カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

麻生さんの誤算、という範囲におさまらない変化でしたね

2009-08-31 | 時事
 一夜あけて杏月ちゃんと散歩してみると、明らかに歩いている人が少ない。みんな夜更かししたのかな、とも思う。未明まで寝られなかった人も多いのかもしれない。
 しかしながら住宅街を歩くと、朝からテレビとかラジオ(家事しながらラジオという年配の人は結構いるらしいのだ)の音が漏れ聞こえてくる。音量が大きいのはお年寄り世帯だということのようである。静かな朝の所為か、余計に音が響いて聞こえてくる。内容はまさに選挙一色。おそらく今日に限らず、しばらくはこんな空気が続くのかもしれない。
 さまざまな分析をする人が出てくるだろうし、事実として革命的な結果になったことは大きな変化の予感として当然だとは思うが、実際には先行きがよく分からないというのは正直なところなのではないか。民主党の本部系の人たちは、掲げてきたマニフェストを実行するのみということをいっているようだけれど、現実的なものが少ないということを鑑みても、かえって不安が募るような気がする。今は勝利の美酒の中、聞く方も「ああ、そうですか」で受け流している感じだけれど、実際に実現可能な情勢になった今となっては、着実にマニフェストを実行することが、将来の失墜の原因になることは、逆に明白に思える。どれだけ修正できるのかということの方が、実は最も大切で、目の前の脅威は消えた(自民党は党が崩壊するかもしれない。つまり事実上民主党の長期政権の可能性か極めて高まった)わけだから、最初にお手盛りだった内容を精査することを真面目にやった方がいいのではないか。結局保守から保守へ変わったということが選挙結果の実情なのだということは、革新的な変化(極端にいうと左傾化)ということが求められているわけではなく、現実問題の舵取りを、そつなくこなすことの方が、よりこの正当に求められていることのように思える。
 官僚はいち早く新たな閣僚へコンタクトを取り、舵とり指南を始めることは必至であって、その前段階の守備固めを(つまり勉強を)どこまで充実して出来るのかということが最も重要だ。自民党崩壊のもっとも大きな原因であるのは、年金問題をはじめとする官僚の信頼の失墜(事実上この国のプランを実行してきた母体である)であることは明らかだ。つまり官僚のいうことを聞いている政党に対しての拒否感が、ここまで根強い不信の原動力だったと考えるべきだろう。だからこそ、しがらみのないまっさらな、もっとひらたく言うと、まったくの政治の素人であっても、国民の信託を受けた票が集まったとみるべきだろう。素人らしくおかしいと思うことをおかしいと感じられるうちに官僚と対峙していけるのが、もっとも大きな民主党の力となることだろう。
 などということを考えながら散歩してしまった訳で、しかしやっぱり何とも先行き不安である。始まりはしたが、まだ何も始まっていないのだし、とりあえずはどんづまりだった道があけたのかどうか、ということを見ていくより他にないのであろう。
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この件をもって増税するのはどうか

2009-08-30 | 雑記
 24時間テレビの偽善的な部分に対して批判したわけだけど、しかしこの番組の寄付によって助かるというか、実際に役に立つということがあるという事実はどうなるのだという意見があって、さらに「(こんな番組は)やらなくていい」という意見の人は、そういうことに対して無責任ではないかというような事を考えると、なるほどと思うのも確かなのであった。政府のようなところがやるべきことを民間でやらなくていいというのは、さらに増税が必要と言っているのと等しいわけで、そういうふうに考えると、金を集めて非効率に分配する国の存在を肯定することになってしまって、はなはだバランス的に僕の考えと齟齬を起こすことは確かである。やり方は気に食わないにしろ、修正しながらでもよいから続けるということには意味があるのかもしれない。
 ただ、やはり子供がしつこく見ているから仕方なく目にするということであって、僕に子供がいなければ、おそらくこのような時間を過ごすこと自体がかなり苦痛なのは確かだ。番組のコンテンツの多くはものすごく不快だ。また演出も実に酷い。マラソンなどは単なるいじめではないか。しかし、単にこの雰囲気が嫌いというだけで、またその方針まで気に食わないということも含めて、すべての善意を否定するには、少し行き過ぎということではあるのかもしれない。結局は子供がいてもテレビの方向を観なければ済む問題なのであろう。ということで、ほんの少しだが軌道修正します。
 頑張って多額の寄付を集めて役立ててくださいませ。
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結果よりすでに

2009-08-30 | 時事
 もちろん選挙には行くんだが、これほど結果がすでに明白な選挙も実に珍しいという感じがする。今までは水物だからといって、やっぱりなんとなく驚くことも多かったけれど、世の中の変わり目なんて、あんがいこんなものらしい。
 しかしながら、しばらくはきな臭い泥仕合の罵倒の応酬が続くのかもしれない。うまく掃除しているというイメージがつけば、それはそれでいいのかもしれないが、癒着とかカルテルとか新興勢力の跋扈だとか、面白おかしく混乱するのだろう。所詮政策論争で納得している人などいないのだから、今までのポーズはチャラにして、やるべきことをやるという姿勢が整えばいいのだろうと思う。やるべきことは明確で、今までやられていなかったことをやることはもちろん、今まで当たり前にしていたことをやらないことなのである。要は今までと違いさえすればそれでいいのである。
 どこまで抵抗勢力が暴れるのかということはあるけれど、すでにそれは必然になった。あんがい官僚の若手などは、この事態を喜んでいるのではなかろうか。
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ショッカーのアジトだったりして

2009-08-30 | 雑記
交番にライダーキック

 なんか嫌なことがあったんでしょうか。
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兄弟は仲良くしよう

2009-08-29 | 音楽
ノエル、オアシスからの脱退を表明
 驚きと共になんとも不吉な不安を感じる。まあ、普通なら「またかよ」で済む話題なのだと思いたい葛藤。
 しかし、いなくなれば成り立たないと素直に思うわけで。いや、でもリアムなら「できちゃうもん」と強がってやるのかもしれないし。

 いろんなことが今日を境に変わってしまうのかもしれないですね。
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選挙権の行使をする多数の力

2009-08-29 | 時事
農政に見る民主主義の罠
 仮説の部分はあるけど、おおむねそうだよなあ、と納得するのでは。だから民主党であっても、支持母体でもない農政には及び腰になるということなのだろう。怖いということなのかも。
 しかし民主主義というのは多数決が決めるものと勘違いしてはいけない。少数意見であっても発言することができるのが、真の民主主義だろう。圧倒的な多数決で成り立っている民主主義は、北朝鮮であったり、以前のナチスドイツや日本だったことを忘れてはいけない。
 つまり今のゆがんだ農政は変革が可能だ。たとえものすごい抵抗があろうとも。それに今のゆがんだ農政に苦しめられているのは、決して少数の人々なのでも無い。結果的に多数の国民でもあるわけだ。
 土地というのは個人の資産でもあるが、農地とはいったいなんだろうか。そこから手をつけると結構話は早くなりそうではある。怖がらずにやってほしいものだと思う。
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死都日本

2009-08-28 | 読書
死都日本/石黒耀(講談社)
 ドラゴンヘッドを読んでいて、そういえばもう一つ災害ものの話があったなと思って、本棚を探して見つけた本(実は買ったのは最近。なんという偶然)。この話は対照的に、徹底的に起こりうる話を出来るだけリアルに再現した小説になっていた。
 日本は火山列島であるから、いつどこで大規模な火山噴火があるかはわからない状況である。人間の寿命から考えるとそういつも大噴火が起こっているように感じないだけの話であって、地球の歴史という視点で時間の軸を考えなおすと、実に頻繁に噴火ということは起こっている現象なのかもしれない。
 さて、本小説では霧島が噴火することになるのだが、だからと言ってそれは九州の一地方で起こる災害ということにとどまらない惨事に発展することになる。噴火の規模がそれなりに大きいということもあるにせよ、実際に起こるとしたらこのようなケースが考えられるということなのだろう。そしてひとたびこのような噴火が実際に起こると、本当に日本は壊滅的な状況に陥ることになることが、見事にシュミレーションされて展開されるのであった。それは豊富なデータに裏付けされており、臨場感もあってまったく恐ろしいのであるが、その反面なるほどと感心してしまうことが多かった。実際にこのような噴火があると、本当に日本という国はどうにもならなくなってしまうことが実に明明白白に語られていき、背筋が凍るというか、人間の存在自体が何ともちっぽけなものに思えてくるのであった。
 噴火災害の被害で壊滅的な状況になることはもちろんなのだが、現在の日本の国際的な連携状況から考えて、経済的にも破綻することが明らかにされる。また、たとえ幸運にも被災から逃れて生き残ることができても、諸外国が日本からの難民を受け入れることが不可能である事情も克明に説明される。噴火のために世界的な農作物が連動して打撃を受け、高騰して将来的にも行き渡らなくなってしまう。世界も大混乱になり、もっとも被害を受けている日本であっても、基本的には自力で何とか道筋をつけるより他に方法が無いのである。
 小説では、幸いその時の日本の首相が政権交代を果たしたばかり(これもなんという偶然だろう。しかし肝心の次期首相のイメージ(8月28日現在の予想)とはかけ離れている。念のため)の新しいタイプの強力な指導力のある人物に描かれており、小説の流れは決して後味の悪いものにならない工夫が凝らされている。小説としてはそれでいいし、実際にそうなったとしても、指導者はそのようにすべきであろうとも思われて、この作家の現代の政治批評にもなっているところは、愛嬌といってもいいかもしれない。いや、このような災害が無い限り、日本の再生はないのかもしれないとも思えるわけで、そういう部分は感慨深いともいえる。
 さてしかし、災害への備えとは言うが、実際に起こりうることをシュミレーションしていくことで、やはり今何をすべきなのかということも考えさせられることである。火山の噴火という現象は自然のものだし、いくら科学が発展している現代とはいえ、予防する手立てはない。日本列島は本来なら人間が住むには適さない場所なのかもしれないという根本的な問題はあるにせよ、だからと言ってすでに住んでいる人がたとえば海外に移住するということは現実的でない。ひとたび噴火すれば多くの人がまずは死に絶えてしまう。そして生き残ったとしても相当に長い時間復興は不可能である。そこで軽い思考停止に陥ってしまいそうになるのだが、もし生き残ったとしたら、やはり壊滅的な状況にあっても、そのことを受け入れた上でやるべきことをするしかないということなのだろうな、ということである。実に当たり前だけれど、失われたものは取り戻せない。そして、人間はやはりそういうリスクのある自然の環境の中で生きていくよりないということである。ましてやほとんどの日本人がこの日本列島からはなれて暮らすことはできない。
 この小説を読んで備えられるのは、そういうある種の達観かも知れない。いつ死んでもいいとは言えないが、人間という存在はやはりなんとなくはかない。その上でちょっとかっこつけるならば、今を精一杯生きていくよりないということなのであろう。
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ドラゴンヘッド

2009-08-28 | 読書
ドラゴンヘッド/望月峯太郎著(講談社)

 映像はこの漫画が原作の映画のものである。映画の出来は知らない。しかしながらこのような世界ということはなんとなくわかるので、ご参考までに。

ドラゴン.ヘッド・予告編

 
 10冊千円だったので思わず買って読んだ。
 このようなサバイバル漫画は少年漫画の古典的定番といってよい作風なのだが、特にこの作品は、荒唐無稽なものが無いではないが、臨場感がよく出ていてなかなか読ませる傑作である。世紀末の絵も素晴らしくて、絶望とか恐怖というものが絵を見ているだけでも実感として伝わってくる迫力がある。
 少年漫画にサバイバルや世紀末ものがつきものであるのは、登場人物の成長物語が軸になっているということがまず第一にあると思う。この作品でもその線は、まず取られている基本ではあるとは考えられる。しかし、この作品が少しばかり異色であるのは、だからと言って、その成長していく登場人物たちの力が、そのまま未来を暗示している希望とは必ずしも言えないところにある。大人達は現実の波の中に呑まれてしまって、むしろ現実逃避の方向へ進んでいくものが多い中、主人公達は純粋に未熟な少年であることで、むしろ恐怖との葛藤を通して現実を直視していく姿へと変わっていくことになるのである。またそのようになるまでのストーリーの流れは、副線が張られているとはいえ、むしろ無軌道でリアルな破壊に翻弄されるのみなのである。それはちょっとばかり哲学的な話になるのかもしれないが、人間というものは何かという切り口になっているのだろう。またガイドラインとなる情報が決定的に不足していて、当事者としての被災の状況がこのようなものであるというリアルさがかえって際立つようになっており、そういう視点こそが、なかなか作者の鋭いところなのではないかと思わされた。
 希望というものが断ち切られてしまった世界においては、暗黒を切り開いたところで、所詮は他力本願的な希望にすぎないのではないか。人間はそういう超人間的な力に身をゆだねることによって、はじめて自分自身が救われるということがあるのかもしれない。しかし、もっと根源的には、自分自身の問題と向き合うことでもってしても、現実というものに立ち向かうことができるのではないか。自分の感じている恐怖は外的な要因で起こるものかもしれないが、自分を守るために必要なためにあるのではなく、むしろ人間性を保つためにも、恐怖というものと対面しなくてはならないのかもしれない。恐怖が無い状態は精神的な安静を得られるということは言えるにしても、すでに人間が生きていくということの根本的な生というものの動機ではなくなってしまう。この厄介な感情こそが、生きているというそのものの証明なのかもしれないのだった。
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二日酔いじゃない朝

2009-08-28 | 散歩
 今週は幸運(気の置けない飲み会)とつれあいの許しの出るタイミングの日が続いて飲酒出来る日が続いた。僕は痛風なので飲酒制限されているのである。もちろん痛風の発作には十分懲りてはいて、二度とあのような思いをするのは御免ではあって、ある程度の制限を受け節制することは承知しているとはいえ、別段喉元を過ぎて忘れたということでは決してなくて、冷夏のように言われているが連日暑く家に帰るとそれなりにホッと安堵する気分がアルコールの入った液体を激しく欲するということは正直な感情であって、つまり無性に夜が寂しい。
 しかし飲めない夜と飲める夜というのは取り決めの上に日中から事前に知れていて、今日は飲める日であるとかいうことになると、なんとなくやる気というか覇気というか、そういうものに影響がある。今日は飲めないのであるから頑張ってやる甲斐が無いような、そんな自堕落なことにもなってしまう。飲めるというのは褒美という面があるらしいことはまったくそうで、飲むために生きているわけでもなかろうが、何か仕事をした後に飲めるという幸福が、逆転して行動を左右するようなことにもなってしまうようなのであった。
 飲まない日があるとそれは自然に休肝日ということになって、内臓の方には休憩になっているという。それは体に良いということであるから、その体の持主である自分自身の体調が良くなると気分的にもすこぶる良いはずであるのが道理であると思われる。しかしながら事はそう単純では無くて、日ごろから飲むことの方が日常的に当り前のことになっていると、飲まない日の翌日は、流石に二日酔いの日よりは大層ましであるとは認めるにせよ、なんというか微妙に気抜けしたような、体が重たいような、そんな違和を覚えるけだるさを覚える。いつもと違う体の使い方をされて、内臓の方が反乱をおこしているのではないかと訝しくも思うのだけれど、それほどに体の方が実は既に痛んでいた所為とも考えられないわけでは無くて、どうにもぎこちなく腑に落ちないのであった。
 そういう日々がしばらく続いて、飲まない日があったり飲んだりする日があったりする方が、それなりにまともというか、日常として定着しつつあると感じるようになっていくと、自覚的に明らかに感じられるのは、酒量が落ちたにもかかわらず激しく酒の残る朝が増えたということであった。つまり弱くなったのである。しかし弱くなったにもかかわらず、飲める日には意地になって飲んでいるようなところがあり、せっかくの機会を逃してはならない焦燥感がついつい感覚を超える酒量を欲することにもなっているのではあるまいか。つれあいにいわせると以前から飲めるだけ飲んでおこうとする姿勢に変わりがないようなのであるが、自分自身を鑑みてみると、受け入れる器が小さくなっても欲求が変わらないのだとしたら、限界値がそもそも違うのであるからつらくなる度合がまた違ってくるのも道理ではないかと思うのであった。こんなことを書くと鬼の首を取ったようにだからということでさらに酒量を減らされる恐怖があるのだけれど、僕はある程度の正直さを身上としているので嘘をいうわけにもいかない。それに弱くなったから飲まなくていいなどという客観的な押し付けは、迷惑であるので断固抗議したい(まだ言われていないが…)。
 さてしかし昨日はそういう訳で最近では久しぶりに飲まない日で、今朝は飲まなかった日の朝であった。やはりなんとなく寝付かれず、その上何度も夜中に目が覚めた。朝方のどが渇いていないということだけは飲まなかった日の幸いであるが、ひどくけだるく瞼が重い。いつものように杏月ちゃんが母性(男にも母性はある)をくすぐる鳴き声をたてて呼ぶし、雨粒が落ちているわけではないのであったら散歩に行かないわけにはいかない。やる気というのは行動する後からついてくるというのが常識となった今となっては、行く気がないから行かないという理屈は成り立たない(しかしそれだと逃げ場はないな。行きたくないという積極的理由がなければ行動の否定はできないということになるようだ)。そうやってゴソゴソと寝床から抜けだし外に出ると、やはりそのままけだるい気分はなかなか晴れない。
 いつもは眼さえ合わせないパッチ姿の親父が、雨が落ちそうな雲行きの朝にもかかわらずペットボトルに水を入れて草花に水をやっている。僕は不思議になって眺めていると、いきなり「おはようございます」などと振り向きざまに挨拶を仕掛けてきた。僕はあわててもぐもぐと「おはよう」らしき単語を口ごもりながら返してまごまごしていると、杏月ちゃんが激しくパッチの親父に吠えかかるのであった。親父は目を丸くして一瞬だけ驚いたような顔をして、そして、ははは、と笑うのであった。僕もつられて可笑しくなってやはり、ははは、と笑った。いつの間にか気分は良くなって、そういえば朝のラジオ体操のために急ぎ足にすれ違う子供たちは皆無で、夏休みは終わったんだなあ、と実感したのであった。
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すでに意味なし

2009-08-28 | 時事
空港での検疫、効果に疑問
 それでもポーズとしてやらなければ非難があがる。意味がなくてもやるかやらないかは、保身としてやるかやらないかという問題に移りつつある。
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利点が欠点でもあった

2009-08-28 | 時事
静かすぎるHV車に「発音装置」
 これは以前から問題視されていて、いたるところで聞いていたにもかかわらず、良いと思われている性能の一つでもあるせいか、どうも放置されているように思われていた。聞こえなかったため(車の存在を確認できなかった)の事故がどれくらいなのかは知らないが、HVの運転者がヒヤリとすることがあるという事例は相当のぼっているものとみられる。歩行者を保護するのはもちろんだが、運転者を守るという視点も大切だと思う。事故は双方に不幸をもたらすのである。
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分かることは意義深いが

2009-08-27 | 時事

精神疾患:血液で診断

 そうなのかと単純に驚く反面、なんかこれって少し危険な匂いも感じる。喜んで利用しそうな人が、健全とばかりも言えない訳で…。
 就職などの際に血液検査をして精神疾患の人を選別したり、仕事の内容によっては血液検査で訴訟が起こったり(強度のストレス作業を強要されたとか)することになったりしないだろうか。
 現在のところ考えすぎだとは思うものの、あんがいいろいろと影響がありそうな感じがするところである。
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悲劇というべきか…

2009-08-27 | HORROR
 まあ、一種の名作ですね。息抜きにどうぞ。

【監視カメラ】夜中にウェイトレスがこんな事になるなんて・・・



 ところで、この映像を見て思い出したのが、映画「かわいい女」。
 以前のアジアのスターはハリウッドではこんな扱いだったというのは、彼らの意識というものを如実に表しているとも思える。世界というのは実は狭いのである。

Bruce Lee VS James Garner


 ただ、僕は悲しい。
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変な日本社会礼賛

2009-08-27 | culture
 記事としてはまとまりが無いし、ごく当たり前のことにすぎないが、米国人に限らず、日本という国は面白いだろうなあということは容易に想像がつく。

奇妙な日本人の生活

 正直言って日本人の僕でも多くの日本人は謎だ。しかしそれでも、日本語を使って生活するという自由さと豊かさ、諸外国に比べてやはり治安が格段にいいという安心感は、日本という国で暮らす最大の喜びかもしれない。多少変な日本の習慣であっても、我慢して暮らしていけるくらいに。それに、おかしいといっても、特に米国人のようなスケールの違う変人たちが少ないだけでも、ものすごく気楽だと思う(迷惑な人間関係のトラブルが少ない)。日本のように災害が多くても社会が簡単に破綻しないような国は、おそらく諸外国では考えられないレベルの秩序と柔軟性を兼ね備えている社会ではなかろうかと思う。それは単純に個人レベルの技能の高さが、異常なくらい平均的に高い所為だと思う。リーダーが不在でも生きていける社会というのは、(厳密には存在するだろうけれど)おそらく日本以外の国で達成させることは困難だろう。
 もちろんだからこそ生きにくい人もいるだろうことはよく分かるのだが、日本は笑って面白がられる程度の変な社会なんだと思う。集団の中で個人を発揮するにはむつかしいものがあるにせよ、個人が自分の主義で暮らすことに寛大なのは、本当に救われる思いがする。そうして、この社会で鍛えられた本当の変人たちは、諸外国では考えられないほどの変人に磨かれていくのではないだろうか。
 日本人はこれからも面白がられるくらい変であり続けてほしいと思う。日本が世界標準になるような社会は、おそらく面白いというレベルでは看過できない過激な社会であろうからだ。異端であるというのは、別段悪いことばかりではない。日本の社会が諸外国に駆逐されるとしたら、その個性を失った(または放棄した)時なのではないだろうか。
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このような影響があるらしい

2009-08-26 | 時事
 高校野球を好きな自分が嫌いな僕ですが(世間的に浮かれているものを好きなのが気に食わない)、正直言って日本文理はまったくノーマークだったのでした。この場を借りてお詫びまではしないまでも、まったく見くびっていたことを告白して反省したい。
新潟日報が半端なく熱い件
 そういえば海星高校の酒井投手のことはいまだに忘れられない思い出である。最近は清峰高校などの活躍で、長崎県勢も上位にいける感覚は掴んでいるが、以前は二回戦に勝つなんてこともほとんど考えられなかったような気がする。新潟県勢が今後も変わらず勝ち進むようになるかは未知数にしろ、野球地図の勢力が塗り替わるような戦いが続くことは大歓迎である。あちこちの新聞の行き過ぎた報道も、楽しくなることだろう。
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