。こういうお菓子は真似たからどうこうということは無いかもしれないが、何か交流のようなものが無いといけないような気もする。それに日持ちもしないというから、売るのも大変かもしれない。なんかいいアイデア無いものでしょうか。
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頑張れ頭のいい黒人女性   ドリーム

2019-11-25 | 映画

ドリーム/セオドア・メルフィ監督

 60年代のまだ有色人種に対しての差別の残る米国社会で、NASAはマーキュリー計画という有人宇宙飛行の計画を持っていた。そういう中で多くの黒人女性が、科学者の計算を支える仕事をこなしていた(電話交換手やタイピングの仕事を女性にさせていたような感覚だろうか)。下仕事というだけでなく、女性でさらに黒人という立場にあって、しつこい差別や嫌がらせを受けながら、優れた計算能力を発揮し、存在感を徐々に高め、そして認められていくお話。米国に根付く当時の差別と、事実に基づくサクセス・ストーリーである。
 有名大学を出て実際に学位を得て、さらに標準以上に能力の高い女性たちを低賃金で集めたら、黒人ばかりになったということなのだろうか。白人女性は秘書などの管理部門にちゃんといて、真珠のネックレスがかえるほど給与を得ている。差別しているので、黒人女性をあしらい使うのに躊躇が無いし、同情も抱かない。多少ステレオタイプに演出しているのは間違いなかろうが、人の命のかかったNASAのような先端的な能力の高い連中にあって、差別の根幹は揺らいでいない。ほとんど唯一、変人で合理主義者である上司の一人が、その合理性を重んずるがゆえに、この状況を理解するのみである。
 それでもほんの50数年前の話なのである。大昔ではない。改めてこういう話を見ると、なんだかとても信じられない気持ちになる。人々は国としても対立していたが、偏見でも対立していたらしい。人間とはそういう性質を持った生き物なんだ、ということが見て取れるだろう。
 もちろん、このような人々がいたから世界は変わるのであり。先人の偉さはこういうところに現れる。今では痕跡も残らず何でもないことであるが、だからこそ社会の変化というのは、ものすごい労力の必要な偉業なのであろう。
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ウニの餌をクローバーに

2019-11-24 | Science & nature

 僕らが呼吸する上で必要な酸素は、植物の光合成により生み出されている。アマゾンの森林破壊などで多くの酸素が失われているという報道も聞くが、実は地球上の酸素の3分の2は海から生み出されている。光合成に必要な太陽の光が届くのは、海面から70~80mといわれているが、その距離の範囲にいる植物性のプランクトンや、浅瀬の海藻などの生き物から、大量に酸素が作られている。
 近年問題視されているのは、いわゆる地球の温暖化によって、特に浅瀬に住む海藻の多くが死滅しているといわれる。比較的海水温の低いところを好む海藻が、いわゆる枯れてしまうということとともに、比較的温暖な水温を好むウニや海藻を食べる魚などの影響で、食べつくされるということもあるそうだ。いわゆる海焼けといわれる現象で、日本の海の藻場の3割の海藻は失われたとされる(6万5千ヘクタール)。
 そのために海藻などを食べる魚やウニを駆除する動きがあるが、抜本的な解決には至っていない。そういう中にあって、ウニを効率的に捕って養殖する方法も注目されている。ウニを食べる天敵は少ないが(ラッコなどは限られた場所にしか生息していない)、ウニを好んで食べるのは、他でもなく人間である。
 しかしながら、比較的南の海では、ウニの好む海藻がそもそも少ない。そこでウニを育てるために陸の草を与える実験が行われている。もともとウニは雑食性で、基本的には何でも食べてしまうらしい。そういう中で、キャベツやクローバーなどを与えて育てたウニが市場にも出回るようになっているという。それらを食べたウニの身は、いわゆる磯臭さが少なく甘みが強いのだという。特にクローバーなどはマメ科の植物で栄養のバランスも良く、年中取れて誰でも育てられコストも安いという利点だらけなのだ。
 将来的に養殖のウニが安価になって安定的に市場に出るようになると、消費者にとっても漁業関係者にとっても福音となるかもしれない。
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生きていくにはやり方がある   苦しかった時の話をしようか

2019-11-23 | 読書

苦しかった時の話をしようか/森岡剛著(ダイヤモンド社)

 帯にUSJ復活の立役者が教える「自分をマーケティングする方法」とある。また副題に、ビジネスマンの父が我が子のために書きためた「働くことの本質」ともある。以前に我が子に向けて仕事の心得を書いたものがベストセラーにもなっていた記憶があるが、これは著者がマーケターという職業であることから、いわゆる合理的にこれから就職する娘に充てて、どのように仕事をして生きていくべきかを説いた本である。娘が独り立ちして就職先を選び、さらにどのような働き方をしたらいいものか、父親として気にならないものはいないだろう。しかしながら一般的には、やはり精神論になりかねないことをいうしかないようにも思う。娘とはいえ自分とは違う人格の別の時代を生きていく人である。そうではあるが、実は有効に生きられるマーケティングの手法を使ったやり方はある。要するに、娘個人に向けた話が、多くの若者を含めた人々にも有効な話になるという本である。
 マーケティングの手法は、まあ、いいだろう。自分の特性や強みを見極めて(要するに現状を正確に把握する)、誰のため何のために何をする、というポイントを明確にして、そのために日々ハードワークして自分を磨いていくことが、キャリアを積むということなのである。まあ、細かく書いてあるので、勉強になります。
 世のなかというのは残酷で不平等だ、という現実を理解しなければならないこと。結局人の欲が原動力になって、物事は動いていること。当たり前だがそういう厳しかったり汚かったりする中で、僕らは生きていかなくてはならない。
 さらに当然自分自身の経験した、いわゆるハードな体験談が語られる。非常に優秀だったからこそ成功を手にした著者だが、猪突猛進型はいいが、コミュニケーション力が不足しており(これも環境的に仕方ない面もあるようだが)様々な苦しい思いをしながら経験則を増やし、キャリアをパスしていくのだった。米国での体験など、かなりぎりぎりの精神状態に陥りながら踏ん張ってきた記録であった。苦労するのは仕事だけではないのである。
 横文字が多かったり、いわゆる単なる自慢話も無いではないが、まあ、すごい人なんだからそれもいいだろう。文章にはユーモアもあるし、これまでの日本人のビジネス書っぽい傲慢さは少ない。それに素直に勉強になるし、とにかくやる気にもなるだろう。想定は若い人向けという体裁だが、若くなくても、例えば今何をやりたいかということさえ明確でない人であっても、これを読んだら何かを見つけることができるのではないか。そうしてそれに向けて頑張れば、いい人生に巡り合えるのではないか。ということで、これから頑張ろうという人が読むと為になる本である。そして、みんな頑張ろう。
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同じツェッペリン・ファンだしな

2019-11-22 | 時事

 沢尻エリカ問題というのが出てきて、政治問題が面倒になるとこういうスキャンダルが出るという話が出た。そうなのかどうかというのは実際上は知りえないわけだが、もしそうだとしたら、そういう陰謀が明るみに出た場合、当然大スキャンダルになって、政権は本当に倒れる危険性があると思う。要するにリスクが高すぎて、そんなことをするような行動はとれないと考える方が自然だろう。また、そういう陰謀で警察が動くようなことは、やはりすぐに明るみに出やすいことの類だろう。
 しかしながら、それくらい沢尻というのは、意外性が無かったのではないか。いまだに怪しいというか、そうであって当然という気配は、皆感じていたことなのかもしれない。それでも捕まってしまったのだから、要するにそういう動きをしっかりと把握できるほどに、組織的にわかりえていた情報があるのだろう。タイミングがどうだというのは、確実に持っているときというのが明らかである場合のみであろう。
 沢尻を擁護すると、そのような陰謀説であるとか、このような薬の問題まで容認しているように受け取られかねないことにもつながると、勘違いされる恐れがある。そういう面倒なことに首を突っ込んでも何もならないことは分かっているはずだが、しかし僕の中での沢尻の好感度はかなり高まった。この機会に、主にネットだが、沢尻の露出度ががんがん上がって、僕でもずいぶん目にする機会が増えた。かわいくきれいな人だから目の保養的なことは当然あるだろうが、さらに本当に若いころから飛びぬけてかわいい人のようで、性格がどうとかいうより、素直に素晴らしい女優だろう。そういう本来性を考えても、女優として生きるために生まれてきたような人なのかもしれない。そうして捕まった後も、正直に話をしている様子で、なんだかそんなに性格も悪くないのではないかとも感じられる。まあ、一緒にやっていた仲間にとっては、ちょっと困った存在だろうけど。
 大変なリスクがありながら薬などをやめられなかったようだが、それは要するに病的な領域にあって、いわゆる治療が必要なことであるということであろう。反省するしないはあまり関係が無いし、僕らもそんなことを求めているようなさもしい考えは無かろう。病気であれば、そういう機会を設けるべきだというだけである。表現の自由問題などでは騒ぐ人が、このような場合どのような態度をとるのかな、ということも、気にはならないが、皮肉的には感じる。大きな損害の出ることをあえてテレビなどはとるだろうから、社会復帰がさらに難しくなり個人を追い込むことになるのは、心の痛むところだ。こどものいじめ問題もまじめに考えない大人たちがすることである。より残酷に追い込むのだろう。友人や家族が、この時こそしっかりとフォローできる環境であって欲しいものである。
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自分なりに整理をつけてみよう   ビジランテ

2019-11-21 | 映画

ビジランテ/入江悠監督

 いきなり親からの激しい折檻なのか虐待なのか、という場面。父殺しに失敗した兄弟が、その凶器を川岸に埋めようとしていたらしい。その後暴力は続き、一郎はたまらず家出したまま遁走する。そして月日は流れる。
 今度はその暴力おやじの葬式の場面。政治家か何か街の実力者だった様子。次男のおとなしい二郎が市議会議員になっている。そうして街の実力者議員との間に取り込まれるような立場でいるようだ。残された土地に巨大アウトレットモールが進出してくる計画があるらしく、その利権をめぐって取りまとめる立場になっている。三郎も近くに住んでいるようで、女性の売春あっせんに関わるチンピラのようなことを生業にしているようだ。そういう時に実家に誰か女連れの男が入ってきて、売却予定地に進入禁止の立て看板を立てたりする。要するにこれが長男の一郎であるらしい。土地の売買には闇社会の取り立て屋も絡んでいる様子だし、不法で占拠して暮らしている中国人コミューンの問題もある。地元民とも微妙な関係でもめており、議員である二郎は地元の自警団組織の中で、そのような力関係の調整を余儀なくされている。しかし住民憎悪は暴力の連鎖を呼び、売却予定地をめぐり闇社会も暗躍していくのだった。
 いろいろ絡めてあるが、幼いころに支配的に暴力で苦しめられた父のせいで分断してしまった兄弟たちの苦悩が描かれている。であっても暴力でしかふれあえない状況にあるようで、詳しい現在の様子はよく分からないのだが、それぞれの大変に苦しい立場に置かれていることに間違いなさそうである。計画を進めようとする議員から声のかかったヤクザたちは、より強硬な手段で、チンピラではあるが特に一番人のよさそうな三郎を追い込んでいくのだったが…。
 エロシーンも不必要に多いし、ヤクザ的な暴力も満載である。一定の緊張感のためかもしれないが、進行上多少めんどくさい。性も暴力の象徴を描いているわけだが、しかし女性の方の欲望が良く描かれていないので、あくまで性処理の道具のような感じかもしれない。二郎の様子だけは、この影が描かれるが、だからと言って彼の実力が本当に上がっているようには見えない(孤立していくし)。少しごちゃごちゃしたものに整理が必要な感じで、後半はだらだらしてしまうのだった。
 血もたくさん出るし気持ち悪いしエロもあるということで、これは家族で楽しめる作品ではない。一人で見ても気分が上がるものではないし。こういう人間関係の中、個人の運命もゆだねられるらしいな、ということで自分なりに整理してみる必要のある映画なのかもしれない。
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チェイサーがある方が酒は旨いと思う

2019-11-20 | 境界線

 ウイスキーなどの強い酒を飲むとき、一緒にチェイサーとして水が出てくる場合がある。ストレートで飲んでいくと、すぐに酔っぱらってしまうというのもあるし、チェイサーがあるから、改めて味がクリアになって楽しめるというのがあるようだ。最近は日本酒の会のようなことでも、水を飲みながら酒を楽しむ習慣も定着しつつある。量を飲んでしまえば、酔いすぎてほとんど関係なくなってしまうが、特に最初のころは、おいしさが持続してより楽しみが深まる気がする。特に香のようなものは、酔ってしまう前の方がよくわかるようで、チェイサーが酒の味を引き立ててくれるわけだ。
 そういうわけで、チェイサーがある飲み会の方が助かるんだけど、豪傑の酒飲みがそろう場だと、これがいまだに抵抗感のある場合がある。昔のハードボイルドのような奴がいて、酔うために飲んでいるのに、水を飲むのは邪道だとばかりに飲む輩がいるのである。こういうやつらがそろうと、諦めて飲み続けるよりないのだが、もうこれは酒の味が云々ではなく、我慢比べである。
 昔のハリウッド映画などを見ていると、アメリカ人というのは、よく昼間っから酒を飲んでいる。オフェスにカウンターのあるところがあったり、事務所に寄ると、ディスクの下からウイスキーを取り出したりしている。一杯どうか? と声をかけて、ぐっととストレートで煽ってしまう。特にアル中だからそうしているわけではないようで、要するに酒が強いのが男らしいという演出なのだと思う。そのあと車を運転したりするので、飲酒運転にも寛容な時代性もうかがえる。昔の人はとんでもない世の中を生きていたようだ。
 要するにチェイサーを飲まないのは、男らしいというのがあるのかもしれない。いちいち力比べをするよりは、酒を飲ませて平気かどうか、確認しているということだろう。
 一方で女の人ならどうなのだろうか。ウイスキーをストレートで飲むというのは、ちょっと破れかぶれな演出ともとれる。もうどうなってもいいのだから、一晩共にするという合図かもしれない。これはこれで困ったことだが、さて、実際そんな人が居るのかどうかは、よく知りません。別段ストレートで飲んだってかまわないような気もするんだが、酒の飲み方で女らしさを演出する人って、やっぱり減ってるんじゃないだろうか。こういうのも男女同権がいいと思います。
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肩ひじ張らずに自由に独学を   東大教授が教える独学勉強法

2019-11-19 | 読書

東大教授が教える独学勉強法/柳川範之著(草思社)

 著者は父の仕事の関係で子供のころブラジルやシンガポールにいるなどして、通信教育などの傍ら独学で勉強してきたという経験が下地にあるようだ。現在も研究生活をしているために、事実上独学が続いているということなのだろう。
 長いスパンで勉強や研究をするうえでの、心構えやその実際を説いているものが多い。勉強の前にそれなりに準備段階を経て、そうしてテーマや目的のようなものにあまり縛られずに、多少の融通をきかせながら、自分なりに考えたことを大切にして勉強しよう、という話である。本人がそうしてきたからこそ、そのようなことが大切だということを言いたいのだろう。ちょっとできる人だからできる方法という気もしないではないが、いわゆる根性論ではないし、目標の立て方があいまいなのは意外だとは思うが、それはそれで妙な束縛は無いし、考えてみれば独学なんだから自由に勉強したらいいじゃないか、ということらしい。人から与えられた答えを探して勉強するスタイルからの脱皮を奨励している。要するに受験勉強のようなものと、おおよそ対極にあるような勉強法のようなものだ。もっとも、受験勉強だって、本来はそのようにすべきだという考えがあってのものだろう。
 社会人になったら勉強しなくてもよい筈は無い。多かれ少なかれ勉強は続いているようなもので、いわゆる座学としての勉強は卒業した人が多いだろうけれど、自分なりに本を読んだり、自分なりに何か調べて物事を研究するようなことは、学者でなくとも誰でもやっていることかもしれない。それでも何か模索しながら、自分なりにやり方を会得するにも、それ自体に疑問があったり、何か不安を抱えている人が居るかもしれない。そういう人に対しては、やはりこのような自由な独学のやり方を読むことで、参考になることもあるだろう。この著者自身があまり廻りの空気を読むような人ではないようなところがあって、そういうところも含めて、なかなかに面白がりながらやり方を学べると思われる。薄く文字数も少ない本なので、気楽に読んで参考にしたらいいだろう。
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自己治癒するコンクリートとは

2019-11-18 | Science & nature

 自己治癒コンクリートというものが開発されているらしい。コンクリートは練り混ぜるときに、そもそもたくさんの水分を必要とする。この水分が蒸発するなどしてコンクリートが収縮する折に、収縮ひび割れを起こすことが実際上は避けられない問題であるらしい。コンクリートに限らず、木材なんかでも乾燥時にひび割れを起こすが、このような自然現象は避けられないものなのである。そうしてひび割れから水分などが染み込むなどすることと、経年などで劣化してしまうと、強度に対して深刻な問題を起こしていた。
 水分などが入り込むことで自ら膨張して修復のようなことがもたらされることはあるようだが、今回注目するのは、バクテリアを使った自己治癒技術のことである。乾燥時に休眠する性質のバクテリア胞子と栄養分(乳酸カルシウム)をカプセルに入れ、コンクリートに混ぜ込んでおく。コンクリートが乾燥収縮後にできたひび割れから雨水などが染み込んでいくと、バクテリアが胞子を破って活性化する。そうするとバクテリアが栄養分を摂取して石灰石を生み出す性質があるということで、これがひび割れ自体を修復するという仕組みらしい。このバクテリアは修復して乾燥したコンクリートの中で再び休眠し、約200年くらいは再生可能なくらい生きているらしい。また、このバクテリアは人体に対しても害のないものであるといい、まさに一石二鳥のありがたいものなのである。
 コンクリートのような無機質で硬く冷たいイメージのものが、自ら生き物のように修復するというのは、大変に面白いことである。面白いのだが、僕がこれを聞いて思い出したのは、他でもなくターミネーターという映画であった。SFだけれど、破壊されても破壊されても、何度も自ら修復して復活してくるターミネーターという未来のロボットが、何度も襲ってくるというホラー作品でもある。さらに思い出すのは、ジョン・カーペンター監督の「クリスティーン」である。ある種の付き物のある自動車が、壊れても壊れても何度も自己修復して襲ってくるというのもあった。これは、原作があのスティーブン・キングである。怖いけどなかなか面白い作品で、お勧めである。
 というわけで、どういうわけか映画紹介になってしまったが、自己治癒コンクリートには、大きな期待が持てるという話でありました。
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処方された薬を飲むべきでは…   ヴァイブレータ

2019-11-17 | 映画

ヴァイブレータ/廣木隆一監督

 原作の小説があるらしい。コンビニで買い物中に目についた男について行って、そのままその男の運転する長距離トラックに同乗して、情事を重ねた旅に出る物語。
 レイという女は、どうも精神を病んでいるようで、勝手に頭の中で声が聞こえている様子だ。何か食べても吐いてしまう。トラックの男はタカトシというようで、元ヤクザだったようだが、近年はトラックの運転手をしている。運転しながら一人語りをするが、段々とレイに惹かれていく様子だ。情事も重ねて、二人はお互いに何か頼りあっていくような仲になっていく。
 坦々とトラックで移動しながら情事をしているという映画なのだが、説明があるわけではないので、実際この病気のことなどがどうなのかはよく分からない。病気ですらないのかもしれない。言っていることも本当かどうか、よく分からない。そして謎の多いまま、何か自浄的になっていくような暗示がある。これが恋なのか愛なのかもよく分からない。恐らく寂しさが二人を惹きつけているのだが、これでいいのだろうか。
 いわゆる面白い類の映画ではないが、だからと言ってつまらない作品でもない。なんだかよく分からないながら、それなりに引き込まれるものがある。寺島しのぶの脱ぐ演技などで話題になったのだろうが、いわゆる情事のシーンがあるからいいというのでもない。そういう目的なら、他にもいろいろあるだろう。確かに体当たり演技という見方もできるけれど、難しいキャラクターながら共感を誘うことができたことに、演技の価値があるのだろうと思われる。苦しんでいるが、これが現代的な女性の解放のようなことになっているのかもしれない。まあ、僕の勘違いかもしれないけど。
 まあ、実際こういうことがあると、本当はめんどくさいかもしれない。現実にはあまりない話だからこそ、価値があるのであろう。
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今も継承するヒトラーの教え

2019-11-16 | 雑記

 聖火リレーを始めたのはヒトラーだったことは、よく知られていることだ。わざわざギリシャのオリンピアから聖火を持ってくるために、人々がリレーしてつないでいく。正当な歴史の発祥を受け継いで、連綿と続いている人類の継承を、見事に視覚化して見せた素晴らしい演出方法である。越えてきた国は7各国にわたり、約3000キロを3075人のランナーでつないだ。このようにして人々の心を一つにし、協力して作り上げる未来への希望を表したものだろう。そうしてそのような権威そのものをナチスドイツこそが高らかに継承しているという事実も示しているのであろう。
 今でこそ、その後のドイツを知っている我々のことだか、なんだかそのような演出自体にそら恐ろしさを覚えるかもしれない。何か狡猾なものを見出して、嫌悪する気持ちもあるかもしれない。
 ところが事実として残っているのは、この聖火リレーという演出の伝統なのだ。近代オリンピックの伝統的な演出として、すっかり定着し、これなしに正当なオリンピックの開催地である証が得られないような雰囲気さえあるのではないか。
 このような価値観を生み出したドイツを考えると、実はきわめて近代的な思考方法をもって物事を考えていたことが少しは分かるかもしれない。我々の何かを素晴らしいと思う価値観の中に、必ずナチス的な近代性が含まれているはずなのだ。そのことに自覚的であるという人が多い方が、いわゆる抑止力になるのではないかとも思うが、嫌悪する人が否定してしまうと、逆説的だが、ナチスが生き残るということになってしまうのではないだろうか。
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