カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

知らない店では用心が必要だ   刑事コロンボ・第三の終章

2014-02-28 | コロンボ

刑事コロンボ・第三の終章/ロバート・バトラー監督

 大胆な一芝居を打って計画的な殺人を行う。それも殺し屋を雇って、あたかも自分自身が犯人に仕立て上げられようとしたかのようなシナリオなのである。動機が大いにあるのだから、疑われるのは承知している。そうであるなら、むしろそうすることで疑いを晴らしてしまおうということなのだろう。
 殺人においてアリバイ工作がそれなりに厄介なのは分かる。殺し屋を雇うと、そのアリバイが当たり前だが成立する。何しろ殺したのは直接的には自分ではない。しかしながら殺した犯人が捕まると、すべてオジャンである。殺し屋が捕まった後に雇い主を明かさない保証は無い。いやむしろ普通に話すというほうが道理だろう。つまり殺し屋には、捕まるかもしれないリスクと、雇われ人から命を狙われかねないリスクが存在する。捕まらないためには被害者との関連が薄いことが何よりだが、被害者と依頼者との関連には必ずつながりがある。ましてや本当に殺しのプロではなく、依頼人とその後も関係が続くわけだ。このリスクを本当に重要視しない殺し手というのはいるのだろうか。こういう話を見ていて、僕はいつもそれを考える。そうこうするうちに殺し屋は殺されてしまう。なんだか哀れだなあ、と思うのかもしれない。
 さて、そういう話なのだが、この犯人は結構味があるのである。いい奴ではぜんぜん違うが、存在感ということかもしれない。これはこの人が犯人でなくてはならない。そういう空気がぷんぷんしている。そうして大胆な芝居を打つ。今の社会ではその芝居そのものがかなりの問題(特に日本だと殺しと同じくらい極悪人だ)なんだけれど、おおらかな過去のアメリカ社会では何とかそれで良かったようだ。留置されるが弁護士から比較的簡単に保釈されているように見える。さらに弁護士がかばおうとしているのに、大胆に自分の正当な嘘を突き通そうとする。そうしてその粗を、コロンボに突かれて大失態、という小ネタを提供してしまう。観ているほうは大満足だ。
 小ネタとしては、コロンボのチリ好きエピソードなども面白い。普段から行きつけの店でチリを食っているらしいことは時々出てくるが、わざわざ高級レストランで無理にチリを作ってもらって貪り食って、おごってくれるというのを断り、その値段の高さに驚いてしまったりする。実にお茶目である。
 犯人も策士だが、今回のコロンボもなかなかの芝居を打つ。もちろんコロンボが一枚上手でなくてはならないが、まさになかなか抜かりが無い。で、冒頭の僕の疑問に戻ってしまうが、それなら殺し屋を殺すことは想定内だったのではなかろうか? ここでもついコロンボの倫理観を疑わざるを得ないことになる。もちろん彼の仕事は殺人犯人を挙げることだ。殺人事件を未然に防ぐことではないのだろう。そういう論理で考えるとすると、敵をしとめる必要条件として、第二の殺人は必然だったのかもしれない。結構この殺人のシナリオを崩すというのは難しかったという裏返しのような気もする。もちろん見事なら、客としては満足なのだが…。
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重層的に描かれているが画一化された世界   ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

2014-02-27 | 映画
ものすごくうるさくて、ありえないほど近い/スティーヴン・ダルトリー監督

 いろいろゴタゴタとお話が錯綜しているのであるが、終わってみるとそういう特殊な境遇を描き出すことには成功していたことは分かる。911をこのような切り口で語ったというのはあまり見たことが無いし、人の心の傷のようなものはそのような複雑さでなければ描き得ないものなのかもしれない。謎解きのようなものは残るものはあるし、上手く消化できたものもある。結果的に人助けできてもいるので、いい話といってもいいだろう。みなの演技もいいので、やりがいのあった作品だったのかもしれないし、そういう玄人受けするような演出なのかもしれない。確かに眠くなって、僕は再度見直したわけだが、あんがいそこまで退屈な映画というわけではない。まあ、ちょっと鼻につきはするかな、という程度問題のようである。
 僕には偏見が多い所為かもしれないが、アメリカ人が傷を負っていることに否定的なわけではない。しかしながら同時に、やはりアメリカ人だけの視点というのは、どうしても冷めてみてしまうところがあるように思う。父親を失った少年やその周辺の悲しみに対しては同情するものの、それだけが世界の悲しみのように語られるのは勘弁して欲しいという思いがあるのだろう。ああ、またか、という感覚がどうしてもしてしまう。アメリカだけが悪いわけじゃないんだけれど、それにやはりテロリズムというものを少しも肯定する了見など無いのだけれど、アメリカの自分語りの中には、他者への視点が当然のように消えるのが不思議に思えるのかもしれない。
 しかしながら考えてみると、そのような考え方というのは極めて現代的なことに過ぎなくて、そうして現代的な合理主義においてアメリカという社会は、極めて純粋に現代的な社会の見本なのかもしれない。実際に多くの国はアメリカ的だし、そうして日本の主流的な考え方をする人々、特に若い世代にいたっては、ほとんど思考に基本的な違いはなさそうである。監督さんだって実は英国人だし、これはアメリカだけの問題ではない。そうではあるんだけど、だから相互性を忘れていいのか問題、というのを考えてしまうのは、たぶん僕の偏見が大きすぎる所為なのだろう。
 僕が考えているのは、ざっくりいって世界平和なわけだ。そうして平和のために何を考えて欲しいのかというのは、やはり自分のことより他人のことなのだ。個人的な悲しみはそれで癒されないのかもしれない。だからそれは個人的には悲しんでも何にも問題は無い。でも本当に起こった問題を深く悲しむのであれば、両方のことを見ないわけには行かない。
 この映画の本質的なこととは違うかもしれない。しかしやはりこれは、アメリカ人に向けられた物語だろう。それを日本人の僕が観て思うことは、結局はそういう誤解であるということなのだ。もちろん次のターゲットは僕の家族かもしれない。そのときに作られる映画がこれになったとしたら、世界は限りなく画一化されているということになるのであろう。
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手塚作品の影響力が日本人に及ぼすもの   陽だまりの樹

2014-02-26 | 読書

陽だまりの樹/手塚治虫著(講談社ほか)

 手塚治虫は医者でもある。本人も医者が本業で、それが漫画も書いている、というようなことを言っていたこともあるようだ。また、別の作中にも血が怖くてメスをペンに持ち替えた、というようなことを書いていたような記憶がある。さらにこの物語の主人公の一人は、実際に手塚の曽祖父に当たる実在の人物らしい。あとがきにも女好きは父に似ているなどとも書いてある。いわば、自分のルーツをたどる作品であることは間違いなかろう。
 この作品に限らずなのだが、手塚作品というのは、悪の描き方に独特の愛着を持っていることが特徴とも言えるような気がする。悪いやつは本当に憎らしいくらい悪いことをするというのは、漫画的には常識的なことだ。しかし、手塚はこの悪者に妙に執着して、悪の心の屈折した内容まで描こうとする。いわば滅びの美学のようなものがあって、本当に悲しい屈折した心の理由にもまなざしを配っている。この作品では特に陶兵衛という人物が、物語の中でたびたび重要な役割を演じている。陶兵衛の妻が蘭医者の処置の悪さで子を持つことができなくなったことで、逆恨みをして外国人まで憎んでしまうようなことになっている。非常に気の毒なことなのだが、よく考えてみると、医学というものが含んでいるダークな面をあぶりだす役割にもなっていることに気づかされる。たとえ正義の信念で良きことをやろうとしても、実際にはそういう複雑な内面をはらんでいることに自覚的なのである。これが何より手塚治虫の作家性の素晴らしさを支えていることは間違いなくて、単純に描かなければならないところはスパッと痛快に描きながら、そういうものの本質にあるものへの反省も同時に描くことで、物語の深みを増すことにも成功している。史実とフィクションを混ぜながら、心の物語としては、確かにしっかりとした人間ドラマになっているのは、そういうセンスのようなものだという気がする。
 また、実在の人物についても、フィクションの使い方がまた上手い。後半万二郎に線香を上げに来る西郷隆盛に対して良庵が、歴史の表に立つものと歴史に残らないが生きていた人間のことを言う場面に示されるように、強烈な批評性があることとともに、見事な名場面として活かすことに成功させている。漫画は基本的にフィクションであるのは間違いないが、それでも真摯に真実を描こうとしている姿勢がしっかりと見て取れる。手塚の漫画の上手さは、絵が素晴らしいのはもちろんなのだが、そういう作家としての芯の強さのようなものがあってこそという気がする。人間的にはだらしなかったり、落語的にしょうがない人物であっても、心のどこかにはいい加減でない、信念のようなものを持ちながら生きている。それは主人公であっても敵であっても、みながそのような背景があるものなのである。全部を描ききることはできないまでも、それがあることに意識を持っている。手塚漫画を読むというのは、そのようは視点を獲得することにもつながるのだと思う。それは今や、日本人としての財産といっても過言でなかろう。
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感動不信感

2014-02-25 | 境界線

 佐村河内も罪なことをしたもんだな、と改めて思う。
 雑談でのことではあるが、今となっては彼の曲(と思っていた)だというだけで、実につまらなく聴こえる、という話が出たときのことだ。そうしたら、いや、実際は新垣という人の曲だったわけで、今聴いても素晴らしい、という人が現れた。なんとなく場が凍る感じ。そしたら、新垣という人だって、マーラーなどをコピーしてつぎはぎして作ったに過ぎない批判、などが持ち上がる。コピーなら、一定以上いい感じでも当たり前じゃないか論争なども勃発。新垣自身の批判もあるが、結局彼は名前が売れて依頼が増えているらしい複雑化マーケット論も出た。佐村河内今後論では、みな一様に批判的だが、彼のような存在を望んでいる社会論というのもある。さらには小保方さんの割烹着の話など、結局は周辺のことが主になるマスコミ批判、結局価値の分からない大衆批判などに発展して収拾がつかなくなるのだった。
 実はこれ、一度のことではないんですよね。あちこちでこんな感じ。
 さらにちょっとだけ興味深かったのは、オリンピックなどでは当然のように苦労話などがメダル周辺のあたりから持ち上がるのだが、そういう話でさえ、警戒して、なんだか冷めてみている自分がいる、という話もあった。いわば感動恐怖症のような状態になっているらしい。今やいったい何を信用したらいいのか、そういう人間不信の根本を呼び覚ましてしまったらしい。彼らの不幸のすべてが佐村河内だったのか、というのは短絡だが、きっかけだったことは間違いあるまい。そうだとすると、彼のおかげで気分的に不幸になった日本人というのは、相当数居そうである。つまり、改めて罪深い人だったんだなあ、という話でした。
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しみじみと涙するホラーの名作   漂流教室

2014-02-24 | 読書

漂流教室/楳図かずお著(小学館)

 子供の頃に入ったお好み焼屋だか床屋だかに、その頃のでもすでに古くなりつつあった週刊誌などがおいてあって、それを待ち時間に読むのが、その店に行った本来の目的よりも楽しみだったということはあった。子供のこづかいというのは限られており、漫画本を十分に読むというのは大変に贅沢なことだった。週刊誌ひとつにしても、一誌を連続して買えるような家庭というのは大変に恵まれているようにも感じられた。たいていは兄貴などの上の兄弟がいたり、中には若いお父さんなのだろうか、親が漫画雑誌を買っていて、それを好き放題読んで良いという友人なんかも居た。なんという恵まれた環境なのだろうかと、心の底からうらやましく思ったものだ。
 今回漂流教室を手にとってまとめて読み返してみて、ふとやはりその時代の気分のようなものを思い出すようなことになった。名作なので部分部分はやはりなんとなく読んだ覚えがある。しかしそのようにコミックを連続して買えるような身分ではない。さらにこのような作品を読めるような高学年の子供の頃には、すでに漂流教室は古典的な名作になりつつあった。主体となって読んでみたいと思っていた作品も、すでにその時代に連載されていたものに移っていたのだろうと思う。さらにやはり金銭的問題もあってか、文庫本などの安価な文学作品を読むようにもなる。そのほうがコストパフォーマンスがはるかに高い。結局漫画というのは、それなりに金を自由にできる青年期まで、満足に読むようなことはあんまり無かったのかもしれない。
 さて、しかし改めてこれを読んでみて、以前の子供がこれを読んでいたということを考えずに居られないような感動を覚えるのだった。実に大人チックな社会というか、実に社会的な批評や、非常に難しい問題をはらんだ作品のようにも感じるからだ。人間の激しい感情の描写についても、まさに命がけで表現されているように見える。細かいところでは疑問に思えないものもないではないが、この物語の勢いの前に、そういうことも忘れてしまうほどすさまじい展開が続く。息をつく暇もない仕掛けが次々とやってくるわけだが、演繹法的に行き当たりばったりに問題が起こるように見えて、しかし、実に見事に物語が収斂していくさまも見て取れるのである。ホラーとしての精度も当然高く、のめりこんで読んでいるのに逃げ出したくなるような矛盾をはらむ恐ろしさだ。まさに悪夢としか言いようのない嫌な思いを、これでもかというように体験させられるのであった。
 しかしながら基本的には、この物語は深い愛の物語である。人間がぶつかり合って殺しあったりするものの、基本となる背景は、愛憎劇だったりするのだ。その思いが深いからこそホラーの度合いも高いものになる。いまさらどうしようもないような展開になってしまうことも多いが、そうであるからなんとなく清々しいような印象さえ残す。残酷で過酷でありながら、心の底が暖かくなるような感覚が残る所為であろう。しかしながら同時にそれは恐ろしい人間の感情の根本であるということがいえて、後でジワリと怖くなったりもしてしまうわけだが…。
 ともかく、これほどの完成度の作品が僕らの子供時代に目の前にあったのである。これの影響を受けて大人になった人も数多いだろう。単に恐ろしげだったという印象の人には、ぜひ再読をお勧めするものである。おそらく子育てを経験した世代なら、改めて涙するに違いないだろう。まあ、ホラーに再度打ちひしがれることにもなってしまうのだろうけれども…。
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時空を超えて風呂を楽しむ   テルマエロマエ

2014-02-23 | 映画

テルマエロマエ/武内英樹監督

 原作は漫画。読んだことないがヒットしたらしい。そうして、たぶんそのアイディアこそ良かったというのはいえることだと思う。日本の役者の顔の濃さというのも焦点かもしれないが、それは映画というよりテレビ的な興味という気がする。それはそれで面白いけど、タイムスリップして適当にずれた感覚を楽しみながら文化批評ができているというのが、何より面白いのである。
 ローマの人々が風呂に入ったらしいというのは、確かに日本人の目からすると面白い事実だ。今でこそ日本のように風呂に入る(特に混浴)文化というのは一定の認知があるものと思われるが、以前は日本人の文化が低く野蛮だから風呂に入るのではないかとさえ言われていたことがあったようだ。シャワーなどの文化的な仕組みを理解してない所為だと思われていたのかもしれない。何故風呂かというのは日本の気候と条件と、やはり習慣的なものが大きいとは思われるが、現代的にもこのように娯楽としての風呂文化がこれほど栄えている国はおそらくどこにも無いだろう。
 それでもローマ時代の公衆浴場は、日本のそれとは当然ながらかなり違うものだろう。衛生的な体を洗うという目的も無いではないようだが、社交場のような意味合いもたぶんにあったようだ。さらに運動をしたり多目的な複合施設であったりもしたようだ。一見似ているようなところもたくさんあるから面白さはあるが、権力と公的なバランスを風呂が果たしていたという妙な場所だったようにも考えられる。
 さて、そういう場所に日本的な風呂の形が取り入れられると、やはり支持を受けることになっただろうか? そういう遊びの世界なのだが、これがギャグを交えて十分に説得力があるように見えるところが、なんともいえない魅力なのだ。そこに恋愛らしいロマンが混ざり、歴史的な葛藤のドラマとも絡んでいく。なんだか結構壮大なことになりそうになって、お話は一応まとまっている。実に不思議である。
 基本路線はギャグなので笑っていればいい。しかし妙に考えさせられるところも多く、そういう意味でもこの着想は大変に素晴らしいと思われる。一番面白い人間ドラマは、そのようなことをつないだり思いついたりする人間の想像力そのものということなのであろう。
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飯の写真の問題

2014-02-22 | 


 訳あって家での写真がなかなか撮らせてもらえない。

 そういうことで少し食日記が不完全になりつつある。



 それでも日々何かを食べているわけだが、そういうことで、最近は食事介助の写真ばかりということになってしまった。



 それはそれで記録としてはいいのだけれど(そうだ!記録をつけること自体が喜びのようだ)、なんとなく不完全燃焼という感じなのである。





























 でもまあ、自分が必ずしも食べてないにせよ、記録をつけるだけで満足をするというのはある。妙な趣味かもしれないが、僕はメモ魔的な性分があるらしく、手帳とメモ帳はだいたい携帯しているし、書くものが無ければズボンとか衣服や、また自分の肌にいたるまでメモしてしまう。



 書かなければ落ち着かないというのがあって、本を読んでいてオッと思ったときにペンを持ってなかったりすると、本当に泣きたくなってしまう。いや、実際には泣きはしないのだけど、駆け出してしまいたくなるような残念さを覚えるのだった。



 そんなにしてまでメモするくせに、書いてしまったことにはあんがい無頓着だったりする。



 われながらそういうことが不思議でもある。



 だから時々メモ帳などを見返すと、書いてあることが読めなかったりする。



 字が汚いというのがあるんだろうけど、読んでもわからない文字をにらんでも意味は分からない。



 分からないものに拘泥しても仕方が無い。
 また何かに気づいたら、再度メモしていけばいいのだ。
 メモ自体が目的化しているきらいはあるが、なに、本人の習性なんだから誰にかまうことなど無いではないか。そういう気分のほうが優先されていて、記録残しはやめられないのである。


































 ところで、そういう具合に記録をつけているわけだけれど、僕はこのような写真でさえ、あんまり前のものを見るということはしないようなのだ。



 これもやはりメモの一種という意識がやはりあるせいなんじゃないかと、書いてて思うようになった。



 つまり、記録を残すことには熱心だが、振り返ることには熱心でないのかもしれない。



 写真を撮るがこのように記録に残しさえすれば、とりあえず安心してしまう。



 そうして安心さえしてしまえば、見返すことはしなくても、それはそれでどうでもいいのかもしれない。



 これも記録に残す、メモの目的化行動と定義できそうだ。



 そもそも後で見返したり、忘れないために記録を残すという目的がありそうだというのは分かる。



 しかし、その目的以上に、メモなどの記録化する行為自体が、完結して楽しい、ということがあるのではないか。



 事実、こうしている時間は結構楽しい。



 その証拠に、時間を忘れて、一時期ではあるが没頭している。



 楽しくないと、なかなかそういう境地にはなれるものではない。



 ただでさえ、僕は集中力が乏しい。



 いつも何かに集中するために、苦労を重ねてきたといっても過言ではない。



 そうして苦労して集中しようとしても、別のことが気になりだしたら、簡単にことを放り出してしまって、そうしてなにをやっていたのかをすぐに忘れてしまう。



 もともと、そういうことを予防するためにも、メモをして、これをやるという意識を集中するような試みも行っている。



 だから、仕事のときなど、時々そうやって今やっていることを具体的に意識付けしたりするのだ。



 うっかりそういうことを忘れてしまうと、やはり次々と違うことにだけ手を出してしまって、結局収拾がつかなくなってしまう。


 
 もちろん、妨害するのは自分の意識だけではない。多くの場合、外部からの刺激があって、それに気をとられているうちに、別のことをやってしまう所為だと思う。



 代表的なのは電話の類。これがあると今やっていることは、ほぼすべて途切れて電話の内容のことになってしまう。



 何かに集中するためには、そのような外的な環境をある程度整える必要があるのだろう。そうであるなら、やはり難しい問題であるというのに変わりは無いのだが…。



 ということで、やっぱり記録をとりながら如何にシングルタスクで何かをやり遂げるということを極めなければならない。記録をつけることがそのまま目的であったらどんなにいいだろう。


 
 しかしそのような希望がかなえられることは現実には無いので、記録を目的化しているようなブログを書いているということなんでしょうね。

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もうすぐお別れコース

2014-02-21 | 散歩

 昼休みに散歩をする。事業所が山の中にあるから、小一時間ちょっとしたハイキングである。
 最近は寒いので、ジャンパーの中にセーターを着ていることが多いのだけど、散歩に出るときは忘れずに中間に来ているものは脱ぐようにしている。結局荷物になるからだ。しかしながら外は寒い。散歩に出るときはブルブル震えながら、約15分程度下りの時間を耐えしのぐという感じかもしれない。
 今年は本当に風が強い日が多い。向かい風だと息が苦しくなるほどだ。木々がざわめき、隣の木と擦り合い、奇妙な音も立てている。倒れてしまうものもあるし、時に通行に邪魔になりそうな場合は、道払いをかねてわき道に押しのける。いろんなものが落ちているので、実に適当である。とてもじゃないが、全部は無理だ。こうやって森は新陳代謝するのかな、と思う。しかし後で溝払いは大変そうだな。
 いろいろコースはあるのだが、最近は50分程度の道を選んでいる。90%は共通部分だが、ちょっと脇にそれて広い田んぼを迂回するものだ。季節もあるが、今はめったに人とは会わない。しかし斜面のあるハウスからは、ラジオの音などが流れて聞こえてくるときがある。お昼時まで仕事をしているのだろうか。もう切り上げて飯でも食べたらいいのに、などと飯抜きでありながら考えたりする。
 そうして後半のほとんどは、緩やかに上る。上りだして5分もしないうちに、体はポカポカしだす。負荷がかかると、体は簡単に反応するのだ。ジャンパーの前を開けて風を取り入れる。ヒンヤリが、本当に心地いい。でもすぐに暑くなって、結局はジャンパーを脱がなくてはならなくなる。汗をかくのは不快だから、そのタイミングは難しい。体の芯は暑いが、手足は凍えそうに冷たい。風が強いので気化熱は簡単に奪われる。暑いが寒いを感じながら、この度合いで汗が流れるようだと、確実に風邪を引く。しかし午後に来客がある場合だと時間が気になって、ゆっくりも歩けない。内心複雑だが、容赦なく上りは続く。
 事業所が引っ越すので、おそらくこの道を歩くのも後わずかなことなのだろう。引越し先は平坦な場所で、このような上りを楽しむということは、なくなってしまうのかもしれない。小さなまちなので、散歩コースは少ない。それでも山道よりはいくらかバリエーションはとれそうである。それにしてもこの道で、もうすぐ青もじとかツクシンボウとかを見ることになったはずなんだよな、とも思う。何年もお世話になりました。けど、もうおさらばだ。
 最後に急激に下り坂を降りる。事業所の陸屋根を見下ろしながら、風にあおられながら、道を下る。ここで体温が一気に下がるのが分かる。事業所の玄関前になると、改めて上着を羽織る。手はかじかんで動きにくいが、汗をかいた体を急激に冷やすわけにはいかない。二三分廊下をうろうろして、散歩終了。この日課が続くうちは、まだまだ寒い季節が続いているということなんだろう。
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アベノミクスの所為?

2014-02-20 | 時事

 アベノミクスに対する評価として、よく街頭インタビューをやっている風景が流される。庶民やビジネスマンの感覚的な評価を聞こうということだろう。もともとアベノミクスをどの指数で評価すべきかというのはあるはずだが(成長率とか)、いろいろな評価の仕方があるのは仕方が無いことかもしれない。でもまあ、どれかにしてくれないことには、本当に一定の評価を下すことは不可能になってしまうだろう。
 それはそれだが、しかしこの街頭での返答を聞く限りでは、実感としてはまだまだというものが多いように思う。つまりアベノミクスはまだまだであるという評価であるといっていい。
 まあ、遊びなんだからそれでいいとは言える。実際に聞く前からある程度は分かりきっている感じもする。安倍さんは確かに景気を良くすると言ってるんだから自らまいた種なんで、景気について語られることは避けられない問題だろう。やり方についての議論はともあれ、社会実験を政治でやろうというのだし、その選択に国民が同調したのも事実としてあるとは言えるだろう。だからそのこと自体は問題とはいえない。
 しかし大阪商人でなくとも、自分の懐具合での景気を聞かれて、素直に答えるような人が本当にいるのだろうか、問題はある。あきまへんな、といっても本当に駄目なのかは分かりようがない。ぼちぼちでんな、はかなり良さそうという話もあるが、これだって文字通りボチボチの期待度ということもありうる。ライバルもいることだし、手の内を明かしてそれでいいという状態や心理になると、どうなんだろうか。
 また、個人の景気でいえば、たまたまパチンコで勝った人は景気がいいはずだ。さらに奥さんの機嫌が良くて、お小遣いを余分にもらったりすることも無いとはいえない。そういう人が実感として良いと答えることも、アベノミクス評価に加えていいものだろうか。
 繰り返すが、要するに遊びだ。そういう場合の返答を使用される可能性も低いし、想定しているだろうまだまだ実感が伴わないという意見を流すだろうことは間違いない。
 実は僕が気になるのはそういうことではない。そういう思惑に乗せられているということも問題ではないではないが、安倍さんのせいで自分の景気が悪いと感じているだろう感覚については、問題があるのじゃないかという疑問のほうなのである。
 つまり今自分がかかわっている経済状態は、基本的に自分の業績とダイレクトに関係があるはずで、つまり基本的に自分の影響下が一番大きいのではないか。自分ひとりという個人ではどうにもならんという意見もあるだろうが、そうであっても、国のせいだとか安倍さんの所為で自分の経済状況が良くなるなんて感覚のほうに問題がありそうに思う。もちろん国が所得税のようなものを減税してくれたり、規制緩和して参入障壁を取り除いてくれるということは、直接的に会社や個人の経済状況を良くさせうるものかもしれない。しかしそれ以外の国の政策で個人の実感のあるような景気のよさというのは、よっぽど会社の業績が上向いて臨時のボーナスを出さざるを得ないようなことにならなければ、なかなか実感など伴わないだろう。そういうことになるとボーナスの時期とか昇給の時期にならない限り、たとえば一会社員のような立場の人が、実感として景気をどうこうなどとは語ることができないのではないだろうか。
 安倍さんの所為にできるような人というのは、基本的に自分の能力を他人の所為にできる人ということが、これで言えるような気になりませんか。これは結構試金石っぽい問題なんじゃなかろうか。
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危機こそ踏ん張りどころという国家

2014-02-19 | 時事

 雪のニュースや海のニュースが同時に流れており、なんだかやはり世界は広いな、と思う。
 こういう時に天ぷらを食うのは拙い、ということもあるらしくて、難しい世の中である。不謹慎に聞こえるかもしれないが、そういうことを言う輩の方がずいぶん不謹慎というのが基本的な僕の感覚ではある。間違っているのなら謝ってもいいけど、間違っているとしたら、それはたぶん不自然な世の中だろう。
 まあ、それはいいのだが、この状態は、以前聞いたことのある、いわゆる想定外だろう。天然自然のものだから人々はあんまりそういうことに上手く言えないだけで、基本的に文系の想定外というのはこれだろうと思う。いや、厳密にいえば、理系であってもこれはそうなのである。むしろ雪に弱い都市生活を笑おうと思っていたからこそ、こういうような感覚を失ってしまって、そういう反省さえ隠そうとして、エスカレートしたのではなかったか。僕みたいに、朝以外あんまりニュースを見ない人間であっても、このような異常さは見て取れたのに、ネット上では報道しないというような、変な反応さえあった。なんだか馬鹿馬鹿しいのだが、それが今の日本の社会の縮図なのだろう。もともと合理的な社会ではないが、嘘の方が簡単に幅を利かせて、結局批評性のようなものは、嘘の方で賄ってしまう。諸外国から付け狙われる社会ということなんだろうな、というのは、暮らしながら分かるわけだ。悲しいがそれが現実ということなのであろう。
 それでも、恥ずかしい思いを抱きながらでも、着々と現状を何とかしようと動く人々がいる。これこそが本来の強みで、これをどうこう言うよりなにより、現実が変化をする。一番の強みはやはり批評性ではない訳だ。現実的な国家のありようというもので勝負をするなら、まだまだ勝機はあるというべきなのではないだろか。
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今となっては完全にありえない話だが…   刑事コロンボ・意識の元の映像

2014-02-18 | コロンボ

刑事コロンボ・意識の元の映像/リチャード・クワイン監督

 これはなぜか子供心によく覚えていた作品だった。すぐに、あ、キャビア! と心の中で叫んでしまった。お話が面白かったというのもあるのだが、この犯人の扱うトリックに唸らされたというのが一番大きいように思う。実際にサブリミナル効果には、これをきっかけに興味を持ったこともあるし、後に映画館でのポップコーン販売にはこれが利用されているらしいといううわさだとか、コカコーラがこれを実際に使っているという話題が巷間に流れたりしたようだ。放送上は実際に規制されているようだし、現在でも多くの人もその言葉は知っていることだろう。しかしながら現在はその効果というものは限りなく怪しく、はっきりとまったくそういう効果は無いというが結論のようだが、このコロンボの時代にはそれがまた未確定だったということなんだろう。そうでなければ成り立たない話でもあるし。
 そういう過去に感心をしたお話であっても、大人になってみると印象は変わる。お話としては今回も楽しめたが、やはりその原理以前にいろいろ問題があるようにも感じるからだろう。そもそも他の人もこのサブリミナルの影響を受けえる環境にあったのだから、キャビアを同じようにほかの人が食べる危険性もあったし、もしくはたまたま別の理由で喉が渇いていた可能性がぬぐえない。一人だけが影響を受けてしまったというのが、少し苦しい感じもする。そういうことだからキャビアだけが仕掛けであるのは、まずい感じがある。さらに夫が殺されたときにアリバイの無い婦人の捜査もあいまいすぎる。コロンボの科白としてはかっこいいけど、それ以上の効果は無い。また、第二の殺人にいたっても、最大の容疑者を簡単に泳がせすぎであろう。しつこく付きまとっているコロンボの失態と言っていい。この殺人を見抜くトリックも、いつもコインを置いているとは限らないわけで、やはりちと苦しい。そうしてやはり最終的に、証拠の品が部屋にあることが分かっていながら、最後まで捜査で探し出せていないというがかなり痛い。これがこのお話の面白い仕掛けであるにしても、そういう抜かりがあるからこそワザと証拠を残しているという演出のほうが面白かったのではあるまいか。
 そんなようなことをいまさらながらに感じながら見ることになったのだが、ケチはつけても、やはり面白くはあるのだった。なにせ昔の人は事実を知らなかったのだ。むしろそういうことが信じられていた時代だからこそ成り立つものというのがあるのだから、作り物のお話だってそれは楽しむにしかずなのである。お話のテンポもよく、ダレたところも無い。軽快にお話が進んで、アッと驚いてサッと終わる。このシリーズの芸の面白さを見事に展開していることは間違いあるまい。子供から大人まで楽しめる娯楽の王道ドラマであることは十分に理解できる佳作なのである。
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とにかく超特急アクション   ボーン・アルティメイタム

2014-02-17 | 映画

ボーン・アルティメイタム/ポール・グリーングラス監督

 このシリーズは、とにかくアクションアクション、さらにアクションという展開なのだが、コマが切れすぎていて、さらにちょっと早すぎて、実際は何が行われているのかはよく分からないということはある。ありえないアクションはそういうことでもいいのだけれど、しかし人は死ぬときは実にあっさり死ぬ。主人公が簡単に死ぬわけにもいかないからそういう事情には目をつぶるにしても、ひとたび殺し屋同士のレベルの高い戦いになると、そう簡単には事が運ばなくなり、それなりにダメージが大きい上に、しかしその後はすんなり逃げ切ったりして、ほんまやろか?という妙な不信感もわくような感じなのだ。凄いのだけれど、でもそれだけの凄さがあれば、もう少し頭の回転を別のスマートさに使ったほうが良いような気がしてしまうのだろう。十分立ち回りは知的で動きも素晴らしいからこそ、そういう行き過ぎた作り物感というのがどうしてもぬぐえない。いくらいろんなことがあって記憶を喪失してしまったとしても、そうであるからこそ、もっと慎重にならざるを得なかったことも多かったのではあるまいか。
 巨大組織に個人で対抗するという都会アクションという設定がまずは大切だけれど、やはりその総力戦に向かっても個人で何とかなるような脆弱さがあることのほうが、なんだか問題が多いということかもしれない。主人公は映画的には正義だから仕方ないのだろうけど、自分を本当に守りたいなら、テロなどの手法を屈指して組織と戦うほうが王道である。大胆なことをやりながら正義を貫くということは大変に困難で、だからやはりリアリティは損なわれる。自分を殺そうとしたり邪魔をするから大儀では殺していいということかもしれないが、彼らにだって家族がいたことだろう。それは過去の自分であって、だから罪の意識を持っているらしいが、それならもう少し自分の記憶を取り戻すために、自分自身で試行錯誤する必要を感じてしまうのかもしれない。結果的に多くの人が巻き込まれ、実に多くの人が迷惑をこうむっているのではなかったか。陰謀や暗殺にしても、ちょっとチェック機関が安易過ぎるきらいもある。そういうことに税金が使われている米国市民については、なんとなくお気の毒にさえ思えてしまう。それでは映画にならないまでも、アクションを支える背景としては、少し漫画チック過ぎるということになるだろう。
 そういう行き過ぎた漫画チックさはアクション映画としては仕方ないにしても、カーチェイスその他は、やはりものすごい迫力だ。それだけでも観る価値はあると思うが、しかしやはり生きているのは奇跡だろうし、生き延びてもダメージが相当であることは間違いなかろう。今やこのようなアクション映画というのは、事実上生身の人間には無理なことになったような気がするのであった。
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この際邪魔くさい倫理観は忘れてしまおう   ロボジー

2014-02-16 | 映画

ロボジー/矢口史靖監督

 普通に考えたら成り立たない犯罪映画なんだが、それではお話が成り立たない。ブラック企業が圧力をたてに社員を犯罪に染めさせる社会派映画、だったらヒットすらしなかったろう。実際はそういう内容なんだけれど…。
 ありえないことは続くのだが、妙な綱渡りのバランス感覚があるのも確かである。ロボットとしてはありえないことでも、社会的な人間の思い込みとしては、ありえる話が内在している。多くの人がそのつもりになりきっていると、それぞれの勘違いの連鎖で、その場は成立していたのだ、ということになっている。ご都合はいいのだけど、それ自体が妙な風刺とギャグになっており、慣れてくると結構楽しいということになる。つまり、映画としては、これも成立しているという見方ができる。ありえないけれど現実社会の風刺にもなっており、そうして結構心温まる話にもなっていたりする。結局そういう映画作りの感覚としてのバランスに優れているからこそ、楽しく成り立っている寓話に仕上がっているということなのである。
 いろいろとキャストの使い方に妙があって、演出はわざとらしいのだが、それが活きている感じだ。もう少しあわてたり、防御策に案を練ったりということはあんまりしないが、それなりに切羽詰ってどうにもならず、そうして逃げ場がないのでやってしまえ、という感じは分からないではない。分かるがしかし、しないだろうけど。そうしてやってしまった人生の踏み外し行為を、身内の連中が気づいていないというミステリーも気にならないではない。外国人から疑問が出たという以前に、普通ならいろんなところから疑問が噴出するのが当然そうにも見える。それが最大のファンタジーなんだから仕方ないけど…。
 老いの問題、核家族問題、学生の就活問題、さらには報道のあり方なども問題といえば問題というような題材も数多い。研究開発の現場という、仕事のあり方の問題だって重要である。それぞれが複合的に絡まって、日本的なファンタジー・ギャグが生まれる。そのこと自体も大変に処理が上手いし、俳優たちの楽しそうな演技も花を添えているということなのだろう。
 舞台とか漫画とか、そういう世界で取り上げるような物語かもしれないが、映画でもがんばってそういう世界を構築できる。逆説的にいまどきかえって珍しい成功したコメディなのではなかろうか。もちろん、多くの倫理観を無視した上で、その危うい楽しさを堪能してはどうだろうか。
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考え方の違いが際立つ怪獣観   パシフィック・リム

2014-02-15 | 映画

パシフィック・リム/ギレルモ・デル・トロ監督

 はっきりいって、そりゃないだろう的な映像世界なんだが、日本の怪獣映画をハリウッド的に解釈して漫画チックにしたらこうなったという娯楽作。もともと変な映画だという理解があれば、十分楽しめる作品だと思う。話題にもなっていた芦田愛菜の演技も、フラッシュバック的な演出にありながら、ほぼ完璧な印象を残す圧巻さである。CGより何より人間が一番力のあるところを見せ付けたわけで、これだけで女優賞をとっても誰も驚かないのではなかろうか(もちろんそういう対象になる映画ではなさそうだけど)。
 もともと変な映画なので突っ込んでも仕方ないところなのだが、その明らかに偏見に満ちた世界観というのは、かえって日本人の僕らには新鮮に思えるものが多いのではなかろうか。封建的な西洋社会とアジアの混沌が混ざる彼らの考えるエキゾチズムというものがこうなんだというのは、われわれの感覚とは当然ながらかなり違う。ちょっと子供っぽいかっこよさがいまだにウケるであろうことも感じられるわけで、僕らが子供のころから親しんできた漫画やヒーローものというのは、ずいぶん屈折したものが多かったのだということを改めて思い起こさせられる思いだ。そういう意味では彼らは悲しみや喜びがかなり単純であることや、むしろそのような演出を選択する製作陣の考え方ということにも考えが及ぶわけだ。おそらく映画作りに対する作家性の違いがあるのだろうけれど、こういう狙いで娯楽作を作るという明確さにおいては、やはりそれなりに力のある考え方なのではあるまいか。
 たとえば怪獣が現れる理由についてなどを考えてみてもいいだろう。日本のゴジラなどは放射能などによる変異といわれており、それは一種の文明批判といわれている。それはそれでもっともらしいが、実のところそれは謎のままであってもかまわない人はかまわないという姿勢も見え隠れする。現実には脅威がそこにあり右往左往する人々がいる。日本の妖怪やお化けの類も、なんだかよく分からないものが多い。しかしそれでも怖いんだからそれでいいという感じもあるのではないか。
 一方でこの映画のように、最初はその怪獣の存在理由というのはよく分からないのだが、人類はいつの間にか彼らをタイプ別に分類し、ある程度の力の程度も、なんとなく事前に理解している。そうして、相手の脳と同化して(そういう理屈だから仕方ないじゃないか)彼らの地球侵略の意味さえ理解するようになる。原因をちゃんと理解した上で対策を練った結果が巨大ロボットだったように、彼らは最初から最後まで論理的でなければならないらしいのである。
 文化の違いといってしまえばそれまでだが、そういう考え方が土台にあって、当然違った怪獣映画の世界観が構築される。シリアスなドラマではかえって分かりづらいことであっても、このような娯楽作だからこそそういう考え方を知ることになる。人間の文化的な土壌というものが如何に思想に影響を与えうるかということもいえて、興味深いものではなかろうか。
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変だけど勇気あるものたち   トゥルー・グリット

2014-02-14 | 映画

トゥルー・グリット/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン監督

 いわゆる痛快な西部劇というのではない。それにおそらく米国人が望んでいる娯楽としての西部劇では間違いなく違う。しかしわれわれはこの作品がコーエン兄弟だということを知っている。つまりそういう映画として非常に楽しい出来栄えの作品となっている。いろいろ難しいこともなく、比較的一般の人でも楽しめるつくりになっているのもありがたい。それでも繰り返すが、水戸黄門を期待した人が羅生門を見てしまったくらいの落差はあるので、心構えとしてはコーエン兄弟なんだからね、ということは忘れないでいただきたい。
 ということなんだが、まあ、普通にも面白い映画にはなっている。金持ちの堅物で正義感の強い少女が父親の敵討ちに燃えているのもいいし、それを受けての飲んだくれの保安官と、ちょっと落ち着きはないけど力は未知数のレンジャー(ってなんだろう)の男も悪くない。悪党も味があるし、お約束の残酷シーンも殺伐としていい感じだ。考えてみるといろいろ正義の形があったわけで、なるほど、という深読みも可能だ。クライマックスだってちゃんと盛り上がるし、娯楽としても立派である。楽しめてよくできているなんて、まったくすばらしい映画じゃなかろうか。
 人間にはいろんな正義や大儀があるのもよくわかる。復讐は今では正義ではなかろうが、人間的には正義とは言える。法律も正義だし、男気だって正義だ。しかしそれらのものは、少しずつだが、やっぱりどこかおかしなところがある。特に象徴的なのは、復讐劇を手伝う保安官は、飲んだくれてどうしようもないように見えるが、人を殺すことにかけては非常に長けている。そういう人が本当に正義の味方なのだろうか。結果的に父の敵さえ殺してくれればそれはありがたい訳だが、最終的に見つけた敵は、なんとなく本当に悪いやつのようには見えなかったりする。取り巻き連中は悪そうだけど、なんとなくそれはそれで却って安心できるやつらという感じさえする。とにかく、やっぱり全体的になんとなく変なのだ。しかしながらそうであるからこそ本当に人間的なドラマが展開されるというか、作り話だけど、変にリアルな感じになるかもしれない。最後はファンタジーという感じで終了するのだけど、そういうことでのリアルさとの対比があって、実際の人間の心の部分では、最後こそが本当に正義とは何かがわかるような気もするわけだ。まったくよくできた映画だな、ということで脱帽せざるを得ない。多少変な人たちだから表現できる世界というのがある。それが映画という娯楽の醍醐味なのであろう。
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