カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

愛は馬鹿げて純粋だ   フィリップ、きみを愛してる

2013-09-30 | 映画

フィリップ、きみを愛してる/ジョン・レクア、グレン・フィカラ監督

 何度か書いているが、実話をもとにした映画というのは、たいてい信用ならない。特に実話の人物が現在も生きているのであれば尚更だ。作品に向かって個人的真実を知っているのは、実話の張本人であるはずだ。既に客観視された作品を作ることは不可能ではないのか。
 ところがこの映画は多少事情が違いそうだ。当事者の内一人は映画の場面にも出演しているそうだし、何よりもう一方の主人公の方は、塀の中でお勤めをしているらしい。
 それじゃあ犯罪映画か? ということだが、答えはイエスではあっても、それだけでは片手落ちだ。実は基本的には恋愛映画なのである。それも極めて純愛。ピュア過ぎてちょっとどうにも信じられないくらい。だから実話であるという前提が大変に重要なのだ。犯罪者で無ければこの純粋さを描けない。そうしてさらにいうと、ゲイで無ければこの純愛の価値が描きづらいのである。
 男女の愛は過去から繰り返し描かれ過ぎている。妨害される要素も実にさまざまだ。しかし男女というのは社会的に住み分け可能な性ということも出来る。対象性に既に純粋さが欠けている。家の事情があったり、資産の事があったり、さらに身分のこともあるだろう。また、子供という要素だって当然絡んでくる。口ではなんとでも言えるが、傍から見ての純粋さは、限り無く疑わしい。本人たち、当事者たちだって、裏にどんな思惑を持っているのか分かったものではない。本当に純愛を貫いていくには、現代社会はあまりにも複雑怪奇になり過ぎているのである。
 それでも掛け値なしに自分の人生をかけて人を愛することを表現するとしたら、そうして犯罪行為こそその証明になりうるということは実に意外である。それはお互い塀の中で知り合ったということもあるし、刑期の問題もあるから、片方が先に出てしまうと、無理に外に出なければならないではないか。そこのあたりはもう少し辛抱が必要ではないかという疑いがあるのだが、なんと自分の職業が詐欺師なのだから、そう簡単に信じてもらえるわけが無い。だからこそ犯罪を重ねてその障害を取り除いてもらうより無いのである。
 なんとも馬鹿げた話で、こんなことを漫画に描いても、馬鹿らしいと退けられてしまうだろう。ところがそれほど馬鹿な事を実際にやってしまった人がいて、そうしてその方法が実に天才的なのである。純粋な恋愛過ぎて行き過ぎたコメディになる。そうして、これが紛うことなく傑作なのだ。さらに僕はその純粋性に呆れはて、感動したのである。愛というのはなんと馬鹿げたことなのだろう。そうしてなんと美しいのだろう。
 そうしてやはり、これくらいの気持ちが無いとダイエットも出来ないと悟ったのであった。答えは映画を観るべき、と言っておこう。
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運動会を海外へ

2013-09-29 | culture

 今日は小学校の運動会が多かったようですね。あいにくパラパラはあったけど、何とかはなったんじゃなかろうか。良かったです。
 ところで学校の運動会というと、諸外国の人たちがこれを大変に喜んで見るらしい。つまりこんな感じの運動会というのが、特に欧米文化圏には無いのだそうだ。走るだけでなく玉入れとかなんか転がしたり借り物競争したりするのが、バラエティ番組みたいで楽しいという。こういうのが自分の子供のころにあったら、人生が変わったんではないかというような感慨を持つという。
 最近は外国にも日本人学校のようなものが増えていて、それでやはり運動会をやる。その影響で運動会をやろうじゃないか、というような声も出ているとかいないとか。
 日本はすっかり内需型の国になって、諸外国に輸出をするのは工業素材のような目にふれないものが多いという。文化的なものはなかなか輸出できないものなのだが、運動会というのは案外いけるのではなかろうか。
 でもまあある程度の秩序があるから成立している行事なんで、やっぱり無理かもしれないですね。日本の観光に勧めてみる程度がやっとかもしれないです。
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絵を描いて、考えること    ぐるりのこと。

2013-09-29 | 映画

ぐるりのこと。/橋口亮輔監督

 最初はリリー・フランキー演じる夫の浮気に苦しみ、子供が出来ても不安が消えずに苦しんで精神に異常をきたすという展開なのかと思っていたのだが、結果的に流産して、しかしその苦しみの共有が上手く行って無いという思い込みのような話になっていくのだった。でもまあ、夫は優しい人で、むしろ愛は確かめられていく、ということなんだろうか。単純に良かったね、ということではないが、病気と闘うことで夫婦のきずなは深まっていくということは理解できた。そういうことは、壊れていくだけよりずっといい。
 裁判の傍聴で似顔絵を描く事もそのスジの中で坦々と描かれるのだが、それは仕事なので、だからどうだという気分にはならない。むしろもう少しちゃんとやってもいいんじゃなかろうかという疑問もわくし、裁判所の傲慢で得られる特殊な環境での仕事であることを思うと、法曹界というのはやっぱりダメだな、という映画なのかもしれない。いや、そういうことじゃないんだけど、本当にあった事件と絡めて、裁判所ではこういうこともあったんだよ、というお話なのかもしれない。垣間見る人間ドラマの中で、その特殊な犯人達の憎悪の形の形成のされ方を考えるということにもなるかもしれない。外の世界で大きな事件を起こしてしまう人たちだって、結局家庭に問題ありそうだし…、ということは言えるのだろう。
 個人の中の内と外の感情のバランスが崩れることは、確かに危ない事のようにも思える。大きな事件が起こると、なんという信じられないことなんだろう、という感情は普通にわく事だと思うが、しかし、実際にはそのような感情というのは、ありふれた喜怒哀楽を基本にして、増長されたり歪曲されたりしたものなのではなかろうか。だからと言って、多くの人は、犯罪を犯すまでのことはしない。しないながらも、そのバランスを保つために、小さな事件を起こしてしまうこともあるのではなかろうか。少なくとも僕自身を思う時、よくもまあ、今まで世間様を騒がせずに済んだものだと冷や汗ものなのだが、将来もあるので、発言は控えておこう。
 特に結論めいたものは無いが、絵を描く事で、内面の感情が落ち着くことはあるのだろうことは理解できるのだった。絵を描くのは誰にもできるし、あんがい難しいし、そうして楽しい作業でもありそうだ。もちろん必ずしも絵である必要は無くて、このような文章でもいいのかもしれない。そういうことをしようと思うその動機を活かせるかどうか。結局はそういうことなんじゃないだろうか。
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複雑な喜びの心情のわけ

2013-09-28 | 雑記

 楽天の優勝はいいとして、星野監督がどうだとFBでケチをつけたら、共感反感、多少の反響があった。野球の話はめんどくさいのであまり話題に上げないようにしているが、リアルの人たちの話でも、やはりいろんな感慨のあることも聞くことが出来た。東北の話題に絡める分野はとりあえず置いておくと、この優勝に関する考え方には、単純なことではないということはなんとなくわかった。
 僕は以前は星野選手は好きだったのである。燃える男という形容の似合う人だったとも思う。巨人戦になると特に意地になっている感じがあって、子供心にもいいあんちゃんだと思っていた。
 監督になってみるとその横着ブリがさらにやんちゃ度を上げて怖かった。選手たちはかわいそうだった。審判もかわいそうだった。でもまあ、それは中日まではよかった。
 本人もそれはかなり悩んだのだとは思う。確か当時はそんなことも口にしていたような記憶がある。でも仕事だから仕方ないのかもしれないし、乞う人もいるんだから本当は人の好さの表れかもしれない。でもやはり阪神に行ってからは心が離れた。そういえば野村の後だったよな、と今は思うが、そういう感じの球界自体からも心が離れるような感じだったかもしれない。村上春樹だって名古屋を舞台にすると星野という登場人物を立てる。そういうもの、という前提ががらがらと崩れてしまったのだった。
 しかし今思うと補強も大胆だったし、投手出身の自己中的な熱血ぶりは、選手を駆り立てるにはふさわしい人なのかもしれない。恐ろしさで統治するようなことはあっても、日本の野球のような社会では、あんがい受け入れられる素地があるのかもしれない。
 僕が星野監督がいかんな、と思うのは、そういう主観性の高さのようなものかもしれない。さらに五輪監督の時には、田淵コーチとともに、血液型で選手の適性を決めている、というような報道もあった。そういうものを根拠にしてしまう悲しい頭の悪さというのも感じられて、はっきりと嫌いだという感情が定着したようなのだ。ご家族がおられる人に申し訳なく思うが、自分の感情に嘘はつけない。
 以上が主な僕の感情の背景、ということだ。楽天は応援していたが、そういうわけで心中本当に複雑なものがあったということなのである。さらに楽天でうっかり買い物をすると、迷惑メールがたくさん来るのがうざい。オーナーの英語信奉も見苦しい。社員がかわいそうじゃないか。そして、もうちょっと選手の年俸を上げてやってくれ。というのがさらにある苦悩の背景ということになるかもしれない。おめでとうございました。
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暴力の娯楽作・続編   アウトレイジ・ビヨンド

2013-09-28 | 映画

アウトレイジ・ビヨンド/北野武監督

 死んだと思っていた人が死んでなかったというのは続編にありがちな話だが、そこに目をつぶれば(それで物語の味わいにもなってたわけだし)、やはり復讐劇として燃える作品かもしれない。任侠にも正義があるなら(むしろその為に生きているという建前があるからね)、このようなことにならなければならない。
 とはいえ、北野作品だから、実はそんな単純な話なのでも無い。行き場の無い人間の残酷さもあるし、嫌な気分になるいじめもある。ある意味ヤクザが死ぬのは仕方が無いが、民間もいじめられるのは後味が悪すぎる。そういう動物をいたぶってあそんでいるような無邪気な悪というのが、北野監督の悪いところかもしれない。
 しかしまあヤクザの世界の政治的な世界というのは、腕力の強さということではない。結局は表にまで手が伸びて、出る杭が打たれる、という話であるのと、やはり事の真相がばれてしまうと支持を失うという話でもある。誰が悪いのかというのは最後まであって、いちばん悪いのはどうなるべきかという一定の回答もみられる。このような回答で良いと考えているのを問題にしなければという前提はあるが、こういう感じにすることでお話は締まるとは思う訳だが。
 恐怖で人を使う人には、自分にも恐怖が付きまとっている事も示唆的である。そうでない人間がヤクザになるのかというのは、必ずしもそうではないのだろう。組織論というと聞こえはいいが、組織ありきの社会こそヤクザそのものなのかもしれない。一人では生きにくいから、どこかとつながらなければならない。そういう駆け引きも、読み間違うと大きく道が分かれてしまう。自分の信じた道を行くようでいて、あくまで相対的な関係性が重要なのである。極めて日本のムラ的な社会だけれど、法の外に居るというのは、そういうことになるのであろう。
 前作が良かったから続きもいいか。それともそもそも前作を越えているのか。僕の答えはいずれでも無いが、しかし暴力の娯楽作としては楽しめる作品なのではなかろうか。
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本当に神隠しだったなら

2013-09-27 | 時事

 最近のニュースで何より驚いたのは、二ヶ月以上行方の分からなかった女子高生の発見だろう。神社で見つかったということから現代の神隠しのように感じる人も多かったのではないか。大規模な捜索でも見つからなかったことから、何らかの事件に巻き込まれたのかもと心配されていたが、今のところその可能性は低いと言われている。居なくなった時と同じ制服であることと、カバンなどの持ち物の汚れも激しいと言われている。それにしてもこれだけの長期のことであるから、誰か協力者がいたのではという憶測が出るのも当然のことだろうし、単独だったとしたら、いったいどのようなサバイバルをしてきたというのだろうか。かなり痩せ細っているということも言われているし、単に生命力が強いということであったとすると、これは人間の神秘ということにも発展しそうだ。真相はいずれ明らかにされるだろうけれど(僕の情報は遅いので、既に明らかかもしれないが)、彼女がどこまで話してくれるのかということも含め、非常に興味深いことではなかろうか。もっとも、よっぽど家に帰りたくない思いからそうなっている可能性もあるし、本当に話したくないと思っているだろうことも考えられる。そっとしておいた方がいいのではないかという心情も理解できるし、まわりの人間が、何か広報向きの物語を紡ぎ出す可能性もあるかもしれない。事件性が薄れていくにしたがって、真相が埋もれていくことがあるかもしれない。僕自身は単に興味本位に過ぎないが、そうなるとさらに惜しい話という気もする。県立高の3年生ということも鑑みると、社会復帰問題もあるだろう。それにしてもこの2カ月という時間を納得のいくように埋めることができるものかどうか、こればっかりは報道に期待するより無いのである。
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悲劇とは時代の所為か個人の所為か   飢餓海峡

2013-09-27 | 映画

飢餓海峡/内田吐夢監督

 原作は水上勉で、作品そのものが名作として名高い。多少長いが、しかしこれでもかなりのダイジェストだとは聞く。印象としては、構成よくまとまっていると思う。サスペンスもどんでん返しも哀愁も、そしてラストの余韻も素晴らしい。時代背景と登場人物の隠された苦悩という点でも、なかなかのものであるばかりか、それぞれの俳優の演技も素晴らしい。特に喜劇役者の伴淳三郎のカッコ良さも光る。
 殺人を犯してしまった人間を指して言うのもなんだが、基本的に主人公は善人なのだと思う。そういう善人だからこそこのような事件に発展してしまったということが、何よりこの作品の素晴らしさと恐ろしさなのだ。そうしてその善人にさらに殺人を重ねさせてしまうのも、ほのかな好意であったり感謝の念であったりするのだ。行き違ってしまっているのだが、しかしそのことが元で、過去の殺人まで明るみに出てしまうことになる。悲劇とサスペンスと謎解きが見事にからんで、名作となる訳である。
 さらに刑事の執念的な正義感ということもある。刑事は必ずしも同情的に犯行を解いている訳ではない。プロとして非情になって謎を解いていこうとしているにすぎない。しかし事実が明るみに出ていく事によって、ある意味、犯人の苦悩が乗り移っていくようなものがあるのかもしれない。
 そのように考えると、ラストの印象はかなり変わるのではあるまいか。あっと驚くが、しかしこれでよかったとしか言いようが無いではないか。少なくとも僕にはそのように思われた。戦後の貧困のことはよく知らない。しかし、このような社会にあって生まれた悲劇を、本当に生身の人間が裁く事が出来るのだろうか。そういう虚無感も含めて、ただ、物語が問いかけてくる。ミステリー作品がこのような社会派の訴えを持つのは、そのような描き方の問題なのだろう。面白い作品だが、だからつらい作品なのだ。
 さらに下って戦後でもいい加減無くなってしまった今の時代に通じるか。そのことを考えるにも良い機会かもしれないのであった。
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やっと出どころが分かった件(一般には関係なし)

2013-09-26 | ことば

 「10倍返しだ!」みたいなモノ言いが増えているのは感じていた。ところでこれが半沢直樹だというのは、やっと先日知ることになった。で、放送は終わったのか…。子供が観ているのを一度チラ見したことはあるが、銀行の、それもバブルの頃の話なんだってね。凄い視聴率だったんだってね(関東で)。ということもここ数日チラチラ目に入る。で、何倍か返すのは逆襲するという意味なんだろうね。少し前に「リベンジ」とか流行ってたし、そういう名誉挽回汚名返上の様な言葉って、生活の中で響きやすいものなのかもしれない。僕みたいな見てない人間にも、受け入れやすい感じも少しする。堺雅人がすっかり国民的な俳優さんとして定着したということは理解できるし、こういう感じが増えると、科白回しの強弱が激しくなりそうな(既にそうかもしれん)感じもする。静かな生活を守りたいというのはあるが、やはり「じぇじぇじぇ」より強いのかな、とは思ったりする。今週で終わるというだけで、つれあいはなんだかもうブルーになっているし。
 普通に考えるとやられたらやり返すというのはどこで終わりかな、というのが気になるタイプだ。ずっと行ったり来たりするのは嫌だな、と思う訳です。でもまあぶたれたら反対側の頬を突き出すような人間でも無い訳で、やり返されないように気をつけたいと思います。
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暗く悲しいが快楽の読書   戻り川心中

2013-09-26 | 読書

戻り川心中/連城三紀彦著(光文社文庫)

 名作として名高い作品。まったく異論なし。ミステリとして素晴らしいだけでなく、情緒ある小説として素晴らしいという感じ。昔の悲恋ということもあって、ちょっと演歌的な所も無いではないが、しかし粘着質な感じがする訳でも無い。人間の情念というものはこのような狂気や不可解さを持っているもので、その抗いがたい感情に命までかけるものなのかもしれない。小説としての話なのだが、どこか過去に現実に起こった事件であるかのような錯覚を起こす。特に表題作などは、過去の有名な作家の実話なのではないかという構成の見事さが光っている。事実よりも事実らしい奇抜さ。いや、事実というのはもっと不思議な事が起こったりするものだが、小説だから素晴らしい構成を持ったお話しに収斂していくのかもしれない。ただ身を任せて読むだけでこれだけの感銘を味わえるのだから、本当に素晴らしい体験だと言えるだろう。
 それにしてもこのような短編集ということになると、ものによっては多少作品としての出来が劣るものが混じってしまっても仕方のないような気がする。ところがこの本はまったく別のお話であるにもかかわらず、一定のトーンというものが揃っているだけでなく、作品としての水準や、トリックの驚きの質の高さも非常に高水準なのである。作者の文章の上手さもあるのだろうが、その構成の見事さが何より光るということを思う。一度ひっくり返ったトリックが、再度ひっくり返る場合もあって、それは多くの推理小説が名探偵の比類なき才能によって解決にいたるようになされるものでは無く、あるきっかけや引っかかりなどからふいにひも解かれるように、一転して視界が開けていくような感覚なのである。ああ、確かにそういうことなのか!という驚きを、作中の人物と共に読者も味わうことになる。それがある種の快感で無くてなんであろう。ただしかし、事実を知った快感も、人間の悲しさを知るという意味として受け入れなくてはならない訳だが…。
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要は信頼の問題だろうけど

2013-09-25 | net & 社会

 ちょっと前のニュースに、躾によって年収に差が出るという調査結果というのがあった。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130920-OYT1T00603.htm
 特に重要なのが「嘘をつかない」「他人に親切にする」「ルールを守る」「勉強をする」の4つであるらしい。
 ちょっと面白いからニュースになるのだし、ネタとしても格好のものという気がする。
 ところがこれのネット上の反応は、どういう訳かネガティブなものが多いように感じられたのだ。このように躾を年収と結び付けるということ自体を問題視し、嫌悪をあらわにする、というのが一般的なようだった。僕はそれを見て、なんだか驚くとともに、妙な潔癖感の様なものを覚えたのだった。
 ちなみにこの研究を発表したグループは、特に学術的に異端という訳ではなさそうだ。十分背景にも配慮して、関連にいかがわしさは感じられない。相関関係は明らかに出たとみて問題無いだろう。考察すべきは、どのような因果関係があるのかということになるだろう。もっとも年収の高い業種や立場というのがあるから、躾そのものが絶対的な因果関係と考えることはできないだろうけれど。
 もう大人になった僕らにとって関係なさそうに見えないことも無いが、そのような躾によって身につくものは、何も子供の頃からの一貫性が必要とばかりは言えない気もする。お金を得たいからという動機であっても、このような要素を身につけることが、個人にもまわりにも好影響を与えそうなことは、大変に望ましいことではないか。
 また、逆を考えると、このような人間的な「人の良さ」の様なものが無い人が、年収が高いという結果が出てしまったらどうだっただろう。やっぱりそうかと膝を打ち、納得する人が多いというのだろうか。僕なんかは、そうでない当たり前そうな結果が出て、本当に良かったなあ、という感想を持つのだが。
 また年収が低くて苦しんでいる人にとっても、何らかの朗報ということも考えられる。実際に身につけるのは超簡単、という訳ではないのだろうけれど、そういう生真面目な社会というのは、実に望ましいものだ。そういうことを理解したうえで、他人に親切に出来るような高い人間性を持つ人々が増えて、金銭的にも豊かになる希望が芽生えるというのも、実に希望の高いもののように感じられる。来るべき明るい未来だ。
 
 面白いのは「あいさつをする」「ありがとうと言う」は年収とはほとんど関係が無いとのことである。
 実は僕はこのような事を大切だと声高に叫ぶ極端なポジティブな人たちには、一種のいかがわしさを覚えることがあって、もう少しシャイな人でも良いんじゃないかと常々思っていたのである。関係無くて本当に良かった。もちろん普通に挨拶は大切だと思うが、これこそ無償の尊さということが言えて、清々しいじゃないでしょうか。
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若くも無くそして…

2013-09-24 | HORROR

 雑誌をぱらぱら読んでいたら阿川佐和子(阿川弘之の娘さんですね。といっても還暦らしい)さんが「「齢をとるのはすばらしいことなのよ」という意見には私も同意しませんけど、若い時代に戻りたい気はないの。あの頃は結構暗黒の日々だったので(笑)」と対談で語っていた。
 実にまったく同意。若さをうらやむ気分は分からないではないのだけれど、自分が若くなるのとは別問題だ。
 僕はいま46歳で、昔の僕ならずいぶん年寄りになったものだと思う年齢になった。仮に15年ひいて31歳の頃のことを思うと、本当に子供だったな、という気分はする。
で、仮に15たしてみると驚く事に61歳で還暦を越える訳だ。ものすごく先のことだと思ってたけど、なんだかだいぶ近づいてるものである。
 ああ、なんだか人間の一生なんて、本当に儚いものなのですね。
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不思議の国の麺物語   ラーメン・ガール

2013-09-24 | 映画

ラーメン・ガール/ロバート・アラン・アッカーマン監督

 確かにいつも変な映画ばっかり見ていることは認める。認めるが、やはりそれでもどうしてこうなっちゃうんだろう、という変な映画は後を絶たない。つまりそういう映画。
 アメリカでは伊丹十三の「タンポポ」というのはわりに有名な映画だという話は聞いたことがある。日本だとなんだろうな、「風と共に去りぬ」なんかは水野晴郎のせいだろうけど、まあ、要するにアメリカ人はしらんだろうけど日本人のほとんどはこの映画を繰り返しテレビで見て知っているように、「タンポポ」はアメリカでは繰り返しテレビで放映されて、あんがいあちらの人が普通に知っている映画ということなのである。
 そこで日本のラーメンというのはものすごく旨いらしいという先入観が、先ず彼らにはあるようだ。まあ、しかし当然ながら日本のラーメンは現地ではそんなにメジャーでは無いし、近頃は都市部に出店するところもあるとは聞くが、やはりこの映画ほどには有名なのではあるまい。日本に旅行で来るとか、ビジネスマンなんかだと、日本でラーメン屋に入ると、ああ、このようなことか、などと感慨が深いのだろうと思われる。
 そういうアウトラインを踏まえてなお未知の部分がたくさんあって、ラーメンの道を歩もうとする人間が居たとすると、このような話になる、ということなのだろう。いろいろと酷いところだらけなのだが、それがまた味があって面白くなっている。もちろんこれを面白がるだろうアメリカ的なウケでは無くて、呆れて残念でかゆい所に手が届かないいらつきを覚えながらなお、そんなもんなんだ~!っという楽しさを味わう訳だ。僕なんかは一緒に見ていた息子と二人で、「おいおい!」などと突っ込みを入れながら、けっこう楽しく観ることができた。変な映画はこうでなくちゃ。
 しかしながらいろいろ無理がある中で、これほどまでに言葉のコミュニケーションを無視して上手く行くと健気(でもないが)に勘違いを続ける関係というのは、やはりありえないだろう。最終的には言葉を越えた理解が必要なのだが、その前にはやはりもう少し言葉としての意味を吟味する必要があるだろう。それも含めての物語なのは分からないではないが、西田で無くとも怒りでどうにもならなくなるのは目に見えている。ほとんどの日本人はしかし、泣き寝入りして被害を内に閉じ込めたまま罵倒されて終わりだろう。連綿と続いている日米摩擦と同じように…。
 そういう訳で日米関係の一部が面白く理解できるという意味で、それなりに貴重な映画なのではあるまいか。というか、日本ってホントに面白い国なんだね。
 しかしながらこの主演の女優であるブリタニー・マーフィさんは、この映画を撮った翌年に人気絶頂の中亡くなっているらしい。とぼけた可愛らしさが良い味を出している訳だが、誠に残念なことであった。合掌。
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金毘羅さんにも行って来た

2013-09-23 | 散歩
 まだまだ続きます。

 朝目覚めたらまた散歩。
 実際は県庁前のうどん屋で朝飯を食いに行ったのだが、携帯で写真撮って、デジカメでは取り忘れていた。もちろんうどんは最高に旨かった。

 よく分からん偉そうな人。


 この人は名前は知ってる。香川の人だったのね。



 そういえば「ひろしとは、誰のことかと、菊池寛」という川柳がありました。名前を音読みすると、何となく権威があるというか、恐れ多くなるというか、そういうことですね。だから昔は岸伸介は「シンスケ」と言っていたし、徳川慶喜は「ケイキ」と発音するのが普通だった。いつの間にか権威は薄れ、ふつうに本当の名前を皆が口にするようになった。まあ、なんのことだか分からない人が多のでしょうけど。

 こちらの銀行は桁が多いですね。



狸も立派です。


訳は分からんけどこういうのもあった。


ビルの谷間に神社もあった。



 で、本当は、また大会会場に行って最終日をまっとうするはずだったんですが、僕は気分が悪くなって別の場所に行きたくなって、駅に行って切符を買ってしまったという訳です。
 
 車窓から見えた丸亀城。


 駅から降りて参道をみる。


 最寄りの駅はこんな感じ。






歩いてゆこう、ってやつです。


レトロな商店街。気分いいです。


橋を渡って、


さらに行きます。


お店から声がかかるも先ずは前へ。


もうとにかく階段。






籠もあります。5000円とか6000円とかだったようで、最初は高いな、と思ってたけど、後でそりゃそうでしょうと思うようになる。



平坦な所で一息。


象もいる。


馬もいる。


巨大なスクリューもあった。


書院というのがあった。




まだ登る。














やっと着いたー。






讃岐富士とか言ってたような。


暑いです。












馬が多いのは、たぶん意味があるんでしょうね。



で、下ることになった。


つれの人が杖を借りていたうどん屋に義理を果たしに食いに行く。


店のばあさんは、超有名な店だと言っていた。


近くに造り酒屋さん。そういえば前の晩に飲んだよな。


また、橋を渡って。


商店街を通る。




売れてるようには見えないが、凄いということは伝わります。


で、駅。帰りの差額とか特急券を買い増して、あとは帰路である。




車窓から




岡山からも連絡よくて、新幹線。


さようなら~。

疲れてウトウトしながら読書をして、帰ったのでありました。













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調子に乗る不幸 ファクトリー・ガール

2013-09-23 | 映画

ファクトリー・ガール/ジョージ・ヒッケンルーパー監督

 題名からして工場の話かと勘違いしそうだが、芸術家の話だった。アンディ・ウォーホルやボブ・ディラン(役名はそうじゃないが、そうにきまってる)とも付き合いのあった金持ちのお嬢さんの短い生涯の伝記である。
 美しく魅力的だから芸術家に好かれ、一緒に居て楽しいのだけど浪費して、金持ちなのに家族からの仕送りが途絶えると生活が破綻してドラッグにおぼれるということになって、つまるところ破滅して、麻薬の事故で亡くなったというあらすじ。そういうことだけれど、かわいそうというより、芸術家連中はあんがい冷たいもんだ、ということかもしれない。そういう中でボブ・ディランはそんなに悪くない気はするんだけど、横取りしたから悪いということなのかもしれない。奔放でもあったし、でもウォーホルがやはりどこか悪そうという印象を持った。
 役者さん達の演技は、まさにものまね天国の様相である。もしくは本当にそれらしい。こういう世界が華やかだということは簡単だが、やはり調子には乗っているだけのことで、僕にはちっとも楽しそうに感じないということはあるかもしれない。面倒なことばかりやっているし、そうしてカッコつけて実は本当に自分がコントロールできていない。いや、堅気だってそういうところはあるんだけれど、子供がお金と名声を手にして、さらにそれを利用して渡り歩こうということばかり考えて暮らしている。そういう危うさが面白いということも言えるのかもしれないが、そういう時代を生きた人がしあわせなのかは大いに疑問だ。そういう象徴としての主人公の生涯だといえて、いわば選ばれた自業自得の人生なのである。
 しかしまあ、変な人たちばかりが集まって変なものを一所懸命考えて、そうしてそれをやはり面白がって商売にするような金持ちが道楽をするというのは、狂気だけれど、実にそれらしいとは言えるかもしれない。人生は退屈で、気を紛らわすものに金を使って何が悪い、ということかもしれない。
 生活苦でそのような娯楽と無縁な人生もあるだろう。今まではそういうことが不幸の象徴だった訳だが、恵まれ過ぎて楽しくない事が起こるなんて、実に皮肉なことではないか。そうしてちっとも平安な満足が得られる訳ではないらしい。貧乏賛歌の映画ではないが、結果的にそういう希望を抱く事が出来るという面白さはあるのではなかろうか。
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何故缶詰なのに歩数が伸びたのか(理由編)

2013-09-22 | 散歩
 まあなんというか、飲みに行く編です。

 ホテルの目の前の飲み屋街の入り口。以前はそっちに行ったような記憶があって、反対側に行くことになりました。





 でも入ったのは、以前も行ったことがあるお店。あんがい律義なんだよね。



で、乾杯して。









これも思い出したけど、鶏が有名らしい。それも若鳥と親鳥とを食うのがいいと店員さんは言った。
単に二皿出したかっただけかもしらんが、食べ比べは出来る。当たり前だが、若鳥の身は柔らかく食べやすい。でも味のあるのは親鳥。堅いけど。
 後で知ったが、店によっては若鳥が高い店と親鳥が高い店とあるようだ。好みの問題だけど、どっちが高級かは店によって考え方が違うらしい。

 で、二次会も料理屋。

写真は撮り忘れた。

 ぼつぼつ歩いて帰る。








で、草間彌生を見つける。なんだか、うれしい。



ここで曲がって、





あ、船頭さんが店に入った。



メニューにも、草間彌生。



よくみると、アートな感じのうどん屋さんでした。現物は撮り忘れた。ごめん。



コンビニなんかにも寄ったけど、すぐ撃沈したような気がする。部屋はせまくて古いけれど、特に関係ないです。



翌朝も散歩。











駅まで来ると、有名な連絡船うどん。

橋ができる前はこれを食べて島に帰って来たと実感したらしいが、橋が出来て連絡船は運航をやめ、店も閉じた。さびしいという声を受けて、駅に復活したものらしい。

シンボルタワーを見上げる。


駅前にも朝から空いているうどん屋が数件あるらしい。けっこう客は入っている様子ではあった。



ビルの足場がオブジェっぽかったので。




で、またぶらぶら。








お勉強の方は開会式となんだかんだ。最初の頃は割合真面目に聞いてたんだよね、ホントに。



でも休み時間は散歩に出ます。























分科会の天井が未知との遭遇だった。



やっと終わってへとへとになって、ホテルに帰って飲みに行った。記憶と写真は何故か無いようでした。



たぶん、続く。










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