刑事コロンボ・第三の終章/ロバート・バトラー監督
大胆な一芝居を打って計画的な殺人を行う。それも殺し屋を雇って、あたかも自分自身が犯人に仕立て上げられようとしたかのようなシナリオなのである。動機が大いにあるのだから、疑われるのは承知している。そうであるなら、むしろそうすることで疑いを晴らしてしまおうということなのだろう。
殺人においてアリバイ工作がそれなりに厄介なのは分かる。殺し屋を雇うと、そのアリバイが当たり前だが成立する。何しろ殺したのは直接的には自分ではない。しかしながら殺した犯人が捕まると、すべてオジャンである。殺し屋が捕まった後に雇い主を明かさない保証は無い。いやむしろ普通に話すというほうが道理だろう。つまり殺し屋には、捕まるかもしれないリスクと、雇われ人から命を狙われかねないリスクが存在する。捕まらないためには被害者との関連が薄いことが何よりだが、被害者と依頼者との関連には必ずつながりがある。ましてや本当に殺しのプロではなく、依頼人とその後も関係が続くわけだ。このリスクを本当に重要視しない殺し手というのはいるのだろうか。こういう話を見ていて、僕はいつもそれを考える。そうこうするうちに殺し屋は殺されてしまう。なんだか哀れだなあ、と思うのかもしれない。
さて、そういう話なのだが、この犯人は結構味があるのである。いい奴ではぜんぜん違うが、存在感ということかもしれない。これはこの人が犯人でなくてはならない。そういう空気がぷんぷんしている。そうして大胆な芝居を打つ。今の社会ではその芝居そのものがかなりの問題(特に日本だと殺しと同じくらい極悪人だ)なんだけれど、おおらかな過去のアメリカ社会では何とかそれで良かったようだ。留置されるが弁護士から比較的簡単に保釈されているように見える。さらに弁護士がかばおうとしているのに、大胆に自分の正当な嘘を突き通そうとする。そうしてその粗を、コロンボに突かれて大失態、という小ネタを提供してしまう。観ているほうは大満足だ。
小ネタとしては、コロンボのチリ好きエピソードなども面白い。普段から行きつけの店でチリを食っているらしいことは時々出てくるが、わざわざ高級レストランで無理にチリを作ってもらって貪り食って、おごってくれるというのを断り、その値段の高さに驚いてしまったりする。実にお茶目である。
犯人も策士だが、今回のコロンボもなかなかの芝居を打つ。もちろんコロンボが一枚上手でなくてはならないが、まさになかなか抜かりが無い。で、冒頭の僕の疑問に戻ってしまうが、それなら殺し屋を殺すことは想定内だったのではなかろうか? ここでもついコロンボの倫理観を疑わざるを得ないことになる。もちろん彼の仕事は殺人犯人を挙げることだ。殺人事件を未然に防ぐことではないのだろう。そういう論理で考えるとすると、敵をしとめる必要条件として、第二の殺人は必然だったのかもしれない。結構この殺人のシナリオを崩すというのは難しかったという裏返しのような気もする。もちろん見事なら、客としては満足なのだが…。